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5.告知 (7’)背徳者

【R18】注意  

 美葉が目を覚ますと、バスローブに着替え、紫煙をくゆらせながらテレビを見てくつろぐ結城の姿があった。美葉は横になったまま、室内を見回した。過度な装飾、そして天井に映った自分の姿・・・、レザーのタンクトップとアンダーパンツだけの姿で、毛布も掛けられずにベッドに寝かされている・・・。美葉はため息をついた。
「目が覚めたかい、美葉」
結城は美葉が目を覚ましたことに気がついて、ソファから立ち上がって彼女の方に近づいてきた。
「なかなか目を覚まさないんで、先に風呂に入らせてもらったよ」
「また、こんなところなのね」
「仕方ないだろう、『僕たち』はお尋ね者なんだからね。普通のホテルだったら怪しまれるどころか通報されてしまうだろ? しかも、おまえは眠ったままだったし。ここはガレージから直接部屋に入れるようになってたから、その点も都合が良かったしね」
そう言いながら、彼は美葉に近づいてきた。
「ま、もう少ししたら、仲間が僕たちの住む場所を提供してくれる手はずになっているから、それまでの辛抱だよ」
そう言いながら、結城はベッドサイドに腰掛けて、美葉の方に手を伸ばした。美葉は静かに、しかし鋭く言った。
「触らないで」
「おや、また今夜は特にご機嫌斜めで」
「あたりまえだわ。あんた、さっき私に何をした?」
「おまえが僕を馬鹿にして、笑い続けるからいけないんだ」
「そんなことで・・・」
「僕を馬鹿にする者は許さない」
「あんた・・・」
美葉は結城の言葉の中に狂気を感じて一瞬言葉を失った。
「僕は無敵なんだ。全人類を滅ぼすことだって出来るんだぜ」
「そんなことはさせないわ。さっきの警官たちは見抜けなかったけど、由利ちゃんなら、あんたがどんなに面変わりをしても、絶対に見つけ出すから。警察側に由利ちゃんがついている限り、あんたが逃げ切れることはないんだからね」
「篠原由利子、あの女がか?」
「そうよ。由利ちゃんはね、人の顔を覚えるのが得意なの。そうそう、いい事を教えてあげる。私ね、子どもの頃にも誘拐されたの。公には未遂ってことになってるけどね。まあ、ほかの子たちと違って早めに逃げ出せたけど、それでもけっこうひどい目にあったわ。今ほどじゃないけど」
美葉の告白に結城は少なからず驚いたようだが、彼女が忘れずに皮肉を交えた事に気がついてだまっていた。美葉はかすかに笑って続けた。
「だから私、ホントは男の人がすごく苦手だったの。何度か付き合ったことはあるけど、全部長続きしなかったわ」
「そうか、それで・・・」
結城は何か言いかかったが、美葉が眉を寄せたのを見て口をつぐんだ。
「・・・でも、あなたが現れて・・・。最初は由利ちゃんがやきもきするのが面白くて付き合ってみたの。でも、あなたは優しくて、一緒にいて安心出来たの。だからあなたなら大丈夫だって思えるようになったわ。でもその頃、私のおいたが過ぎて、由利ちゃんに絶交されちゃった・・・。だけど、あなたがいるから大丈夫だって思った。だから、あなたに奥さんがいたって知った時、ショックだった。奈落に落ちた感じだった。その上、あなたはしばらく会えないっていい出すし。私、途方に暮れたわ。そしたら、由利ちゃんがまた手を差し伸べてくれたの。すごく親身になってくれた。嬉しかったわ」
美葉はここで一息ついた。
「そうそう、肝心な誘拐犯の事を言わないとね。由利ちゃんはね、2年間私の周囲を警戒してくれたの。犯人はきっと様子を見に戻って来るって。そして、とうとう犯人を見つけてくれたわ。痩せた上に変装してたけど、由利ちゃんの目は誤魔化せなかったの。由利ちゃんね、私が目の前で誘拐されたから、すごく悔しがってね、絶対に見つけてやるって。あいつが捕まったのは由利ちゃんのおかげ。今度も由利ちゃんはきっと見つけてくれる」 
美葉は結城から目をそらすと、遠くを見るような目で言った。それを見て結城はせせら笑うように言った。
「馬鹿なことを。細身で見た感じ宝塚の男役みたいなやつだったが、ただの中年女だ。そんなヤツにこの僕が捕まるはずがないだろう?」
「自信過剰ね。あなたはきっと捕まるわ。最悪のテロリストとしてね」
美葉は天井を向いたままそう言うと、くすっと笑った。
「美葉、まさかおまえ・・・」
結城は美葉の顔をまじまじと見て言うと、ものすごい勢いで美葉に襲い掛かった。
「だめだ、おまえは誰にも渡さない」
「やめて。どきなさい。私、少し前にあなたに殺されかかったのよ。いい加減にして」
美葉は言い放った。しかし、こういう状態になった結城は歯止めが利かない。結城は美葉の両手を掴みベッドに押し付け押さえ込んで言った。
「おまえは僕のものだ。だっておまえに女の悦びを教えてやったのは僕なんだから。ほら。こうやって・・・」 
彼はそういうと美葉の唇をむさぼり、彼女の口の中で結城の舌がのたうった。その間、結城の膝が美葉の股間を責めつけた。嫌悪感に身を震わせながら、美葉は耐えるしかなかった。キスに満足すると、結城はバスローブを脱ぎ床に投げ捨てると、美葉の下着を剥ぎ取り、タンクトップをめくりあげた。美葉の白い豊かな乳房がむき出しになり、結城はにっと笑った。そのまま右の乳房を口で含みながら、左の乳房をもてあそぶ。
「あっ・・・」
たまらず美葉が声を上げたが、その後は無言で耐え続けた。しばらくして、美葉の胸から顔を上げた結城が言った。
「美葉、そうやって耐える姿もイイって知ってた?」
美葉は、怒りと恥ずかしさで真っ赤になって顔を背けた。
「そういうところもいいんだよなあ・・・」
そう言いながら、結城は美葉の両足を持ち上げ広げた。美葉が悲鳴のような声を上げた。
「やめて!」
「でもさ、こっちは嫌がってないじゃない」
結城はにやりと笑いながら、美葉の身体を抱きすくめ、突き上げた。いきなりのことに美葉は悲鳴を上げたが、結城は頓着せずに何度も美葉の身体を突き上げた。
「いやっ、結城さ・・・、お願い、やめてぇ、やめ。。 あああっ」
美葉は懇願したが、結城はその声に興奮したのか彼女を責め続けた。
「ああっ、ああっ、苦しいよお、いやあ、由利ちゃん、由利ちゃん、助けてぇ」
「由利ちゃん、ゆっちゃん? そういうことか!!」
結城は美葉を抱いた手を離すと、彼女の頬を平手打ちして言った。
「この女!!」
結城は起き上がりながら美葉の身体を抱き上げ、目合ったまま向き合いに脚の上に座らせると、両手で彼女の顔を掴んで言った。
「やっぱりそうだったのか。とんだ倒錯者だったわけだ」
「違うわ、友情よ!」
切れた唇から流れる血を手で拭いながら、美葉が言った。
「へえ、女同士の熱~い友情ってわけか。そうだよな。あっちはノンケのようだから、そうやって誤魔化すしかないか。だが、友情だろうと愛情だろうと、おまえはあの女には渡さん」
結城はそういいながらまた、美葉を抱きすくめ口を塞いだ。その後首筋から胸まで唇を這わせると、また美葉の身体を抱き上げ、胸の上でたくれていたタンクトップを脱がせると、背を向けて座らせた。そして、左手で美葉の身体を抱きながら、胸に手を這わせ、右手で美葉の右足を持ち上げ陰部を探った。
「あ・・・、くっ・・・」
声を上げまいと耐える美葉の耳元で、結城が囁いた。
「いい考えがある。僕の仲間に・・・、おまえの由利ちゃんを攫ってこさせよう。それから・・・、おまえさんの目の前で息の根を止めてあげよう・・・・・ね。でさ・・・、篠原由利子の死体を前にしてさ、こんなことしようよ」
言葉の合間に荒い息が、美葉の耳元と首筋に何度もかかった。美葉はおぞましさに身震いしながら叫んだ。
「やめて! 由利ちゃんに何かしたら、許さない―――」
「立場をわきまえてよ。君は命令する立場にはいないんだから」
結城はくすくす笑いながら言うと、乱暴に美葉の身体を上下させた。美葉がウッと短い声を上げると、結城は喉の奥で嗤いながらまた耳元で囁いた。
「いい加減そうやって耐えるのはお止しよ・・・。愛しい由利ちゃんを守りたかったら、せいぜい僕を楽しませておくれ」
美葉は、結城の言動から恐れていたことを確信し愕然とした。
(この人は狂ってしまったんだ・・・。多分元には戻らない・・・)
「ああ・・・」
美葉は絶望し、気が遠くなるのがわかった。彼女の精神力は限界に来ていた。意識を失う直前に、どこかで聴いたことのある昔のフォークソングが頭をよぎった。

 かごの鳥でも翼があれば、飛んでゆきたい青い空・・・

結城は崩れ落ちる美葉の身体を、背後から抱きしめた。
「愛しい美葉、もう行ってしまったのかい?」
結城の腕の中で気を失った美葉は、まるで人形のように愛らしかった。結城は彼女をさらに抱きしめ頬ずりをしながら言った。
「可哀想に、おまえもあの男と同じ背徳の徒だったんだな。重罪だよ。でも、僕がおまえを浄化してあげるから奈落に落ちることは無いよ。一緒に楽園に行こうね。僕はおまえを絶対に離さない。誰にも渡さない・・・。」
結城はまたくすくすと笑った。その後、結城はまた美葉に口づけすると、彼女の身体を静かに寝かせた。
「さあ美葉、綺麗にしてあげようね」
そして彼は、美葉の身体を丁寧に舐め始めた。結城はそうやって美葉の上を何度も這い回った。その狂気に満ちた姿は、まるで悪鬼のような禍々しさを漂わせていた。
 

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5.告知 (8)妹

「兄さん、こうやって一緒に夕食って、久しぶりね」
「そうだな。今の仕事が佳境なんで、最近は特に帰りが遅いからな」
 俺はそう言うと、少しばかり肩をすくめてみせた。すると妹は、不満そうに口を尖らせながら言った。
「それどころか外泊も多いじゃない。ほんとにお仕事?」
「馬鹿言え。仕事以外の外泊だったらなんぼも気が楽だよ。今だっていつ呼び出しがかかるかと冷や冷やしてるんだぞ」
「やだ、途中で席立たないでよ。特に兄さんとの外食はホントに久々なんだから」
「そうか。それならこんなファミレスじゃなくてもっと小洒落たレストランにするべきだったかな」
「何言ってんのよ。肩が凝るようなところは苦手だって、いつも言ってるくせに」
「ははは、そうだな。ところで話ってなァ何だい?」
「あのさ、兄さんて今、カノジョ居るの?」
「なんだよ、藪から棒に。そんなもん作る暇なんかねえよ。大学ん時のはとっくに別れちまったし」
「そっか・・・。じゃあ私が先に結婚するの、申し訳ないなあ」
 いきなり妹が衝撃的なことを言い出すので、俺はたっぷり1分間ほど固まった。
「・・・結婚?」
「うん」
「するのか?」
「うんっ♪」
「・・・マジ?」
「ごめんね、兄さん。驚いた?」
「いや、謝られてもな、何がなんだか・・・。すまん、ちょっと・・・、いや、かなり驚いた。・・・しかし、なんでいきなり?」
 妹はそれを聞いて意味深に笑った。
「えへへへ・・・」
「あ~、おまえ~~~!」
「ごめんなさ~い」妹は手を合わせ、俺を上目遣いで見ながら照れ笑いを浮かべて言った。「だって、兄さんいつも帰り遅いしぃ、寂しかったんだもん」
「まあ、おまえだってもう大人なんだから、どうのこうの言うのもナンだが、まあ・・・、あー、えー、しかしだな、俺はおまえには、あー、その・・・、出来ちゃっ、いやそのなんだ、つまりその、そうじゃなくて、えー、ちゃんとした順序で・・・、兄さんはちょっと残念・・・って、一体俺は何を言ってるんだ。で、えーっとその、それで一郎君は・・・?」
「うん。すっごく喜んでくれて、それじゃすぐに結婚しなきゃって言ってくれて・・・。こんど一緒に式場を見に行くの」
「そうか・・・。じゃ、出来るだけ盛大な式を挙げろよ。費用なら兄さんがなんとかしてやれるから」
「ううん、兄さん、無理しないでよ」
「たった一人の妹なんだぞ。それくらいやらせてくれ」
 しかし、妹は首を横に振りながら言った。
「もう充分よ、兄さん。今まで本当にありがとう。10年前、事故で父さんと母さんが死んでから、ずっと親代わりをしてくれて・・・」
「何言ってるんだ、二人だけの兄妹なんだからあたりまえだろ。それに幸い父さん達が遺してくれた蓄えと保険で、なんとか食うには困らなかったからね。感謝するなら両親にしなくっちゃ」
「でも・・・」
「さっ、辛気臭い話は抜きだ。ほら、そろそろ頼んだものが来る頃だぞ」
「うん・・・」
「って、こら、泣くな。さっ、今日はお祝いだ。ワインで乾杯しようか」
「ダメよ、兄さん下戸でしょ」
「一杯くらいならなんとか大丈夫だよ、きっと」
「ダメ。また倒れちゃうわよ。それに、もし呼び出しがあったらどうするの?」
「あ、そうだった」
「バカね」
「・・・そうそう、披露宴では俺に一曲歌わせてくれよ」
「え? 何を歌ってくれるの?」
「んっと、そうだな、あ、あれだ、『妹』がいいや」
「って、あの、『かぐや姫』の?」
「そうそう。久々に弾き語りってのをやってやるよ。特に、あの『帰っておいで~、妹よ』ってところ、大声で泣きながら歌ってやるから」
「やだ、兄さんってば。それ、禁句じゃないの」
「お、笑ったな。さ、料理が来たようだ。やっと腹ごしらえが出来るぞ」

 それからおよそ1ヶ月後、運命の日が訪れた。その朝・・・。
 俺が眠い眼をこすりながら台所に行くと、既に妹がそこにいた。
「兄さん、おはよ」
「なんだ、久美子、もう起きてたのか・・・。それに、朝メシまで出来てるし」
「うん。兄さん、今日早いって言ってたから私も早起きしちゃった。一緒に朝食食べようと思ってさ」
「ありがたい。めんどくさいからシリアルで済ませようと思ってたんだ」
「そうだと思った。さっ、座ってよ。すぐごはん装うから」
 そう笑顔で言う妹を見て、俺はしみじみと思った。もう少しでこの日常は終わるんだなあと。しかし、それは違う形で実現してしまった・・・。 
「じゃあ、行って来るよ」
「今日も遅いの?」
「ああ、近いうちに大事なイベントがあるんで、その準備で大変なんだ。また何日か帰れないかも知れない」
「そっか、残念。今日は一郎も一緒にまた夕食したいなって思ってたのに」
「あ、そうか、おまえ、会社今日までだったな」
「うん。ちょうど20日で区切りがいいし」
「ちゃんとお世話になりましたって挨拶に回るんだぞ」
「やだ、兄さん、あたりまえじゃないの」
「ははは、そうだな。じゃ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
 妹の笑顔に送られて、俺は家を出た。いつもの平和な朝だった。2日後には、例の教団への強制捜査を控えていた。それで俺の仕事は一段落する予定だった。妹と過ごす余裕も出来るはずだった。しかし・・・。

 1995年3月20日午前8時 地下鉄サリンテロ発生。

 俺のいる分室にも、地下鉄での異変が伝えられる。しかし、最初の頃は情報が錯綜し、爆破だの薬品が撒かれたなどと、事実と憶測が入り乱れていた。
「渦中の路線は?」
「千代田線、それから丸の内線と日比谷線・・・他線でも同時多発しているという情報もあります」
「まさか、地下鉄テロ・・・!?」
 誰とも無くそれを口にした。それを聞いて俺は、居ても立ってもいられなくなって席を立ち言った。
「日比谷線・・・その時間は私の妹も通勤で利用しているんです。実は会社に問い合わせたら、まだ出勤していないと・・・」
 動揺する俺に、室長が言った。
「長沼間、地下鉄のダイヤ自体がずっと乱れているんだ。事件のあった路線は止まったままだし、全線が停止するかも知れん。地下鉄以外の交通にも影響が出ている。まだ事件に巻き込まれたとは限らんだろう。とにかく落ち着け! 何か情報が入ったらすぐに知らせてやる」
「は、はいっ、ありがとうございます」
 そう言ったものの、俺の心中は落ち着かず、1分が数倍に思えるような辛い時間が流れた。
「長沼間! 妹さんの所在がわかったぞ! L病院だ! 被害者の多くがそこに運び込まれているらしい」
「室長、でも、仕事がまだ・・・!」
「いいから行け! たった一人の身内だろう? こっちは仕切りなおしだ。やられたよ。二日後の強制捜査の情報が漏れてたんだ」
「じゃあ、やはりこれは奴らの・・・」
「警察の分析部門がサリンと断定した! 他にあんなモノを撒くような気のふれた集団がいるものか! 畜生! 奴ら、霞ヶ関を狙いやがったんだ!! M市の時に連中をなんとか出来ていればこんなことには・・・!! とにかく、早く行け。既に死者が出とるんだ、どういう状況になるかわからんぞ!!」
「申し訳ありません!」
 俺はそう言うや否や、脱兎の如く部屋を飛び出した。

 俺は、妹が搬送されたといわれる病院に急いだ。L病院は、キリスト教関係の病院で、大きな礼拝堂がある。病院にそぐわない大きさだが、後で、それが東京大空襲を教訓として、大規模災害時に緊急病棟に転用出来るように作られたものだと知った。それが、あのテロの時、大いに役立った。
 いつもなら静かで厳かであろう礼拝堂内が、文字通り野戦病院さながらの状態だった。俺は何とか妹のベッドを探し当てた。そこには既に婚約者が駆けつけ、横に座っていた。
「お義兄さん!」
「一郎君! 久美子の容態は?」
「今、解毒剤を混ぜた点滴を受けています。一時期に比べてだいぶ症状が治まったようです。意識はまだ戻ってませんが、とりあえず、命には別状はないそうです・・・」
「そうか・・・」
 俺はそう言うと、ほっとして床に座り込んだ。
「お義兄さん、中毒の原因物質がサリンって、本当ですか?」
「ああ、そうらしいな・・・」
「どうして、こんな・・・」
 俺には事と次第を推察できたが、職務上の秘守義務のために、わからないと首を横に振るしかなかった。

 妹は、いつものように地下鉄に乗って会社に行く途中被害にあった。途中、他のどこかの車両で何かあったらしい。妹の乗った車両でも皆がキョロキョロ始めた頃、異臭がし始め、いきなり鼻水と涙が出てきた。
(嫌だわ、急に風邪をひいたのかしら?)
 妹は最初そう思ったが、周りを見ると、みな同じような症状になっている。妹は何か異変を感じた。息苦しさが限界になろうとしたとき、ドアが開いた。妹は皆と一緒に転げるようにホームへ脱出し、無我夢中で駅の外に出た。既に目の前が暗く眼が見え難くなっていた。サリン中毒の特徴的な症状である瞳孔収縮が起こっていたのだ。妹はしばらく他の乗客と共に、地下鉄出入り口近くの道にハンカチで顔を抑えながらうずくまっていたが、途中意識が途切れ、気がついたら病院のベッドに寝かされていたということだった。
 俺はしばらく妹の様子を見るため傍にいたが、後を婚約者に任せ、仕事に戻った。こうなったらなんとしてもあの組織を一網打尽にせねばならない。

 強制捜査は予定通り2日後に開始され、その後、教団は徐々に追い込まれていった。

 妹は1週間後に退院したが、堕胎を余儀なくされ、その上ひどい後遺症に悩まされることになった。妹は家に引きこもり、婚約も一方的に破棄した。婚約者の一郎が何度か尋ねてきたが、会うことはなかった。後で知ったのだが、一郎の母親が病院に来て、妹に別れてくれと懇願したらしい。息子には健康な嫁を迎えたい、そう母親は言い切ったという。
 俺は、妹の様子を見るために1ヶ月ほど休暇を取り、出来るだけ一緒にいるようにしたが、妹はそれさえ疎ましいようだった。あんなに明るかった妹の性格が一変してしまった。俺は犯人たちを憎んだ。しかし、それ以上に、ここまでOの連中をのさばらせた官僚や上層部の連中を恨み、事件捜査に関わった己の不甲斐無さを呪った。
 もっと早く手を打てたはずだった。遅くともM市の事件以降には。

 そして妹は・・・・、俺がちょっと眼を離した隙に、自室のドアノブに紐を引っ掛けて首を括ってしまった。俺はすぐにそれに気付いて、まだ息のあるうちに妹を救出、救急車で病院に運んだが、妹はこん睡状態のまま眼を覚ますことは無かった。

 同年5月16日、M市と地下鉄の両サリン事件やその他の事件の首謀者である教祖M逮捕のための大規模な強制捜査が行われ、屋根裏に潜んでいたAことMがついに逮捕された。
 俺は、仕事に復帰していた。妹がああなってしまった以上、仕事に没頭しないとやり切れなかったからだ。その日の夕方、俺は妹に教祖逮捕を報告するために病院に向かった。しかし、報告をしても、妹は何の反応もせずに静かに眠ったままだった。俺は、痩せこけて変わり果てた妹の傍に座ったまま、声を殺して泣いた。
 その二日後の夜、病院から妹危篤の知らせを受け、俺は妹の病室に駆け込んだ。そこには既にもと婚約者の一郎も来ていた。だめ元で俺が連絡したのだが、彼は来てくれた。婚約破棄は彼にとっても理不尽なことだったとその時知った。彼はまだ妹を愛していたのだ。彼女を愛する二人の男に見守られて、妹は息を引き取った。まだ22歳だった。これから幸せになろうとしていた妹の人生を、いや、命さえもあの事件は奪ってしまった。
 一郎は妹に取りすがって号泣したが、俺は呆然としていた。突然大地が失われたような喪失感に襲われた。宇宙空間に一人投げ出されたような、妙な感覚だった。俺は泣くこともわめくことも怒ることも出来ずに、ただただ呆けたように立ち尽くしていた・・・。
 

「チッ! あいつのせいで思い出してしまった」
長沼間は、感対センターの駐車場で、車のエンジンをかけながら言った。
「紅美か・・・、嫌な偶然だぜ」
彼はそう言うと病棟を一瞥し、車を発進させた。長沼間の黒い車は門を出ると、猛スピードで闇に消えていった。

「あれから、そんなことがあったんですか。へえ、長沼間さんが紅美さんにねえ」
 由利子は、ギルフォードにインターネット掲示板のことを教えようと電話をしたのだが、その時センターでの一連の話を聞いたのだった。そんなこんなでギルフォードは、ようやく先ほど家に帰りついたのだと言った。
「それにしても、あのオッサンの妹さんがサリンテロの被害者だったなんて・・・。それじゃあ、長沼間さんのテロリストに対する憎悪が深いはずですね」
「そうですね。僕もそれを知った時びっくりしました」
「O教団の捜査に関係していたのなら、その悔しさも並大抵のことじゃなかったでしょうね。その上に、今回も相手に先手を取られっぱなしじゃあ、焦りますわな」
「仕方ないですよ。見事なまでに姿を現して来ないですからね、敵さんは。おそらく、O教団についてもかなり研究しているでしょう。だから、今のところ表立っている唯一の存在のユウキを追うしかないのに、それすらも手がかりを逸してしまったのですから」
「結城・・・」
 由利子は低い声で言うと、声のトーンを元に戻して続けた。
「美葉は無事でしょうか・・・」
「彼女は、あいつにとって唯一の心の寄りドコロのハズです。きっと無事ですよ。必ず帰って来ます」
「そう、そうですよね」
「彼女を信じて待ちましょう。いずれにしても、ユウキの線から突き崩していくしかないのです。僕は、彼女がそのきっかけを作ってくれるのではないかという希望をもっています」
「アレク、ありがとう。美葉を信じてくれて・・・」
「どうして?」
「結城は美葉の彼氏だったから・・・。それに、そうじゃなくても、昔パトリシアって人が誘拐された時みたいに・・・」
「パトリシア・ハーストのことですか? よく知ってますね。ナルホド、君が心配しているのは、人質が誘拐犯と同調してしまう、いわゆるストックホルム・シンドロームのことですね」
「ええ。そんな風に思われていたらどうしようかって・・・」
「確かに、警察の方ではそういう見方をしている人がいます。でも、僕はそうは思いません。彼女は強い人です。武道に優れているはずの彼女が、ユウキから逃げず行動を共にしているのは、やむを得ない事情があるのでしょう。おそらく、巧妙に脅されているのでしょう」
「ありがとう、アレク。なんか少しほっとしました」
「それは良かった。ユリコ、そういう時は、一人で悩まないで相談してくださいね。一人で考えていると、往々にしてマイナスの方向に思考してしまいますから」
「ええ、そうします」
「それで、ユリコは何の用件だったんですか?」
「あ、忘れてた! 実はですね」
 由利子は、先ほど見たインターネットの掲示板について話した。
「へえ、もうそんな話題になってるんですか。僕はあまりそういう場所は見たくないんですけど、しかたないですね、ちょっと見てみましょう。ジュリー、今ネット見てますか?・・・・そう、じゃ、ちょっと『nちゃんねる』を見てください」
(あ、そうか、ジュリー君が一緒なんだっけ)
由利子がそう思った時、電話の向こうでジュリアスの声がした。
「nちゃん? へー、アレックス、そんなとこ見る趣味があったんだわー。 ま、おれも時々見るけど」
「普段は見ませんよ」
「なんだ、見にゃーのか。面白くにゃあ」
「四の五の言わずにとっとと開けてください。ユリコ、どこ見たらいいのですか?」
「えっと、新型感染症って板があるんですけど・・・」
「そのまんまですねえ・・・。ジュリー、新型感染症ってイタだそうですよ・・・、って、もう開けてる?」
 それを聞いて、由利子は思った。
(こりゃあ、時々じゃなくて、ほぼ毎日見ているクチだな)
「おい、アレックス。こりゃあ、けっこうすごいことになっとるよ。いわゆる祭りってゆーあんばいだて」
 ジュリアスは、そう言いながら、関連スレッドのひとつを開いて画面をスクロールさせた。
「うわ、ユーチューブに、もう晩げの放送がアップされとって、それがしっかり貼られとるよ。それに、あのC川のトルーパーの動画もだわ」
「これは、明日からが思いやられますねえ・・・」
 ギルフォードがため息をつきながら言った。由利子も改めてスレッドを見ながら言った。
「この調子じゃあ、明日の夜あたりには森の内知事のニュース番組出演が決まりそうだなあ・・・」
「予想はしていましたけど、遥かに想定を超えているみたいです」
 と、ギルフォードも困惑した様子で言った。
「だけど、告知に関しては正しいコトだったと思います」
「もちろんですよ」由利子も同意した。「速攻で紅美さんって人が名乗り出たんだし、きっと他にも情報が出てくるでしょう」
「ええ、明日からが本番です。ユリコ、心しておいてくださいね」
「はい。覚悟しています」
 そう言いながら、由利子は気持ちが奮い立つのを感じていた。

 ギルフォードは、その後、明日のことについてしばらくの間、由利子と打ち合わせをした。由利子からの電話が終わってからジュリアスの方を見ると、彼はパソコンの前に突っ伏して眠っていた。よっぽど疲れているのだろう。そういえば、来日してから色々あって彼を休ませてやる暇もなかったな、とギルフォードは思った。
「ジュリー、起きてください。そのまま寝ちゃあダメですよ」
「もーあかん。このまんま寝かせてちょーよ」
「そうは行きませんよ」
 ギルフォードはジュリアスの襟首を掴むと、そのままバスルームへ引っ張っていった。
「た~けっ(馬鹿)、何すんだ~~~」
”風呂に入るんだよ。おまえは今日あの虫を触ったろーが。そのままじゃ一緒に寝てやらねえぞ”
”ちゃんと防護服を着てたし、その後ちゃんと葛西と一緒にシャワー浴びたし、大丈夫だったら~。眠い~。お願い、寝かせてよ~”
”ジュンと一緒にシャワー?”
”うらやましい?”
”妙なことをしてないよな?”
”あたりまえだろー?”
”よろしい。さぁて、隅々まで洗ってやるから覚悟しろよ”
”ひゃあ~”
 情けない悲鳴を上げるジュリアスをバスルームに放り込み、自分も中に入るとドアを閉めた。ザーッと言うシャワーの音。
「このクソた~けっ! 服の上からシャワーかけるヤツがおるかぁ~~~」
 ジュリアスの半ば裏返った声が、バスルームに響いた。

※教団の頭文字は正しくはAですが、日本語の発音に合わせてOと表記しています。

(「第2部 第5章 告知」 終わり)   
第二部:終わり

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1.暴露 (1)儚い夢

20XX年6月17日(月)

 知事の重大発表から一夜明けた月曜、空には今にも雨の降り出しそうな鉛色の雲が広がり、本格的な梅雨の到来を誇示していた。
 人々の間には、特に何か大きな変化があったような感じはないようだった。日ごろより若干マスクを着けた人が目立つ程度で、少なくとも人々は思ったより事態を冷静に受け止めたようだった。
 ところが、そんな人々の冷静さを揺さぶる事件が起こってしまった。 

 朝のオフィス街に自動車のクラクションとブレーキ音が響き、ついで、ドン!という音がした。
「トラックに人が轢かれたぞ!」
 通行人の一人が叫ぶ。蒼白な顔をして、トラックから運転手が降りてきて言った。
「こいつがいきなり飛び出してきたんだ! 避けられなかったんだ!!」
 幾人かの男性が、様子を見に近づいていく。
「息はあるとか?」
「大丈夫か、あんた!」
「うわ、こりゃあだめばい!」
「うへぇ、頭が・・・」
 その時、女性の制止する声が響いた。
「近寄らないで! その人は、新型の感染症です! とにかく救急車を呼んでください!!」
 声の主は、笹川歌恋だった。彼女は蒼白な顔をして、立っているのがやっとの様子だった。
「昨日知事が言ってた、エボラ並みの出血熱ってヤツか?」
 誰かがそう尋ねると、あちこちで悲鳴が上がって、事故現場を囲っていた人垣がザアッと引いた。

「また、感染者が現れたんですって?」
 感対センターに駆け込んだギルフォードは、高柳の顔を見るなり言った。
「おはよう、ギルフォード君、キング先生」
 高柳はギルフォードとその後から駆け込んできたジュリアスに、まず朝の挨拶から言うと、続けた。
「そうだ。一人は道路に飛び出した挙句走行中のトラックに巻き込まれて即死した。もう一人は、その男と関係を持っていたらしい若い女性だ」
「なんか、そんなのばっかりですねえ・・・」
 と、ギルフォードが肩をすくめながらぼやいた。
「秋山美千代経由らしいからね」
 高柳はギルフォードと肩を並べて歩きながら言った。もっともその身長差は20センチ近くあるが。その後ろを歩きながら、今度はジュリアスが尋ねた。
「ってことは、死んだ男は美千代と関係を持ったということですか?」
「いや、森田健二を轢いた本人らしい。僕もこれから件の女性に直接質問しに行くところだ。そうそう、先に葛西君が来てるそうだから」
 葛西と聞いて、ギルフォードが複雑な表情をしてジュリアスを見た。ジュリアスは、ふん!という感じでそっぽを向いた。それを見て高柳は片眉を少し上げたが、さして気にする様子もない。
 病室の前に行くと、葛西がすでに二人の刑事と共に、病室の前にスタンバッていた。彼は三人の姿を確認すると、笑顔で迎えた。
「おはようございます、みなさん。まるで昨日の告知が合図になったみたいに次々と出てきますね」
「おはようゴザイマス。え~っと?」
 ギルフォードが連れの二人を見て怪訝そうに訊いた。
「あ、彼らはC野署で森田健二の事件を担当している中山刑事と宮田刑事です。こちらはここのセンター長の高柳先生と、ウイルス学者のギルフォード教授とキング先生です」
 と、葛西は双方を紹介した。6人が挨拶をしあった後、高柳が刑事たちに言った。
「この方は発症者とかなり近い関係にあったために、感染の確率がかなり高いということで隔離されています。今は若干の発熱が確認されている程度ですが、それよりも知人の酷い死を目の前にして、かなりのショックを受けておられます。それで、事情聴取は出来るだけ、要点を押さえた短いものにしてください。いいですね」
 高柳は念を押すと、病室内に問い合わせた。
「僕だ。刑事さんたちが事情聴取に来られている。僕たちもいくつか質問があるのだが、いいかね?」
「はい、少々お待ちください」
 スピーカーから聞き覚えのない女性の声がした。高柳が言った。
「昨日の知事発表に備えて、かなり増員したんだ。今後の発生状況によっては一般外来を中止して全棟を専用の病院に使用することになるだろう」
 彼が言い終わると、病室から返答が来た。
「センター長、笹川さんがご了承されました。ただし、あまり負担にならない程度にお願いします」
そして、すぐに窓が『開いた』。
 病室には、まだ若い女性がベッドにではなく、サイドテーブルの椅子にうつむいて座っていた。その後ろに、これまた若い女性看護師が立っていた。女性の前には、やや年配らしい女性医師が座っている。もちろん二人とも防護服を着用しているので、容姿はよくわからない。医師が振り向いて言った。
「担当医の高柳敏江です。看護師は甲斐いず美。患者さんは笹川歌恋さんとおっしゃいます。質問の許可はしますが、くれぐれも患者さんのご負担にならない程度でお願いします」
「まあ、名前でわかるとは思うが、担当医師は僕の妻でしてね」
 高柳が少しだけ照れ気味に言った。しかし、敏江の方はにこりともしない。
「さて、こちらから質問していいですかね?」
 中山が言った。
「どうぞ」
 敏江はそっけなく答えた。
「ただし、昨夜のようなことになった場合、即刻窓を遮断させてもらいますよ」
「昨夜?」
 中山が不審そうに高柳/夫の方を見て尋ねた。高柳は一瞬苦笑いをするとすぐに真面目な顔をして答えた。
「昨日、公安調査官が別の患者さんに高圧な態度をとったものでね」
 高柳はその後、鼻の横を掻きながら小声で続けた。
「もう、その情報が行ったらしいな」
 その様子を見て、高柳以外の5人は同じことを思って一斉に顔を見合わせたが、すぐに中山が質問に入った。
「えっと、笹川さん、まず、森田健二が事故にあった当時のことを説明願いますか?」
「自殺・・・だと思ったんです・・・」
 蚊の鳴くような細い声だった。中山が少し困った顔をして言った。
「あのぉ、もう少しはっきり答えてくださいませんか?」
「すみません」
 歌恋は謝ると少し声量を上げて話し始めた。
「森田さんは車道をフラフラと歩いていたんです。ちょうどカーブのところだったんで、彼の姿がヘッドライトに浮かんだ時には、もう間に合わなかったんです。でも、課長が咄嗟に急ブレーキをかけたので、死ぬような衝撃ではなかったはずなんです。なのに、彼は、・・・何故か目の前で痙攣して血を吐いて死んでしまいました。服にはその前から付いていたらしい血が、既に半分乾いていました。だから、自殺で、きっと毒かなんか飲んでたんだと・・・」
「それなら、すぐに救急と警察に連絡すればよかったとやないですか? 何故遺体遺棄なんかしたとです?」
「課長も私も酒気帯びで・・・それに、一緒にいたことを知られたくなかったんです」
 それを聞いて、宮田がやや激しい口調で言った。
「轢逃げと遺体遺棄ですよ! そんなことしたら、余計に罪が重くなるなんて考えなかったんですか!?」
「・・・」
 答えに詰まる歌恋を宮田がさらに言及しようとしたので、中山が急いで止めた。
「おまえはちょお黙っときやい」
 中山は、歌恋の方に向きなおして言った。
「飲酒はともかく、轢いたことについてはその時の状況が考慮されたと思いますよ。現に司法解剖で死因は感染によるショック死とし、事故の影響はほとんどなかったとされていますし」
「わ、私がいけなかったんです。課長は救急車を呼ぶつもりだったのに、私が止めたんです・・・。社則で飲酒運転で逮捕された場合、懲戒処分になることになっているんです。しかも、それで人を死なせたとなったら・・・。だから、自殺するような馬鹿な男の為に、私はともかくとして、課長の一生をふいにしたくなかったんです!! まさか、まさかこんなことになるなんて・・・」
 そういうと、歌恋はわっと泣き出した。それを見て敏江が看護師に何か合図をしようとしたので、高柳が急いで止めた。
「敏江、ちょっと待ってくれないか? もう少し、ね、頼むから」
 その姿を見て、ジュリアスが葛西にこっそり耳打ちした。
「ありゃあ、だゃ~ぶ尻にしかれとるようだね」
「うん、意外だね」
 葛西も小声で答えた。
「ササガワさん」
 見かねてギルフォードが声をかけた。
「だけど、あなたは今日、その課長さんが事故に遭われたとき、周囲に病気のことを警告しましたね。勇気ある行動だと思います。黙っていれば、少なくともモリタさんの事故とあなた方の繋がりは闇の中に葬られ、あなたは安泰だと思ったはずです。なのに、あなたは、咄嗟に感染が広がるのを防ぐ道を選んだ。それだけに、あなたがその勇気を、モリタさんの時に出せなかったのは残念です」
 歌恋はなんとか落ち着きを取り戻して言った。
「昨日の・・・放送がなければ、多分黙っていたと思います。課長は、車道に飛び出す前に言ったんです。『赤い、なんで赤いんだ?』って。私は課長の感染を確信してゾッとしました。そして、私の感染も・・・。それで、これ以上病気を広げちゃいけないと思ったんです」
 歌恋がそう言い終えた時、スタッフステーションのドアがバタンと開いて、血相を変えた中年の女性が入って来た。
「窪田栄太郎の妻です! 夫がこちらに運び込まれたそうで・・・」
 窪田の妻と聞いて、歌恋がビクリとした。刑事たちと会話をするためにマイクがオープンになっていたので、通りやすい窪田華恵の声を拾ってしまったらしい。歌恋が何か訴えるような眼をして窓の方を見た。
「大丈夫、心配しないで」
 ギルフォードが唇に人差し指を当てて言った。高柳がさっと華恵の方に向かった。
「奥さん」
 高柳は華恵の傍まで来ると言った。
「残念ながらご主人は、ここに運ばれてきた時には既に亡くなられていました。ほぼ即死だったそうです」
「そんな・・・。確かに家を出る時なんとなく様子が変でしたが、心配して声をかけても病院に寄るから大丈夫だと言って・・・」
 華恵は自分の意思とは関係なく、身体がわなわなと震え始めたことがわかった。死んだ? 夫が? そんな馬鹿な・・・。しかしその反面、冷え切っていた筈の夫婦関係なのに、なんでこんなに動揺するのかと、動揺し取り乱す自分を見つめる冷静な自分の存在を感じていた。
「奥さん、難しいでしょうが、出来るだけ落ち着いて聞いてください、いいですか?」
「は、はい」
「ご主人は致死性の感染症に罹られていました」
「感染症って、昨日知事の説明にあった・・・? そ、そんな馬鹿な・・・」
「いえ、これは事実なんです。それで、あなたにも感染の疑いが・・・、あ、奥さん、大丈夫ですか?」
 華恵は高柳の説明の途中で、腰を抜かして座り込んでしまった。
「誰か、窪田さんを頼む」
高柳の声を聞きつけて、スタッフが何人か駆け寄ってきた。
「だれか、ストレッチャーを持って来い」
「だ、大丈夫です。驚いただけですから。そんな大仰になさらいでください」
 華恵は焦って言ったが、自分でも倒れかけた事に対して驚いているようすだった。高柳は駆け寄ってきたスタッフに三原医師がいることに気がついて言った。
「三原君、窪田さんを診察室に連れて行ってさしあげて。落ち着かれたら、説明と問診を頼む」
「わかりました。さあ、奥さん、立てますか?」
 三原は華恵に手を差し伸べながら言った。
「大丈夫です。自力で立てますわ」
 華恵はそういうと気丈にも立ち上がって言った。
「説明をお聞きします。三原先生でしたわね、よろしくお願いいたします」
「では、ご案内しましょう。こちらへどうぞ」
 三原は華恵を手招きすると、先に歩き始めた。華恵はしっかりとした足取りでその後に続いたが、急に高柳の方を振り返ると言った。
「多分、私は大丈夫と思うわ。それより夫の愛人よ。そっちのほうが感染してるんじゃないかしら?」
「それについては私共は何とも・・・」
 高柳は空とぼけて言った。
「そっ」
 華恵はそっけなく言うと、再び三原の後を追って歩き出した。二人がステーションから出て行くのを見届けて、高柳は歌恋の部屋の前に戻った。

 由利子は10時にF県警察本部の受付に居た。ギルフォードによれば、受付で名前を言うだけで良いと言うことなので、早速受け付けの綺麗なお姉さんに自分の名を告げた。
「篠原由利子様・・・。えっとギルフォード様から伝言をお預かりしております」
 受付の女性はそう言いながら由利子にメモを渡した。それにはこう書いてあった。
『ユリコ、また感染者が出たらしいのでセンターまで行かなければなりません。先に、案内された部屋に行ってください』
「え~っと、私ひとりで何をしろと・・・?」
 由利子はそれを読みながら頭を掻いて周りを見回すと、受付の女性が言った。
「迎えの者が参りますので、少々お待ちくださいね。・・・あ、来ました来ました」
 女性の向いた方向を見ると、スーツ姿の背の高い女性が由利子に向かって歩いてきた。年の頃は30代後半くらい、由利子とほぼ同年代のように思えた。彼女は由利子に気がつくとにこっと笑って言った。
「篠原様ですね。バイオテロ捜査本部の早瀬です。ご案内しますのでついていらしてください」
「あ、お世話になります」
 由利子は軽く礼をすると、彼女の後をついて行った。
(バイオテロ捜査本部だって。うわ、うわ)
 由利子は内心かなり興奮していた。しかも、警察棟内部なのですれ違う人のほとんどが警官なのだから、慣れない状況にさすがの由利子も若干萎縮しつつテンパっていた。エレベーターを登って当該階(階数は非公開)で降りる。そのまま廊下を歩くと突き当たりの部屋にたどり着いた。部屋の前によく映画やテレビで見るような筆書きの看板が儲けられており、そこには「平成2X年F県下に於ける新型病原ウイルス散布事件捜査本部」と、長々と書かれていた。
「長ったらしいでしょう? いつも思うのだけれども、もっとスマートに書けないものかしらね」
 早瀬はそういいながらドアを開け部屋に入ると由利子を招きいれた。部屋は思った以上に広くて明るい。
「捜査員のほとんどは既に出かけているから、今居るのは私と部長の松樹だけなの。松樹捜査本部部長、篠原さんをお連れしました」
 そう言いながら早瀬は由利子を手招きし、窓際の一際大きい机にの前に案内された。
「松樹警視、篠原さんです!」
机に背を向け・・・すなわち窓際を向いて男はなにやらごそごそしていたが、早瀬の声で慌てて振り返った。
 年齢40代後半、右頬に傷跡が残るがなかなか渋い男性だ。しかし、左目に黒いアイパッチをして左手はなんと鉤状になっている。由利子は若干引き気味に会釈した。
「あ、ああすまん。まだ役職名に慣れてなくてね」
 松樹は照れくさそうに言ったが、由利子が胡散臭そうな顔をして自分を見ているのに気付き、説明した。
「ああ、これは婦警からもらったディ○ニーランドのお土産でね。ちょっと試着してみてたんですよ。けっこう似合ってるでしょ」
 松樹は仕上げに海賊帽子を被り、立ち上がったが、さすがに鉤手はマズイと思ったのかスポッとそれを外して言った。
「捜査本部長の松樹杏一郎です。よろしく」
「篠原由利子です。こちらこそ・・・」
「さて、篠原さん。実は、君にお願いがあってこっちに来て貰ったんですがね、本来なら一緒に来てもらう予定だったアレックス・・・いや、ギルフォード教授に説明してもらうつもりだったんで・・・」
 松樹はそう言いながら部長席を離れ、由利子を手招きした。
「ちょっとこっちにきてくれませんか?」
「はい」
 由利子ははっきりとした返事をすると、彼の後を追った。早瀬もそれに続く。松樹は由利子を若干大きめのパソコンが置いてある席に案内した。
「さ、ここに座って」
「あ、あの」
 由利子はさっき松樹が言いかけたことが気になっていたので、先に聞いてみることにした。
「さっきアレックスって言われましたが、教授とはお知り合いなんですか?」
「ああ、彼とは大学時代からの腐れ縁でね。ま、オシリアイったって、彼と同じ趣味は持ってないから安心して・・・、いや、却ってアブナイかな?」
 松樹はニッと笑いながら言った。
(アレクと気が合う筈ね。類は友を呼ぶとはよく言ったものだわ)
 由利子は松樹とギルフォードの根っこに類似点を感じて思った。そこに早瀬の松樹へのダメ出しが入った。
「洒落になってませんよ。それに、いい加減その海賊のコスプレを解いてくださいませんか? 篠原さん、あきれておられるじゃないですか」
「おっと、失礼」
 松樹は急いでアイパッチを取り帽子を脱いで言った。
「さて、そういうわけで早瀬君、説明してやってくれ」
「はい。・・・じゃ、篠原さん、遠慮なく座ってください。
 早瀬はパソコンの電源を入れながら言った。
「あ、はい」
 と、素直に席に着く由利子。窓機の立ち上がる起動音が室内に響いた。早瀬は何ヶ所かクリックした後開いた画面を指差しながら言った。
「警察の犯罪者データベースです。この中からあなたの記憶しているひったくり犯や、あなたが数人の刑事と見たCD-Rに記録されていた人物を探してください。まずはF県下の暴力団関係のデータから始めてもらえますか?」
「ええ~!? この膨大な人数から見つけ出すんですかぁ~?」
「申し訳ありません。でも、あなたしか出来ないことなんです。お願いできませんか? もちろん賃金はお支払いしますから」
「えっと、今まだ有給消化中で今週木曜までは在職しているのですけど。それに今日からギルフォード研究室に・・・」
「その辺については、後でお話があると思います。で、やってくださいますか?」
「当然やりますよ。でも彼らがデータ内に登録されているとは限らないですけど・・・。ひったくりなんてどー見てもチンピラだったし」
「今は、ちょっとした手がかりでも欲しいのです。今のところ、関係者の顔を鮮明に覚えているのはあなただけなのですから」
 早瀬が『あなただけ』と言ったところで、由利子は背筋に薄ら寒いものを感じた。
「あのっ、私だけって、それ、警察内のみなさんが周知のことなんですか?」
「ご安心ください」
 早瀬が笑顔で言った。
「関係者以外では、警視と私しか知らされていませんから」
「関係者?」
「ええ、当時あなたと一緒に居た刑事たちのことです」
「そうですか・・・」
 由利子はほっとして言った。
「わかりました。地道な作業ですけどやってみます。どの辺りから攻めて行けばいいでしょうか?」
「そうですねえ・・・。まず、有名なところでここら辺あたりから初めてみては?」
「げげ・・・、イキナリそこですか?」
 由利子はよくニュースで耳にする有名暴力団の名前を見て目を丸くした。
「じゃあ、私もお仕事に戻りますから、よろしくお願いしますね」
「あ、あのっ」
 そのまま放置されそうになった由利子が焦って言った。
「私、多分、このデータ、見た人全員覚えてしまうと思うんですけど、問題ないでしょうか?」
「え? 全員覚えるんですか?」
 早瀬があきれて言った。
「覚えたくて覚えるんじゃありませんけど」
「へえ~!」
 松樹が興味深そうに言った。
「アレックスから聞いていたけど、そこまですごいとは思ってなかったな。てことは?」
「はい。もし道で会ったりしたらわかります。あ、この人ナントカ会の何の何兵衛だって」
「そりゃあ、便利だな。いちいち調べなくてもいいぞ。早瀬君、この事件が片付いたら、彼女に組織暴力対策課の非常勤にでもなってもらおうか?」
「まあ、それはいいですね」
「いえ、けっこうです!! 謹んでご辞退いたしますっ」
 由利子は即答した。

 感対センターでは、歌恋への質問が続いていた。C野署の刑事たちの質問はほぼ終わり、その後は感染ルートの確認だった。森田→窪田→歌恋というルートは確定だが、問題はその後だった。特に窪田が発症していたらしい金曜から先のルートが問題だ。
「旅行でY温泉に?」
 高柳の表情が険しくなった。ギルフォードとジュリアスも眉をひそめている。
「温泉地か。厄介だな・・・」
 高柳が腕組みをしながら言うと、ギルフォードが相槌を打った。
「そうですね。高温の湯内ではウイルスがどれだけ生きられるかわかりませんが、そういうところばかりじゃありませんし、このウイルスの生命力自体わかってないのですから、かなり問題ですね、これは・・・」
 それを聞いて、歌恋が泣きそうになりながら言った。
「でも、そこは全室が離れになっていて露天風呂も備え付けになってたから・・・、だから、他人とは接触してませんっ」
「でも、あなた方の後にそこに泊まった方はどうなります?」
「そ、それは・・・」
「とにかく、泊まった宿の名と部屋名を教えてください。即刻電話をして封鎖してもらわないと・・・」
 高柳は事を深刻と受け止めて、厳しい表情で言った。歌恋は今更ながらに事の重大さを悟って震えながら両手で口の辺りを覆っていたが、なんとか答えようと重い口を開いた。
「と、泊まったところはY温泉の・・・『山荘月光の宿』、泊まった部屋は・・・『茅(ちがや)の間』でした」
 高柳は、すぐにそれをメモすると近くの職員を呼び止めて言った。
「すぐにここを検索してくれ。連絡を急ぐので、わかったらすぐに知らせて!」
「はい、わかりました!」
 メモを受け取った女性職員は、すぐにパソコンに向かい検索を始めた。高柳が続けて聞いた。
「他に行ったところはないのかね?」
「はい。後は会社と家との往復で、特にどこへも・・・」
 歌恋が答えると、ギルフォードがすかさず口を挟んだ。
「大事なことを忘れています。森田さんの事故の後、どうされました?」
「あの・・・」
「もともと、どこかで酔いを醒ますつもりだったんじゃないですか?」
「え? あの、・・・どうしてわかったんですか?」
「簡単な人間の心理ですよ。で、どこに?」
「あの時は二人とも気が動転していて、とにかく目に付いたところに入ったので、場所も名前も全く思い出せないんです・・・」
「重要なことです。少しの手がかりでいい、思い出してください」
「は・・・、はい。ところであの」
 歌恋はずっと気になっていたことを質問した。
「会社の方はどうなるのですか? やはり全員隔離なのでしょうか?」
 高柳がその質問に答えた。
「今保健所の者が君の会社まで説明に行っているところですよ。空気感染はしないようだし、汗や唾液などの薄い体液飛沫からの感染も今の所報告がないので、会社の人たちの感染リスクはかなり小さいだろう。だから、経過の監視はされるだろうが、隔離については心配ないと思うよ」
「そうですか、良かった」
「でもね」高柳が続けた。「問題は今日の事故なんだ。昨日の知事の報告にもあった、感染した少年が電車に飛び込んで亡くなった事件だが、そこに居合わせた人たちから少なくとも一人の感染者が出ている」
「じ、じゃあ・・・」
「呼びかけてもバカ正直に名乗り出る人もあまり居ないだろうから、君が近づくなと叫んだ、その効果を期待するしかないな」
「ああ・・・」
 歌恋は両手で顔を覆って下を向き嘆いた。
「一体どうしてこんなことに・・・。私、ただ、課長と一緒に居たかった、それだけだったのに・・・」
「恋愛というものは、本来身勝手なものですから・・・」
 ギルフォードが、慰めとも皮肉とも取れるような口調でぼそりと言った。

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