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5.告知 (6)ヤクタ・アーレア・エスト

 この新型感染症の発生報告に、顔色を変えたのは都築だけではなかった。

 北山紅美は、朝から気分が優れずに臥せっていて、この放送について知らなかった。なんだか下腹辺りが、重苦しく、体調がおもわしくない。しかし、紅美はそれについて病気とは考えていなかった。実は、ここしばらく生理がなく、それで、紅美は真っ先にこの状態を妊娠と考え、明日にでも病院に行こうと決心していた。健二が行方不明の状態では、色々不安もあったが、まず確認することだと彼女は思っていた。それでも夕方になるとだんだん塞ぎ勝ちになってきたので、気分を変えていつも見ているオカッパ頭のおしゃまな小学生が出てくる某アニメでも見ようと思ってテレビをつけたら、特別番組が入っていた。気分をそがれた紅美は、むっとしてチャンネルを変えたが、教育テレビ以外はどれも同じ特番を流している。仕方がないので元のチャンネルに戻して、次の『アンボイナさん』が始まるまでそのまま音を垂れ流した状態で待とうと、また横になった。しかし、なんだかその放送が尋常ではない内容であるのに気がつき、座りなおしてテレビの画面に向かった。
 その内容は、信じられないものだった。半信半疑ながらついつい本気で聞いていた紅美は、情報を募集された女性についてなにか引っかかるものがあることに気付いた。しかし、それが何だったか思い出せずに悶々としていたら、その後の身元不明遺体の情報募集の遺品を見て、飛び上がらんばかりに驚いた。遺品のネックレスは紅美が森田健二へバースディ・プレゼントとしてあげたものに酷似しているし、ブランド物の時計は、彼が大学合格のご褒美で親に買ってもらったといい、いつも身につけていた物と同じタイプだった。しかも、着ていた衣類というイラストも見覚えがあった。
「遺体? そんな・・・。いや、違う! だってその県道って健二んちからずいぶん離れてるし、病人が歩ける距離じゃないもん!」
 紅美は否定した。しかし、健二が行方不明なのは間違いないし、遺品があまりにも合致しすぎている。それに、これは直接彼から聞いたことではないが、噂では彼が年増美人と関係をもってお小遣いをもらったと自慢していたと聞いていた。ひょっとして、その女がさっき情報募集されていた人だったとしたら・・・。紅美は身震いした。
 紅美は、健二がもともと女性にだらしない男であることを承知した上で、付き合っていたつもりだった。しかし、付き合いが深くなるにつれて、だんだん独占欲が強くなり、女性関係でケンカする回数も増えていった。目下のところ彼女の頭を悩ませていたのは、今現在も続いているらしい複数の女性と、時たまコンパ等で女性をお持ち帰りすることについてだった。なので、この女性の件については、完全に遊びだろうと割り切って特に質問をしなかったが、実のところ、紅美の心の中ではずっと燻っていた問題だったのだ。
 だが、事はもっと重大だった。その女性が伝染病に罹っていたとしたら・・・。しかも、致死率が異常に高い危険な病気だ。もし、健二がその女から感染していたとしたら・・・?もしかして、もしかして・・・。
 紅美は混乱してそれ以降の内容が全く頭に入らなかった。健二が罹っていたとしたら、ひょっとして私も・・・? じゃあ、この気分の悪さは・・・! 電話しなくっちゃ・・・。 放っておいたら、私死んじゃうかも・・・! ひょっとしておなかにいるかもしれない赤ちゃんも!! 居ても立ってもいられなくなった紅美は、充電中の電話を取りに行こうと立ち上がった。

 紅美の他にも、心穏やかでない者が二人いた。O県のY温泉からの帰り道でラジオを聴いていた窪田と歌恋である。
 彼らは結局予定通りにスケジュールをこなし、帰路についていた。窪田の具合は治るどころか悪化の一途をたどっているようだった。仕方なく帰りは歌恋が全面的に運転をすることになった。歌恋も運転は嫌いなほうではないが、さすがにO県からぶっ続けの長時間運転は久々であった。それでも彼らはすでにF市内まで帰っており、自宅まであと2・30分というところにいた。そこにいきなりFM番組の流れを切って、特別放送なるものが始まった。
「何よ、これ」
 歌恋は訝しげな表情をして、FM局を変えてみたがどこも同じ内容の放送を流していた。仕方なく歌恋はそのままFM放送を聴くことにした。窪田はCDをいくつか用意していたが、どれも歌恋の趣味と合わなかった。
「新型感染症? 天然痘やペストと同じ危険レベルで1類感染症と同等の扱い? 何かしら、これ。ひょっとしてラジオドラマなんじゃないでしょうね・・・」
 歌恋はつぶやいた。その後助手席に座る窪田に向かって聞いた。
「ね、栄太郎さん。どう思う?」
 しかし、窪田はだるそうに首を横に振るだけだった。しかし、内容が進み身元不明の遺体のことになると、二人の顔色が変わった。遺体発見場所の県道XX線のD市O町付近、そこは、当然のことながら窪田が健二に車をぶつけてしまい、恐ろしくなって遺体を遺棄して逃げたあの場所ではないか・・・? 対岸の火事と思っていたのに、燃えていたのは自宅だった、そんな感じで二人は放送に聞き入った。二人の脳裏にはあの時の状況がまざまざと思い出された。間違いない。今、情報を募集されている男は、あの時遺棄したヤツだ。歌恋は横で具合の悪そうにしている恋人をミラー越しに見ながら言った。
「栄太郎さん、あなたの病気ってひょっとして・・・」
「違う!」
 栄太郎は言った。
「ただの疲労さ。今までとんでもなく忙しかったんだもの。急に暇になったんで気が緩んだんだよ」
 確かにプロジェクト責任者だった窪田は、ついこの間まで寝る間どころか休日すら惜しんで働いていた。それが成功して、今ほっとしているのは確かだ。その油断をついて起こったのがあの事故なのである。だが、今の窪田の状態は、単なる過労とはとても思えなかった。触ると身体が火にあたったように熱い。
「ね、念のため救急病院に行きましょうよ。そんなじゃあ明日病院が開くまで待つのが辛いと思うわ」
「大丈夫だよ」
「だって・・・」
「大丈夫だって! 第一、これは君が!!」
 窪田が怒鳴った。歌恋はびくっとして、その後一瞬彼の方を見た。窪田はしまったと思ったように言った。
「ごめん・・・。歌恋、これは罠だよ」
「罠?」
「そうだよ。あの男を殺した人間をおびき出すための罠なんだ」
「そんな馬鹿なこと・・・。栄太郎さんどうしちゃったの?」
歌恋は窪田の突拍子も無い発言に驚いた。若い歌恋がいくら世間知らずでも、番組を全て変更するなんてことがどれだけ大変かくらいわかる。たった一人殺した犯人を燻し出すために、そんな大掛かりなことをするはずが無い。
「罠なんだよ!」
窪田はもう一度怒鳴った。
「栄太郎さん・・・」
「早く帰って薬を飲んで横になれば大丈夫さ。歌恋、病院より家に急いでくれよ」
「わかった・・・」
 歌恋はそういった後、もう彼には逆らわずに黙って運転をした。数分後、車は窪田の家近くに止まった。当然家の玄関前に止まるわけにはいかない。久保田は車から降りながら言った。
「大丈夫、誰にも言わなければバレやしないよ。君だって色々探られたくないだろう?」
 そう窪田に釘を刺された歌恋は、黙って頷いた。
「じゃ、また明日ね。君との旅行、楽しかったよ」
 窪田は、そういうと歌恋に背を向けた。彼はそのまま家の方向にまっすぐ歩いて行った。それを見ながら歌恋は思った。
(大丈夫・・・みたいね。じゃ、私はこの車を返しにいかなくちゃ・・・)
 不安要素を残しながら、歌恋は敢えてそれから目を背けてしまった。歌恋は車を発進させ、その場から逃れるように車を走らせた。 

 様々な人のそれぞれの反応や思惑の中で、質疑応答は続く。
 記者D。
「感染力と致死率は?」
 高柳。
「感染力は知事の説明にもありましたように、強いですが、今のところ空気感染はしないと思われます。空気感染するなら、今現在の感染発症者は相当数に登っているはずです。飛沫感染に関しては、咳やくしゃみによる唾液や鼻水などの飛沫での感染は低いと思われます。ただ、血液などの濃い体液の飛沫から感染する可能性は確率が上がります。それで感染したらしい犠牲者のケースが現在1件ですが、あります。それから致死率については・・・」
 高柳はここで一息ついて続けた。
「今のところ発症者のほとんどが亡くなっていますから、ほぼ100%と言うことになりますが、今の段階で致死率を言うのは時期尚早だと思われます」
「100%!」
「狂犬病やエボラレベルじゃないですか!」
 会場がざわついた。森の内はまずいと思いすかさず言った。
「だから、まだ早いと申し上げています。まだ感染の全容がつかめていないのです。発症していても完治した人がいる可能性もあります。致死率を前面に出して世間の不安を煽るのは避けてください」
 記者E。
「ゴキブリ注意の地域というのは、それに食われた遺体が出た場所ということですか?」
 森の内。
「そうです」
 記者F。
「情報を募集されていた女性の方は、やはり感染者ですか?」
 森の内。
「そうです」
 記者F。
「それで、その方も亡くなられたと?」
 森の内。
「そうです」
 記者G。
「警官も一人亡くなられたと聞きましたが」
 森の内と高柳は一瞬顔を見合わせた。まだそれは公式に発表されていなかったからだ。しかし、森の内は意を決して答えた。
「はい。その女性の自殺を止めようとして感染しました。この病気の症状の多くは、彼の病状から得たものです」
「さっきの病状説明にありましたが、その時、その女性も『赤い』と言っていたんですか?」
「・・・そうです」
「それで、その感染症はどういった種類に当てはまりますか?」
「『どういった種類』といいますと?」
「えっと、インフルエンザとか、ペストとか」
 高柳。
「今の段階では、そういったものに当てはめることは出来ません。新種でまだ正体が不明だからです」
 記者H。
「致死率100%近いというと、私なんかはどうしてもエボラ出血熱を連想するのですけれども」
 高柳。
「エボラ出血熱の致死率は50%から90%です。少なくともエボラやその他既存の出血熱とは合致していません。が、極めて近い症状を呈するといえます」
 それを聞いて、会場がまたどよめいた。
 記者G。
「では、やはり、出血熱と?」
 高柳。
「多臓器不全と出血性ショックで死に至るのは確かですが、いわゆる出血熱と呼ばれる一連の感染症以外でも、劇症化した場合そういった症状を呈することがあります。新種ゆえに免疫を持つ人がいないために、一部の患者に於いて免疫の暴走が起き激しい症状を示している可能性もあり、感染者の中には発熱だけで数日で完治した人もいる可能性があります」
 記者H。
「可能性可能性って、確実なことはないんですか?」
 高柳。
「今の段階では、可能性としか言うことができません。確実なことは、新型の感染症が流行しつつあることと、それで死者が14名出ているということだけです」
 記者I。
「今の段階で、治療法はあるんですか?」
 高柳。
「残念ながら、今のところ確実な治療法はありません。いくつかの抗ウイルス薬を試しましたが、どれも効果がありませんでした。今のところ、発症者には対症療法しかありません。劇症化した場合、血液浄化法やステロイド剤の大量投与等を行うようにしています」
 記者J。
「ワクチンは?」
 高柳。
「まず、はっきりしておきたいのは、ワクチンは治療するものではないということです。ウイルスを殺すのではなく人為的に特定のウイルスに対しての免疫を作るためのものです。ですから、予防にはなりますが、感染してしまってからではその段階での効果はありません。で、現段階ではこのウイルスに対するワクチンは存在しません。ウイルスが見つからない限りワクチンを作ることは出来ませんし、また、ウイルスが発見されてワクチンの製造を開始しても、完成まで半年はかかります」
 記者K。
「対策本部については?」
 森の内。
「今のところウイルスの発生がF県内の一部に限定されていますから、県知事である私を長とした自治体レベルの対策室を作ります。すでにそれは稼働しています。万一これがF県を出て各地に広がった場合は、総理大臣を長とした国レベルの対策本部が出来、F県はその下につきます。そういう最悪なレベルにならないためにも、皆さんのご協力が必要です」
 記者L。
「あの、ウイルス発生があまりにも突飛だと思えるのですが、これは人の手で撒かれたという可能性はないのですか?」
 森の内。
「人の手で撒かれたと言うと?」
「はい。ベタですが、バイオハザード・・・。例えばどこかの研究所から漏れたとか、テロとか・・・」
「どこかからウイルスが漏れたということについては、どこのウイルスを扱う機関からもそういう報告は受けておりません。が、それ以前に、まったくの新種で、しかもⅠ類に相当する危険なウイルスを扱っている機関は、日本中どこにもありません。それからテロに関してですが、もしテロなら実行前かそのあと、或いは両方に何らかのメッセージが発せられるはずですが、今のところ、何のアクションもありません。ひょっとしたら、すでに気付き難い状態でメッセージを出しているのかもしれませんけどね」
 と言いつつ、森の内は一瞬笑って続けた。
「わかりにくいメッセージじゃあ、意味ないですよね」

「知事、やりますね」
 ギルフォードが小声で由利子に言った。
「記者の突拍子も無い質問に対するジョークに取れますが、これはテロリストに対する挑発ですよ」

「ただし」
 と、森の内はさらに続けた。
「テロは許される行為ではありません。もし、これがバイオテロだった場合、私たちは断固として戦い、かならずそれを封じ込めます」
 森の内の宣言を受けていっせいに記者達が挙手をした。しかし、森の内は、また両手を前に出し、掌を下に向けて収まるようにジェスチャーをしながら言った。
「みなさん、ご質問はまだお有りのようですが、10分の予定を30分に延長しましたが、そろそろ時間がなくなってしまいました。残りの質問は、場を改めて受付いたしますので、とりあえずこの質疑応答は締め切らせていただきます」
 森の内がこう言って閉めようとすると、会場がまたざわめいた。森の内はまた手で制すると言った。
「静かにしてください。今言ったように残りの質問は、また場を改めて受けます。いいですね」
 森の内は会場のざわめきが収まらない中で視聴者に呼びかけた。
「新型インフルエンザの場合、まずの課題はこの国にウイルスが侵入することを水際で防ぐことですが、今回は全く逆で、感染の広がりを阻止することが第一の目標です。すなわち発生地域から外に出さないようにすることです。みなさん、愛する郷土がパンデミックの原点になったなどという不名誉なことにならないよう、このウイルスの拡散を阻止することにご協力ください。ことによっては一部の地域の方々にご不便をおかけすることになるかもしれません。しかし、これは緊急事態です。みなさん、今はまだ牙を潜めているウイルスを封じ込めるため、私にご協力ください。お願いいたします」
 というと、森の内は深く頭を下げた。
「繰り返しますが、このウイルスは普通の生活において感染することはまずありません。みなさん、くれぐれも冷静に対処してください。なお、詳細については県のホームページに記載しております。それから、さっきからテロップに流れているとは思いますが、このウイルスについてのホットラインは、代表092-****-****です。感染情報や先ほど募集した件の情報について受け付けております。各自治体の保健所の方でも受け付けております。質問等は092-****-****で受け付けております。
 みなさん、ご清聴どうもありがとうございました。また、快く番組変更を受けてくださった各局やスポンサーの方々にも深く感謝をいたします。以上で私からの緊急報告を終わります」
 森の内は再び頭を下げた。そのままカメラが引き、会場全体を映し出した。画面左が五分の一ほど青く変わり、白い文字が今の報告の概要を流していた。

 無事に放送が終わった。四人は放送中ずっと緊張していたが、ようやく息を、ほぅと吐き出した。
「Jacta Alea Est. 僕たちはルビコン川を渡ったんです。もう後戻りは出来ません」
 と、ギルフォードが言った。
「やくた・・・何ソレ?」
「『賽は投げられた』。アーレア・ヤクタ・エストとも言いますが、シーザーがルビコン川を渡る時に言った言葉ですわ」
 由利子の疑問に紗弥が答えた。
「ルビコン川は、当時イタリア本国と属国の境になっていました。そのため軍隊を従えてルビコン川を渡りイタリアに入るということは、ローマへの反逆とみなされました。後戻りの出来ない重大な決断をした、ということですわ」
「『賽は投げられた』という言葉はよく使われるから知ってます。シーザーの言葉だったんですね。後戻り出来ないなら、立ち止まらずにどんどん先へ進むしかないです。このあとの世間の反応が心配ですが」
「そうですね。さて、聡子さん、僕たちはそろそろオイトマしますけど、大丈夫ですか?」
 ギルフォードに言われ、聡子は少し顔を赤らめて答えた。
「皆さんのおかげで落ち着いて見られましたわ。ありがとうございます。今から弟の病院へ行こうと思います。帰りは多分明日の朝で、妹と一緒ですから大丈夫だと思いますわ」
「そうですか。それから、え~っと、このキモノどうしましょう・・・」
 ギルフォードは下を向いて、自分の着物姿を見ながら言った。
「よろしければ差し上げますわ。多分もう誰も着る者はいないと思いますから。弟は着物は浴衣くらいしか着ないし、雅之も亡くなってしまいましたし・・・」
「いえ、こんな高いもの、いただけません」
 ギルフォードが恐縮して言った。
「でも、処分するのに古着屋に売っても二束三文ですし、下手すればいずれは捨てられてしまいます。それよりどなたかに着ていただいたほうが嬉しいですもの。もし、たたみ方や手入れがわからないなら、私がお教えしますけど・・・」
「その点は大丈夫ですわ。着付けを含めてそのあたりは私が出来ますから」
「えっと、サヤさん?」
「せっかくのご好意ですから、お受けなさいませ。お似合いですよ」
「本当に」
 と、聡子がウットリとした眼で言った。由利子は紗弥が困った顔をした意味がわかった。ギルフォードは、内容はともかくとして、見かけは某セレブ芸人の姉風に言えばかなりの「God looking guy」で、その上フェミニストで女性に優しいのである。女性がぽうっとならないほうがおかしいだろう。しかも、ギルフォードにはそれが普通のことで、そういう自覚が無いのだからたまらない。さらに、コイツはそういう意味では女性に興味を待たない男なのだ。そりゃあ、後でフォローする紗弥さんの苦労は絶えないよな、と由利子は思った。

『ただし! テロは許される行為ではありません。もし、これがバイオテロだった場合、私たちは断固として戦い、かならずそれを封じ込めます』
「チィッ!」
 結城は運転をしながら森の内の宣言を聞いて舌打ちした。美葉が言ったように、これは県やその周辺の市民に呼びかける一方で、テロリストに対する宣戦布告を行っているのに間違いない。
「ちくしょう、なめたマネをしやがって」
 結城は毒つきながら車通りの少ない山道を飛ばした。後部席には、美葉が気を失ったまま静かに眠っている。彼女の首には結城に絞められた指のあとがくっきりと残っていたが、呼吸はもう平常にもどっていた。
「とりあえず、どこかにしけこもう。僕もなんだか疲れた・・・」
 結城が珍しく弱弱しい言葉を吐いた。逃亡生活は、結城の精神を徐々に追い込んでいるようだった。

 紅美は電話を手に取ると、テレビのテロップに流れる電話番号を打ち込んだ。電話をかけるとすぐに音声が聞こえた。
「ただいま込み合っております。しばらくこのままでお待ちください」
「何よお、役に立たないじゃない・・・」
 紅美はガッカリしてつぶやいた。しかし、待つしかない。待つこと5分、ようやく電話がつながった。
「もしもし!」
 紅美は焦って言った。実は待っている間にどんどん気分が悪くなっていたのだ。
「はい、新型感染症情報室の河上です」
 電話に出た男性はそっけない声で対応した。電話の向こうは、まるでテレアポ室のようにざわめいていた。すでに、彼らの許には玉石混交の情報提供の電話があり、それに追われているのだ。しかも、ほとんどの情報が石の方だった。石ならまだいいが、ゴミ、すなわち冷やかしやお叱りの電話も多かった。まだ、みんなウイルスの脅威をリアルに感じていないのだ。
「あの、私・・・」
「どういった情報ですか? 感染者らしい人を見たとか、自分が感染しているかもしれないとか・・・?」
「あの、身元不明の・・・ひょっとしたら、私の彼かもしれないんです。遺留品に見覚えがあって・・・」
「えっと、それは確実ですか?」
「はい、実は彼が火曜の深夜から行方不明になってて・・・」
「それは証明出来ますか?」
「はい。C野署の方に届けを出しています」
「その彼の名前は?」
「森田健二です」
「もりたけんじ・・・、漢字は?」
「はい、もりたは森に田んぼの田で、けんじは健康の健と漢字の二です」
「担当の方とか、わかります?」
「えっと、その時来られた刑事さんの名だったら・・・、えっと・・・一人が確か、なか・・・やま・・・そう、中山さんでした」
「う~ん、その身元不明の遺体もC野署で扱っていたはずですが・・・。変ですね。どうして照合せんやったっちゃろうか・・・。わかりました。調べてまた電話します。その時詳しいことをお聞かせください。電話はこの電話番号におかけして大丈夫ですね」
「はい」
「あなたのお名前は?」
「北山紅美・・・えっと、漢字は方角の北に山、紅色の紅に美しいです」
「北山さんですね。わかりました。差し支えなければ住所の方もよろしいですか? 大丈夫、個人情報は厳重に守りますから」
「はい」
 紅美は、躊躇せず自分の住所を河上に教えた。
「ご協力ありがとうございます。では、電話を切ってしばらくお待ちください」
「はい。よろしくお願いします」
 紅美はそういうと電話を切った。返事が怖くて心臓がドキドキしていた。しかし、これで結果がわかる。紅美は再び電話がかかってくるまで、ベッドで横になって休むことにした。急激に体温が上がってくるのが自分でもわかった。紅美は恐怖に怯え、両肩を抱え丸くなって横になり、目を瞑った。

 10分ほどして、紅美の電話が鳴った。紅美はだるそうにしながら起き上がり、電話に出た。
「はい。北山です」
「あ、北山さん、新感情報室の河上です。確認が取れました。確かにC野署に森田健二の記録がありました。6月10日に失踪の届けが出てますね。室内に大量の血液を残して失踪したと」
「はい。間違いないです」
「担当に聞いたところ、見つかった遺体の損傷が激しく、内臓の腐敗状態からとても1・2日の内に死んだとは考えられなかったので、森田健二さんとは結びつけなかったということです」
「そんな・・・」
「健二さんと遺体の情報が合致するか、質問しますので、お答えくださいますか?」
「はい」
「血液型は?」
「A型です」
「体型は?」
「身長は172センチで、わりとがっしりしていました」
「次に少し細かい身体的特徴をお聞きします。ただ、遺体の状態が悪く、あまり情報がないのですが。仰向けになってたので背中の方はなんとか無事だったんですが、背中辺りに何か特徴的なものがありましたか?」
「えっと・・・」
 紅美は違いますようにと祈るような気持ちで言った。
「たしか右の肩甲骨あたりに、オリオン座の三ツ星みたいな目立ったホクロがありました」
「なるほど・・・」
 河上はそういうと、少し間を置いて言った。
「北山さん、残念ですが今お聞きしたこと、不明遺体と合致しました。かなりの確率で、健二さんの遺体である可能性がありますね・・・」
「そんな・・・」
 紅美は気が遠くなるような気がした。
「お気の毒ですが・・・。北山さん、あなた自身はどうですか? ご気分が悪いとかそういうことは・・・」
「ってことは、私も・・・」
 そこまで言うと、紅美は力尽きた。電話が手から落ち、そのまま倒れてベッドに突っ伏した。
「北山さん、北山さん、どうしたの? 大丈夫? しっかりして!! くそっ、C野市**町のグリーンブリーズってマンションの502号室に新型感染症の患者が出たようだ。専用救急車の手配を頼む!!」
河上はそう叫ぶと、紅美への呼びかけを続けた。新感情報室に緊張が走った。

 ギルフォードたちを見送ったあと、聡子は出かける準備をしていた。そこにいきなり電話がかかってきて、聡子は飛び上がりそうに驚いた。急いで電話に出たが、いきなり彼女の耳に届いたのは、ひどい罵倒の言葉だった。聡子は必死で詫びて、なんとか電話を切った。しかし、すぐにまた、電話がかかってきた。聡子は怖くなって、電話の呼び出し音と音声を最小にした上で留守電にし、家中の鍵を確認すると、そそくさと家を出て車に乗り、弟の待つ病院に向かった。聡子の頭の中で、さっきの電話の呼び鈴と罵倒する声がずっとついてきていた。彼女は運転をしながら声を上げて泣いていた。
 ギルフォードは、秋山家を出た後由利子を家まで送り届け、紗弥と研究室に向かっていた。途中、ギルフォードの携帯電話に着信が入った。運転中のギルフォードに代わって紗弥が電話に出る。
「わかりました。お伝えいたします」
 そう言って紗弥は電話を切り、ギルフォードに向かって言った。
「C野市で新たな患者が出たらしいですわ。身元不明遺体の情報提供者で、恋人関係にあったようです」
「う~ん、では、確実にクロですねえ・・・。公表後に早速新たな感染者ですか・・・。先が思いやられますねえ・・・」
「どうされます?」
「この格好で感対センターまで行っても、仕事にならないでしょうから、予定通り研究室に帰って、来た時の服に着がえてから行きましょう」
「それがいいですわね」
 紗弥が、いつものポーカーフェイスで答えたが、いきなり「あっ」と、らしからぬ声を上げた。
「どうしました?」
「ネックナイフ、秋山さんの家の柱に刺さったままでしたわ」
「あららら・・・」
「すっかり忘れていましたわ」
 紗弥はそういうとため息をついた。
「紗弥さんでもドジることがあるんですねえ」
 ギルフォードがニコニコしながら言った。

 長兄こと翔悟は、兄の家の前に待機させていた車に乗り込んだ。そこには例によって遥音涼子が乗っていた。彼女の運転で二人だけで来たのだ。
「知事の緊急放送、聞いたかい?」
 翔悟は涼子と二人だけなので、最初から口調がぞんざいだった。
「ええ」
 涼子は短い返事をした。翔悟はクスクス笑いながら言った。
「いっちょまえに、私たちに挑戦してきたからね。そんなにメッセージが欲しいなら、リクエストにお答えしてあげようか。ねえ、涼子?」
 涼子は無言で運転をしていた。
「相変わらず、口数が少ないな。ま、それがいいのだがね。さて、遥音先生、あのバッグを奪うのに失敗した役立たず共は『役立って』いるかな?」
 涼子は無表情で答えた。
「抗ウイルス薬の開発に使わせていただいてます。まだ、ワクチンしかありませんから・・・」
「そうか、で、連中の状態はどうだい?」
「強化ウイルスを使っていますので、一人はすでに瀕死の状態ですが、もう一人はまだ数日持ちそうですね。このまま対症療法を続けていればですけど」
「そうか。じゃあ、元気な方はまだ歩けるんだな」
「はい。まだそれくらいの体力はあるでしょう」
「では、そいつにやらせよう」
 翔悟はそう言うと、またクスクスと笑った。その無邪気な笑いを見て、涼子は全身の体毛が逆立つほどの恐怖を覚えた。

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5.告知 (7)ナガヌマ

 ギルフォードは、研究室に急ぐと教授室に飛び込んだ。和服姿だが、履物に合うものがなくて足元が靴下と革靴と言う妙ないでたちだった。
 研究室には日曜とはいえ、数人の研究生達がおり、喧々囂々と意見を交わしている。ここに集まって例の放送を見たらしい。学生の誰かの部屋に集まればいいようなものだが、よほどここの居心地がいいのだろう。しかし、教授の一風変わった姿を見て彼らの興味はそっちに移り、今度は教授に向かって口々に言い始めた。
「やん、教授、渋~い。けど、靴はヘン」
「似合ってますよ、それ。靴がミスマッチだけど」
「うんうん、靴が変!」
「それよりその着物、どないされたんですか?」
 如月の至極もっともな質問に紗弥が澄まして答えた。
「訪問先の人妻に貰ったのですわ」
「ええ~~~???」
 学生達が一斉に驚いて言った。教授室からギルフォードのダメ出しする声がした。
「誤解されるような言い方をしないでちゃんと説明してくださいよ~、サヤさ~ん」
「あまりにも教授が無自覚だからですわ」
 紗弥は少し苦情を言うと、学生達に向かって簡単に説明をした。
「な~んだ」
「ちょっと期待したのに」
「ね~!」
「とりあえず、履物、どうかした方がいいですよ」
「うんうん。せっかく似合ってるんだから、もったいないですう」
 すると、教授室のドアが開いて、苦笑気味なギルフォードが姿を現した。ハーレーのTシャツと年季の入ったGパンと、いつもの普段着に戻っていた。
「せっかくですから、今度、履物屋さんに行ってあつらえましょう。あ、サヤさん、キモノどうしときましょう?」
「はい。着物用のハンガーもいただいてますので、とりあえずかけておきましょう。明日、畳んでおきますわ」
 紗弥はそういうと、教授室に入って行った。
「紗弥さんはそのままでいいんですか?」
「ええ、緊急に備えてスラックスのスーツにしたんですの」
 紗弥が着物をかけながら言った。
「機動性重視ですか。さすがですね。じゃ、行きましょうか」
 それを聞いて、如月が素っ頓狂な声で言った。
「え~~~、先生、また出て行かれるんでっかぁ~? お帰りやなくて?」
「はい。また急用が出来たもので」
 ギルフォードの様子に如月は何か感じたのだろう、ささっと近づいて小声で聞いた。
「まさか、まだ新しい感染者でっか?」
「まあ、そんなところです」ギルフォードがぼかして言った。「ですから、また遅くなりますので、戸締りと各事項の確認、よろしくお願いしますよ」
「また僕でっかぁ?」
「君が一番頼りになりますからね。お願いしますよ」
「そ、そうでっか? それやったら仕方ないでんなあ」
 如月は、ギルフォードから頼りにされていると聞いて、内心嬉しそうに言った。しかし、ギルフォードが「ま、助教のヴィーラがアフリカから帰って来るまでの辛抱ですよ」と続けた事で、いきなり挙動不審に陥った。
「ああっ、ヴェラちゃん!! せっかく存在を忘れていたのに・・・。教授のアホたん」
 そういうと、如月は頭を押さえながら何処かへ走り去ってしまった。ギルフォードはそれを見ながら、シマッタと言う顔をして言った。
「あ、ヴィーラが彼の天敵だったのを忘れてましたよ。悪いコトしましたね」
「そこら辺を駆け回ったら戻って来ますわ」
「あのね、逃げた飼い犬じゃないんだから・・・」
「それより、急がないと」
「そうでしたね。じゃあ、ごきげんよう。みなさんも早く帰るんですよ」
 そういうや否や、二人はバタバタと研究室から出て行った。

 ギルフォードが感対センターに到着したのと、紅美が運び込まれたのはほぼ同時だった。今までとは違い、感染者発生地とは全く無縁の場所から現れた初めての患者で、センター内はちょっとした騒ぎになっていた。とりあえずセンター長室に向かっていたギルフォードは、ちょうど部屋から出てきたばかりの高柳に鉢合わせた。
「おお、ギルフォード君か。またお呼び立てしてすまないね」
 高柳は言った。ギルフォードは頭を横に振ると答えた。
「いえ、新しい感染者となれば、僕もゆっくりしているわけにもいきませんから」
「私もあれから帰ったばかりで仮眠しようと思った矢先でね」
「それはお気の毒でしたね」
「患者の名前は北山紅美で、多美山さんがいた部屋に入る予定だ。君たちは窓の前で待機しておいてくれたまえ」
 高柳はギルフォードの返事を待たずに走って行った。
「相変わらず忙しい方ですわね」
 紗弥が、感心したようなあきれたような風情で言った。ギルフォードは肩をすくめた。
「ま、実際忙しいですから。ここの人員も増やさないといけませんねえ。とりあえず、病室の前で待っていましょう」
 そう言うと、ギルフォードは病室に向かって歩きだした。

「遅いですわね」
 紗弥が、すこし退屈したように言った。二人が病室の前に待機してから、すでに30分以上経過していた。
「まず、診察と治療が先ですからね。もう少し待ってください」
 ギルフォードは組んでいた腕の左腕を解くと、その手で顔を覆いながら言い、その後曇りガラスを指でトンと叩いた。
「・・・とはいえ、確かに遅い上に何の連絡もないですね。何か問題があったんでしょうか」
 少しして、スタッフステーションに二人組みの男が入ってきた。葛西とジュリアスである。葛西がギルフォードたちを見て驚いて言った。
「あれえ、アレク、紗弥さんまで、どうしてここに?」
「また発症者が現れたんです。しかも、今日情報募集した身元不明遺体の関係者らしいんです」
 ギルフォードが答えた。
「そりゃ大変じゃないですか。でも、これで少しは感染ルートが判ってくるかも知れませんね」
「そうですね。ところで君たちの方は、何か成果はありましたか?」
「雑魚はよ~け採れたんだが、大物がなかなか採れんのだわ~」
 と、ジュリアスがギルフォードに近づきながら肩をすくめて言った。大物と聞いてギルフォードが嫌な顔をして言った。
「いくら大物だからって、くれぐれも採れたモノを僕に見せないでくださいよ」
「でゃ~じょ~ぶ、大物記念の虫拓なんか取ったりしにゃあからよぉ」
「笑えない冗談ですよ」
 ギルフォードはえもいわれぬ苦笑を浮かべて言った。ジュリアスはそれを見てしみじみと言った。
「おみゃあ、こっちに来てほんに丸くなったにゃあ。以前のおみゃあにこういう冗談をゆーたら、ソッコーでグーで殴られるか、羽交い締めされとるところだわー」
「苦労は人を丸くするんですよ」
「そんならその足もどけてくれ~せんかね」
 ジュリアスが、自分の右足を指さしながら言った。葛西が一瞬吹き出しそうになったが、場所柄を考えてなんとかそれを押さえた。紗弥はと言うと、まったく無視を決め込んでいる。いつものことなのだろう。そんな時、病室のモニターから声がした。女性医師の山口の声だった。
「アレク先生、そこにおられますか?」
「あ、はいはい、いますよ」
「お疲れ様です。あの、こちらがちょっと取り込んでまして、アレク先生に状況説明をするために、今、センター長が向かっていますので」
 山口の声の向こうで、女性の泣き声とそれをなだめる看護師の春野の声が聞こえた。
「何かあったのですか?」
「はい、患者さんがかなりショックを受けておられるので・・・」
「そうですか。それでは無理できませんね」
「ええ。もし、ご質問があるのでしたら、後日改めてになると思います」
「了解しました。では、タカヤナギ先生を待つことにします」
「すみません。とりあえず切ります」
「はい、お疲れ様でした」
 そこでモニターの音声が切られた。
「泣き声がきこえましたね。大丈夫でしょうか・・・」
 葛西が心配そうに言った。

 ギルフォードたちは、再びセンター長室にいた。
 彼らを迎えいれた高柳は、4人を座らせると言った。
「あちこち行かせてすまなかったね」
「いえ、気にしないでください」
 ギルフォードが言った。
「タカヤナギ先生の方こそ、お疲れでしょう」
「私は大丈夫だ。まだまだ若いもんには負けんよ」
「頼もしいですね。ところで、何か問題が?」
「うむ。今回の患者はさっき言ったように北山紅美という女性だ。彼女は今日の放送を見て連絡をしたらしい。ところが、電話中に倒れ、驚いた職員が救急車を手配した。そして救急隊員たちが駆けつけ、下半身を血まみれにして倒れている彼女を発見したということだ」
「すでに、放血を? ・・・いえ、ちょっと待って・・・。ひょっとして彼女・・・」
「そうだ。身ごもっていた」
「では・・・」
「まず胎児が感染に耐えられなかったんだろう。すでに流産していたらしい」
「ひどい・・・。可愛そうに・・・」
 真っ先にこう言ったのは葛西だった。紗弥も微妙に眉を寄せていた。
「彼女も妊娠かもしれないと気がついたのは、今日だったということだ。可愛そうに、彼女は子どもとその父親になるはずだった男の二人を一度に亡くしたんだ。彼女は感染自体よりそっちの方のショックの方が大きいようだ。とても質問出来るような状態じゃなくてね」
「エボラ出血熱の場合も妊婦に感染した場合、まず胎児からやられてました。出血熱は妊婦に対して特にひどい仕打ちをします」
「そうらしいな。彼女の病状もかなり進んでいて、そのせいで出血が全然止まらなくてね、このままだと長くもたせることが難しそうなんだ」
「悠長なことは言ってられないですね。感染源の男が死んでしまったからには、彼女から話を聞かないことには・・・」
「うむ。どうしたものかと思ってね・・」
「ところで・・・」
 ジュリアスが口を開いた。「その遺体が北川さんのボーイ・フレンドだということの確証は?」
「北山だ。彼女が言った彼の身体の特徴がほぼ一致した。今、彼の両親に連絡を入れているから、彼らの証言ではっきりするだろう。まあ、彼女の感染で、ほぼ鉄板だと思っていいだろうがね」
「テッパン?」
 と、聞きなれない言葉にギルフォードが首をひねって尋ねた。
「鉄の板、Iron plateだ。カタイということだよ。間違いないってことだ」
 その時、突然内線が入った。山口医師からだった。
「高柳先生、今、公安の方がこられて、北山さんに少しだけでいいからお話が聞きたいと・・・」
高柳が少し嫌な顔をしてギルフォードたちを見てから小声で言った。
「公安警察か、厄介だな」
 その後山口に向かって
「わかった。ただし、質問は彼から直接ではなく私を通してからにすると伝えてくれ。私もすぐに病室の前まで行く。山口君、君はその間、北山さんをなんとか説得してくれないか」
 と言うと、今度はまたギルフォードたちに向かって言った。
「とりあえず、またあちらに向かおう」
「公安・・・、ひょっとして、長沼間さんかな?」
「知り合いがいるのか」
「ええまあ。僕の聴講生ですが」
「聴講生? まあいい。とにかく急いで行こう」
「ホントに行ったり来たりになりましたねえ」
 と、ギルフォードがぼやいた。

 ギルフォードの思ったとおり、件の公安警察官は長沼間だった。彼は、高柳に挨拶と自己紹介をした後、共に現れたギルフォードを見て笑って言った。
「やあ、先生。いるかもしれないとは思っていたが、やはり居たな」
「もう嗅ぎ付けて来るなんて、さすが、行動が早いですね」
「ふん、やっと現れた潜在感染ルートの一部だからな。ここを引っ張らんとまた地下に潜ってしまう」
 そう言うと、長沼間は高柳の方を向きなおして言った。
「さっさとお願いしますよ」
 しかし、高柳は彼を制して言った。
「ちょっと待ってください。患者の意思を確かめてからです。今、医師の山口君が説得をしているところですから」
「悠長ですな」
 長沼間が薄笑いを浮かべて言った。しかし、高柳はそれに動じずに答えた。
「ええ、ここにいるのは患者であって犯罪者ではありませんから。医師なら患者のことをまず考えるのが当然でしょう」
「ふん」
 長沼間は鼻で言うと、まだ中の様子が見えない窓の方に向いた。
 しばらくして、モニターから声がした。
「高柳先生、患者さんだいぶ落ち着かれました。短時間なら質問をお受けするそうです」
「よろしい。では、窓を『開けて』くれたまえ」
 高柳の声と共に、窓が開いた。葛西は多美山のことを思い出して一瞬辛そうな顔をした。あれは、まだ昨日の出来事なのだ。まだ記憶に生々しい。しかし、今ベッドに寝ているのは若い女性であった。彼女は憔悴しきっており、いつもの彼女を知る者は、おそらく言われるまで北山紅美とは思ってもみないだろう。
「北山さん」
 高柳がマイクをを持って言った。万一を考えて、病室の外からはマイクを通してからしか話せないように設定したのだ。
「具合の悪いのにすまないね。ちょっとだけ質問に付き合ってくださいね」
「すみません、わたし・・・」
「謝ることなんてないんだよ。ただ、君が答えてくれたことで、感染の流れが断ち切れるかもしれないんだ。君のような人を増やさないためにも、協力してくれますね?」
 紅美は静かにコクリと頷いた。
「さあ、長沼間さん。そういうことだ。さて、質問は何かな?」
「単刀直入に聞こう。森田健二というド阿呆と付き合っていた女は他に複数いただろう。知っているだけ名前を教えろと聞いてくれ」
  長沼間は、早速容赦ない質問をぶつけてきた。
「もう、そんなことまでわかっているんですか」
 と、ギルフォードがあきれて聞いた。
「森田健二の失踪についての調書を見たんだ。タラシで有名でな、ひでぇ評判だったよ」
「こっちの会話が聞こえないようにして正解だったな」
 高柳は独り言のように言うと、病室に向かって質問をした。
「早速、このようなことをお聞きするのは申し訳ないのですが・・・。森田健二君は・・・、え~、あなた以外の女性と、その、親密なお付き合いをしていたようですが、名前はわかりますか」
("タカヤナギ先生がこんなに戸惑っているのを見るのは初めてだな")
 ギルフォードは、いつも流暢に話す高柳が言葉を選んで慎重に話す様子を見ながら思った。案外と気を使う男のようだ。しかし、当の紅美は、いきなり辛い質問をされて黙り込んでしまった。長沼間が気忙しそうに言った。
「早く答えるように言ってくれ」
「北山さん、辛いでしょうけれど大事なことなんです。答えてくれませんか?」
 高柳は彼が出来る最大限の優しさを以って質問した。しかし紅美は、嗚咽を漏らしながら再び泣き始めた。
「ちょっと貸してくれ」
 長沼間はそう言うと、いきなり高柳からマイクを奪い怒鳴った。
「メソメソするんじゃねぇ! 事態はもうあんただけの問題じゃなくなってるんだ。こうしている間にもどんどん感染が拡大しているんだぞ。子を失う母親をこれ以上増やしてもいいのか!?」
 長沼間に怒鳴られて、紅美は一瞬呆然とした後さらに泣き出した。山口と春野が驚いて駆け寄った。
「ナガヌマさん!」
 ギルフォードが素早く手を伸ばし、長沼間のマイクを持つ手を押さえて言った。
「気持ちはわかります。でも非道いことを言うのは・・・」
「ふん、俺を病室に入れなくて正解だな。中だったらあの女を締め上げていたかもしれん」
「ナガヌマさん・・・?」
「いいか、今は綺麗事を言っている時ではないんだぜ。あんた達だってわかってるんだろう?」
 そう言いながら長沼間はギルフォードを振り切り、続けて紅美に何か言おうとしたが、紗弥が後ろから近づきマイクを取り上げ高柳に渡した。長沼間は驚いて振り向き、紗弥の顔をまじまじと見た。マイクを取り戻した高柳は、急いで紅美に声をかけた。
「北山さん、暴言を浴びせてしまって申し訳ない。大丈夫かね?」
「大丈夫です・・・」
 紅美はなんとか平静に戻っていた。彼女は今度はしっかりと答え始めた。
「取り乱してすみません。そうですよね、あの人の言うとおり、ちゃんと答えないといけませんよね」
「決心してくれましたか。ありがとう」
「あの、でも、答えたら・・・彼女たちはどうなるんですか」
「おそらく強制隔離になるでしょうな。しかし、それは彼女らを守ることにもなるんですよ」
「私が教えたことは・・・」
「大丈夫、秘密は守られますよ」
「わかりました。お答えします」
 紅美は意を決したように言うと、彼女と同じ大学の女性の名を3人挙げた。
「ただ、最近一度だけ知らない女性を連れ込んでいたことがあって・・・。その人だけは誰かわかりません。ごめんなさい・・・」
「北山さん、だから、謝らなくてもいいんです。君のせいじゃない」
「はい、でも・・・」
「いいんだよ。君はむしろ被害者の方なんだから。で、それは、ここ1・2週間位のことですか?」
「はい、確か先週の土曜日のことでした。そのことで大喧嘩になったので・・・」
「君も色々と大変だったんだね」
 高柳から優しい言葉をかけられて、紅美の両目から再び大粒の涙が流れた。
「あらら、泣かないで、北山さん。あ、ちょっと待ってね」
 そう言った後、高柳は長沼間の方を見て尋ねた。
「私からも質問していいかね?」
「何を質問するつもりです?」
「当然、健二と秋山美千代との関わりについてですよ」
「俺もそのつもりだったんでね。遠慮なく聞いてくれ」
 高柳は、長沼間の先ほどの行動とその不躾な言い方に少なからず不快感を持ちながらも、それを押さえて紅美に質問をした。
「北山さん、その女性はお幾つくらいの方でしたか」
「多分、私より下の18くらいだったと思います・・・。ひょっとしたら、もっと下かも」
「そうですか・・・。それでは、彼が最近かなり年上の女性と付き合ったというようなことは・・・?」
「はい、これは噂でしか知りませんが、先週彼が30代の人妻のお相手をしてお小遣いをもらったと自慢していたとか・・・」
「それは、単なる噂なのかな? それとも・・・」
「・・・事実だと思います。私はそんなこと考えるのも嫌だったので、確認することはしなかったけど、そのお金で友だち数人を連れて遊びまわった挙句、さっき言った女性をお持ち帰りしたらしい・・・です」
 そこまで聞いて、ギルフォードがあきれて言った。
「彼らは大学に何をしに行ってるんです?」
 それを聞いて、長沼間が肩をすくめて言った。
「さあね。学問じゃないことは確かだな」
 彼らの会話を余所に、高柳が質問を続けた。
「北山さん、その女性の手がかりになるようなことはご存じないですか? どんな些細なことでもいいですが」
「その女性については、本当にまったくわかりません。ごめんなさい。でも、何故この質問をされたかはわかります。その女性が、今日の放送で情報を求められていた人ではないかということですね・・・。彼女がこの病気を運んだと・・・」
「そのとおりです」
「お役に立てなくてすみません・・・」
 と、紅美はまた謝りながら続けた。
「でも、その人を見た訳じゃないけど、多分その女性とあなた方の探してる女性は同じだと思います。放送を見てそんな気がしたんです。だから、連絡したんです。赤ちゃんだけでも守ろうと思って・・・。なのに・・・なのに、赤ちゃん死んじゃった・・・。私が守らなきゃいけなかったのに、私のせいで死んじゃった・・・」
 紅美はとうとう耐えきれずに泣き崩れた。春野が再び紅美をなだめ、沈静剤を用意しながら山口が言った。
「すみません。もう限界なので、今すぐ全てを遮断します。後は後日お願いします」
 その声が途切れるや否や、窓が曇り中が見えなくなった。皆が深刻な顔をしている中、長沼間が言った。
「センター長、今聴いた女達の名前を大学に確認して、すぐに彼女たちの隔離を手配してくれ。俺は彼女らからの新たな感染ルートと例の女と森田との接点を探るよう要請する。無理を言ってすまなかったな。じゃあ」
 長沼間はきびすを返すとさっさと戸口に向かった。その後を葛西が追い、長沼間の背に向かって言った。
「長沼間さん!」
 長沼間は足を止めたが、振り返らずに答えた。
「坊やか。なんだ? あんたには用はないが」
「彼女のせいじゃないでしょう!」
「わかっている。悪いのはウイルスを撒いた馬鹿共とタラシのクソ野郎だ。両方とも許せねえよ。クソ野郎の方はくたばっちまったがな」
 葛西は長沼間が両拳を握り締め、それが何故か小刻みに震えていることに気が付いた。
「じゃあ、なんであんな・・・」
「時間がねぇからだ。・・・じゃあな、急ぐんでな」
 長沼間は振り返らないままそれだけ言うと、また歩き出した。が、戸口の前でまた足を止めた。
「坊や、彼女に怒鳴ってすまなかったと伝えてくれ。それから、生きてくれ、と。」
 そう長沼間は低くつぶやくと、スタッフステーションから出て行った。
 葛西はすぐに皆のところに戻ると、ギルフォードに聞いた。
「長沼間さん、昔何かあったんですか?」
「どうして?」
 ギルフォードは例のアルカイックスマイルを浮かべて聞き返した。
「いえ、なんかさっき鬼気迫るものがあったんで・・・」
「そうですか・・・」
「それに、今・・・、あっ、そうだ、伝えなきゃ。高柳先生、声だけでも部屋に伝えることが出来ますか?」
「ああ、聞いてみよう」
 高柳は再度マイクを手にして山口に尋ねた。音声だけならということで、山口から許可が下りた。葛西がマイクを受け取り、やや緊張した面持ちで言った。
「あの、北山紅美さん、聞こえますか。さっきの怖いおじさんからの伝言です。『怒鳴ってすまなかった』それから、『生きてくれ』・・・。あの、僕からもお願いします。生きてください」
 葛西はそう言いながら多美山のことを思い出していた。葛西はメガネを持ち上げ目元を袖口で拭うと、マイクを高柳に返した。
「もういいのかね?」
「はい」
 葛西は照れくさそうに答えた。

 ギルフォードたちは、駐車場に向かってセンターの廊下を歩いていた。
「ジュン、長沼間さんのこと聞いてましたね」
 歩きながら、ギルフォードが葛西に声をかけた。
「はい。何か知ってるんですか?」
「ええ。彼は、あの地下鉄サリンテロで妹さんを亡くしています。正確には、それが元で自殺されたようです」
 長沼間の悲しい過去に、葛西だけでなく紗弥やジュリアスも驚いてギルフォードの方を見た。
「そうだったんですか。それであんなに・・・・」
「彼は当時既に今の職業についていて、ペーペーだった彼はO教団を調査するチームにいました。なのに地下鉄テロを止めることが出来なかったことを悔やんでいます。妹さんの死も自分のせいだと思っているみたいで・・・」
「長沼間さんから聞いたんですか?」
「いえ、今回のテロの参考に、サリンテロについて改めて調べていたら、被害者の中に彼と同じ『長沼間』という名字の女性を見つけたんです。あの漢字を使う『ナガヌマ』は珍しいですから、調べたらすぐに彼の妹と言うことがわかりました。彼は僕がこのことを知っているとは思ってもいないでしょうね」
「なるほど、今度は未然に防ぐつもりが始まってまったじゃあ、そりゃ~焦るはずだわ~」
 ジュリアスが納得して言った。
「行き過ぎにゃあとええけどな」
「僕もそれが心配なんですが・・・」
「でも」
 と、葛西がしみじみ言った。
「それを考えると、あの『生きてくれ』というメッセージは重いですね」
「そうですね、本当に重いです。ジュンが言った『生きてください』もね」
 ギルフォードはそう言うと、少し微笑み、続けた。
「二人の気持ちがキタヤマさんに通じるといいですね。ただ、伝わったからと言ってどうにかなる病気じゃないのが辛いところですが・・・」
「ええ・・・」
 葛西がうつむき加減で言った。ギルフォードはそんな葛西を見ながらにっと笑うと、パン!と手を叩いた。
「さっ、元気出して帰りましょう。明日からはきっとものすごく忙しくなりますよ。みなさん、今日はゆっくり眠ってください。ほら、ジュンも元気出して」
 そう言いながら、さりげなく葛西の肩に手を回した。それを見たジュリアスがすかさず言った。
「あ、こら、浮気はあかんでかんよ」
「おや、ばれてました~?」
 そういうと、ギルフォードは廊下を駆けだした。
「おい、ちょこっと待て、アレックス!!」
 と、すぐにジュリアスがその後を追った。残された葛西と紗弥は、お互いを見て肩をすくめあった。
「いったい何ですか、あれ?」
「さあ。犬も食わなさそうですけど。それにしても、廊下は走るものじゃありませんわ」
「じゃ、僕らはゆっくり行きましょうか」
「そうですわね」
 紗弥が同意した。二人は並んで駐車場まで向かった。心なしか、紗弥が穏やかな微笑みを浮かべているように見えた。

 紅美は虚ろな眼をして病室の天井を見ていた。出血はだいぶ治まったそうだが、このまま血が完全に止まらなかった場合、どうなるのだろうと思うとゾッとした。その反面、いっそ健二や赤ちゃんの所に行ってしまったほうが楽なのではないか、とも思っていた。
(だけど・・・)
 紅美は思った。
(あの恐ろしげな男の人は、私に生きてくれと言ったらしい。それを伝言してくれた人も、同じことを言った。見ず知らずの私を、二人は励ましてくれた・・・)
 紅美はそのまま目を閉じた。
(私がこのまま死んだら、彼らは悲しむだろうか・・・? )
 閉じた眼から涙があふれ、顔の側面を伝って枕を濡らした。

 あれからこのような展開になっているとは知らず、由利子は家でテレビを見ていた。あれから特に何か変わったような感じはしない。テレビ番組もいつもどおりで、相変わらずのバラエティ番組やドラマがひしめいていた。ただ、ニュースにおいて、例の告知が全国版で取り上げられていたのには、少し驚いた。たしかに、わざわざ既存の番組を潰してまで時間を割いて行われたのだから、ニュースになるには充分な素材なのは間違いない。
 だが、これが明日以降どう影響するだろうかと思うと、由利子はかなり不安になった。また、ローカルニュースでも当然メインニュースで取り上げられており、町を歩く人のインタビューを交えて報道されていた。道行く人たちは、不安に思う者・楽観的観測の者・信じてない者・放送自体を知らない者等様々な反応だったが、特にパニックになっている様子は無い。ただ、危険地域とされた数箇所の地区は、人通りもほとんど無く静まりかえっていた。もっともそれらが住宅地で、日曜ゆえに通行人が少ないということもその一因だろう。
 由利子はふと気になって、ネットを立ち上げ有名巨大掲示板をチェックした。すると、ニュース速報板と新型感染症板にそれぞれ早々とスレッドが立っており、特に、新型感染症板ではトリインフルや新型インフルを差し置いて、プチ祭りになっていた。多くの住人達が、すわエボラ出血熱発生かと騒ぎ立てている。由利子は眉をひそめながらつぶやいた。
「う~ん、予想通りの反応っちゃ反応やけど、この騒ぎがネットからリアルに移行したら怖いな」
 由利子はその後少し考え込んだが、うんと頷いて言った。
「アレクに一応連絡しとこ。多分彼はそんなトコ見んやろうし」
 由利子は早速携帯電話を取り出し、電話をかけ始めた。

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