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5.告知 (3)秋山家にて

 ギルフォードは問題の部屋に駆け込むと、多佳子が「兄さん、しっかりしてぇ」と叫びながら、必死で信之の身体を抱いて支えていた。姉の聡子の方は腰を抜かしたまま震えており、今にも倒れんばかりの状況だった。紗弥が彼女を介抱する為に駆け寄った。ギルフォードは多佳子の方に駆け寄り交代した。
「もう大丈夫ですよ」
 ギルフォードは宙吊りになった男性の胴体を抱きかかえ、首を支えて体重が頸部にかからないようにした。大役から解放されて、多佳子はへなへなとその場に座り込んだ。
「まだ暖かい! サヤさん、頼みます!」
 ギルフォードが言ったとほとんど同時に、紗弥は聡子を支えたまま、首にかけたネックレスの十字架部分から何かを引き抜き、首くくりの紐に向けて投げた。それは見事に紐を切断し、若干向きを変えながら飛び、そのまま壁に突き刺さって止まった。ネックナイフだ。がくんと男の体重が一気にギルフォードにのしかかった。彼は信之の首に負担がかからないように抱きとめ、そっと畳の上に寝かせると、信之の肩を叩きながら声をかけた。
「アキヤマさん、アキヤマさん、わかりますか?」
 意識がない。ギルフォードはすぐに気道確保に入った。頚骨の損傷を考えて頭部後屈ではなく下顎拳上、すなわち手であごを持ち上げて気道を確保する方法をで気道を確保する。鼻から出血はしているものの、幸い口腔内には異物はないようだ。しかし、呼吸は完全に停止していた。
「心肺停止! サヤさん、CPR(心肺蘇生法)です」
「了解。教授、マスクですわ!」
 紗弥が人工呼吸用マスクをギルフォードに投げ渡した。ギルフォードはすぐにそれを信之の顔に被せると、彼の鼻をつまんでから彼の口を自分の口でしっかりと覆い、2回息を吹き込んだ。それに合わせて信之の胸が膨らみ口から息が漏れた。
”よし、いいぞ”
 彼はつぶやき、脈を確認した。やはりすでに止まっている。ギルフォードは心臓マッサージをするため、信之のシャツをはだけると肋骨を探って胸骨の中央に右手を置きその上から左手を載せて組み、ひじを伸ばしたまま腕を垂直にし、信之の上に覆いかぶさるような形で上半身の体重をかけて押した。4センチほど胸が下がると力を抜いてまたすぐに押す。1秒弱の間隔でそれを30回繰り返すと、また2回人工呼吸をして心臓マッサージを30回と繰り返す。脈を確認したが、まだ脈は戻らない。ギルフォードは、人工呼吸と心臓マッサージを繰り返した。
「発見したのは、どれくらい経ってからですか?」
 ギルフォードは心臓マッサージをしながら姉妹に聞いた。聡子は紗弥が傍で介抱している状態で、とても答えられないが、ようやく我を取り戻した様子の多佳子が答えた。
「変な音がしたので気になって様子を見に来たら、兄が・・・。それで、とっさに抱きかかえて・・・。なので、ほんの今しがたではないかと・・・」
「じゃあ、あまり時間が経ってないですね。頚骨も折れてはいないようですし」
 ギルフォードは、まだ蘇生の望みは充分にあると判断した。その間に救急車が到着、救急と消防隊員が駆け込んできた。その後から由利子がおっかなびっくりで入って来る。電話してから約5分。消防隊員が二人すぐさまギルフォードの傍に来て言った。
「代わります!」
「よろしくです」
 ギルフォードはすぐに彼と交代すると、状況を説明した。
「縊首(いしゅ)でCPA(心肺停止)、発見後すぐに救出、その後CPR(心肺蘇生法)を続けていました。おそらく吊ってから間もないそうです」
「了解しました。警察へは?」
「電話しました。念のため警察にも通報するように言われたので」
 部屋の隅にいる由利子が答えた。
 消防隊員がCPRを続けながら、他の隊員が頸部を固定する。AEDを準備していた救急隊員が言った。
「パッドを貼ります」
 すぐさま隊員たちは、AED担当の隊員が作業しやすいように避けた。
「秋山さん、AEDのパッドを貼りますからね、すみませんがシャツをまくりあげますよ」
意識不明の信之に、救急隊長が声をかけた。
「大丈夫です。きっと助かりますよ」
 ギルフォードは、蘇生処置を受ける信之を心配そうに見ている姉妹に言った。多佳子が深く礼をしながら言った。
「ありがとうございました。あなた方が来られなかったらどうなっていたやら・・・」
「いえ、あなたがとっさにお兄さんを支えたからですよ。それより気になるのは・・・」
 ギルフォードは何かを言おうとしたが、その時救急隊員が姉妹に尋ねた。
「蘇生のため、電気ショックを行います。いいですか」
「はい、お願いしますっ」
 二人が同時に答えた。AEDの音声が、除細動実施を告げる。救急隊長が言った。
「除細動を実施する。みんな、患者から離れて」
 バン!という音がして信之の身体が撥ねた。姉妹は抱き合って小さい悲鳴を上げた。
「ダメです!」
「2回目を実施!」
「了解」
「除細動、2回目を実施する。離れて!」
 再びバンッ!と言う音がして、信之の身体が跳ね上がる。AEDのモニターから、ピッ・・・、ピッ・・・、ピッ・・・という規則正しい音が聞こえた。
「脈拍が戻りました!」
 隊員が、力強い声で言った。
「よ、良かったぁ・・・」
 姉妹は再びへなへなとその場に座り込むと、抱き合ってうれし泣きをした。その彼女らに救急隊長が言った。
「呼吸はまだ戻りませんし依然意識不明の重体です。予断は許されません。今から急いで救急病院に搬送します。付き添いの方はおられませんか?」
「私が行きます。妹です」
 多佳子が名乗りを上げた。
「では、すぐに出れるように準備してください」
 隊長は多佳子に言い、その後隊員たちに向かって命令した。
「よし、搬送準備! ロードアンドゴーだ! 急ぐぞ!!」

 医師の指示の下で呼吸器がつけられた信之を、サブストレッチャーに載せ搬送する。門を出たところでメインストレッチャーに乗せかえられ、救急車内に搬入された。近所の人たちが様子を見に出てきて、あちこちでヒソヒソ話していた。一緒に救急車に乗り込んだ多佳子が言った。
「姉さん行って来るけんね。容態の変わったら電話するけん。家んことは頼んどくよ」
「うん。信之のこと、頼むね」
 聡子が答える。
「出発します。ドアを閉めますから離れて」
 言われて聡子は急いで門のほうに避けた。門扉の前ではギルフォードたちが、心配そうに立っていた。
後ろのドアが閉まり、サイレンが鳴った。信之の乗せられた救急車は搬送先の病院へ急ぐべく走り出した。消防隊の車も後に続いた。救急車が去り、サイレンの音が遠くなっても聡子はその場に立ち尽くしていた。ギルフォードが、そっと彼女の肩に手を置いて言った。
「きっと大丈夫です。風が出てきました。家に入りましょう」
 聡子は頷いた。ギルフォードが聡子の肩を抱いて家の中へ誘導しようとしたとき、車が止まって二人組の男が降りてきた。それは由利子にはおなじみの顔だった。
「え、またぁ、ふっ○い君なの?」
 由利子はうんざりして小声でつぶやいた。しかし、隣の紗弥には聞こえたらしい。かすかに「くふっ」と笑ったのを由利子は聞き逃さなかった。
「いやあ、篠原さん、またあなたにお会いしましたな」
 ふっけ○君もとい、富田林が由利子に気がついて言った。由利子は焦った。なんて外聞の悪い。
「またあなたって、人聞きの悪いことを言わないでくださいな、富田林刑事」
「ああ、失敬失敬。例の事件がらみということで、僕らが派遣されましてね」
「えっと、じさ・・・」
 増岡が言おうとすると、富田林が彼の横腹に軽く肘鉄を当てて言った。
「バカ! 声が大きい」
「すんません」
 増岡の粗忽は相変わらずのようだ。二人の刑事は足早に近寄ってきた。声のトーンを落として富田林が言った。
「自殺未遂らしいということですが、すでに搬送されたようですな」
「はい」
 聡子に変わってギルフォードが答えた。
「脈拍は戻りましたが、呼吸停止状態で搬送されました」
「おや、あなたが篠原さんの言っておられた大学の先生ですか」
 富田林はギルフォードに上から下まで目を通して言った。
「はじめまして。県警の富田林です。多田美葉の事件からこっちも担当させられましてね」
「Q大のギルフォードです。こちらこそはじめまして」
「しかし、大変だったようですな、先生。自殺と聞かねば、あなたを容疑者と疑うところでしたよ」
「え?」
 ギルフォードは下を向いてまじまじと自分の姿を見た。白いシャツに血がべっとりとついていた。さらに良く見ると、黒いスーツにもあちこち何かが染みになっていた。信之を正面から抱き留め支えていたので、大量の鼻血やら何やらが付着したらしい。
「サヤさ~ん。一張羅がナンカだらけになってマシタ」
 いきなり情けない表情になって、ギルフォードは紗弥の方を見た。紗弥が若干すまなそうに答えた。
「申し訳ありません。気付いていたのですが、それどころではなくて・・・」
「首吊りはねえ・・・」
 富田林が同情するように言った。

 富田林と増岡のコンビは、現場を見て自殺未遂と判断、事件性は無いとして帰っていった。刑事達を見送ってから、聡子が洗面所で手を洗っているギルフォードのところにやってきた。
「おや、サトコさんでしたっけ。どうされました?」
 鏡に映った聡子の姿を見て、ギルフォードは蛇口を閉めて振り返った。
「せっかく来ていただいたのに、こんなことになって申し訳ありません」
 聡子は平身低頭謝った。
「いえ、そんな謝らないでください」
 ギルフォードが恐縮して答える。聡子は改めてギルフォードの服を見ながら言った。
「ああ、ずいぶんと汚れちゃいましたね。何となくニオイも・・・。申し訳ありません。どうかお風呂にお入りください。着替え、信之のでとりあえず合いそうなのを探しておきます」
「そんな、気を遣わないでクダサイ」
「いえ、どうかシャワーだけでも・・・。事件後消毒されて、私たちも使ってますので安全ですから」
「わかりました。では、シャワーを使わせてもらいますね
 ギルフォードはこれ以上断るのも失礼と思い、承諾した。
「スーツはクリーニングに出しますので・・・」
「いえ、お構いなく。ウォッシャブルなので家で洗います。なにかビニール袋を置いておいてください・・・、あ、そうだった」
 ギルフォードは急いで玄関に戻り、すっかり忘れていた花束を持ってやってきた。
「ご霊前にお供えください。こんな物騒な格好でお渡しして申し訳ないケド」
「あら、まあまあ・・・、なんてステキな白百合のブーケ・・・。母が大好きだった花です。ありがとうございます」
 聡子が涙ぐみながら言った。

 ギルフォードがシャワーを終え、聡子に案内されて居間にいくと、紗弥と由利子が紅茶を飲んでくつろいでいた。しかし、ギルフォードの方を見て、二人は微妙な顔をした。
「やっぱ、ヘンですか?」
「『笑点』のTシャツはともかく、ジャージのズボンが半端に短いですわね」
 紗弥が言った。相変わらずの直球ストレートだ。
「困ったわねえ・・・。信之も背の高い方だったけど、やっぱり腰の高さかしら? 弟は短パンをはかなかったし、どうしましょう・・・。あ、ちょっと待ってくださいね。あれなら・・・」
 そういうと、聡子は二階に上がって行った。しばらくして降りてくると、居間のドアから顔を出してギルフォードを呼んだ。
「ありましたわ、先生。ちょっとこちらにいらしてください」
「おや、なんですか?」
 そう言いながらギルフォードは居間から出て聡子について行った。それを見ながら由利子が少し怪訝そうな表情で言った。
「何かしら?」
「まあ、教授が人妻に襲われることはないでしょうから、放っておいても大丈夫ですわ」
 紗弥が、紅茶のカップを置きながら言った。
「いや、そんなことは心配していないから」
「そうですか? それにしてもヒマですわね。テレビをつけさせてもらいましょう」
「え? いいの?」
「ええ、先ほどお伺いしたところ了解していただきました。何か今日のことについてお知らせがあるかもしれませんでしょう?」
 紗弥はそういうと、躊躇なくテレビをつけた。二人で再放送のドラマを見ていると、家の中で悲鳴がした。
「何? このドラマの中・・・じゃないよね」
「家の中でしたわね。様子を見に行きましょう」
 由利子と紗弥は居間を出て声のした部屋を探した。すると、なにやら二階から声がする。
「サトコさん、ステキです~。僕、コレ初めてです~」
「ちょ・・・、ちょっと待ってください、私、慣れてなくて・・・。それに、裾が乱れますよ」
 二人は顔を見合わせた。
「何やってんだか・・・」
と、紗弥。
「行ってみよう」
 由利子はそういうと階段を駆け上がり、声のする部屋の戸を開けた。そこは衣装部屋だったが、和服を着た男がうやうやしく跪きながら聡子の手を取り、ナイトよろしく手の甲にキスをしていた。由利子が半ば呆れて言った。
「何やってんですか、コラ」
「オー、ユリコ! 感謝のキスですよ」
「私、西洋風は慣れてなくて、それに、せっかくお着せしたお着物の裾が乱れるから・・・」
 と、聡子が恥ずかしそうに言った。由利子と紗弥は肩をすくめて顔を見合わせた。
「見てクダサイ、ユリコ!紗弥さん! キモノです! 一度着てみたかったんです!!」
 ギルフォードは、彼女らに自分の着物姿を見せながら言った。由利子の冷たい視線に対して、ゴキゲンなハイテンションだ。ギルフォードは、さらに二人の前でくるりと回ってみせた。薄い緑色の地にグレーと茶縞柄の麻の長着で帯は茶色、長着の色はギルフォードの目の色に良く似合っていた。由利子の横で紗弥が小声で言った。
「もう、バカ・・・」
「意外と良くお似合いで・・・」
 由利子はギルフォードのテンションに若干引き気味に答えたが、確かに文句なく似合っていた。着付けが上手いのだろう。若干裾と袖が短いが、おかしいほどではない。聡子がほっとしたように言った。
「ちょっと驚いたけど、こんなに喜んでいただいて嬉しいですよ。背の高かった祖父の夏用の着物があることに気がついて良かったですわ」
「サトコさん、本当にありがとうゴザイマス!!」
 ギルフォードが感謝のハグをしようと聡子に近づいたので、聡子はまたきゃあと悲鳴を上げた。
「Alexander Ryan Guildford! いい加減になさいませ!!」
 とうとう紗弥が最後の切り札、「緊箍経(きんこきょう)」を唱えた。

「まったく。事情で遅れたとはいえ、昨日お葬式を終えたばかりのお宅ですのよ。それに、今も弟さんが病院に運び込まれたばかりでしょう? 状況をわきまえてくださいませ」
 居間に戻った三人は、来客用のソファに座っていた。ギルフォードは、紗弥に叱られてすっかりしゅんとしていた。
「そもそも、私たちは何をしに来たのですか」
「亡くなった方への御参りと、今日放送されることへの説明です」
「そうでしょう? なのに、アクシデントがあったとは言え、まだどれも遂行されていませんのよ」
「どうもスミマセン・・・」
 ギルフォードは下を向いたまま、若干上目遣いで言った。
(やっぱり孫悟空と三蔵法師やね)
 由利子は改めて思った。
 しばらくすると、聡子がギルフォードの分の紅茶を運んで来た。ギルフォードがすぐに立ち上がって言った。
「先ほどはどうも、脅かしてスミマセンでした」
「いえ、お気になさらないでくださいな。おかげで私も気が紛れてよかったです。・・・イギリスの方とお聞きしていますので、ミルクティーにしてみたのですけれど、お口に合いますかしら?」
 聡子は紅茶をテーブルに置きながら、少しはにかんだ笑顔で言った。
「いえいえ、ありがたくいただきます」
 ギルフォードは座りなおすと、カップを手にして一口飲んでから、にっこり笑って言った。
「美味しいです。母が入れてくれたものと近い味で、スゴク懐かしいです」
「まあ、西洋の方はお上手ですわね」
「いえ、お世辞じゃないですよ」
 そう言うとギルフォードは旨そうに紅茶を飲んでいたが、紗弥に突(つつ)かれカップを置きながら言った。
「・・・あの、順番が後になってしまいましたけど、ご霊前にご焼香したいと思うのですが・・・」
 ギルフォードは、まずひとつ目の目的遂行を申し出た。聡子は両手で口を覆い、やや涙ぐんで言った。
「ありがとうございます。故人たちも喜ぶと思います」
 聡子の了解を得て、三人は立ち上がった。

 祭壇のある部屋に行くと、三人はそれぞれお香を焚き手を合わせた。すでに祭壇には、ギルフォードが持って来た百合の花が飾ってあった。
 由利子は、祭壇でやさしく笑う祖母の遺影と並べられた、雅之の遺影で彼の顔を改めて見た。写真の雅之は、まだ少し幼さの残る顔で屈託なく笑っている。まだ14・5歳の普通の少年が、魔が差したとしか思えない殺人を犯し、結果、自らも命を落とすことになってしまった。さらにその結果、祖母や母までもが命を落とし、その後も多美山を含め、じわじわと犠牲者を出し続けている。
(巡る因果は糸車・・・か)
 由利子は昔の人形劇のセリフを思い出しながら、つくづくと運命の不思議さを思った。雅之の遺影の隣に、若干小さめの額に入った、中年と呼ぶにはまだ若い女性の写真が置いてあった。なかなかの美人で、おそらく母の美千代のものだろう。面影が雅之によく似ていた。まだ遺骨が帰ってないので葬儀は持ち越されたが、仮の葬儀は執り行われたのかもしれない。
(一体この人は、どんな思いでばら撒き屋になり、そしてあんな事件を起こしたのだろう・・・)
 それを思うと、由利子はやりきれなかった。パーフェクトではなかったかもしれない。しかし、平凡だがそれなりに幸せな家庭だったにちがいない。それが、完膚なきまでに壊されてしまった。今生きているのは父親だけで、その彼も今は生死の境を彷徨っている。あのウイルスさえ撒かれなければ、例え雅之が事件を起こしていたとしても、この一家の状況はまったく違っていただろう。由利子は改めてウイルスを撒いた者たちに対して怒りを感じた。それは他の二人も同じだった。
「僕たちはあなた達の前で誓います。必ずウイルスとそれを撒いたテロリストを制圧します」
 ギルフォードがまっすぐに祭壇を見ながら誓った。

「それではサトコさん、ノブユキさんが入院してしまいましたので、あなたにお話したいと思いますが、いいですか?」
 居間に戻ると、ギルフォードは秋山家来訪の本題に入った。ギルフォードたちの前に座った聡子が答えた。
「はい。よろしくおねがいいたします」
「今日、夕方、テレビ・ラジオ・ネットを媒体に知事から重大なお話があります。それは、明日の新聞や、自治体の広報でも配布され、出来るだけ多くの人たちに知ってもらえるようにします」
「で、それと信之とどういう関係が・・・」
「はい。それが、ノブユキさんのご家族を奪ったウイルスについてのことだからです」
 その時、聡子の携帯電話が着信を知らせた。
「あの、失礼ですが電話に・・・」
「遠慮なく出てください。ノブユキさんの容態でしょう?」
「すみません・・・」聡子は電話を取ると急いで耳に当てた。「もしもし、多佳子? 信之はどう?」
 三人の間にも緊張が走った。
「え?え? そっそれで?」
 聡子の目に、見る見る涙が浮かんだ。
「うん、わかった。あんたも気をしっかり持って。ええ、この後もお願いね」
 聡子は電話を切ると、あふれる涙もそのままに言った。笑顔だった。
「信之が持ち直したそうです。救命処置が早かったからだそうで、脳障害の方が出たとしても、軽度だろうということでした」
「そうですか! ああ、良かった」
 ギルフォードがほっとした笑顔で言った。由利子と紗弥は、顔を見合わせると「きゃー」と言って抱き合って喜んだ。
「良かった、良かった・・・。みなさんのおかげです。ありがとうございました。これで信之まで失ったら、私たちは耐えられないところでした」
 そこまで何とか言い終えると、聡子は泣き崩れた。
「サトコさん」
 ギルフォードがフェミニストらしくすかさず立ち上がって隣に座り、聡子を落ち着かせようと肩に手を置いた。しかし、信之のこれからのことを考えるとギルフォードの胸中は複雑だった。果たして蘇生したことが、彼の為になったのだろうか・・・。由利子はギルフォードの表情が、一瞬辛そうに曇ったのを見逃さなかった。

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5.告知 (4)告知前

 ギルフォードは聡子が落ち着くまで待つと、彼女の横に座ったまま改めて説明をした。聡子は最初、話の内容の把握がよく出来なかったが、それは、信之から詳しい話を聞いていなかったからだと言うことがわかった。

 聡子からの話はこうだった。
 聡子と多佳子が、母と甥の訃報を知らされ実家に駆けつけたのが、雅之が事故死した日もすでに暮れかかった頃だった。だが、実家も信之宅も封鎖されていて入ることが出来ない。彼女らは、信之が感染症対策センターにいることを知らされすぐにそこに向かった。
 しかし、なんとか信之には会えたものの病室のガラス越しで、あまりにも異常な事態に対応できず憔悴しきった信之からは、詳しい事情を聞けるような状態ではなかった。彼女らは、信之を励ますだけでそこを去るしかなかった。
 その後、彼女らはセンター長の高柳から秋山夫妻の隔離入院についての説明をされた。しかし、その内容も彼女らにとってはあまりにも突飛で、すぐには信じられなかった。さらに、母や甥の遺体に対面したいと申し出たが、それも許可されなかった。彼女らは泣いて頼んだが、規則だと言うことで頑として聞き入れられなかった。彼女らはそれ以上どうすることも出来ず、連絡待ちということで、泣く泣く帰路につくしかなかった。
 信之が病院から帰ってきてからも、とても聞ける状態ではなく、腫れ物を扱うようにしていたという。それで、彼女らは警察から報せがあった時と感対センターで聞いた情報しか得る術がなかったのだ。
「母と甥、しかも実の母が死んだと言うのに遺体にも会えず、その上、人が亡くなった時にするべきことが全く出来ないなんて、信じられませんでした」
 聡子は静かではあるが、底の方にはいまだ消えない憤りを秘めた口調で言った。
「しかも、未知の感染症だなんて誰がすぐに信じられますか? 私たちは訳がわからず、ただ抱き合って泣いていました」
「スミマセンでした」
 ギルフォードが頭を下げながら言った。
「あの時は現場もセンターも相当混乱していましたので、ご遺族のお気持ちの方まで対処出来なかったんだと思います。でも、そんな時だからこそ、細やかな配慮をしなければならないのです。本当に申し訳ありません」
 そういうと、ギルフォードはもう一度頭を下げた。聡子は驚いて言った。
「そんな、先生、頭をお上げになって。先生に恨みを言ったわけじゃありませんわ」
「遺体との対面が出来ないのは、もちろん感染防止のためですが、お二人のご遺体はかなり損傷していましたから、僕はあなた方が見なくて良かったと思ってます。遺影でお母様のお優しい笑顔を拝見して、そう思いました。ご遺族の方にとってはどちらが良いのか僕には断言できませんが・・・」
「ああ、先生はご覧になられたのですね・・・」
 聡子が言った。
「母の遺体はそんなに・・・」
「で、あの日はですね」
 ギルフォードは急いで話題を変えた。これ以上聡子にショックを与えてはまずいと思ったからだ。
「僕も、マサユキ君の友人たちから話を聞いたり、法医学の先生に報告したりと大忙しで、午後からの講義が終わった後、センターの方にも寄りましたが夕方には帰りましたので、あなた方とはすれ違いだったみたいですね」
「そうでしたか。・・・ところで、あの・・・、雅之ですが、ホームレス襲撃なんて本当にそんな大それたことをしたんでしょうか?」
「申し上げ難いですが、YESです。彼の制服の上着からは犠牲になったホームレスのヤスダさんの血液が検出されましたし、右手にマサユキ君の友人たちが証言した傷跡もありました。その傷跡とヤスダさんの爪も整合しています。僕は、マサユキ君はその傷からヤスダさんの罹っていた病気に感染したと確信しています」
「ああ・・・」
 聡子はそういうとまた顔を覆った。
「弟嫁の美千代といい、一体どうしてあんなことを・・・」
「二人とも亡くなられてしまった今、それはもう誰にもわからないでしょう」
 ギルフォードは気の毒そうに聡子を見ながら続けた。
「サトコさん、これから僕が言うことをしっかりと聞いてください。あなたたち姉弟にとって重要なことですが、ノブユキさんがああなってしまった今、僕はあなたたち姉妹に託すしかありません。あなたには辛い内容を含みますが、どうかお聞きください。まず、これまでの流れをもう一度簡単に説明します。ご存じのこともあると思いますが、おさらいと思って聞いてください」
 と、ギルフォードは雅之の事件から現在までの流れを、わかりやすくかいつまんで話した。聡子がまたも辛そうな表情で言った。
「何て事でしょう・・・。西原さん一家には本当に申し訳ないことをしたんですねえ・・・」
「西原さんは、ミチヨさんも亡くなられてますし、その他の状況も理解されて訴訟はしないとおっしゃっておられるそうです」
「訴訟・・・」
 聡子は膝の上で、さっき涙を拭いたハンカチを握りしめながら、硬い表情で言った。
「そうですよね、美千代は訴えられるべきことをしてしまったんですよね・・・。西原さんの寛大なお計らいに感謝します。ほんとうに申し訳ないですし、感謝の言葉も見つかりません」
「西原さん一家については、あなた方が落ち着かれてからお詫びとお礼に伺ってください」
「ええ、もちろん、もちろんです」
「それよりも、これからお話しすることはもっと問題なんです。よくお聞きください」
ギルフォードは、これから行われる森の内知事の告知について説明した。
「今回の告知は、F県及び周辺に住む人々に新型感染症に関する注意を促がすことが目的ですが、公表することによって、感染者の追跡をしやすくするという目的もあります。いくつか追跡すべきルートがありますが、そのうちの二つにマサユキ君とミチヨさんからのルートがあります。マサユキ君のほうは、事故現場に遭遇した人の中から感染者がいるかどうかです。今現在では少なくとも、一人の感染が確認されています。ミチヨさんについては、失踪時に彼女がどういう行動をしたかも誰と会ったかも全くわかっていません。僕たちはマサユキ君よりも、ミチヨさんのルートのほうがより深刻だと考えています」
「あの、美千代は失踪時にいったい何をしていたのでしょう・・・?」
聡子が不安そうに尋ねた。ギルフォードはその質問に自分の推測で答えるのは避けて言った。
「ミチヨさんの、感対センターを抜け出してから公園に現れる間の空白部分の行動については、ほとんどわかっていません。ただ・・・」
「ただ?」
「彼女がセンターを抜け出したのは、外部からの手引きがあったらしいということと、彼女が公園で言ったことから、彼女が何者かから操られていた可能性が高いということです」
「いったい誰に!」
「わかりません。それを調査するためのルート解明でもあるんです」
 ギルフォードは、ウイルスが人為的なばら撒きの可能性が高いということを言うのをはばかった。今回の告知ではまだ発表を伏せられているからだ。
「なんてこと・・・!」
 聡子は再度ハンカチを握り締めながら言った。
「もちろん、あなた方を含め、これに関わった人たちの個人情報が流れることはありません。しかし、すでに色々なウワサが流れています。それが、どんな風にあなた方に降りかかるかわかりません。それは、西原さんたちすら巻き込むことになるかもしれません。状況を見て、警察のほうで対処するようにしているようですが、ことによると、ノブユキさんをどこかに保護することになるかもしれないということを、頭にいれておいて下さい」
「可愛そうな信之!」
 聡子が言った。
「家族を全て失ったというのに、この上いったいどれだけ苦しい思いをすればいいのでしょう・・・!!」
 聡子はそう嘆くとハンカチで目頭を押さえた。由利子と紗弥は、口を挟む余地もその必要もなかったので、二人の会話を黙って聞いていたが、悲しさと憤りを抑えつつ涙する聡子を見ながらチラリとお互いを見、ついでギルフォードの方を見た。彼はいつものようにフェミニストぶりを発揮していた。由利子は、罪を犯した者の家族もまた被害者なのかもしれない、と思った。
 そんな中、紗弥がいきなり立ち上がって窓の方に駆け寄ると、窓を開け外に飛び出した。と、同時に家の前から車が発進し、猛スピードで逃げ去った。
「チッ!」
 紗弥が珍しく舌打ちをして、逃げる車を見送った。残りの三人が心配そうに窓のそばに寄ってきた。
「何者かがここの様子を伺ってましたわ」
 紗弥は彼らの方を振り返ると言った。

「おお、危ない危ない。やはり気付かれたか。遠くから望遠で狙って正解だったな」
 車を運転しながら、降屋がつぶやいた。その後、普通の声で横の女性に言った。
「どうだい? いい写真が撮れただろ?」
 助手席で、極美がデジカメのモニターで映像を確認しながら言った。
「ええ、思ったよりずいぶんとはっきり写っているわね。でっかい望遠レンズをつけたカメラを見た時は、女湯でも盗撮するのかと思ったわ」
「盗撮はひどいな。そのつもりがあったら、君に隠しカメラ付きのポーチを渡して女湯においてもらうさ」
「そんなのには協力しないわよ」
「冗談さ」
「あたりまえじゃないの。犯罪じゃない。本気だったら引くわ」
「あはは、案外真面目なんだね、君」
「あんな仕事をしていたから、いい加減だと思ってた?」
 極美は少し不機嫌そうに言った。
「そんなことはないよ。不真面目な子だったら、協力しないから」
「そうなの?」
「そうさ」
「わかった、信じるわ。で、この情報は、またあなたの公安警察の友人経由?」
「まあ、そういうことにしといてよ。色々あってあまり詳しいことは言えないんだ。とにかく、今日午後から例のガイジンの教授が秋山家に来るという情報を得たんで、君に教えたまでさ。君、彼の顔を見たがってたろ?」
「ええ・・・。思ったより若いわね。それにかなりいい男だわ」
「僕とどっちが?」
「バカね」
 極美は降屋のボケを一蹴し、続けて尋ねた。
「でも、なんであんな遠くから撮る必要があったの?」
「今のでわからなかったかい? 近くに寄ると気付かれるおそれがあったんだ。あの女は教授秘書だけど、元はCIAのエージェントだったんだぜ」
「やっぱり冗談が下手ね、あなた。さすがにCIAはないわよ」
 極美が苦笑いして言った。
「じゃあ、KGB」
「却下」
「SASとかは?」
「もう、マンガの見過ぎだわよ。確かにだだの秘書じゃなさそうだけど。教授の愛人とかそのレベル?」
「あいつ、ゲイらしいぜ」
「ええ~っ、うっそお!!」
「マジ、マジだってば。けっこうそれって有名らしいよ」
「公言しているの? だとしたら勇者だわね。でも、もったいないわねえ。いい男なのに」
 極美は写真をスクロールしながら言った。
「あ、これこれ、救急車が来た時門扉のところに立ってるこれ、いいわね。特に黒いスーツに血まみれの白いシャツが危険っぽくていいわ。使うならこれね。顔には目線かボカシをいれるとして・・・。う~ん、目線の方がかっこよさが垣間見えていいわね」
「どんな記事にするか決めているの?」
「ええ、だいたいね。あとは掲載するタイミングだわ」
「今日の知事からのお話が良い発端になるといいね」
「なに、それ?」
 と、極美はきょとんとして降屋を見た。
「ああ、知らなかったのかい? 今日夕方6時のニュースの時間帯を利用して、知事から重要な話があるらしいのよ。多分、テロ関係のことだと思うよ」
「じゃあ、見なきゃあ。急いで帰りましょ」
「おっけ~。じゃあ、すっ飛ばすぞ」
 そういうと降屋は景気良くアクセルを踏んだ。極美は焦って言った。
「ちょっと、急がなくても6時前には悠々と着くわよ。交通規則は守って。って、そっちは私のホテルへの方向じゃないわ!」
 驚く極美をチラリと見て、降屋はにっこりと笑いながら言った。
「僕の部屋じゃご不満かい?」
「え、ええっ? そんな、行っていいの? ご家族は?」
「独身だもの、僕だけだよ。K市の大学に通っていた頃から同じ賃貸マンションにずっと住んでいるんだ。大家がめんどくさがって家賃を上げないし、住み慣れたらなんとなく居心地がよくってさ。で、来るだろ? 僕んちならプリンタがあるから、撮った写真をプリントアウト出来るだろ?」
「そっ、そうね。じゃあ、遠慮なくお伺いするわ」
 極美は何となく勘違いをしたと思い、少し顔を赤らめながら言った。

 ギルフォードたちは、居間のソファに戻った。しかし、話は先ほどの出来事に移行していた。
「何者だと思う?」
 由利子が聞いた。
「急いで確認しようと思ったのですが、植木が邪魔で車に乗っていた人物もナンバープレートも確認が出来ませんでした。残念ですわ」
 紗弥が答えた。相変わらずのポーカーフェイスだが、膝の上に組んだ手の関節が白く見えた。ギルフォードが肩をすくめて言った。
「告知前からこれでは、先が思いやられますねえ・・・」
「やめてください。これからのことが余計に恐ろしくなりますわ」
 聡子が恐ろしげに両腕を掴んで言った。
「おっと」
 ギルフォードが時計を見ながら言った。
「5時をだいぶ回ってしまいましたね。そろそろおいとましなければ。今からだと、僕の研究室なら6時前には着くと思いますから、放送には間に合うと思います。みんな、帰りましょうか」
「あの、お待ちになってください」
 聡子が懇願するような目をして言った。
「私、一人でその放送を見るのが怖いんです。みなさん、ここで一緒に見てくださいませんか?」
 思わぬ依頼に三人は顔を見合わせた。

「潮見、ちょっと車を止めて」
 パトカーでパトロール中の熊田が運転している部下に言った。
 ここは、F県もS県境に近い街の国道沿い。潮見は車を止め不審そうな表情で言った。
「急にどうされたとですか、巡査部長」
「あの女性、似とおと思わん?」
 熊田は、現在パトカーが正面に止まった形となったコンビニの方を指差した。そこにはたった今車から降りて店内に入ろうと入り口に向かう女性がいた。両サイドがレースアップ仕様のレザータンクトップに同じくレザーのマイクロミニで、生足に黒いハイヒールと、ずいぶんと過激な格好をしている。
「似てるって、誰にですか?」
「指名手配中の結城って男に誘拐されたって、ナントカっていう・・・」
「ちょっと待ってください。えっと、これですね」
 潮見は手配書を出して見ながら言った。
「多田美葉、37歳・・・。う~ん、今は後ろを向いてるんでよくわかりませんが、ちょっと若すぎるっちゃないですか? せいぜい20代後半くらいにしか見えませんよ」
「単に若作りってのかもしれんやろ。特に女性の歳は同性の私だってわからんもんなあ。まあ、手配書の写真は運転免許証の写真っぽいから、ちょっと難アリやけど」
「難有りって・・・」
 彼らがそう言いながら様子を見ていると、女がそれに気がついたのか振り返った。
「あ、気付かれたか。コンビニのガラス窓にパトカーが映っとおからやね」
「背格好はあってますけど、やっぱ若かですよ、彼女。しかし、すごい短いスカートやなあ。・・・って、小柄なのに胸でかっ」
「こらこら、どこば見よっとね、あんたは。やっぱ男やねえ」
 熊田は苦笑いをして言ったが、すぐに真顔になった。
「ん? 何かこっちに来そうな雰囲気やけど・・・」
 しかし、彼女は車から連れの男が下りて来ると、ぴたりと動きを止めた。
「仮に彼女が多田美葉とすると、男の方は結城の可能性があるとやけど・・・」
「結城 俊、46歳・・・。身長、179センチ。これも背格好は合ってますが、こっちは歳をとりすぎてますね。どう見ても60近いですよ、彼」
 男は何かを言いながら、急いで彼女に長いコートを着せた。
「あんまり短いスカートをはいているから、彼氏も気が気じゃぁなかごたるねえ」
「彼氏というよりも、お父さんって感じですね」
 男の方もパトカーに気がつき、人好きのする笑顔を浮かべて会釈すると、女と肩を並べてコンビニに入っていった。 
「やっぱり別人か。男の人相が違いすぎるもんねえ。警察を目の前にしても、全く不審な態度をせんし」
「じゃ、行きましょうか」
 そう言うと、潮見は車を発進させた。
「もう少ししたら、例の放送が始まりますよ」
「おっと、そうやったね。ラジオでもやってるんだったな」
「はい。放送後、何か騒ぎになるでしょうか?」
「どうやろうねえ。それよりどれくらいの人が信じるかのほうが問題かもしれんよ」
 と言いながら、熊田は微妙な表情をして笑った。

 件の男女は熊田が最初疑ったとおり、美葉と結城だった。彼らはコンビニで日用品を買い込むと、すぐに車に乗り早々にそこを立ち去って行った。美葉はもともと歳よりかなり若く見られがちで、30過ぎて補導されたという笑い話もあるくらいなので、髪型や着る物で10歳くらい若く見せることは造作もないことだった。しかし、結城の変貌は異常だった。やや伸ばした髪には白いものがかなり目立ち、遠目には殆どグレーにしか見えなかった。体重もかなり減っており、それによって顔も骨格が際立ち皺も目立ってきた。実際に彼が年齢を60だと偽っても、誰も疑わないだろう。彼の常用する薬の副作用なのだろうか、その面持ちには死相すら感じられた。しかし、当の本人は見た目の変貌とは違い、むしろエネルギッシュに活動しているようだった。
 結城は人目を避けるように、山道に車を走らせていた。一瞬とはいえ、さっき警官にに目をつけられたのでかなり用心深くなっている。二人はコンビニから出てから一言もしゃべっていない。車内には緊張した空気が張り詰めていたが、民放FM局の名物パーソナリティ、『ビーちゃん』こと蜂谷ケンタのおどけた声が、場違いに響いていた。彼は、時折イラッとする類のオヤジギャグを交えながらも、軽快に番組を進めていく。と、急に蜂谷の声が真面目なアナウンサーの声に戻った。
「さて、CMに入る前にもう一度お知らせします。今朝から各番組でお伝えしていましたとおり、6時から番組を約5分間変更して、森の内知事からの重要なお知らせを放送します。なお、これはAM・FM・テレビ放送を通じて・・・」
「うるさい!」
 結城がイラついた様子で、乱暴にラジオのスイッチ切った。それできっかけが出来たのか、結城はミラー越しに助手席の美葉を一瞥しながら言った。
「美葉、おまえさっきパトカーに走って行くつもりだっただろう?」
 美葉は無言で窓の外を見ていた。
「しばらく大人しかったので安心していたら、早速こうだ。そんなことをしたら、どうなるか充分言い含めていたつもりだったけどね、まだわかってないようだね」
「捕まりたくなかったら、明るいうちに出歩かないことね」
 美葉は右手で支えた左手で頬杖を着き、そっぽを向いたまま言った。
「それに、私にこんな趣味の悪い露出過多な服を着せたりしたら、余計目立つでしょう。それをあんたに警告したまでよ。第一この車、盗難車じゃないの。ナンバーを調べられたら一発でアウトだよ」
「邪の道は蛇ってね、そう簡単にばれないようなルートの車だってあるんだ。これはそのルートから手に入れたから、その点は大丈夫だ。生憎だな」
「そっ、蛇ね。あんたらしいよ」
 美葉はそっぽを向いたままはき捨てるように言った。結城は少し困ったような表情をして言った。
「まだ許してくれないのか、美葉。あれから僕たちは、ずっと・・・」
「身体を支配したくらいで、私を征服した気にならないでよ!」
 美葉は結城の方に向きなおすと、キッと厳しい表情で彼をにらんで激しく言ったが、すぐに言葉を和らげて続けた。
「私の心はすでにあなたにはないの。本当に私を愛しているなら、私を解放して。・・・いえ、それじゃだめだ。聞いて。あなたが本当に救われるには、罪を償うしかないの。私と一緒に警察に行きましょう。ね、お願い。このままでは私たちが向かうのは破滅しかないわ」
「破滅か・・・。おまえと一緒ならそれもいいかもしれないな」
 結城はそうつぶやくと、路肩に車を止め、美葉の方を向いて言った。
「いいか、美葉。何度も言うように、おまえが妙な気を起こせば大勢の人が死ぬことになるんだ。二度とさっきのようなマネはやめろ」
「わかったわよ!!」
 美葉はヒステリックに叫んだ。
「でもね、言っとくけど、私はあなたのテディ・ベアじゃないからね!!」
「美葉、どうしてわかってくれないんだ?」
 結城はシートベルトを外すと、美葉の上に覆いかぶさり、シートを倒した。
「やめて!! 嫌ッ! まだ明るいじゃないの、いい加減にして! それに車の中は嫌いだって・・・」
「おまえが言うことを聞かないからだ」
「まだそんなことを言っているの? バカよ、あんた。私は諦めない。きっとこの状況から脱してやるから!」
「強がるんじゃない!! おまえは僕から逃げられないんだ。籠の鳥なんだよ」
 結城は美葉の上に乗ったまま、彼女の両手を掴んでシートに押し付け抵抗できなくすると、そのまま彼女と唇を合わせた。彼はしばらく美葉の口をむさぼると、そのまま彼女の首筋に唇を這わせ、空いた左手でタンクトップをめくりあげようとした。
「嫌ッ! 嫌だってば、もうやめて!! 嫌ったら嫌ぁっ!!」
 美葉はなんとか抵抗しようと足をばたつかせた。その時、ふと時計が目に留まった。時刻は6時になろうとしていた。
(そういえばさっき・・・)
 美葉は常に結城に見張られ、自分で色々な情報を得ることが出来ない状況に置かれているが、さっきのアナウンスの内容から、結城のおこしたテロ関連についての放送だろうと考えた。美葉は結城に抵抗しながらも、なんとかしてカーステレオのスイッチを入れようと足を伸ばした。何度も失敗したが、何とかスイッチを入れることが出来た。ついでにヴォリュームも上げてやる。スピーカーから男の声が車内に響きわたった。
「・・・県内に水面下で流行しつつある、この新型感染症ですが・・・」
 美葉の思惑通りに結城の動きがピタリと止まり、弾かれたように起き上がるとラジオの声に耳を傾けた。美葉は、乱れた髪と衣服を直しながら起き上がった。その顔には冷ややかな笑みが浮かんでいた。
「公表・・・しやがった・・・」
 と、結城は半ば呆然としてつぶやいた。よもや今の段階で公表するとは思ってもいなかったのだ。そう、現在の病気の広がりや死者数からして、今公表すると言うことは経済的リスクが大きすぎる、それ故に行政側が市民に対しての警告をためらい、その間に広がったウイルスがある時期爆発的に感染者を増やすということが、彼らの展開予測であったからだ。
「くくっ、くっくっ・・・、あはっ、あははは・・・」
 結城の狼狽振りを見て、いきなり美葉が哄笑した。
「黙れ! 何が可笑しい!!」
 結城は美葉をにらみつけて怒鳴った。美葉は高笑いを止めると今度はクスクス笑いながら答えた。
「ああ可笑しい。あんた、しばらくは公表できないって高を括っていたよね。相手を甘く見すぎてたようね。あっちにはアレクが・・・バイオテロ対策の専門家がついてるんだ。テロのことは触れていないけど、明らかにこれは、あんた達に対する宣戦布告だよ」
 そう言うと、美葉はまた笑い出した。
「くっくっくっ、大笑いだわ。あーっはっはっは。あははは・・・」
「笑うのをやめろ!」
 結城がまた怒鳴る。
「ははは、だって、だって可笑しい・・・ははははは」
「やめろ―――――」
 狂ったように笑い続ける美葉に耐えかねたのか、結城はとっさに美葉の首を両手で掴み、絞めた。美葉の笑いが途切れた。結城の両手を掴み両目が大きく見開かれて、苦しそうに口をぱくぱくとさせた。結城の手の甲に美葉の爪が突き刺さったが、不意にその手の力が抜けて、ぱたっとシートに落ちた。
「美葉?」
 結城は驚いて両手を離した。
「ああ、僕は何てことを・・・!!」
 結城は美葉を抱きしめながら言った。力の抜けた美葉の両手はもう抗うことなく、強く抱きしめるにつれ彼女の首が反り返った。

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5.告知 (5)ルビコン

 時は少し戻り、こちらは秋山家に訪問中のギルフォードたちである。彼らは聡子の頼みを受けて、知事の告知が終わるまで秋山家に留まることにした。
「もうそろそろだよね。ねえ、どのチャンネルがいいかな?」
 と、由利子がなんとなくワクワクしながら言った。ギルフォードが少し笑って答えた。
「多分どれを見ても同じ内容だと思いますが・・・」
「じゃ、ウザいCMがないNHKかなあ」
「それより、聡子様が見たい局にするべきですわ」
 紗弥が至極最もなことを言った。
「いえ、私はどこでもいいんですよ」
 聡子が微笑みながら言った。
「日ごろでも、夜7時までは特に決まった番組はないんですの」
「じゃ、無難にNHKに決めますか」
 と、ギルフォード。
「とりあえず、はやくテレビをつけましょ。もうすぐ6時よ」
 由利子が待ちきれないと言う様子で言った。紗弥が「失礼します」と、リモコンを手にしてテレビの電源を入れた。画面に浮き上がった映像と曲から、紗弥が少し悔しそうに言った。
「あ、笑点のエンディング・・・。しまった、すっかり忘れてましたわ」
「紗弥さん、笑点好きなんだ。意外~」
 由利子がちょっとした驚きと共に親近感を持って言ったが、紗弥はちょっぴり恥ずかしそうにして言った。
「とりあえず、NHKに変えますわね」
 チャンネルは変わったが、時間が少し早く、まだ先の番組が放映されていた。ギルフォードは画面を一瞥すると、聡子に向かって言った。
「まだちょっと時間がありそうですね。あの、ちょっと気になることがあったので、お聞きしていいですか?」
「ええ、もちろんですわ」
 と、聡子は快く答えた。
「ノブユキさんのことです。あの、彼が自殺をしようとする前に、変わったことはありませんでしたか?」
「変わったことですか?」
 聡子はそういうと、少しの間考えてから言った。
「そう言えば・・・、信之が先生からの来られると言う電話を受けた後、しばらくしてまた電話が何本か入って・・・、その頃から様子がちょっと変だったような・・・。でも、信之は最近ずっと不安定でこういうことはよくあったので、私たちも慣れっこになってしまって、特に気に留めようと思わなかったんです。私たちの不注意です」
「電話の内容は・・・」
「わからないです」
「そうですか・・・」
 ギルフォードは腕を組みながら言った。
「あまりにもタイミングが良すぎるんです。信之さんは、まるで僕らの来訪に合わせたように首を吊った・・・」
「ってことは、誰かが私たちの行動を監視している?」
 と、由利子が眉をひそめながら訊いた。
「わかりません。でも、ノブユキさんが何者かに操られた可能性はあります。彼のような精神状態の人を追い込むのは比較的容易いですから」
 それを聞いた聡子は、第三者の存在に気付き怯えた表情を浮かべて言った。
「そんな・・・。じゃあ、信之はいったい誰が何のために・・・?」
「それもわかりません。ただの余興のつもりだった可能性すらあります。誰がというのも今はハッキリとは言えません。というか、よくわかっていないのです。とにかく、その電話がどこからかかってきたのかを、警察に調べてもらわなければなりませんね」
「あ、皆さん、始まりましたわよ」
 紗弥が、話に集中していた三人に向けて言った。

 画面に森の内が映った。彼は、手元に沢山の資料を置き、それをせわしく確認していたが、映っているのに気がつくと、正面を向いて礼をして言った。
「こんばんは。F県知事の森の内です。今日私は、F県とその周辺の方々に、重要なことをお伝えすることになりました。みなさん、今から私が説明することをよく聞いてください。そして、冷静に対処してください。集まられた記者の方々からの質問には後でお答えする時間をとってありますので、それまでは静かに私の説明を聞いてください。いいですか? ・・・。では、本題に入ります」 

「なかなか落ち着いてますね、いいぞ」
 心配そうに画面を見ていたギルフォードが、安心したように言った。

 豊島恵実子が夕飯の支度をしていると、居間の方からまだ幼い息子の輝海(あきみ)の呼ぶ声がした。
「おかあさん、おかあさん」
「なんね~?」
 恵実子は大声で答えた。
「おっかあさん、来て~。テレビでなんか言うとぉよ」
「何てぇ?」
「だいじな話だから、できるだけ聞いてって~」
「大事な話ィ? テレビでェ?」
 そう言ったあと、ハタと思い出した。そういや緊急回覧で、今日夕方6時に知事からの重要な話があるから見ろ、とかいうお知らせがまわって来ていたな・・・。
「わかった、すぐ行くけん、ちょっと待っとって」
 恵実子は料理の下準備にキリをつけると、手を洗って居間に急いだ。
 居間では息子が例の如くテレビの前およそ2mのところでクッションを敷き、座っていた。恵実子もその横に座った。輝海は恵実子の方を向くと、深刻そうな表情で言った。
「おかあさん、シンガタカンセンショウだって」
「新型、何?」
「うつる病気だって」
「え? 伝染病? なんで?・・・」
 恵実子は驚いてテレビ画面を見た。

「・・・経緯をご説明いたします。
 先月28日にC川で発見された遺体と、31日にK市のA公園で発見された4遺体を調べた結果、なんらかの感染症で死亡した可能性があるということがわかりました。その後、彼らから感染したらしい少年とその少年から感染したと思われる女性2名が死亡しました。その他わかっている死亡者は6名で、合計14名、うち1名に関しては、身元も感染経路も全くわかっておりません」
 すでに14名の死者が出ていると聞いて、記者達はざわついた。
「現在発症中の患者は、感染症対策センターに1名、感染発症の可能性を考慮の上、隔離されてる方が6名、以上が現在確認されている感染状況です。他にも感染者がいる可能性については、現在調査中です」
「すみません、知事、新型の感染症が発生し、そのせいで14人の死者が出ているっていうのは、間違いないんですか?」
 と、記者の一人が待ちきれずに質問をした。それを口火に記者達が次々と質問を始めた。しかし、森の内は無言のまま、両手を前に出し掌を下に向けて静まるようにジェスチャーをした。ざわつきが小さくなったところで森の内が言った。
「先に申し上げたとおり、質疑応答の時間はとってあります。そのためにも、今は静かに説明をお聞きください。それが出来ない方には、ここから出ていただきましょう」
 森の内の静かだが毅然とした態度に、記者達のざわめきが収まった。森の内は周囲が静かになったのを見計らって、話を続けた。

「それでは、まず、この感染症の病原体についてお話します。
 調査の結果、ウイルスによる感染だとまではわかっていますが、抗体反応を調べても既存のウイルスとはまったく合致いたしませんでした。未知のウイルスによる、新型感染症の可能性が高いと思われます。ウイルスの特定については、現在各機関の協力を得て、総力を挙げ調査しております。しかしながら、未知のウイルスということで、いささか特定に時間がかかると思われます。
 そういう状態ですので、私たちが今のところ得ているこの感染症の情報は、まだまだ充分とはいえませんが、現在わかっている限りのことをお伝えします。
 それでは、このウイルスの感染について。
 まず、現在の感染の広がりの緩慢さから、このウイルスが空気感染をする可能性はほぼないと思われます。ただし、体液等の飛沫からの感染は否定できていません。しかしながら、感染者との濃厚な接触による感染が殆どですので、普通に生活している限りでは感染リスクはかなり小さいと思われます。このウイルスにおける濃厚な接触というのは、まず性行為、それから注射器の使い廻し、傷口に感染者の体液が触れる、感染者の体液が付着した手で目や粘膜部分を触る等があります。体液と言うのは、血液・精液・汗・涙等ですが、特に危険なのが血液や精液です。したがって母乳にも感染の可能性があります。なお、死亡者の内2名が傷口に血液が触れる事によって感染したことが確認されています。
 媒介生物ですが、これに関しては少し厄介です。現在わかっている限りですが、それはゴキブリです。さらに、彼らはこの感染症で死んだ遺体の匂いを好むらしく、それによって食害された遺体が何体か発見されております。さらに、その周辺には大型化したゴキブリも確認されておりますが、因果関係はまだわかっていません。我々はそれを『メガローチ』と仮称いたしております・・・」

努めて冷静を装っていたが、ギルフォードはテレビから嫌な名詞が連発されるたびに、顔をしかめていた。

「次に、感染した時の症状についてです。これも、まだ情報が少ないですが、わかっていることをお伝えします。
 感染後1日から1週間の・・・或いはもっと長い可能性もありますが、潜伏期間を経て、発症します。最初の症状は倦怠感と発熱です。それには目の痛みや関節痛も伴い、39度から40度のかなり高い熱が出ます。このあたりは他のウイルス感染症と同じですが、この感染症に限った特徴として、ある程度病状が進むと周囲が赤く見えるようになるということがあります。そのため、発症者は朝焼けあるいは夕焼けと勘違いをすることもあります。これは、ウイルスが脳になんらかの疾患を起こしているからだと思われます。問題は、その症状が出た時に、発作的に自殺行為を行う、或いは自らだけでなく他人も傷つけてしまうような行動に出ることです。また、この時が、周囲の感染リスクが最も高くなる時で、最も注意が必要です。
 なお、これらの症状はいくつかの症例から得た情報からまとめたものです。
 次は、皆さんからの情報提供のお願いです。
 これらに思い当たる方は、直ちに対策本部あるいは最寄の保健所の方にご連絡願います。対策本部への連絡先については、後ほどお伝えいたします。
 ひとつは、6月4日朝8時頃、NN鉄道B駅そばの踏み切りでの人身事故が発生時に、現場に居合わされた方の中で体調を崩された方、或いは急病で死亡された方のご家族、或いはそういう方をご存知の方」
 森の内の説明に沿って、画面上部にテロップが示された。
「もうひとつは今から特徴をあげる女性と、6月6日から6月10日の昼頃までの間に、何らかの接触を持たれた方。特にその後体調を崩された方、あるいは急病で亡くなった方の家族、或いはそういう方をご存知の方。
 女性の特徴を言います。年齢33歳、身長約160センチで痩せ型。髪は少しブラウンに染めており、肩より若干短めの長さでボブにレイヤーを入れている・・・って、これじゃ僕みたいなおじさんにはさっぱりわからないな。・・・えっと、ここにイラストがありますので参考にしてください」
 森の内はそういうとパネルを出して、演台の上に提示した。それは、美千代の写真を基にして描かれたものだったが、イラストのせいか遺族への配慮からか、若干のデフォルメが施されていた。 

「美夜さん・・・?!」
 居間のソファに座って、コーヒーを飲みながら何となくテレビを見ていた都築は、提示されたイラストを見て驚いてソファから腰を浮かせた。その時、背後から声がした。
「おや、兄さん、生きていたんだ」
「翔悟(しょうご)!」
 振り返った都築は、声の主を見てもう一度驚いた。
「勝手に入って来たのか」
「僕の家だもの。入るも出るも自由のはずでしょ?」
「十年近く帰ってこなかっただろう」
「でも、僕が帰っても良いように鍵を変えずにいてくれたんですよね、守里生(もりお)兄さん」
 と、翔悟は微笑みながら言った。都築は、困惑と喜びの混じった表情で答えた。
「ああ、私たちは兄弟だもの。母親は違ってもね。お帰り、祥護」
「まあすぐに帰るけれど。とりあえず、一緒にこれを見ましょう」
 翔悟はテレビを指差しながら言うと、都築の隣に座った。

「・・・6月13日午後にC野市O町の県道の横で発見された、身元不明の遺体について心当たりのある方。損傷が激しかったので、特徴が曖昧ですが、性別は男性で身長約170~175cm、年齢18~60歳くらい・・・おそらく着ている物から20代ではないかと思われます。発見当時彼が身につけていたものの写真とイラストです」
 そういうと、森の内はまたパネルを出した。そこには彼の持ち物である時計やネックレス等のアクセサリの写真と、着ていた物のイラストが描かれていた。

「それから、今から指定する地域でゴキブリに咬まれた後体調を崩された方、或いは急病で亡くなられた方のご家族、或いはそういう方をご存知の方。地域は、K市MY町のC川付近、同じくK市の祭木公園周辺、それからF市S区紗池、同じくF市W区D墓地周辺、そして、C野市O町県道E線付近、以上です。
 この地域と周辺はもちろんのこと、それ以外の地域でも、ゴキブリ対策を怠らないようにしてください」
 森の内はそこまで説明すると、一旦、間を置いて言った。
「皆さん、この説明を聞いて必要以上に恐れたりパニックに陥ったりせず、冷静に対処してください。
 この告知は皆さんの不安を煽るものではなく、ウイルスの拡大を防ぐためのものです。普段の生活をしていれば、まず問題ありません。ただし、不特定多数を相手にするような売春・買春や、麻薬や覚せい剤を打つ注射の使いまわし等の不法行為が最も感染を広めると思ってください。それから、これはウイルスによる感染症ですので、抗生物質は全く効きません。不安に駆られて不要に服用することは止めてください。無意味どころか耐性菌の発生する要因ともなります。抗生剤は病気の予防にはならないということを忘れないでください。抗ウイルス薬もどこまで効くか全くわかっていません。インフルエンザではありませんからタミフルやリレンザ等は効きませんし当然予防にもなりません。また、これらもむやみに服用すると耐性ウイルス発生の要因となります。ネット等を通じて購入し服用するような行為は絶対にしないでください。素人判断はせずに、感染の心配がある方は必ず対策本部あるいは最寄の保健所にご相談ください」

 森の内の声が響く車内で、結城は美葉の身体を抱きしめて形振り構わず泣いていた。と、不意に美葉が身じろぎをして息を吸い込むと、激しく咳き込んだ。仰向けに反り返ったためにちょうど気道を確保したような状態になったのだ。結城がすぐに手を離したことも幸運の要因であった。
「美葉・・・!」
 結城が驚きと喜びの混ざった声で彼女の名を呼んだ。美葉はうっすらと目を開けてつぶやいた。
「私・・・生きて・・・る・・・の?」
 それだけ言うと、そのまま美葉は気を失った。
「美葉・・・、良かった・・・」
 結城は再び美葉を抱きしめて泣いた。美葉の胸からは、トクントクンという力強い心音が聞こえた。

 知事の重大発表は予定時間を大幅に過ぎ、小休憩時間が設けられた。画面には、ざわめく会場の様子がそのまま中継され、上部には重要事項がテロップで順に流れている。
その間都築は弟に尋ねた。
「ところで、おまえが継いだ教団のほうは上手くいっているのかい?」
「ええ、上々ですよ。信者もずいぶんと増えました」
 長兄、いや、翔悟はにこっと笑って言った。
「そうか、安心したよ」
「兄さんの母親が宗教を嫌って、兄さんを連れて父と別れなかったら、兄さんが継いでたかも知れないんですよね」
「私は教団には興味ないし、父も私にはそういう期待はしていなかった。おまえには私と違って、教主に必要なオーラというか、カリスマ性があるからね」
「まあ、この話は止めましょう。ところで兄さん」
 翔悟は口調を変えて言った。
「せっかく僕が兄さん好みの女性と会わせてあげたのに、ものにしなかったんだね」
「ものにするっておまえ、いつの間にそんな物言いをするようになったんだい? ・・・おまえがあの時、私を呼び出した癖に姿を見せなかったのは、美夜さんに会わせるつもりだったからか。彼女は体調が思わしくなかった。高熱に苦しむ女性に無礼を働くようなことが出来るものか」
「相変わらず高邁な人だねえ。色気ムンムン・・・って、これ、死語かな?・・・の美女だったから、5年間もやもめ暮らしの兄さんには目の毒だったでしょ?」
「翔悟!!」
 都築は厳しい声で弟の名を呼んだ。祥護は肩をすくめると言った。
「で、彼女のことを知らせるの?」
「もちろんだとも」
 都築は答えた。すると祥護は兄をじっと見据えながら言った。
「そのために弟が困っても?」
「おまえ、何を企んでいる?」
 都築は訝しげに弟を見た。
「さっき、私が生きていることにガッカリした様なことを言いながらここに来たな。美夜さんは感染していたのか? まさか、おまえ、私を病気で殺そうと・・・?」
「僕が彼女の感染を知るはずないでしょ。でも、兄さんが感染して死んでしまったならそれだけの男だってことだよ。ま、いつか試してみたかったけどね。兄さんが本当に高邁な人間かを」
「おまえ・・・!!」
 都築は鼻白んで言った。
「まさか、今、知事が言っているウイルスを・・・」
「いやだなあ。僕がそんなことをするわけないでしょう。仮にも僕の使命は衆生を救うことなんですから」
 翔悟はさっき言ったことの舌の根も乾かぬうちに、都築に向かって邪気のない笑顔でいけしゃあしゃあと言った。都築は、そんな弟を目の前にして、驚愕と恐怖の入り混じった眼をして言った。
「お前と言うヤツは・・・」
「あ、ほら、兄さん、質疑応答が始まりましたよ」
 翔悟は、再びテレビを指して言った。

「さて、記者の皆さん、これからあなた方の質問を受け付けます。これを見ている一般の方々の参考になるような、的確な質問をお願いしますよ。医学的な質問については、高柳進先生にお答えいただきます。まずは先生のご挨拶から」
 森の内に言われて、高柳が壇上に立った。
「感染症対策センター、略称IMCのセンター長、高柳です」
 彼は簡単に役職だけ告げると、一礼して一歩下がり知事と並んだ。

「IMC! ここのことだったんだわ!!」
 極美が、喉に引っかかった骨が取れたような気持ちで言った。

「では、質問のある方は挙手をお願いします」
 森の内がそういうや否や、記者達の大半が手を上げた。森の内は少し驚いて言った。
「思ったよりはるかに多いですね・・・。では、一番早かった、『めんたい放送』の方」
 森の内の指名したほうにマイクがまわった。
 記者A。
「はい。さっき14人がすでに死亡されているとおっしゃってましたが、それは、ウイルスの仕業に間違いないのでしょうか。また、これからも死者は増えるのでしょうか。だとしたらその予想人数等を教えてください」
 高柳がまた一歩前に出て答えた。
「犠牲者の方たちが同じウイルス疾患で亡くなられたことは、ほぼ間違いないと思われます。ただ、これからの死亡人数予測は出来ません。ほとんど無いかもしれないし、百人単位になるかもしれない。現在ウイルスの正体が全く不明であるため、予測でしかお答えできないことをご了承ください。ただし、トリ由来の新型インフルエンザのように何千人何万人という規模にはならないと思います。また、この告知は感染を封じ込めるためだのものだと思ってください」
 そういうと、高柳は一歩下がった。質問は各記者から次々と出、森の内と高柳は回答に追われた。
 記者B。
「そのウイルスに感染するリスクは? 年齢性別職業では?」
 高柳。
「おそらくウイルスに暴露された場合の感染リスクは、平等だと思われます」
 記者C。
「ゴキブリやメガローチについてもう少し詳しく。対策はどうすればいいのか」
 森の内。
「ゴキブリ対策については、普段と同じでいいと思います。ただ、素手で触るのは止めてください。リスクはさっき申し上げた地域が高いですが、念のため他の地域でも気をつけてください。また、駆除業者の方は防御対策を強化するようお願いします。メガローチについては目撃例といくつかの写真だけで、まだ捕獲されていません。現在捕獲を試みているところです」
 記者C。
「その写真は見ることができますか?」
 森の内。
「はい、お見せは出来ますが、人との比較対象にしかならない程度の写真です。メガローチの全体写真もありますが、単なるゴキブリの拡大写真のようなもので、ちょっと電波に乗せてお見せするには問題がありますから・・・。いいですか、出しますよ。嫌いな方はしばらく画面を見ないでくださいね1・2・3で出しますからね、はい、いいですか、出しますよ~、はいっ! いち、にっ、さんっ!」
 という長い前フリのあと、森の内は警官が蟲を捕獲しようとしているシーンを撮ったパネル写真を出した。会場からどよめきが上がった。

 写真を見て、輝海が母の方を見ながら言った。
「おかあさん、あれ、大きすぎるよね。メスのヘラクレスやないと?」
「違うよ。あんたね、見つけてもぜ~~~~~ったいに触ったり捕まえたりせんでよ。生き物になら、何でも興味を持つんだから、あんたは」
 恵実子は不安そうに息子を見ながら言った。気がつくと彼女は無意識に幼い息子の肩を抱いていた。

「あ、センター長室で見せてもらった写真だ!」
 由利子が即、言った。
「よくペットとして飼われているマダガスカル・ローチじゃないんですの?」
と、紗弥。ギルフォードは画面から眼を背けて言った。
「違いますよ。でも、僕にはあんなものをペットにしたがる神経がワカリマセン!」
「でも、知事ってば、きっとアレクのためにあんな注意をしたんだよね」
「ずいぶん長い前フリでしたものね」
「昔の仕事の癖じゃないんですか?」
 と、ギルフォードは不機嫌そうに言った。
「まあ、先生もあの虫がお嫌いなんですの?」
 聡子がくすっと小さく笑いながら言った。ギルフォードは肩をすくめながら答えた。
「ええ。男の癖にふがいないですが・・・」
「そんな、苦手なものに性別年齢はありませんわ。私もあれは生理的にダメですの。死後、そんなものにたかられてしまった母のことを思うと、恐ろしさと悔しさでいっぱいになります。せめて、誰かが同居していたら、それだけでも防げたのに・・・。私たちは親不孝者です」
 聡子はそういうとまた、目頭を押さえた。
「ご自分を責めないで。誰にでもどうしようもないことがあるんです。でも、これはご遺族にとっては辛い告知ですね。だけどこれからのことを考えるなら、見ておいた方がいいです。大丈夫、僕たちがついてますよ」
 ギルフォードは聡子の背に手を置いて優しく言った。紗弥がかすかだが困ったような顔でそれを見ていた。付き合っているうちに、なんだか由利子は紗弥の微妙な表情の移り変わりがわかってきたような気がした。

「おっと、こりゃあでらすごいがね。テレQ(テレ東の九州局)まで、やっとるよ。地球最後の日が来てもアニメ流しとるだろうって言われとる局なんだがね」
 帰路につきながら、車のラジオでウイルスに関する告知を聞きつつ、携帯電話のワンセグでテレビ放映をチェックしていたジュリアスが言った。
「アレクも君も、ホント、妙なことに詳しいなあ」葛西が運転をしながら呆れて言った。「ということは、これをやってないのはNHKの教育テレビだけなんだね」
「まあ、昭和天皇が崩御された時、唯一通常通りの番組を流しとった局だでね」
「なんでそんなことまで知ってるんだよ」
「そりゃあ、その頃おれが日本にいたからに決まっとるがね」
「あ、そーゆーことか・・・・。あ、今の捕獲を試みているってとこ、僕たちのことだよね」
「今日は、結局小物ばかりだったけどな」
「調子に乗ってサンプルを採りすぎたので、結局半分ほどにまた分別したし」
「明日、ちゃんとホイホイにかかっとるとええがねえ」
「そうだね。考えたらちょっと気持ち悪いけどね」
 葛西が若干引きつった笑顔で言った。

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