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5.告知 (1)碧珠善心教会

20XX年6月16日(日)

 由利子は床についたまま、まんじりとも出来ずにいた。
 今日は久しぶりに早めに寝たはずだった。ここ数日色々ありすぎて、特に二晩立て続けに起きた事件で寝不足、眠りたいのは山々だった。ギルフォードたちからも早く寝るように釘を刺されていた。にもかかわらず、床についてから一睡も出来ない。今日・・・正確には昨日だが・・・、多美山の死によって、この疫病の恐ろしさを目の当たりにし、その光景が脳裏から消えず、目を閉じるのも辛い状態に陥っていた。死に顔すら鮮明に記憶する・・・、人の顔を忘れないという彼女の能力は、時にこういう場合厄介なのである。漠然とした恐怖を感じ灯りを消すことが出来ず、目を閉じれば多美山が死んだことの悲しみと、その死に様の恐怖が交互に襲ってくる。
(いかん、このままじゃ一睡も出来ない)
由利子は、むっくりと起き上がると、ベッドサイドのティッシュケースに手を伸ばし、涙を拭いてちーんと鼻をかんだ。涙と鼻水で溺れそうになっていたが、これで少しスッキリして、改めて横になった。気分が変わったところで頭の中も切り替え、由利子はセンターから出てからのことを思い出すことにした。

 マンションの部屋の前までは、葛西が送り届けてくれた。気を利かせたジュリアスが、二人で行くように勧めたのである。
「でゃ~じょ~ぶ、おれらは車の中でおとなしく待っとるでよ。じゃあ、由利子、またな」
ジュリアスは、助手席の窓から人好きのする笑顔で手を振りながら言った。由利子も笑顔で答えた。
「ええ、今日はありがとう。お疲れ様。・・・そうそう、待ってる間、ちゃんと人目をはばかってね」
「あははは・・・」
ジュリアスが笑って誤魔化した。横でギルフォードがバツの悪そうな顔をしている。しかし、いまいち意味のわかっていない葛西は曖昧な笑顔を浮かべ、
「じゃ、由利子さん、行きましょう」
と、マンションに向かって歩き出した。
 道すがら、葛西がボソリと言った。
「僕、こんなに辛いとは正直思いませんでした・・・」
由利子はそっと彼の方を見た。
「アレクの様子から、覚悟はしていたつもりなんです。でも、いざとなったら認めたくなくて・・・。そしたら、今度は何かしていないと居られなくなって・・・、結果、みんなに迷惑をかけたんだって思うと、恥ずかしいです」
由利子は出来るだけ優しい声で言った。
「気にしなさんな。大好きな人の死を目前にして、冷静でいられるヤツなんかそうそういないよ。それにちゃんと収穫があったじゃない」
「そう言ってもらえると、少しは気が楽です」
葛西は悲しい目をして笑った。
「僕、小さい時に父を亡くしましたが、小さすぎて死と言うものの悲しさは感じてなかったと思います。父不在の寂しさはありましたけどね。それに、動物も飼ったことがなかったので、実際に身近に死を経験したのは・・・、初めてで・・・。ホントに多美さん、居なくなっちゃったんですね。もう会えないですよね・・・。死に顔も見たのに、あんなに泣いたのに、今は全然ピンと来ないんですよ。明日センターに行ったら、まだあの病室に多美さんが居るような・・・・。なのに、胸のどこかにぽっかり穴が開いたようで、とても悲しくて寂しくて・・・、寒いんです」
そういうと、葛西は深いため息をついた。由利子は2・3歩早めに歩くと立ち止まって葛西の前に立ち、ちょっとだけ微笑んで言った。
「悲しくてあたりまえだよ。愛する人・・・ってヘンな意味じゃないよ、が、亡くなったんやから心に穴が空いたって当然やろ? でもね、いつかその穴にはその人とのいろんな思い出が、ギュウって詰まって埋まっていくんだよ」
「心に空いた穴を思い出が埋める・・・?」
「そう、どんどん埋まっていくよ。そりゃあ、思いだした時に悲しくて寂しいのは一緒だろうけど、身を切るような寒さは、いつかなくなると思うよ」
「そうでしょうか・・・」
「そうだよ。多美山さんは亡くなったけど、葛西君の思い出の中ではずっと一緒に生きてるんだ。葛西君が生きている限りず~~~~っと」
「ずっと・・・」
「少しの間しかお会いできなかったけど、私も多美山さんのことはずっと忘れないと思うよ。アレクだってそうだと思う。祐一君たちもセンターのスタッフの人たちも。でも、思い出の数は葛西君がダントツだよね」
「思い出・・・。沢山あります、たくさん・・・」
葛西はそうつぶやくと、また両目に涙がうっすらと浮かんできた。
「どした? また泣きそう?」
「いえ、大丈夫です。それに、今思い出した分で、すこし穴が埋まったような気がします」
葛西は涙目のまま笑いながら言った。由利子はニッと笑い、胸をドンと叩いて言った。
「泣きたくなったらいつでもこの胸を貸すよ。大胸筋でよかったら」
「頼もしい・・・っていうか、根に持つなあ・・・」
葛西は少し困ったように笑うと、ハンカチを取り出し眼鏡を外して涙を拭いた。次いで、涙で曇った眼鏡を拭きながら言った。
「不便だなあ。またコンタクトに戻そうかな」
「だめ! 葛西君はそっちの方がいい!」
「え?」
葛西が嬉しそうに聞き返した。
「いやその・・・、まあ、いいじゃん。さっ、こんなトコで沈没してないで、早く帰ろっと」
由利子は若干顔が赤くなるのを誤魔化して、さっさと歩き始めた。

「やだな。私って眼鏡萌えだったのかな? そういえば、アレクもワイルドヴァージョンより教授眼鏡ヴァージョンのほうが好きかも・・・って、うひゃあ~」
由利子は意外な自分を発見して、なんだか恥ずかしくなって布団にもぐった。今まで横で寝ていたにゃにゃ子がそれを見て身体を大儀そうに起こし、のそのそと布団の山を登ると香箱を組んで寝た。その後にはるさめが負けじと続いて乗ってきた。
「だぁぁぁあああ~、重い! さらに暑~い!!」
由利子は布団を跳ね除けて起きた。二匹の猫は足元の方に転げ落ちてひっくり返ったまま、ニャアと文句を言った。
「おまえらは、いいよなあ・・・」
由利子は二匹を抱き上げると、ぎゅっと抱きしめた。あまりにも強く抱きしめたために、猫たちは苦しくなったのか、じたばた暴れた。それに構わず、由利子は彼女らを抱きしめたままうつむいてじっとしていた。生き物の暖かさが伝わったせいで、収まっていた涙が復活したようだった。二・三度嗚咽をもらすと、とうとう由利子は猫を抱いたまま声を上げて泣き出した。
 

 ギルフォードは連日の事件のせいで滞っていた仕事を片付けるために、早めに研究室に入っていた。ジュリアスが別件で出かけるので、一緒にマンションを出たということもある。
 しばらくすると、紗弥がやってきた。ギルフォードは少し驚いて言った。
「サヤさん、来たんですか。今日は日曜だからゆっくり休んでいればいいのに。今日は僕以外誰も来ないですし」
「いえ、そうはいきませんわ。それに、教授一人だといつ脱線するかわかりませんもの。・・・一人って、あら? そういえばジュリアスは?」
「ジュンと一緒に昆虫採集ですよ。例の川で」
「昆虫採集? 教授とではなく葛西さんとですか?」
「ウイルス・ハンターの重要な仕事の一環です。あの虫の巨大化したやつを探すんだそうですよ」
「まあ・・・。じゃあ、確かに教授は同席できませんわね」
紗弥は、納得して言った。
「まあ、そういうことです。さて、ちゃっちゃと今日中に片付けてしまいましょうかね」
ギルフォードが再び作業に戻って一時間ほど経ったころ、彼の携帯電話に着信が入り例の笑い声のワルツが研究室に響いた。
「ああ、タカヤナギ先生からです。このぶんじゃ、このやりかけの仕事がライフワークになりそうです」
ギルフォードは電話を手に取りながら、肩をすくめて言った。
 高柳の電話は、昨夜のカルト教団におこった悲劇についてだった。すっかり怖気づいた信者たちが、夜明けになってからようやく警察に連絡し、発覚したのである。
「この教団ってのが、昨日連絡したサワムラ・アンナ関係のヤツなんですね」
「そういうことだ。連中が墓に向かったのも、警察と保健所から遺体の調査依頼があり、それを阻止しようと集合したらしい。だが墓から音がしたので、爺さんが生き返ったと勘違いして喜んで掘り返したということだ」
「でも音の主はおジイさんではなかったと」
「まあ、そういうことだね」
「で、食われたのはおジイさんの方だけだったということですか?」
ギルフォードは念を押して訊いた。
「そうらしい。警察が隣の孫の墓も掘り返してみたが、まあ、死後数日経ってたんでそれなりに傷んではいたが、食害された形跡はなかったそうだ」
「偶然じゃなさそうですね。両者の遺体の処置のされ方の違いかもしれません。それが解明出来れば、遺体をあの虫たちから保護する方法がわかるでしょう。で、遺体は?」
「教祖を含めて3体、センターの方に移送中だ」
「感染してないだろうとは言え、一晩感染遺体と同衾していた教祖の遺体もというのは、当然の処置でしょうけど、信者達が抵抗したんじゃないですか?」
「同衾って、君・・・」高柳は少し笑って言った。「まあ、確かに信者からかなりの抵抗はあったらしいがね」
「自分らがほっぽっといて、何をか言わんやですよ」
「ま、そこら辺、妙な罪悪感とかあるのかもしれんな。いずれにしろ、教祖を失った新興宗教の末路は知れているだろうがね」
「で、信者たちの感染は?」
「遺体には直接触れていないらしいし、蟲に咬まれた人も居ないようなので、とりあえず自宅で様子をみてもらって、発熱等異常が現れた場合保健所に連絡するということで手を打った」
「手を打った?」
ギルフォードは苦笑して言った。
「蟲がウロウロしていたかもしれない墓土を素手で触っているんです。出来たら全員隔離して様子を見たいくらいですが」
「それが一番安全な措置なのはわかるが、物理的にも人権的にも経済的にも無理だ。それに、あそこに居た二百人近い信者を収容すれば、それだけでここのキャパシティを凌駕しかねんだろう。下手をすると、肝心な発症者が受け入れられなくなるぞ。幸い、今のところ発症者とのなんらかの接触と、蟲の咬み傷以外からの感染はないようだからね」
「それはまだ、症例が少ないからでしょう?」
「もちろんだが、これが現状での限界だよ。まあ沢村杏奈のように、潜在する感染死者が他に何人いるか考えると悩ましい話だが」
「今日、知事からの公表があれば、またこの状況が変わるかも知れないですね」
「そういえば、知事がそれに関して、また君に頼みたいことがあるらしいぞ」
「何ですか、それは」
「秋山信之さん・・・雅之君をはじめ、家族をこのウイルス感染で三人失った人だね、彼に会って今日の公表について説明して欲しいとか言ってたな。まあ、君には正式に連絡が入るだろうが」
「僕は苦情処理係ですか・・・?」
ギルフォードはゲンナリして言った。
「この場合はお客様窓口・・・いや、お客様アピーザー(appeaser)かな?」
「どっかの化粧品会社のテレアポみたいな訳のわからん名称を勝手につけないでください」
ギルフォードが読点無しで一気にまくしたてた。高柳は自分のジョークが通じたせいか、なんとなく嬉しそうに言った。
「ま、そういうことだ。君も忙しいだろうが、この件に関わってしまったからには腹を括ってな。じゃ」
「腹はかなり前から括ってますケドね。今から過労死の心配をしたほうがいいかもしれ・・・」
ギルフォードはげっそりした様子で言ったが、彼が言い終わらないうちに電話が切れた。
「くっそ~~~、相変わらず箸にも棒にも引っかからないオッサンですよ」
ギルフォードは自分の電話に向かって言うと、再び肩をすくめ、それをGパンのポケットに収めた。
「ま、さすが歴戦の医師、立ち直りが早いのは尊敬に値しますケド」
「立ち直りって、あの方が落ち込んでいらしたのですか?」
「ええ。さすが昨日はショックだったらしくて、全くオヤジギャグの類が出なかったですからね」
「まあ、そうだったんですの」
「程度の差はあっても、昨日はあの場所にいた誰もがショックを受けたんじゃないかな・・・。サヤさん、君だってそうでしょ? ま、それはともかく、知事から野暮用が入るまでに、出来るだけ作業を先に進めておきましょう」
ギルフォードは、そういうとすぐにパソコンに向かいキーボードをせわしく打ち始め、紗弥はお茶を入れるために席を立った。
 

 さて、こちらはC川河川敷の葛西・ジュリアスの昆虫採集組である。彼らはNBC対策車で問題の河川敷に乗り込んだ。
 二人は荷物を一式抱えると、河川敷から堤防に駆け上がり、死んだホームレス、仮称Eの住居跡に立った。住居はすでに綺麗に取り払われ、強い消毒薬のにおいが漂っている。もっともNBC防護服を着ている彼らには、関係ない話ではあるが。
「う~ん、綺麗に草も刈り取られていますね」
葛西が周囲を見回しながら言った。
「そうだなも、これじゃ罠を仕掛けるには向かにゃあがね。場所を変えたほうが良さそうだわ」
「とりあえず、橋脚の隅に1個だけ仕掛けておきましょう」
葛西はそういいながら、荷物の中から元ネズミ駆除用だったメガローチ・ホイホイ(ジュリアス命名)を取り出した。組み立てながら葛西は言った。
「こんなものでアレが掛かるんでしょうか?」
「これはもともとゴキブリ駆除用に作られたものの応用だろ? それにたっぷりと誘因剤をつけとるから、近くにおればおびき寄せられてくるはずだて」
「誘引剤ってなんですか?」
葛西は何となく嫌な答えを予想しながら訊いた。
「そりゃ、おみゃあ、アレは感染者の遺体の匂いに引き寄せられるんだろ、ほたら、答えは決まっとるがね」
「うへえ、気持ち悪い・・・!」
葛西はつい、捕獲器を取り落としそうになった。
「匂いの元は、ちゃんとガンマ線照射で無毒化してあるから安全だがね」
「そりゃそうですよね」
葛西は納得しながら、捕獲器を所定の場所に置いた。その時、警察無線に呼ばれ、葛西は急いで応答した。
「え? ゴキブリの集団死現場? それは、F市内の河川敷で見られたのと同じものですか? ・・・わかりました、すぐに行きます」
葛西は無線を切ると、ジュリアスに伝えた。
「僕らと一緒に来た消毒班が、蟲が集団死しているのを見つけたそうです」
「よっしゃ、早く行こまい。ついでにその付近にも捕獲器を仕掛けるでよ」
二人は急いで荷物を抱えると、車の方に走った。

 昨日、葛西が署に帰ると、土曜の夜にも関わらず捜査一課の全員が出てきていて彼を待っていた。葛西が部屋に入ると、みんなが声をかけてきた。
「お疲れさん」
「葛西、大丈夫か? 気を落とすなよ」
「元気だせよ」
皆一様に何となく赤い目をしていた。多美山の机には、すでに花が飾ってあった。それを見て、またうるっとなりながら葛西は答えた。
「みんな、ありがとうございます。あの、多美さん、頑張ったけど・・・。短いけど凄まじい闘病でした。すみません、僕、まだこれ以上・・・」
葛西は、ぺこりと礼をして自分の席に着こうとした時、鈴木が戻ってきて葛西を姿を見つけるや言った。
「あ、葛西君、大変だったところ申し訳ないけど、ちょっと署長室に来てくれないか?」
 葛西が訝しく思いながら、鈴木と共に署長室に入ると、署長が立ち上がって葛西を迎えた。葛西はその前に立つと敬礼して言った。
「ただいま帰りました。色々勝手に動いてしまって申し訳ありません」
「まあ、本来なら減俸ものだが、事態が事態だけに特例として大目に見よう。それより、重篤な感染症と言うことで、多美山巡査部長のことを君だけに任せる結果となってしまった。負担をかけてすまなかったな」
「いえ・・・。多美山さんと僕はコンビを組んでましたから、当然のことです」
葛西は目を伏せながら言った。
「多美山君が亡くなったなんて、私もまだ信じられないんだよ。それもこんなに早く・・・。結局見舞いにも行けず、その上遺体にも対面できないということを知って、私も少なからずショックを受けているんだよ・・・。ところで、申し訳ないが・・・」
署長は、一旦そこで言葉を切ると、続けた。
「明日の日曜なんだが、君に対策室の仕事の一環として、媒介昆虫であるゴキブリの捕獲作業をして欲しいという辞令が来ているんだ。アメリカの専門家の先生が請け負って下さったんでその護衛も兼ねてだが」
「アメリカからの専門家・・・? ああ、ジュリアス・キング先生のことですね」
葛西はすぐに理解して答えた。
「もうお会いしたのかね」
「はい。今日、感対センターの方でお会いしました」
「心身共に疲れているだろう所を、申し訳ないのだけれど、ことが重要なだけに、少しでも早く少しでも多く犯人や病原体の正体についての手がかりを得なければならないんだ」
「了解しました。明日から媒介昆虫捕獲作業に取り掛かります。多美山巡査部長の仇を打つためにも!!」

(そう、これは多美さんの無念をかけた戦いだ) 
葛西は現場に向かいながら思った。
 連絡のあった場所付近に着くと、葛西とジュリアスはすぐに車を降り、現場に向かった。そこには防護服の警官が三人、その場所を囲うように立っていた。二人は走ってその場所に向かったが、問題の屍骸の山を見て無意識に手でマスク越しに口の辺りを覆おい、立ち止まった。
「これが・・・、調書に書いてあった・・・、うぷ」
「こんなよ~け虫が死んどるのは、初めて見てまったよ。でらおでれぇ~た、さすがにキモイわ」
二人は予想をはるかに超えた凄まじさに、言葉を失って一瞬唖然として立ち止まった。それらは、河川敷の草むらの中にあり、ぱっと見は誰かが草むらでゴミを燃やした跡のように見えた。
「葛西、とにかくこの中からサンプルとして数匹採取しよまい」
ジュリアスが言いながら、荷物から採集用のビンを取り出し始めた。
「え? ・・・あ、はいっ」
葛西は一瞬怯んだが、すぐにジュリアスに従った。
「CDCにいる、おれの兄貴にも送りたいから、多めに採取してちょうよ」
「うひゃあ、これはキッツイなあ・・・」
葛西は、目の前の黒光りする小山を見ながら早くも戦意喪失しそうになった。
 

 窪田華恵は、とある講演会の会場にいた。友人が、良い話が聞けるから、是非にと何度か誘いがあったのだが、なんとなく胡散臭そうだったので断っていたが、昨日、いそいそと家を出て行く夫を見、日ごろの鬱憤が爆発しそうになった。それで、半ば自暴自棄気味になっていたせいか、今回はあっさりと誘いに乗ってしまったのである。
 講演会は、県営の複合施設のイベントホールで開催されていた。実際、会場に入ってみると明るくて講演を聴きに来ている大勢の人たちも至って普通で、胡散臭さなど微塵も感じなかった。ただ、圧倒的に女性が多いのが気になった。横に座った友人が言った。
「あのね、この講演会の先生はね、『碧珠善心教会』というところの教主様なんだ」
「え? やっぱり宗教やったと?」
「ええ、まあそうなんやけど、そこら辺の妙なカルトとは全っ然違うとよ。お話がすごく良いし、何より教主様がね、若くてイケメンでかっこよくて、それにすっごくお優しい方でね」
「教主が若くてイケメンだから、そこら辺の宗教と違うって言っとぉみたいやね」
華恵はここに来たことを、早くも後悔していた。しかし、宗教関係なら変に席を立つのも拙いかもしれない。それで華恵は、とりあえず講演を聴くことにした。イケメンの教主とやらを見てみたいという興味もあった。
 しばらくすると、司会の女性が簡単な挨拶をし、教主の名を呼んだ。その瞬間割れるような拍手が起こり、教主が姿を現した。華恵の座っている位置からは、長身の背格好はわかったが遠くて生ではよく顔が見えなかった。しかし、スクリーンに映し出された顔を見ると、確かに目立って美男なのがわかった。表情も豊かで何より色気があり、しかも、その話し方は的確でわかりやすかった。彼は言った。
「私は『碧珠善心教会』という宗教法人を主催しています。『碧珠』とは青い球体である地球を意味します。善い心を持って地球と共存するということが教義の要です。ああ、ご安心下さい。宗教関係の勧誘等は一切いたしませんから」
そう言うと、教主は笑った。
「今日は、私があなた方に訴えたい事を聞いていただくため、ここにまいりました」
内容は、教主の説明にあったとおり、最近流行のエコに関係するものが主だった。それから転じて、人生に関する機微や色々な因縁話、特に、自分の業は結局自分に帰ってくるので、日ごろから精進に勤めようという、いかにも宗教家らしい話もあった。
 その話の途中で、教主は思い出したように会場に向かって言った。
「ああ、この中に重い悩みを抱えられた方がおられますね」
教主はいきなり席を立つと客席の方に降りてきた。会場からきゃあ~という歓声が上がった。教主はまっすぐ華恵のほうに向かって来て、彼女の前で立ち止まった。華恵は驚いて椅子から半立ちになった。
「ああ、あなたですね。とても悲しい波動を感じました。何かお悩みがあるのではないですか?」
華恵は驚いて言った。
「え? いえ、そんな恐れ多い・・・」
華恵は否定したが語尾が震えた。
「お名前は?」
教主に聞かれ、華恵は機械的に答えようとしたが、教主がそれを止めた。
「ああ、ちょっと待って・・・、言わないでください。・・・わかりました。はなえさん・・・窪田・・・華恵さんですね」
華恵は、初対面にも関わらず名前を完璧に当てられて仰天した。会場もざわめいたがそれらを全く気にせずに、教主は彼女の手を取って目を瞑った。
「ああ、ご主人ですね。あなたを悩ませ悲しませているのは」
華恵はさらに驚いて教主の顔を見た。会場は一瞬どよめいたが、すぐに水を打ったように静かになった。驚愕も度を越せば静寂を呼ぶものらしい。華恵は教主の顔を真正面から見てドキッとした。スクリーンで見たよりはるかに美しい男でしかも若い。どう見ても30から30代半ばである。
「ああ、ご主人は昨日から出かけられていて、そのせいでまたあなたは悲しい思いをしているんですね」
華恵は驚きを通り越して、無思考状態に陥っていた。
「お可愛そうに。ご主人はあなたにも心があることをお忘れでいらっしゃるようだ。よく今まで耐えてこられましたね」
教主は両手でそっと華恵の両手を包むように持って言った。華恵の頬に一筋の涙が伝った。
「華恵さん、人の行いは、それが良いことでも悪いことでも結局自分に還って来ます。良いことをすればよいことが、悪いことをすれば悪いことが。あなたのご主人もいつか身をもってそれを知るでしょう。華恵さん、あなたは良い道を歩んでください。そうすれば、きっと幸せになれます」
「教主さま・・・」
「教主と呼ぶのはお止めください。全ての我が信徒の父である教祖の教えを広める、全ての信徒の方々の兄として、長兄とお呼びください」
教主はそういうと、華恵に優しく微笑みかけると立ち上がり、静かに演台に戻って行った。その背に会場から惜しみない拍手と歓声が送られた。信徒も一般参加者も関係なく感動した証であった。教主は演台に戻ると、再び慈愛に満ちた微笑を湛えながら会場を見渡した。拍手と歓声は途切れることなく続いていた。
 

 その頃、華恵の夫は身をもってそれを体験中であった。
 昨夜飲んだアスピリンが効いたのか、朝起きた時は、昨日の頭痛も消え、比較的すっきり目覚めることが出来た。今日の観光は万全だ、午後から予定していた歌恋と二人水入らずのゴルフも予定通り行えそうだ、そう思っていたのだが、それが楽観的希望的観測だったことがわかってきた。昼に近づくと、頭痛がまた襲ってきたのである。急いでアスピリンを飲んだがこんどは全く効かず、ついに全身の関節までが疼き始めたのだ。歌恋がそれに気付いて心配そうに言った。
「栄太郎さん、やっぱり体調が良くないんでしょ? 病院を探して診てもらいましょうよ」
「いや、大丈夫だよ、これくらいのこと」
窪田は、平気そうに笑って言ったが、その時うっかり雲間からの日差しを見てしまい、眼の奥に激しい痛みが走った。
「・・・~!!」
窪田は声にならない声を上げ両目を覆い、観光中のハーブ園の通路に座り込みうずくまった。
「栄太郎さんっ、ど、どうしたの?!」
歌恋が驚いてそばに座り窪田の身体を支えた。窪田の発症は確実なものとなっていたが、彼らのそばを心配そうに、或いは好奇の目で見ながら通る沢山の観光客たちは、当然の事ながら、そこにうずくまっている男が致死性のウイルスに冒されているとは夢にも思っていなかった。にも関わらず、どうしてよいかわからず半泣きの歌恋に、助けの手を差し伸べようとする者は無情にも現れそうになかった。

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5.告知 (2)間引き

 講演会が終わって、華恵は友人たちと一緒に同施設のティー・ルームに入った。
 しかし、そこで華恵はさきほどのことを思い出してぼうっとしている。友人たちはそんな華恵に声をかけた。
「いいわねぇ華恵ちゃん、長兄さまから直接お話をされて、その上手まで握られちゃってさ」
「そうよ、私なんか半年も前に入心したとに、今日やっと、華恵ちゃんの近くに来られた長兄さまを始めて間近で見れたとやけんね」
しかし、講演会会場から離れて冷静さを取り戻した華恵は、彼女らとは違う視点で考えていたらしい。
「どうして私のことがわかったんやろか・・・」
華恵はぼそりとつぶやいた。それを聞いて友人たちは驚いた顔をして言った。
「何ば言いよっとね。それが長兄さまのお力なんやから」
「長兄さまのお力を自分で体験しているのに、信じられんと?」
二人から言われて、華恵は驚いて慌ててそれを打ち消した。
「疑っとぉ訳やないとよ。やけど、あまりにも的を射ているから驚いちゃって」
「超能力ちゃあそういうもんやないと? じゃ、もし入心する気になったらいつでも私らに言うてね。教会の決まりで無理に誘ったらイカンことになっとるけんね」
「うん、わかった。でも、もう少し考えさせてね」
華恵は、そう言って文字通りお茶を濁すと、ほうっとため息をついた。
(まったく、あのバカ夫ったら、今頃何をやっているんだか)
華恵はそう思った後、冷え切った関係にありながら、まだこうやって夫のことを気にかけている自分に気がついた。

 さてその夫である窪田だが、異常に気がついたハーブ園の係員が駆けつけて、園内の救護室に連れて行かれた。窪田はそこでしばらく休むとなんとか身体を回復させた。起き上がった窪田に歌恋が言った。
「栄太郎さん、今回はもう予定を切り上げて帰りましょうよ」
「ええ? もう帰るの? まだお昼にもなっていないじゃない。大丈夫だよ。」
窪田はそう言いながら元気を装って立ち上がった。

 葛西がジュリアスと共に、屍骸の山からサンプルを採取していると、背広に長靴と感染防止用コートにマスクのみという軽装の男がやってきた。
「こんにちは、お疲れ様です。害虫の屍骸の処理に参りました」
男は葛西たちの近くまで来ると言った。ジュリアスと葛西は、すぐさま立ち上がって男の方を見た。
「市の保健所、衛生対策課の中山です」
男は汗を拭き拭き自己紹介をした。
「私はK署の葛西です。この方は、アメリカはH大のウイルス学者、ジュリアス・キング先生です」
と、葛西が自分たちの紹介をした。
「ほお、H大からわざわざ・・・」
と言いながら、中山は防護服から覗くジュリアスの顔を見て少し驚いた表情をしたが、ジュリアスはそれを意に介さず作業に戻った。一方、葛西はそのまま中山に尋ねた。
「えっと、お一人ですか?」
「いえ、車の方に数名待機させていますが・・・」
「そうですか。って、そりゃそうですよねえ。で、ですね、今はサンプルを採取中なので、ちょっとお持ちください」
「わかりました。・・・しかしなんとまあ、こりゃあ、ばさらか死んでますなあ・・・」
中山は黒光りする山を覗き込もうとしながら言った。作業続行中のジュリアスが驚いて制止した。
「危険です。致死性のウイルスを持っている可能性がありますから、その装備ではあまり近くに寄らないほうが無難です」
「おっと、失礼失礼。しかし、警察の方も大変ですなあ」
彼は、任務に戻り消毒に精を出す警官たちを見ながら言った。
「あたしらのするような仕事までせなならんとですなあ」
「あれはカムフラージュを兼ねてのことですよ。昨日は数名が制服で立っていたのですが」
葛西が言った。
「こういう場所を警備する場合、制服よりあの方がしっくり目立たないですからね」
「そういえば、市内で妙な噂が流れておるようですな」
「しかも、全くの出鱈目じゃないことが悩ましいところです」
葛西は足元の黒い小山を見ながら言った。
「くぉ~ら、葛西、ちゃっと採取を終わらせにゃーと、保健所の人たちの仕事が進まにゃーでおーじょうこくだろうが」
足元でジュリアスが葛西をちらりと見ながら言った。
「あ、すみません。中山さん、もう少し待ってくださいね」
葛西は焦って座り作業を再開した。
 数分後、ジュリアスが言った。
「そろそろ併せて50サンプルくらいは集まったんじゃにゃあか?」
「おっと、調子に乗って採りすぎましたね。そろそろ打ち止めにしますか」
葛西がそう言って立ち上がろうとした時、屍骸の山が突然ガワガワと動いて中から何か飛び出してきた。ジュリアスがとっさに立ち上がって、軽装備の中山を庇いながら叫んだ。
「葛西、メガローチだ! 捕虫網でちゃっと捕獲してちょお!」
「了解っ!」
葛西は急いで網を手にして蟲を追った。しかし、敵はすばやく方向転換して近くの草むらに姿をくらましてしまった。
「くっそお~!!」
葛西は、悔しそうに草むらの表面を網で数回叩きながら言った。それを見てジュリアスが大声で聞いてきた。
「逃げられたのかね~」
「はい! すみませんっ」
葛西も大声で答えると、駆け足で持ち場に戻り、続けて言った。
「でかいのにまだ幼虫のようだったけど、すっごくすばしっこくて・・・」
ジュリアスが腕を組みながら言った。
「今までこの中で、じっと逃げるチャンスをうかがっとったんだな。頭のええヤツだて」
すると、中山が不思議そうに尋ねた。
「頭が良いって、先生、通常より多少でかいとは言え、たかが虫ケラじゃないですか」
「昆虫を舐めちゃいけませんよ、中山さん。例えはしご状神経系で脳と呼べるような上等なものがなくたって、連中は思いがけない利口さをみせたりするもんです。それより気になるのは・・・」
ジュリアスはそう言いながら、火ハサミで屍骸の山を丁寧にかき分けた。戻ってきた葛西がそれを覗き込む。
「ほれ、見てみ」
ジュリアスは、ピンセットに持ち替えで指し示しながら葛西に言った。
「蟲の残骸だがね」
「ひょっとして・・・」葛西がしかめっ面をしながら言った。「共食いをしていたとか・・・?」
「おそらくそうだろうて。しかも、ヤツはここで孵ったようだて」
ジュリアスが葛西に示したその場所には、数体がバラバラになった残骸と卵殻があった。すかさず葛西は写真を撮るために、カメラを構えた。
「写真を撮ったら、この卵殻と食い残しの残骸も採取しよまい」
ジュリアスが葛西の横で言った。
(うひゃあ、もうカンベンしてくれぇ~!)
葛西は心の中で叫んでいた。
 

 ギルフォードが順調に仕事を進めていると、また電話が鳴った。
「今日は日曜なのにやたら電話がかかりますねえ」
ギルフォードがため息をつきながら電話を取った。しかし、電話の主は由利子だったので、彼は少し安心したように電話に出た。
「ハイ、ユリコ! おはようです。早いですねえ」
「早いって・・・」由利子は笑いながら言った。「もう11時ですよ」
「君は疲れているんだから、それくらいまで寝ていてもいいくらいですよ」
「あまり遅くまで寝ると、却って体調が悪くなりますから」
「ちゃんと眠れましたか?」
「ええ。なんとか・・・」
由利子は答えた。実は、思い切り泣いたら泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまったのである。
「それは良かったです。睡眠は何よりの滋養ですからね・・・。ところでどうしたんですか?」
「あの、美月のことで・・・」
「はいはい」
「あの、ここ2日ほどあんな状態で、美月のことにまで気が回らなくて・・・。あれからずっと病院に預けっぱなしなんで気になって・・・」
「この前言ったように、あの病院はミツキちゃんの罹りつけでしたし、ハル先生もすごく良い方なんで大丈夫、問題ないですよ。経過も順調みたいですし・・・」
「それでですね、もしも・・・、もしもですが、彼女が完治しても美葉が帰って来ない場合は・・・」
「そうですねえ。そうそう預けたままにも出来ないですよね」
「ウチには猫が居るから、ちょっと無理そうなんで、困ったなあと・・・」
「ま、退院まではまだかかりそうですから、そうなったらそうなったでその時に考えましょう」
「はあ。でも・・・」
「今、悪いケースを考えたって意味ないでしょ」
「まあ、そういえばそうですけど・・・。ところで、電話して大丈夫でした? 日曜日だからひょっとして、まだお休みになってたんじゃあ・・・」
「大丈夫、起きてましたよ。まあ、休日の電話は基本シカトするのですが、ユリコやジュンからでしたらお取り込み中でもお取り組み中でも出ますよ」
「お取り組み中は出なくてけっこうです・・・って、まさか今・・・」
「残念ながらというか、今日は朝から研究室に居ますよ」
「ええっ? 日曜なのに?」
「日曜しかゆっくり仕事が出来ないと思って・・・」
「ジュリー君もご一緒ですか?」
「ああ、彼は今日、ジュンと一緒に昆虫採集ですよ」
「昆虫採集・・・? ああ、例の蟲ですか」
「・・・そうです。なんで二人して僕の大嫌いなものを・・・」
ギルフォードは、若干声のトーンを落として言った。なんとなくマズイと思った由利子は、話題を変えた。
「しかしまあ、なんかいろいろ忙しいですね、アレクは」
「そうなんですよ。それなのに、また今日頼まれ事をされました」
「で、知事からですか、高柳先生からですか?」
「よくわかりましたね。さっき、知事から直々電話が入って・・・」
「やっぱり」
「今日の夕方に例の病気について公表することに決まったと告げられまして、その前に、アキヤマさんに会ってうまく説明して欲しいと」
「秋山さん?」
「あ、例のマサユキ君のお父さんです」
「ああ、そうでしたね。で、なんでまた、アレクに?」
「僕は一度お会いしてますからね。マサユキくんとお祖母さんが亡くなられた時に感対センターでお会いして、色々説明させていただきました。それで、面識がある分初対面の人が説明するよりいいだろうと言ってました」
「いったい、何を説明するんですか?」
「この病気について公表したばあい、一番影響があるかも知れない人物が、アキヤマ・ノブユキさんなんです。何よりその病気でご家族を三人亡くされてますし、それはすでにご近所で噂になっているようです」
「まあ、家族が次々と亡くなって家が消毒されたりすれば、ご近所は当然伝染病の疑いを持ちますよね」
「そうなんです。しかも、妻のミチヨは、それをばら撒く行為に及び、ついには公園での事件を引き起こしました。もし、これが世間に知れた時のことを考えたら・・・。もちろん警察や関係者から漏れることはないでしょうけど、キワミのような連中がうろついている限り安心はできません。そういう特殊なケースなので、知事が公表後の悪影響を心配されているんです。で、僕にそこら辺を説明しろと」
「うわぁ、また難しいことを頼まれましたね」
「まったくです。顧問の仕事ってこういうことでしたっけ?」
ギルフォードが釈然としない声で言ったので、由利子は苦笑しながら答えた。
「多分違うと思います」
「それで電話をしてみましたら」
「結局引き受けたんですね」
「はい」
「で?」
「マサユキ君とお祖母さんの遺骨が帰って来たので、昨日、ようやく葬儀を終えたとおっしゃいました。自宅で身内だけの密葬だったようですが」
「遺体じゃなくて遺骨で帰って来た?」
「はい。仕方ないんです。感染力が強いですから、ご遺体でお返しすることは危険ということで」
「そういえば昨日、葛西君に言ってましたね。思い出しました」
「それで、『大事なお話がありますので、ご霊前にお参り方々お伺いしたい』と言いましたら、快く受け付けてくださいました」
「あの、差し支えなかったら、お参りに私もご一緒していいですか?」
「え?」
ギルフォードは、思わぬ由利子の申し出に驚いた。
「私がこの事件に関わる発端になったのが雅之君なんで、なんとなく無縁じゃないような気がして・・・」
「なるほど、日本人らしい発想ですね。じゃあ、会う時間と場所を決めましょう。そこまでお迎えにあがります」
「いいんですか?」
由利子は喜んで言った。結局、大学から秋山家に向かう途中に由利子のマンション近くを通るらしいことがわかり、また、ギルフォードが由利子のマンション前まで迎えに行くこととなった。
 

 講演会を大成功のうちに終えた碧珠善心教会教主は、F支部の自室に戻り日本茶で一服した後、先ほどの講演のVTRを見て細部を検証していた。そばにはお気に入りの遥音涼子が立っているが、そのほかには人の気配はない。ここは完全なプライベートルームなのである。とはいえ、過度な装飾も奇をてらった細工もなく、白と黒を基調としたシンプル且つモダンで機能的な居間といった感じだった。彼は応接セットのソファに座り、足を組みさらに腕組みをして大型の薄型テレビの画面を見ていた。
 場面は窪田華恵との対面シーンに差し掛かっていた。教主は愉快そうに言った。
「どうです? なかなか劇的な場面でしょう? あなたにはまやかしは効かないだろうから聞きますが、タネはわかりますね?」
「ホット・リーディング・・・でしょうか」
「正解。簡単な事前調査です」
「でも、長兄さまのカリスマ性があったればこそ、あの演出が生きたのですわ。それよりあの広い会場いっぱいの群集の中から、よく彼女を一瞬でみつけられました。私にはそのほうが驚きでしたわ」
「ま、人の顔を瞬時に識別する能力は、誰かさんの専売特許じゃないってことですよ。さて、これでまた多くの新たな信徒を得ることができるでしょう。そろそろ教団宛に問い合わせが来始めているのではないでしょうか」
「講演で教団のパンフレットなどを配れば簡単ですのに、いえ、それよりも講演会で入心希望者を募ればいいのに、なぜ、いつもまったくそういうものを表に出そうとしないのですか?」
涼子の問いに、教主はふっと笑っていった。
「心から入心を願うものは、わずかな手がかりからでもコンタクトを取ってくるものだし、こちらもそのレベル以下の希望者は必要ないからです。それにもうひとつ重要なことは、行く先々で布教活動をしているとして、不要にマークされる可能性が出てくるということです。そういう面倒くさい状況になるのは避けねばなりません。あくまで入心は自由意志でなければね。でないと結城と我々の関わりを完全に切り離している意味がないでしょう?」
「結城と・・・」
涼子は夫の名を聞いて表情を曇らせた。
「遥音先生、あなたは、まだあの不実で愚かな男のことが忘れられないのですか・・・」
教主に指摘され、涼子は目を伏せた。教主はヴィデオの映像を切ると言った。
「あなたまであの男と同じレベルに墜ちてはいけない。さあ、こちらに来なさい。私の横に座ることを許しましょう」
「でも・・・」
涼子は躊躇した。教主は右手を差し出すと涼子を見つめ、優しい笑顔を浮かべて言った。
「さあ、涼子、いらっしゃい」
教主の言い方は柔らかいが、その底には有無を言わせず彼女を従わせる何かがあった。涼子はゆっくりと歩き、教主の右横に座った。そのまま、魂を抜かれたように動かない。教主は涼子のほうを向き、右手で彼女の頬に優しく触れながら口調を変えて言った。
「君の夫は君を裏切った。聡明で美しい君を・・・。彼の末期は悲惨なものであるべきだ。そうだろう?」
涼子は何も答えなかった。
「涼子、君は私とひとつの想いを共有している」
教主は涼子の答えを待たずに続けた。
「君も私もアフリカやアジア、南米、そしてロシアで悲惨な状況を目の当たりにした。君は海外協力で、私は父について行った先々で。そこで思い知らされた。死に行くものを救う術のないもどかしさ、そして、己の無力さ。そこに蔓延する無知と貧困・・・。その前には道徳観も宗教心も愛すらも否定され、私の心に残されたものは希望ではなく絶望だった。そして得た結論は、増え続けるヒトという種の数をを減らすこと。それ以外人類も地球も救う術はない。君と私の結論は一致した。父・・・教祖の入滅後、私はその遺志を継ぎながらもその傍らで君と人類を間引きする方法を思案し、その結果、たどり着いたのは人類に決定的な天敵を作ること。その結論として、その天敵には猛獣ではなくナノワールドの住民を選んだ。そして今、私たちの計画はようやくスタートラインに立つことが出来た。何れこのウイルスは世界に広がり、人口過密地に壊滅的な被害を出すことになるだろう。それが私たちの計画の最終段階だ。そして、この計画が動き始めた事の功労者は、ほかでもない、君の夫だね」
教主が話続ける間、涼子は黙って微動だにせずに座っていた。教主はまたふっと笑って言った。
「この期に及んで妨害はいけないよ、涼子。最初に日本各地で撒いたウイルスは、君が無毒なものにすり替えていたことはわかっているんだよ」
涼子が一瞬身じろぎした。教主は笑顔のまま涼子に問うた。
「ひょっとして恐ろしくなったのかい?」
「・・・。私たちのやっていることは、結局、貧困に喘ぎ衛生状態の劣悪さに苦しむ善良な人たちを、もっと苦しめるだけではないかと・・・」
「善良? 自分の欲望のままに生き、繁殖し、その無知さからさらに最悪な状態に自らを追い込んでいる連中が、かね」
「でも、そうなったのは、彼らのせいではありません」
「そうかもしれない。でも、結果的に彼らが地球の害虫と化していることには変わらない。そうだろう?」
「それは・・・」
涼子は、それを否定できずに口ごもった。
「君は本来優しい女だ。決心が揺らぐこともあるだろう。でもね、下手な小細工をすると、君の夫がまた罪を重ねることになるよ。覚えておきなさい。それに君の妹の病気についての研究も続けたいだろう?」
涼子は、もはや平静を保つことが困難になっていた。うつむいたまま両手を膝の上で握り、傍からもわかるほど震えていた。額には汗が浮かんでいる。教主はそんな涼子の顔を両手で掴み、無理やり自分の方に向けた。教主の両目に見据えられ、涼子は身体の自由を失った。
「君は、もう私から逃れることは出来ないんだよ」
言葉とは正反対に、教主は慈愛に満ちた笑顔を浮かべて言った。
 

 秋山家には、信之を心配して彼の姉と妹が来ていた。ある程度子どもに手のかからなくなった姉の村田聡子(さとこ)は、弟が退院してからずっと傍についており、未婚である妹の多佳子は、葬儀のため仕事を休んで一昨日から帰って来ていた。
 信之は母親と息子をほぼ同時に亡くし、妻は行方不明、自分は危険な感染症の疑いで1週間の隔離生活を余儀なくされた。その後、なんとか退院したものの、相次ぐ妻の事件とその死で決定的なダメージを受けた彼の精神は、かなり参っていた。無事に葬式を終えることだけが、彼の目標と支えになっていたが、問題の遺体がなかなか帰ってこない。そして、ようやく帰って来た遺体はすでに遺骨になっていた。最も、その説明は受けていたのだが、それが現実となって突きつけられた今、想像以上の悲しさと辛さが信之を押しつぶさんばかりに迫ってきた。
 それでも昨日行われた葬儀では、信之は気丈にもそれを采配していた。しかし、噂が広がっているのか、密葬とはいえ親しい人には連絡しており、二人一緒の葬儀であるのに、弔問客の少ない寂しい葬儀となった。経文を上げに来た坊主も、読経を早々に切り上げてそそくさと帰ったような気がした。それでも母の珠江の方は遠くからの友人が数人訪れた。だが、雅之の方は担任と校長、そして、同じクラスと遊び仲間という生徒三人が夕方訪れただけだった。校長は、挨拶と焼香を終えると早々に引き上げた。担任も早く帰りたそうだったが、生徒3人がなかなか祭壇の前に手を合わせたまま動かないので困っていた。しかし、同級生の死を悼む彼らの思いをむげには出来ない。彼女は生徒達の後ろに座ったまま、間が持たないで心持そわそわしていた。
 生徒三人は良夫・彩夏・勝太だった。彼らは雅之の霊前に今までの経過と自分らの決心を伝えに来ていた。彼らは彼らなりに、自分らに関わってきた事件と対峙する決心をしていたのだ。もちろん、彼らは自分らの関わった事件が、いずれ世界を揺るがすテロリズムであるとは夢にも思っていなかった。しかし、ただ病気が流行りつつあるだけではないことは、わかっていた。
 信之は二人の葬儀を無事に終えて、ほっとしていた。後は妻の葬儀だけだ。妻の美千代は3年前両親を事故で亡くしており、彼女には兄弟がいないので、なんとしても自分がやり遂げねばならない。信之は折れそうな心をなんとか奮い立たせていた。 

 葬儀から一夜明け、ギルフォードと名乗る男から電話が入った。最初誰か思い出せず胡散臭く思ったが、話を聞いているうちに、あの時、感染症対策センターで話を聞いた英国人の教授であることがわかった。彼が言うには、今日、信之の家族を奪った感染症について、知事が告知するという。そのことについて説明したいので、会えないかという用件だった。信之は、ギルフォードの礼儀正しい電話の応対や会った時の印象から、何の疑いも持たず快くそれを承知した。
 しかし、それからまたかかってきた電話に出た後、信之の様子がおかしくなってしまった。何かに怯えているような風情で妙にそわそわしている。その変化に聡子と多佳子は気がついたが、あの事件以来不安定な信之には今までもそのようなことが何度かあったので、そこまで不審に思っていなかった。だが、約束の三時が近づくと、信之の様子がさらにおかしくなってしまった。しかし、外国人の客と聞いて、来客の用意に余念がない聡子と多佳子は、うっかりそのことに気付かなかった。三時少し前からワクワクして門辺りの様子を見ていた二人は、黒のスーツを着て白いユリの花束を持った白人男性が、やはり黒のスーツとワンピースの女性二人を従えてやってきたのを確認した。彼は門の前で立ち止まると、モニターのボタンを押した。すかさず聡子が「は~い」と応答した。男はモニターに向かい、にっこり笑って言った。
「Q大のギルフォードです。知事の代行で来ました」
「は~い、どうぞいらっしゃいませ。門扉も玄関のカギも開いてますから~」
モニターから、すぐに女性の明るい声がしたが、次いでモニターから聞こえたのは、うって変わって切羽詰った声だった。
「多佳子、どうしたの? え?信之が??? そんな、うそっ!!」
その声はすぐに悲鳴に変わった。三人はそれを聞いて一瞬顔を見合わせた。
「何かあったようです。急ぎましょう」
ギルフォードが急いで門扉を開けて玄関に駆け込んだ。二人もあとに続く。玄関内に入ると、すぐに祭壇を飾った部屋が見えた。その部屋の方から、信之の名を呼ぶ悲痛な女性の声がした。ギルフォードは横の靴箱の上に花束を置き、土足のまま家の中に駆け込んだ。祭壇のある部屋と続きの間の襖が開け放され、腰を抜かした和服の女性と、立ったままオロオロする女性の姿、それに見え隠れして宙ぶらりんの足が確認できた。
「これはマズイ!! サヤさん来て! ユリコは玄関にあった電話で救急車を呼んでください!」
紗弥と由利子は、ギルフォードに呼ばれる前から彼の後に続いていたが、紗弥はそのまま走って部屋に向かい、由利子は電話をすべく玄関に戻った。

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