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4.衝撃 (5)悲しいワルツ

「うん、高柳さんの言うとおり、うみゃあわ、このAランチ」
ジュリアスが、おかずの一口カツをぱくつきながら言った。
 三人は感対センターの職員食堂で、少し遅い昼食を食べていた。高柳が昼ごはんがまだならば、ここが安くて美味いからと勧めてくれたのである。
「ほだけど流石アレックスだて。あれからすぐにおれ達の話に追いついたでにゃあ」
「ジュリーってば何をのんびり言ってんの。こっちは一時どうなることかと思ったんだから」
「申し訳ありません、ユリコ。僕もまさかあんなにショックを受けようとは・・・。やはり僕にとってあの蟲は鬼門です」
「いや、どうなるかと思ったのは・・・。まあ、いいや。でも、ホントに大嫌いなんだ、あの昆虫」
「ええ、ホントに」
「まあ苦手なものは仕方がないよねえ」
「ユリコは怖いものなしですか?」
「んなワケないでしょ。私にだって怖いもののひとつや二つあるわよ」
「何ですか、ソレは?」
ギルフォードが興味津々で聞いてきた。
「大型の蛾よ」
「ガ?」
「え~っと、昆虫の・・・」
「ああ、『蛾』ですか。Mothraですね」
「そこまで大きくないけどね。でかい蛾がいたら、パニックになるの。子どもの頃、夏休みに長野に家族旅行に行った時、山奥の旅館で、うっかり電気をつけたまま窓を全開してみんなで食事に行ったの。部屋が3階だったので安心したんだね。で、2時間ほどして部屋に帰ったら、部屋の中がドえらいことに・・・」
「虫だらけになってたんですね」
「そう。しかも、最初に入ったのがこともあろうにシンジュサンという種類の大型蛾のメスだったらしくて、もう明かりとフェロモンに釣られたオスがわんさかと。壁と言う壁、照明と言う照明にモスラのミニチュアが・・・」
「それは、虫が平気な人でも引くでしょうね」
「もう、山中のシンジュサンが集まったかと・・・。旅館の人には怒られるし、その部屋はそのままじゃ気持ち悪くて寝られないし、大変だったのよ。それ以来1匹でも部屋に入ってくると、もうパニックですよ」
と、由利子は当時を思い出したのか、ぶるっと震えて言った。
「そうですね。誰にでもトラウマはありますよね」
ギルフォードは明るく言った。ジュリアスは、黙々とランチを食べながら、二人の会話を静かに聞いていた。しかし、彼が時折ギルフォードの方を心配そうに眺めていたことに、二人が気付いた様子はなかった。ジュリアスは、あることを由利子に話すべきかどうか迷っていた。
「それにしても、日を追って問題が増える一方ですね。その上に、事件を調べているらしい女と、訳ありそうな女医の存在まで・・・」
「ちょっとまって。私、その女医の話は聞いてないけど・・・」
「おりゃー事件を調べとるとかゆー女についても聞いてにゃあぞ」
「わかりました。説明しましょう。女医の件については僕も昨日初めて知ったのです」
ギルフォードは、昨夜電話で聞いた佐々木良夫からの情報を簡単に説明した。
「さらに、これは今朝キサラギ君から得た情報で、まだ未確認ですが、アキヤマ・マサユキ君の事故現場に遭遇したという少女が、謎の病気で亡くなっているらしいのです」
「なんてこった!」
ジュリアスがテーブルを叩いて立ち上がりながら言った。
「問題が増えるというより加速がついとるじゃにゃあか」
「翌日すらどんなことになっているか、また、どんなことが起きるか、想像もつかないってことね」
由利子も厳しい表情で言った。ジュリアスの勢いに、周囲の人たちが驚いて彼らの方を見たが、すぐに自分達の話に戻っていった。ジュリアスは少しバツの悪そうにして椅子に座りなおした。
「ところで、葛西君からは何か連絡は入ってない?」
「君には入ってないんですか?」
「ええ、今日はアレク以外は誰からもま~ったく」
由利子は少し口を尖らせて答えた。
「僕の電話にも入ってないですね」
ギルフォードは携帯電話を確認しながら言った。
「ちょっとかけてみましょうか。ここは携帯電話禁止ではないですか?」
「え~っと」
と、由利子は周囲を見回して言った。
「壁に『携帯電話のご使用は最低限に』と書いてありますから、禁止ではないようですね」
「じゃあ、ちょっとならいいですね。緊急電話なのは間違いないですし」
そういうと、ギルフォードは葛西に電話をかけた。
「あ、今度は繋がりましたよ・・・あ、出ました!」
ギルフォードは嬉しそうに言った。
「ジュン! 何をしているんです? そろそろ切り上げてこっちに来てください。・・・え? 今取り込んでいる? 明日ではだめなんですか? タミヤマさんの容態? 悪くなる一方ですよ・・・。それに・・・」
ギルフォードは『このままだと明日はないかもしれない』と言おうとして、言葉を飲み込んだ。
「こちらにも君に伝えたい情報があるんです。え? ええ、電話じゃダメです。資料がありますから・・・って、ジュン?・・・ジュン!! ・・・切られました・・・」
ギルフォードは電話を耳から離すと画面を一瞥し、少し眉間にしわを寄せて電話を切った。由利子がため息をついて言った。
「こうなってくると、むしろ現実逃避やね。まったくもう、あのお子ちゃまは!」
「ほいじゃあ、今日は葛西君と会えにゃあだか?よだるいねえ。」
ジュリアスはそう言いながらお茶をグイッと飲んだ。
「ぐい飲みで日本酒を一杯やっているみたいですね」
ギルフォードが冗談を言ったが、誰も笑わなかった。

 病室は静かで、生体モニターの音と酸素マスクに酸素が送られる音だけが聞こえる。多美山はあのまま目を覚ますことなく、依然危険な状態にいた。すでに鼻や耳からの出血が始まっていた。息子の幸雄は横に座ったまま、ずっと父親の手を握っていた。見かねた園山看護士が言った。
「幸雄さん、そろそろ防護服でいるには限界が近いんじゃないですか? 特にそのマスクは呼吸し辛いでしょ? 僕らだって時間で交代しているんだから、あなたも少し休まれてください。何かありましたら、すぐにお呼びしますから・・・」
「いえ、着がえに時間がかかるし、万一に間に合わなかったら後悔しそうで・・・」
「幸雄さん」
三原医師が言った。
「申し訳ないのですが、病状がこれ以上悪化した場合、医療関係者以外はここから退出していただくことになっています。どんなキケンなことが起こるか我々にもまったくわかりませんから、万一の感染リスクを考えてのことです」
「そんな・・・。じゃあ、もしも・・・の時には傍にいてやれないっていうことですか?」
「残念ながら・・・」
三原は頭を下げて言った。
「例の『窓』で見守っていただくしかないのです」
「何とかならないのですか?」
「なりません。それに、お父さんだってあなたに感染して欲しくないはずですよ」
そう言われると、幸雄は返す言葉がなかった。三原の言葉に幸雄が迷っていると、多美山がゆっくりと幸雄の方を向いた。目はあのままガーゼで覆われているが、少し意識が戻ったのか。
「父さん、起きたの?」
幸雄が少し嬉しそうな表情で言った。多美山は何か言いたげに口を動かしていたが、声帯をやられたのか声がほとんど出ないようだった。
「え? 何か言いたいの?」
幸雄は父親に耳を近づけようとした。慌てて園山がそれを止める。
「ダメです。念のためあまり近づかないで!! 僕が唇を読んでみますから」
それが聞こえたのか、多美山は出来るだけはっきりと口を動かそうとした。園山はじっとその口を読んで幸雄に伝えた。
「『ゆ・き・お、・・・おれ・は、いい、あとを、たの・む、しあわ・せ・に・・・』・・・・」
園山の最後の方の声がかすれた。多美山は、ようやくそれだけ言うと笑顔を作ろうとしたが、すでにそれは不可能になっていた。ウイルスが表情筋まで冒してしまったからだ。多美山はもはや全身をウイルスに席巻されていた。
「父さん、何弱気なこと言ってんだよ! らしくないだろ? しっかりしてくれよ!!」
幸雄は多美山の手を両手で握りながら言った。その時、多美山の身体が引きつりのけぞった。
「いかん! 園山君、幸雄さんを!!」
三原が叫ぶと共に、園山が幸雄を右手で抱え上げ多美山から引き離した。
「は、放して下さい! 父さん、父さん!」
幸雄は抵抗したが、見た目は長身で細身だが介護で鍛えている園山は、多少の抵抗にはビクともしない。慣れない手袋をした手から、空しく父の手がすり抜けた。園山の肩越しに父が見えた。身体を激しくひきつけた父の口から大量の黒い血が流れているのがわかった。その父の姿がどんどん小さくなっていく。幸雄が諦めずに父を呼び突ける中、三原が叫んだ。
「みんな、来てくれ!! 多美山さんの容態が悪化した!! 非常に危険な状態だ」
それを受けて、山口医師と春野看護士をはじめ、数人が駆け出した
「父さん! 父さーーーん!!」
何度も叫びながら、幸雄は園山と駆けつけてきたもう一人の男性看護士に抱え上げられて、病室から姿を消した。ドアが閉まり、幸雄の目の前から父の姿が消えた。
「うぉぉおおおおお・・・!!」
幸雄が号泣する声が、多美山の病室の中にまで聞こえた。三原は一瞬両目を堅く瞑った。

 多美山の激変は、すぐにギルフォードたちにも伝えられた。ギルフォードはすぐに葛西に報せるべく、携帯電話を手にした。
「出ませんね。電源は入っているようですけど」
呼び出し音が続く中、一向に電話に出ない葛西に、ギルフォードは流石にイラついた面持ちで電話を切った。それを見て由利子が言った
「とりあえず、ほっといて行きましょう。着信に気がついたら電話して来るはずよ」
「でも、病棟では携帯電話は禁止です」
「子どもじゃないんだから、その辺は何とかするでしょうよ」
由利子もイラッとして言った。
「アレックス、由利子の言うとおりだがや。とにかく行ってみよまい」
「わかりました。とりあえず留守録に入れておきましょう」
ギルフォードはそういいながらまた葛西に発信した。
「『ギルフォードです。多美山さんが危篤です。出来るだけ早く来て下さい』・・・と、これでよしっと。さあ、とにかく行きましょう」
ギルフォードはそういうと席を立った。残りの二人も追って席を立つと、急いで食堂を後にした。
 

 葛西は女を追っていた。ギルフォードからの電話を切った理由は、本当に取り込んでいたからだった。彼の追っている女は、あの真樹村極美だった。C川の現場周辺の調査を切り上げ、とりあえず署まで帰ろうと商店街までたどり着いた時、ふと見た果物店で店主らしい男と話している極美を発見したのだった。これはなんとしても呼び止め、職務質問をして彼女の目的を知らねばならない。場合によっては交渉しなければならないかもしれない。葛西はまっすぐ正攻法で極美に近づいていった。葛西が10mほど近づいた時に、店主の親爺と談笑していた極美が葛西のいる方向を見た。彼女はすぐに葛西の姿を見届けると、顔色を変え、店主への挨拶もそこそこに駆け出した。彼女は葛西があの時の刑事だということに気付いていて、彼から逃れようとしていることは明白だった。
「あ、こら、待てよ!!」
葛西はすぐに後を追った。極美もかなり足が速かったが、もともと陸上選手だった葛西の足にかなう筈もなく、最初人の間を上手く縫いながら逃げていたが、駅前の広場でとうとう追いつかれ、葛西から腕をつかまれた。
「キャーーーーーーッ!!」
極美はとっさに鋭い悲鳴を上げた。
「イヤーーーーーッ! 変質者よ、助けてーーーーー!!!」
「な・・・」
葛西は一瞬呆然とした。周囲を見回すと、何人もの人がこっちを見ていて、中にはフトドキにも携帯電話のカメラを向けている輩までいた。依然、ここぞとばかりにわめきまわる極美の手を意地で離さないまま、葛西は焦って言った。
「ち、ちがいます。僕は警察の者です。あなたに聞きたいことがあって・・・」
葛西は警察手帳を出して、見せようとした。その時、背後で声がした。
「僕の知り合いに何か用?」
「裕己さん!」
極美がほっとした表情で男の名を呼んだ。男は続けた。
「この人は何か犯罪を犯したのかい?」
「いえ、そういうわけでは」
「警察だからって、犯罪者でもない女性を追い回して腕を掴むだなんて、野蛮なことをしていいの?」
「いえ、でも彼女は・・・」
そこまで言って葛西は口ごもった。何と言って良いのかわからなくなったのだ。
「彼女を離しなさい。このまま、この人をこの状態で人前にさらすなら・・・」
その時、葛西の手に激痛が走った。一瞬降屋の方に葛西の注意がいった隙に、極美が噛み付いたのだ。
「うわっ!!」
痛みに葛西が反射的に手を離したのを幸いに、極美は逃げ出した。
「待ちなさい!!」
葛西が再び彼女を追おうとした時、笑いながら降屋が言った。
「女なんか追っかけている場合じゃないんじゃない? 今、君の大事な人が大変なんだろ?」
「な・・・?!」
葛西は驚いて振り返った。しかし、そこにはもう降屋の姿はなかった。
「どういうことだ?」
一瞬呆然とする葛西。しかし、すぐに当初の目的を思い出し、極美を追おうと彼女の逃げた方向に駆け出したが、すでに極美もどこかに姿を消していた。
「しまった・・・!!」
葛西は悔しがったが後の祭りだった。
「一体何なんだ、さっきの男は・・・?!」
葛西は憮然として歩道に立ちつくしたが、手の痛みに気がついて噛まれた右手をじっと見た。掌の小指側にくっきりと歯型が残っていた。
(何なんだよ、まったく・・・)
葛西は思ったがどうしようもない。しかし、噛み付かれた手を見て秋山雅之のことを思い出した。もう一度あの公園に寄ってみよう・・・、と葛西は思った。

 葛西は公園の前まで来た。さっきからポツリポツリと小さな雨粒が時折頬に触れていた。葛西は自分が今日の天気予報すら確認していないことに気がついた。
(大雨になるのかな?)
葛西は思ったが、そんなことはどうでもいいような気がした。葛西は公園の門の前で立ち止まった。全てはここから始まったような気がした。ここで多美山が感染したのだ。あの時、皆に黙ってこっそりと自分だけここに来ていたら・・・、葛西は思った。それならば多美山の感染もなく、今も元気で走り回っているだろう。代わりにあの病院で今苦しんでいるのは、自分だったかも知れないが・・・。だが、自分だけで子どもたちを守れただろうか・・・。それは誰にもわからない。人生にやり直しは出来ないからだ。件の公園は未だ立ち入り禁止が解除されず、門の前には警官が見張りをしていた。葛西は彼らに敬礼して挨拶をするとそこを後にしようとした。数m歩いたところで、バイクが横を通り過ぎた。
(アレク?)
葛西はそのバイクを目で追った。しかし、ギルフォードのバイクよりいく分か小型だった。それでも赤いボディの大型のバイクだ。ライダーは体型からして女性のようだった。件のバイクは葛西の斜め前あたりで止まった。ライダーはバイクから降りて葛西の前に立った。
「ここら辺を流してたら、お会いできると思ってましたわ」
女性ライダーは、ギルフォードの秘書の紗弥だった。
「さ、まだ間に合うかも知れませんわ。感対センターまでお連れします」
葛西は状況が飲み込めずに言った。
「アレクに頼まれたんですか?」
「いいえ、私の独断ですわ。教授からあなたのことを聞いたので、なんとかしたいと思ったのです。さあ、ヘルメットをお渡ししますから・・・」
「いえ、僕はまだ行けません。まだ多美さんに報告するほどの成果を得ていないんです!」
頑なに拒もうとする葛西を見て、紗弥は美しい眉間を一瞬寄せると軽く葛西の頬を叩いた。
「え?」
葛西は呆然として頬を押さえた。
「あなたの相棒であり大先輩が危篤なんですのよ。今行かないと一生後悔しますわ」
紗弥は、静かな中に厳しさを交えて言った。
「危篤? ホントに・・・? 本当に多美さんは・・・」
葛西は急いでポケットの携帯電話を見た。ギルフォードからの着信が入っていた。さっきのごたごたで気がつかなかったのだ。
「アレクからまた電話が・・・。留守電も入ってる」
葛西はギルフォードからの留守録を聞いて、顔色が青ざめ、電話が手から滑り落ちた。紗弥はそれを見逃さずに地面に落ちる前に受け止め、葛西に渡した。
「ほら、しっかりなさいませ」
「紗弥さん、すみません。僕、やっぱり行きます。連れて行ってください」
葛西はとうとう現実を受け入れた。紗弥は微笑んで言った。
「さあ、まずこれを着てくださいな」
紗弥は半透明のビニールの袋のようなものを葛西に渡した。
「100円ショップので申し訳ないですが、レインコートとレインズボンです」
「え?こんなの着るんですか?」
「バイクでの雨を舐めてはいけませんわ。それでなくても風で体感温度がかなり下がりますのよ」
それを聞いて葛西はすぐにコート類を受け取ると身につけはじめた。
「如月君のオッサンヘルメットで申し訳ないですけれど・・・」
紗弥はそういいながら、白いヘルメットを葛西に渡した。葛西が準備している間に紗弥はバイクにまたがってエンジンをかけた。ヘルメットを押さえながら、葛西がバイクに小走りで近づいた。
「さ、後部席にまたがって、私の腰に手を回しておなかのところでしっかり両手を組んで!」
「え? いいんですか?」
「振り落とされたくなかったらそうしてくださいな」
「はい!」
葛西は返事をすると、焦って紗弥の言うとおりにしっかりと手を組んだ。細いけれど、大型バイクを操るだけあって、かなり鍛えた腹筋だった。
「組みました!」
「じゃ、行きますわよ!!」
紗弥はいきなりバイクを発進させた。
「うわ~~~~っ!」
ドップラー効果付きの葛西の悲鳴を残して、二人を乗せたバイクは見る見る姿を小さくしていった。


 三人は、多美山の病室に通じる『窓』の前に駆けつけた。ギルフォードとジュリアスは躊躇することなく窓に近づいたが、流石に由利子は数歩前で足が止まった。しかし、数秒後、意を決して二人と肩を並べて窓の前に立った。
 病室ではスタッフが忙しそうに動きまわっていた。多美山は、苦しそうに喘いでいた。口の周りには血の跡が残り、口の端からはまだ血が流れていた。目・鼻・耳からの出血も止まらないようで、春野看護士が何度もガーゼを取り替え血を拭っていたが、頭の周囲はすでにどす黒い血の染みが白いシーツに広がっていた。顔の表面も所々内出血の青黒い染みが出来ている。
「あれ?」
由利子は気がついて言った。
「息子さんがおられないけど・・・」
「多分、リミットが来たので、病室から出されたのでしょう」
「え? そうなんですか? 防護服を着ているのに」
「はい。放血する可能性がありますし、万一のことがあってはいけませんからね」
「そういうことですか・・・」
由利子は納得したのかそうでないのかよくわからない表情で答え、もうひとつ質問した。
「で、人工呼吸器はつけないんですか? 延命拒否をされたから?」
「違いますよ、ユリコ」
ギルフォードは説明した。
「もう、呼吸器官がボロボロなんで、送管出来ないんです。無理につけようとすると、大出血を起こしてしまいます」
「そんな・・・。じゃあ・・・」
「酸素マスクに頼るしかありませんが、自発呼吸が出来なくなった場合・・・。いずれにしても、かなり苦しいと・・・」
「なんで・・・。昨日最初に会った時は、あんなに元気だったのに・・・」
「劇症化です。最悪な状態ですよ。マサユキ君のおばあさんと同じ状態だと思われます。原因はまだわかりません」
「昨日のような治療は?」
「もう・・・。多美山さんの手を見てください。包帯が巻かれていますが、血が滲んでいるでしょう? 点滴の針跡からも血が流れて続けているんです。皮膚も血管もボロボロなんで、うっかり針をさせないんです。おそらく内臓もかなりダメージを受けているはずです」
「・・・」
由利子は、何と言って答えたらいいのかわからず、無言でギルフォードを見た。彼は淡々と続けた。
「ベッドの横に下がっている袋が見えますね? あれは尿を溜めておくものですが、見てわかりますね、すでに血尿が出ています。おそらく、下血もしているでしょう。よく言われるような毛穴からまで出血することは滅多にありませんが、これが出血熱というものです。出血熱と言うのは、風邪と同じように、様々なウイルスによる出血性の疾患の総称で、特定の病名ではありません。この病気もウイルスが特定されれば、はっきりした病名がつきますが、今は、謎の出血熱としか言いようがないのです」
「アレク、もういいよ」
由利子は言った。
「流石に医者やね。こういうときには冷静だわ」
「ユリコ・・・?」
「褒めているのよ。私にはとても出来ないもの。こんな時にそんな説明・・・」
傍目からは、由利子自身もかなり冷静に見えたが、よく見ると手や膝などが小刻みに震えていた。それに気付いてジュリアスが言った。
「由利子、おみゃあさんもそーとー気が強いと思うがね。普通の女性ならこの状況を見るだけで耐えられにゃあて。よ~がんばっとるよ」
「逃げ出したいよ、本当は。でも、逃げちゃいけないんだ」
由利子は、正面を向いたまま言った。そこに、看護士に支えられて多美山の息子、幸雄がやってきた。すでに泣き腫らした目をしていた。三人は彼の方を向くと、無言で挨拶をして椅子に座らせた。
「危険ということで、追い出されました・・・」
幸雄は、寂しい笑顔で言った。
「結局何の役にも立てませんでした・・・」
「そんなことはにゃあて!」
ジュリアスが力強く否定して言った。
「幸雄さんは、病室に入ってずっとお父さんを励ましとったでしょう? 普通、感染が怖くてそこまで出来にゃーんだなも。きっとお父さんも心強かったと思うて」
「そうでしょうか?」
幸雄はうつむいたまま訊いた。
「そうに決まっていますよ!」
由利子が、ジュリアスに援護するように言った。
「ありがとうございます。少し気が楽になりました・・・・ところで、あの・・・」
相変わらずうつむいたまま、幸雄が尋ねた。
「この病気が人為的にばら撒かれたものというのは本当でしょうか・・・?」
三人は顔を見合わせ、ギルフォードが答えた。
「このウイルスの出処がはっきりしない限り可能性はないとは言えません。しかし、あくまでも可能性です。そして、多美山さんはその捜査にあたる予定でした」
「父は身体を張って子どもたちを感染から守ったと聞きました。僕はそんな父を誇りに思います。そして、このボロボロになった父を目の当たりにすると・・・。僕は、父を見て育ち、それゆえに警官になることを避け、平凡なサラリーマンの道を選びました。でも、今は、自分が父と同じ道を選ばなかったことを後悔しています。何も言わなかったけど、父は僕に後を継いでほしかったに違いありません。だから、葛西さんに対してあんな風に・・・」
幸雄は、くぐもった声で淡々と言った。しかし、それが却って彼の持って行き場のない悲しみを際立たせた。
「ユキオさん、あなたには大事なことがあります。家族を守ることです。これから何が起こるかわかりませんから。タミヤマさんもそれが気がかりなのだと思います」
ギルフォードが言った。
「ええ、そうでしたね。父は僕に後を頼むと言いました。それは、家族を守れということなんですよね」
幸雄が頷いて言った。そこに、園山看護士の声が会話の流れを絶った。
「幸雄さん、多美山さんが何かうわごとを言っておられるようですが」
「え?」
幸雄は驚いて病室を見つめた。
「えっと・・・の・はまべ・には、お・や・を・なく・し・て、なく・とり・が・・・何なんです、これは?」
園山は、多美山の唇を読んで戸惑いを隠せずに言った。ギルフォードがすぐに気がついて答えた。
「あ、これは歌です。『浜千鳥』という日本の唱歌ですよ」
「ああ、昨日お話に出ていた歌ですね。でも、なんで、そんな歌を・・・」
園山は余計に戸惑って言った。ギルフォードは昨日の多美山との会話を思い出して言った。
「そういえば、タミヤマさんは言っておられました。娘さんや奥さんが亡くなられた時に、この歌が頭から離れなかったと・・・」
「そんな・・・。まさか、父はこんなときにそんな辛い時の夢を見て・・・?」
幸雄が両手で顔を覆いながら言った。
「いえ、そんなことは・・・」
ギルフォードが言いかけたそばから、
「違うわ!」
と由利子がはっきりと否定した。
「そういうときに思い出すような歌ですから、多美山さんにとってご家族との深い思い出がある歌なのだと思います。きっと、多美山さんは家族みんなで過ごした頃の夢を見ているんです。奥さんや娘さんや・・・もちろんあなたも一緒の・・・」
「そうでしょうか・・・」
幸雄はようやく顔を上げ、父の姿を改めて見ながら言った。
「きっとそうです」
由利子は幸雄を安心させようと、少しだけ笑顔を浮かべて答えた。
 多美山は小康状態を取り戻したかのように見えた。病室やスタッフステーションの緊張が少し和らいだ。
 しかし、それは束の間のことだった。ステーションのセントラルモニターで、多美山の容態を監視していた高柳が、いきなり立ち上がって多美山の病室の窓に走った。病室内のスタッフも慌しく動き始めた。高柳はマイクを取って、様子を見ながら病室内のスタッフに指示をしていた。遠目の効くギルフォードは、ベッドサイドモニターの画面を見て体を乗り出している。
「な、何があったの?」
不安そうに由利子が聞くと、ジュリアスがすぐに答えた。
「急に血圧と心拍数が下がったみたいだてよ。こりゃーまずいわ」
「え?」
「体内で大出血が起こっているかもしれんて」
「そんな・・・」
由利子はそれを聞いて幸雄の方をとっさに見た。彼は蒼白な顔をして身じろぎもせず病室を見ていた。
 皆が慌て始めたとほぼ同時に、多美山が今までにもまして苦しそうに喘ぎ始めた。
「いかん、気道に血液が急激にたまっているんだ。春野君、急いで吸引して!」
「はい!」
春野がそういって多美山のそばに行こうすると、いきなり多美山が半身を起こした。
「多美山さん? どうされました?」
春野が驚いて声をかけ近寄ろうとした。それを見て山口が何かを感じ取って言った。
「春野さん、待って!」
しかし、春野は反射的に患者の元に向かっていた。
「あぶない、よせ!」
と叫んで園山が咄嗟に立ちはだかりそれを阻止した。その時、ゴボッと嫌な音がして、多美山の口から塊の混じった大量の血液が噴出した。園山の防護服の背に大量の血が飛び散った。多美山はそのまま血を撒き散らしながら昏倒したが、すぐに全身が痙攣し身体が弓なりに反り返った。『幸いにも』それは長く続かなかった。十数秒後、多美山の身体は力なくベッドに沈み、傍目からもわかるように見る見るうちに全身の力が抜けていった。そして、そのまま彼は動かなくなった。生体モニターの波形の静止する音が、静まり返った病室に空しく響く。多美山の身体の下からは、じんわりと血が滲んで広がっていった。口からはまだ生々しい血が流れていた。
 全てが突然だった。あまりのことに、皆、身じろぎも出来ずにただ呆然と立っていた。

 その頃葛西はようやくセンターの前にたどり着いていた。だが、紗弥の助けがなければとてもこの時間にはたどり着けなかっただろう。
「雨具はそのまま脱ぎ捨てて! 早くお行きなさいませ!」
「ありがとう! お言葉に甘えます! あ、これ、如月さんにもよろしく!」
葛西はそう言いながらヘルメットを返し、雨具の上下を脱ぎ捨てて、脱兎の如く室内に走った。走りながら、今までの多美山との沢山の思い出が甦っていた。
(多美さん、多美さん、どうか死なないで・・・!)
葛西は心の中で叫んでいた。

 園山が、最初に我に返った。
「蘇生を・・・」
彼はとっさに言った。しかし、三原は静かに首を横に振った。
「どうして!」
「ウイルスに全身を冒されて、免疫の暴走で多臓器不全を起こし、ウイルス増殖の結果、内臓も呼吸器も大出血で血の海だろう、おそらく脳も! そんな状態で蘇生してどうなるっていうんだ!! 見ろ! ベッドも床もそして君も、血だらけなんだぞ!」
三原が珍しく激しい言葉を吐いた。しかし、すぐに冷静に戻って言った。
「成功したとしても、多美山さんを無駄に苦しませるだけだ。わかるだろ、園山君」
園山は黙って下を向いていた。しかし、その肩は小刻みに震えていた。由利子たちは、その様子を身じろぎもせずに見ていた。由利子にはまだこれが現実であるような実感が湧かない。悪夢としか思えなかった。高柳が静かに言った。
「多美山さんは、延命拒否をされていただろう。園山君、君の気持ちはきっと通じているよ。それから三原君・・・」
三原は高柳に促されて死亡の確認をすると、開いたままだった多美山の目をそっと閉じた。その後、低音だがはっきりとした声で幸雄に言った。
「残念ですが、亡くなられました。死亡時刻は午後4時7分です・・・。力が足りず申し訳ありませんでした」
「いえ・・・」
幸雄はしっかりした口調で答えた。
「最善を尽くしていただいて、父も感謝していると思います。ありがとうございました・・・」
だが、その後またがっくりとうなだれてしまった。
「春野君、清拭をお願いします」
三原に言われて、未だ呆然としていた春野が我に返った。
「はいっ」
彼女はすぐに返事をすると、多美山の遺体に向かい手を合わせた。その様子を見ながら、幸雄が言った。
「由利子さんでしたっけ・・・」
由利子はいきなり呼ばれて内心驚きながら答えた。
「はい」
「さっき、あなたが言ったことで思い出したんです。昔、父がまだ交番勤務だった頃ですが、当時も父は忙しくて、なかなか夜一緒に寝ることが出来ませんでした。でも、添い寝してくれる時、子守唄代わりに必ず歌ってくれたのが、さっきの『浜千鳥』だったんです。子供心になんであんな悲しい歌を歌うんだろうって思ってましたけどね・・・」
幸雄はそういうとクスッとわらった。
「聞いたら、おれも子どもの頃母ちゃんに歌ってもらったんだって言って・・・。意外とマザコンだったんですね。母も年上だったし・・・」
そういうと、幸雄はまた笑った。悲しい笑顔だった。
「ありがとうございます。由利子さんの言われたとおり、父はあの頃の夢を見ていたんだと思います。それなりに穏やかな日々でした」
幸雄はそこでまた言葉を切った。こみ上げる何かをこらえるように彼は続けた。
「無骨で不器用な人でした。でも誠実でまっすぐな人でした。仕事熱心でしたから、ひょっとしたらいつか殉職するんじゃないかって・・・、生前母も心配して・・・。だけど、こんな死に方・・・。酷い、酷すぎます。 父が何の悪いことをしたって言うんです? 何でここで死ななきゃならないんです? 父さんは・・・、父さ・・・」
幸雄の口から嗚咽が漏れた。こらえきれずに声をひそめて泣く幸雄を前に、高柳を含む4人はかける言葉もなく、ただ立っていた。
「うそだろ・・・、多美さん・・・」
そんな彼らの背後で、声がした。振り返ると、いつの間にか葛西が、息を切らせながら倒れそうなほど蒼白な顔で、呆然と立っていた。 
 

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
浜千鳥(索引から「は行」に飛んで該当曲を探してください)
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html

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