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4.衝撃 (5)悲しいワルツ

「うん、高柳さんの言うとおり、うみゃあわ、このAランチ」
ジュリアスが、おかずの一口カツをぱくつきながら言った。
 三人は感対センターの職員食堂で、少し遅い昼食を食べていた。高柳が昼ごはんがまだならば、ここが安くて美味いからと勧めてくれたのである。
「ほだけど流石アレックスだて。あれからすぐにおれ達の話に追いついたでにゃあ」
「ジュリーってば何をのんびり言ってんの。こっちは一時どうなることかと思ったんだから」
「申し訳ありません、ユリコ。僕もまさかあんなにショックを受けようとは・・・。やはり僕にとってあの蟲は鬼門です」
「いや、どうなるかと思ったのは・・・。まあ、いいや。でも、ホントに大嫌いなんだ、あの昆虫」
「ええ、ホントに」
「まあ苦手なものは仕方がないよねえ」
「ユリコは怖いものなしですか?」
「んなワケないでしょ。私にだって怖いもののひとつや二つあるわよ」
「何ですか、ソレは?」
ギルフォードが興味津々で聞いてきた。
「大型の蛾よ」
「ガ?」
「え~っと、昆虫の・・・」
「ああ、『蛾』ですか。Mothraですね」
「そこまで大きくないけどね。でかい蛾がいたら、パニックになるの。子どもの頃、夏休みに長野に家族旅行に行った時、山奥の旅館で、うっかり電気をつけたまま窓を全開してみんなで食事に行ったの。部屋が3階だったので安心したんだね。で、2時間ほどして部屋に帰ったら、部屋の中がドえらいことに・・・」
「虫だらけになってたんですね」
「そう。しかも、最初に入ったのがこともあろうにシンジュサンという種類の大型蛾のメスだったらしくて、もう明かりとフェロモンに釣られたオスがわんさかと。壁と言う壁、照明と言う照明にモスラのミニチュアが・・・」
「それは、虫が平気な人でも引くでしょうね」
「もう、山中のシンジュサンが集まったかと・・・。旅館の人には怒られるし、その部屋はそのままじゃ気持ち悪くて寝られないし、大変だったのよ。それ以来1匹でも部屋に入ってくると、もうパニックですよ」
と、由利子は当時を思い出したのか、ぶるっと震えて言った。
「そうですね。誰にでもトラウマはありますよね」
ギルフォードは明るく言った。ジュリアスは、黙々とランチを食べながら、二人の会話を静かに聞いていた。しかし、彼が時折ギルフォードの方を心配そうに眺めていたことに、二人が気付いた様子はなかった。ジュリアスは、あることを由利子に話すべきかどうか迷っていた。
「それにしても、日を追って問題が増える一方ですね。その上に、事件を調べているらしい女と、訳ありそうな女医の存在まで・・・」
「ちょっとまって。私、その女医の話は聞いてないけど・・・」
「おりゃー事件を調べとるとかゆー女についても聞いてにゃあぞ」
「わかりました。説明しましょう。女医の件については僕も昨日初めて知ったのです」
ギルフォードは、昨夜電話で聞いた佐々木良夫からの情報を簡単に説明した。
「さらに、これは今朝キサラギ君から得た情報で、まだ未確認ですが、アキヤマ・マサユキ君の事故現場に遭遇したという少女が、謎の病気で亡くなっているらしいのです」
「なんてこった!」
ジュリアスがテーブルを叩いて立ち上がりながら言った。
「問題が増えるというより加速がついとるじゃにゃあか」
「翌日すらどんなことになっているか、また、どんなことが起きるか、想像もつかないってことね」
由利子も厳しい表情で言った。ジュリアスの勢いに、周囲の人たちが驚いて彼らの方を見たが、すぐに自分達の話に戻っていった。ジュリアスは少しバツの悪そうにして椅子に座りなおした。
「ところで、葛西君からは何か連絡は入ってない?」
「君には入ってないんですか?」
「ええ、今日はアレク以外は誰からもま~ったく」
由利子は少し口を尖らせて答えた。
「僕の電話にも入ってないですね」
ギルフォードは携帯電話を確認しながら言った。
「ちょっとかけてみましょうか。ここは携帯電話禁止ではないですか?」
「え~っと」
と、由利子は周囲を見回して言った。
「壁に『携帯電話のご使用は最低限に』と書いてありますから、禁止ではないようですね」
「じゃあ、ちょっとならいいですね。緊急電話なのは間違いないですし」
そういうと、ギルフォードは葛西に電話をかけた。
「あ、今度は繋がりましたよ・・・あ、出ました!」
ギルフォードは嬉しそうに言った。
「ジュン! 何をしているんです? そろそろ切り上げてこっちに来てください。・・・え? 今取り込んでいる? 明日ではだめなんですか? タミヤマさんの容態? 悪くなる一方ですよ・・・。それに・・・」
ギルフォードは『このままだと明日はないかもしれない』と言おうとして、言葉を飲み込んだ。
「こちらにも君に伝えたい情報があるんです。え? ええ、電話じゃダメです。資料がありますから・・・って、ジュン?・・・ジュン!! ・・・切られました・・・」
ギルフォードは電話を耳から離すと画面を一瞥し、少し眉間にしわを寄せて電話を切った。由利子がため息をついて言った。
「こうなってくると、むしろ現実逃避やね。まったくもう、あのお子ちゃまは!」
「ほいじゃあ、今日は葛西君と会えにゃあだか?よだるいねえ。」
ジュリアスはそう言いながらお茶をグイッと飲んだ。
「ぐい飲みで日本酒を一杯やっているみたいですね」
ギルフォードが冗談を言ったが、誰も笑わなかった。

 病室は静かで、生体モニターの音と酸素マスクに酸素が送られる音だけが聞こえる。多美山はあのまま目を覚ますことなく、依然危険な状態にいた。すでに鼻や耳からの出血が始まっていた。息子の幸雄は横に座ったまま、ずっと父親の手を握っていた。見かねた園山看護士が言った。
「幸雄さん、そろそろ防護服でいるには限界が近いんじゃないですか? 特にそのマスクは呼吸し辛いでしょ? 僕らだって時間で交代しているんだから、あなたも少し休まれてください。何かありましたら、すぐにお呼びしますから・・・」
「いえ、着がえに時間がかかるし、万一に間に合わなかったら後悔しそうで・・・」
「幸雄さん」
三原医師が言った。
「申し訳ないのですが、病状がこれ以上悪化した場合、医療関係者以外はここから退出していただくことになっています。どんなキケンなことが起こるか我々にもまったくわかりませんから、万一の感染リスクを考えてのことです」
「そんな・・・。じゃあ、もしも・・・の時には傍にいてやれないっていうことですか?」
「残念ながら・・・」
三原は頭を下げて言った。
「例の『窓』で見守っていただくしかないのです」
「何とかならないのですか?」
「なりません。それに、お父さんだってあなたに感染して欲しくないはずですよ」
そう言われると、幸雄は返す言葉がなかった。三原の言葉に幸雄が迷っていると、多美山がゆっくりと幸雄の方を向いた。目はあのままガーゼで覆われているが、少し意識が戻ったのか。
「父さん、起きたの?」
幸雄が少し嬉しそうな表情で言った。多美山は何か言いたげに口を動かしていたが、声帯をやられたのか声がほとんど出ないようだった。
「え? 何か言いたいの?」
幸雄は父親に耳を近づけようとした。慌てて園山がそれを止める。
「ダメです。念のためあまり近づかないで!! 僕が唇を読んでみますから」
それが聞こえたのか、多美山は出来るだけはっきりと口を動かそうとした。園山はじっとその口を読んで幸雄に伝えた。
「『ゆ・き・お、・・・おれ・は、いい、あとを、たの・む、しあわ・せ・に・・・』・・・・」
園山の最後の方の声がかすれた。多美山は、ようやくそれだけ言うと笑顔を作ろうとしたが、すでにそれは不可能になっていた。ウイルスが表情筋まで冒してしまったからだ。多美山はもはや全身をウイルスに席巻されていた。
「父さん、何弱気なこと言ってんだよ! らしくないだろ? しっかりしてくれよ!!」
幸雄は多美山の手を両手で握りながら言った。その時、多美山の身体が引きつりのけぞった。
「いかん! 園山君、幸雄さんを!!」
三原が叫ぶと共に、園山が幸雄を右手で抱え上げ多美山から引き離した。
「は、放して下さい! 父さん、父さん!」
幸雄は抵抗したが、見た目は長身で細身だが介護で鍛えている園山は、多少の抵抗にはビクともしない。慣れない手袋をした手から、空しく父の手がすり抜けた。園山の肩越しに父が見えた。身体を激しくひきつけた父の口から大量の黒い血が流れているのがわかった。その父の姿がどんどん小さくなっていく。幸雄が諦めずに父を呼び突ける中、三原が叫んだ。
「みんな、来てくれ!! 多美山さんの容態が悪化した!! 非常に危険な状態だ」
それを受けて、山口医師と春野看護士をはじめ、数人が駆け出した
「父さん! 父さーーーん!!」
何度も叫びながら、幸雄は園山と駆けつけてきたもう一人の男性看護士に抱え上げられて、病室から姿を消した。ドアが閉まり、幸雄の目の前から父の姿が消えた。
「うぉぉおおおおお・・・!!」
幸雄が号泣する声が、多美山の病室の中にまで聞こえた。三原は一瞬両目を堅く瞑った。

 多美山の激変は、すぐにギルフォードたちにも伝えられた。ギルフォードはすぐに葛西に報せるべく、携帯電話を手にした。
「出ませんね。電源は入っているようですけど」
呼び出し音が続く中、一向に電話に出ない葛西に、ギルフォードは流石にイラついた面持ちで電話を切った。それを見て由利子が言った
「とりあえず、ほっといて行きましょう。着信に気がついたら電話して来るはずよ」
「でも、病棟では携帯電話は禁止です」
「子どもじゃないんだから、その辺は何とかするでしょうよ」
由利子もイラッとして言った。
「アレックス、由利子の言うとおりだがや。とにかく行ってみよまい」
「わかりました。とりあえず留守録に入れておきましょう」
ギルフォードはそういいながらまた葛西に発信した。
「『ギルフォードです。多美山さんが危篤です。出来るだけ早く来て下さい』・・・と、これでよしっと。さあ、とにかく行きましょう」
ギルフォードはそういうと席を立った。残りの二人も追って席を立つと、急いで食堂を後にした。
 

 葛西は女を追っていた。ギルフォードからの電話を切った理由は、本当に取り込んでいたからだった。彼の追っている女は、あの真樹村極美だった。C川の現場周辺の調査を切り上げ、とりあえず署まで帰ろうと商店街までたどり着いた時、ふと見た果物店で店主らしい男と話している極美を発見したのだった。これはなんとしても呼び止め、職務質問をして彼女の目的を知らねばならない。場合によっては交渉しなければならないかもしれない。葛西はまっすぐ正攻法で極美に近づいていった。葛西が10mほど近づいた時に、店主の親爺と談笑していた極美が葛西のいる方向を見た。彼女はすぐに葛西の姿を見届けると、顔色を変え、店主への挨拶もそこそこに駆け出した。彼女は葛西があの時の刑事だということに気付いていて、彼から逃れようとしていることは明白だった。
「あ、こら、待てよ!!」
葛西はすぐに後を追った。極美もかなり足が速かったが、もともと陸上選手だった葛西の足にかなう筈もなく、最初人の間を上手く縫いながら逃げていたが、駅前の広場でとうとう追いつかれ、葛西から腕をつかまれた。
「キャーーーーーーッ!!」
極美はとっさに鋭い悲鳴を上げた。
「イヤーーーーーッ! 変質者よ、助けてーーーーー!!!」
「な・・・」
葛西は一瞬呆然とした。周囲を見回すと、何人もの人がこっちを見ていて、中にはフトドキにも携帯電話のカメラを向けている輩までいた。依然、ここぞとばかりにわめきまわる極美の手を意地で離さないまま、葛西は焦って言った。
「ち、ちがいます。僕は警察の者です。あなたに聞きたいことがあって・・・」
葛西は警察手帳を出して、見せようとした。その時、背後で声がした。
「僕の知り合いに何か用?」
「裕己さん!」
極美がほっとした表情で男の名を呼んだ。男は続けた。
「この人は何か犯罪を犯したのかい?」
「いえ、そういうわけでは」
「警察だからって、犯罪者でもない女性を追い回して腕を掴むだなんて、野蛮なことをしていいの?」
「いえ、でも彼女は・・・」
そこまで言って葛西は口ごもった。何と言って良いのかわからなくなったのだ。
「彼女を離しなさい。このまま、この人をこの状態で人前にさらすなら・・・」
その時、葛西の手に激痛が走った。一瞬降屋の方に葛西の注意がいった隙に、極美が噛み付いたのだ。
「うわっ!!」
痛みに葛西が反射的に手を離したのを幸いに、極美は逃げ出した。
「待ちなさい!!」
葛西が再び彼女を追おうとした時、笑いながら降屋が言った。
「女なんか追っかけている場合じゃないんじゃない? 今、君の大事な人が大変なんだろ?」
「な・・・?!」
葛西は驚いて振り返った。しかし、そこにはもう降屋の姿はなかった。
「どういうことだ?」
一瞬呆然とする葛西。しかし、すぐに当初の目的を思い出し、極美を追おうと彼女の逃げた方向に駆け出したが、すでに極美もどこかに姿を消していた。
「しまった・・・!!」
葛西は悔しがったが後の祭りだった。
「一体何なんだ、さっきの男は・・・?!」
葛西は憮然として歩道に立ちつくしたが、手の痛みに気がついて噛まれた右手をじっと見た。掌の小指側にくっきりと歯型が残っていた。
(何なんだよ、まったく・・・)
葛西は思ったがどうしようもない。しかし、噛み付かれた手を見て秋山雅之のことを思い出した。もう一度あの公園に寄ってみよう・・・、と葛西は思った。

 葛西は公園の前まで来た。さっきからポツリポツリと小さな雨粒が時折頬に触れていた。葛西は自分が今日の天気予報すら確認していないことに気がついた。
(大雨になるのかな?)
葛西は思ったが、そんなことはどうでもいいような気がした。葛西は公園の門の前で立ち止まった。全てはここから始まったような気がした。ここで多美山が感染したのだ。あの時、皆に黙ってこっそりと自分だけここに来ていたら・・・、葛西は思った。それならば多美山の感染もなく、今も元気で走り回っているだろう。代わりにあの病院で今苦しんでいるのは、自分だったかも知れないが・・・。だが、自分だけで子どもたちを守れただろうか・・・。それは誰にもわからない。人生にやり直しは出来ないからだ。件の公園は未だ立ち入り禁止が解除されず、門の前には警官が見張りをしていた。葛西は彼らに敬礼して挨拶をするとそこを後にしようとした。数m歩いたところで、バイクが横を通り過ぎた。
(アレク?)
葛西はそのバイクを目で追った。しかし、ギルフォードのバイクよりいく分か小型だった。それでも赤いボディの大型のバイクだ。ライダーは体型からして女性のようだった。件のバイクは葛西の斜め前あたりで止まった。ライダーはバイクから降りて葛西の前に立った。
「ここら辺を流してたら、お会いできると思ってましたわ」
女性ライダーは、ギルフォードの秘書の紗弥だった。
「さ、まだ間に合うかも知れませんわ。感対センターまでお連れします」
葛西は状況が飲み込めずに言った。
「アレクに頼まれたんですか?」
「いいえ、私の独断ですわ。教授からあなたのことを聞いたので、なんとかしたいと思ったのです。さあ、ヘルメットをお渡ししますから・・・」
「いえ、僕はまだ行けません。まだ多美さんに報告するほどの成果を得ていないんです!」
頑なに拒もうとする葛西を見て、紗弥は美しい眉間を一瞬寄せると軽く葛西の頬を叩いた。
「え?」
葛西は呆然として頬を押さえた。
「あなたの相棒であり大先輩が危篤なんですのよ。今行かないと一生後悔しますわ」
紗弥は、静かな中に厳しさを交えて言った。
「危篤? ホントに・・・? 本当に多美さんは・・・」
葛西は急いでポケットの携帯電話を見た。ギルフォードからの着信が入っていた。さっきのごたごたで気がつかなかったのだ。
「アレクからまた電話が・・・。留守電も入ってる」
葛西はギルフォードからの留守録を聞いて、顔色が青ざめ、電話が手から滑り落ちた。紗弥はそれを見逃さずに地面に落ちる前に受け止め、葛西に渡した。
「ほら、しっかりなさいませ」
「紗弥さん、すみません。僕、やっぱり行きます。連れて行ってください」
葛西はとうとう現実を受け入れた。紗弥は微笑んで言った。
「さあ、まずこれを着てくださいな」
紗弥は半透明のビニールの袋のようなものを葛西に渡した。
「100円ショップので申し訳ないですが、レインコートとレインズボンです」
「え?こんなの着るんですか?」
「バイクでの雨を舐めてはいけませんわ。それでなくても風で体感温度がかなり下がりますのよ」
それを聞いて葛西はすぐにコート類を受け取ると身につけはじめた。
「如月君のオッサンヘルメットで申し訳ないですけれど・・・」
紗弥はそういいながら、白いヘルメットを葛西に渡した。葛西が準備している間に紗弥はバイクにまたがってエンジンをかけた。ヘルメットを押さえながら、葛西がバイクに小走りで近づいた。
「さ、後部席にまたがって、私の腰に手を回しておなかのところでしっかり両手を組んで!」
「え? いいんですか?」
「振り落とされたくなかったらそうしてくださいな」
「はい!」
葛西は返事をすると、焦って紗弥の言うとおりにしっかりと手を組んだ。細いけれど、大型バイクを操るだけあって、かなり鍛えた腹筋だった。
「組みました!」
「じゃ、行きますわよ!!」
紗弥はいきなりバイクを発進させた。
「うわ~~~~っ!」
ドップラー効果付きの葛西の悲鳴を残して、二人を乗せたバイクは見る見る姿を小さくしていった。


 三人は、多美山の病室に通じる『窓』の前に駆けつけた。ギルフォードとジュリアスは躊躇することなく窓に近づいたが、流石に由利子は数歩前で足が止まった。しかし、数秒後、意を決して二人と肩を並べて窓の前に立った。
 病室ではスタッフが忙しそうに動きまわっていた。多美山は、苦しそうに喘いでいた。口の周りには血の跡が残り、口の端からはまだ血が流れていた。目・鼻・耳からの出血も止まらないようで、春野看護士が何度もガーゼを取り替え血を拭っていたが、頭の周囲はすでにどす黒い血の染みが白いシーツに広がっていた。顔の表面も所々内出血の青黒い染みが出来ている。
「あれ?」
由利子は気がついて言った。
「息子さんがおられないけど・・・」
「多分、リミットが来たので、病室から出されたのでしょう」
「え? そうなんですか? 防護服を着ているのに」
「はい。放血する可能性がありますし、万一のことがあってはいけませんからね」
「そういうことですか・・・」
由利子は納得したのかそうでないのかよくわからない表情で答え、もうひとつ質問した。
「で、人工呼吸器はつけないんですか? 延命拒否をされたから?」
「違いますよ、ユリコ」
ギルフォードは説明した。
「もう、呼吸器官がボロボロなんで、送管出来ないんです。無理につけようとすると、大出血を起こしてしまいます」
「そんな・・・。じゃあ・・・」
「酸素マスクに頼るしかありませんが、自発呼吸が出来なくなった場合・・・。いずれにしても、かなり苦しいと・・・」
「なんで・・・。昨日最初に会った時は、あんなに元気だったのに・・・」
「劇症化です。最悪な状態ですよ。マサユキ君のおばあさんと同じ状態だと思われます。原因はまだわかりません」
「昨日のような治療は?」
「もう・・・。多美山さんの手を見てください。包帯が巻かれていますが、血が滲んでいるでしょう? 点滴の針跡からも血が流れて続けているんです。皮膚も血管もボロボロなんで、うっかり針をさせないんです。おそらく内臓もかなりダメージを受けているはずです」
「・・・」
由利子は、何と言って答えたらいいのかわからず、無言でギルフォードを見た。彼は淡々と続けた。
「ベッドの横に下がっている袋が見えますね? あれは尿を溜めておくものですが、見てわかりますね、すでに血尿が出ています。おそらく、下血もしているでしょう。よく言われるような毛穴からまで出血することは滅多にありませんが、これが出血熱というものです。出血熱と言うのは、風邪と同じように、様々なウイルスによる出血性の疾患の総称で、特定の病名ではありません。この病気もウイルスが特定されれば、はっきりした病名がつきますが、今は、謎の出血熱としか言いようがないのです」
「アレク、もういいよ」
由利子は言った。
「流石に医者やね。こういうときには冷静だわ」
「ユリコ・・・?」
「褒めているのよ。私にはとても出来ないもの。こんな時にそんな説明・・・」
傍目からは、由利子自身もかなり冷静に見えたが、よく見ると手や膝などが小刻みに震えていた。それに気付いてジュリアスが言った。
「由利子、おみゃあさんもそーとー気が強いと思うがね。普通の女性ならこの状況を見るだけで耐えられにゃあて。よ~がんばっとるよ」
「逃げ出したいよ、本当は。でも、逃げちゃいけないんだ」
由利子は、正面を向いたまま言った。そこに、看護士に支えられて多美山の息子、幸雄がやってきた。すでに泣き腫らした目をしていた。三人は彼の方を向くと、無言で挨拶をして椅子に座らせた。
「危険ということで、追い出されました・・・」
幸雄は、寂しい笑顔で言った。
「結局何の役にも立てませんでした・・・」
「そんなことはにゃあて!」
ジュリアスが力強く否定して言った。
「幸雄さんは、病室に入ってずっとお父さんを励ましとったでしょう? 普通、感染が怖くてそこまで出来にゃーんだなも。きっとお父さんも心強かったと思うて」
「そうでしょうか?」
幸雄はうつむいたまま訊いた。
「そうに決まっていますよ!」
由利子が、ジュリアスに援護するように言った。
「ありがとうございます。少し気が楽になりました・・・・ところで、あの・・・」
相変わらずうつむいたまま、幸雄が尋ねた。
「この病気が人為的にばら撒かれたものというのは本当でしょうか・・・?」
三人は顔を見合わせ、ギルフォードが答えた。
「このウイルスの出処がはっきりしない限り可能性はないとは言えません。しかし、あくまでも可能性です。そして、多美山さんはその捜査にあたる予定でした」
「父は身体を張って子どもたちを感染から守ったと聞きました。僕はそんな父を誇りに思います。そして、このボロボロになった父を目の当たりにすると・・・。僕は、父を見て育ち、それゆえに警官になることを避け、平凡なサラリーマンの道を選びました。でも、今は、自分が父と同じ道を選ばなかったことを後悔しています。何も言わなかったけど、父は僕に後を継いでほしかったに違いありません。だから、葛西さんに対してあんな風に・・・」
幸雄は、くぐもった声で淡々と言った。しかし、それが却って彼の持って行き場のない悲しみを際立たせた。
「ユキオさん、あなたには大事なことがあります。家族を守ることです。これから何が起こるかわかりませんから。タミヤマさんもそれが気がかりなのだと思います」
ギルフォードが言った。
「ええ、そうでしたね。父は僕に後を頼むと言いました。それは、家族を守れということなんですよね」
幸雄が頷いて言った。そこに、園山看護士の声が会話の流れを絶った。
「幸雄さん、多美山さんが何かうわごとを言っておられるようですが」
「え?」
幸雄は驚いて病室を見つめた。
「えっと・・・の・はまべ・には、お・や・を・なく・し・て、なく・とり・が・・・何なんです、これは?」
園山は、多美山の唇を読んで戸惑いを隠せずに言った。ギルフォードがすぐに気がついて答えた。
「あ、これは歌です。『浜千鳥』という日本の唱歌ですよ」
「ああ、昨日お話に出ていた歌ですね。でも、なんで、そんな歌を・・・」
園山は余計に戸惑って言った。ギルフォードは昨日の多美山との会話を思い出して言った。
「そういえば、タミヤマさんは言っておられました。娘さんや奥さんが亡くなられた時に、この歌が頭から離れなかったと・・・」
「そんな・・・。まさか、父はこんなときにそんな辛い時の夢を見て・・・?」
幸雄が両手で顔を覆いながら言った。
「いえ、そんなことは・・・」
ギルフォードが言いかけたそばから、
「違うわ!」
と由利子がはっきりと否定した。
「そういうときに思い出すような歌ですから、多美山さんにとってご家族との深い思い出がある歌なのだと思います。きっと、多美山さんは家族みんなで過ごした頃の夢を見ているんです。奥さんや娘さんや・・・もちろんあなたも一緒の・・・」
「そうでしょうか・・・」
幸雄はようやく顔を上げ、父の姿を改めて見ながら言った。
「きっとそうです」
由利子は幸雄を安心させようと、少しだけ笑顔を浮かべて答えた。
 多美山は小康状態を取り戻したかのように見えた。病室やスタッフステーションの緊張が少し和らいだ。
 しかし、それは束の間のことだった。ステーションのセントラルモニターで、多美山の容態を監視していた高柳が、いきなり立ち上がって多美山の病室の窓に走った。病室内のスタッフも慌しく動き始めた。高柳はマイクを取って、様子を見ながら病室内のスタッフに指示をしていた。遠目の効くギルフォードは、ベッドサイドモニターの画面を見て体を乗り出している。
「な、何があったの?」
不安そうに由利子が聞くと、ジュリアスがすぐに答えた。
「急に血圧と心拍数が下がったみたいだてよ。こりゃーまずいわ」
「え?」
「体内で大出血が起こっているかもしれんて」
「そんな・・・」
由利子はそれを聞いて幸雄の方をとっさに見た。彼は蒼白な顔をして身じろぎもせず病室を見ていた。
 皆が慌て始めたとほぼ同時に、多美山が今までにもまして苦しそうに喘ぎ始めた。
「いかん、気道に血液が急激にたまっているんだ。春野君、急いで吸引して!」
「はい!」
春野がそういって多美山のそばに行こうすると、いきなり多美山が半身を起こした。
「多美山さん? どうされました?」
春野が驚いて声をかけ近寄ろうとした。それを見て山口が何かを感じ取って言った。
「春野さん、待って!」
しかし、春野は反射的に患者の元に向かっていた。
「あぶない、よせ!」
と叫んで園山が咄嗟に立ちはだかりそれを阻止した。その時、ゴボッと嫌な音がして、多美山の口から塊の混じった大量の血液が噴出した。園山の防護服の背に大量の血が飛び散った。多美山はそのまま血を撒き散らしながら昏倒したが、すぐに全身が痙攣し身体が弓なりに反り返った。『幸いにも』それは長く続かなかった。十数秒後、多美山の身体は力なくベッドに沈み、傍目からもわかるように見る見るうちに全身の力が抜けていった。そして、そのまま彼は動かなくなった。生体モニターの波形の静止する音が、静まり返った病室に空しく響く。多美山の身体の下からは、じんわりと血が滲んで広がっていった。口からはまだ生々しい血が流れていた。
 全てが突然だった。あまりのことに、皆、身じろぎも出来ずにただ呆然と立っていた。

 その頃葛西はようやくセンターの前にたどり着いていた。だが、紗弥の助けがなければとてもこの時間にはたどり着けなかっただろう。
「雨具はそのまま脱ぎ捨てて! 早くお行きなさいませ!」
「ありがとう! お言葉に甘えます! あ、これ、如月さんにもよろしく!」
葛西はそう言いながらヘルメットを返し、雨具の上下を脱ぎ捨てて、脱兎の如く室内に走った。走りながら、今までの多美山との沢山の思い出が甦っていた。
(多美さん、多美さん、どうか死なないで・・・!)
葛西は心の中で叫んでいた。

 園山が、最初に我に返った。
「蘇生を・・・」
彼はとっさに言った。しかし、三原は静かに首を横に振った。
「どうして!」
「ウイルスに全身を冒されて、免疫の暴走で多臓器不全を起こし、ウイルス増殖の結果、内臓も呼吸器も大出血で血の海だろう、おそらく脳も! そんな状態で蘇生してどうなるっていうんだ!! 見ろ! ベッドも床もそして君も、血だらけなんだぞ!」
三原が珍しく激しい言葉を吐いた。しかし、すぐに冷静に戻って言った。
「成功したとしても、多美山さんを無駄に苦しませるだけだ。わかるだろ、園山君」
園山は黙って下を向いていた。しかし、その肩は小刻みに震えていた。由利子たちは、その様子を身じろぎもせずに見ていた。由利子にはまだこれが現実であるような実感が湧かない。悪夢としか思えなかった。高柳が静かに言った。
「多美山さんは、延命拒否をされていただろう。園山君、君の気持ちはきっと通じているよ。それから三原君・・・」
三原は高柳に促されて死亡の確認をすると、開いたままだった多美山の目をそっと閉じた。その後、低音だがはっきりとした声で幸雄に言った。
「残念ですが、亡くなられました。死亡時刻は午後4時7分です・・・。力が足りず申し訳ありませんでした」
「いえ・・・」
幸雄はしっかりした口調で答えた。
「最善を尽くしていただいて、父も感謝していると思います。ありがとうございました・・・」
だが、その後またがっくりとうなだれてしまった。
「春野君、清拭をお願いします」
三原に言われて、未だ呆然としていた春野が我に返った。
「はいっ」
彼女はすぐに返事をすると、多美山の遺体に向かい手を合わせた。その様子を見ながら、幸雄が言った。
「由利子さんでしたっけ・・・」
由利子はいきなり呼ばれて内心驚きながら答えた。
「はい」
「さっき、あなたが言ったことで思い出したんです。昔、父がまだ交番勤務だった頃ですが、当時も父は忙しくて、なかなか夜一緒に寝ることが出来ませんでした。でも、添い寝してくれる時、子守唄代わりに必ず歌ってくれたのが、さっきの『浜千鳥』だったんです。子供心になんであんな悲しい歌を歌うんだろうって思ってましたけどね・・・」
幸雄はそういうとクスッとわらった。
「聞いたら、おれも子どもの頃母ちゃんに歌ってもらったんだって言って・・・。意外とマザコンだったんですね。母も年上だったし・・・」
そういうと、幸雄はまた笑った。悲しい笑顔だった。
「ありがとうございます。由利子さんの言われたとおり、父はあの頃の夢を見ていたんだと思います。それなりに穏やかな日々でした」
幸雄はそこでまた言葉を切った。こみ上げる何かをこらえるように彼は続けた。
「無骨で不器用な人でした。でも誠実でまっすぐな人でした。仕事熱心でしたから、ひょっとしたらいつか殉職するんじゃないかって・・・、生前母も心配して・・・。だけど、こんな死に方・・・。酷い、酷すぎます。 父が何の悪いことをしたって言うんです? 何でここで死ななきゃならないんです? 父さんは・・・、父さ・・・」
幸雄の口から嗚咽が漏れた。こらえきれずに声をひそめて泣く幸雄を前に、高柳を含む4人はかける言葉もなく、ただ立っていた。
「うそだろ・・・、多美さん・・・」
そんな彼らの背後で、声がした。振り返ると、いつの間にか葛西が、息を切らせながら倒れそうなほど蒼白な顔で、呆然と立っていた。 
 

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆
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4.衝撃 (6)新たな誓い

 楓は、多美山の家に無事に帰り着いていた。
 娘の梢は夫が心配だからと、孫の桜子を楓に任せて、とんぼ返りで感対センターに引き返してしまった。それで、仕方なく孫と二人で多美山の家に居るのだが、いくら娘婿の実家であるとはいえ、所詮「他所の家」、どうも主不在の家にいてもくつろげない。
 一方孫の桜子のほうはといえば、長旅となれない病院で緊張したせいか、何とか家に帰りつくまで頑張っていたが、家に入って落ち着くと、着がえもそこそこに転寝をしてしまった。帰る途中、駅のうどん屋で少し遅い昼食を摂ったので、おなかいっぱいになったせいかもしれない。それで、楓は仕方なく押入れから適当に寝具を出して孫を横に寝かせ、自分はすることもないのでテレビをつけて、買ってきたペットボトルのお茶を飲みながら、なんとなくぼうっと二時間サスペンスドラマの再放送を見ていた。
 ドラマが中盤に差し掛かったころだろうか、横で気持ち良さそうに寝ていた桜子がいきなり起き上がって言った。
「おじいちゃん、かえってきた?」
桜子は、寝ぼけ眼できょろきょろと部屋を見回すと、またころんと布団に転がって寝てしまった。
「なんなの? この子ったら・・・」
楓はそう言ったものの、なんとなく嫌な予感がして時計を見た。時間は夕方4時を少し回ったくらいだった。楓は、桜子が踏み脱いだタオルケットを、再度掛けなおしてやると再びテレビドラマの続きを見始めた。しかし、すでに楓は真剣にドラマを見るどころではなくなっていた。
 彼女らがこの家にたどり着いた頃は小降りだった雨は、本格的に降りはじめていた。

 葛西はふらふらと歩いて窓に近づいてきた。
「葛西君・・・、やっと来た・・・」
由利子は葛西の方を見て、少しだけ微笑みながら言った。しかし、葛西はそれに気がつかないようだった。周囲は何も目に入らず、葛西はただ多美山のほうに向かっていた。葛西はドンとガラス窓にぶつかると、両手を窓につき、額を擦り付けるように病室内を見た。そこには血まみれの多美山の姿があった。スタッフの何人かの防護服にも血が飛び散った跡があった。園山看護士は、三原に命令され病室から退去していた。防護服の上からとは言え、大量の血液を浴びていたし、何より三原には、園山がすでに精神的に限界に至っていたのがわかっていた。多美山が発症してから、ろくに休まずに彼のそばについていたからだ。
 葛西は黙ったまま病室を見た。多美山の身体からはすでに機材が外され、看護士が顔の周囲を拭っていた。しかし、葛西はすぐに顔を病室からギルフォードの方に向けて、戸惑ったような表情で言った。
「アレク・・・、あの・・・」
「残念ですが、亡くなられました。ここで多美山さんとお別れですよ・・・」
「お別れ・・・?」
「ええ。病理解剖のあと、火葬されます。もう、会えないんですよ」
「うそ・・・」
葛西が小さい声でつぶやいた。
「うそじゃないですよ・・・。最後のお別れに間に合ってよかったですね」
「間に合った・・・?」
葛西はまた病室の方を向いてつぶやいた。
「いや、僕は間に合わなかった・・・」
葛西はそれからまたおし黙った。しかし、その背中はかすかに震えていた。しばらくして葛西がつぶやくように言った。
「多美さん・・・」
その後、いきなり窓にガンッ!と思い切り額をぶつけた。
「何するの! 割れたらどうするのよ!」
由利子が驚いて言った。しかし、葛西はそのままの姿勢で窓にへばりついていた。彼の背は、今やはっきりと震えていた。と、いきなり葛西が大声で多美山を呼びながら、窓を叩いた。
「多美さん! 多美さん! 目を覚ましてよ!! 死んだなんてうそでしょ・・・?」
半泣きで叫ぶ葛西を、幸雄が戸惑ったような表情で見た。ギルフォードはその様子を見ながら言った。
「まあ、この窓はあれくらいの衝撃ではビクともしませんが・・・、そばに息子さんがおられるのに、困りましたね」
「彼は多美山さんを父親のように思っとったんだろ? 無理にゃあて」
ジュリアスは同情的に言ったが、ギルフォードは厳しい顔で葛西に近づき彼の手を掴んで言った。
「もういいでしょう? そのくらいにしておきなさい」
ギルフォードに手を掴まれ、反射的に振り返った葛西が言った。
「アレク、僕、多美さんのそばに行きます。行かせてください!」
「それはダメです。我慢してください」
「いやだ! 多美さん!多美さん!!」
葛西はギルフォードの手を振り切って駆け出そうとした。ギルフォードは、ジュリアスと二人がかりで葛西を止めながら言った。
「ダメです! どこに行くつもりですか!」
「僕は多美さんにありがとうも何も言っていない! だから、多美さんのそばに行かなきゃ! 離してよ、アレク! 離せってば!」
「落ち着きなさい、ジュン!」
静かだが鋭い声と共に、ぱん!という乾いた音がした。ギルフォードが葛西の頬を打った音だった。ギルフォードは、葛西の耳元で言った。
「見なさい! これが、テロリストのしでかしたことです」
ギルフォードは葛西の襟首を掴むと、無理やり病室の方に彼の顔を向けた。
「目に焼き付けておきなさい、タミヤマさんの姿を・・・! 僕たちの・・・、君の戦う敵は、人に対してこんな残酷な仕打ちをするウイルスを、平気でばら撒くことが出来る連中なんです。彼らはウイルスを操作し培養出来る能力と、それを躊躇せず使用出来る冷酷さを持っているんです」
ギルフォードに現実を突きつけられ、葛西は否応なく目の前のことを受け入れざるを得なかった。彼は、へなへなと座り込んで、がっくりとうなだれた。由利子は葛西の様子をずっと無言で見ていたが、とうとう切れて怒鳴った。
「いい加減にしなさい! 多美山さんね、あんたが一人で頑張って捜査しているって聞いて、こん睡状態の中で笑っておられたんだよ。それだけ嬉しかったんだよ。なのに、そのテイタラクは何よ!」
ギルフォードとジュリアスが驚いて由利子の方を見た。由利子は涙をポロポロこぼしながらも腰に手を当て、続けて怒鳴った。
「しっかりしろ、葛西刑事!! 立ちなさい! ちゃんと立って、多美山巡査部長に最後の捜査報告をしなさい!!」
由利子に一喝されて、葛西は一瞬ぽかんとしたが、すぐに弾かれたように立ち上がり、姿勢を正した。
「多美さん、取り乱してすみませんでした! 報告します!」
葛西は敬礼をした後、直立不動の体勢で報告を開始した。
「今日は、早朝から公園周辺をまわり、いくつかの証言や情報を得ました。それからC川周辺で聞き込みをして、学生から少し変わった情報をもらいました。その後、商店街で美千代の事件で公園にいた女性を発見、追跡しましたが、何者かの妨害にあって取り逃がしてしまいました。詳しいことは調書に書き込みます。以上報告を終わります!」
葛西は報告をし終わると、また敬礼をして、今度はそのまましばらく立ち尽くしていた。顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。
「なにも、口に出して報告しなくてもいいのに・・・」
由利子が困ったような顔をしてつぶやいた。
「まあ、彼なりに配慮していたのか、詳細まで言っていませんから大丈夫でしょう。それより、今話に出た例のキワミという女のことがますます気になりますね。少なくとも仲間が居るようです。・・・あ、ちょっと待ってください。サヤさんが来ていますので」
ギルフォードは入り口に紗弥が立っているのに気付き、彼女の方に向かいながら付け足した。
「ユリコ、涙はちゃんと拭いてね」
由利子は焦ってジーパンのポケットからハンカチを出すと、涙を拭いながら言った。
「流石に冷静やね、アレクは」
「そう見えるかね?」
ジュリアスが言った。
「今日はほとんど、いつものアルカイックスマイルを浮かべとらんだろ? 今も笑っとらんかった。あいつに全く余裕がにゃあってことだ。由利子が切れなかったら、あいつが切れとったかもしれにゃあて」
「ふうん。そうなんだ」
由利子とジュリアスは、戸口で紗弥と話すギルフォードの方を同時に見た。由利子にはいつもとあまり変わらない様に思えたが、確かにその顔はいつもと違って妙にこわばっている。それに・・・、由利子は思った。そういえば、今日は何となく妙に元気を装っていたような気もする・・・。由利子は何となく納得した。もっとも、空元気を出していたのは由利子も同じだったが、彼女はそれに気付いていなかった。
 葛西は幸雄の横に立ち、二人は静かに病室を見ていた。その横で、今まで黙って病室の様子を見守っていた高柳が幸雄に言った。
「幸雄さん。あとでお父さんの今後についてお話がありますから、ここでしばらくお待ちください」
「はい。色々とありがとうございます」
幸雄は頭を下げて言った。それから少しして、梢が姿を現した。
「あなた・・・」
梢は異様な雰囲気に戸惑いながら夫に声をかけた。
「梢・・・」
幸雄は哀しい笑みを浮かべて言った。
「父さん・・・、逝ってしまったよ・・・」
「ええ・・・」
「がんばったけど、ウイルスに勝てなかった・・・。あんなに強靭だった父さんが・・・、最後の方は苦しんで、苦しんで・・・、なのに、最後の最後は本当にあっけなく・・・」
「お義父さん、よく頑張られたわ。それに、最後まで刑事の誇りを捨てなかったと思うわ」
「うん・・・、そうだよ。でも、意識を失う間際に一人の父親に戻ってくれた・・・」
「そう・・・そうだったの・・・」
梢はそういうと、幸雄の横にそっと座った。由利子とジュリアス・葛西を加え、5人は静かに多美山の旅立ちを見守っていた。もはや、みんなが押し黙っていた。それは、嵐が去った後の無力感に似ていた。

 多美山の身体は、見映え良く清拭された。まだ血を流している身体は毛布でしっかり覆われ、感染防止用の透明な袋を装備したストレッチャーに乗せられた。今週の月曜まで強靭に駆け回っていたその身体は一回りも二回りも小さくなって、ぐったりとし、持ち上げられるがままになっていた。目は二度と開かれることなく、彼の実直で無骨な博多弁も二度と聞くことは出来ない。内線をオープンにして、三原が皆に伝えた。
「今から多美山さんを安置室にお送りします。医療スタッフ以外の方はこれが最後のお別れです。みなさん、お見送りをお願いします」
それを聞いて、ギルフォードと紗弥が駆けつけ、ジュリアスの横に並んだ。手の空いたスタッフたちも窓の前に並んだ。幸雄と梢が椅子から立ち上がった。梢の左手は幸雄の右手をしっかりと掴んでいた。
 皆の見守る中、袋の口が閉じられようとしていた。葛西が敬礼の姿勢をとった。ギルフォード、次いで紗弥が彼に続いて敬礼した。周囲も彼らに従い、多美山はいつしか敬礼する沢山の人たちに見守られていた。病室内のスタッフ達に守られ、多美山を乗せたストレッチャーはゆっくりと動き出した。その時、スタッフステーションのドアが開いて、多美山危篤の知らせを受けた森の内知事がようやく駆けつけて来た。彼は状況を把握すると、窓に近づいて姿勢を正してサッと敬礼をした。お付の警護の者たちもそれに倣った。
 ストレッチャーはゆっくりと病室を移動し、病室を出て行った。ドアが閉まり、多美山はとうとう葛西たちの前から姿を消した。病室にはまだ血だらけのベッドや機材等の戦いの跡が残り、スタッフが片付けを再開しはじめると共に窓が曇り、中の様子が見えなくなった。

 周囲の人たちも仕事に戻り、多美山の息子夫妻は高柳から説明を聞くために、病室の前から去って行った。紗弥も、仕事をやりかけてきたからと、大学に戻っていった。しかし、葛西は未だ病室の前に立ちつくしていた。ギルフォードたちは、そんな彼を静かに見守っていた。
「葛西君、もういいやろ? とにかくここから出よう、ね、ね?」
由利子がたまりかねて声をかけた。葛西が気の抜けたような声で言った。
「多美さん、行っちゃった・・・」
「うん。悲しいね・・・」
由利子はそう言いつつ葛西の肩にそっと手を置いた。葛西は病室の方を向いたまま、肩を震わせ低い声で言った。
「僕・・・僕は・・・このウイルスを撒いた連中が憎い・・・! 絶対に許せない・・・!! 必ず犯人を挙げて多美さんの仇を打ってやります!!」
「ここにいるみんなが同じ気持ちだよ。でも、ここに立っていたって何も動かないやろ。多美山さんも、今、きっとこう言っておられるはずだよ。『ジュンペイ、なんばしとっとか。事件はおまえば待ってはくれんとぞ。いつまっでも落ち込んどらんと、さっさと捜査に戻らんか』ってね」
「・・・そうですね。そうですよね・・・」
「さ、行こ。これからは弔い合戦だね」
由利子は葛西の手を掴んで、他所に連れて行こうと彼の腕を引いた。それを引き金に、葛西が今まで何とか押さえていた感情が堰を切ったようにあふれた。彼は由利子にしがみつくと、外聞もなく号泣した。
「え~・・・っと・・・、葛西君? ・・・あのぉ、アレク、これ、どうしましょう?」
由利子は戸惑って、しがみついている葛西の背を指差して言った。ギルフォードは肩をすくめて答えた。
「仕方ないですねえ・・・。ユリコ、今日は君に塩を送りますよ。僕らはこれから色々話し合わなければなりませんから、しばらくその馬鹿ちんのお守りをしていてください」
ギルフォードはそう答えると、さっさと会議室の方に歩いて行った。
「塩を送るって、アレックス、どういうことだがや」
ジュリアスがブツブツ言いながらその後を追う。
「いや、そんな塩いらねーし・・・。 って、こら、アレク、この状態で置いて行くな! 戻ってこーい!!」
由利子は大声で言ったが、ギルフォードが振り返ることはなかった。
「ったく、もう・・・」
由利子は彼らの背を一瞥し、自分にしがみついて泣くでっかい子どものせいで、張り付く周囲の視線を気にしながら、そういえば、最近美葉ともこんなことがあったなあと思い出しつつ、やっぱり困っていた。

 ギルフォードがジュリアスと共に会議室に向かっていると、高柳と一緒に森の内知事が現れた。
「ギルフォード先生」
「知事、いらしてたんですか」
「はい。なんとか、多美山さんとのお別れに間に合いました。でも、私はもう帰らねばならないので、ちょっといいですか?」
「はい、何でしょう?」
「この新型ウイルスの公表についてのことです。出来たら今夜にしたかったのですが、議会で一部から猛反発がありまして、もう一度資料をそろえて明日の朝、もう一度審議を行います。多美山さんが亡くなられたこともありますから、必ずみんなを説得します。それで、新型ウイルスについての解説を、高柳先生にお願いしたのですが、この事件の対策室顧問として是非ギルフォード先生にもお話をお願いしたいと・・・」
森の内のオファーに、ギルフォードが少し悲しい顔をして言った。
「せっかくですが、辞退させてください。僕のような胡散臭いガイジンが話しても逆効果かも知れないし、解説ならタカヤナギ先生お一人で充分だと思いますし」
「そんなことをおっしゃらずに・・・」
「いえ、それに、今度は大丈夫だと思うんです。現役の警官が亡くなったこととその経緯、そして感染者の増加、以上のことを踏まえると、いくら石頭でも公表せねばならないことは理解できる筈です」
「そうですか、やっぱりダメかあ・・・」
「すみません」
「仕方ないですね。ま、そういうわけで、公表はおそらく明日の夕方辺りになると思います」
「翌日は月曜ですね。妙なパニックを招かねばいいのですが・・・」
「それより、どれだけの人が信じてくれるかの方が心配だな」
今まで黙っていた高柳が言った。
「じっさい、今のところ事件に関わった人の数はわずかだし、感染者や死者の数はもっと微々たるものだからね」
「でも、アキヤマ・ミチヨからの感染ルートが解明しやすくなります。今までろくに情報を集められなかったですからね。それに、感染容疑者の保護と監視もしやすくなります」
ギルフォードは続けた。
「でも、本当はもっと早くから公表すべきだったんです。遅くとも、ミチヨの事件の時には公表すべきでした。はたして、この遅れがどう影響するかが問題ですね」
「僕の力が足りないばかりに申し訳ない・・・」
森の内がうなだれて言った。高柳がすぐにフォローした。
「いえ、知事一人の責任ではないでしょう。それに、ひとつの都市の、いや、下手をすれば国自体の経済を左右する決断ですからな。法はどうあれ、公表に踏み切るには相当の勇気がいるでしょう」
ギルフォードも非礼を詫びた。
「責めるようなことを言ってすみませんでした。そんなつもりはなかったんですケド・・・」
「いえ、事実は事実ですから、真摯に受け止めます。・・・ところで、さっきから気になっていたんですが、ギルフォード先生の横におられる方は?」
森の内は、ジュリアスの方を見ながら尋ねた。
「あ、彼は僕の友人で、アメリカのH大の講師をしている、ジュリアス・キング君です。お兄さんは、CDCの研究者で、今、この新型ウイルスについて調べて下さっているハズです」
「おお、よろしくお願いいたします。F県知事の森の内 誠と申します」
「ジュリアス・キングです。お目にかかれて光栄です。森の内知事。僕が子どものときに見た『今夜も騒がナイトショウ』の司会の方とお会い出来るなんて思ってもいませんでした」
「おお、あれをご存知でしたか。それに日本語も堪能で・・・」
「子どもの頃、名古屋に住んでいましたから」
「じゃあ名古屋弁がお分かりになる?」
「むしろ、そっちの方がしゃべりやすいです」
「じゃ、名古屋弁でよかですよ」
森の内がざっくばらんに言ったので、ギルフォードがあわてて言った。
「無礼にならない程度にお願いしますよ、ジュリー。うっかりすると、フレンドリーになりすぎますからね、あれは」
「わかっとるがね」
ジュリーはニッと笑って答えた。

 由利子たちは、桜子と会った、あの待合室でギルフォードたちの帰りを待っていた。葛西はだいぶ落ち着いており、バツの悪そうな表情で座席に腰掛けていた。二人とも、何となく照れくさくてあれからずっと黙っていた。
「よ~、やっぱ、そこにおったかね」
と、そこにジュリアスがようやく姿を現した。葛西は戸惑った顔をして、名古屋弁を話しながら親しげに手を上げて近づいてきたイケメンの黒人を見ていた。ジュリアスはニコニコしながら二人の前に立った。
「あ、葛西君、彼が昨日のジュリアスさんよ。ジュリー、もう知ってると思うけど、彼があなたの会いたがっていた葛西刑事よ」
「葛西さん、お会いしたかったがね。ジュリアス・キングだなも。ジュリーって呼んでちょおよ」
ジュリアスは親しげに笑って葛西に右手を差し伸べた。葛西はその右手を掴みながら言った。
「あなたがジュリーさんでしたか。さっきはみっともない姿をお見せしてすみませんでした。葛西純平です。呼び名はジュンで良いです。アレクが僕をそう呼んでますんで」
二人はしっかりと握手をした。由利子はギルフォードの姿がないことに気がついて聞いた。
「ところで、アレクは?」
「ああ、アレックスなら西原ゆういち君だったかね、彼のところに行ったわ。多美山さんのことを伝えるためとゆーことだわ」
「報せて大丈夫なの?」
「いずれ知ることになるだろうからね、隠すよりもちゃんと報せるべきだということになったんだわ。それで、アレックスが適任ってゆーことになってよ」
「そっか。損な役回りよね、アレクも」
「そうですね」
葛西が同意した。
「それにしても・・・」由利子が外を見ながら言った。「中に居たから気がつかなかったけど、ずいぶんと大降りになったものね」
「僕が紗弥さんにバイクで送ってもらった時、すでに大降りになりつつありましたから・・・」
「なんだか、涙雨みたい」
由利子がしみじみと言った。

 祐一はギルフォードから多美山の死を知らされたが、意外と淡々として言った。
「そうですか、あの時の刑事さんが・・・。なんとなくスタッフの方たちが慌しかったので、そんな予感はしていました・・・。でも・・・」
「おにいちゃん、どうしたと?」
本を読んでいた妹の香菜が、戸口で密かに何者かと話す兄に、訝しげに聞いた。
「たいしたことじゃないよ。いいからそこで大人しくしておいで」
「は~い」
香菜は、口を尖らせながら、兄の言うことを素直に聞いて、また本の方に目を向けた。祐一は香菜を制すると、すぐにギルフォードの方に向きなおして言った。
「そんなにお悪かったんですか・・・」
「はい。木曜の夕方から症状が出始めてから、あっという間でした」
「そう・・・ですか・・・・」
「大丈夫ですか? ユウイチ君。顔色がよくないですよ」
「はい。でも、実はオレ、正直あまりピンときていないんです。あれからすぐにここに入れられましたし、その刑事さんともお会いしていないので・・・。でも、ひょっとしたらそれは・・・オレや香菜、最悪、ヨシオや錦織さんの運命だったのかも知れないんですよね・・・」 
「自分を責めちゃだめですよ。タミヤマさんも、それを心配されていました」
「はい。でも、やっぱり・・・」
祐一は、眼を伏せながら言った。
「・・・せめて、もう一度お会いして、一言お礼を言いたかった・・・」
祐一の目から涙がこぼれた。
「あれ? 変だな? 全然実感が湧いていないのに、涙が・・・。あれ? 止まらないや・・・、何でだろ・・・?」
祐一は、意思に反して流れ続ける涙に戸惑っていた。
「ギルフォードさん、オレ、何で・・・・」
「ユウイチ君、泣いていいんですよ。こういうときは泣いていいんです」
ギルフォードは、祐一の肩にそっと手を置いて言った。祐一は、そのままギルフォードに寄りかかるようにして、泣いた。ギルフォードは、祐一の肩を抱きながら言った。
「ユウイチ君、ひとつだけ約束してください。タミヤマさんが自らの命を懸けて守ってくれた命です。絶対に、絶対に粗末にしないでください。ヨシオ君やあの利発なお嬢さんにもお伝えください。お願いしますね」
「はい」
祐一は、涙の中でしっかりと頷いた。

「由利子、えーことを教えてやるわ」
葛西がトイレにたった間にジュリアスが言った。
「さっきな、ジュンが泣いとった時、アレックスのヤツ、さっさと行ってしもうただろ? あの時、実は貰い泣きしとったらしいがね」
「え? なんで?」
「あの後な、おれの方もまったく見ずに、トイレに駆け込んだんだわ」
「それが?」
「そりゃーおみゃあ、男がトイレに駆け込む理由は3つしかないわ。行きたい時と行きそうな時と泣きそうな時だがね」
「行きたい時と行きそうな時の区別は聞かないでおくとして・・・」
由利子は苦笑しながら言った。
「泣きそうな時ってのは納得できるわね。女性だってそうだもん」
「あいつ、あー見えてけっこう泣き虫なんだわ」
ジュリアスは急に真面目な顔をして言った。
「由利子、あーゆーややこしいヤツだもんで、よろしく頼むわ」
「何よ、いきなり」
由利子が笑いながら言うと、ジュリアスはさらに真剣な顔をして続けた。
「由利子、おみゃあにはあいつについて話しておきたいことがよ~けあるんだがね、どこまで話してえーのかよーとわからんのだわ。おれは来週国に帰るけどな、正式に許可をもらってまたここに戻ってこようと思っとるんだが、正直どうなるかわからんて。ほんだで、由利子、その間おみゃあにあいつをフォローしてほしいのだわ」
「フォローなら、紗弥さんがおろーもん?」
「おっと、由利子、釣られて方言が出ただろ?」
ジュリアスは、ニッと笑って言った。
「まあ、おもりとフォローは違うて」
「お守りって、エライ言い方されてるなあ、アレクも」
ここまで話している間に、葛西がトイレから戻ってきた。
「ま、そういうことで、今度な」
ジュリアスは軽くウインクをしながら由利子に言った。
「すみません、お待たせしました」
葛西は頭を掻きながら言った。由利子は、彼の前髪が濡れ、また目が赤くなっているのに気がついた。
(こいつもトイレに駆け込んだクチやね。で、顔も洗ったんだ)
由利子はさっきジュリアスが言ったことを思い出して、少し可笑しくなった。

 すっかり片付いて、今や多美山が居た形跡の全くなくなった病室に、防護服をつけた大男が独り入ってきた。彼はゆっくりと、今や台だけになったベッドに近づき、それを眺めながらしばらくじっと立っていた。男は、ギルフォードだった。彼は祐一に多美山の死を告げに行き、その帰りに寄り道をしたらしい。
 祐一のところで、また香菜に懐かれだいぶ気が紛れた。一週間の隔離生活は、たとえ大好きな兄と一緒とはいえ幼い香菜にとってかなりの苦行である。実際、夜中に母を恋しがって何度も泣いたらしい。それで、彼女はたまにギルフォードが寄るのを楽しみにしているようなのだ。ひょっとしたら、これからもこんな子どもを隔離せねばならないことが多々あるかもしれない、それに、これからは隔離期間はもっと延びる可能性がある・・・。そう思うとギルフォードは気持ちが重くなるのを覚えた。
 子ども達から離れてここに来ると、重たい現実がさらにギルフォードにのしかかってきた。彼は小さい声で何やらつぶやくと、唇を噛んで何かに耐えるように腕を下ろしたまま両拳を握り締めた。身体が小刻みに震え、唇に血が滲んだ。彼はもう一度喉から搾り出すような声で言った。
”ちくしょぉ・・・.”
その後、少し間を置いてつぶやいた。
”すまない,多美山さん・・・."
しゃべると口の中に錆びた鉄の味が広がった。それが、かつて彼が無理やり記憶の底に沈めた忌まわしい記憶を、彼の脳裏に呼び覚ます。ギルフォードは一瞬顔をゆがめた。彼はその後、しばらく立ち尽くしていたが、やがて、魂が抜けたような顔でベッドサイドに腰掛け、両手で顔を覆うと、しばらくじっと座っていた。

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4.衝撃 (7)現の悪夢、来たるべく悪夢、過去の悪夢

※一部R18注意

「そんな・・・」
 幸雄は呆然として言った。梢はその手をぎゅっと握り締める。
「申し訳ありませんが、これは規則・・・というより法令ですから、私たちにもどうしようもないのです」
 高柳が、珍しくとても辛そうな表情をして言った。
「検疫法によって、このような危険な病原体によって死亡した場合、遺体をそのままお返しすることが出来ないのです。感染リスクを最低限に抑えるための処置をせねばなりません。そのためには、火葬後に返還することが一番安全ということになりますから」
「では、遺体無しで、もしくはお骨で帰ってから葬式をすることになるわけですか・・・」
「申し訳ありませんが・・・」
「あの時、ギルフォード先生がおっしゃってたのはこのことだったんですか・・・」
 幸雄はそういうと、顔を覆った。いきなり辛い現実が次々に襲い掛かり、幸雄はすでに心身ともに限界に来ていた。あまりのことに、涙も枯れてしまった。高柳はさらに言い難そうに言った。
「その上このようなお願いをするのはとても辛いのですが・・・、お父さんの遺体解剖の承諾をしていただきたいのです。感染症で亡くなられた場合、死因を解明せねばならないので遺族の方の同意は必要ないのですが、心情的にそういうわけには行きませんから・・・」
「ああ・・・」
 幸雄は苦しげな声を漏らしたが、それ以上言葉が出なかった。その横で梢が夫に変わり質問をした。
「苦しんで血まみれになって亡くなった義父の身体を、さらに切り刻まねばならないのですか・・・?」
「お父さんの死因を解明するためと、今後の治療のために必要なんです。今ここに入院されている患者と、おそらくこれから運び込まれるだろう発症者に、出来るだけ適切な対応が出来るように」
「だけど・・・」
 幸雄が何とか口を開いた。
「この疫病に関しては、治療法がないんでしょう? 結局あんな風に苦しんで死ぬなら、いっそ何もせずに・・・」
「あなたにそれが出来ましたか?」
 高柳にそういわれて、幸雄がはっとした。
「いえ・・・、出来ませんでした」
「そう、そういう絶望的な状況でも希望を持つのがヒトと言う生き物です。そして、私たち医者は、たとえ暗闇の中でも希望の光を見出そうと努力せねばなりません。最初から諦めたら、永遠にこのウイルスを制圧することが出来ません。そうでしょう? それは、多美山さんの死を無駄にすることにもなりますし、多美山さんだってそれを望んではおられないでしょう。どうか、わかってください」
「・・・」
 幸雄は無言で目を堅く瞑った。
「あなた・・・」
 梢は幸雄の手を再び強く握った。その時、応接室のドアをノックする音が聞こえた。高柳が問うた。
「誰だね?」
「ギルフォードです」
「入りたまえ。ちょっと取り込んでいるがね」
 高柳の許しを得てギルフォードが入って来た。
「すまんが、ちょっとそこで待っていてくれたまえ」
 高柳はギルフォードに指示すると、もう一度幸雄に言った。
「わかってくださいませんか?」
「私たちが承諾せずとも、それは遂行されるのでしょう?」
 幸雄は目を閉じたまま言った。
「それにどうせ火葬するなら、解剖のことなんて黙ってればわからないでしょう? 僕らはたった今、父を目の前で失ったばかりなんです。それなのに、解剖だの火葬だの、あまりにも無神経です!」
「申し訳なく思っています」
 高柳が言った。
「我々も、何とか救いたかった患者を亡くしたばかりです。皆、自分達の無力さを思い知らされ、悔しさと悲しさを痛感しながらも、戦いを続けなければなりません。すでに今日新たな発症者が来ています」
「高柳先生、僕たちだってそれはわかっています。しかし、気持ちの上では割り切ることは出来ません。父は命懸けで子供達を救いました。そんな父が、ひっそりと、まるで罪人のように葬られる、それが辛くて悔しい・・・!」
 幸雄は声を震わせて言った。会話から事情を察したギルフォードは、高柳に近づいて耳打ちした。高柳は頷いて言った。
「幸雄さん、奥さん。ちょっとギルフォード先生に付き合ってあげてください」
「え? どういうことですか?」
「ユキオさんにお願いがあります」
 ギルフォードが言った。
「タミヤマさんに救われた少年、ニシハラ・ユウイチ君のことです。彼は、タミヤマさんが亡くなられたことを知って、かわいそうに、すっかりしょげ返ってしまいました。もし、よかったら、息子さんであるあなたに彼と会って欲しいのです」
 幸雄と梢は顔を見合わせた。
「とりあえず彼らのいる病室の前まで行きましょう。会うか会わないかは、そこで決めればいいですから」
「わかりました。行きましょう」
 幸雄が立ち上がりながら答えた。
 二人はギルフォードに病室の前へ案内された。父親が居た病室と同じ仕様だった。ギルフォードが言った。
「ここに、ユウイチ君とその妹のカナちゃんが、念のため隔離されています。彼は、タミヤマさんの死をとても悲しんでいて、一言もお礼を言うことが出来なかったことを悔やんでいます」
「父が救った少年が・・・」
 幸雄がつぶやいた。
「そうです」
 ギルフォードは頷くと幸雄の顔をまっすぐ見て言った。
「会っていただけますね?」
「ええ、わかりました」
 ギルフォードはそれを聞くと、もう一度頷きマイクで中の祐一に呼びかけた。
「ユウイチ君、タミヤマさんの息子さんと奥さんが来られています。ここを開けていいですか?」
 少し間を置いて、中から声がした。
「え? は、はい、よろしくお願いします」
「ユキオさん、まだ小さい妹の方にはショックが大きいので、まだタミヤマさんの死については言っていません。ケガで入院していることになっています。その点をご了承ください」
 そういうと、ギルフォードは窓を『開けた』。幸雄たちの前に病室の中の少年と妹が姿を現した。
「父は、この子らを救って・・・」
 幸雄は無意識に窓に向かって歩いた。少年は幸雄の方を向いて深く礼をして言った。
「多美山さんのおかげで、妹は無事に解放されました。僕らも最悪の事態を免れました。心から感謝しています。そして、ごめんなさい。僕は・・・、僕はあなたに何と言ってお詫びをして良いか・・・」
 祐一はそこまで言うと、また深い礼をした。
「ゆういち君と言ったね。もういいから顔を上げて」
 幸雄の許しを得て祐一は顔を上げ、袖口で涙を拭いた。
「君らを助けられて、父も本望だったと思うよ。君たちに会えて良かった。ありがとう」
「おじさん・・・」
「僕は父を誇りに思う。君達に会ったから余計にそう思うよ。だから、君らも父のことを忘れないでほしい」
「はい。絶対にわすれません。そして、この命、絶対に粗末にはしません。香菜、このおじさんにご挨拶しなさい。あのおじいちゃん刑事さんの息子さんだよ」
「うん」
 香菜は、椅子から立ち上がり言った。
「おじちゃん、こんにちは。香菜といいます。お父さんの刑事さんに、ありがとう、香菜、こんどお見舞いに行くから待っててねってお伝えください」
「うん、わかった。必ず伝えるからね」
 幸雄は静かに笑って答えた。ギルフォードが幸雄の方を見ると、彼は軽く頷いた。
「ユウイチ君、少しは気持ちが軽くなりましたか?」
「はい、ありがとうございます」
「じゃ、ここを閉じますね。じゃ、ユウイチ君、カナちゃん、またね」
 ギルフォードはそういうと、窓を『閉めた』。閉まる間際に祐一がもう一度礼をした。
「彼らも感染している可能性が?」
 幸雄がギルフォードに不安げに質問した。
「妹の方が、感染発症者と長く一緒にいたので、念のため隔離されています。二人とも発症者に触れるような濃厚な接触はしていませんので、感染の可能性はかなり低いですし、今まで発症していませんからおそらく大丈夫だと思います」
「そうですか・・・」
 幸雄は安堵して言った。
「お付き合いいただいてありがとうございます」
 ギルフォードが言った。しかし、幸雄は首を振りながら言った。
「いえ、礼を言うのはこちらの方です。彼らに会えて良かった。決して父の死は無駄じゃなかったと確信出来ました。それに、会ってわかりました。父は何としてもあの子とその兄を助けたかったんでしょう。本望だったと思います」
「そうですか。そういってくださると、僕も安心出来ます。では、また応接室に戻りましょうか」
 ギルフォードはそう言いながら歩き出した。
「はい。じゃ、梢、行こうか」
 幸雄は妻の肩を抱いてギルフォードの後に続いた。歩きながら幸雄がつぶやいた。
「あの女の子・・・」
 幸雄の頬を一筋の涙が伝った。
 

 ある教団経営の墓地を、数人の墓参り客が歩いていた。まだ夕方の5時過ぎくらいの時間だったが、小降りになったとはいえ雨天のためにいつもより薄暗く、場所が墓地であるために、かなり不気味な雰囲気を醸していた。
 それぞれ黒っぽい紫の経帷子のようなデザインの上着を着ている。彼らの先頭を行く一見貧相な老人が教祖らしく、一際豪華な金糸で縁取られた僧衣を身につけていた。その教団は、まだ小規模でまだ布教範囲も小さいが、その分結束も狂信性も高く、まさにカルトの典型であった。
 その奇妙な集団は、二つ並んだ墓の前で止まった。教祖が墓の前で金の鈴が文字通り鈴生りについた錫杖を振るった。信者達がそれを合図にいっせいに跪いた。教祖が錫杖を振るうごとにシャンシャンという音がせわしなく鳴った。それに合せて信者達が祝詞(のりと)の様なお経のような不思議な言葉を唱え始めた。それらに紛れて、何か地の底からゴトゴトという音がした。それを聞いた信者達は、ざわざわと落ち着きを失くした。教祖が興奮して言った。
「おお~、我らの願いが叶い奇跡が起こったのじゃ。薬に頼らずひたすら護摩を焚いて祈り、入滅後も身体を酒で清め、土葬した甲斐があったということじゃ。聞くがいい! 死者が生き返った音がするであろう。今すぐにこの沢村老の墓を掘り返そうぞ!!」
 教祖が命令するや否や、信者の男達が競って墓の周囲を掘り始めた。女や子共達は目の当たりにするであろう奇跡を思い、興奮し上気した顔で墓を見守っている。御棺を埋めた土饅頭の上部には穴があけてあった。死者が生き返った時も息が出来るように配慮されたらしい。しかし、そこからなにやら異様な臭気が漂っていた。しかし、信者達にそんなことを気にする余裕などなかった。彼らは素手で我先にと墓土を掘り返している。その空気穴からちょろちょろと黒い大きな虫が数匹這い出してきた。
「何だぁ、これは!」
 信者の一人が気がついて騒いだが、教祖から一括された。
「莫迦者ッ!! 早く墓を掘って沢村老を出してやるのじゃ」
「ははっ!」
 男は恐縮して作業に戻った。人海作業の甲斐あって、墓が暴かれるのに20分もかからなかった。歓喜の声と共に蓋が打ち付けた釘と共に外された。しかし、そこには生き返った筈の老人の姿は見えず、何か黒いものが無数に蠢いていた。それは、動く黒いじゅうたんの如く這い出した。喜びの声が悲鳴に変わり、信者達は逃げ惑った。
「何をしておる! 早く老を起こしてやらぬかッ!」
 教祖は両手を広げて信者達が逃げるのを止めようとしたが、パニックを起こした彼らにはすでに教祖の言葉は意味を成さなかった。教祖は突き飛ばされひっくり返り、棺の中に転げ落ちた。一瞬何が起こったかわからなかった教祖が身体を起こそうと手を付いた。そこには何とも形容しがたい感触があった。
「ひぇあ~っ」
 教祖が威厳のあるとはとても思えないような悲鳴を上げ、また棺の上に大の字にひっくり返った。その上を何かがザザッと通っていった。教祖は反射的に息を止め目を瞑った。それが通り過ぎたのを確信して教祖は目を開けもう一度身体を起こすため、さっきの感触の原因を確かめようと横を見た。そこには、顔面をほとんど食われた老人の顔があった。息を呑んで急いで起き上がろうとしたが、腐敗した上に雨にぬれた遺体に滑ってまた身体がひっくり返り、今度は遺体の下にはまり込んでしまった。結果、遺体に押さえ込まれた形になった教祖は、なんとかそれから逃れようとじたばたもがいたが、それが却って遺体をまとわり付かせることとなった。
「ひぃぃいいい~」
 教祖は、かすれた悲鳴を上げると、そのまま泡を吹いて動かなくなった。教祖の老いた心臓が恐怖とショックに耐え切れなかったのだ。このとき蘇生していれば彼は助かったかもしれないかった。しかし、パニックに陥った信者は誰ひとり、教祖の悲劇に気がつかなかった。彼らは蜘蛛の子を散らすように墓地から逃げ帰った。
 数時間後、冷静さを取り戻した信者達が暗い中懐中電灯を持って墓地に戻り、ようやく暴かれた墓にものすごい形相で息絶えた教祖を発見した。再びパニックに陥った信者達が警察に連絡をするのは、翌朝明けてからのこととなる。
 

 由利子は、ギルフォードの車で家まで送ってもらっていた。時間は夜7時を回っており、天気のせいかすでに周囲が暗くなっていた。
 ついでにK署に帰る葛西もそれに便乗していた。葛西は最初公共交通機関で帰ると言い張ったが、ギルフォードがなんとか懐柔して了解させた。本来なら休みの土曜日である。ましてや、ギルフォードは今度葛西が配属される対策室の顧問なのだ。
「だいたいですね、サヤさんのバイクで2ケツしてセンターに来たんですから、何をか言わんやですよ」
ギルフォードはぼそぼそと言った。
 助手席にはジュリアス、後部席には由利子と葛西が乗っていた。当然のことながら、葛西に元気がない。そのせいか、車内がなんとなくお通夜のような雰囲気になってしまった。その空気にたまらなくなったのか、ギルフォードが口火を切った。
「ジュン、今日タミヤマさんに報告した件ですが、要点しか言ってなかったですね」
「ええ。美千代が行方不明になった件から、まだセンターに敵の息のかかったヤツがいるかもしれないって、ふと思ったんで・・・」
 葛西が少し照れくさそうに言った。
(”あの状況でそれに気がまわったか。この男、見かけほどじゃないらしいな”)
 ギルフォードはそう思いつつ言った。
「それで正解です、ジュン。で、ここでその内容を差し支えない程度で良いからもう少し詳しく説明してくれませんか?」
「ええ」
 葛西は、今日調べたことをかいつまんで話した。
「へえ、いいセン行ってるじゃない」
 由利子が言った。
「安田さんと言い争っていたヤツ、そいつがウイルスばら撒きの実行犯の結城だとしたら、ターゲットをあそこのホームレスにした理由になるよね。目撃者がそいつの顔をよく見てなかったのが残念やね」
「それと、やはり気になるのは、あのキワミという女ですね。彼女に関わっているらしい奇妙な男・・・、タミヤマさんのことをほのめかしていたんでしょう? 明らかに事情を知っていますね。怪しすぎます」
 ギルフォードが言うとジュリアスが付け加えた。
「アレックス、正確に言おまい。そいつはテロリストの仲間と考えるほうが自然だがね」
「それが極美ってグラドル上がりのジャーナリストもどきに取り入って、何をしようとしているっての?」
 と、由利子。
「テロってのは、恐怖で世の中を混乱させて目的を遂げようとするもんだで。奴らの目的が何かはわからんけどよ、なーんか嫌な予感がするんだわ」
「じゃあ、極美をとっとと手配して捕まえてしまえばいいじゃん。どーせ事件のあったあたりでちょろちょろしてるんやろーし」
「あのね、ユリコ。ジャーナリストが事件を調べているということで、捕まえるワケにはいかないでしょう? ここは、言論も思想も宗教も自由を保障されている法治国家ですよ。どこぞの独裁国家とは違うんですから」
「意外とワヤなことを言う女だなも」
 二人から呆れられて、由利子は少しお冠で言った。
「じゃあ、どうしようもねーじゃんよ」
「僕が報告しますから、何らかの手が打たれると思いますよ。それに関しては、長沼間さんたち公安の出番でしょうね」
 と、葛西がフォローした。
「もうひとつ気になるのは」
 ギルフォードが言った。
「youtube(ユーチューブ)に上がっていた映像ですね。話題になる前に削除してもらったほうがいいと思うんですけど」
「どうかしらね。下手に削除させると、また陰謀だ何だと言い出す連中が出てきかねないと思うんだけど」
 由利子が言うと、ギルフォードも納得して言った。
「確かにそれはありますね・・・」
「それに、削除しても再アップされたら一緒でしょ。映像共有サイトは『ようつべ(youtube)』だけじゃないし、そうじゃなくても誰かがキャプ画像をアップするかもしれないし」
 由利子の指摘に、ジュリアスが腕組みをしながら言った。
「ネットってにゃあ、そういうところが厄介なんだわ」
「しかし、よく半日でこれだけ調べましたね。タミヤマさんもきっと褒めてくれますよ」
 ギルフォードがにっこりと笑って言った。ようやく見せた笑顔だった。
「そっ、そうかな・・・」
 葛西が照れくさそうに笑って言いながら、その後また泣きそうになって下を向いた。
「これで、泣き虫を卒業したら言うこと無しですケドね」
 ギルフォードが笑顔で続けて言うと、由利子とジュリアスがギルフォードの方を見てにやにや笑った。ギルフォードがそれに気がついて言った。
「なんですか、二人とも?」
「何でもな~い」
 由利子がにまっと笑って言った。
「なんか、気になりますけどまあいいでしょう。でもジュン、ユリコにしがみついて泣くなんて、なかなかやりますね」
「それを言わないでください。思い出すだけでものすごく恥ずかしいんですから。弾みとはいえ、女の人にすがりついて・・・しかもマジ泣きまでしちゃって・・・。もう、情けないです」
 葛西は今度は真っ赤になった。それを見て、ジュリアスがひやかすように言った。
「ほんで、居心地はどうだったかね」
「それがその、想像以上に貧に・・・いえ、その、えっと・・・」
 葛西が口ごもると、ギルフォードがミラー越しにイタズラっぽい笑みを浮かべて言った。
「ぺったんこだったんでしょ?」
「そう、そうなんです。我に返った時、一瞬隣に居た幸雄さんと間違えたかと・・・」
 その時、バチンという音がして葛西が頬を押さえた。間髪を入れず由利子にひっぱたかれたのだ。
「失礼ね! どうせ私には大胸筋しかないわよっ!!」
 由利子が怒鳴った。当然である。葛西は頬を押さえたままぽかんとして由利子を見た。葛西今日3度目のビンタであった。
 

 窪田は歌恋と一緒に、露天の岩風呂に入っていた。彼は結局一日中しつこい頭痛に悩まされていた。
 それでも、昼間歌恋と回った観光は楽しかったし、久々に羽を伸ばしたような開放感に浸ることが出来た。体調が悪いせいで、せっかくのご馳走もあまり食べられなかったが、こうしてプライベートの露天風呂に浸かっていると、少し気分がよくなった。雨は止んで、雲の切れ目に時折月が顔を覗かせた。充実した一日だった、と、窪田は思った。
「奇麗ね・・・」
 隣に寄り添っている歌恋が言った。
「今日、お月様を見れるなんて思わなかったわ」
「そうだね。こんな景色で見る月は格別だね」
 窪田が相槌を打つ。歌恋はチャプンと水音をさせて窪田の方を向きながら言った。
「今日は、帰る時間を気にしなくていいのよね。朝まで・・・、ううん、その後も一緒に居ていいのよね」
「あたりまえじゃないか。僕らは旅行に来ているんだよ」
「嬉しい・・・」
 歌恋は涙ぐみながらも笑って言った。
「今日と明日の夕方まで、栄太郎さんは歌恋のものなんだよね」
「そうだよ。何も気にしなくていいんだ」
「うん・・・」
「今日も明日もふたりきりだよ」
「うん・・・うん」
 歌恋は泣きながら何度も頷いてから言った。
「わたし・・・、歌恋ね、栄太郎さんと一緒にいられるだけで嬉しいの。だから、気分が悪いなら、無理しなくてもいいの。ね、ゆっくり休みましょ?」
「気がついていたのか・・・」
 窪田は驚いて言った。そして、いっそう歌恋を愛おしく感じ、抱きしめた。
「大丈夫だよ、これくらい・・」
 彼はそういうと、そっと歌恋に顔を近づけ唇を合わせた。上空の強い風が雲を流し、束の間に現れていた月を群雲が隠した。辺りがまた暗くなり、生ぬるい風が駆け抜けた。
「嫌な風・・・。何か気味が悪いわ」
 歌恋がぶるっと身体を震わせながら言った。
「そうだね。部屋に戻ろうか」
 窪田が同意した。

「うわあ、和風な敷布団もステキね」
 寝室に入った歌恋が嬉しそうに言い、布団の横に正座し三つ指を突いてお辞儀をしながら言った。
「不束者ですが、お世話になります・・・って、きゃっ、昔のドラマみたい」
 はしゃぐ歌恋の腕を取って、窪田は乱暴に歌恋を布団の上に押し倒した。
「って、こういうのもドラマみたいだろ?」
 窪田は歌恋の両手を右手で掴んで、開いた左手で浴衣の帯を解いて乱暴に引きぬいた。浴衣がはだけて歌恋の身体が露になった。白い肌が薄いピンク色に上気し、歌恋は息を荒げながら潤んだ目で窪田を見た。
「おや、意外とこういうのが好きだったのかな?」
「ヤぁ、栄太郎サンの意地悪! 恥ずかしいよ、こんなの」
 窪田にからかわれ、歌恋は真っ赤になって言った。それに触発され、窪田は歌恋を乱暴に抱きすくめた。ふたりは絡み合い、やがてひとつになった。せっせと上下運動を繰り返す窪田に、歌恋が荒い息の中で言った。
「あ・・・、栄太郎サン、・・・あのね、わたし、終わったばっかりなの。・・・だから、・・・そのま・・・ま・・いいからね・・・」
 窪田は、一瞬動きを止めて言った。
「え? 本当にいいのかい?」
歌恋はこっくりと頷いて言った。
「ええ、お願い・・・、そのまま、最後まで・・・」
歌恋が恥を忍んでそこまで言ったのには、実は理由(わけ)があった。しかし、結局窪田がその理由を知ることはついぞなかった。
 体調が万全でない状態で歌恋に挑んだ窪田は、疲れ果てて眠っていた。その横で歌恋が彼の胸によりかかっていた。こうしてじっとしていると、窪田の心臓の音がよく聞こえた。歌恋はその規則正しい心音がやや速いことに気がついたが、そういう行為の後だからとあまり気にしなかった。ただ、その心音にはなんとなく雑音が混じっているような気がした。歌恋は窪田の身体をじわじわと侵し続けているナノサイズの悪魔が、彼女まで侵そうとしていることに全く気がついていなかった。彼女の胎内に大量に放出された精子には、その悪魔が無数に取り憑いていた。それは、確実に歌恋を感染に追いやるに充分すぎる量だった。もっとも、あの事故の日、森田健二の血液が付着したままの窪田の手に触れた歌恋が、すでに感染している可能性は充分にあったのだが。そうとは知らない歌恋は、幸せそうに窪田のそばに寄り添うと布団をかけ、満足そうに目を閉じた。
(明日はこのままゆっくり寝ていてもいいのよね・・・)
 朝目覚めたときに愛する人がそばにいる幸せ・・・。それは、歌恋が願ってやまないことであった。しかし、そのささやかな願いと引き換えた代償は、大きすぎるものであった。
 

 少年は、半裸で無造作に床の隅に転がされていた。身体のあちこちがうっ血し、右足と左手が不自然に曲がっている。顔も、原形が想像出来ないほど腫れあがっていた。その状態で少年はすでに半分意識を失いかけていた。その朧げな意識の中で、男達の会話を夢現(ゆめうつつ)のように聞いていた。
”バカヤロウ! キサマ,おれ達のいない間にあのガキを・・・! せっかくの上玉だったのにどうするんだよ!”
”おまえの性癖にも困ったもんだな.コトに及ぶ前に相手を痛めつけないといられないなんてよ,このド変態が!”
”今回は男だからって油断してたら,これだよ.まあ,そこらへんの女よりよっぽど綺麗だったことは認めるがね.今はザマァないが”
 男達は一言言うたびに、件の男を殴りつけているようだった。
”もう,勘弁してくれよお・・・.結局犯っちゃいないんだからさあ”
”この大馬鹿野郎がぁあ!!”
 ボスらしい男の声がして、男を蹴り上げる音がした。男は吹っ飛んでテーブルごと壁にぶち当たった。
”痛めつけすぎて,犯る前に死にかけたからビビッただけだろうが!!”
”だってよ,あのガキ,最後までオレを馬鹿にした目つきで見やがって・・・”
 男は半泣きで言った。
”許してくれよお・・・”
 その時、外から年配の女が慌しく入って来た。
”大変だよ,ギルフォード家の次男坊が昨日から行方不明だって大騒ぎになってるよ”
”なんだって? マジかよ、グラン・マ”
 男達はいっせいに床に転がった少年を見た。
”ギルフォードってあの,昔ワケ有りで王室を抜けたっていう、あのギルフォード家か?”
”で,そのギルフォード家の御曹司が,なんで山の中でたった一人で虫取りをして遊んでたんだよ.え?”
”おい,おめえ,ひょっとしてギルフォードの敷地から攫ってきたんじゃないだろうな??”
 ボスらしき男が、自分が蹴り上げた手下の方を見て言った。
”そんなの知らねえよ.ただ,車で流していたら、綺麗なガキが目に付いて売り物になるだろうって・・・”
”そいつをこんなにしちまったのかい?”
 女が言った。
”本当に馬鹿な男だよ,おまえは”
”どうするよ.ギルフォードの連中,絶対におれ達を探し出すぞ.この馬鹿が息子をこんな目に遭わせちまってよお,おれら八つ裂きにされっちまうよぉ”
”こうなったらここをズラかるしかないね.その前に証拠を消してしまうよ.このガキに食油をぶっ掛けて,地下の元食料倉庫に転がしときな.腹をすかせた住人のネズミやゴキブリが、身元不明死体になるまで食ってくれるさ”
(いや! やめて! 殺さないで!)
 少年は叫びたかったが声にならなかった。彼は抱えあげられ地下に連れて行かれ隅に転がされた。かろうじて身にまとわりついている、血と泥で汚れた白いシャツを引っ剥がされ、トドメに頭から古い食油をかけられ放置された。無情にも地下倉庫のドアが閉められ鍵のかかる音がした。男達が去ると、やがて周囲から黒いモノたちが、ガサガサと寄ってきた。
(助けて!! 父様,母様!!)
 少年はもがこうとしたが、身体がピクリとも動かない。外傷性ショックでだんだん息も苦しくなってきた。と、目の前に黒いモノが近づいてきた。痛めつけられたせいで霞んだ目にも、それが何かわかった。少年の恐怖は頂点に達した。

”アレックス! アレックス!! 目を覚ませ! しっかりしろ!!”
 ギルフォードはジュリアスに起こされて目を開いた。全身汗びっしょりになっていた。
”また,あの夢をみたのかい?”
”ああ・・・”
 ギルフォードは起き上がると、両手で顔を覆った。恐怖で身体が遠目にもわかるほど震え、息も上がっている。
”ひどいうなされ方だったぞ”
 ジュリアスが心配そうに顔を覗き込んで言った。ギルフォードは荒い息を整えようと、ため息をつきながら答えた。
”成人してからは,年に5・6回見るくらいに減ってたんだがな・・・,ここ数日連発して見ているんだ”
”やはり,この事件のせいかい?”
”多分ね”
”寝不足ってのは,このこともあったんだろ?”
”ああ・・・”
 ギルフォードは、右手で頭を支えながら言った。半分見える顔が苦痛に歪んでいる。
”アレックス,ぼくがいるだろ.そんな悪夢なんて忘れさせてやるから,ゆっくりと眠るんだ・・・”
 ジュリアスは、ギルフォードをぎゅっと抱きしめ、彼の震えが収まるのを待った。彼が落ち着いたのを確認すると、彼を寝かせ自分も横に寝ると、間接灯だけつけて他の灯りを消し毛布を被った。
”大丈夫,ぼくがついているよ.安心してゆっくりとお休み・・・”
 ジュリアスは、ギルフォードに両手を絡ませ、彼の身体を再び抱くと優しく囁いた。ギルフォードはしばらくジュリアスの腕の中で大人しくしていたが、急に身体を起こしてジュリアスにのしかかった。
”こら,アレックス.今日は大人しく寝るんだよ”
”忘れさせてくれるんだろう?”
 ギルフォードが切ない眼をして言った。
”悪い子だな・・・”
 ジュリアスは困った笑みを浮かべて言ったが、さして抵抗する様子もない。ギルフォードはそのままジュリアスに顔を近づけた。昼間、ジュリアスがやったゲリラキスよりはるかに長く濃厚なキスだった。ギルフォードはそのままの体勢で、間接灯を消した。部屋は暗くなったが、窓のカーテンの隙間から差し込む月光でぼんやりと明るかった。ジュリアスはそのまま目を閉じ、ギルフォードに身体をゆだねた。

(第2部 4章衝撃 終わり) 

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