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4.衝撃 (2)交錯する想い

 せっかくの土曜だが朝から薄曇で、時折日差しは射しているが天気予報では午後からは雨だった。窪田はレンタカーの助手席に部下の歌恋を乗せて、高速道路を走っていた。道は若干混んでいるが、渋滞はしていない。この分では予定通りにY温泉に着くだろう。そう思った時、隣の歌恋が言った。
「課長、何でこんな天気なのにサングラスをかけているんですかぁ?」
「ああ、これ?」
窪田は言った。
「え~~っと、これは・・・。そうそう、変装!」
「やぁだ、課長ったら、目的地は県外だしこれは私が借りたレンタカーですよ。そんなに気を使うことないのにぃ」
歌恋は少し笑って言った。
 実は窪田は昨夜から微熱があり、軽い頭痛もしていた。頭痛薬でそれはなんとか収まったがそのせいか、ちょっとした光がまぶしくて時折眼の奥に痛みすら覚えるほどだった。それで、濃い目のサングラスをかけてみたら、なんとかそれが解消されしかも、意外と渋くてダンディに見えた。窪田は鏡の前でニッと笑うと、サングラスを旅行アイテムのひとつに決めた。その様子を横目で見ながら、妻は聞こえよがしに独り言を言った。
「接待ゴルフなのにそんなにお粧し(おめかし)して、キャディさんに美人でも居るのかしら?」
窪田は聞こえないふりをしながらひたすら準備にいそしんだ。
 朝のことを思い出しながら、窪田はちょっと苦々しい気分になったが、それより歌恋になんとなく元気がないことが気になった。
「そんなことよりもねえ、笹川君、なんかいつもの元気がないけど、具合でも悪いんじゃないの?」
「え? あ・・・、ううん、全然! そんなことないですから。きっとお天気のせいですよ。晴れなくて残念でしたね」
「もうすぐ梅雨だからねえ。まあ、雨の温泉街もひなびた感じがしていいと思うよ。でも、こんな天気ならK温泉のほうが風情があったかな?」
「Y温泉の方がお洒落でいいですよぉ」
歌恋が言った。
「課長はやっぱりK温泉の方が良かったですか?」
「僕はどっちでも良かったから。両方とも行った事あるしね。それより、今日は『課長』はやめてくれないかなあ?」
「あ、そうでしたね、栄太郎さん。じゃあ、私も笹川君じゃなくて『歌恋』って呼んでほしいな」
「ああ、そうだったね」
二人はお互いをチラと見て笑った。二人を乗せた車は、高速道路を順調に進んだ。楽しい旅行になる筈だった。
 

 ギルフォードが研究室に戻ると、如月が待っていた。
「キサラギ君、おはようございます。昨日は午後からスミマセンでしたね」
「あ、先生、おはようございます。あのですね、実は昨日、友人から・・・正確には友人の友人なんやけど、彼から聞いたんですがちょっと気になることがあったんでお伝えしておこうと思うて・・・」
「おや、昨日は聞きたいことで、今日は伝えたいことですか」
「聞きたいことの方はおかげさまで解決しました。今日の話は、先生が関わっておられる事件に関わりがありそうやと思うたんです。で、その友人の友人の妹の友だちが・・・」
「なんか都市伝説の始まりみたいですね」
「はあ、実際そんな風にも取れるんですが・・・、急死したそうなんですが、それが・・・」
「急死? なんか嫌な感じがしますね。ちょっとこっちに来て詳しい話を聞かせてください」
ギルフォードは如月を教授室に招いた。教授室では紗弥が今日の講義のための資料をせっせと作っていたが、ギルフォードに気がつくと言った。
「おはようございます。・・・あら、ジュリアスは?」
「センターに残りたいというので置いて来ました。まあ、何かの役には立つでしょうからね。スミマセンが如月君からお話を聞きたいので、ちょっと待ってくださいね」
「ええ、ごゆっくり」
紗弥はそういうと、作業を続けた。
 
「え? 血を吐いて死んだ?」
ギルフォードは、如月の話を聞いて驚いて聞き返した。
「そうらしいです。高熱を我慢してたらしくて、倒れて病院に搬送されたときには、すでに多臓器不全をおこしていて、手がつけられない状態だったそうです」
「多臓器不全・・・、ですか。この事件の犠牲者の多くと同じ症状ですね。で、解剖結果は?」
「それが、両親が宗教上の理由とかで解剖を拒んで、遺体を強引につれて帰って・・・、結局死因不明ということらしいんです」
「なんですって?」
「しかも、病院でも殆どの治療や検査を拒んで、ろくに娘の身体を触らせようともしなかったらしいんです」
「なんて馬鹿なことを!! その後、その家族からは死者は?」
「ええ、なんでもおじいさんが倒れて、やはり同じような症状で・・・。ただ、これも・・・」
「宗教上の理由ですか・・・」
「はい。よくある心霊治療系の宗教らしくて、おじいさんの場合は病院にも行かず自宅で治療を行っていたそうです。友人の友人の妹の友だち・・・ややこしいですね、そうそう、確か杏奈て言うたと思いますが、彼女が病気を我慢していたのも、それが嫌で両親に言えなかったらしくて、幸か不幸か路上で倒れたので救急車で病院に搬送出来たということですワ」
「ひどい話です」
「ただ、今のところおじいさんで連鎖は止まっているようですが。ところがですよ、今朝また彼から電話があって、もっと気になることを言ってきたんです」
「気になること?」
「ええ、その杏奈ちゃん、先週列車事故の現場に遭遇していたらしいんですよ」
「ひょっとして、マサユキ君の?」
「多分そうです」
「なんですって!?」
ギルフォードは立ち上がって言った。
「恐れていたことが起こってしまったようです。キサラギ君、貴重な情報をありがとう。でも、例によってまだ口外しないでくださいね」
「もちろんですワ。色々理由があるんはわかっとるつもりやし」
「本当は隠すべきではないのですけど・・・。とにかく、急いでタカヤナギ先生に連絡して対処をお願いしますから・・・」
「高柳先生に?」
「はい。彼から各方面に連絡が行きますから。その家の住所とかわかりますか?」
「急いで電話して聞いてみますさかい、ちょっと待っとってください」
如月は、すぐに友人に電話をかけ始めた。それを見ながら、ギルフォードの心に不安が広がって行った。
(”この分じゃ、表立っていない犠牲者がもっと居るかもしれないぞ”)
もはやこれは隠している段階ではない。ギルフォードは、今までゆっくりと動いてた時計の針が、徐々にスピードを上げて進み始めたように感じていた。

 由利子は部屋の片付けを途中で諦め、パソコンのリカバリに取り掛かった。どうもパソコンが使えないと不便を感じて仕方がないからだ。10年ほど前なら無くても一向に困らなかったのになあ、と、由利子は時代の流れを痛感していた。
 それでも、それなりに部屋は片付いていた。壊されたものは全部廃棄するため分別してゴミ袋に入れ、倒された家具を定位置に戻した。散乱した小物を集め、汚れを落としてとりあえず一まとめにした。粗方だが掃除機もかけた。後はまとめている小物を分類して定位置或いは新たな置き場に配置し、仕上げの掃除機をかけるのみだ。ついでに少し模様替えもしたかった。験直しの意味も含めて気分転換にもなるだろう。
 玄関の鍵は、朝一番に修理屋を呼んで厳重なものをつけてもらった。それでもドアごと壊された場合意味を成さないだろうが。後は防犯グッズをそろえるくらいしかないだろう。
「念のため、しばらくの間この辺りは私達が巡回しますから。でも、くれぐれも気をつけて、人気のないところには近づかないようにしてください」
鍵の修理が終わり、玄関警備をしていた警官はそういうと敬礼をして去っていった。由利子はお礼を言いながら、美葉の件を考えていまいち不安に思ったが、部屋に閉じこもってばかりもいられない。多美山にも今日行くと言ってある。
「でも、行けるかなあ・・・」
由利子はつぶやいた。OSの再インストール自体はそう時間のかかるものではなく、実際すでに終わらせていた。しかし、設定をしなおしたりソフトを入れ直したりと、元に近い状態に戻すまでが大仕事なのだ。特に由利子のパソコンは型も古く、従ってOSもそれなりに古いのでメール設定も若干面倒くさい。
「やっぱ新品に買い替えたほうがいいっちゃろか?」
しかし、これから先どうなるかわからないし、ギルフォードのバイトだって大した時給はないだろうから、無駄遣いはしたくないというのが本音だった。
 メール設定が終わったところで、電話が入った。ギルフォードからだった。

 葛西は、今朝から聞き込んだ情報をまとめるためと遅い朝食をとるために、駅の近くにある喫茶店に入っていた。
 朝早く寮を出たため、空腹感は限界に来ていた。なんとかモーニングのオーダー時間に間に合った葛西は、まず運ばれてきたコーヒーを飲みながら、ノートを開いた。
 メモを整理しながら彼は妙なことに気がついた。公園周辺の住民数人からの証言に、事実誤認と思われるものがあったのだ。それはあのホームレス集団死事件の翌朝、公園で大勢の防護服の警官を見たというものだった。話を聞いている時は不思議に思わなかったが、考えてみたらあの時はまだ、それが未知のウイルスによるものだとはわかっていなかったはずだ。それで、警官も救急救命士も平常の装備で対応したのだ。そのため、救命を焦った古賀隊員が安田さんにマスク無しで地かに人口呼吸を施して、感染、死亡したと考えられているのだ。だからこそ、彼らの感染追跡調査が今も行われているのである。
(どういうことだ?)
葛西は思った。
(美千代の事件の時と話が混ざって噂になっているんだろうか。まさか、誰かが意図的に流した噂じゃないだろうな・・・)
しかし、そんな噂を吹聴したところで何のメリットがあるのか、ということを考えると特に無いように思われた。やはり、これは記憶違いの可能性が高いな、と葛西は結論した。
 だが、他にも噂や憶測、あるいは完全なデマと思われる証言がけっこうあった。
 その最たるものが、現場の調査に当たった警官がばたばた死んでいるが、警察はその事実を隠している、と言うものだった。しかもそれは、大勢の警官が死んだこと以外は完全に否定できないことだった。ギルフォードは当初から発表すべきと主張していたが、当局の方がどう対処すべきか頭を悩ませた結果のことで、悪意は全く無いのだが、多くの事実を伝えていないことは間違いないのだから。
 あとは、頭のおかしい科学者(証言者はもっと直接的な言い方をしていたが)が人体実験のためにやったとか、公園の池から有毒ガスが流れたとか、日本軍の細菌兵器が見つかったからだとか、医療廃棄物である放射性物質が公園内に捨てられていたとか、流石に宇宙人犯行説には失笑を禁じるのが大変だったが、そういう類の噂まで流れていた。いずれにしても、「複数の遺体―防護服の警官」という連想から成り立っているような内容である。
 だが、ホームレス集団死事件からは、まだたったの2週間しか経っていないのだ。それでこれだけの様々な噂や憶測が広範囲に飛び交っているのだ。昨日の河川敷の事件からも、また噂が広まっていくのは時間の問題だった。それは真偽を取り混ぜ、最終的には皆が納得するような形で『真実』として定着するかもしれない。そんな時、もし一気に感染が拡大したら・・・。葛西はゾッとした。現場の警官として、葛西は告知のリミットが目の前に迫っているのと感じ取っていた。
 今までの調査でわかったことは、大まかに分けると3っつに分類された。ひとつ目は、犠牲者の一人である安田さんと言い争っていた男がいたということ。二つ目は、この事件を調査しているらしい若い女性がいること。しかもかなりの美人らしい。三つ目は、この事件は予想以上に市民が関心を持っており、すでに様々な憶測や噂が飛び交っているということ。
 葛西は、モーニングのトーストを齧りながら、調書のまとめをざっと読んでみた。やはり、これは昨日の件が今どう広がりつつあるか調査してみるべきだと思った。葛西は食事後、昨日の河川敷の辺りで情報収集を行ってみることを決めた。証言の整理がほぼ終わったところで葛西はサラダを突っつき、最後に、取っておいたゆで卵に手を伸ばした。
 その時、葛西の携帯電話に着信が入った。鈴木係長からだった。葛西は電話を掴むと、急いで客の少なそうな手洗いの方に急いだ。 

 ギルフォードから由利子へ、また、鈴木から葛西へとそれぞれかかった電話の内容は、同じく多美山の急変を伝えるものだった。

 ギルフォードは、高柳に沢村杏奈の変死について連絡したあと、急いで講義の資料の整理をしていた。幸い紗弥が手際よくまとめてくれていたので、なんとか時間には間に合いそうだった。ギルフォードはニコニコ笑いながら紗弥に言った。
「サヤさんは本当に頼りになりますねえ」
「褒めても何も出しませんわよ」
紗弥はいつものポーカーフェイスで言った。
「ジュリーのこと、ありがとう。彼とはずっと連絡を取っていてくれたんですね」
「ずっと、ではありませんわ。半年前くらいからかしら? 言ってしまえば彼の執念が教授の居場所を突き止めた、と言うことです」
「ジュリーが?」
「ええ。でも、教授と直接連絡を取るのが怖いといって、私の方にコンタクトを取って来たのですわ」 
「そうだったんですか・・・」
「教授、科学者が思い込みで人を遠ざけるなんて変ですわ。新一さんの事とジュリアスの事故の事は偶然です。頭ではわかっておられるのでしょう?」
「偶然も、三度続けば臆病になってしまうんですよ。特に最あ・・・」
ギルフォードが言いかけた時、彼の携帯電話に着信が入った。
「噂をすれば、ジュリーからですよ」
そう言いながら電話に出たギルフォードの耳に飛び込んできたのは、ジュリアスの緊迫した声だった。
”アレックス,大変だ.多美山さんの容態が急変した! 今度はかなりヤバイらしい”
”なんだって!?”
ギルフォードは思わず椅子から立ち上がった。
”まだなんとか意識があるけど,すぐ来たほうがいい.来れそうか?”
”ダメだ.今から講義があるんだ.学生達が待っている.すっぽかすわけには行かない.終わったらすぐに行くから,俺の代わりにそこで出来ることをやっていてくれないか”
”って,いいのかよ,アレックス? おい・・・”
ジュリアスは何か言いかけたが、ギルフォードは無視してそのまま電話を切った。
「タミヤマさんが急変されたそうです」
「まあ、急いで行かなくてよろしいのですか?」
「タミヤマさんは、仕事に厳しい方です。講義をすっぽかして行ったりしたら、それこそ怒られてしまいます。さあ、そろそろ講義室に行きましょうか。その前に僕は、ユリコに電話して伝えておきますから、サヤさんは先に行っておいて下さい」
「承知しました」
紗弥は、資料を持って研究室を出た。ギルフォードはそれを確認すると、力が抜けたように椅子に座り机に寄りかかった。その後、組んだ両手を額にあて、一瞬何かに祈るようなしぐさをしたが、すぐに由利子に電話をかけるべく、電話を取り出した。

「多美山さんが? うそっ!!」
電話からは由利子の予想通りの声が返ってきた。
「僕もウソと思いたいのですが・・・。さっきジュリーから電話があったのです」
「ジュリーさんから?」
「ええ、僕が大学に戻らねばならないので、僕の代わりに感対センターに居てもらいました。ユリコ、君も昨日のことがあって、外出はどうかと思ったのですが、やはり報せないわけには行きませんので・・・」
「いえ、教えてくれてありがとう、アレク。知らなかったらきっとものすごぉく後悔しました」
「ですが・・・」
「今から行きます」
「え?」
「絶対に行きますから!」
「大丈夫なのですか?」
ギルフォードの心配を他所に、由利子はきっぱりと言った。
「まさか、昼間から私を襲うようなことはないと思うし、鍵は頑丈なものに変えました。それにこのマンション付近は警察の方たちが巡回して警備してくださっています。だから、部屋の方も昨日のようなことにはならないと思いますから、大丈夫です」
「わかりました。くれぐれも気をつけて行ってください。僕は今から講義がありますから、多分急いでも12時半前後になるでしょうけど、必ず行きますから」
「わかりました。私もいまやっているインストールが終わり次第、出かけます」
「では、センターでお会いしましょう」
ギルフォードはそう言うと、すぐに電話を切り、紗弥が残していった資料を片手で抱えると、急いで研究室を出て行った。
 電話が切れた後も、由利子は携帯電話を持ったまま数秒間呆然としていた。昨日会った時、多美山は熱が若干あるとはいえまだまだ元気そうだった。会話も弾み、むしろ楽しいひと時が過ごせたくらいだった。ところが、由利子の見ている前でどんどん病状が悪化して行き、一時は危篤状態にまで陥ってしまった。幸い治療が効いたのか、何とか多美山は危機を脱し、駆けつけてきた息子とゆっくりとなら会話出来るくらいに持ち直していた。ひょっとしたら、ひょっとしたら・・・と、わずかな希望を持ち、由利子は奇跡を祈っていた。しかし、まさか、こんな早くに運命の時が訪れようとは・・・。由利子は多美山の顔を思い浮かべた。自然と口から言葉が漏れる。
「いや、もう一度奇跡を信じよう。まだ亡くなられた訳じゃない!!」
由利子は、立ち上がると急いで出かける準備を始めた。

 葛西はお手洗いのドアの前まで走ると、人影が少ないことを確認して電話を取った。
「すみません、出るのが遅くなりました。葛西です」
「今どこだ? 改めて公園周辺を調査するとかいうメールを早朝から送って来て、一人で出かけるものだから、心配したぞ。電話くらいかけたまえ」
「すみませんでした。朝早かったもので。それで、理由はそれに書いてあるように・・・」
「ああ、わかっている。実は私も多美山主任もそれが気になっていたんだ。美千代の事件が無ければ、多美山主任は君と、今週半ばにでもそれについての調査をするつもりだったんだ」
「そうだったんですか・・・」
「その多美山主任の件だが・・・」
鈴木は改まって言った。その口調に葛西は嫌な予感を覚えた。
「容態が急に悪化したとの知らせが、たった今入ったんだ。葛西君、とりあえず今日のところはそれを切り上げて、急いで多美山さんのところに行っていいから」
「いえ、行きません」
葛西はキッパリと答えた。
「葛西君?」
「これが多美さんと僕の仕事ならば尚更です。僕は、引き続き聞き込みを続けます。多美さんの分も僕が・・・」
そういうと、葛西は自分から電話を切った。その後、電源も落としてしまった。携帯電話をポケットにしまうと、メガネを少し上げて、袖口で目の辺りを軽く拭き、葛西は自分が座っていた席に戻った。しかし、彼はもう席には着かず、テーブルに散らばしたものを片付けると、すぐに伝票を持ってレジに向かった。

 由利子は12時前になんとか感対センターに着いた。昨日許可証をもらっていたので、今日はすんなりとセンター内に入ることが出来た。
 スタッフ・ステーションの中に入ると、スタッフの数が昨日よりずいぶん増えており、雰囲気もかなり慌しいものになっていた。昨日から隔離患者が増えたことと、多美山の病状悪化が重なったためだろう。現場の雰囲気から自分の場違いさを感じ、気後れする。とりあえず由利子は入り口で挨拶をし、尋ねた。
「こんにちは。あの、ギルフォード先生から連絡を受けて来たのですけれど・・・」
「あ、篠原さん、こんにちは」
春野看護士が由利子に気がついてくれた。彼女は由利子に近づくと言った。
「昨日は大変だったそうですね。大丈夫でした?」
「ええ、私自体はぜんぜん大丈夫です。それより多美山さんが・・・」
「そうなんです。今日は早朝にまた新しい患者さんが担ぎこまれて・・・。でも多美山さんはその頃はまだ落ち着いていらしたんです。でも、8時過ぎた頃からまた熱が上がり始めて・・・。とにかく行ってあげてください。まだ意識はしっかりとしてありますから」
春野はそう言い残すと、仕事に戻って行った。
「ありがとうございます」
由利子は春野の背に向けてお礼を言うと、多美山の病室の窓に向かった。窓は昨夜からはもう「開いた」ままになっていた。窓の前には先客が居た。もちろん由利子はそれに気がついていたが、声をかけるのにちょっと躊躇した。
(ひょっとして、この人がジュリーさん?)
紗弥さんの彼氏と聞いていたが、ギルフォードのイメージがあったのでてっきり白人と思っていたが、ひょっとして・・・。
 由利子の気配を感じて、男が振り返った。長身で痩せ気味だが筋肉質の彼は、黒い肌をしていた。男は由利子を見ると、白い歯を見せて笑った。黒い肌に白い歯と綺麗な目が際立っていた。
「由利子さんですね」
彼は流暢な日本語で言った。
「はじめまして、ジュリアス・キングです」
「あ・・・、こちらこそはじめまして。篠原由利子です」
「お噂は聞いています。どうぞ、こちらに来て多美山さんに会ってあげてください」
「はい、すみませんっ」
由利子は恐縮しながら窓に近寄った。病室を見た由利子は息を呑んだ。言葉が出なかった。装備された機材こそ昨日とあまり変化がなかったものの、そこには別人のように憔悴しきった多美山が、ベッドに埋まるように寝ていた。酸素マスクが昨日より大きくなったように感じられた。
 横にはいつもの三原医師と園山看護士に加えて、息子の幸雄が防護服に身を包んで多美山の横に座っていた。彼自身が望んだということだった。三人は由利子を見ると軽く会釈をした。由利子も会釈を返す。多美山は、その気配で由利子に気がついて目を開き彼女を見た。その目を見て由利子はぎょっとした。赤かった。充血と言うにはあまりにも赤い目をしていた。
「篠原さん・・・、でしょう? ・・・来て・・・くれたと ですか・・・?」
「ええ。昨日約束したでしょ?」
由利子は微笑んで言った。
「ありがとう・・・」
多美山は力ない笑みを浮かべて言うと、また目を閉じた。相当きついのだろう。ジュリアスが由利子に言った。
「多美山さんは、人工呼吸器の装着を拒まれました。お孫さんに会った時、お話が出来ない、と言って・・・」
「そうですか。そういえば・・・、延命治療も拒まれておられましたから・・・」
「辛いですね」
「――ええ・・・」
二人はそのまま黙って病室内を見つめていた。内心由利子は何を話していいかと困っていた。この状態で、ジュリアスのことを根掘り葉掘り聞くのも不謹慎に思われた。そんな中、ジュリアスの方が先に口と開いた。
「僕は・・・、あの、すみません、話し難いので名古屋弁でいいですか?」
「え? はい、どうぞ」
「アレックスの古くからの友人だなも。由利子さんには本当にお会いしたかったんだわー」
「え? そうなんですか? 光栄です」
由利子は、何となく可笑しくなって笑顔で答えた。
「あ、ちゃんと笑ってくれてまったね。黒人の名古屋弁って変かね?」
「ちょっと変かも・・・。って、ごめんなさい、偏見ですね。でも、ほんわかねっとりな感じでいいです。私、好きですよ、キングさんの名古屋弁」
「ほんわかねっとり・・・。面白い表現だて。僕のことはジュリーって呼んでちょーね」
「じゃあ、私は由利子って呼び捨てでいいですよ」
「了解だて」
二人の会話は自然になり始めたが、ひとりの女性がステーション内に入って来たのに気がついて、二人とも驚いて振り向いた。女性はツカツカと窓の近くまで来ると言った。
「お義父さん・・・!」
「おまえ! やっと来たか」
幸雄が言った。
「梢(こずえ)さん・・・」多美山が言った。「よく来てくれて・・・。ありがとう」
「お義父さん・・・、何てことになって・・・」
それ以上言葉が続かない。梢は両手で顔を半分覆い、黙り込んだ。幸雄は娘の姿が無いのに気がついて言った。
「桜子は?」
「あなた? そんなところに居たのね。桜は連れて来たけど外で母に見てもらっているわ。ごめんなさい、お義父さん。ここには病気が怖くて連れてなんかこれないもの」
多美山はそれを聞いて、目を瞑った。明らかに落胆している。
「梢、病室にまで連れて来いって言うわけじゃない。そこで会って話すだけだよ。そこは安全なんだ。みんな、軽装で居るだろ?」
「万が一ってことがあるじゃない。だめよ。だから、お義父さん、孫が可愛いなら悪く思わないで」
「梢っ!!」
梢はそう言ってのけると、幸雄の呼ぶ声も無視して病室に背を向け、さっさとステーションから出て行ってしまった。
「私、後を追って説得してきます!」
由利子はそういい残すと、その場から駆け出した。
「おれも行きます」
ジュリアスもすぐにその後を追った。
「由利子! おれも行くがね」
二人は並んで早足で歩き、梢の後を追った。
「ひっどいよね。あれじゃ多美山さんがかわいそうだ」
「感染症に対する一般の認識なんて、あんなもんだて」
ジュリアスはしかつめらしい顔で言った。
「まあ、おれだって、怖い時は相当怖いと思うくらいだからよー」
梢の後を追って、二人は感染症センターの見舞い客用待合室に着いた。あまり広くは無いが、清潔で明るい雰囲気の待合室にはまだ殆ど利用者はおらず、窓際のソファに初老の上品そうな女性が、6歳くらいの女の子をつれて座っていた。なぜかその前に大柄な男が、女の子と話しやすい高さになるくらいに跪いて、親しげに話している。梢は男を見て一瞬首を傾げたが、迷わずそちらの方に歩いて行った。すかさず、由利子は梢に声をかけた。
「あの、多美山梢さん・・・でしたね」
梢は振り向くと、不機嫌そうに言った。
「何か用?」
「あの、多美山さんに・・・」
「娘を会わせるのなら、お断りよ!」
梢は鋭い声で言った。
「そんな、頭っから・・・。ここはそういう感染症用に作られた病院です。絶対に感染ったりしないから・・・」
「そうだなも。最後になるかも知れんのだて、なんとか会わせてやってくれんかねー」
「勝手なことを言わないでよ! ・・・そりゃあ、私だって会わせてあげたいですよ。だけど、危険な病気なんでしょ? 感染ったら、あんな風になって死んじゃうんでしょ? それに、あんな状態のおじいちゃんを見せたら、桜のトラウマになっちゃうかもしれないじゃない!!」
「何をもめているんですか?」
窓際のソファの辺りから、聞き覚えのある男の声がした。男は、女の子を肩車しながら近づいてきた。後ろから初老の女性が心配そうについてくる。
「アレックス!」
「アレク、どうしてこんなトコに?」
「ああ、バイクで来たんですが、こっちから入った方が早かったもんで・・・」
ギルフォードは、例によってにっこりと笑いながら言った。

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4.衝撃 (3)桜子とギルフォード

 葛西は、昨日ホームレスの遺体が見つかった場所の近くで聞き込み調査をする前に現場に寄ってみることにした。もちろん、現場付近は広範囲にわたって立ち入り禁止のテープが張られており、警官たちが侵入者のないよう警備していた。彼らは葛西の姿を見ると、さっと敬礼した。葛西も敬礼を返してから尋ねた。
「何か変わりはありましたか?」
「いえ、何人かが何が起きたのか聞いてきましたが、後は特に・・・」
警官たちの答えはだいたいこういった感じだった。
「で、なんて答えてるんですか?」
「ああ、事実のとおり答えてます。身元不明の遺体が見つかったからだと」
「そうですか」
「葛西刑事」
少し離れたところに居た警官が、葛西の傍に近寄って来て言った。
「自分らもまだ詳しい話は聞いていないのですが、これも今問題の事件と関わりがあるんですか?」
「ええ、多分・・・」
葛西は言葉尻を濁しつつ答えた。そんな中、葛西は橋の上で写真を撮っている女の姿を見つけた。遠くで顔はよくわからないが、あの極美という女に似ているように思えた。葛西は急いで女の方に向かって走ったが、女は近くに止まっていた車に乗って姿を消した。
「くっそぉおおお~!」
葛西は走るのを止めて毒ついた。いくら葛西が元中距離ランナーでも車には敵わない。取り合えず、葛西は橋の上まで歩き、女のいた辺りにたって周囲を見回した。
「こんな、うっぽんぽんの地形じゃあ、なにもかも丸見えじゃないか・・・」
葛西はぼやくと、欄干に寄りかかり広いC川の川面を眺めた。

「ああ、びっくりした」
極美は助手席でシートベルトを締めながら言った。運転席の降屋裕己(ふるやひろき)が、不審そうな表情で尋ねた。
「どうしたの?」
「あ、堤防の上で警官と話していた刑事らしい人が、私を見つけて追いかけてこようとしたの。きっと、公園に居た連中の一人だわ。ほかに私のことを知っている人なんかいないもの」
「そうか、やっぱり」
「昨日ここの河川敷にも大勢の防護服が居たらしいという、あなたの情報は、多分間違いないようね」
「そのようだね」
「で、あなたの情報源って一体何?」
「そりゃあ、例の公安の友人と・・・」
「それだけじゃないでしょ?」
「あ、わかった? でも、今はまだ秘密だよ」
「あん、いじわる!」
「その機会が来たらきっと話してあげる」
降屋は極美に向かって意味深な笑みを浮かべて言った。

 講義を終えて駆けつけたギルフォードが、待合室の方からセンター内に入ると、小さい女の子の話し声が聞こえた。その方を見ると、待合室のソファに女の子と初老の女性が座っていた。ギルフォードはそれが多美山の孫だと判断した。おそらく女性の方は、年齢からして祖母なのだろう。多美山の妻は早くに病死しているから、おそらく母方の祖母であろう。女の子は、祖父である多美山について、何度も祖母に質問しているのだが、祖母の方は孫の質問に「そうねえ・・・」と言葉を濁すばかりであった。
「キュウシュウのおじいちゃんに あいにきたんでしょう? おじいちゃん、びょうきなの?」
「そうねえ・・・、でも、おばあちゃんもよくわからないの・・・」
「はやく、あいに いこ!」
「そうねえ・・・」
「びょうきなんでしょ? はやく おみまいにいこぉ」
「そうねぇ・・・、でもママが帰るまでちょっとまってちょうだいねえ」
と、堂々巡りである。なんとなく状況を把握したギルフォードは、彼女らに近づいて行った。
 案の定、でかい白人の男が近づいて来たので、二人は警戒して黙ってしまった。ギルフォードは彼女らの警戒心を解こうと、とびっきりの笑顔を浮かべて言った。
「こんにちは。タミヤマさんのお身内の方ですか? 僕はギルフォードと言って、タミヤマさんにはお世話になっています」
ギルフォードの努力にもかかわらず、女の子は見知らぬ大きな外国人に話しかけられ、驚いて祖母の陰に隠れた。
(”まあ、泣き出されない分上等だな”)
ギルフォードがそう思っていると、祖母がおずおずと質問をしてきた。
「あの、どういったお知り合いで?」
(”俺の出自が判るまで信用してもらえないって感じだな。まあ、無理ないか”)
ギルフォードはそう思いながら、引き続き笑顔で答えた。
「はい、今、多美山さんが関わっておられる事件の関係で知り合いました。あ、申し遅れましたが僕はこういう者です」
そう言いつつ彼女に名刺を渡す。
「はあ、Q大の教授先生でいらっしゃいますか」
目の前の外国人が怪しいものではないということがわかって、女性の態度にすこし軟化が見られた。
「失礼いたしました。私は多美山の嫁の母で谷楓と申します。多美山がお世話になっております」
「カエデさんとおっしゃるのですか。あなたにお似合いの、日本的で美しいお名前ですね」
ギルフォードは、にっこりと笑いながら歯の浮くようなセリフを臆面もなく言ってのけた。この一言で楓の態度が急に好意的になったのは言うまでもない。
「いえ、古風なだけですから」
楓は少しはにかみながら言った。すかさずギルフォードは楓に尋ねた。
「可愛い女の子ですね。お孫さん・・・、ですよね」
「ええ、そうですけど」
「あの、スゴクぶしつけでスミマセンが、お孫さんと少しお話していいですか?」
「ええ、どうぞ」
楓は快諾した。ギルフォードは女の子の方を向くと、目線が合うようにしゃがみながら言った。
「こんにちは。僕は、アレクサンダー・ギルフォードです。君のお名前は?」
女の子は戸惑って楓の方を見た。楓は笑いながら言った。
「いいのよ。先生にお名前を教えてあげなさい」
祖母の許しを得て、女の子は安心して言った。
「さ~ちゃんは、たみやま さくらこ、です」
「サクラコちゃん? いいお名前ですね」
「おじいちゃんがつけてくれたの」
「おじいちゃんが? へ~え、そうなんだ。さ~ちゃんはおじいちゃんが好きですか?」
「はいっ。だいすきです」
「どこが好き?」
「えっとね。つよいけどやさしいのと、とりさんみたいだから」
「鳥さん?」
ギルフォードは、少し驚いて聞き返した。あの多美山からはとてもイメージ出来ない例えだったからだ。
「方言ですよ」楓がフォローした。「九州の方って、よく『とっとぉと(取っているの)』っておっしゃるでしょ? それが鳥みたいだって、この子ったら・・・」
「ああ、そうですか。そう言えば鳥っぽいですねえ」
ギルフォードはそう言いながら微笑んだが、急に真面目な表情になって桜子に言った。
「さ~ちゃんは、おじいちゃんに会いたいんですよね?」
「うんっ!」
桜子は即答した。
「こら、『うん』じゃなくて、『はい』でしょ?」
祖母に注意されて桜子は小さく「はい」と言い直した。それを見てギルフォードは少し微笑みながら言った。
「おじいちゃんが病気なのは知ってますね」
「はい。だって、ここびょういんだもん」
桜子は口を尖らせて言った。
「そうでしたね」ギルフォードはくすっと笑って続けた。
「いいですか、よく聞いてください。おじいちゃんは重い病気に罹っています。そしてそれは感染る病気です」
「あなた、子どもにそんなこと言っても・・・」
「いえ、問題ありません」
楓が口を出したが、ギルフォードは反論し、続けて聞いた。
「感染るってわかりますか、さ~ちゃん?」
「おカゼみたいに?」
「そうです。でも、もっともっとアブナイ病気です。だから、お見舞いに行ってもさ~ちゃんは直接おじいちゃんに会うことが出来ません」
「あえないの?」
桜子は悲しそうな顔して言った。
「会えますよ。ただ、違うお部屋からおじいちゃんとお話することしか出来ません。抱っこもキスもしてもらえませんし、出来ません」
「さ~ちゃんもおじいちゃんもキスはしないよ。おじちゃんみたいなガイジンじゃないもん」
「あ、そうでしたね。触れることが出来ないって言いたかったんです」
「あのね桜、おじいちゃんのお傍に寄れないってことよ」
楓がフォローした。
「さ~ちゃん、キスしないし、だっこもがまんするから・・・」
「そうはいかないのです。ゴメンネ。でも、お顔は見えるし、少しならお話も出来ますよ」
「・・・」
子ども心になにかを察したのだろう、桜子は黙って下を向いてしまった。
「さ~ちゃん、どうしたの?」
「・・・そうじゃなかったらあえないの?」
「はい。残念ですケド・・・」
「あのね・・・。さ~ちゃん、それでいいからおじいちゃんにあいたい」
桜子は、少し涙目で言った。
「さ~ちゃんはイイコですねぇ」
ギルフォードは、つい目の前の幼い少女が愛おしくなり抱きしめてしまった。
「あの、ぎるふぉーど先生?」
祖母の楓が驚いて声をかけた。ギルフォードは焦って桜子を解放して言った。
「あ、すみません、つい西洋のノリで・・・」
しかし、当の桜子の方はさして気にした様子は無いようで、そのままギルフォードにしがみつきながら言った。
「おじちゃん、あのね、かたぐるまして」
「え?」
いきなりのオーダーに、ギルフォード自身が驚いた。桜子がギルフォードを見上げて言った。
「おじいちゃんね、よくかたぐるましてくれるの」
「おじいちゃんより背が高いですから、ずいぶんと高いですよ。怖くないですか?」
「うん、さ~ちゃん、たかいとこヘイキだから」
「じゃあ、『アレクおじ様』って呼んでくれたら・・・」
ギルフォードはいたずらっ気をだして言ってみた。
「アレクおじちゃま、かたぐるましてください」
即答である。
「本当に素直でいい子ですねえ」
意外とあっさり答えが返って来たので、ギルフォードは驚きつつ感動して、桜子の両肩に手を置いて言った。感動でじ~んとしている大男を見ながら楓は思った。
(変な外人ねえ・・・)
その時、待合室に言い合いのような声が聞こえた。見ると娘が知らない二人となにか話している。桜子もそちらを見て言った。
「あ、ママだ」
ギルフォードも振り返った。彼の知らない女性一人とよく知っている二人の人物が、何がしか言い合っていた。桜子の一言と、彼らの話の内容から状況を把握したギルフォードは、桜子に言った。
「じゃあ、さっそく肩車でママのところにいきましょう」
「うん!」
桜子は嬉しそうに言った。

「いいですか。落ちないようにしっかりと僕の頭を持っているんですよ。あ、目隠ししないで」
ギルフォードは、肩に桜子を座らせると立ち上がった。
「ひゃあ、だいぶたかいよぉ~」
桜子は嬉しそうに言った。言葉に反してまったく恐れている様子は無い。
「さ~ちゃん、大物になりますよ」
ギルフォードは楓に言った。楓は困ったように答えた。
「もう、本当にお転婆で・・・」
 ギルフォードは、ゆっくりと由利子たちに近づきつつ声をかけた。
「何をもめているんですか?」
「アレックス!」
「アレク、どうしてこんなトコに?」
二人は驚いて言った。
「ああ、今日車を止めた場所からは、こっちから入った方が早いもんで・・・」
ギルフォードはにっこりと笑いながら言った。しかし、梢はギルフォードが娘を肩に乗せているのを見て、驚いてすごい剣幕で言った。
「あなた、誰? 娘になんてことをしてるのよ!!」
(”『なんてこと』たぁ人聞きの悪い”)
「あのね、梢。この人は怪しい人じゃないから」
ギルフォードが不満に思ったところで、楓がフォローしつつ、もらった名刺を梢に見せた。
「で、Q大の教授がなんで娘を肩車してるんですか。危ないから降ろしてちょうだい」
「や! さ~ちゃんおりないから!! ママってば、おじいちゃんにもいつもそうやっておこってたもん」
桜子が口を尖らせて言った。
「やめてちょうだい。3mくらい高さがあるじゃないの! 落ちたら死んじゃうわ!!」
「さすがに3mはないと思いますが・・・。それじゃあ、ジャンボマックスですヨ
ギルフォードは肩の上にいる桜子の方を向いて言った。
「ママが卒倒する前に下りようか」
「うん。しかたないなあ、ママは」
桜子が了解したので、ギルフォードは桜子を降ろすためにしゃがんだ。桜子はギルフォードの肩からよいしょと降りたが、そのままギルフォードの首にしがみついて言った。
「じゃあ、かわりにだっこして」
「桜子!!」
梢は本気で怒って言った。
「会ったばかりの男に平気で抱きつくなんて、はしたない! パパが見たら卒倒するわ!!」
「アレックスは子どもと動物に懐かれる天才だがね。セミが木に止まるようなもんだて、お母さん、心配せんでええて」
ジュリアスが複雑な表情で言った。由利子はジュリアスの様子を見て(あれ?)っと思った。(ひょっとして・・・?)。
 結局、桜子は祖母と母親の両方から手をつながれた。そのせいか、なんとなく仏頂面をしている。
「じゃ、帰るわよ! 桜、おじちゃんにご挨拶なさい」
「え? かえるの? おじいちゃんのおみまいはぁ?」
「ダメ! 感染ったら大変でしょ?」
「アレクおじちゃまがいったもん。おへやがべつだからダイジョウブだって!」
「ダメと言ったらダメなの!」
「だって、だって・・・」
「いいから帰るの!!」
「ママのバカぁ!!」
そう叫ぶと、桜子はうえ~んと泣き出してしまった。待合室の受付の女性が驚いて走り寄った。
「大丈夫ですか? なにかあったんですか?」
「あ、大丈夫です。子どものかんしゃくですから」
梢は焦って取り繕って言った。まさかそこまで娘が祖父に会いたがるとは思ってもいなかった。梢はギルフォードの方をキッと睨みながら言った。
「あなた、この子に何を吹き込んだの!?」
「タミヤマさんには直接は会えないということを言っただけです。彼女は最初からおじいちゃんに会いたがっていたんですよ。ねえ、カエデさん」
楓はいきなり自分に振られたので、驚きつつ答えた。
「ええ。ママが帰って来るまで待ってって、なだめるのが大変だったのよ。そこにギルフォード先生が来られて・・・」
ギルフォードはここぞとばかりに説得を始めた。
「コズエさん、サクラコちゃんをおじいさんに会わせてあげてください。お子さんがご心配なのはよくわかります。でも、僕はこの建物の図面と実際に内部を確認しましたが、特に問題はありませんでした。それに、もしウイルスが漏れ出していたとしたら、すでに僕たちの何人かは発症してしまっています。それに、この病気は直接触れた場合には強い感染力を発揮しますが、空気感染しないタイプです。したがって、離れている限りは感染のリスクはかなり低くなると思われます」
梢は、ギルフォードの説明を聞きながら少し態度を和らげたような感じだった。あと一押しだな、とギルフォードは思った。
「ましてや、タミヤマさんの病室は内圧が少し低く保たれていて、空気が外に向かわないように設定されていますし、何より完全に隔離状態にあります。ガラス窓も三層になっていて、密封されていますから、絶対に病原体が漏れ出すことはありません」
それでも、梢はまだ心配事が抜けないような表情で言った。
「でも、お義父さんの今の状態を知っているでしょ? あんな酷い状態のおじいちゃんを見たら、桜はショックを受けてしまいます」
「それは、ショックかもしれません。でも、子どもを甘く見てはダメです。子どもには意外と柔軟性があります。むしろそういうことから目隠しするほうが問題です。さ~ちゃんは、僕の肩車の高さでも平気でした。タミヤマさん似の強い子です。きっとダイジョウブですよ」
「だけど・・・」
「しようと思えば、僕がサクラコちゃんをかっさらって、病室の前まで連れて行くことだって出来ます。それをしないのは、コズエさん、あなたの了解を得るべきだと思うからです」
(アレク、それって犯罪ですから)
由利子は出る幕が無いので、心の中で突っ込んだ。梢は根負けしてため息をつきながら言った。
「そこまでおっしゃるのなら・・・。わかりました。ちょっとの間だけなら・・・・・」
「ありがとう。多分、タミヤマさんの負担になりますから、実際にちょっとしか会えないと思います」
祖母に抱っこされて泣きじゃくっていた桜子は、いつの間にか泣き止んで二人の会話を聞いていた。ギルフォードは、桜子の方を見て微笑みながら言った。
「さ~ちゃん、良かったですね。おじいちゃんに会えますよ」
「ほんと? いいの、ママ?」
「ええ、でも、ちょっとだけですよ。いいわね。これ以上わがままを言わないでちょうだい」
「ママ、ありがとう!!」
桜子は、母親に抱きついて言った。
「アレックス、おれ、先に行って報せてくるがね」
そういいながら、ジュリアスが走って行った。彼の姿はすぐに見えなくなった。その後、梢と桜子が手をつないで歩き楓がその後に続いた。
「さ、僕らも行きましょう」
「はい」
ギルフォードと由利子は三人の後に続いた。
 由利子はギルフォードと並んで歩きながら彼に言った。
「また、アレクにいいトコ取りされちゃったわね」
「え?」
「私とジュリーが説得するつもりだったの」
「そうでしたか。悪いことしましたね」
「でも、きっと私たちだったらダメだったな。このマダムキラー! おまけにロリコンの気もあったのね。何よ、アレクおじちゃまってなぁ」
「ゴカイです」
「ゴカイもミルワームもないわよ。それより・・・」由利子は声のトーンを落として言った。
「ジュリーが紗弥さんの彼氏ってウソでしょ? 彼、アレクの?」
「スルドイですね。バレましたか。でも、騙すつもりじゃなかったんですよ。サヤさんがサプライズにしたかったそうなのです」
「なるほどね。じゃあ、昨日ラブラブだったのは・・・」
そこまで言うと、由利子は自分の顔が赤くなっていることに気がついた。
「やだ、私ったらこんな時に何を・・・」
そう言ってギルフォードの方を見ると、彼の頬もぽっと赤く染まっていた。
「あれぇ、アレクおじちゃま、おばちゃんも、どうして おかおが あかくなってるの?」
二人がついてきているか確認しようと後ろを振り向いた桜子が、不思議そうに言った。
 

 葛西は、その後周辺の民家やオフィス・店舗等ランダムに数カ所ほど聞き込みを終えていたが、まだそこまで妙な噂が広がっているような様子は感じられなかった。どちらかと言うと公園での事件の方にみなの興味は集中していた。葛西自身も、要らないことを聞いたがために藪を突いて蛇を出すようなことをしないように、質問を選んでいたせいもあるかもしれない。
 しかし、ある安アパートで聞き込みをしていると、その一室に住んでいる、近所の大学に在籍しているという学生が言った。
「そういえば、今朝だったか、ようつべに妙な動画がアップされていたな。C川河川敷とか書いてあったんで、ちょっと興味があったんで見たんだけどさ」
「って、それは何? どういうものだったの?」
葛西は、何となく嫌な予感がして尋ねた。
「ああ、『C川にストームトルーパー現る』ってネタ動画だったんだけど、合成にしてはなんとなくリアルでさ。あ、見る?」
「え? いいんですか?」
「いいよ。汚い部屋で良かったらね。上がって」
葛西は、言われるがままに部屋に入った。確かに男子学生の部屋だけあって、かなりこ汚い。
「あ、いろいろ落ちてるから踏まないでね。エロ本も気にしないで。もし無修正見つけても見逃してよ」
学生はそういいながら、パソコンの前に座るとyoutubeを開いて検索を始めた。
「ブクマしときゃよかったな。履歴探すのもめんどくさいし・・・」
彼はブツブツ言いながら探していたが、わりと早くそれは見つかった。
「あ、あったあった。画面粗いから全画面にすると見え難いけどね。まあ、ちょっと離れて見たら同じか」
そういいながら、彼は葛西に画面を見せながら言った。
「ほら、これだよ」
「何ですか、これは!!」
その動画は、まさに昨日の河川敷の情景を撮ったものだった。携帯電話で撮った動画らしく、夕刻だったこともあり画像はかなり荒かったが、何人もの防護服を着た男達が写っている。この中にひょっとしたら自分も写っているかもしれない、と思うと葛西は嫌な感じがした。しかし、確かにこの荒れた映像ではスターウォーズのストームトルーパーに見えないこともない。アップした人のメッセージにはこう書いてあった。

 これは一切の手を加えていない。私は見た。信じようが信じまいが、銀河帝國軍はすでにこの星に来ているのだ。

葛西はそれを読んで、頭がクラクラするのを覚えた。
「ね、すごいだろ?」学生は言った。「これ、ホントだと思う?」
「いや、僕は合成だと思うけどな」
葛西は勤めて冷静さを保ちながら答えた。
「そうだよねえ、トルーパーなんてSF映画の話じゃんね。やっぱ地球に来ているのはグレイだよね」
「そ、そうですね。でも、僕はフラットウッズ・モンスターが好きだなあ」
「おや、刑事さん、話が合いそうですね」
うっかり口走ったことで学生が乗り気になったので、葛西は焦って言った。
「いや、そんなに詳しくは無いんだ。それに、勤務中なんで・・・」
「ですよね。じゃ、また何かあったら言ってよ。わかることなら協力するから。これ、ネット用だけど名刺あげとくね。ケータイ番号も書いとくから」
彼はそういうと、名刺にさらさらと携帯電話の番号をメモして、葛西に渡した。
「ハンドルネームは、GFだけど、本名は緑原蔵人(くろうど)って言うんだ。それもメモってるからさ」
「ありがとう。何かあったら頼りにするよ」
葛西は緑原にそういって挨拶すると、そそくさと彼の部屋を後にした。
 

 ジュリアスは、スタッフステーションに飛び込むと、多美山の病室の前に急ぎ言った。
「多美山さんよお、喜んでちょーだゃあ。お孫さん、会いに来るってよ。もうすぐやって来るがね」
「キングさん、本当ですか?」
息子の幸雄が言った。
「ああ、アレックスがよ、何とか奥さんを説得したんだてよ」
「父さん、起きてる? 聞こえた? 桜がもうすぐ来るよ。良かったね」
「ああ・・・、桜子に会えっとか・・・」
多美山は、うっすらと目を開けて言った。
「良かったですね、多美山さん」
「ホント、良かったですね。もう、どうなるかと思ってました」
三原医師と園山看護士も口々に声をかけて喜んだ。
「園山さん・・・、すんませんが・・・私の目を、包帯で隠して、くれんですか? 孫が怖がると・・・イカンから・・・」
「多美山さん、そんなことしたらお孫さんの顔が・・・」
「よかとです」
多美山は力なく笑った。その表情を見た三原は愕然とした。目の焦点が合っていなかったからだ。
「多美山さん、ひょっとして・・・」
「そうです・・・。お察しのとおり・・・、もぅ、だいぶ前から、殆ど、見えとらん・・・とです・・・」
三原・園山・幸雄の三人は、顔を見合わせた。
「わかりました。急いで目を保護しましょうね」
園山が、少しかすれた声で言った。
「父さん・・・」
幸雄は父の右手を取って両手で優しく覆った。その手は腕の方から皮下出血による青黒い染みが広がっていた。

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4.衝撃 (4)涙色の笑顔

 ギルフォードは、スタッフステーションの前まで来ると、桜子を呼び止めた。桜子は母親と共に振り返った。若干遅れて、楓も振り返る。ギルフォードは桜子に近づくと、また目線の高さに跪いて言った。
「さ~ちゃん、ちょっとだけ聞いてください。おじいちゃんは重い病気で、前会った時よりもずいぶんと様子が変わっておられます。お話も上手く出来ないかもしれません」
桜子は、一瞬戸惑ったがすぐに真剣な顔をして答えた。
「うん。わかった。さ~ちゃん、それでもおじいちゃんにあいたい。だいじょうぶ、さ~ちゃん、ちゃんとおみまいできるよ」
「いい子です」
ギルフォードはにっこりと笑って言うと、桜子の頭を撫でてから立ち上がった。
「さ~ちゃん、じゃあ行きましょう。コズエさん、お呼び止めしてスミマセンでした」
ギルフォードはそう言うと、ドアボーイの如くドアを開け三人を中に通した。続いて由利子が、最後にギルフォードが入って、ドアを閉めた。
 

 窪田たちは、若干渋滞した高速道路を通りながらも、滞りなく予定通りに宿に着いた。
 宿は、街よりも少し山際にあり、緑に囲まれた敷地内に部屋が独立した和風のコテージ風になっており、それぞれに露天風呂が付いていた。
 女将に案内された部屋に入って、歌恋は小さい歓声を上げた。
「きゃあ、ステキなお部屋!」
そこは広い和室で、窓からは洗練された日本庭園がまるで一幅の絵のように見えた。旅館でありながら、隠れ里のようなその佇(たたず)まいは、自分達の旅にピッタリだと思った。お風呂は内風呂と露天風呂があり、もちろん両方ともかけ流しの天然温泉である。特に露天風呂はまるで森の中の天然温泉のようで、実に趣があった。
「栄太郎さん、ありがとう。わたし、こんなステキなところに泊まるのって初めてだわ!!」
歌恋は、窪田の腕にしがみつきながら喜んで言った。女将はお茶を入れながら、いかにも訳ありそうな二人を見て曖昧な微笑を浮かべて言った。
「気に入ってくださって、とても嬉しいですわ。天気がよろしければもっと眺めも良いのですけれど・・・」
「いえいえ、女将、充分ですよ。これくらいの天気の方が侘び寂があってちょうどいいですよ」
窪田は言った。女将は窪田の気遣いににっこりと笑いながら尋ねた。
「まだ日もお高いですけれど、これから観光をなさいますか?」
「はい。少し休んでから、いろいろまわってみます。せっかく有名な温泉地に来たのですし、ここには名所も沢山ありますから」
「では、お夕食は何時(いつ)頃までにご用意いたしましょうか?」
「そうですねえ・・・。じゃあ、6時くらいにお願いしましょうか」
「かしこまりました。あの、よろしければ、観光用にタクシーなどをご用意出来ますけど・・・」
「いえ、大丈夫ですよ。乗ってきた車で地図を見ながら回ってみますから」
せっかくの申し出だが、窪田は断った。なにせ、初めて二人で旅行しているのだ。水入らずで楽しみたいではないか。
「そうですか。何か御用がございましたら、内線でフロントまでお電話くだされば、いつでも対応いたします。それでは、わたくしはここで・・・」
女将は、丁寧に頭を下げて礼をすると、すっと戸を閉めて去って行った。女将が行ってしまったのを確認すると、二人はほっとした表情をし、今まで座卓に向かい合って座っていたのを、どちらとも無く近寄って窓の方を向いて並んで座った。歌恋は窪田の腕を取って寄り添い、二人は美しい庭園とその背景の林を見ながら、しばしの間黙って座っていた。静かなゆったりとした時が流れた。しかし、歌恋は、この束の間独占した恋人の身体が少し熱いような気がした。
 

「おじいちゃん・・・!」
桜子は、祖父との距離を遮るガラス窓の前に立って多美山を呼んだ。しかし、その後の言葉が続かなかった。ギルフォードが前もって言ったように、あまりにも様変わりをしていたからだ。
「おお・・・、桜か・・・。よう来てくれたなあ」
多美山は、桜子の声を聞くと、ゆっくりとその方角を向いて言った。桜子はその声で祖父に間違いないと確信し、再び心配そうに声をかけた。
「おじいちゃん、おめめどうしたの?」
「病気でちょっと・・・な・・・。ばってん、おまえの顔は、よう覚えとおけん・・・目を瞑っていても・・・わかるばい。心配せんでん、よか」
「あのね、さ~ちゃんあれからすこし、せがのびたんだよ」
「そうか、来年は、小学生やもんな・・・」
多美山はぎこちなく笑って言った。その硬い表情を見て、ギルフォードは不吉なものを感じた。アフリカで散々見てきた顔を思い出したからだ。おそらくもうすぐ表情を作ることが出来なくなるだろう・・・。そう思うと、ギルフォードは上を向き目を瞑った。ジュリアスと由利子がそれに気付いて心配そうにギルフォードを見、ついでお互いを見た。ジュリアスは由利子に向かって静かに首を横に振った。
 桜子は、防護服を着て祖父の傍に座っている人が、父親であることにやっと気がついて言った。
「パパ! パパはおじいちゃんのそばにいていいんだ」
「だって、パパはおじいちゃんの息子だもの」
父親の幸雄は少しだけ笑って答えた。
「そのかっこうはなに?」
「変かい?」
「うん。なんか、へん・・・」
「でもね、これを着ないと病気が感染るかもしれないんだよ」
それを聞いて桜子の顔がぱっと明るくなり、尋ねた。
「じゃあ、そのふくをきたら、はいれるの?」
「そうだよ。病院の人と患者の身内だけだけどね。でも、桜はまだ小さいからダメなんだ」
「そっか・・・」
桜子はがっかりとして言った。しかし、気を取り直してまた祖父に向かって声をかけた。
「おじいちゃん、ごきぶんはいかがですか? どっかいたい?」
「桜が来たけん、今は痛ぉなか。 ありがとうな・・・」
「おじいちゃん・・・」
祖父に呼びかけ、また言葉に詰まる桜子に多美山が言った。
「なんや、泣きよぉとか、桜?」
「さ~ちゃん、なかないよ」
桜子は、ぐっとこらえて言った。多美山は、またぎこちなく笑った。
「そうやな、桜は、強い子やもんな・・・。桜、元気・・・やったか?」
「うん」
「いい子に・・・しとったか?」
「・・・うん」
桜子はちょっと間を置いて答えた。そこで梢が口を挟んだ。
「うそおっしゃい。この前なんか幼稚園で男の子と大ゲンカして・・・」
「だってあいつ、しんゆうのミキちゃんをいじめたんだもん」
「で、勝ったのか、桜?」
「うん!」
「そうか。ようやったな」
「もう、お義父さんったら・・・」
梢に言われてしまったと思ったのか、多美山はすぐに付け加えた。
「だがな、桜。すぐに、手を出しちゃあ・・・いかんぞ。まずは、話し合いから・・・な」
「うん、わかった」
「いい子だ。・・・桜、元気でな」 
「うん」
「パパとママの言うことをよく聞くんだぞ」
「うん・・・。おじいちゃん、なんだかへんだよ」
「そうか?」
・・・しんじゃいやだ・・・
「どうした? 聞こえんぞ?」
「おじいちゃん・・・、しんじゃいやだ・・・」
桜子は小さい声で言った。多美山は悲しそうに笑いながら言った。
「死なんよ・・・。だって、先生たちが、ついとる・・・やろう? それに、おまえが、小学校に上がるのも・・・見んといかん、からな・・・」
「うん」
「泣くな・・・、なあ、桜・・・」
「うん、・・・うん」
桜子は頷きながら、右手の甲で涙を拭い、泣くまいと口を一文字に結んだ。その様子が見えたかのように、多美山はつぶやいた。
「強い子やなあ、桜は」
その様子を見て桜子の涙を拭おうと、ハンカチを出して娘のそばに寄ろうとする梢を楓が止めた。
 桜子は、その後しばらく下を向いて黙っていたが、何かを思い出したように顔を上げて言った。
「・・・おっ、おじいちゃん・・・、あのね」
「なんや?」
「さ~ちゃん、おしょうがつにおじいちゃんにやくそくしたこと、ぜったいにまもるから」
「桜・・・、頼もしいなあ・・・。ばってん、それは、大人になって、から、決めて・・・いいとやけん」
「でも、さ~ちゃんきめたんだよ」
「そうか・・・。ありがとうな・・・。じゃあ、まず、自分のことを、『さ~ちゃん』って、いうとを・・・やめんと、なあ・・・」
「うん、わかった。さ~ちゃ・・・あたし、がんばるから・・・」
「おじいちゃんも、病気に、勝てるように・・・頑張るからな」
多美山は、そういうとまたふっと笑った。その様子を見て、幸雄は言った。
「桜、おじいちゃん、そろそろきつそうだから、寝かせてあげようか」
「うん。そうだね・・・。おじいちゃん、またくるからね」
「おお、今日はありがとうな・・・」
多美山は、そういうと天井の方を向き、ベッドに身体を沈めた。
「じゃあ、帰りましょう、桜」
「うん・・・」
母親に促されながら、桜子は去り難そうに病室の祖父を見てから背を向けた。その時、多美山の声がした。
「桜、もう一度、顔を・・・見せてくれんか・・・」
桜子は振り返ってまた窓に顔を近づけた。
「でも、おじいちゃん、おめめが・・・」
「大丈夫や。見えんでも、見えとるって、言うた・・・やろ?」
「おじいちゃん・・・」
「桜、笑っとおか?」
「・・・うん」
「そうか・・・、笑っとおか・・・。いい笑顔やなあ・・・」
多美山はぎこちない笑みを浮かべてそう言うと、ふうっとため息をつき、そのまま静かになった。
「おっ、おじいちゃん!?」
「父さん!」
「大丈夫です」
三原医師が言った。
「痛み止めを大量に投与していましたから、眠られただけですよ。よく今まで普通に話しておられました。すごい精神力です」
「父さん、そんなに桜に会いたかったんだね・・・」
幸雄は父の方を見ながら言った。その父に、桜子が心配そうに声をかけた。
「パパ、・・・おじいちゃんは?」
「大丈夫だよ、眠っただけだから」
「そっか~、ああ、びっくりした」
桜子は、ほっとして笑った。まだ目に涙の跡が残っていたが、多美山に見せてやりたいほど良い笑顔だった。

 ギルフォードたち三人は、多美山母子を見送るために待合室のエントランスで彼女らと向かい合っていた。梢がギルフォードに向かって言った。
「ありがとうございます。あなたの言うとおり桜子を義父(ちち)に会わせてやって良かったって、今はそう思っています」
「そうですか。良かった。でも、差し出がましいことをして申し訳ありませんでした」
「いえ、こちらこそ、失礼なことばかり言って・・・」
「いえいえ、気にしないで下さい」
「義父をよろしくお願いします」
梢は深々と頭を下げて言った。
「今日は義父宅に泊まりますから、何かあったら連絡してくださいね。では、失礼します。桜、帰るわよ」
「あ、ちょっと・・・」
ギルフォードは彼らを引き止め、中腰になって言った。
「さ~ちゃん、ちょっと来て」
「な~に?」
桜子は走ってギルフォードのもとに来た。ギルフォードは跪くと小声で桜子に聞いた。
「おじいちゃんと何のお約束をしたの?」
「あのね・・・」
桜子も小声で言った。
「ママがきいたらおこるからね、ナイショだよ・・・」
そう前置きをして、桜子はギルフォードの耳元で何か囁き、すぐに母親の方に走った。桜子は母親と手をつなぐと、もう片方の手を振って言った。
「アレクおじちゃま、それからおねえちゃんと、くろいおにいちゃんも、ありがとう。さよなら、またね~」
その後、もう一度手を振ると、桜子は祖母の手を握った。母と祖母も振り返って一礼し、三人は仲良く並んで帰って行った。ギルフォードは、由利子とジュリアスと共に手を振りながら言った。
「なんで、僕だけ『おじちゃま』なんでしょうねえ・・・」
「ど~せ、おみゃあが言わせたんだろ~がね」
ジュリアスが、正面を向いたまま言った。
「言い方じゃあないですよ。何でふたりがおにいちゃんおねえちゃんで、僕だけが『オジサン』なのかと・・・。あまり歳は変わらないと思うんですけど・・・」
「『アレクおじちゃま』って言われて、まんざらじゃあなさそうだったけど?」
と、由利子も正面を向いたままで言った。
「ところで・・・」
由利子が、今度はギルフォードの方をチラ見して続けた。
「桜ちゃん、アレクになんて言ったのよ」
「おれも聞きてぇがや」
「まあ、ママに内緒っていうんだから、君達に言うぶんは構わないでしょう」
ギルフォードは、ちょっとだけ微笑んで言った。
「さ~ちゃんは、『おじいちゃんのあとをついで、けいじになる』って言ったんです。『パパがあとをつがなかったから、おじいちゃんがさびしそうだったから』って」
「そりゃあ、お母さんは怒りゃ~すわ。特に今はマズイがね」
ジュリアスが言うと、由利子も続けて言った。
「桜ちゃん、意味わかって言ってるのかしら」
「さあ、どうでしょうねえ・・・。まあ、多美山さんが言ったように、大きくなってから決めることですから・・・」
ギルフォードは一旦言葉を切ってから、桜子の後姿を見つめて言った。
「でも、頼もしいですね」
 三人の姿が門の外に消え、ギルフォードはそれを見届けて言った。
「さっ、戦場に戻りましょうか」
ギルフォードは、身を翻して室内に入った。ジュリアスもその後に続く。由利子は、どんよりした空を見上げた。生ぬるい風が吹き、冷たいものが2・3頬に当たった。雨が降り始めたようだった。

 三人が戻ると、眠った多美山の傍で息子の幸雄が顔を覆いながらうつむいて座っていた。
「このまま、こん睡状態になるかも知れないということです」
幸雄が誰にともなく言った。
「万一を考えて覚悟しておいてくださいと・・・」
「そうですか・・・」
ギルフォードが言った。ほかにかける言葉が見つからなかった。幸雄は顔を上げてギルフォードたちに向かって言った。
「苦しんでいないということが救いです・・・。だけど、これから苦しむことになるのでしょうか」
そう聞かれて、ギルフォードは何と言っていいか迷ったが、こう言うしかなかった。
「これは、未知のウイルスですし、実際に僕らが患者を見るのは、タミヤマさんが始めてなのです。申し訳ありませんが、何ともいえないというのが、正直なところです・・・」
「そうですか・・・」
幸雄は、不安とも安堵ともとれない、曖昧な表情でギルフォードを見、ついで父親の顔を見た。しかし、多くの出血熱の経過を知るギルフォードやジュリアスは、辛い気持ちを抑えていた。
「もお、こんな時に、葛西君は何をしているのかしら・・・!」
由利子は、葛西が一向に姿を現さず、連絡も入れてこないようなので、ずいぶん前からイライラしていたのだった。
「ユリコ。ジュンは、タミヤマさんとやる予定だった公園の事件の再調査を引き継ぐと言って、一人で調査をしているということですから」
「何も、こんな日にするこたあなかろ~もん! あのお子ちゃまわぁ~!」
「電話も電源を切っているか電波の届かないところにいるかで、通じないのですよ」
「もう、何なのよ」
「でもね、ユリコ、僕はジュンのやっていることは、無駄だとは思いません。テロ事件に関しては、・・・特に今のようにほとんど手がかりがない場合は、どんな些細な手がかりでもいいから、出来るだけ早く、少しでも多く情報を得るべきなのです。それが、どんな大きな情報に繋がるかわかりませんから。それが事前にわかっていた筈なのに阻止できなかったのが、9.11テロであり、サリンテロであるわけです」
「それはわかるけど・・・」
「ユリコ、ジュンはタミヤマさんの後を継ごうと、彼なりにがんばっているんです」
「だけどそれじゃあ・・・」
そう言いながら、多美山の顔を見た由利子が「あら?」とつぶやいて、病室の三原医師に尋ねた。
「三原先生、多美山さん、眠っておられるんですよね?」
「はい」
「この会話は聞こえているんでしょうか?」
「ここには聞こえてますよ。でも、多美山さんは・・・。よく眠っておられますからねえ・・・」
「そうですか・・・? 今、多美山さんが、かすかに笑顔を浮かべられていたような気がしたものですから・・・」
由利子は、改めて多美山の顔を見た。しかし、そこにはすでに笑顔はなく、多美山は無表情で静かに眠っていた。由利子にはそれが能面のように思えた。
「ああ、ギルフォード君、いたいた」
と、そこへ、高柳が両手を白衣のポケットに突っ込んだまま小走りでやってきた。
「例の蟲に食われたらしい遺体がもうひとつあったということで、鑑定して欲しいとさっき資料が届いたんだが」
「なんですって? 他にもあったって、それは、いつ見つかったんですか?」
「なんでも、木曜の夕方らしい」
「一昨日ですか! じゃあ、昨日の遺体より早く見つかってたと言うことですね。何故すぐに報告がなかったんです?」
「C野署の管轄だったということで、事件のあったK市やF市から離れていることもあって、伝達が上手く行っていなかったらしいな」
「二日で虫食い遺体が二つですか・・・。もっと出てきそうな気がしてきました」
ギルフォードが、またえもいわれぬ表情で言うと、横からジュリアスが言った。
「二体とも野ざらしになっとったってことですか?」
「ああ、そうらしいですな」
「ホームレスだったということだてか?」
「一体についてはまだ資料をよく見てないので、わからんね。それを見せようとギルフォード君を探しとったわけだが、今度は幼女とよろしくやっていたらしいな」
「人をロリの犯罪者みたいに言わないでクダサイ!」
「とにかく来てくれたまえ」
高柳はギルフォードの抗議を無視して言った。
「あ、キング先生と篠原さんも来てください。ここに貼り付いていても仕方がないだろうし、特に篠原さんには、これからギルフォード君のサポートをするにあたっての勉強になるだろうからね」
「え? いいんですか?」
由利子が自分を指差し驚いて言った。
「もちろんだ。さあ、三人とも来たまえ」
高柳はそういうと、またすたすたと歩き始めた。ギルフォードもその後に続いた。
「由利子、行こまい」
ジュリアスに促されて、由利子は彼らの後について行った。
 

 葛西はC川の遺体発見現場の対岸に立っていた。携帯電話を手に、盛んに風景と電話の画面を見比べている。
「ああ、だいたいここら辺から撮ったな」
葛西は独り言をつぶやいた。ケイタイから例の動画を閲覧しつつ、動画がどこら辺から撮られたか確認していたのだ。葛西はあたりを見回した。河川堤防道路の下にいくつかの民家があった。しかし、そこからよりも、、この道路を通るついでに撮影した可能性が高そうだった。映像のブレとやパンの仕方がいかにもそれっぽい。
(最終的には、ビニールシートで現場は全て目隠しされていたはずだ。ということと、映像撮影時のほんのりした明るさからいって、警察の到着後、比較的早い時間に撮影されたはずだ)
と、葛西は判断した。
(しかし、ここは堤防道路で比較的交通量も多い。かなりの人が捜査中の警官の姿を見たはずだ。しかも、奇妙な防護服を着た・・・。ということは、かなりの割合で、不審に思った人が居てもおかしくないけれど・・・)
だけど、と葛西はさらに考えた。
(公園の事件での教訓もあって、今回はローカルニュースではあるけど、しっかりとニュースとして配信されたのだから、それを見た人はその疑問を自己解決しただろう。実際、今回の聞き込みでも、まだ妙な噂はたって居なかった。今現場を警戒中の警官も、市民の疑問には率直に答えているということだし)
(ということは、あの映像をアップした人はニュースを見ないか地元の人間じゃあないということだ。あの映像が、今度はネット上で広まって、全く関係ないところから煙が立つかもしれない)
葛西の心に漠然とした不安がよぎった。
(それに、あの橋の上で撮影していた女。一番の不安要因はあいつだな)
葛西はため息をついたが、とりあえず、堤防下の住人達に聞き込みをしようとその場を後にした。
 

 由利子は、三人のウイルス学者と共に、センター長室の応接セットに座っていた。ひどく場違いな気がしたが、これからの仕事のためと言われたならば仕方がない。
「ギルフォード君、これが資料だ。大丈夫、あの蟲の写真はないから。1冊しかないんで、悪いが三人で一緒に見てくれたまえ」
「これは、いつ送ってきたんです?」
ギルフォードは、資料を受け取りながら尋ねた。
「午前11時頃、送っていいかという確認の電話があって、30分ほど前にバイク便で送って来たんだ」
「バイク便で、しかも30分前ですか。大至急って感じですねえ」
ギルフォードはややあきれ気味に言いながら、資料のファイルを開き、ざっとページをめくった。
「ああ、これは、やっぱりGに食害されたと思って間違いなさそうですね」
ギルフォードは写真をいくつか見ながら言った。
「あのな、アレックス」ジュリアスは、言い難そうにしながら言った。「これ、言おうかどうか迷っとったんやけど、気付いてにゃあようなんで早めにゆーとくわ」
「なんですか、ジュリー」
「そのぉ、・・・Gってにゃあ止めたほうがええて。ギルフォードのGと被るだろーがね」
それを聞いて、ギルフォードは一瞬ぽかんとして固まった。
「やっぱり気付いとらんかったんだな」
ジュリアスがやれやれという表情で言った。由利子は、ギルフォードの狼狽振りがあまりにおかしくて吹き出しそうになり、あわてて両手で口を塞いだ。
「ま、とりあえず、私達はあれを『ムシ』と統一して呼ぶことにしよう。漢字では『虫』と言う字を三つ書く『蟲』と言う字だね」
高柳が平常心のままフォローした。何事にも動じない男であった。
「さて」
高柳は固まったままのギルフォードからファイルを奪うと、ジュリアスに渡して言った。
「キング先生、君も今朝見せたファイルでだいたいのことはわかると思うけれど、どう思われるか意見を聞きたい」
「あまり何度も見たいもんじゃにゃあですがね・・・」
そう言いつつジュリアスはファイルを受け取った。
「由利子はどうするかね。見れるんなら一緒に見よまい」
「いいの?」
「おれは構わにゃあがね、おみゃあ次第だがや」
「わかった。見せて」
「でら惨い遺体だて心してみてちょおよ。そーとーわやになっとるからよお」
「ハンカチ用意しとくから」
由利子は言った。
「ほんじゃ、いくがね」
ジュリアスはファイルを開いた。
「うわっ!」
流石の由利子も驚愕の声を上げ、右手のハンカチで口を覆った。
「これが例の虫食い遺体・・・」
「大丈夫かね?」
「なんとか・・・」
由利子は気丈にもそれから目をそらすまいとがんばった。
「おっけ~。流石アレックスが目をつけただけのことはあるがや」
ジュリアスは親指を立てながら言った。
 遺体は出っ張った部分をほとんど蟲に食われ、特に顔はほとんど凹凸がなくなっていた。身長約170cm、18歳~60歳くらいの成人男性という程度しか判別が付かなかった。せいぜい着ている物の様子から、おそらく若い男だろうと推理できるくらいだった。
「こりゃあ、どう見ても今朝の遺体と同じあんばいの遺体だがね。けどよぉ、着とるもんから考ぎゃあて、多分ホームレスじゃにゃあと思うわ。ほれ、よー見たら、ブランド物のええ時計をしとるがね。着る物もええもんみたいだでな。ひょっとして殺されて誰かに遺棄されたんじゃにゃあですか?」
「鑑識の調査報告には、腹に打撲跡があり、現場を検証した結果、軽い急ブレーキ跡が残っていたとある。ただ、死ぬような事故じゃなかっただろうということだが・・・」
「たしか、安田さんも少年が蹴った程度のショックで大出血を起こして死んでしもうたんでしょ? 多分それと同じやて思うわ。多分、事故にお~て死んだ彼を何者かが・・・まあ、多分加害者だろうけどな、草むらに隠して逃げたってとこでしょう」
「でも、見つかったのは県道でしょ? 何でそんな重病人がそんなところに居たのかしら」
と、由利子がしごく真っ当な質問をした。
「推測だけどな、脳症をおこして無意識にうろついていたんじゃにゃあか?」
「秋山雅之君は、急に警報の鳴る踏切に向かって走って行ったそうだ。また、最初の感染犠牲者と考えられているホームレス、今は仮にAさんと呼ぼうか、彼は、高熱に浮かされながらも仲間4人が静止するのを振り切って姿を消したそうだ。そして、例の公園周辺から駅あたりを行動範囲としていた筈のAさんの遺体は、数キロ離れたC川中流で見つかった。それを考えると、この彼が県道をうろついていても不思議はないよ」
「そういうことですか・・・」
「感染者が行動範囲を広げるとゆ~ことは、ウイルスの広範囲な拡散に繋がるとゆ~ことだわ。信じられんことだて、アレックスも最初は否定してたけどよぉ、このウイルスは感染者を操っとる可能性があるんだわ」
「あんな遺伝子だけの半生物がですか?」
「うむ、ウイルスに意思があるとは思えんが、多美山さんが異常行動を起こした時のことを考えても、脳症発症時に結果的にそういう行動を起こしてる可能性はあるだろうな」
「そんな・・・」由利子はゾッとして言った。「じゃあ、彼の遺体を遺棄した人間にも感染している可能性があるんですね」
「もちろんそうだ」
「そーいやあ、発見者が蟲に咬まれたとかいうことはにゃあのかね?」
「咬む?」由利子が眉を寄せながら聞いた。
「今朝運ばれてきた患者は、遺体の発見時に蟲に咬まれて発症したらしいのだわ」
「ええっ?! ・・・最悪!」
と、由利子は嫌悪感をあらわにして言った。
「大丈夫らしい。連れていた犬が威嚇したので反対方向に逃げたということだよ」
「そりゃあ、そのわんこに感謝しにゃあといけにゃあな、その人は」
「そうだな。だが、付近の住民に被害が出るかもしれん。近隣の徹底した消毒と、各家庭でのゴ・・・もとい、害虫退治を徹底させないといかんな」
「ほいで、この人がどういう経緯で感染したかということもつきとめにゃーといけにゃーがね」
「もちろん、それは重要なことだ。しかし、死者からそれを突き止めるのはむずかしいだろう。遺体を遺棄した可能性の人間を含めて公開捜査に踏み切る必要があるだろう」
「やっぱり、アレクの言うとおり、たいがいに公表しないと現場も動きようがないですね・・・。知事は一体いつ公表するつもりなのかしら?」
「今夜・・・、遅くとも明日中にはすると言っていたが」
「そうですか・・・。でも、公表後の世間の反応を考えたら・・・・。怖いですね」
由利子は眉をひそめながら言った。
「だが・・・」高柳が腕を組みながら言った。
「これ以上野放しには出来んよ。今は確かに犠牲者は十数人で、交通事故死に比べても微々たるものだが、これからどうなるか想像もつかないし、このままだとこっちも後手後手にしか動けんからね」
「そうですよね・・・。それにしても、アレクってば妙に大人しいけど、あのまま固まってる?」
「落ち込むのもいいが、いい加減浮上してくれんと困るのだが」
「いつもなら、うるさいくらいしゃべるのに、さっきからずっとうつむいたままだし、なんだか調子がくるってしまいますよ。ねぇ、高柳先生?」
「まったくだ。そもそもは、ギルフォード君の意見を聞こうと思ってたんだがね」
由利子と高柳は、何故かジュリアスを見ながら言った。ジュリアスは肩をすくめ、
「しょうがにゃあて。おれの責任だてなんとかしよまい」
というと立ち上がってギルフォードに近づいた。
「ほれアレックス、いい加減に浮上しや~て」
そういうと、ジュリアスは右手の人差し指でギルフォードのあごをクイと持ち上げると、いきなり唇を合わせた。ジュリアスの衝撃行動に今度は高柳と由利子が固まった。いきなり眼前に出現した濃厚なキスシーンに、流石の高柳の目も点々になっている。
「うわぁ~!」
約15秒後、ギルフォードが口を押さえながらソファから身を引いて言った。
「何デスカ、今のホンカクテキなキスは!!!」
「あ~、すまにゃあな~。おみゃ~さんを正気に戻すのはこれが一番だてね」
と、ジュリアスはニッと笑いながら言った。
「イイ加減なコト言わないでクダサイ!! ミナサン、コノヒトは無差別テロ級のキス魔デスからねっ、ダイシキュウ気をツケてクダさい!!」
「アレク、日本語が変よ」
我に返った由利子が、妙に冷静に言った。ついで、高柳があきれ果てたように言った。
「これだから欧米人は・・・。しかし、隠していないのは知っていたが、あまりにも大っぴらなのはどうかと思うがな。女性にこういうのが好きな人が多いと聞くが、篠原君、君はどうかね?」
「いやあ、私にはそんな嗜好はありませんから、萌えませんけどねえ・・・」
「なるほど、こういうのを『萌え』というのか」
高柳が違う方向で感心しながらも言った。
「だが、やっぱり私にはわからんな」
「あ、萌えといえば、前の会社の同僚が好きだったな。しまった、写メ撮っとけば良かった!」
由利子は悔しそうに指を鳴らして言った。
「まあ、経過はどうあれ・・・」高柳がまとめに入った。
「ギルフォード君も正気に戻ったことだし、話を続けようか」
「えっと・・・」
ギルフォードは怪訝そうな顔をして言った。
「何の話でしたっけ」
「もう一度このファイルを見てから思い出したまえ」
高柳がため息をついて言った。

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