3.侵蝕Ⅲ (8)預かり物の正体
「父さん。葛西さん、帰られましたよ」
幸雄は、葛西と由利子が帰るのを立ち上がって見送った後、椅子に座りなおしながら多美山にそれを告げた。多美山はそれを聞くと、ふっと天井の方を見、それからすぐに目を閉じて言った。
「そうか、帰ったか・・・」
「父さん、あんなに言っておきながら、なんだか寂しそうだね」
「そう見えるか?」
「うん。そういや僕もよくああやって怒鳴られてたね」
「今考えたら、怒りすぎ やったなあ」
多美山は、少し笑いながら言った。
「そうだよ。家にろくに帰らないくせに、顔を見ると怒ってばかりで、嫌な父さんだって思ってた。でも、よく考えたら怒られた思い出が強いだけで、けっこう楽しかったこともあったよ。ほら、僕が小学生の時母さんと妹と耶馬渓にキャンプに行ってさ、一緒に川釣りしただろ? 覚えてるかい」
「釣った魚で・・・夕食にしようとしとったとに、ほとんど、釣れんかったったい」
「仕方がないから、車で魚買いに行ってさ、川の傍で海の魚を焼いて食ったよね」
「母さんは、川魚が嫌いやから・・・、ちょうど良かって、喜んどったやろ」
「でも、買いに行った道が混んでて大変だった。まあそれも良い思い出だね。考えたら結構楽しい思い出もあるよね・・・。父さんは居ない時が多かったけど、いる時は出来るだけ僕たちの傍に居ようとしてくれてたんだなって、自分が父親になってなんとなく判ってきたんだ。早くそれを伝えたかったけど、母さんの葬式の時にやった大喧嘩のわだかまりが消えなくてさ。・・・あのさ、父さん、また一緒に住もう。来年にでもこっちに帰れるように会社に申請してみるよ。来年ダメでも、父さんが定年になる頃にはきっと・・・」
「帰って来てくれるとか?」
「うん。父さんが念願だった孫と一緒の生活ができるんだよ」
「そうか。定年が、楽しみになったぞ。がんばって・・・病気を 治さないとな」
「そうだよ。だから、弱気になっちゃダメだよ」
幸雄はそこでふっと何かを思い出したように話題を変えた。
「ところで父さん、ちょっと気になったことがあるんだ」
「なんだ、急に・・・?」
「葛西さんのことだよ。葛西さん、父さんに怒られるのは慣れてるからって言いながら、なんとなく暗かったんで気になるんだけど・・・」
「あいつが・・・?」
「なんとなく、僕がいたから父さんに冷たくされたって思ったんじゃないかって気がして・・・」
「そげん思われたとなら、しょんなかたい。・・・いや、そのほうが、よか・・・」
「え? どうしてだよ」
「あいつは、俺の感染に対して、負い目を感じとぉごたる。まわりもそれを察してか、俺の見舞いを、優先させようとしとる。ばってん、それじゃあいつのためにはならん。あいつは、これから、正体不明の犯罪者と・・・戦わんといかんとたい。生半可な・・・甘い気持ち じゃあ、やっていけん。ここでいったん、突き放してやらんと・・・」
「それであんな態度を? だからなんとなく不自然に感じたんだね」
「そうかもな。それに・・・」
「それに、なんだい?」
「いや、なんでんなか・・・」
「なんだよ。水臭いなあ。言ってよ」
幸雄が父に向かって問うていると、高柳が彼に近づいてきた。
「多美山さんの息子さんですね。はじめまして。院長の高柳です」
「あ、お世話になってます。多美山の長男で幸雄と申します」
「幸雄さん・・・。いろいろご説明することがありますので、ちょっとこちらに来ていただけますか? 多美山さんは、そろそろお休み下さい。お疲れでしょう? 三原君、園山君、後をたのむよ。 じゃ、幸雄さん、行きましょう」
高柳はそれだけ言うと、さっさと歩き出した。
「じゃ、父さん、行って来るね。またあとで来てみるけど、遠慮なく眠ってていいからね」
「おう。じゃあな」
多美山はそういうとベッドに身体を沈め、目を閉じた。
由利子と葛西は、電車を待つため私鉄のホームに並んでいた。由利子は葛西の様子がなんとなくおかしいのに気がついていた。話しかけても上の空で二言三言で終わってしまうし、時折ため息をついており、なんとなく落ち込んでいるようすだった。由利子はその様子を見ながらだんだんイライラして来たので、思い切って聞いてみることにした。
「葛西君。どうしたの? さっきから変だよ」
葛西は目を泳がせながら答えた。
「え? いえっ、そんなことないですよ」
「うそ。さっき多美山さんから怒られたからでしょ」
「う・・・」
葛西は口ごもった。
(判りやすいヤツ・・・)
由利子は、ややあきれ気味に思ったが、続けて言った。
「あなた、多美山さんには怒られ慣れてるって言ってたし、じっさいそうなんでしょ。何で今日に限って・・・」
「はあ・・・。多美さんが元気な時には確かに時々怒鳴られてました。それが、あの事件以来なんとなくそういう面がなくなって、それはそれで心配だったんだけど・・・。だけど、実の息子が来たからってあんな態度はないじゃないって・・・」
葛西は、やや口を尖らせながら言った。
(やっぱり・・・)
由利子は納得した。あの時の様子がちょっと変だったのは、一部始終を見ていた由利子にはなんとなく想像出来た。葛西にしては、幸雄に対する態度がそっけなさ過ぎたからだ。
(多美山さんも罪作りよね。それにしても、このお子ちゃまデカは・・・)
そう思いながら、由利子は葛西の方を見て言った。葛西は案外背が高く、傍に立つと背の高い由利子でも、顔を見るのにちょっと上を見なければいけない。
「多美山さんって、そんな人じゃないでしょ。きっとそれなりの考えがあってああ言ったんだって思うよ」
「だって・・・」
「何よ。多美山さんはあなたの相棒でしょ? それくらい理解してあげたら」
「・・・」
「多美山さんは、自分が定年間近だから、あなたに早く一人前になって欲しいから厳しいんでしょ。あなたに後を継いで欲しいのよ」
「そうかなあ・・・」
「そうよ」
そこまで言ったとき、電車がホームに入ってきた。二人は会話を中断して流れに従って電車に乗った。夜も8時過ぎているが、下り電車はまだまだ人が多くすでに満員状態だった。当然座れるはずもないので、二人は戸口に付近でつり革に掴まった。降車駅が比較的近くだからだ。改札近くの車両に乗ってしまったので、発車間際に滑り込みの客が数人駆け込んできて押され、由利子は体勢を崩して葛西の方によろけた。幸い葛西がとっさに抱きとめたので由利子が倒れることはなかった。
「あ、ありがとう」
由利子は少し赤くなりながらお礼を言って、体勢を整え再度つり革に掴まった。しかし、何となく気まずい空気が流れ、二人はそのまま黙って並んで立っていた。電車が動き出し夜の闇の中に突入した。由利子は窓ガラスに映る自分ら二人の姿をぼんやりと見ながら思った。
(どう見ても姉と弟だよねえ・・・)
電車を降りて、由利子のマンションに向かう道すがらも、二人はなんとなく黙って歩いていた。ずっと気まずい空気が流れたが、それに耐え切れずに葛西がまず口火を切った。
「昨日来た時は車だったので、歩いて行くのもまた新鮮でいいですね」
「そう? 私には歩き飽きた道だけどね」
由利子は笑って答えた。
「ここからだいぶ歩くんですか?」
「ううん、たいしたことないよ。早歩きで10分くらいかな」
「そうですか。でも、もう閉まっちゃってるけど、商店街もあって小さいけど公園もあるしコンビニもあるし、住むのに良さそうな環境ですね」
「そうかな」
「僕の寮があるところは・・・寮と言ってもK署の上なんですけど、お店も沢山あって居住空間も悪くないんですが、なにぶんちょっとごちゃごちゃしていて、どうも」
「そうね、駅周辺はちょっと雑然としすぎてるわね。まあ、その点ではT神の方も似たようなところがあるけど」
二人の会話が乗りはじめたところで、突然物陰から何者かが飛び出して来て、由利子のバッグをひったくろうとした。
「きゃっ!」
由利子はとっさにバッグを両手で胸に抱き必死で取られまいとした。葛西は速攻でひったくり犯に体当たりを食らわせると、犯人の男はもんどりうって倒れた。
「くそっ。覚えてろ!」
男はすぐに立ち上がると、お決まりの捨てゼリフを残し脱兎の如く逃げ出した。
「こら、待て!」葛西は叫ぶと男の後を追った。
「刑事が横に居るのにひったくろうったあ、いい根性だ」
そうつぶやきながら葛西は走り、かなり近くまで追いつきそうになったが、その時後ろでまた叫び声がした。
「いやあ、葛西君! 葛西君! こっち!!」
葛西が急いで振り返ると、もう一人の男が由利子にしがみついていた。
「しまった!」
葛西は男を諦めて、猛然と由利子の元に走った。しかし、葛西が戻る途中で、犯人は由利子から離れ次の瞬間地面に転がっていた。
「ゆっ、由利子さん?」
由利子は、パンパンと手を払いながら言った。
「ふん! 美葉から痴漢撃退法を教わってて良かったわ」
由利子から地面に転がされた男は、またもすぐに立ち上がって逃げ出した。
「あっ、こらまて!!」
葛西はそれを見て再び追おうとしたが、由利子がそれを止めた。
「こら、ボディガードが依頼人から離れるな! また襲われたらどうするのよ!」
「そうでした」
葛西は頭をかきながら由利子の元に戻った。
「つい、刑事の癖で・・・」
「警察呼んだほうがいいかしら・・・。って葛西君も警官か」
「僕の管轄外ですから、所轄の警官を呼んだほうがいいです」
「やっぱ110番か。なんか最近しょっちゅう警察に電話してるような気がする・・・」
由利子がため息をついて言うと、葛西がすぐに突っ込みを入れた。
「気のせいじゃないですよ」
「皮肉よ。今の自分の状況に対しての。まあ、この由利子さんに顔を覚えられたんだから、犯人達も運のつきだわね」
「由利子さんの特技でしたね。とにかく、ここで110番するのも危険なので、とりあえず家に帰りましょう。ここの場所は覚えられますね?」
「ええ、もちろん。通いなれた道だし・・・」
「そうか、ってことは偶然通りかかったからじゃなくて、由利子さんが狙われた可能性がありますね。何か心当たりはないですか?」
「心当たりなんてなくても最近物騒なことばかり起こって・・・」
そこまで言うと、由利子は何かを思い出してハッとすると、再度ぎゅっとバッグを胸に抱えた。
「思い当たったわよ。急いで帰りましょ」
由利子はそういうと駆け出した。
「ちょ、先に行かないで下さい。危険なんでしょ!?」
葛西は焦って由利子の後を追った。
由利子は葛西と共にマンションのエレベーターに飛び込むと、焦って自分の部屋のある4階のボタンを押した。念のためにその上下3階と5階、ついでに6階のボタンも押した。
「いったいどうしたんですか?」
葛西が由利子に尋ねると、彼女は少し震えながら不安そうな顔で言った。
「思い出したのよ。狙われたのは私じゃない。このバッグの中身よ!」
「どういうことです?」
「この中に、美葉から預かったものがあるのよ」
「ええっ? それは重要なことじゃないですか。何で今まで黙ってたんですか? 美葉さん失踪の手がかりになるかもしれないのに」
「単に忘れてたのよ。思い出したくもないものだったんだもん。それより、いい? ドアが開いたら私の部屋まで一気に走るからね!」
由利子が説明する間にエレベーターは4階に止まった。
「いい? 走るわよ! それっ!」
ドアが開くと共に由利子が駆け出した。葛西もその後に続く。
「由利子さん、元気ですね」
「伊達に毎朝ジョギングしていないから」
由利子は走りながら続けた。
「あそこよ。あの角の・・・」
そこまで言うと由利子は言葉を飲み込み、立ち止まった。葛西は由利子にあやうくぶつかりそうになって、立ち止まり言った。
「急に止まらないでくださいよぉ、由利子さん。どうしたんですか?」
葛西の問いに由利子はドアを指差して言った。
「なんか、玄関のドアが開いているような気がするんだけど・・・」
「ええっ?」
そう言われて葛西はドアをよく見た。確かにわずかだがドアに隙間のようなものが見えた。葛西と由利子は用心深くそっと部屋の前まで近づいた。やはり、ドアはかすかに開いていた。
「由利子さん、危険ですからそこでじっとしていてください。僕が先に入って様子を見ます」
そういうと、葛西はドアに近づきドアノブに手を伸ばした。
「ええ? じゃあ、父の容態はそんなに・・・」
高柳の父親の容態に関する説明を聞きながら、幸雄は絶句した。
「はい。あらかじめお知らせしていましたが、お父さんは未知のウイルスに感染されています。それもかなり危険なウイルスです。正直言って、今の医学では、一部を除いてウイルス感染に対して特効薬は殆どありません。新感染症ならばなおのことです。それでも私たちは出来るだけのことを試してみましたが、サイトカインストーム・・・免疫系の暴走が始まってしまい一時危篤状態にまで悪化してしまいました。今は小康状態ですが、これからまた悪化の一途をたどる可能性があります」
「そんな・・・」
「もちろん、我々も出来る限りのことはいたします。状況によっては人工呼吸器をつけることになるかもしれませんが・・・」
高柳はそこで一旦言葉を切って、一息ついてから続けた。
「このウイルスは、出血熱の可能性が高いのです。すでに内臓からの出血が見られています。いずれ全身からの出血が始まるかもしれません。そうなった場合は覚悟されてください」
「打つ手はないのですか?」
「我々のカードはあまり多くありません。その中でカードを切っていくのです。ただ、お父さんは延命拒否をされましたので・・・」
「父が? 本当ですか?」
「はい。我々の方も患者を無駄に苦しめるより、苦痛を出来るだけ和らげるような処置にシフトするべきだと思います・・・。ご了承下さい」
「・・・。何で父さんが、そんな・・・。今まで病気らしい病気もしたことがなくて、全然元気だったのに、何で・・・」
幸雄はそこまで言うと再び絶句して下を向いた。
「最初の2日間は特に変化がなかったのですが、3日目に・・・昨日ですね、急に発熱されました。そして今日、私たちがウイルスから何らかの脳障害を起こしたと考える『赤視』・・・周囲が赤く見えるという症状が出て・・・、大変申し上げにくいのですが・・・、病室で暴れられてギルフォード先生が負傷しかかるという事態に陥りました」
「あの父が?・・・まさかそんな・・・」
「病気の症状です。お父さんが悪いわけではありません。・・・まあ、それは、すぐに収まり、ギルフォード先生も負傷しておらず感染は免れました。しかしその後、間髪を置かず免疫系の暴走が起きました。赤視が起きてから急速に病状が悪化しています。もっとも今までの犠牲者の多くは、赤視が起きた時の発作で亡くなっていると思われますが」
「それじゃあ・・・」
「最悪の状況を覚悟しておいたほうがいいでしょう。会わせたいご家族の方がおられたら、出来るだけ早く呼んだ方が良い」
「妻と娘は明日の朝飛行機でこちらに向かいます。間に合うでしょうか・・・?」
「申し訳ありませんが、我々には何とも・・・」
高柳は目を伏せながら言った。幸雄は終始うつむき加減だったが、その姿勢のまま絞り出すような声で高柳に言った。
「すみません。しばらく一人にしておいて下さいませんか?」
「判りました・・・」
そう答えると、高柳はそっと椅子から立ち上がり、幸雄を残して応接室を出て行った。
「父さん・・・何でだよ・・・・・」
幸雄はそうつぶやくと、うつむいたまま肩を震わせた。
葛西は安全のため由利子を壁際に背を向けて立たせると、自分は由利子の部屋の玄関扉をそっと開け、中の様子を伺った。特に人の気配はない。ドアの鍵は、無理やりこじ開けられたようで完全に壊されていた。葛西は由利子の顔を見ながら自分を指差し継いで玄関の中を指差した。由利子は頷いた。
(アレク、緊急事態です。申し訳ないけど部屋に入りますよ)
葛西はギルフォードに釘を刺されていたのを忘れていなかったので、一応心の中で許しを得てそっと部屋に入った。やはり人の気配はないようだ。ついで玄関の灯を点け改めて周囲を見回す。そのままそっとキッチンに入ってそこの灯も点け様子を見る。すると、確かに何者かがあちこち物色したような痕跡があった。キッチンから繋がる由利子の部屋のドアも半開きのままになっており、荒らされた室内が垣間見えた。葛西は玄関に戻り玄関ドアから顔を出すと由利子を手招きして小声で言った。
「ざっと様子を見ましたが、今のところ人の気配はなさそうですので、とりあえずそっと入って下さい」
「部屋の様子は?」
と、やはり小声で由利子。
「荒らされてます」
「うそっ!? じゃあ、ね...猫たちは!?」
「いや、そこまでは・・・」
「ごめん! ちょっとどいて!」
葛西が言うのが終わらないうちに、由利子は葛西を押しのけて部屋に飛び込んだ。
「ああ、ちょっと待って。まだ犯人が居ないとは断言できないのに・・・」
葛西は焦って止めたが、由利子の耳には入らなかったらしい。
「にゃにゃ子! はるさめ!」
由利子は荒らされた部屋を尻目に、必死で愛猫たちを探した。由利子の脳裏には、美葉のところでの出来事が浮かんでいた。まさか、うちの子たちもあんな風に・・・? 由利子はデジャヴュを感じながら、おそるおそるバスルームのドアノブに手をかけた。それから意を決してドアを開いた。しかし、特に異常はない。すると、隣のトイレからにゃあという声がした。
「いた!」
由利子は急いでトイレのドアを開けた。トイレの中に猫用のベッドが入っていて、それに二匹が寝ぼけ顔で座っていた。いままで眠っていたらしい。彼女らは、由利子の顔を見ると声をそろえて「ニャー」と鳴いた。急いで二匹を出して怪我がないか確かめる。特にケガはないようだった。由利子はほっとして二匹を抱きしめ床に座り込んだ。
「無事でしたか?」
葛西がその様子を見ながら問うた。
「ええ」由利子は答えた。「・・・おそらく侵入者の一人は美葉よ。この子達、美葉にすごく懐いていたもの。美葉がこの子らを守ってくれたのよ」
「なるほど。じゃあ、結城も一緒にいた可能性が高いということですね」
「部屋の荒らされ方からして多分そうね。急いで110番しないと・・・」
由利子が言うと、葛西が少し得意そうな顔をして言った。
「美葉さん失踪事件との関連性が高そうだったので、本部の方にさっき連絡しました」
「いつ?」
「猫を探している時」
「早っ!」
「もうすぐ捜査員が来ると思います。ところで念のためにお聞きしますが、この部屋は侵入者に荒らされてこうなったんであって、もともとそうではなかったんですよね」
「失礼やね!」
由利子はそう言うやいなや、葛西の背中をばんと叩いた。
「いたた、冗談ですってば」
葛西は口の割りに嬉しそうに言ったが、すぐに真面目な顔をして尋ねた。
「で、狙われたという、美葉さんから預かったものって?」
「あ、また忘れるところだったわ。これよ」
由利子はバッグから統計計算ソフトを出した。
夕食後、良夫が部屋で宿題をしていると、すぐ横に置いている携帯電話がブブブ、ブブブと震えた。振動音とはいえ、机の上に置いているとけっこうな音がして、計算に集中していた良夫はびくっとした。しかし、着信の相手がわかって急いで電話を取った。
「ヨシオ君? ギルフォードです。遅くなってゴメンナサイね」
「先生! 留守電聞いてくれたんですね!」
良夫は嬉々として言った。
「はい、もちろんです」
ギルフォードは答えた。
今日はあまりにも色々ありすぎたので、すっかり携帯電話のチェックを忘れていたギルフォードがようやく電話を手にしたのは、由利子たちが去ってしばらく経った8時もとっくに過ぎた頃だった。研究室の方には、緊急時の連絡先としてセンターの電話番号を教えていた。こっちの方には連絡が無かったので、特に何もなかったのだろう。携帯電話の方には、紗弥から無事に会えたというメールと、留守録として、如月からの定期連絡と佐々木良夫からの伝言が入っていた。研究室の方は特に問題ないらしい。ただ、明日は必ず研究室に出てきて欲しいとしっかりと釘をさされた。そんな訳でギルフォードは、まず緊急性の高そうな良夫の方に電話を入れたのである。
良夫は、ギルフォードからの連絡があまりに遅かったので、不安になって尋ねた。
「ひょっとして、また何かあったんですか?」
「ええまあ」
ギルフォードは言葉を濁していった。
「詳細はお伝えできませんが、色々と。で、まだ出先なんですけどね」
「出先って、例の病院ですか?」
「まあ、そうです」
「まさか、西原君たちに何か・・・?」
「いえ、彼らは大丈夫です。おそらく予定通りに退院できるでしょう。安心してください。それで、ヨシオ君。新事実っていうのは何ですか?」
ギルフォードは続けて訊いた。
「はい。今日、例の事件に関わった友人達と話してたんですが・・・」
良夫は、自分達三人が別々に同じ女から事件のことを聞かれたこと、勝太が彼女に対してある程度応対したことについて、そしてもうひとつ、勝太が雅之の事故の時に出会った女医についての二つの用件を伝えた。
「事件を調べているらしい女性ですが・・・」
ギルフォードが憂鬱そうな声で言った。
「それについては心当たりがあります。公安の長沼間さんの悪い予感が当たりました。実は、ミチヨ・・・マサユキ君のお母さんの事件の時、公園のトイレに潜んで一部始終を見ていたらしい女性がいたのです。君達が現場を去った後に見つかったので、君たちは知らないでしょうけど、その女性は君たちの顔を知っているはずです。それで君らに接触を試みたのでしょう」
「ええっ!? それじゃ大変じゃないですか」
「そうです。しかも、彼女はその現場を写真に撮っていました。公安の人が気がついて、データを全て消去したハズですが・・・」
「何なんですか、その女は!? ひょっとしてマスコミ関係の人なんじゃ・・・」
「わかりませんが、その可能性は高いですね。一般の人にそこまで事件に執着したり取材に集中したりすることは難しいと思いますし」
「それって、まずいですよね」
「マズイです。それもかなりマズイです。もし妙な記事でも書かれたら不要なパニックを招きかねません。それについては僕がしかるべきところに連絡しておきます。しかしそれ以上に、謎の女医が気になりますね。明らかにウイルスについて何か知っている様子ですし。ひょっとしたらそっちのほうが最重要事項かもしれません。ショウタ君には早く言って欲しかったですね。・・・まあ、それについて彼を責めるのは酷でしょうけど。目の前で友人を失った直後でしたから」
「だからボクも彼を責めることは出来なかったんです。でも、これは一刻も早く伝えたほうがいいって思ったから、先生に電話したんです」
「賢明です、ヨシオ君。今日はわざわざ電話をくれてどうもありがとう。また何かあったら電話してください」
「はい。お役に立てて嬉しいです」
「でも、くれぐれも危険なことに首を突っ込まないようにしてくださいね。君に万一のことがあったら、僕は君のご両親に顔向けが出来ませんから。それから緊急時には、まず警察の方に電話するんですよ」
「はい、判りました」
「では、これで失礼しますね。いいですか、くれぐれも気をつけるんですよ」
ギルフォードは再三良夫に注意をすると、ようやく電話を切った。それでも良夫としては、話し足らなかったような気がした。良夫は軽くため息をつくと宿題に戻ったが、どうもさっきまでの集中力がどこかに行ってしまったようで、勉強に身が入らない。良夫は今度は深くため息をついて、気分転換にコーヒーでも飲もうとキッチンに向かった。
「この統計計算ソフトが狙われたんですか?」
葛西はそれを見ながら不思議そうに言った。由利子はあきれて言った。
「馬鹿ね、偽装よ。計算ソフトはパッケージだけ。中身は違うの。判る?」
そういいながらパッケージを開いた由利子は、ぎょっとした。結城はご丁寧に中のCDまで偽装を凝らせていたのである。すなわち、裏DVD仕様である。ヒロインの女刑事がニーハイの黒皮のブーツと同じく黒皮のロンググローブのボンテージスタイルであちこちに武器を装着しながら、体部分はすっぽんぽんという刺激的な井出達でポーズを取っている写真がプリントされていた。そのことをすっかり忘れていた由利子は、取り出したCD-Rを手に持ったまま一瞬固まってしまった。その後焦ってそれを裏に向け裏のままパッケージに戻した。
「あのっ、えっと、由利子さん」
葛西が真っ赤になりながら言った。
「それじゃあ、たしかに偽装しないと持って歩けませんよね」
「バ、バカッ! 人聞きの悪いこと言わないでよっ! もともとこういう裏DVD風にパッケージごと偽装されてたの。だから、統計計算ソフトケースに入れ替えてたの。でも、CD本体のプリントまではどうしようもなかったのよ!!」
由利子は葛西以上に赤くなりながら一気にまくし立てた。葛西はその剣幕に驚いたが、それ以上にCDの中身の方に興味が湧いた。
「ということは、何かテロに関する重要な機密みたいなのが入っているかも知れないってことですよね」
「そういう可能性が高いわね」
由利子はまだ赤い顔をしながら言った。葛西は今居るキッチンから由利子の部屋を一瞥して言った。
「あまりこの状況を乱さないほうがいいことはいいのですが、このCDの中身を確認できますか?」
「パソコンなら部屋にあるけど・・・」
「捜査員が来るまで、内容を見ておきましょう」
「いいけど、この状態の部屋に人を入れたくないなあ」
「これから嫌と言うほど入ってきますから」
「もう美葉の時に知っているわ」
由利子はため息をつきながら言った。
「しかたないわね。じゃあこっち来て。あ、その前に猫達をケージに入れなきゃあ。知らない人が来ると怖がっちゃうからね。葛西君、1匹つれてきてくれる?」
そう言いながら、由利子は何の気なしに葛西ににゃにゃ子を抱かせようとした。すると、意外にも葛西が引いてしまった。
「あの、僕、動物を飼ったことがないんで、どうやって扱っていいのやら・・・」
「え?そうなの? アレクは動物関連は全然平気なのに」
「あの人はライオンでもゾウでもいけそうじゃないですか」
「流石に猛獣の類は無理だと思うけど・・・。そうね、そのまま抱っこしてつれてきたらいいの。ついて来て」
「はあ・・・」
葛西は気のない返事をしながら由利子の言うとおりにした。
「うわ。この子、しがみついてきますよ」
葛西が困ったような声で言った。振り返った由利子は笑いながら言った。
「葛西君がおっかなびっくりで抱きしめてるからよ。でも案外似合ってるわよ、猫を抱っこした姿」
「そうですかぁ?」
由利子に言われて葛西はまんざらでもない気になったらしい。
「ねこちゃん、可愛いでちゅね~。僕がジュンちゃんパパでちゅよ~」
(バカ・・・)
いきなり幼児語で猫に話しかけ始めた葛西を横目で見ながらあきれつつ、部屋の中を改めて見回してげっそりした。部屋の中は外から見た以上に荒らされていた。由利子はもう一度深いため息をついた。
(これを片付けなきゃいけないのよね・・・)
それでも、落ち込んでいるわけには行かない。由利子は猫達を部屋の隅に置いてあるケージに入れると、葛西と共にパソコンのある机に向かった。そして椅子に座り、パソコンの電源を入れ起動させた。葛西はその横に立ってそれを見ていた。
「あれ?」
内容をチェックしていた由利子が首をかしげて言った。
「Dドライブの中が空になってる」
「ええ?」
「うそっ。Dドライブだけじゃない! 画像データとエクセルデータが全部消されてる!!」
「ホントだ」
葛西も画面を見て同意する。
「どういうことよ? 侵入者が消して行ったってこと?」
「それ以外考えられないでしょう」
「ひど・・・」
由利子は頭を抱えた。
「データはオシャカですか? バックアップは?」
葛西が質問すると由利子は頭を抱えたままで言った。
「重要なデータはプロバイダのレンタルHDに入れているし、パスワードの類も全て記憶させないようにしていたから大丈夫だけど、それでも相当なデータが消えたと思う。だってこんな事態なんて想定していなかったし・・・」
「CDの内容がコピーされてないか確認したうえで、念のためそれらしいデータを全部消していったってことですか?」
「そうのようね。ってことはこのCD-Rの中身は画像とエクセルデータか」
由利子は苦々しい表情で言うと、急に立ち上がって言った。
「他のデータ類は?」
そのまま横の本棚のディスク置き場に目を走らせた。棚の中の物は本からCD・DVDから物色された後があり、データの入っていそうなディスクは全部ケースごと割られて床に投げ捨てられていた。
「あああ・・・」
由利子は座り込んだ。
「私、今なら極美さんとかいう人の気持ちがよくわかるわ」
「って、あの、長沼間さんに写真データを全部消された?」
由利子はそれに答えずに思い切り眉間に深い皺を寄せ、低い声で吐き捨てるように言った。
「結城のヤロー、もし出会ったら殺してやるっ」
「由利子さん、気持ちは判りますが、それは犯罪ですから」
「判ってるわよ。そういう気持ちになっただけよ」
由利子がそう言った時、玄関のチャイムが鳴った。
「あなたのお仲間が来たようやね」
由利子は立ち上がると、急いで玄関に向かった。葛西もその後に続く。
「警察です。篠原さん、いらっしゃいますか」
インターフォンから声がした。由利子は映像を確認した。外には大量の警官達が立っていた。
「は~い、今開けます」
由利子は急いでドアを開けた。とはいえ鍵が壊されているのでわざわざ開けることもなかったのだが。
ドアを開けると、先頭に例の富田林と増岡のコンビが立ち、後ろに鑑識の警官達がずらりと並んでいた。
「あ、ふっ○い君」
由利子は富田林の顔を見て、つい口を滑らせた。その瞬間増岡と後ろの警官達、葛西までもがいっせいに下を向いた。由利子は焦って口を押さえ、言い直した。
「富田林(とんだばやし)さんと増岡さんでしたわね」
「同じ日にまたお伺いするとは思ってもいませんでしたよ。大変な日ですね、篠原さん」
幸いと言うか、当の富田林だけが今現在の状況を把握せずに言った。継いで隣の増岡が何か言おうと口を開いたが、「ぶはっ、ごほっごほっ」
と噴出しそうになって慌てて咳で誤魔化した。ふっ○いくんの衝撃は思いの外強かったらしい。
「大丈夫ですか?」
葛西が近寄って言った。
「えっと?」
富田林が葛西を見て不審な顔をして言った。
「あ、失礼しました。僕が連絡をいれたんです。K署の葛西です」
葛西は警察手帳を見せて言った。
「えっと、K署の刑事さんがなんでここに?」
「篠原さんと知り合いなもので。今日、頼まれてたまたまうちまでお送りしていたら、このような事件が起こってしまいまして・・・」
お決まりの質問にお決まりの返事をした後、葛西は何故ここにいるかを説明した。富田林はかるくウンウンと頷いた。
「とにかく、証拠が新しいうちに調べさせてください。犯人の手がかりが残っているかもしれません」
「ええ、よろしくお願いします」
由利子が答えると、富田林はすぐに鑑識の警官達に中に入るように告げた。由利子の狭い部屋は、たちまち警官だらけになった。由利子はささやかな城を無粋な警官達に占拠され、腕組みをしながらため息をついた。幸い女性捜査員がけっこう居るのが救いだった。その時、由利子を呼ぶ声がした。富田林だった。由利子が振り向くと彼は手招きをした。首を傾げつつ近づいていくと、富田林は小声で両手を合わせながら言った。
「昼間、お伺いした時に猫とちょこっとだけ遊んだこと、内緒にしてくれませんか?」
「ええ、いいですよ。ご安心下さい、っていうか、そんなこと忘れていましたし」
由利子は(やっぱりあれ、まずかったっちゃね)と思いながら答えた。
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