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3.侵蝕Ⅲ (7)息子ふたり

「サイトカイン・ストーム?」
由利子が鸚鵡返しに訊いた。
「簡単に言うと、免疫系の暴走です。強毒性の新型インフルエンザが恐れられているのは、これが起こるからなんです。病原体に感染した場合、体の免疫機構を活性化させるためにサイトカインと言う物質が生産されます。感染症に罹ると、だいたい高熱を出すのはこのためです。ところが、これが過剰生産され、内臓に深刻な打撃を与えて機能不全に陥らせ、結果、死に至らしめることがあります。それがサイトカイン・ストームです。強力なウイルスに感染した場合等に、体が過剰反応をおこすからです」
ギルフォードが答えると、横から高柳が口を挟んだ。
「しかし、それは免疫機能が活発な若い人に多く起こるものなんだ。多美山さんのような50代の人に有り得ないことではないが、ひょっとすると、ほかに何かそれを誘発させる原因があるのかもしれない」
「マサユキ君のお祖母さんが、彼より早く亡くなったのも、おそらくこのせいで劇症化したためでしょう」
由利子は説明を聞いているうちに、だんだん恐ろしくなってきた。
「死に至るって、そんな・・・。治療法はないんですか?」
「そのために、三原君が居るんだ」
「血液浄化療法とかいうやつですか?」
と、知事が尋ねた。
「一か八か、やってみるしかないだろう」
高柳は、病室の方を見ながら依然厳しい表情で言った。由利子は無意識のうちにギルフォードに近づき、彼の腕をぎゅっと掴んだ。ギルフォードの腕は、かすかに震えていた。

 葛西は多美山の容体悪化を知らぬまま、C川の遺体発見現場で謎の昆虫と対峙していた。葛西たちは、蟲たちに見据えられたような形になって、一瞬金縛りのような状態になった。しかし、葛西はすぐに我に返って叫んだ。
「渡辺さん、居ました! 例の蟲です! 捕獲して下さい!」
葛西の叫び声で、捕虫網を持った鑑識の警官が走ってきた。
「どっ、どこに!?」
「あ、あそこです。橋の隙間に・・・、あれ?」
葛西は、蟲のいた場所を指し示したが、既にそこには何の姿もなかった。
「しまった! 逃げられた!」
「一体何処に・・・」
その時、「ぶわん」という音がして、彼らの傍を何かが飛んで行った。
「うわぁあっ!! こっちにも居た!!」
「何だ、これは」
「こなくそっ!」
渡辺が咄嗟に捕獲を試みたが、あと少しのところで取り逃がしてしまった。
「ちくしょう!」
渡辺は悔しがって、網を地面にたたきつけた。葛西は若干引きつった顔をして言った。
「見ましたか?」
「何ですか、あれは? カブトムシほどの大きさはありましたよ」
「まるで南方産並みのでかさやったぞ。一体何が起こっとぉとか!?」
「僕にもまだ何がなんだか・・・」
葛西には、そう答えるしかなかった。実際、当のテロリスト以外、誰にも判るはずはない。
「まだそこら辺に潜んでいるかもしれん。探そう。お~い、防護服チームから何人か来てくれんね」
渡辺は周囲に声をかけると、捕虫網で草むらをつつきながら葛西に向かって言った。
「あれが、もしウイルスを媒介するものだったら大変なことだ」
「そうですね。単なる外来種だったらいいのですが」
葛西は、無意識に眉間にしわを寄せながら言った。
「ナベさん、何ッスか?」
渡辺の呼びかけに三人の若い警官が走ってきた。
「今から昆虫採集だ。ホシはカブトムシサイズの、多分・・・ゴキブリだ」
「それって、でかすぎでしょう」
「うへぇ」
「じょ、冗談ですよね?」
「俺がこんな時に冗談を言うか。四の五の言わずにさっさと探せ。それから下川、おまえはカメラを持っとるから、出てきた虫をなんとか撮影してくれ。いいな」
「了解!」
三人は同時に答えると、いっせいに草むらを探しはじめた。その傍らで、被害者男性の遺体の回収が始まった。
 遺体とその周辺に消毒液を充分にかけると、遺体袋に入れしっかりと口を縛る。その上からまた消毒液をたっぷりとかけ、さらにもう一度遺体袋に入れ、口を縛る。それをさらに感染防止用のシートにくるみ、担架に乗せて遺体搬送車まで運ぶのだ。葛西たちは呼ばれてそちらの作業に加わり、その遺体を間近で見ざるを得ない状況になってしまった。最初、秋山雅之の祖母、珠江のことを聞いた時からいずれはそういうものに対峙するときが来る様な予感はしていたが、思ったより早くその時が来てしまった。
 遺体は、人がこのようになるものかと慄然とするような姿だった。耳・鼻・唇・頬と柔らかい場所はことごとく食いつくされ、口からは骸骨のように歯が露出していた。大きく開いた口の中は血まみれで、舌まで食われたらしく血溜まり中にの中にそれらしい痕跡を残して消失していた。目は蟲が眼窩に入り込んだために、両目共に眼球が飛び出し、かろうじて視神経に繋がって顔からぶら下がっていた。その眼球も何箇所も食い破られており、ゲル状の硝子体が漏れ出していびつな形に変形しており、ぽっかりと空いた眼窩には、どす黒いタール状の血が溜まっていた。体中の表面には食い散らされた跡が無数にあり、表皮は殆ど消失、両手足の指先は爪の一部を残して骨が露出していた。さらに、6月の気温で遺体の腐敗も進み、すでにかなりの異臭を放っており、防護用マスクをしていなければ、相当な悪臭が鼻を突いたことだろう。葛西は吐きそうになるのを必死でこらえていた。その様子を見て、横の警官が話しかけてきた。
「葛西さん、こういう死体は初めてなんですか」
「え? ええ、まあ」
「顔色が青を通り越して土気色をしとりますよ。大丈夫ですか」
「大丈夫です。慣れなきゃ」
そういいながら葛西は、こみ上げてきそうな熱いものを元の位置に納めた。
「遺体の様子から、死後1・2日って感じですけど、それでこんな惨いのは、おれも初めてですよ」
がっしり型だが背のあまり高くない、眉の太いその警官は、何の因果かこういう悲惨な死体にばかり遭遇するという。
「まあ、2・3回ほど吐けば慣れますって」
彼は、わははと笑いながら言った。葛西は、遺体のビジュアルを出来るだけ思い浮かべないようにしながら考えた。
(いったいこの人は、何匹の虫から食われたんだろう。それに、見ただけでアレクが卒倒しそうなあの巨大ゴキは、どこから来たのだろう・・・)
 遺体の搬送後、葛西は食害の「犯人」の方について考察することにした。そもそも、損傷の激しい遺体は写真ですらよく見ることが出来ない初心者なのに、今日はいきなり生でたっぷりと見てしまった。手には防護服の手袋ごしとはいえ、感触がまだ残っている。さっさと忘れないと、今日の夕食は『10秒メシ』で摂ることになってしまいそうだった。しかし、この場にいる限りは、そうはいかない。葛西が「昆虫採集」組の成果はどうだろうと被害者の住居の方へ向かおうとしたその時、いきなりそちらが騒がしくなった。
「いたッ! でかかぞ!!」
「何だァ、これは!!」
それを聞いた葛西は、反射的に駆けだした。
「ど、どこですか? 捕獲は・・・」
「シッ! 今が捕獲の最中ですから」
葛西は下川に制止され、指さされた方向を見た。5m程先で、渡辺が捕虫網を構えてじりじりと蟲に近寄っていた。その蟲は、葛西の距離からでも判るほど大きかった。
「タチの悪い冗談みたいだ。まるでドッキリカメラだな」
葛西はつぶやいた。蟲はじっとして動かなかった。しかし、それは竦んでいるというより、むしろ捕獲しようとしている人間に挑戦しているようにすら見えた。渡辺は、捕獲に充分な距離まで近づくと、捕虫網をすばやく振り上げた。しかし、それと同時に蟲は翅を広げ震わせた。渡辺は、飛び立つ前に捕獲しようと急いで網を振り下ろしたが、それより若干早く蟲は飛び立った。渡辺は、とっさに叫んだ。
「しもかわっ! 写真を早くっ!!」
「わかってます!」
下川は渡辺に言われるまでもなく、すでにカメラを構えて惜しげもなくシャッターを押していた。
(そうか、デジカメだから枚数を気にしなくていいんだ。便利になったもんだな)
葛西は、この緊迫した状況の中で妙に冷静に思ったが、次の瞬間あわててのけぞった。飛び立った蟲が自分の方に向かってきたからだ。すれすれで蟲から逃れ、葛西は興奮気味に言った。
「びっくりした! あいつ、顔に向かって飛んできましたよ」
「あ~あ、避けなかったら捕獲できたかもしれんとに」
「冗談はよしてくださいよ」
そういいながら葛西は苦笑して渡辺の顔を見たが、その顔が本気なのに気がついて笑いが貼りついてしまった。蟲はそのまま飛んで十数メートル先の草むらに消えていった。
「くそお!」
渡辺は悔しがったが仕方がない。防護服のせいで動作が若干緩慢になっているからだ。視界もあまりよろしくない。いつもとは違う状況に、渡辺は苛立っていた。その横で、葛西が居心地悪そうに立っていたが、下川が気の毒そうに言った。
「誰だって、あんなモノが飛んできたら避けますって。気にしないで下さい。渡辺さん真面目だから」
「おい、下川! 写真のほうはどうだ?」
渡辺に言われて、あわてて下川は撮った写真を確認しながら言った。
「はい。大きいとはいえ昆虫なのであまり鮮明なのはありませんが、いくつか全身像が撮れています」
「見せてみろ。葛西刑事も見たほうがいいやろう。これからこれが君の敵になるかも知れんとやからな」
渡辺に言われて、葛西と下川は三人で頭を寄せ合うように写真を見た。写真には捕虫網をもって奮闘する渡辺と、その横をすり抜けて飛ぶ蟲が写っていた。夕暮れ時であまり参考になりそうな写真は少なく、ひどいのになるとほぼスカイフィッシュ状態だったが、一枚だけ飛翔する蟲の全身が一部画面からはみ出ているものの、比較的鮮明に写っているものがあった。三人はそれを見た瞬間、一様にものすごく嫌な顔をした。葛西が眉間の皺をさらに深く寄せながら言った。
「気持ち悪いですけど、これを見る限りでかいだけのクロゴキブリですね」
「ひょっとして、人を食ってあんなに成長したんでしょうか」
「嫌なことを言うなよ。まあ、これだけ写っていれば、専門家の鑑定もしやすいやろ。しかし、このあたり一帯に殺虫剤を散布すべきかもしれんな」
「それはこの蟲の行動半径が不明ですから、無意味だと思います」葛西は渡辺に反論した。「下手をすると生態系に深刻な悪影響を与えます。せっかく自然に配慮した護岸整備をしているのに、台無しになってしまいます。それに付近の住民にも悪影響があるでしょう。この小屋付近の消毒だけに留めるべきです」
「まあ、それは上が決めることやろうけん、我々はそれに従うまでさ。さあ、俺達はもうしばらく採集を続けるからな。みんな、昆虫採集再開だ!」
渡辺たちは再び草むらと格闘をはじめ、葛西は被害者の住居に一人立って中を確認した。ドア付近の倒壊で埃まみれになってはいるが、中は比較的きちんと片付いていて、沢山の新聞はきちんとまとめられ、古本が手製のダンボール本棚にきちんと分類して並べられていた。灯油ランプにCDラジカセもある。流石にパソコンはなかったが、ここの住人が見かけによらず高い知性を持っていたことが伺えた。葛西は遺体のあったところの人型の傍にしゃがむと、それをじっと見つめた。
(いったいこの人は、これまでどんな人生で、どういう経緯でホームレスにまで身を持ち崩してしまったのだろう)
葛西は犠牲者のことを思うと心が痛んだ。この転落の賢者は、この粗末な城の中でひっそりと暮らし、誰も看取る者もなく、しかも苦悶のうちに息を引き取った。さらにその死後、夥しい蟲共に食まれ人間としての尊厳も奪われ、見るも無残な遺体と化してしまった。あの状態では、顔もろくにわからない。おそらく安田さんと違って、彼は何者かもわからないまま、荼毘に付され無縁仏として葬られるだろう。彼の生きた証であるこの住居や持ち物も、撤収後全て焼却処分されるのだ。それは、一人の人間の抹殺に他ならなかった。やりきれない気持ちでもう一度住居のなかを確認していると、葛西が心の中でずっと抱いていた疑問が浮上した。

『何故、まずホームレス達が狙われたのか』

もちろん、無差別にウイルス攻撃した結果、たまたまホームレスにのみ感染に成功した可能性も拭いきれないが、人の行動には、必ず何がしかの動機があるものだと葛西は確信していた。
(もう一度原点に戻って、あの公園のホームレスたちに関わった人間を洗い出してみるべきじゃないだろうか)
葛西はそう結論して威勢よく立ち上がったが、すぐにため息をついてつぶやいた。
「はあ、それにしても暑い。暑すぎるよ。早く脱いでしまいたい、こんなもの!」
その時、何か大声で争う声が聞こえてきた。葛西は驚いて小屋から飛び出した。見ると、河川敷で警官達と若者達が小競り合いになっている。葛西は急いでそっちに走ったが、防護服を着ていることを思い出して途中で足を止めた。それで、葛西は比較的近くに居る警官に大声で尋ねた。
「何があったんですか?」
「あの3人を隔離するために移送しようとしたら、彼らがいきなり抗議をしてきたんです。3人には充分な説明をしているといっても、聞く耳を持たず・・・」
その結果、この状態になったらしい。若者達と警官達の間に鈴木係長が立って、若者達への説得を試みているようだった。鈴木は根気強く説得を続けている。それでもしばらくの間、時折怒号が飛び交うほど緊迫していたが、ようやく彼らは鈴木の説得に応じたようだった。どうやら、リーダー格の青年を上手く落としたようだった。
(多美さんがいたら、もっと早く説得できたかもしれないな)
葛西はそう思うと、あの事件が残念でならなかった。鈴木はリーダーの青年と挨拶を交わすと、ほっとした面持ちでその場から離れたが、葛西の姿を見つけると、手を振りながら大声で言った。
「葛西君! 多美山さんの容態が良くないそうだ。ここはいいから、隔離の人たちを送る連中といっしょにセンターまで行きなさい」
「多美さんが? そんな・・・」
葛西は呆然として立ち竦んだ。

 多美山は、ふっと目を覚ました。目の前には、心配して多美山の顔を覗き込む園山看護士の顔があった。
「多美山さんが気付かれました!」
園山看護士が、嬉しそうに言った。ほぉおっと三原医師がため息をついてベッドの側に置いた椅子に座った。
「私は・・・いったいどうなって、いたんでしょう」
多美山は、不思議そうな顔をして尋ねた。依然、呼吸は苦しそうで酸素マスクは外せない状態だったが、意識が戻っただけでも幸運だった。三原が多美山の質問に答えた。
「ウイルス感染から免疫系の暴走が起きているんです。とりあえず処置が早かったので、なんとか小康状態に落ち着きましたが、予断は許せない状態です」
「血液浄化療法というのを試しているところです。ミハラ先生は優秀な透析医ですから」
窓の向こうでギルフォードが言った。彼の姿を見て、多美山はほっとした表情で言った。
「ギルフォード先生、ご無事やったとですね・・・。良かった・・・」
「僕は不死身ですよ」
ギルフォードは、にっこりと笑いながら言った。それを聞いて、多美山は安心したように言った。
「ああ、いつもの先生だ・・・。もう少しで取り返しのつかないことをするところでした。本当に良かったあ・・・」
「僕はもう大丈夫ですから・・・。もう気になさらないで下さい」
「はい。ありがとうございます。・・・知事は、帰られたのですか?」
「ええ。あなたを心配してギリギリの時間までおられたのですが、スケジュールの関係で止む無く帰られたんですよ」
「せっかく来られたのに、却って心配をかけてしまって、申し訳、なかったです。・・・しかし、この赤い・・・光景はずっと続くとでしょうか・・・」
「それはまだなんとも・・・」
「そうですか・・・。この赤さ・・・、思い出しましたぁ。私が子どもの頃・・・夏休みも終わる頃の、ことでした。台風が近づいていて、私はなんとなく・・・ワクワクして、朝早く起きたんです。そしたら、窓の外が異様に赤くて、私は、火事かと思って・・・驚いて、外に様子を見に行きました・・・。外に出た私は、驚きました。それは火事ではなくて、朝焼けやったとです。空には台風の・・・厚い雲が、かかってましたが・・・、朝日の昇っている・・・あたりの雲が途切れて・・・、山際から真っ赤な太陽が・・・顔を出しとりました。その太陽の光が、あたり一帯を赤く・・・染めていたとです。空も山も海も町並みも・・・。そして私自身でさえ・・・。あまりの不気味さに、私は怖くなって、家に戻ると布団に飛び込み、頭からタオルケットを被って・・・震えていました。あの時の、地獄の業火の中で悪魔が踊っているような、不気味な朝焼けの色・・・この赤さは、その時の色に似とります・・・」
多美山は、そう言いながら再び遠くを見るような目をした。園山看護士はそんな多美山を心配して言った。
「多美山さん、あまり無理をしてお話なさらないほうが・・・」
「いえ、大丈夫です・・・。話せるうちに、話しておきたかとです」
それを聞いて、みんなは顔を見合わせた。ギルフォードの横に座って話を聞いていた由利子は、目を見開いて両手で口を覆った。
「ところで・・・、高柳先生は・・・?」
と、多美山が尋ねた。
「今から、新たに隔離される人が三人来ますから、山口先生と、それの準備をしているところです」
三原が答えた。多美山は驚いて言った。
「また、感染者が・・・?」
「はい」今度はギルフォードが答えた。「河川敷でホームレスがまた遺体で見つかりました。遺体発見者の状況から、隔離したほうがいいと判断されたのです」
「そうですか・・・。やはり、状況は徐々に深刻になっとぉとですな・・・」
多美山は、そう言うとふうっとため息をついて続けた。
「三原先生・・・。ギルフォード先生と・・・もう少し・・・、お話をしたかとですが、よかですか?」
「そうですね。血漿交換にはまだ時間がかかりますから、退屈でしょう。いいでしょう。但し、お体に負担をかけないように、園山さんの指示には従ってくださいね」
三原の許可を得て、多美山は改めてギルフォードの方を向いて言った。
「先生、あの・・・」
「何でしょう?」
「篠原さんから、聞きましたが、先生が、海の歌にワルツが多いと・・・」
「ええ、日本の唱歌には結構あると思いました。僕はワルツが大好きなので」
「私は、さっき、意識を失っている時、夢を・・・見ました。娘と妻が死んだ、時の夢です。娘の時も、妻の時も、私の頭から、何故か離れずに、ずっと繰り返し繰り返し、響いていた歌が・・・あったのを、思い出したとです」
「ワルツなんですか?」
「ええ・・・。浜千鳥という唱歌です・・・。子ども達に・・・子守唄代わりに、よく・・・歌っとったとですが・・・、ああ、すんません・・・、何でか今、歌詞が思い出せんとです」
「ああ、僕、知っていますよ。間違いなくワルツですね。えっと、♪青い月夜の 浜辺には 親を探して 鳴く鳥が♪・・・これでしょ?」
「そう・・・その歌です。・・・先生、いい声ですなあ・・・」
「おだてても何も出ませんよ」
ギルフォードは少し、はにかみながら言った。
「ばってん・・・、何でこの歌が、頭から離れんやったとか・・・わからんとです」
「長調の曲なのに、何故かもの悲しい歌です。お二人との思い出が、歌に投影されていたからかもしれませんね」
「ああ、そう・・・かもしれません・・・」
多美山はそう答えると、しばらく黙ってぼんやりと天井を見つめた。
「タミヤマさん」ギルフォードは静かに言った。
「ホントは歌の話をしたかったワケじゃないでしょ?」
「いえ、そうやなかとですが・・・」
そこまで言うと、多美山はまた黙ってしまったが、すぐに何か決心した様子でギルフォードの方を向くと言った。
「先生、教えてください・・・。私の生き延びる・・・可能性は、もう・・・ほとんど、なかとでしょう?」
多美山からあまりにもまっすぐな質問を受けて、ギルフォードは一瞬戸惑った。三原と園山もいっせいにギルフォードの顔を見た。ギルフォードも訴えるような目で二人を見た。三原は深く頷いた。
「家族が来るのも・・・、そのためや・・・なかですか?」
多美山は、さらに畳み掛けるように尋ねた。ギルフォードは、下を向いて両手で顔を覆いながら言った。
「それを・・・、僕に言わせるのですか・・・」
その声はくぐもり、病室とステーションに重い空気が流れた。
「ああ、すんません」多美山が慌てて言った。「先生を、困らせるつもり・・・やなかったと、です。私は、ただお願いが、あっただけなんです」
「お願い?」
「はい。生きる・・・可能性が、あるのなら、今後のためにも、私で、治療を試して・・・ください。・・・ばってん、・・・もし、絶望的に・・・なった、時は・・・」
多美山はここで一旦言葉を区切り、一回深呼吸をして続けた。
「延命は、一切・・・しないで下さい。そのまま、逝かせてください・・・」
由利子は、とうとういたたまれなくなって立ち上がり、ギルフォードが隔離されていた時に彼女が座っていた席に戻り座った。両目から涙があふれ、床を濡らした。
「意識を、失ったままに、なる前に、お願いしておきたかった・・・とです。先生、辛いことを、言わせようとして・・・すまんかった・・・です」
多美山はそう言うと、かすかに微笑んでギルフォードを見た。
「判りました、タミヤマさん。延命拒否のご意思、確かにお受けしました」
ギルフォードは、真摯な表情で言った。その時、30歳前半くらいの男が、スタッフステーションに飛び込むように入ってきた。
「た、多美山です。父さ・・・いえ、父は」
男はハアハア喘ぎながら尋ねた。スタッフの女性が彼の傍に近づくと、右手でギルフォードの居るほうを指して言った。
「あちらです。あの外国人の方がいる方へ行ってください」
多美山の息子は、入って来た時の勢いとはうって変わり、おそるおそる指示された窓の方に近寄った。件の外国人の男が振り返ると、にっこり笑って彼を迎えた。
「タミヤマさんの息子さんですね。どうぞこちらへ。今は落ち着いておられますよ」
ギルフォードは、いつもの笑顔で多美山の息子を招いた。
「落ち着いて・・・。ああ、よかった。意識不明になったという連絡があったので、もう駄目かと・・・」
息子は、ギルフォードの報告を聞くと、こんどは足早に近づいてきた。しかし、機械につながれた父親の深刻な姿を見ると、愕然として言った。
「父さん・・!! どうして・・・・」
「おお、幸雄か」多美山は、息子を見ると申し訳なさそうに、しかし、嬉しそうに言った。「心配させてすまんなあ」
「あんたはいっつもそうだ。自分や家族はそっちのけで・・・、とうとう自分までこんな・・・」
「それが、俺の仕事やけん・・な。・・・全く、後悔していないと言うと・・・ウソになるばってんが・・・」
「あんた、馬鹿だよ」
そう言いながら、幸雄の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「そうやろうなあ・・・。それよりおまえ、ちゃんと挨拶したとか」
「あっ・・・」幸雄は、無礼に気がつくと、急いで皆に挨拶をした。
「すみません、みなさん。私は多美山の息子で幸雄と申します。父がお世話になっております」
「Q大のギルフォードです。僕の方こそお世話になってますよ。病室の方にいるのは、医師のミハラ先生と看護士のソノヤマさんです。彼らのおかげで、タミヤマさんの意識が戻ったのですよ」
「あ・・・、みなさん、ありがとうございます」
幸雄は深々と頭を下げて感謝をした。病室の二人もそれに倣って礼をしていた。
「で、父の容態は?」
「今は小康状態ですが、予断を許されない状態です」
三原が答えた。
「ことによると、人工呼吸器をつけることになるかもしれません。あとで、院長から説明があると思います。・・・それより、久しぶりに会われたのでしょう。少しお話をしてあげてください」
それを受けて、ギルフォードが立ち上がりながら言った。
「じゃあ、僕は少し席を外しましょう。ここに腰掛けてゆっくりお話してくださいね」
「ありがとうございます」
幸雄は、一礼するとギルフォードの空けた椅子に座った。そして、父親の方をじっと見ながら言った。
「父さん・・・。痩せたね」
「幸雄、おまえは・・・しばらく見ない間に、ずいぶんと、恰幅が良く・・・なったな」
「イヤだな、父さん」
幸雄は、痛いところを突かれ苦笑いをしながら言った。ギルフォードは二人の様子を見ながら、そっとその場を離れた。

「アレク、そろそろ私帰らなきゃ」
由利子が言った。
「ここにずっと居ても、お役に立てそうにないし・・・」
「そうですか。しかし、困りましたね。僕はまだ帰れそうにありません。新たな隔離者が来るのを待たなければならなくなりました」
「大丈夫です。バスと電車で帰れますよ」
「いえ、危険です。昨日の今日ですし、送るという約束ですから・・・。とはいえ、サヤさんも今日は午後から休んでいるし、困ったな・・・」
「サヤさん、お休みなんですか。いつもアレクと一緒に行動していると思ってたんですが、昨日といい、そういうわけでもないんですね」
「まあ、あくまで秘書ですから、プライベートまで拘束できません。アメリカからボーイ・フレンドが来ているんですよ」
「彼氏? うわ、羨ましい。今日はラブラブかあ」
「あ、なんとなく騒がしくなりましたね。どうやら来たようです。ユリコ、もうちょっと待っていてくれませんか」
「ええ、出来るだけ早くね」
由利子が答え、ギルフォードがステーションから出ようとドアに向かったところで、先にドアが開いて葛西が飛び込んできた。
「おや、こんどはジュンですか」
ギルフォードが言った。
「アレク、多美さんの容態が悪化したって・・・」
「ええ。でも、今は落ち着いておられますよ。今、息子さんが来られて話をされているところです」
「なんだあ、良かったぁ~。鈴木係長から聞いたときは、心臓が止まるかと思うくらい、ドキッとしましたけど」
「ただし、ジュン、いいですか。容体悪化は免疫機能が暴走を始めたからです。これが何を意味するかわかりますね?」
「え・・・? それじゃあ・・・。すみません、アレク」
そう言うや、葛西は多美山の方へ駆け出していた。
「多美さん、大丈夫ですか?」
多美山は葛西の姿を見ると、厳しい表情で言った。
「ジュンペイか。仕事はどうした?」
「係長の許可をもらって来たんですが」
「俺は大丈夫だ。俺のことはいいから、おまえは、仕事に戻れ。まだまだ、することが・・・残っとるやろう」
「でも、多美さん・・・」
「いいか、おまえの仕事は、これから重要になる。これからは、職務を優先するんだ。いいな!」
「でも、多美さん」
「いいから行け!!」
多美山から怒鳴られて、葛西は力なく多美山の病室の前から離れた。
「父さん、ちょっとごめん」
幸雄は急いで立ち上がると、葛西の後を追った。
「えっと、君、待って!」
葛西は呼ばれて振り向いた。
「あの、はじめまして。私は多美山の息子で幸雄といいます」
「あ、失礼しました。僕は葛西純平といいます。お父さんにはお世話になってます」
「すみません。うちの父、たまにああいうところがありますんで・・・」
「大丈夫です。僕、しょっちゅう多美山さんに怒られているんで慣れっこですよ」
「そういってくださると、助かります」
幸雄はほっとした表情で言った。
「今日はお父さんとじっくりお話してください。じゃあ、僕はこれで」
と、葛西はにっこりと笑いながら言うと、幸雄に背を向けた。ギルフォードは、彼らの様子を見ていたが、葛西が幸雄から離れたのを確認すると、声をかけた。
「ジュン、チョット待って。これからどうするのですか?」
「あ、アレク。せっかくここまで来たんですが、僕はこれからK署に戻ります。それから、ちょっと気になることを調べたいと思っています」
「そうですか。じゃあ、帰るついでにユリコを送ってもらえますか?」
「いいですけど、自分の車で来てないので、バスと電車ですけど」
「それでいいですよ。実は、僕がお送りするつもりだったんですが、いつになるかわからないので」
「そっか、昨日あんなことがあってますからね。判りました。僕が責任をもってお送りしますよ」
「ちゃんと戸口までお送りしてくださいね。デモ、うちの中に上がり込んじゃダメですよ」
ギルフォードがウインクをしながら言うと、葛西は頭をかきながら言った。
「アレクってば、やだなあ」
「ユリコ、ジュンと一緒に帰ってください。彼がボディガードになってくれるそうです」
「葛西君が? なんか頼りなさそうだなあ」
ギルフォードの提案に、由利子はちょっとだけ不服そうに言った。

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3.侵蝕Ⅲ (8)預かり物の正体

「父さん。葛西さん、帰られましたよ」
幸雄は、葛西と由利子が帰るのを立ち上がって見送った後、椅子に座りなおしながら多美山にそれを告げた。多美山はそれを聞くと、ふっと天井の方を見、それからすぐに目を閉じて言った。
「そうか、帰ったか・・・」
「父さん、あんなに言っておきながら、なんだか寂しそうだね」
「そう見えるか?」
「うん。そういや僕もよくああやって怒鳴られてたね」
「今考えたら、怒りすぎ やったなあ」
多美山は、少し笑いながら言った。
「そうだよ。家にろくに帰らないくせに、顔を見ると怒ってばかりで、嫌な父さんだって思ってた。でも、よく考えたら怒られた思い出が強いだけで、けっこう楽しかったこともあったよ。ほら、僕が小学生の時母さんと妹と耶馬渓にキャンプに行ってさ、一緒に川釣りしただろ? 覚えてるかい」
「釣った魚で・・・夕食にしようとしとったとに、ほとんど、釣れんかったったい」
「仕方がないから、車で魚買いに行ってさ、川の傍で海の魚を焼いて食ったよね」
「母さんは、川魚が嫌いやから・・・、ちょうど良かって、喜んどったやろ」
「でも、買いに行った道が混んでて大変だった。まあそれも良い思い出だね。考えたら結構楽しい思い出もあるよね・・・。父さんは居ない時が多かったけど、いる時は出来るだけ僕たちの傍に居ようとしてくれてたんだなって、自分が父親になってなんとなく判ってきたんだ。早くそれを伝えたかったけど、母さんの葬式の時にやった大喧嘩のわだかまりが消えなくてさ。・・・あのさ、父さん、また一緒に住もう。来年にでもこっちに帰れるように会社に申請してみるよ。来年ダメでも、父さんが定年になる頃にはきっと・・・」
「帰って来てくれるとか?」
「うん。父さんが念願だった孫と一緒の生活ができるんだよ」
「そうか。定年が、楽しみになったぞ。がんばって・・・病気を 治さないとな」
「そうだよ。だから、弱気になっちゃダメだよ」
幸雄はそこでふっと何かを思い出したように話題を変えた。
「ところで父さん、ちょっと気になったことがあるんだ」
「なんだ、急に・・・?」
「葛西さんのことだよ。葛西さん、父さんに怒られるのは慣れてるからって言いながら、なんとなく暗かったんで気になるんだけど・・・」
「あいつが・・・?」
「なんとなく、僕がいたから父さんに冷たくされたって思ったんじゃないかって気がして・・・」
「そげん思われたとなら、しょんなかたい。・・・いや、そのほうが、よか・・・」
「え? どうしてだよ」
「あいつは、俺の感染に対して、負い目を感じとぉごたる。まわりもそれを察してか、俺の見舞いを、優先させようとしとる。ばってん、それじゃあいつのためにはならん。あいつは、これから、正体不明の犯罪者と・・・戦わんといかんとたい。生半可な・・・甘い気持ち じゃあ、やっていけん。ここでいったん、突き放してやらんと・・・」
「それであんな態度を? だからなんとなく不自然に感じたんだね」
「そうかもな。それに・・・」
「それに、なんだい?」
「いや、なんでんなか・・・」
「なんだよ。水臭いなあ。言ってよ」
幸雄が父に向かって問うていると、高柳が彼に近づいてきた。
「多美山さんの息子さんですね。はじめまして。院長の高柳です」
「あ、お世話になってます。多美山の長男で幸雄と申します」
「幸雄さん・・・。いろいろご説明することがありますので、ちょっとこちらに来ていただけますか? 多美山さんは、そろそろお休み下さい。お疲れでしょう? 三原君、園山君、後をたのむよ。 じゃ、幸雄さん、行きましょう」
高柳はそれだけ言うと、さっさと歩き出した。
「じゃ、父さん、行って来るね。またあとで来てみるけど、遠慮なく眠ってていいからね」
「おう。じゃあな」
多美山はそういうとベッドに身体を沈め、目を閉じた。

 由利子と葛西は、電車を待つため私鉄のホームに並んでいた。由利子は葛西の様子がなんとなくおかしいのに気がついていた。話しかけても上の空で二言三言で終わってしまうし、時折ため息をついており、なんとなく落ち込んでいるようすだった。由利子はその様子を見ながらだんだんイライラして来たので、思い切って聞いてみることにした。
「葛西君。どうしたの? さっきから変だよ」
葛西は目を泳がせながら答えた。
「え? いえっ、そんなことないですよ」
「うそ。さっき多美山さんから怒られたからでしょ」
「う・・・」
葛西は口ごもった。
(判りやすいヤツ・・・)
由利子は、ややあきれ気味に思ったが、続けて言った。
「あなた、多美山さんには怒られ慣れてるって言ってたし、じっさいそうなんでしょ。何で今日に限って・・・」
「はあ・・・。多美さんが元気な時には確かに時々怒鳴られてました。それが、あの事件以来なんとなくそういう面がなくなって、それはそれで心配だったんだけど・・・。だけど、実の息子が来たからってあんな態度はないじゃないって・・・」
葛西は、やや口を尖らせながら言った。
(やっぱり・・・)
由利子は納得した。あの時の様子がちょっと変だったのは、一部始終を見ていた由利子にはなんとなく想像出来た。葛西にしては、幸雄に対する態度がそっけなさ過ぎたからだ。
(多美山さんも罪作りよね。それにしても、このお子ちゃまデカは・・・)
そう思いながら、由利子は葛西の方を見て言った。葛西は案外背が高く、傍に立つと背の高い由利子でも、顔を見るのにちょっと上を見なければいけない。
「多美山さんって、そんな人じゃないでしょ。きっとそれなりの考えがあってああ言ったんだって思うよ」
「だって・・・」
「何よ。多美山さんはあなたの相棒でしょ? それくらい理解してあげたら」
「・・・」
「多美山さんは、自分が定年間近だから、あなたに早く一人前になって欲しいから厳しいんでしょ。あなたに後を継いで欲しいのよ」
「そうかなあ・・・」
「そうよ」
そこまで言ったとき、電車がホームに入ってきた。二人は会話を中断して流れに従って電車に乗った。夜も8時過ぎているが、下り電車はまだまだ人が多くすでに満員状態だった。当然座れるはずもないので、二人は戸口に付近でつり革に掴まった。降車駅が比較的近くだからだ。改札近くの車両に乗ってしまったので、発車間際に滑り込みの客が数人駆け込んできて押され、由利子は体勢を崩して葛西の方によろけた。幸い葛西がとっさに抱きとめたので由利子が倒れることはなかった。
「あ、ありがとう」
由利子は少し赤くなりながらお礼を言って、体勢を整え再度つり革に掴まった。しかし、何となく気まずい空気が流れ、二人はそのまま黙って並んで立っていた。電車が動き出し夜の闇の中に突入した。由利子は窓ガラスに映る自分ら二人の姿をぼんやりと見ながら思った。
(どう見ても姉と弟だよねえ・・・)
電車を降りて、由利子のマンションに向かう道すがらも、二人はなんとなく黙って歩いていた。ずっと気まずい空気が流れたが、それに耐え切れずに葛西がまず口火を切った。
「昨日来た時は車だったので、歩いて行くのもまた新鮮でいいですね」
「そう? 私には歩き飽きた道だけどね」
由利子は笑って答えた。
「ここからだいぶ歩くんですか?」
「ううん、たいしたことないよ。早歩きで10分くらいかな」
「そうですか。でも、もう閉まっちゃってるけど、商店街もあって小さいけど公園もあるしコンビニもあるし、住むのに良さそうな環境ですね」
「そうかな」
「僕の寮があるところは・・・寮と言ってもK署の上なんですけど、お店も沢山あって居住空間も悪くないんですが、なにぶんちょっとごちゃごちゃしていて、どうも」
「そうね、駅周辺はちょっと雑然としすぎてるわね。まあ、その点ではT神の方も似たようなところがあるけど」
二人の会話が乗りはじめたところで、突然物陰から何者かが飛び出して来て、由利子のバッグをひったくろうとした。
「きゃっ!」
由利子はとっさにバッグを両手で胸に抱き必死で取られまいとした。葛西は速攻でひったくり犯に体当たりを食らわせると、犯人の男はもんどりうって倒れた。
「くそっ。覚えてろ!」
男はすぐに立ち上がると、お決まりの捨てゼリフを残し脱兎の如く逃げ出した。
「こら、待て!」葛西は叫ぶと男の後を追った。
「刑事が横に居るのにひったくろうったあ、いい根性だ」
そうつぶやきながら葛西は走り、かなり近くまで追いつきそうになったが、その時後ろでまた叫び声がした。
「いやあ、葛西君! 葛西君! こっち!!」
葛西が急いで振り返ると、もう一人の男が由利子にしがみついていた。
「しまった!」
葛西は男を諦めて、猛然と由利子の元に走った。しかし、葛西が戻る途中で、犯人は由利子から離れ次の瞬間地面に転がっていた。
「ゆっ、由利子さん?」
由利子は、パンパンと手を払いながら言った。
「ふん! 美葉から痴漢撃退法を教わってて良かったわ」
由利子から地面に転がされた男は、またもすぐに立ち上がって逃げ出した。
「あっ、こらまて!!」
葛西はそれを見て再び追おうとしたが、由利子がそれを止めた。
「こら、ボディガードが依頼人から離れるな! また襲われたらどうするのよ!」
「そうでした」
葛西は頭をかきながら由利子の元に戻った。
「つい、刑事の癖で・・・」
「警察呼んだほうがいいかしら・・・。って葛西君も警官か」
「僕の管轄外ですから、所轄の警官を呼んだほうがいいです」
「やっぱ110番か。なんか最近しょっちゅう警察に電話してるような気がする・・・」
由利子がため息をついて言うと、葛西がすぐに突っ込みを入れた。
「気のせいじゃないですよ」
「皮肉よ。今の自分の状況に対しての。まあ、この由利子さんに顔を覚えられたんだから、犯人達も運のつきだわね」
「由利子さんの特技でしたね。とにかく、ここで110番するのも危険なので、とりあえず家に帰りましょう。ここの場所は覚えられますね?」
「ええ、もちろん。通いなれた道だし・・・」
「そうか、ってことは偶然通りかかったからじゃなくて、由利子さんが狙われた可能性がありますね。何か心当たりはないですか?」
「心当たりなんてなくても最近物騒なことばかり起こって・・・」
そこまで言うと、由利子は何かを思い出してハッとすると、再度ぎゅっとバッグを胸に抱えた。
「思い当たったわよ。急いで帰りましょ」
由利子はそういうと駆け出した。
「ちょ、先に行かないで下さい。危険なんでしょ!?」
葛西は焦って由利子の後を追った。

 由利子は葛西と共にマンションのエレベーターに飛び込むと、焦って自分の部屋のある4階のボタンを押した。念のためにその上下3階と5階、ついでに6階のボタンも押した。
「いったいどうしたんですか?」
葛西が由利子に尋ねると、彼女は少し震えながら不安そうな顔で言った。
「思い出したのよ。狙われたのは私じゃない。このバッグの中身よ!」
「どういうことです?」
「この中に、美葉から預かったものがあるのよ」
「ええっ? それは重要なことじゃないですか。何で今まで黙ってたんですか? 美葉さん失踪の手がかりになるかもしれないのに」
「単に忘れてたのよ。思い出したくもないものだったんだもん。それより、いい? ドアが開いたら私の部屋まで一気に走るからね!」
由利子が説明する間にエレベーターは4階に止まった。
「いい? 走るわよ! それっ!」
ドアが開くと共に由利子が駆け出した。葛西もその後に続く。
「由利子さん、元気ですね」
「伊達に毎朝ジョギングしていないから」
由利子は走りながら続けた。
「あそこよ。あの角の・・・」
そこまで言うと由利子は言葉を飲み込み、立ち止まった。葛西は由利子にあやうくぶつかりそうになって、立ち止まり言った。
「急に止まらないでくださいよぉ、由利子さん。どうしたんですか?」
葛西の問いに由利子はドアを指差して言った。
「なんか、玄関のドアが開いているような気がするんだけど・・・」
「ええっ?」
そう言われて葛西はドアをよく見た。確かにわずかだがドアに隙間のようなものが見えた。葛西と由利子は用心深くそっと部屋の前まで近づいた。やはり、ドアはかすかに開いていた。
「由利子さん、危険ですからそこでじっとしていてください。僕が先に入って様子を見ます」
そういうと、葛西はドアに近づきドアノブに手を伸ばした。
 

「ええ? じゃあ、父の容態はそんなに・・・」
高柳の父親の容態に関する説明を聞きながら、幸雄は絶句した。
「はい。あらかじめお知らせしていましたが、お父さんは未知のウイルスに感染されています。それもかなり危険なウイルスです。正直言って、今の医学では、一部を除いてウイルス感染に対して特効薬は殆どありません。新感染症ならばなおのことです。それでも私たちは出来るだけのことを試してみましたが、サイトカインストーム・・・免疫系の暴走が始まってしまい一時危篤状態にまで悪化してしまいました。今は小康状態ですが、これからまた悪化の一途をたどる可能性があります」
「そんな・・・」
「もちろん、我々も出来る限りのことはいたします。状況によっては人工呼吸器をつけることになるかもしれませんが・・・」
高柳はそこで一旦言葉を切って、一息ついてから続けた。
「このウイルスは、出血熱の可能性が高いのです。すでに内臓からの出血が見られています。いずれ全身からの出血が始まるかもしれません。そうなった場合は覚悟されてください」
「打つ手はないのですか?」
「我々のカードはあまり多くありません。その中でカードを切っていくのです。ただ、お父さんは延命拒否をされましたので・・・」
「父が? 本当ですか?」
「はい。我々の方も患者を無駄に苦しめるより、苦痛を出来るだけ和らげるような処置にシフトするべきだと思います・・・。ご了承下さい」
「・・・。何で父さんが、そんな・・・。今まで病気らしい病気もしたことがなくて、全然元気だったのに、何で・・・」
幸雄はそこまで言うと再び絶句して下を向いた。
「最初の2日間は特に変化がなかったのですが、3日目に・・・昨日ですね、急に発熱されました。そして今日、私たちがウイルスから何らかの脳障害を起こしたと考える『赤視』・・・周囲が赤く見えるという症状が出て・・・、大変申し上げにくいのですが・・・、病室で暴れられてギルフォード先生が負傷しかかるという事態に陥りました」
「あの父が?・・・まさかそんな・・・」
「病気の症状です。お父さんが悪いわけではありません。・・・まあ、それは、すぐに収まり、ギルフォード先生も負傷しておらず感染は免れました。しかしその後、間髪を置かず免疫系の暴走が起きました。赤視が起きてから急速に病状が悪化しています。もっとも今までの犠牲者の多くは、赤視が起きた時の発作で亡くなっていると思われますが」
「それじゃあ・・・」
「最悪の状況を覚悟しておいたほうがいいでしょう。会わせたいご家族の方がおられたら、出来るだけ早く呼んだ方が良い」
「妻と娘は明日の朝飛行機でこちらに向かいます。間に合うでしょうか・・・?」
「申し訳ありませんが、我々には何とも・・・」
高柳は目を伏せながら言った。幸雄は終始うつむき加減だったが、その姿勢のまま絞り出すような声で高柳に言った。
「すみません。しばらく一人にしておいて下さいませんか?」
「判りました・・・」
そう答えると、高柳はそっと椅子から立ち上がり、幸雄を残して応接室を出て行った。
「父さん・・・何でだよ・・・・・」
幸雄はそうつぶやくと、うつむいたまま肩を震わせた。
 

 葛西は安全のため由利子を壁際に背を向けて立たせると、自分は由利子の部屋の玄関扉をそっと開け、中の様子を伺った。特に人の気配はない。ドアの鍵は、無理やりこじ開けられたようで完全に壊されていた。葛西は由利子の顔を見ながら自分を指差し継いで玄関の中を指差した。由利子は頷いた。
(アレク、緊急事態です。申し訳ないけど部屋に入りますよ)
葛西はギルフォードに釘を刺されていたのを忘れていなかったので、一応心の中で許しを得てそっと部屋に入った。やはり人の気配はないようだ。ついで玄関の灯を点け改めて周囲を見回す。そのままそっとキッチンに入ってそこの灯も点け様子を見る。すると、確かに何者かがあちこち物色したような痕跡があった。キッチンから繋がる由利子の部屋のドアも半開きのままになっており、荒らされた室内が垣間見えた。葛西は玄関に戻り玄関ドアから顔を出すと由利子を手招きして小声で言った。
「ざっと様子を見ましたが、今のところ人の気配はなさそうですので、とりあえずそっと入って下さい」
「部屋の様子は?」
と、やはり小声で由利子。
「荒らされてます」
「うそっ!? じゃあ、ね...猫たちは!?」
「いや、そこまでは・・・」
「ごめん! ちょっとどいて!」
葛西が言うのが終わらないうちに、由利子は葛西を押しのけて部屋に飛び込んだ。
「ああ、ちょっと待って。まだ犯人が居ないとは断言できないのに・・・」
葛西は焦って止めたが、由利子の耳には入らなかったらしい。
「にゃにゃ子! はるさめ!」
由利子は荒らされた部屋を尻目に、必死で愛猫たちを探した。由利子の脳裏には、美葉のところでの出来事が浮かんでいた。まさか、うちの子たちもあんな風に・・・? 由利子はデジャヴュを感じながら、おそるおそるバスルームのドアノブに手をかけた。それから意を決してドアを開いた。しかし、特に異常はない。すると、隣のトイレからにゃあという声がした。
「いた!」
由利子は急いでトイレのドアを開けた。トイレの中に猫用のベッドが入っていて、それに二匹が寝ぼけ顔で座っていた。いままで眠っていたらしい。彼女らは、由利子の顔を見ると声をそろえて「ニャー」と鳴いた。急いで二匹を出して怪我がないか確かめる。特にケガはないようだった。由利子はほっとして二匹を抱きしめ床に座り込んだ。
「無事でしたか?」
葛西がその様子を見ながら問うた。
「ええ」由利子は答えた。「・・・おそらく侵入者の一人は美葉よ。この子達、美葉にすごく懐いていたもの。美葉がこの子らを守ってくれたのよ」
「なるほど。じゃあ、結城も一緒にいた可能性が高いということですね」
「部屋の荒らされ方からして多分そうね。急いで110番しないと・・・」
由利子が言うと、葛西が少し得意そうな顔をして言った。
「美葉さん失踪事件との関連性が高そうだったので、本部の方にさっき連絡しました」
「いつ?」
「猫を探している時」
「早っ!」
「もうすぐ捜査員が来ると思います。ところで念のためにお聞きしますが、この部屋は侵入者に荒らされてこうなったんであって、もともとそうではなかったんですよね」
「失礼やね!」
由利子はそう言うやいなや、葛西の背中をばんと叩いた。
「いたた、冗談ですってば」
葛西は口の割りに嬉しそうに言ったが、すぐに真面目な顔をして尋ねた。
「で、狙われたという、美葉さんから預かったものって?」
「あ、また忘れるところだったわ。これよ」
由利子はバッグから統計計算ソフトを出した。
 

 夕食後、良夫が部屋で宿題をしていると、すぐ横に置いている携帯電話がブブブ、ブブブと震えた。振動音とはいえ、机の上に置いているとけっこうな音がして、計算に集中していた良夫はびくっとした。しかし、着信の相手がわかって急いで電話を取った。
「ヨシオ君? ギルフォードです。遅くなってゴメンナサイね」
「先生! 留守電聞いてくれたんですね!」
良夫は嬉々として言った。
「はい、もちろんです」
ギルフォードは答えた。
 今日はあまりにも色々ありすぎたので、すっかり携帯電話のチェックを忘れていたギルフォードがようやく電話を手にしたのは、由利子たちが去ってしばらく経った8時もとっくに過ぎた頃だった。研究室の方には、緊急時の連絡先としてセンターの電話番号を教えていた。こっちの方には連絡が無かったので、特に何もなかったのだろう。携帯電話の方には、紗弥から無事に会えたというメールと、留守録として、如月からの定期連絡と佐々木良夫からの伝言が入っていた。研究室の方は特に問題ないらしい。ただ、明日は必ず研究室に出てきて欲しいとしっかりと釘をさされた。そんな訳でギルフォードは、まず緊急性の高そうな良夫の方に電話を入れたのである。
 良夫は、ギルフォードからの連絡があまりに遅かったので、不安になって尋ねた。
「ひょっとして、また何かあったんですか?」
「ええまあ」
ギルフォードは言葉を濁していった。
「詳細はお伝えできませんが、色々と。で、まだ出先なんですけどね」
「出先って、例の病院ですか?」
「まあ、そうです」
「まさか、西原君たちに何か・・・?」
「いえ、彼らは大丈夫です。おそらく予定通りに退院できるでしょう。安心してください。それで、ヨシオ君。新事実っていうのは何ですか?」
ギルフォードは続けて訊いた。
「はい。今日、例の事件に関わった友人達と話してたんですが・・・」
良夫は、自分達三人が別々に同じ女から事件のことを聞かれたこと、勝太が彼女に対してある程度応対したことについて、そしてもうひとつ、勝太が雅之の事故の時に出会った女医についての二つの用件を伝えた。
「事件を調べているらしい女性ですが・・・」
ギルフォードが憂鬱そうな声で言った。
「それについては心当たりがあります。公安の長沼間さんの悪い予感が当たりました。実は、ミチヨ・・・マサユキ君のお母さんの事件の時、公園のトイレに潜んで一部始終を見ていたらしい女性がいたのです。君達が現場を去った後に見つかったので、君たちは知らないでしょうけど、その女性は君たちの顔を知っているはずです。それで君らに接触を試みたのでしょう」
「ええっ!? それじゃ大変じゃないですか」
「そうです。しかも、彼女はその現場を写真に撮っていました。公安の人が気がついて、データを全て消去したハズですが・・・」
「何なんですか、その女は!? ひょっとしてマスコミ関係の人なんじゃ・・・」
「わかりませんが、その可能性は高いですね。一般の人にそこまで事件に執着したり取材に集中したりすることは難しいと思いますし」
「それって、まずいですよね」
「マズイです。それもかなりマズイです。もし妙な記事でも書かれたら不要なパニックを招きかねません。それについては僕がしかるべきところに連絡しておきます。しかしそれ以上に、謎の女医が気になりますね。明らかにウイルスについて何か知っている様子ですし。ひょっとしたらそっちのほうが最重要事項かもしれません。ショウタ君には早く言って欲しかったですね。・・・まあ、それについて彼を責めるのは酷でしょうけど。目の前で友人を失った直後でしたから」
「だからボクも彼を責めることは出来なかったんです。でも、これは一刻も早く伝えたほうがいいって思ったから、先生に電話したんです」
「賢明です、ヨシオ君。今日はわざわざ電話をくれてどうもありがとう。また何かあったら電話してください」
「はい。お役に立てて嬉しいです」
「でも、くれぐれも危険なことに首を突っ込まないようにしてくださいね。君に万一のことがあったら、僕は君のご両親に顔向けが出来ませんから。それから緊急時には、まず警察の方に電話するんですよ」
「はい、判りました」
「では、これで失礼しますね。いいですか、くれぐれも気をつけるんですよ」
ギルフォードは再三良夫に注意をすると、ようやく電話を切った。それでも良夫としては、話し足らなかったような気がした。良夫は軽くため息をつくと宿題に戻ったが、どうもさっきまでの集中力がどこかに行ってしまったようで、勉強に身が入らない。良夫は今度は深くため息をついて、気分転換にコーヒーでも飲もうとキッチンに向かった。
 

「この統計計算ソフトが狙われたんですか?」
葛西はそれを見ながら不思議そうに言った。由利子はあきれて言った。
「馬鹿ね、偽装よ。計算ソフトはパッケージだけ。中身は違うの。判る?」
そういいながらパッケージを開いた由利子は、ぎょっとした。結城はご丁寧に中のCDまで偽装を凝らせていたのである。すなわち、裏DVD仕様である。ヒロインの女刑事がニーハイの黒皮のブーツと同じく黒皮のロンググローブのボンテージスタイルであちこちに武器を装着しながら、体部分はすっぽんぽんという刺激的な井出達でポーズを取っている写真がプリントされていた。そのことをすっかり忘れていた由利子は、取り出したCD-Rを手に持ったまま一瞬固まってしまった。その後焦ってそれを裏に向け裏のままパッケージに戻した。
「あのっ、えっと、由利子さん」
葛西が真っ赤になりながら言った。
「それじゃあ、たしかに偽装しないと持って歩けませんよね」
「バ、バカッ! 人聞きの悪いこと言わないでよっ! もともとこういう裏DVD風にパッケージごと偽装されてたの。だから、統計計算ソフトケースに入れ替えてたの。でも、CD本体のプリントまではどうしようもなかったのよ!!」
由利子は葛西以上に赤くなりながら一気にまくし立てた。葛西はその剣幕に驚いたが、それ以上にCDの中身の方に興味が湧いた。
「ということは、何かテロに関する重要な機密みたいなのが入っているかも知れないってことですよね」
「そういう可能性が高いわね」
由利子はまだ赤い顔をしながら言った。葛西は今居るキッチンから由利子の部屋を一瞥して言った。
「あまりこの状況を乱さないほうがいいことはいいのですが、このCDの中身を確認できますか?」
「パソコンなら部屋にあるけど・・・」
「捜査員が来るまで、内容を見ておきましょう」
「いいけど、この状態の部屋に人を入れたくないなあ」
「これから嫌と言うほど入ってきますから」
「もう美葉の時に知っているわ」
由利子はため息をつきながら言った。
「しかたないわね。じゃあこっち来て。あ、その前に猫達をケージに入れなきゃあ。知らない人が来ると怖がっちゃうからね。葛西君、1匹つれてきてくれる?」
そう言いながら、由利子は何の気なしに葛西ににゃにゃ子を抱かせようとした。すると、意外にも葛西が引いてしまった。
「あの、僕、動物を飼ったことがないんで、どうやって扱っていいのやら・・・」
「え?そうなの? アレクは動物関連は全然平気なのに」
「あの人はライオンでもゾウでもいけそうじゃないですか」
「流石に猛獣の類は無理だと思うけど・・・。そうね、そのまま抱っこしてつれてきたらいいの。ついて来て」
「はあ・・・」
葛西は気のない返事をしながら由利子の言うとおりにした。
「うわ。この子、しがみついてきますよ」
葛西が困ったような声で言った。振り返った由利子は笑いながら言った。
「葛西君がおっかなびっくりで抱きしめてるからよ。でも案外似合ってるわよ、猫を抱っこした姿」
「そうですかぁ?」
由利子に言われて葛西はまんざらでもない気になったらしい。
「ねこちゃん、可愛いでちゅね~。僕がジュンちゃんパパでちゅよ~」
(バカ・・・)
いきなり幼児語で猫に話しかけ始めた葛西を横目で見ながらあきれつつ、部屋の中を改めて見回してげっそりした。部屋の中は外から見た以上に荒らされていた。由利子はもう一度深いため息をついた。
(これを片付けなきゃいけないのよね・・・)
それでも、落ち込んでいるわけには行かない。由利子は猫達を部屋の隅に置いてあるケージに入れると、葛西と共にパソコンのある机に向かった。そして椅子に座り、パソコンの電源を入れ起動させた。葛西はその横に立ってそれを見ていた。
「あれ?」
内容をチェックしていた由利子が首をかしげて言った。
「Dドライブの中が空になってる」
「ええ?」
「うそっ。Dドライブだけじゃない! 画像データとエクセルデータが全部消されてる!!」
「ホントだ」
葛西も画面を見て同意する。
「どういうことよ? 侵入者が消して行ったってこと?」
「それ以外考えられないでしょう」
「ひど・・・」
由利子は頭を抱えた。
「データはオシャカですか? バックアップは?」
葛西が質問すると由利子は頭を抱えたままで言った。
「重要なデータはプロバイダのレンタルHDに入れているし、パスワードの類も全て記憶させないようにしていたから大丈夫だけど、それでも相当なデータが消えたと思う。だってこんな事態なんて想定していなかったし・・・」
「CDの内容がコピーされてないか確認したうえで、念のためそれらしいデータを全部消していったってことですか?」
「そうのようね。ってことはこのCD-Rの中身は画像とエクセルデータか」
由利子は苦々しい表情で言うと、急に立ち上がって言った。
「他のデータ類は?」
そのまま横の本棚のディスク置き場に目を走らせた。棚の中の物は本からCD・DVDから物色された後があり、データの入っていそうなディスクは全部ケースごと割られて床に投げ捨てられていた。
「あああ・・・」
由利子は座り込んだ。
「私、今なら極美さんとかいう人の気持ちがよくわかるわ」
「って、あの、長沼間さんに写真データを全部消された?」
由利子はそれに答えずに思い切り眉間に深い皺を寄せ、低い声で吐き捨てるように言った。
「結城のヤロー、もし出会ったら殺してやるっ」
「由利子さん、気持ちは判りますが、それは犯罪ですから」
「判ってるわよ。そういう気持ちになっただけよ」
由利子がそう言った時、玄関のチャイムが鳴った。
「あなたのお仲間が来たようやね」
由利子は立ち上がると、急いで玄関に向かった。葛西もその後に続く。
「警察です。篠原さん、いらっしゃいますか」
インターフォンから声がした。由利子は映像を確認した。外には大量の警官達が立っていた。
「は~い、今開けます」
由利子は急いでドアを開けた。とはいえ鍵が壊されているのでわざわざ開けることもなかったのだが。
 ドアを開けると、先頭に例の富田林と増岡のコンビが立ち、後ろに鑑識の警官達がずらりと並んでいた。
「あ、ふっ○い君」
由利子は富田林の顔を見て、つい口を滑らせた。その瞬間増岡と後ろの警官達、葛西までもがいっせいに下を向いた。由利子は焦って口を押さえ、言い直した。
「富田林(とんだばやし)さんと増岡さんでしたわね」
「同じ日にまたお伺いするとは思ってもいませんでしたよ。大変な日ですね、篠原さん」
幸いと言うか、当の富田林だけが今現在の状況を把握せずに言った。継いで隣の増岡が何か言おうと口を開いたが、「ぶはっ、ごほっごほっ」
と噴出しそうになって慌てて咳で誤魔化した。ふっ○いくんの衝撃は思いの外強かったらしい。
「大丈夫ですか?」
葛西が近寄って言った。
「えっと?」
富田林が葛西を見て不審な顔をして言った。
「あ、失礼しました。僕が連絡をいれたんです。K署の葛西です」
葛西は警察手帳を見せて言った。
「えっと、K署の刑事さんがなんでここに?」
「篠原さんと知り合いなもので。今日、頼まれてたまたまうちまでお送りしていたら、このような事件が起こってしまいまして・・・」
お決まりの質問にお決まりの返事をした後、葛西は何故ここにいるかを説明した。富田林はかるくウンウンと頷いた。
「とにかく、証拠が新しいうちに調べさせてください。犯人の手がかりが残っているかもしれません」
「ええ、よろしくお願いします」
由利子が答えると、富田林はすぐに鑑識の警官達に中に入るように告げた。由利子の狭い部屋は、たちまち警官だらけになった。由利子はささやかな城を無粋な警官達に占拠され、腕組みをしながらため息をついた。幸い女性捜査員がけっこう居るのが救いだった。その時、由利子を呼ぶ声がした。富田林だった。由利子が振り向くと彼は手招きをした。首を傾げつつ近づいていくと、富田林は小声で両手を合わせながら言った。
「昼間、お伺いした時に猫とちょこっとだけ遊んだこと、内緒にしてくれませんか?」
「ええ、いいですよ。ご安心下さい、っていうか、そんなこと忘れていましたし」
由利子は(やっぱりあれ、まずかったっちゃね)と思いながら答えた。

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3.侵蝕Ⅲ (9)刈り取る者

「それで、帰る前に二人の引ったくりに遭ったんですね」
 富田林(とんだばやし)は由利子と葛西から状況を聞きながら念を押した。由利子は自分の机にもどり、富田林から調書を取られていた。
「ええ。それで何が狙われていたのかが判ったんです。で、急いでうちに帰ったら部屋の中がこんなことになっていて・・・」
「その引ったくり犯の一人と、この部屋の侵入者は同一人物と思いますか?」
「判りません。それに引ったくりの顔は二人とも覚えていますが、私は結城の方の顔を知りませんので」
「それは、こちらで入手しています」
 富田林はポケットから写真を出して由利子に見せた。由利子は初めて見る結城という男の顔をまじまじと見た。それは会社のオフィスで何人か一緒に撮られたスナップ写真を拡大したもののようで、結城は穏やかな笑顔で写っていた。若干髭が目立つが端正な顔をしており、少しクセのある髪をきちんとセットしていた。その写真からは粗暴さなど微塵も感じられない、かなりインテリな男のように思えた。今彼が起こしている数々の事件と写真のイメージがどうも一致しない。
「どうかされましたか」
 写真を見た瞬間黙り込んだ由利子を見て、富田林が声をかけた。
「いえ、親友の元カレの顔を今始めて見るなんてのも変だなって思って・・・。引ったくり犯とこの男が別人なのは間違いないです。でも、仲間かどうかは・・・」
「間違いないときましたか」
 富田林はふっと笑って言った。
「よくいるんですよね。絶対に顔は覚えたと自信満々だったのに、いざと言う時全くあてにならないことが。本当に大丈夫なんですか?」
「ええ。私は人の顔は名前も含めて忘れません」
 由利子もふっと笑って言い返した。
「もし、こいつや引ったくり犯達がいたら、たとえ人ごみの中でも見つけてやります。あなただって、これから何十年か経って多少容貌が変わったとしても、道ですれ違うことがあったら、声をかけてさしあげますよ」
 葛西もフォローする。
「篠原さんの特技なんです。最初署で会った時、僕も不審に思って試してみたんですが、僕の引っ掛けにまったくかかりませんでした」
(あれに引っかかるやつなんであまり居ないと思うけどな~)
 由利子は思ったが、せっかくのフォローなので黙っていた。
「で、それが狙われたというCDなんですね」
 富田林は、由利子が机の上においているCD-Rに目をやって訊いた。
「そうです。これを見てみようと思ってパソコンを立ち上げていたところでした。今から見ようと思いますが、いいですか?」
「いいでしょう。確認せずにもって帰って、裏ビデオとかだったら洒落になりませんからな」
 富田林はわははと笑いながら言った。もちろん彼は冗談で言ったのだが、由利子と葛西は微妙な顔をして笑わなかった。
「富田林さん」
 由利子は複雑な表情で言い、ケースからCD-Rを取り出して見せた。
「これは中身がこーんなプリントなんですが、裏DVDじゃないですから」
「おおっ!」
 富田林が驚きの声を上げたが、若干表情が嬉しそうだったのを由利子は見逃さなかった。
(ったく、刑事とはいえ、やっぱ男やね)
 そう思いつつ、由利子はさっさとCD-Rをパソコンのディスクトレイに入れた。
(とかいって、ほんとにエロ動画が出てきたらどうしよう)
 一抹の不安を感じながら、由利子はパソコン画面に向かった。ディスクが高速で回転する音が聞こえ、まもなくEドライブのウインドウが開き、中にフォルダが二つ示された。その時、葛西の携帯電話に着信が入ったらしい。葛西は急いでポケットから電話を取り出した。
「あ、アレクからです」
 葛西は由利子にそう伝えながら電話に出た。
「はい、葛西です」
「ジュン、どうしたのですか? 9時過ぎたのに連絡が無いので心配してるんですけど、無事にお送りしましたか?」
「いや、それが、無事と言えば無事だったんですが・・・」
 葛西は、帰り道から今までの出来事を簡単に説明した。
「では、君はまだユリコのところに居るんですね。そうですか・・・。まあ、非常事態ですから仕方ないでしょう」
「アレクはまだ病院に?」
「いえ、今研究室に戻ったところです。何故か、サヤさんと彼氏が居るのが釈然としないんですが・・・」
 ギルフォードは足早で教授室に入り、そこで仲良くお茶を飲んでいる二人を見つけて言った。
「アレクの帰りを待ってたんですか?」
「そのようです。程よく酔っておられますから、放っておいても良さそうです。で、今、ユリコがそのCD-Rを見ようとしてるんですね。じゃあ、今からちょっとかけ直します」
 ギルフォードはそういうなり電話を切った。
「由利子さん、アレクが折り返し電話するそうです。研究室に帰っているそうですよ。で、紗弥さんと彼氏も居るらしいですが」
「へえ? 変なの! あ、かかって来た。・・・はい、由利子です」
「オツカレサマです。しかし、次から次へと大変ですね」
「好きでトラブってんじゃないんですけどね」
 由利子は少しむっとして言った。
「いや、失礼。で、CD-Rの中身はわかりましたか?」
「今から開くところです」
 由利子の電話での受け答えを聞きながら、富田林が尋ねた。
「どなたからの電話なんです?」
「ギルフォード教授です。Q大の」
「へえ、大学教授のお知り合いがいるんですかぁ」
 富田林は感心して由利子と葛西を見た。由利子は電話を片耳に当て、右手でマウスをせわしなく動かしながらギルフォードに説明した。
「フォルダは二つです。ひとつはエクセル、もうひとつは・・・え~っと画像データが入ってるみたいです。まあ、予測どおりですね。でも各フォルダにはデータがひとつづつですね。わざわざフォルダ分けすることもなさそうですが」
「他にもデータを入れるつもりだったのかもしれませんね。それが何らかの理由で出来なかったとか」
「なるほど。ありえますね」
 由利子はなるほどと同意して言った。
「とりあえず、何が入っているか楽しみですね。早く開いてください」
 ギルフォードは自分の席に着き、足を組みながら言った。紗弥が立ち上がって紅茶を入れる準備を始めた。どうやら新しいポットを買ってもらえたらしい。紗弥の彼氏も立ち上がったが、彼はまっすぐにギルフォードの方に向かった。彼はアフリカ系アメリカ人で、年の頃は30代半ば、ギルフォードより若干背が低く、かなりスレンダーな体格で少年のようにも見えた。彼の姿を正面から見た瞬間、ギルフォードの表情が一瞬明るくなったが、それはすぐに消えていつものアルカイックスマイルに戻った。男は親しげに笑って言った。
”ハイ! アレックス.久々に会ったのにずいぶんとつれないじゃないか? それって緊急な用件なのかい?”
「すみませんね、ジュリー。説明は後でしますから、今のところ僕の会話から推理してください。それから、電話向こうの人たちは英語が不得手なので、日本語でお願いします」
「わかっただなも。そうしよまい」
「・・・なんで名古屋弁なんでしょうねえ、この人は・・・」
「名古屋で育ったんだで、仕方あーせんよ」
 由利子は電話口から妙な声が聞こえるので、不審そうに訊いた。
「アレクぅ? なんとなくみゃあみゃあって声が聞こえるんですけど」
「ああ、招かれざる客です」
「招かれざる客はにゃーがね。ジュリアス・キングだなも。ジュリーって呼んでちょーよ」
 ジュリアスはギルフォードの顔に自分の顔を近づけ、彼の携帯電話に向かって言った。
(こんどは名古屋弁の外人? また変なのが現れたよ)
 由利子は思ったが、とりあえず無視してCD-Rのデータを開くことにした。
「じゃあ、まず、フォルダ『w-h-o-’(アポストロフィ)-s』・・・『who's(フーズ)』に入っているエクセルの方を開きます。ファイル名は『名簿』です」
「めいぼ?」
「はい。えっと、・・・そうそう、名前のリストです」
「あ、わかりました。名簿ですね」
「では開きます。・・・う~ん、なんだかけっこう勇気が要りますねえ」
 由利子は緊張した顔で言いながら、フォルダ名をクリックした。エクセルが開きファイル名どおり名簿らしきものが現れた。
「開きました。写真と・・・あっ、文字が化けていて判読できません!!」
「暗号化されているのかもしれませんね。そこらへんは警察の方で解読してもらえるでしょう」
「暗号化・・・ですか。富田林さん、警察の方で解読できるだろうって言ってますが・・・」
「いや、僕の管轄外だからなんともいえませんが、なんとかなるんではないですかね。多少時間はかかるかもしれませんが。しかし、見事な文字化けですねえ」
 富田林は妙に感心して言った。画面をスクロールして見ると、四人の男の情報が載っている。富田林と葛西も横から画面を覗き込んだ。
「知らない顔ばかりだなあ」
 富田林が言った。
「有名政治家あたりが出てくるかと期待したのに」
 と、ちょっと不満そうだ。由利子はう~んとうなりながら言った。
「そうですね。それに、四人分ってのも少ないですし」
「それより問題は、それが何の名簿かということですよ」
 と、横から葛西が言った。
「やはり、お仲間関係かな?」
 と、由利子。
「そうですね。ユウキは仲間からも追われているらしいですから、いざと言う時の保険としてミハに預けていたのかもしれません」
「それを、どうして今取り返そうとしてるんでしょうね」
「のっぴきならない状況に追い込まれているんでしょう。孤立無援と言うのは辛いものですから、ミハを誘拐したのも案外そういう単純な理由かもしれません。逃げるなら一人の方が身軽でしょうに」
「でも、いざと言うときに人質に使えるじゃない」
 由利子は不安げに言った。彼女はそれがずっと気になっていたのだ。
「そうですね。その可能性もあるでしょう。ところで、電話では画面が見えないので説明してくれませんか?」
「わかりました」
 由利子はそう言いつつ、ふと周りを見回した。富田林はもう興味を無くしたのか、増岡が鑑識の一人と話しているのを見ていた。葛西は画面より由利子とギルフォードの会話の方が気になるようだった。
「男性四人のデータがあります。年齢は30代くらいから60代までまちまちですね」
「なるほど。男性という以外共通性はあまりないようですね」
「アレックス、すまにゃーけど、向こうがゆーたことを教えてくれーせんか」
 横でジュリアスがもどかしそうに言った。
「事件についてはちょびっとだけど聞いておるのだもんで、おれにもなにかわかるかも知れにゃーだろう」
”ああ,うるせぇ.わかったから耳元でみゃあみゃあ言うんじゃねえ”
ギルフォードは、電話の通話口を塞いでぞんざいに言った。
”そっちのほうが君らしいよ”
 ジュリアスはクスッと笑いながら言った。
「アレク、聞いてる?」
 受話口から由利子の少しイラついた声が聞こえた。ギルフォードは焦って通話口から手を外した。
「すみません。外野がちょっとうるさいもんで。続けてください」
「はい。どれも特に特徴のない顔ぶれですね・・・。っていうか、みんななんか共通した雰囲気がありますね」
「同じような思想をしているからかもしれませんね」
「テロリストの幹部だったりして」
「なるほど、それなら双方が奪取したがるでしょうね」
「じゃあ、引ったくりの方は結城を追う側かもしれないと・・・」
 由利子はゾッとして言った。
「葛西君が一緒でよかったわ」
「え? あいつらがテロリストの一味の可能性が? それにしてもしょぼかったというか、ただのチンピラでしたよね」
「葛西君がチンピラだったと言ってます。私もそう思います」
「世の中には金さえもらえれば何でもするヤツはいますからねえ」
 と、横から富田林が言った。どうやらこちらに興味が戻ったらしい。
「そうですね。そういう類の輩でしょう」
 ギルフォードが同意して言った。富田林の声がでかいので聞こえたらしい。
「とりあえず顔は覚えましたから、次にいきましょう。えっとこっちのフォルダ名は『t-h-a-n-a-t-o-s』・・・? え? 何? ざんあとす・・・?」
「thanatos(タナトス)ですね。ギリシャ神話の死の神の名前です。フロイト派心理学では、攻撃や自己破壊に傾向する死の欲動を意味する用語として使われていたようですが」
「なるほど。意味深なフォルダ名ですね。・・・あれ、これGIFイメージのくせに、ちょっとしたアプリケーション並みにデータがでかいわね・・・。ファイル名は『t-h-e  r-e-a-p-e-r』」
「The Reaper(ザ・リーパー)・・・収穫者・・・刈り取る者・・・死神ですか・・・。タナトスに対してこれまた意味深ですね。それに、GIFでデータがアプリケーション並ですか」
「クリックします」
 由利子はそういいながら、ファイル名をクリックした。ビューアが開いて若い男の姿が現れた。
「開きました。若い・・・と言っても30代くらい・・・かなりイケメンですね・・・。え? 何? この人? 20代にも、ううん、ずいぶんと歳をとった人のようにも見えるわ!」
”まずいぞ、アレックス!!”ギルフォードの説明を聞いていたジュリアスが急に真剣な顔で言い、電話に向かって大声で叫んだ。
「それ、開くのちょこっと待ってちょーよ」
「もう開いているようですよ」
 ギルフォードは、ジュリアスが居るほうの耳を塞ぎながら言った。
「なんと、遅かったかねー」
「ユリコ、ジュリーがそのファイルを開くなって騒いでますが、異常はないですか」
 しかし、電話の向こうからは、由利子のパニックに陥った声が聞こえてきた。
「うそっ、何? これ?」
「ユリコ、ユリコ! 何が起こっているんですか? ジュン! ユリコをサポートしてください! 聞こえますか、ジュン!!」
 珍しく焦りながら大声で電話をかけるギルフォードに驚いて、ミルクに紅茶を注いでいた紗弥がゆっくり振り返った。 

 由利子は電話を握りしめたまま、パソコン画面を前に硬直していた。葛西と富田林も声もなく画面に見入っていた。富田林に至っては、口をぽかんと開けてすらいた。ビューアに出現した謎の男の画像が、いきなり映画「リング」に出てきた写真のように不気味に歪みはじめたのだ。
「ユリコ! どうしました? 返事をしてください!!」
 ギルフォードは、声のしなくなった電話の向こうに呼びかけた。ジュリアスは応接セットのテーブルに置いたままにしていたコーヒーを持って来ながら言った。
「アレックス、彼女にネットとの接続を切るようにゆーてちょーよ」
「ユリコ! ネットから接続を切ってください。ジュン! そこにいますか? ジュン!!」
「何があったんですの?」
 紗弥がジュリアスに尋ねた。
「由利子さんが開いたCD-Rに、不正プログラムが入っとるみてゃーだわ」
「あらまあ・・・」
 紗弥は言ったが、どうしようもないのでそのままミルクティーを作る作業を再開した。
 葛西は、由利子の電話から自分を呼ぶ声がしたので、急いで由利子の電話に手を伸ばした。
「由利ちゃんごめん、ちょっとケイタイ貸して」
 そういうと、葛西は由利子の手から携帯電話を取り電話に出た。
「葛西です!!」
「ジュン! 急いでネットとの接続を切ってください」
 葛西はそれを聞いてすぐ、はっとその意味に気付いて由利子に言った。
「由利ちゃん、急いでネットの接続を切って」
「え? え?」
 しかし、すっかりテンパってしまった由利子は、葛西の言っている意味がピンときていないようだった。
「ごめん!!」
 葛西は意を決して手を伸ばしモジュラージャックをつまむと、パソコン本体からケーブルを引き抜いた。
「とりあえず、切りました!」
「様子はどうですか?」
 ギルフォードに言われて葛西は慌ててモニター画面を見た。
「どうかしたんですか?」
 と、増岡が異変に気がついて走ってきた。既に謎の男の画像は完全に歪み、次いでパソコン画面の中央に吸い込まれるように消ていった。と、同時にモニター画面が不吉なブルースクリーンになって左上端から白い文字で「Thanatos」という文字がズラズラと高速で流れ始めた。
「男の画像が消えて、ブルースクリーンに”Thanatos”という文字が次々と出て来て画面を埋めています」
「画像が消えて、青い画面に文字がどんどん出ているらしいですよ」
 ギルフォードはジュリアスに説明した。ジュリアスは額に手を当てていった。
「そりゃあまずいがね。電源を落とした方がええて」
「ジュン! 強制終了して下さい」
 ギルフォードはすぐにジュリアスのアドバイスを伝えた。ジュリアスはその様子を見ながら手に持ったコーヒーを一口すすって言った。
「まあ、もうおせーかもしれにゃーもんだで、いっそどうなるかあんばいを見るって言うのはどうかねー」
「馬鹿言わないでください」
 ギルフォードは言った。
「後でユリコから殺されますよ」
 パソコンの画面は相変わらずブルーでそれを白い「Thanatos」という文字が埋め続けていた。それは画面いっぱいに広がると、ざあっと中央付近に集まって、白いシルエットとなった。少年の全身像のように見えるそれは、にやりと笑うと、さあっと砂の柱のように崩れた。ジャ~ンと荘厳な音楽が流れ、画面が真っ黒になった。その黒い画面にこんどは赤い文字が現れた。

The Reaper is here.
Unfortunately, your computer has just passed away now.
My deepest condolences.

「何なに?」増岡が画面の覗き込んで言った。「『死神参上。残念ながら、たった今あなたのコンピュータはお亡くなりになりました。ご愁傷様』……だそうですよ」
「システム・クラッシャーですか・・・。これはもう、強制終了しても意味ないかも・・・」
 と、同じく画面を覗き込みながら葛西が言った。
「悪い冗談やね・・・」
 由利子は机に両肘をつき両手で顔を覆いながら力なく言った。その直後文字がはらはらと下に落ち、「キュゥ~ン」と嫌な音をさせて電源が切れた。
「アレク、その必要はなくなりました」
 葛西は、ギルフォードに告げた。
「え?」
「勝手に電源が落ちました」
「勝手に電源が落ちた?」
 ギルフォードは鸚鵡返しに聞いた。
「お悔やみ申し上げますだなも」
 ジュリアスはそういうとまたコーヒーをすすった。

 由利子たちは、パソコンから取り出したCD-Rを囲んでいた。
「このCD-R自体にウイルスらしきものが仕掛けられていたんですね」
 葛西が言った。
「ジュリーさんの機転ですぐにネットとの接続を切ったので、もしウイルスだったとしても拡散は防げたと思いますが、このパソコンはリカバリしないとだめでしょうね」
「どうして? 私のウイルス対策は万全だったはずよ。常に最新の状態にしていたもの。それなのに・・・」
「人間のウイルスでも新種に対しては、免疫もワクチンもありませんから簡単に感染します。それと同じですよ」
「じゃあ、このコンピューターウイルスも新種ってこと?」
「多分そうです。ウイルス対策ソフトの会社にデータがなければブロックの仕様がないでしょ?」
「連中はコンピューターウイルスまで作ってるっていうの?」
「葛西さん」
 増岡が横から口を出した。
「これは、ウイルスというより、データ流出を阻止するためのプログラムじゃないでしょうか。迂闊に開くとシステムが破壊され、CD-R自体のデータも破壊されるという。エクセルデータの文字化けもそのせいでは・・・」
「え? CD-Rまでが壊れてしまったと?」
 葛西が驚いて言った。
「いずれにしても、リカバリ後にもう一度見て確認しようって気にはならないな。心臓に悪いもん」
 由利子がため息をついて言った。
「こんなもの見なきゃ良かった。リカバリなんて1日仕事だわ」
「OSも古いし、買い替えたほうが早いんじゃないですか?」
 増岡が言った。由利子は、ジロリと彼の方を見て言った。
「公務員さんはお金持ちね。今、失業者にPC買い替えはキツイわ」
「最近は中古でもいいのが売ってますよ」
「どうせ買うなら新品を買うわよ!」
「まあ、落ち着いて」
 脳天気な増岡に由利子が切れ掛かったのを見て、富田林が急いで口を挟む。
「このCDは、うちのサイバー犯罪対策本部の専門家に解析してもらうしかないでしょう」
「そうですね」
 葛西が同意すると、由利子が含み笑いをしながら言った。
「結城ってヤツも、こんな不正プログラム付きのディスクを掴まされるなんて間抜けよね」
「結城本人が仕掛けたのではないと?」
 葛西は意外という顔をして聞き返した。
「多分ね。簡単に開けないようでは切り札の意味がないし、第一、それを知っていたらわざわざ人のパソコンを開いてデータの確認なんかしないでしょ。お互いに信用してなかったって感じね」
「そうか、そうですよね」
「ところで葛西君」
 由利子は改めて葛西の方を向いて言った。
「あなた、さっきどさくさに紛れて二回も『由利ちゃん』って言ったわよね」
「え? そ、そうでしたっけ」
 葛西は(しまった、気がついてたんだ)と思いながら、なんとか誤魔化してこの場を凌ごうとしたその時、葛西の携帯電話にまた着信が入った。
「あ、また電話だ。アレクからかな?」
 渡りに船と、葛西は急いでポケットから電話を出した。
「あ、やっぱりそうですよ。・・・はい、葛西です」
「ジュン、どうなりました?」
「はい。結局警察の方で専門家が調べる以外ないと」
「まあ、それはそうでしょうねぇ」
「そちらはどうですか?」
「ええ、僕は今からサヤさんを送っていきます」
「え? ジュリーさんは?」
「ジュリーは僕のところに泊めますから」
「ああ、そうなんですか」
 葛西は、紗弥さんの彼氏なのに変だなと思ったが、まあ、紗弥さんのお家の事情かなと勝手に納得した。
「で、写真を見たのはユリコと君とあと誰がいるんですか?」
「あ、あと、C署の刑事の富田林という者と・・・増岡・・・、あ、増岡さん、画像は見ました?」
 葛西は念のため増岡に確認した。
「いえ。僕が来た時はもう画像はほぼ判別できない状態でしたから・・・」 
「アレク、見たのは由利子さんと富田林刑事と僕の3人ですね。でも、最後の問題の画像をちゃんと見たのは由利子さんだけみたいです」
「ジュンは写真の顔を覚えていますか?」
「覚えてはいますが、自信がありません。富田林さん、覚えていますか?」
「へ? 何を?」
「CD-Rに記録されていた写真の人物ですよ」
「あ、ああ、それね。実はその後起こったことの衝撃がすごくて、よく覚えとらんっちゃんね」
 富田林は、あはははと空しく笑いながら言った。
”あははじゃねーだろ”
 ギルフォードはついボソリと自国語でつぶやいた。
「あ、すみません、聞こえました? そういうことで・・・」
 葛西は少し困り気味に言った。
「僕はうろ覚えだし、完璧に覚えているのは由利子さんだけみたいですね」
「マズイですね。あの写真の男たちがテロ組織の人間だったとしたら、顔を覚えている人物は彼らにとって脅威となるはずです。しかも、そのうちの一人は人間の顔の判別と記憶に優れたユリコですから」
「確かにかなりまずいです・・・よね」
「しかも、その中にラスボスクラスの最重要人物がいたとしたら・・・」
「あ、問題の画像の人物・・・!」
「もっと悪いことに、それはユリコしか見ていないんですよね」
「うわ、どうしよう・・・」
 葛西は由利子の方を見て戸惑ったように言った。由利子はパソコンの前で机にひじを突きながら、いじけモードで葛西の電話をかける姿を見ていたが、葛西の様子に気がついて言った。
「どうしたの、葛西君?」
 葛西は、今ギルフォードの言ったことを説明した。
「え? 見ちゃった・・・ってこと?」
「そうなりますね」
 葛西は腕組みをしながら眉を寄せて言った。
「とにかく、君らがここでデータを見たということは伏せておいたほうがいい」
 ギルフォードは言った。
「でないと危険ですよ。特にユリコは」
 葛西からそれを聞いた由利子は、頭を抱えて言った。
「うそっ、どうしよう。ちょっと待って・・・」
 由利子はしばらく目を瞑って沈黙した。数分後、ため息をついて言った。
「ああっ・・・、だめ! やっぱり忘れることなんて出来ない!!」
 セリフだけ聞くと三文恋愛小説のようだが、彼女にとっては深刻な事態である。しかし、その後、由利子は少し戸惑ったような表情をした。
「あれ?」
 そう言った後、また1分ほど目を閉じて考えていたが、目を開けるといっそう戸惑ったような眼をして言った。
「なんか変なの・・・! あの画像だけ添付されていた男、そいつの顔のイメージがはっきりしないのよ」
「ええ!?」
 と、ギルフォードと葛西が電話の向こうとこっちで同時に驚いて言った。声が半分裏返っていたので、ギルフォードにも聞こえたらしい。
「おかしいな、こんなこと初めて・・・。どういうこと?」
「覚えられなかったってことですか?」
 葛西が心配そうに尋ねた。
「いえ、覚えていないわけじゃないの。多分本人を見れば判ると思う。でも、イメージが全く固定されなくて説明が上手く出来ないのよ。顔は浮かぶんだけど、特徴を掴もうとするとイメージが急にぼやけるの。例えるなら・・・そうね、夢に出てきた現実にはいない人物の顔を良く思い出せないみたいな・・・。写真を見た時のとりとめの無い印象のせいだわ」
 戸惑いを深くする一方の由利子を気にしながら、葛西はギルフォードにその様子を伝えた。
「一癖も二癖もありそうな人物ですね。とにかくユリコがそいつを直接見ない限り、特定出来ないという事ですから、ますますマズイじゃないですか」
「そういうことになりますね。由利子さん、アレクが心配しているのは・・・」
 葛西は説明した。
「そんな・・・。だいたい、なんで私がこんなことに・・・。あの公園の事件以来、ろくなことが起こらないわ!」
 由利子はそうつぶやくと、ああ、と言いながら机に寄りかかり、そのまま右ひじを突いて掌で額を押さえながら髪をぐしゃっと掴み、眉間に深い皺を寄せ黙り込んでしまった。三人の刑事たちは声をかける勇気もなく黙ってそれを見ていた。
「ジュン、どうしたんですか」
 ギルフォードが様子を掴めずに心配して尋ねたが、葛西は「シッ、静かに」と言うしかなかった。数分の沈黙の後、由利子は地の底から湧くような声で言った。
「くそ~~~っ、結城のヤロー、いっそこの手で絞め殺してやりたい!!」
「お気持ちはよ~くわかりますっ!」
 葛西と富田林と増岡が同時に言った。
 

 その頃、別の場所でまた異変が起きようとしていた。
 あの、珠江を発見した時蟲に咬まれた川崎三郎は、風呂に入ろうとして足の包帯を外したのだが、今朝より発疹がまた少し大きくなり、さらに膿を持っていることに気がついた。しかも、いままで見た目の割りに傷みなど全くなかったのに、少しだけ痛みを感じるようになったのだ。このできものについては、妻にも話していなかった。これが出来た原因のことを考えると、恐ろしくてとても言い出せなかったのである。三郎は毎日少しずつ大きくなっていく発疹に漠然とした不安を感じていたが、その不安が今、ひしひしとリアルに迫ってくるのがわかった。
「あなた、どうされたとですか? 早くお風呂に入ってくださいな」
「あ? ああ、すまん。もうすぐ入るけん」
 三郎はそう答えると立ち上がった。その時、眼の奥に一瞬ズキンと痛みが走った。
「あれ?」
 三郎は驚いたが、痛みはすぐに収まったので特に気にも留めずに入浴の準備に取りかかった。
 

 ギルフォードは、紗弥を送ってようやく自宅にたどり着いた。
「へえ、ここがおみゃーさんの部屋だか?」
 ジュリアスが部屋の中を見回しながら珍しそうに言った。
「いい部屋に住んどるじゃにゃーか。日本の家はウサギ小屋とかよ~言われとったけど、なんの、立派なものだがや」
「まあ、ここら辺は東京なんかに比べるとずいぶん部屋代が安いですからね。そこそこの金額を出せばそれなりのフラット・・・日本ではマンションですが、に住めますから」
「マンションってのも大きく出たもんだて」
「まあ、なかなかいいセンスだと思いますよ。高級感だけはありますからね。名前も凝ってますよ。因みにここの名前は『メゾン・ド・シャルム』ですよ」
「フランス語かー。『魅力の家』って意味だがね。ステキな名前じゃにゃーか」
「本気で言ってるんですか。って、何で僕達二人なのにわざわざ日本語でしゃべってるんでしょうね」
「おれはバイリンガルだて、名古屋弁でも英語でも問題にゃ~けどな」
 ジュリアスはにっと笑って言った。
”君が英語の方がいいって言うんなら,こっちで話すけどね.久しぶりだね,アレックス”
”俺がこの国に来て以来だな.ずっと音沙汰なしだったから嫌われたのかと思ってたぜ”
”音沙汰無しだったのは君の方だろ.心配していたんだぞ”
 二人はそういった後、一瞬黙ってお互いを見たが、すぐにぶはっと笑った。ギルフォードが言った。
”サヤが’カレシ’としか言わないから,てっきり彼女のボーイフレンドかと思ってたよ”
”ちょっとしたサプライズだっただろう? サヤの提案だよ.でも研究室で会った時,君が全く驚かなかったからちょっとガッカリしたけどね”
”驚いたに決まってるだろ? でもあの時は緊急事態だったからね”
”サヤは充分驚いているって言ってたけど,ほんとだったんだ.相変らずややこしいヤツだな、君は”
 ジュリアスはクスクス笑いながら言った。ギルフォードはそんなジュリアスの肩をポンポンと軽く叩きながら言った。
”長旅で疲れただろ,早く風呂に入ってゆっくり寝ろよ”
”ああ、ありがとう.だけど,君も大変だったんだろ.先に入ったらどうだ?”
”じゃあ,一緒に入るか?”
 ジュリアスは一瞬考えたが、笑いながら言った。
”ごめんだね.日本のバスルームは狭そうだ”
”ビンゴ! 一人でぎゅうぎゅうだよ”
ギルフォードも笑って言った。
”じゃあちょっと待ってろ,バスローブを持ってきてやる”
 と言って背を向けたギルフォードにジュリアスが言った。
”おいおい,アレックス.久しぶりに会ったのにハグもキスもなしかい? もうすっかりシャイな日本人だな,君も”
 その言葉が呪文を解いたのか、ギルフォードは弾かれた様に振り返った。そして自制心をかなぐり捨てたようにジュリアスを激しく抱きしめて言った。
”馬鹿を言うな,会いたかった,本当に会いたかったんだぞ,ジュリー.話したいことも沢山あるんだ”
”僕もだよ.今夜は眠れそうにないな”
 ジュリアスは優しく笑ってギルフォードの背に腕をまわした。
”馬鹿野郎・・・”
 ギルフォードは囁くように言った。二人はしばらく抱き合ったままじっと佇んでいた。

 由利子は、荒れた部屋の真ん中でぼうっと座っていた。警官達はすでに部屋から引き上げていた。葛西もCD-Rを持って、富田林たちと一緒に本部に向かった。玄関の鍵は壊れたままなので、チェーンだけかけているという実に心細い状態であった。それで、戸口に見張りの警官を立ててくれたのだが、防犯上は心強いとはいえ、それはそれであまり気持ちのよいものではない。それに美葉の時のことを考えたら、100%の信頼を寄せることが出来なかった。
「とにかく、ベッド周辺だけでも片付けないと寝られそうもないな」
 由利子はため息交じりにつぶやくと、疲れた身体に鞭打って片付け作業に入った。

  前日に引き続き、怒涛の一日が終わろうとしていた。由利子にはこの二日間が異様に長く感じられた。だが、これからこの長い日々が続くのだろうという予感が、すでに由利子にはあった。由利子は窓を開けて外を見た。梅雨間近のすこし湿った風が入って来た。それでも夜風は心地よい。外はいつもどおりの夜景が広がっていた。ふっと不安になって、下の電信柱あたりを見た。例の男が立っていた場所だ。誰もいない。由利子はほっとした。しかし、よく見ると道の何カ所かに警官が立って警備をしていた。今日のところは安心して眠っていいみたいね、と由利子はすこしほっとした。空には月がぽっかりと浮かんでいた。
(美葉もどこかでこの月を見ているんだろうか・・・)
 由利子は思った。悲しくなって由利子は窓を閉め遮光カーテンを閉じ、そのままそこに体育座りで壁に寄りかかった。由利子は膝に腕を組んで顔を伏せた。彼女はそのまましばらくじっと動かなかった。しかし、その肩はかすかに震えていた。猫達のケージから由利子を呼ぶ声が、寂しく室内に響いた。

 (第二部 第3章侵蝕Ⅲ 終わり) 

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4.衝撃 (1)Pox ~ポックス~

20XX年6月15日(土)

 早朝6時頃、ギルフォードの寝室に携帯電話の着信音が響いた。
「う・・・ん・・・? こんな早い時間に誰かねー?」
ジュリアスはのそっと毛布から手を伸ばして、寝ぼけ眼(まなこ)でベッドサイドに置いてある電話を取った。
「ほい、ジュリアス・キングだがや」
「・・・? ・・・もしもし?」
ジュリアスの声を聞いて、電話の向こうの声は明らかに動揺していた。
”バカヤロ! それは俺の電話だ!”
ギルフォードは飛び起きて彼に背を向けて寝ているジュリアスにのしかかると、電話をひったくった。
「アレックス、重いがね!!」
ジュリアスが抗議したが、ギルフォードは意に介さずその体勢のまま急いで電話に出た。
「驚かせてすみません。ギルフォードです」
「お楽しみのところ、申し訳ないのだが・・・」
「え・・・?」
ギルフォードはギクッとしてジュリアスから飛びのいた。ジュリアスが驚いてふり返り、きょとんとしてギルフォードを見る。
「いや、一度言ってみたかったんだがね、図星だったのかね?」
電話の主は高柳だった。ギルフォードは朝からいきなり脱力感を覚えたが、とりあえず否定した。
「いいえ! 今は眠ってました」
「『今は』?」
「いえ、だから・・・」
「昨日中にやっつけてしまいたい仕事があるって言ったのは、そういうことだったのかね。ほ~お」
「急な来客で予定を変更したんです・・・ってあのね、僕のプライベートなんかどうでもいいでしょう。こんな早朝から何です? 何かあったんでしょ?」
ギルフォードの頭の中には多美山の顔が浮かんでいた。
「そうそう、今、連絡が入ったんだが、新たな感染者らしい男がこちらに搬送されているそうだ。それで、出来たら君にも来てもらいたいんだが・・・」
「感染者である可能性は高いのですか?」
ギルフォードは、多美山のことではなかったのでほっとした反面、新たな感染者発生の可能性に嫌な予感が彼の脳裏をよぎった。
「今朝方急に発熱したらしいんだが、それが、秋山珠江の遺体の第一発見者なんだ」
「タマエの時? じゃあ、一週間以上経っているじゃないですか」
「ああ、10日は経過している。しかし、感染の可能性を考えるのが当然だろう」
「もちろんです。わかりました。すぐに用意してそちらに向かいます」
「お疲れのところ、すまないね。じゃ」
「だから・・・!」
高柳は自分の用を告げるとさっさと電話を切ってしまった。
”食えねぇオヤジだ!”
ギルフォードは電話に向かって言い、ベッドから起きあがった。ふと横を見ると、ジュリアスが「くっくっくっ・・・」と、声を殺して笑っていた。ギルフォードはベッドから降りると、前かがみになってベッドに左手をつき、寝転がったまま笑うジュリアスの鼻面に右手の人差し指をつき付けて言った。
”このばかやろう! てめえが人の電話に出るから,話がややこしいことになったんじゃねぇか!!”
”ごめんよ.君んちに泊まっていたことをすっかり忘れててさ”
ジュリアスは毛布にくるまったまま笑いながら答えた。ギルフォードは立ち上がると腰に手を置き、すこし不機嫌そうに言った。
”昨夜のことを忘れただって?”
ジュリアスはそんなギルフォードを見て一瞬目を見開いたが、すぐにまたクスクス笑いながら答えた。
”しっかり覚えているさ.君は元気だった.おかげでよく眠れたよ”
”じゃあ,今日は1日寝てろ,大馬鹿野郎.俺は今から出かけるからな”
”君、昨日から人のことを馬鹿馬鹿ってさ、あまり馬鹿っていうなよ.体内の水が悪いものになるだろ?”
”1ナノメートルも信じていないことを,ニヤニヤ笑いながら言うんじゃねぇ!! だいたいどこでそんな’トンデモ’話を仕入れてきたんだよ”
”笑われたくないなら,せめてパンツくらいはけよ.目の前にそんなものがあったらさ,笑うしかないだろ? 変わってないなぁ”
ジュリアスは相変わらずクスクス笑いながら言った。ギルフォードは日常的に寝るときは素っ裸なので、そういうことに無頓着なのだが、改めて指摘されると流石に照れくさくなったらしい。少し顔を赤らめながらジュリアスに背を向けてベッドの端に座ると、振り向き様に言った。
”だいたいおまえは・・・”
しかし、彼は言いたいことを言えなかった。ジュリアスがすばやく毛布から這い出して両手でがっしりとギルフォードの顔を掴むと、そのまま彼の口を塞いだからだ。そして約一分経過・・・。ようやく自由になったギルフォードは引き続き何か言おうとしたが、それより先に、ジュリアスがベッドにおかっこ(正座)したような状態でにっこり笑って言った。
”愛しているよ,アレックス”
”お、おまえな・・・”
”ほらね,君は誰彼なく愛しているって言うくせに,自分が言われると戸惑うんだ”
ジュリアスはクスッと笑っていうと、戦意喪失したギルフォードを横目にベッドから飛び降りた。
”僕も行くよ.だって,兄さんから君の手助けをするように頼まれたんだからね”
”クリスから?”
”そうだよ”
ジュリアスはギルフォードの横に座りながら言った。
”近いうちにCDCから協力したいというオファーが来るはずだよ.だけど,クリスが君が心配だから行って様子を見て来いって言うからさ,とりあえず来てみたんだ.一週間の滞在だけどね”
”何だ、一週間か・・・、じゃなくて・・・”
ギルフォードは慌てて言い直した
”もう献体が届いたのか?”
”僕が国を出るときはまだだったけど,問題はその前に君が送ってきたウイルスさ,インフルエンザの”
”やはり,何かおかしかったのか?”
”これはCDC内でもまだ極秘事項らしいけど,ちょっとした騒ぎになっているらしいよ.クリスは,君から日本で出血熱らしい感染症が発生しているらしいと聞いて,なんとなく気になってお蔵入りしていたそのインフルエンザウイルスを調べてみたんだ”
”それで・・・?”
ギルフォードは、やっぱりお蔵入りしていたか、と思いつつ尋ねた。
”で,手始めに,どのウイルスの抗体に反応するか試してみた.そしたらどうなったと思う?”
”インフルエンザじゃなかったのか?”
”いや,間違いなくインフルエンザだった.A型のよくあるタイプさ.ところがもうひとつ,わずかだが別の抗体の反応があったんだ”
”何だって? で、それは?”
”デングウイルスさ”
”あり得ねぇ!!”ギルフォードが驚いて言った。”キマイラだったってのか?”
”多分ね,今解析中らしいけど・・・”
”おまえ,そんな大事なことは昨日のうちに言え!!”
”だってそんな雰囲気じゃなかったじゃん.研究室でだって,パソコンのウイルス騒ぎで大変だったし・・・.とにかく”
と、ジュリアスはギルフォードと自分を交互に見ながら言った。
”いつまでもこんな格好でうだうだしている場合じゃないな”
ジュリアスはニッと笑って続けた。
「ちゃっと服を着て出かけよまい」
”くそっ、調子が狂うぜ!!”
ギルフォードは頭を横にふりながら言った。

 由利子は7時過ぎに目を覚ました。猫たちのご飯クレクレ攻撃にあったからだ。このところ今までより1時間遅い7時起きが定着しつつある。これが8時起きにならないようにしなくっちゃ、と由利子は思った。しかし、起き上がって周囲を見回しため息をついた。昨夜は必要最低限しか片付けられなかったので、まだ部屋の大半は荒れたままだったし、さらに、昨夜は大量の捜査員が部屋に上がったので、いくら彼らが足カバーに手袋などの措置をしているとはいえ、あまり気持ちいいものではない。その上パソコンのリカバリもしなければならないのだ。
「今日は大ごとやね・・・」
由利子はつぶやいた。
「多美山さんに今日もお見舞いに行くって言っちゃったもんなあ・・・。でも」
由利子は昨日あのまま窓際で転寝をしてしまい、3時ごろ起きてざっとシャワーだけ浴びて寝たので、髪を洗いたくて仕方がなかった。
「とりあえず起きて考えようかね、にゃにゃたん春たん。まず、シャワーを浴びて髪を洗って・・・、あ、その前におまえたちのご飯だね」
そう猫達に話しかけると、よいしょと起き上がった。
「やだな。これじゃすっかりおばさんよね」
由利子は苦笑いをした。起きると猫たちもベッドから降りて足元をスリスリし始めた。由利子はその状態でキッチンへ行き、猫たちにご飯を与えた。彼女らがちゃんと食べるのを見届けると、シャワーを浴びようとタオルをもって脱衣カゴに入れながらふと思った。
(そういえば、紗弥さん彼氏が来ているって言ってたなあ。昨日はラブラブかあ。私とはえらい違いやね)
由利子はふうっとため息をついた。由利子は、実はそれがギルフォードの事だったのを知る由もない。タオルを持って来たものの、由利子はやはりその前に日課のジョギングに出ようと思い、用意して玄関に向かったが、ドアの鍵が壊れたままなのを思い出した。これでは物騒でジョギングどころではない。とにかく鍵の修理を呼ばねばどうしようもないということだ。由利子は試しにチェーンを外して玄関のドアを開けてみた。そこにはしっかりと警官が立ってくれていた。しかし、それをすっかり忘れていた由利子は一瞬驚いてしまった。
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
見張りの警官が由利子に気がついて敬礼をし、笑顔で言った。
「あ、おはようございます。おかげさまで安心して眠れました。ありがとうございます。あなたは大丈夫なんですか?」
「自分は6時ごろ交代しましたから大丈夫です」
(あ、交代したんだ。だから眠そうにないのね)
由利子は納得したが、このまま警官に立たれるのも申し訳ないし、何となく周囲にも気まずいと思って言った。
「あの、もう起きましたので、見張りは・・・」
「いえ、そうはいきません。少なくとも鍵の修理が終わるまでは、ここから引き上げるわけにはいきませんから」
生真面目そうな若い巡査は、そういうとまた見張りの体勢に戻った。
「はあ、ありがとうございます・・・」
由利子は仕方なくお礼を言うと室内に引っ込んだ。
(これは、さっさと鍵屋さんを呼ばないと、気になってシャワーも浴びれないな)
そう思った由利子は、ネットで鍵屋を検索しようとパソコンの前に立って思い出した。
「ああっ、リカバリしないと使えないんだった~~~~~」
朝から脱力した由利子はその場で座り込んだが、すぐに立ち上がった。
「イエローページで探そう・・・。ああ、不便だなあ・・・。ちくしょ~、結城のクソッタレめぇ、必ずこの私が見つけ出してやるからな!!」
由利子は朝から結城に悪態をつきながら、固定電話の方へ電話帳を取りに行った。

 その頃ギルフォードたちは、ガラス越しに新たな感染者と対面していた。

 結局彼らは8時過ぎて感染症対策センター内にたどり着いた。ジュリアスの立ち入りについての連絡が行き届いておらず、門前でたっぷり30分以上待たされたからである。
「こんなことなら、もうちょこっとゆっくりしてから来りゃえかったがね」
ようやく許可が下りて車が動き出すと、ジュリアスは助手席でブツブツ言った。
「30分もあれば、おみゃあと・・・あいた! 何をするだてか」
「Do you wanna kill me?」
「言うたかて頭を殴るこたぁにゃーがね」
「冗談じゃありませんよ。それでなくても僕は連日寝不足なんですから」
「なんと、つまらにゃあ、日本語にもどったんかね」
ギルフォードは、隣でブツブツいうジュリアスを無視して、センター内に車を走らせた。

「紹介しましょう」
高柳が三郎に言った。今回は高柳も重装備で隔離病室内に入っていた。
「あちらの背の高いほうが、アレクサンダー・ギルフォード、Q大で教授をしていますが、ここの顧問でもあります。それからその隣が、彼の友人でアメリカのH大で講師をされている、ジュリアス・キング先生です。両者とも優秀なウイルス学者ですし、日本語も堪能ですからご安心なさってください」
紹介が終わり二人が会釈をすると、三郎は、ベッドに横たわったまま、力なく挨拶をした。
「先生方、この方は川崎三郎さんです。秋山珠江さんのご近所に住んでおられ、彼女の遺体を発見された方の中のお一人です。当日、一度ここに来てお話を聞かせてもらいましたが、ギルフォード先生はお会いされていないですよね」
「ええ、僕は外せない用があったので来れませんでしたが、内容はお聞きしています。大量の蟲に遭遇されたとか・・・?」
「はい」
三郎は答えた。
「実はその時、そいつに咬まれまして・・・」
「なんですって? 何故それをおっしゃらなかったんですか?」
「すんません、怖かったとです。言うたら二度とここから出られんごと気がして・・・」
「あなたはそれがどんな危険なことかわかっていらっしゃらない!!」
ギルフォードは、静かだが厳しい口調で言った。
「ちょお待ってちょーよ、アレックス。普通の人にそれを責めるのは酷だて」
ジュリアスは、三郎が萎縮するのを見てフォローした。高柳はうんと頷いて言った。
「そうですね。無理からんことです。しかし、川崎さん、あなたの行動が奥さんをはじめ周囲にまで危険が及ぶことまで考えましたか?」
そう言われて三郎はしょげ返ってしまった。
「先生方」
高柳が言った。
「川崎さんが咬まれた患部をお見せしましょう。驚かれないように」
そういいながら、高柳は三郎の足元の毛布をめくって右足を出し、包帯を取ってその問題の場所を見せた。
「うっ!」
ギルフォードは思わず右手で口を覆ってうめいた。ジュリアスは目を見張ってガラス窓に顔を近づけ言った。
「なんと、どえりゃあことになっとりゃーすがね」
”これは・・・”
ギルフォードは英語で言いかけて言葉を飲み込んだが、ジュリアスがその続きを言った。
”まるでスモール・ポックスの発疹じゃないか!!” 
”そうです”と、高柳も英語で答えた。”非常に酷似しています.でも,今までの犠牲者を調べた限りでは痘瘡ウイルスは見つかっていないのです.おそらく川崎さんについても同じでしょう”
高柳の答えを聞いて、二人は顔を見合わせた。英語のわからない三郎は、驚く二人と高柳の顔を不安そうな表情を貼りつかせたまま、交互に見つめていた。

 川崎三郎との対面後、高柳はセンター長室に二人を招き、尋ねた。
「さて、君達はあれを見てどう思うかね?」
「非常に嫌なものを見ました」
ギルフォードが言った。
「何なんですか、あれは!」
「私に聞かれても困るが・・・」高柳は右手でアゴを撫でながら言った。「昨夜運びこまれた遺体にも、よく見たら顔と右手に似たような発疹が出来ていたんだ。まあ、そっちの方はだいぶ蟲に食われていたから、よ~く見ないとわからなかったけどね」
「蟲に・・・」そういうとギルフォードは嫌な顔をして黙り込んだ。嫌悪感がまざまざと現れた表情だった。黙ってしまったギルフォードに代わってジュリアスが聞いた。
「そりゃー、そのムシに咬まれた時特有の症状やってゆーことですか?」
「うむ、少なくとも今まで調べた遺体にはそのような発疹の形跡は無かったですからな」
「気になるのは、そいつがsmallpox(痘瘡=天然痘)の発疹にそっくりとゆーことですが」
「まあ、よく似てはいるが咬まれたあたりに部分的に出来ているだけで、さっき言ったように、今まで調べた結果にも痘瘡の可能性はまったくありませんでしたからね」
「だけどよ、で~ら嫌な感じがするんだがや」
ジュリアスは、腕を組みながら眉を寄せて言った。
「ところで」ジュリアスは続けた。「そのムシってにゃあほんとにローチ(ゴキブリ)だったんですか?」
「昨日、現場の警官が写真に収めたものがあるので、見たければお見せしますが・・・」
「おー、そりゃあ好都合だて見せてくれませんか? でも、アレックスには見せにゃーほうがええでしょう。トラウマに触れたらいけにゃーから」
それを聞いて、高柳は驚くとともに興味を持ったらしく少し身体を乗り出して言った。
「嫌いなことは知っていたんだが、トラウマがあったのか」
「まあ、そーゆーことです。ん~と、アレックスは・・・」
「ジュリー、待ってください!」
ギルフォードは、珍しく鋭い声でジュリアスを止めた。驚いてギルフォードの顔を見るジュリアスの肩をぽんと叩くと彼は言った。
「それは僕から説明します。子どもの頃父に叱られて地下室に閉じ込められた事があるんです。その時にたかられて以来、どうも・・・」
「アレックス、それってウェタの・・・」
ジュリアスは何か言おうとしたが、ギルフォードの顔を見て口をつぐんだ。高柳はその様子を見て、少しだけ眉を上げると言った。
「まあ、そういうことならギルフォード君は無理して見なくてもいいから。じゃあ、キング先生、写真をお見せしましょう」
高柳は応接セットの椅子から立ち上がると自分の机に行き抽斗(ひきだし)からファイルを持って戻ってきた。
「これです。犠牲になったホームレスの遺体写真も入っていますから、閲覧には気をつけてください」
高柳はファイルをジュリアスに手渡しながら言った。
「その心配はにゃーですよ。おれも医者の端くれですから」
ジュリアスはそういうと躊躇なくファイルを開いたが、その瞬間ウッという顔をした。
「こりゃー、でらムゴイ遺体だて。さすがにおでれ~たわ」
しかし、その後は心の準備が出来たせいか、ジュリアスは特に顔色を変えることなくファイルをめくった。
「う~ん、えらい写真ばっかだわ。こんな死に方はしたくにゃーもんだて・・・、おお、これだてね」
ジュリアスはそういうとページをめくる手を止めた。
「アップの写真がありゃーすが、比べるもんがにゃあて、これじゃ~大きさがわからんですね・・・っと、警官がムシを捕獲しようと狙っとる写真がありますね」
ジュリアスは、ファイルに顔を近づけた。
「こりゃ~でらでっけぇわ。4インチ(約10cm)近くはありそうだがね。こりゃ~さすがに気持ち悪ぃわさ。でも写真を見る限り外来の巨大種とは違ゃあみたいだて。なあ、アレックス、こりゃあ・・・」
と言いながら、ジュリアスがファイルから顔を上げてギルフォードの方を見ると、彼は青い顔をして反対側を向いていた。仕方がないのでジュリアスは高柳に向かって言った。
「こりゃ~、なんとしても現物を捕まえにゃあといけにゃあのではにゃーですか? 写真じゃあ病原体について調べようのあ~せんでしょ?」
「キング先生、確かにおっしゃるとおりです。しかし、連中はでかいくせにかなりすばしっこくて、なかなか捕まらんらしいのですよ」
「日本にはええもんがあるじゃにゃ~ですか。ローチホイホイとか言いましたかね」
「あの蟲はかなり大きいので、素通りしてしまう可能性がありますな。それでなくても最近のゴキブリには知恵がついて、なかなか引っかからないんですよ」
高柳からゴキブリという単語が出たので青い顔に一瞬嫌悪感をあらわにしたが、ギルフォードは二人の方を向いて言った。
「ネズミ用の大きいのがあるでしょう。そいつを仕掛けてみるのはどうですか?」
「なるほどね」高柳は言った。「確かにそれなら充分だろう。だが、ネズミ用にゴ・・・失礼、あの蟲が寄って来るかね」
「奴らは感染者の遺体の臭いに反応するんでしょ?」
ギルフォードはさらに顔をしかめながら言った。
「ならば、その臭いをつければいいんですよ。もちろん、臭いの元は人に感染しないように無毒化して」
「それを遺体のあった場所あたりに仕掛けるのか。なるほど、試してみる価値はありそうだな」
高柳はにやっと笑って言った。
「犠牲者のホームレスが発見された河川敷は、広範囲に立ち入り禁止になっとる筈だから、ちょうどいいな」
「おれにその捕獲をやらせてくれにゃあでしょうか」
「君が?」
高柳が聞いた。ジュリアスは自信満々に言った。
「おれも、ウイルスハンターの端くれですから、こういうことには慣れてますから」
「わかりました。知事に掛け合ってみましょう」
高柳は請合った。
「ありがとうございます」
「じゃあ、助手と護衛を兼ねて葛西刑事にサポートをしてもらえるようお願いてみよう。もう彼はテロ対策本部の仕事をしているんだろ?」
「ええ。まだ正式には移動していなくて籍はK署にあるようですが」
「じゃあ、なおさら適役だな」
葛西と聞いて、ジュリアスが言った。
「葛西さんならまったくの素人じゃないらしいですから、期待できますね。感謝します、センター長!」
ジュリアスは高柳に向かって丁寧に礼を言ったあと、ギルフォードの方を見て言った。
「実を言うとよ、おれ、葛西さんと一緒に仕事をしてみたかったんだてよ」
彼はそう言いながら、軽くウィンクをした。ギルフォードは少し困ったような顔をしたが、そのまま黙っていた。しかし、蟲のことが堪えているのかいつものアルカイックスマイルが浮かばない。それを見ながら高柳がジュリアスに言った。
「彼にとって、あの蟲はよっぽどの弱点のようですな」
高柳は、ギルフォードのさっきの話程度でそこまでトラウマになるのかと疑問に思ったが、深く追求することは避けた。
「まあ、誰でも色々ありゃーすがね」
ジュリアスが、肩をすくめて言った。
「ところで、ローチの話に戻って申し訳にゃーけどな、アレックス」
彼はそのまま質問を続けた。
「念のために聞くがよ、あれはああいうでっきゃぁのが日本におるんかね、それとも普通のローチから生まれたんかね」
ギルフォードは、また眉間にしわを寄せながら言った。
「あのような大きさのGが・・・」
「G? ああ、頭文字かね・・・ってすまんね、話の腰を折ってしもうて」
「・・・。・・・それがこの国に生息しているとは・・・、少なくとも九州本島に昔から生息しているとは思えませんし、ジュリーの言う限りは外来種でもないようです。可能性としては、ウイルスが原因の突然変異・・・」
「ウイルス進化説かね。だがよ、あれはトンデモに近い説やて思ぉとったがね」
「そうですね、自然界では起こりにくいと思います。しかし、このウイルスが人為的に操作されている可能性を考えると、その可能性も捨てきれないでしょう。実際、信じられないサイズのG・・・が存在しているのですから」
「人為的にだって?」
高柳が驚いて聞き返した。
「はい。まだはっきりとは言えないので申し訳ないですが、ジュリーからの情報でその可能性が出てきたのです」
ギルフォードが答えると、高柳は腕組みをしながら言った。
「うむ、ますますSFもどきな話になってきたな」
「不確かなことだて、絶対に口外しないでちょうだゃあよ」
と、ジュリアスが釘を刺した。
「もちろんそうしますがね」高柳は、ジュリアスの方を鋭い目で見ながら言った。「確実なことがわかり次第教えてくださいよ。アメリカの国益優先ってヤツだけは勘弁して欲しいですからな」
「おれもアレックスもそう思ーとるで、心配せんでええですよ」
「ところでこのファイルですが・・・」
ギルフォードが口を挟んだ。
「高柳先生、ひょっとして僕が帰ってから作られたんですか?」
「ああ。夜中に鑑識からメールで写真が送られて来てね。ついでに運ばれた遺体も調べておこうと思って安置室に行ったら、つい興に入ってしまってね。山口君と春野君も手伝ってくれたんだが、遅くなったので彼女らは帰して、僕だけ残ったんだ。そして、気がついたら夜が・・・明けてしまって・・・」
そこで、高柳は大きなあくびをした。
「寝てないことを思い出したら急に眠くなったよ」高柳はテレ笑いをすると続けた。「・・・それで仮眠を取ろうと思ったら、緊急電話が入って感染者が運ばれて来るというだろ。それで急いで君に電話したのさ、ギルフォード君」
「たしか、その前も多美山さんの件で徹夜してますよね? いったいいつ寝ているんです、先生?」
「ああ、空いた時間を見繕って適当に寝てるよ。おかげで半分吸血鬼みたいな生活・・・だ・・・」
高柳は、そこでまたあくびをすると言った。
「そういうことで、私は君らが羨ましいよ。多少はぐっすりと眠れただろうからね」
高柳の皮肉とも冷やかしとも取れる発言に、ギルフォードとジュリアスは顔を見合わせた。

 高柳が仮眠をとりに行ったあと、残された二人は例の自販機の前のソファで、缶コーヒーとペットボトルの紅茶を飲みながら休憩をしていた。
「僕はこれから講義がありますので大学に帰りますが、君はどうしますか、ジュリー?」
「そうだてねえ。ここに残っていてもええんなら、居りてぇんだてが、ええかねー?」
「僕らは日本での資格がありませんから、医療行為をすることは出来ないのは知っていますね」
「わかっとるがね」
「君がみんなの邪魔をしないでいい子にしているのなら」
「了解。ところで、例の篠崎由利子さんだがよ、今日もここに来るんだてか?」
「シノハラですよ。来ると言ってましたが、昨日の今日ですからねえ、どうでしょうか」
「えー、つまらにゃあ。彼女にも是非会いたいんだてが。おりゃ~ね、おみゃーさんが気に入った人にゃあ、みんな会いたいんだなも。」
「まったく、誰から聞いたんですか、そんなこと」
「紗弥からに決まっとるがや」
「まったくもお・・・」
ギルフォードはため息をつきながら、上半身を伏せ、左ひざに左ひじを立て頬杖をついた。
 

 葛西は、ひとり早朝から事件のあったA公園周辺で聞き込みをしていた。ホームレスとウイルスの関連が気になったためである。その甲斐あって、二つのことが浮かび上がってきた。
 ひとつは、葛西が公園について質問すると大抵「あなたも?」という答えが返ってくることだった。聞くと、若い女性から質問されたという。
(誰か、それも、若い女性がこの件に興味を持っている・・・?)
葛西は嫌な予感がした。あの、極美とかいう元グラドルのことが頭をよぎったからだ。あの女はやはり食わせ者だったのか・・・、と葛西は思った。
 もうひとつは、あの公園でホームレスと会社員らしき男が言い争っているのを目撃したという人を見つけたことだ。
 土曜休みでいつもより遅く犬を散歩させているというその男性は、樫本伊佐夫という40歳半ばくらいの会社員で、通勤時にその公園の傍を通っている人だった。以前は公園内を突っ切ったほうが近いので、いつも公園を通って通勤していたらしい。現在封鎖されているので非常に不便だと彼はぼやいた。
「えっと、どんな状況だったんですか?」
葛西が質問すると、彼はえ~っと、と少しの間考えて言った。
「もう何ヶ月か経ちますんで、よく覚えとらんとですが、その日は残業で9時過ぎにあの公園を通ったんです。そしたら公園の中ほどで、女性を連れた会社員風の男がホームレスの男と激しく言い争ってました。・・・いや違う、激しく言ってたのは会社員の方で、ホームレスの方は終始落ち着いて受け答えしてましたね。なんか常識が逆転したような、異様な感じがしたので覚えてます。私は関わろうごとなかったんで、そのままそ知らぬ顔でそこを通り抜けましたが、少し歩いたところでいきなり歓声が上がったので驚いて振り返りました」
「歓声が?」
「はい。振り返ると、連れの女性が男を引っ張るようにして公園を出ようとしていました。言い合いで仲間が勝ったので、歓声が上がったのでしょう。ホームレスたちは、その後二人を盛んにからかっていました」
「何か、特徴ある名前とか単語が出てませんでしたか? 思い出されたら何でもいいので教えてください」
「そうですねえ・・・。う~~~んと・・・・」
葛西に促されて、樫本はしばらく考えていたが、ぽんと手を叩いて言った。
「そうそう、『やすやん、いいぞ!』と、みんな口々に言ってました。それで、ああ、あの落ち着いたホームレスの人は『やすやん』と呼ばれているのか、って」
「やすやん、ですか」
葛西は繰り返した。
(やすやん・・・安やん・・・。多分それは安田さんのことだ!)
彼は確信した。念のため、樫本に結城の写真を見せてみることにした。
「女性連れの男は、この人じゃないですか?」
「うーん、もうちょっとよく見せてください」
樫本は首をかしげながら写真をじっと見て言った。
「何分、夜だったし、街灯があったとはいえ会社員の方は僕から見て逆光だったので、顔はよくわからんかったですもんなあ。この人だったような、違うような・・・」
「そうですか・・・」
葛西は少しがっかりして言った。
「そろそろ行ってもよかでしょうか?」樫本が聞いた。「犬が散歩の続きがしたくて、そわそわし始めとぉとですよ」
見ると、彼の愛犬がお座りをしたり立ったりしながら、熱い眼をして飼い主を見ていた。
「あらら、申し訳ありません。ええっと、良かったら連絡先を教えてほしいのですけれど」
「ああ、いいですよ」
樫本は、快く住所と携帯電話の番号を教えると、犬に引っ張られながら去って行った。
「点が線に繋がったみたいだ」葛西はつぶやいた。
「結城の狙いが何だったかわかったような気がする・・・」
葛西はその場に立ったまま今聞いたことのメモを整理しながら、少しだけ核心に近づいたような手ごたえを感じていた。  

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