3.侵蝕Ⅲ (7)息子ふたり
「サイトカイン・ストーム?」
由利子が鸚鵡返しに訊いた。
「簡単に言うと、免疫系の暴走です。強毒性の新型インフルエンザが恐れられているのは、これが起こるからなんです。病原体に感染した場合、体の免疫機構を活性化させるためにサイトカインと言う物質が生産されます。感染症に罹ると、だいたい高熱を出すのはこのためです。ところが、これが過剰生産され、内臓に深刻な打撃を与えて機能不全に陥らせ、結果、死に至らしめることがあります。それがサイトカイン・ストームです。強力なウイルスに感染した場合等に、体が過剰反応をおこすからです」
ギルフォードが答えると、横から高柳が口を挟んだ。
「しかし、それは免疫機能が活発な若い人に多く起こるものなんだ。多美山さんのような50代の人に有り得ないことではないが、ひょっとすると、ほかに何かそれを誘発させる原因があるのかもしれない」
「マサユキ君のお祖母さんが、彼より早く亡くなったのも、おそらくこのせいで劇症化したためでしょう」
由利子は説明を聞いているうちに、だんだん恐ろしくなってきた。
「死に至るって、そんな・・・。治療法はないんですか?」
「そのために、三原君が居るんだ」
「血液浄化療法とかいうやつですか?」
と、知事が尋ねた。
「一か八か、やってみるしかないだろう」
高柳は、病室の方を見ながら依然厳しい表情で言った。由利子は無意識のうちにギルフォードに近づき、彼の腕をぎゅっと掴んだ。ギルフォードの腕は、かすかに震えていた。
葛西は多美山の容体悪化を知らぬまま、C川の遺体発見現場で謎の昆虫と対峙していた。葛西たちは、蟲たちに見据えられたような形になって、一瞬金縛りのような状態になった。しかし、葛西はすぐに我に返って叫んだ。
「渡辺さん、居ました! 例の蟲です! 捕獲して下さい!」
葛西の叫び声で、捕虫網を持った鑑識の警官が走ってきた。
「どっ、どこに!?」
「あ、あそこです。橋の隙間に・・・、あれ?」
葛西は、蟲のいた場所を指し示したが、既にそこには何の姿もなかった。
「しまった! 逃げられた!」
「一体何処に・・・」
その時、「ぶわん」という音がして、彼らの傍を何かが飛んで行った。
「うわぁあっ!! こっちにも居た!!」
「何だ、これは」
「こなくそっ!」
渡辺が咄嗟に捕獲を試みたが、あと少しのところで取り逃がしてしまった。
「ちくしょう!」
渡辺は悔しがって、網を地面にたたきつけた。葛西は若干引きつった顔をして言った。
「見ましたか?」
「何ですか、あれは? カブトムシほどの大きさはありましたよ」
「まるで南方産並みのでかさやったぞ。一体何が起こっとぉとか!?」
「僕にもまだ何がなんだか・・・」
葛西には、そう答えるしかなかった。実際、当のテロリスト以外、誰にも判るはずはない。
「まだそこら辺に潜んでいるかもしれん。探そう。お~い、防護服チームから何人か来てくれんね」
渡辺は周囲に声をかけると、捕虫網で草むらをつつきながら葛西に向かって言った。
「あれが、もしウイルスを媒介するものだったら大変なことだ」
「そうですね。単なる外来種だったらいいのですが」
葛西は、無意識に眉間にしわを寄せながら言った。
「ナベさん、何ッスか?」
渡辺の呼びかけに三人の若い警官が走ってきた。
「今から昆虫採集だ。ホシはカブトムシサイズの、多分・・・ゴキブリだ」
「それって、でかすぎでしょう」
「うへぇ」
「じょ、冗談ですよね?」
「俺がこんな時に冗談を言うか。四の五の言わずにさっさと探せ。それから下川、おまえはカメラを持っとるから、出てきた虫をなんとか撮影してくれ。いいな」
「了解!」
三人は同時に答えると、いっせいに草むらを探しはじめた。その傍らで、被害者男性の遺体の回収が始まった。
遺体とその周辺に消毒液を充分にかけると、遺体袋に入れしっかりと口を縛る。その上からまた消毒液をたっぷりとかけ、さらにもう一度遺体袋に入れ、口を縛る。それをさらに感染防止用のシートにくるみ、担架に乗せて遺体搬送車まで運ぶのだ。葛西たちは呼ばれてそちらの作業に加わり、その遺体を間近で見ざるを得ない状況になってしまった。最初、秋山雅之の祖母、珠江のことを聞いた時からいずれはそういうものに対峙するときが来る様な予感はしていたが、思ったより早くその時が来てしまった。
遺体は、人がこのようになるものかと慄然とするような姿だった。耳・鼻・唇・頬と柔らかい場所はことごとく食いつくされ、口からは骸骨のように歯が露出していた。大きく開いた口の中は血まみれで、舌まで食われたらしく血溜まり中にの中にそれらしい痕跡を残して消失していた。目は蟲が眼窩に入り込んだために、両目共に眼球が飛び出し、かろうじて視神経に繋がって顔からぶら下がっていた。その眼球も何箇所も食い破られており、ゲル状の硝子体が漏れ出していびつな形に変形しており、ぽっかりと空いた眼窩には、どす黒いタール状の血が溜まっていた。体中の表面には食い散らされた跡が無数にあり、表皮は殆ど消失、両手足の指先は爪の一部を残して骨が露出していた。さらに、6月の気温で遺体の腐敗も進み、すでにかなりの異臭を放っており、防護用マスクをしていなければ、相当な悪臭が鼻を突いたことだろう。葛西は吐きそうになるのを必死でこらえていた。その様子を見て、横の警官が話しかけてきた。
「葛西さん、こういう死体は初めてなんですか」
「え? ええ、まあ」
「顔色が青を通り越して土気色をしとりますよ。大丈夫ですか」
「大丈夫です。慣れなきゃ」
そういいながら葛西は、こみ上げてきそうな熱いものを元の位置に納めた。
「遺体の様子から、死後1・2日って感じですけど、それでこんな惨いのは、おれも初めてですよ」
がっしり型だが背のあまり高くない、眉の太いその警官は、何の因果かこういう悲惨な死体にばかり遭遇するという。
「まあ、2・3回ほど吐けば慣れますって」
彼は、わははと笑いながら言った。葛西は、遺体のビジュアルを出来るだけ思い浮かべないようにしながら考えた。
(いったいこの人は、何匹の虫から食われたんだろう。それに、見ただけでアレクが卒倒しそうなあの巨大ゴキは、どこから来たのだろう・・・)
遺体の搬送後、葛西は食害の「犯人」の方について考察することにした。そもそも、損傷の激しい遺体は写真ですらよく見ることが出来ない初心者なのに、今日はいきなり生でたっぷりと見てしまった。手には防護服の手袋ごしとはいえ、感触がまだ残っている。さっさと忘れないと、今日の夕食は『10秒メシ』で摂ることになってしまいそうだった。しかし、この場にいる限りは、そうはいかない。葛西が「昆虫採集」組の成果はどうだろうと被害者の住居の方へ向かおうとしたその時、いきなりそちらが騒がしくなった。
「いたッ! でかかぞ!!」
「何だァ、これは!!」
それを聞いた葛西は、反射的に駆けだした。
「ど、どこですか? 捕獲は・・・」
「シッ! 今が捕獲の最中ですから」
葛西は下川に制止され、指さされた方向を見た。5m程先で、渡辺が捕虫網を構えてじりじりと蟲に近寄っていた。その蟲は、葛西の距離からでも判るほど大きかった。
「タチの悪い冗談みたいだ。まるでドッキリカメラだな」
葛西はつぶやいた。蟲はじっとして動かなかった。しかし、それは竦んでいるというより、むしろ捕獲しようとしている人間に挑戦しているようにすら見えた。渡辺は、捕獲に充分な距離まで近づくと、捕虫網をすばやく振り上げた。しかし、それと同時に蟲は翅を広げ震わせた。渡辺は、飛び立つ前に捕獲しようと急いで網を振り下ろしたが、それより若干早く蟲は飛び立った。渡辺は、とっさに叫んだ。
「しもかわっ! 写真を早くっ!!」
「わかってます!」
下川は渡辺に言われるまでもなく、すでにカメラを構えて惜しげもなくシャッターを押していた。
(そうか、デジカメだから枚数を気にしなくていいんだ。便利になったもんだな)
葛西は、この緊迫した状況の中で妙に冷静に思ったが、次の瞬間あわててのけぞった。飛び立った蟲が自分の方に向かってきたからだ。すれすれで蟲から逃れ、葛西は興奮気味に言った。
「びっくりした! あいつ、顔に向かって飛んできましたよ」
「あ~あ、避けなかったら捕獲できたかもしれんとに」
「冗談はよしてくださいよ」
そういいながら葛西は苦笑して渡辺の顔を見たが、その顔が本気なのに気がついて笑いが貼りついてしまった。蟲はそのまま飛んで十数メートル先の草むらに消えていった。
「くそお!」
渡辺は悔しがったが仕方がない。防護服のせいで動作が若干緩慢になっているからだ。視界もあまりよろしくない。いつもとは違う状況に、渡辺は苛立っていた。その横で、葛西が居心地悪そうに立っていたが、下川が気の毒そうに言った。
「誰だって、あんなモノが飛んできたら避けますって。気にしないで下さい。渡辺さん真面目だから」
「おい、下川! 写真のほうはどうだ?」
渡辺に言われて、あわてて下川は撮った写真を確認しながら言った。
「はい。大きいとはいえ昆虫なのであまり鮮明なのはありませんが、いくつか全身像が撮れています」
「見せてみろ。葛西刑事も見たほうがいいやろう。これからこれが君の敵になるかも知れんとやからな」
渡辺に言われて、葛西と下川は三人で頭を寄せ合うように写真を見た。写真には捕虫網をもって奮闘する渡辺と、その横をすり抜けて飛ぶ蟲が写っていた。夕暮れ時であまり参考になりそうな写真は少なく、ひどいのになるとほぼスカイフィッシュ状態だったが、一枚だけ飛翔する蟲の全身が一部画面からはみ出ているものの、比較的鮮明に写っているものがあった。三人はそれを見た瞬間、一様にものすごく嫌な顔をした。葛西が眉間の皺をさらに深く寄せながら言った。
「気持ち悪いですけど、これを見る限りでかいだけのクロゴキブリですね」
「ひょっとして、人を食ってあんなに成長したんでしょうか」
「嫌なことを言うなよ。まあ、これだけ写っていれば、専門家の鑑定もしやすいやろ。しかし、このあたり一帯に殺虫剤を散布すべきかもしれんな」
「それはこの蟲の行動半径が不明ですから、無意味だと思います」葛西は渡辺に反論した。「下手をすると生態系に深刻な悪影響を与えます。せっかく自然に配慮した護岸整備をしているのに、台無しになってしまいます。それに付近の住民にも悪影響があるでしょう。この小屋付近の消毒だけに留めるべきです」
「まあ、それは上が決めることやろうけん、我々はそれに従うまでさ。さあ、俺達はもうしばらく採集を続けるからな。みんな、昆虫採集再開だ!」
渡辺たちは再び草むらと格闘をはじめ、葛西は被害者の住居に一人立って中を確認した。ドア付近の倒壊で埃まみれになってはいるが、中は比較的きちんと片付いていて、沢山の新聞はきちんとまとめられ、古本が手製のダンボール本棚にきちんと分類して並べられていた。灯油ランプにCDラジカセもある。流石にパソコンはなかったが、ここの住人が見かけによらず高い知性を持っていたことが伺えた。葛西は遺体のあったところの人型の傍にしゃがむと、それをじっと見つめた。
(いったいこの人は、これまでどんな人生で、どういう経緯でホームレスにまで身を持ち崩してしまったのだろう)
葛西は犠牲者のことを思うと心が痛んだ。この転落の賢者は、この粗末な城の中でひっそりと暮らし、誰も看取る者もなく、しかも苦悶のうちに息を引き取った。さらにその死後、夥しい蟲共に食まれ人間としての尊厳も奪われ、見るも無残な遺体と化してしまった。あの状態では、顔もろくにわからない。おそらく安田さんと違って、彼は何者かもわからないまま、荼毘に付され無縁仏として葬られるだろう。彼の生きた証であるこの住居や持ち物も、撤収後全て焼却処分されるのだ。それは、一人の人間の抹殺に他ならなかった。やりきれない気持ちでもう一度住居のなかを確認していると、葛西が心の中でずっと抱いていた疑問が浮上した。
『何故、まずホームレス達が狙われたのか』
もちろん、無差別にウイルス攻撃した結果、たまたまホームレスにのみ感染に成功した可能性も拭いきれないが、人の行動には、必ず何がしかの動機があるものだと葛西は確信していた。
(もう一度原点に戻って、あの公園のホームレスたちに関わった人間を洗い出してみるべきじゃないだろうか)
葛西はそう結論して威勢よく立ち上がったが、すぐにため息をついてつぶやいた。
「はあ、それにしても暑い。暑すぎるよ。早く脱いでしまいたい、こんなもの!」
その時、何か大声で争う声が聞こえてきた。葛西は驚いて小屋から飛び出した。見ると、河川敷で警官達と若者達が小競り合いになっている。葛西は急いでそっちに走ったが、防護服を着ていることを思い出して途中で足を止めた。それで、葛西は比較的近くに居る警官に大声で尋ねた。
「何があったんですか?」
「あの3人を隔離するために移送しようとしたら、彼らがいきなり抗議をしてきたんです。3人には充分な説明をしているといっても、聞く耳を持たず・・・」
その結果、この状態になったらしい。若者達と警官達の間に鈴木係長が立って、若者達への説得を試みているようだった。鈴木は根気強く説得を続けている。それでもしばらくの間、時折怒号が飛び交うほど緊迫していたが、ようやく彼らは鈴木の説得に応じたようだった。どうやら、リーダー格の青年を上手く落としたようだった。
(多美さんがいたら、もっと早く説得できたかもしれないな)
葛西はそう思うと、あの事件が残念でならなかった。鈴木はリーダーの青年と挨拶を交わすと、ほっとした面持ちでその場から離れたが、葛西の姿を見つけると、手を振りながら大声で言った。
「葛西君! 多美山さんの容態が良くないそうだ。ここはいいから、隔離の人たちを送る連中といっしょにセンターまで行きなさい」
「多美さんが? そんな・・・」
葛西は呆然として立ち竦んだ。
多美山は、ふっと目を覚ました。目の前には、心配して多美山の顔を覗き込む園山看護士の顔があった。
「多美山さんが気付かれました!」
園山看護士が、嬉しそうに言った。ほぉおっと三原医師がため息をついてベッドの側に置いた椅子に座った。
「私は・・・いったいどうなって、いたんでしょう」
多美山は、不思議そうな顔をして尋ねた。依然、呼吸は苦しそうで酸素マスクは外せない状態だったが、意識が戻っただけでも幸運だった。三原が多美山の質問に答えた。
「ウイルス感染から免疫系の暴走が起きているんです。とりあえず処置が早かったので、なんとか小康状態に落ち着きましたが、予断は許せない状態です」
「血液浄化療法というのを試しているところです。ミハラ先生は優秀な透析医ですから」
窓の向こうでギルフォードが言った。彼の姿を見て、多美山はほっとした表情で言った。
「ギルフォード先生、ご無事やったとですね・・・。良かった・・・」
「僕は不死身ですよ」
ギルフォードは、にっこりと笑いながら言った。それを聞いて、多美山は安心したように言った。
「ああ、いつもの先生だ・・・。もう少しで取り返しのつかないことをするところでした。本当に良かったあ・・・」
「僕はもう大丈夫ですから・・・。もう気になさらないで下さい」
「はい。ありがとうございます。・・・知事は、帰られたのですか?」
「ええ。あなたを心配してギリギリの時間までおられたのですが、スケジュールの関係で止む無く帰られたんですよ」
「せっかく来られたのに、却って心配をかけてしまって、申し訳、なかったです。・・・しかし、この赤い・・・光景はずっと続くとでしょうか・・・」
「それはまだなんとも・・・」
「そうですか・・・。この赤さ・・・、思い出しましたぁ。私が子どもの頃・・・夏休みも終わる頃の、ことでした。台風が近づいていて、私はなんとなく・・・ワクワクして、朝早く起きたんです。そしたら、窓の外が異様に赤くて、私は、火事かと思って・・・驚いて、外に様子を見に行きました・・・。外に出た私は、驚きました。それは火事ではなくて、朝焼けやったとです。空には台風の・・・厚い雲が、かかってましたが・・・、朝日の昇っている・・・あたりの雲が途切れて・・・、山際から真っ赤な太陽が・・・顔を出しとりました。その太陽の光が、あたり一帯を赤く・・・染めていたとです。空も山も海も町並みも・・・。そして私自身でさえ・・・。あまりの不気味さに、私は怖くなって、家に戻ると布団に飛び込み、頭からタオルケットを被って・・・震えていました。あの時の、地獄の業火の中で悪魔が踊っているような、不気味な朝焼けの色・・・この赤さは、その時の色に似とります・・・」
多美山は、そう言いながら再び遠くを見るような目をした。園山看護士はそんな多美山を心配して言った。
「多美山さん、あまり無理をしてお話なさらないほうが・・・」
「いえ、大丈夫です・・・。話せるうちに、話しておきたかとです」
それを聞いて、みんなは顔を見合わせた。ギルフォードの横に座って話を聞いていた由利子は、目を見開いて両手で口を覆った。
「ところで・・・、高柳先生は・・・?」
と、多美山が尋ねた。
「今から、新たに隔離される人が三人来ますから、山口先生と、それの準備をしているところです」
三原が答えた。多美山は驚いて言った。
「また、感染者が・・・?」
「はい」今度はギルフォードが答えた。「河川敷でホームレスがまた遺体で見つかりました。遺体発見者の状況から、隔離したほうがいいと判断されたのです」
「そうですか・・・。やはり、状況は徐々に深刻になっとぉとですな・・・」
多美山は、そう言うとふうっとため息をついて続けた。
「三原先生・・・。ギルフォード先生と・・・もう少し・・・、お話をしたかとですが、よかですか?」
「そうですね。血漿交換にはまだ時間がかかりますから、退屈でしょう。いいでしょう。但し、お体に負担をかけないように、園山さんの指示には従ってくださいね」
三原の許可を得て、多美山は改めてギルフォードの方を向いて言った。
「先生、あの・・・」
「何でしょう?」
「篠原さんから、聞きましたが、先生が、海の歌にワルツが多いと・・・」
「ええ、日本の唱歌には結構あると思いました。僕はワルツが大好きなので」
「私は、さっき、意識を失っている時、夢を・・・見ました。娘と妻が死んだ、時の夢です。娘の時も、妻の時も、私の頭から、何故か離れずに、ずっと繰り返し繰り返し、響いていた歌が・・・あったのを、思い出したとです」
「ワルツなんですか?」
「ええ・・・。浜千鳥という唱歌です・・・。子ども達に・・・子守唄代わりに、よく・・・歌っとったとですが・・・、ああ、すんません・・・、何でか今、歌詞が思い出せんとです」
「ああ、僕、知っていますよ。間違いなくワルツですね。えっと、♪青い月夜の 浜辺には 親を探して 鳴く鳥が♪・・・これでしょ?」
「そう・・・その歌です。・・・先生、いい声ですなあ・・・」
「おだてても何も出ませんよ」
ギルフォードは少し、はにかみながら言った。
「ばってん・・・、何でこの歌が、頭から離れんやったとか・・・わからんとです」
「長調の曲なのに、何故かもの悲しい歌です。お二人との思い出が、歌に投影されていたからかもしれませんね」
「ああ、そう・・・かもしれません・・・」
多美山はそう答えると、しばらく黙ってぼんやりと天井を見つめた。
「タミヤマさん」ギルフォードは静かに言った。
「ホントは歌の話をしたかったワケじゃないでしょ?」
「いえ、そうやなかとですが・・・」
そこまで言うと、多美山はまた黙ってしまったが、すぐに何か決心した様子でギルフォードの方を向くと言った。
「先生、教えてください・・・。私の生き延びる・・・可能性は、もう・・・ほとんど、なかとでしょう?」
多美山からあまりにもまっすぐな質問を受けて、ギルフォードは一瞬戸惑った。三原と園山もいっせいにギルフォードの顔を見た。ギルフォードも訴えるような目で二人を見た。三原は深く頷いた。
「家族が来るのも・・・、そのためや・・・なかですか?」
多美山は、さらに畳み掛けるように尋ねた。ギルフォードは、下を向いて両手で顔を覆いながら言った。
「それを・・・、僕に言わせるのですか・・・」
その声はくぐもり、病室とステーションに重い空気が流れた。
「ああ、すんません」多美山が慌てて言った。「先生を、困らせるつもり・・・やなかったと、です。私は、ただお願いが、あっただけなんです」
「お願い?」
「はい。生きる・・・可能性が、あるのなら、今後のためにも、私で、治療を試して・・・ください。・・・ばってん、・・・もし、絶望的に・・・なった、時は・・・」
多美山はここで一旦言葉を区切り、一回深呼吸をして続けた。
「延命は、一切・・・しないで下さい。そのまま、逝かせてください・・・」
由利子は、とうとういたたまれなくなって立ち上がり、ギルフォードが隔離されていた時に彼女が座っていた席に戻り座った。両目から涙があふれ、床を濡らした。
「意識を、失ったままに、なる前に、お願いしておきたかった・・・とです。先生、辛いことを、言わせようとして・・・すまんかった・・・です」
多美山はそう言うと、かすかに微笑んでギルフォードを見た。
「判りました、タミヤマさん。延命拒否のご意思、確かにお受けしました」
ギルフォードは、真摯な表情で言った。その時、30歳前半くらいの男が、スタッフステーションに飛び込むように入ってきた。
「た、多美山です。父さ・・・いえ、父は」
男はハアハア喘ぎながら尋ねた。スタッフの女性が彼の傍に近づくと、右手でギルフォードの居るほうを指して言った。
「あちらです。あの外国人の方がいる方へ行ってください」
多美山の息子は、入って来た時の勢いとはうって変わり、おそるおそる指示された窓の方に近寄った。件の外国人の男が振り返ると、にっこり笑って彼を迎えた。
「タミヤマさんの息子さんですね。どうぞこちらへ。今は落ち着いておられますよ」
ギルフォードは、いつもの笑顔で多美山の息子を招いた。
「落ち着いて・・・。ああ、よかった。意識不明になったという連絡があったので、もう駄目かと・・・」
息子は、ギルフォードの報告を聞くと、こんどは足早に近づいてきた。しかし、機械につながれた父親の深刻な姿を見ると、愕然として言った。
「父さん・・!! どうして・・・・」
「おお、幸雄か」多美山は、息子を見ると申し訳なさそうに、しかし、嬉しそうに言った。「心配させてすまんなあ」
「あんたはいっつもそうだ。自分や家族はそっちのけで・・・、とうとう自分までこんな・・・」
「それが、俺の仕事やけん・・な。・・・全く、後悔していないと言うと・・・ウソになるばってんが・・・」
「あんた、馬鹿だよ」
そう言いながら、幸雄の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「そうやろうなあ・・・。それよりおまえ、ちゃんと挨拶したとか」
「あっ・・・」幸雄は、無礼に気がつくと、急いで皆に挨拶をした。
「すみません、みなさん。私は多美山の息子で幸雄と申します。父がお世話になっております」
「Q大のギルフォードです。僕の方こそお世話になってますよ。病室の方にいるのは、医師のミハラ先生と看護士のソノヤマさんです。彼らのおかげで、タミヤマさんの意識が戻ったのですよ」
「あ・・・、みなさん、ありがとうございます」
幸雄は深々と頭を下げて感謝をした。病室の二人もそれに倣って礼をしていた。
「で、父の容態は?」
「今は小康状態ですが、予断を許されない状態です」
三原が答えた。
「ことによると、人工呼吸器をつけることになるかもしれません。あとで、院長から説明があると思います。・・・それより、久しぶりに会われたのでしょう。少しお話をしてあげてください」
それを受けて、ギルフォードが立ち上がりながら言った。
「じゃあ、僕は少し席を外しましょう。ここに腰掛けてゆっくりお話してくださいね」
「ありがとうございます」
幸雄は、一礼するとギルフォードの空けた椅子に座った。そして、父親の方をじっと見ながら言った。
「父さん・・・。痩せたね」
「幸雄、おまえは・・・しばらく見ない間に、ずいぶんと、恰幅が良く・・・なったな」
「イヤだな、父さん」
幸雄は、痛いところを突かれ苦笑いをしながら言った。ギルフォードは二人の様子を見ながら、そっとその場を離れた。
「アレク、そろそろ私帰らなきゃ」
由利子が言った。
「ここにずっと居ても、お役に立てそうにないし・・・」
「そうですか。しかし、困りましたね。僕はまだ帰れそうにありません。新たな隔離者が来るのを待たなければならなくなりました」
「大丈夫です。バスと電車で帰れますよ」
「いえ、危険です。昨日の今日ですし、送るという約束ですから・・・。とはいえ、サヤさんも今日は午後から休んでいるし、困ったな・・・」
「サヤさん、お休みなんですか。いつもアレクと一緒に行動していると思ってたんですが、昨日といい、そういうわけでもないんですね」
「まあ、あくまで秘書ですから、プライベートまで拘束できません。アメリカからボーイ・フレンドが来ているんですよ」
「彼氏? うわ、羨ましい。今日はラブラブかあ」
「あ、なんとなく騒がしくなりましたね。どうやら来たようです。ユリコ、もうちょっと待っていてくれませんか」
「ええ、出来るだけ早くね」
由利子が答え、ギルフォードがステーションから出ようとドアに向かったところで、先にドアが開いて葛西が飛び込んできた。
「おや、こんどはジュンですか」
ギルフォードが言った。
「アレク、多美さんの容態が悪化したって・・・」
「ええ。でも、今は落ち着いておられますよ。今、息子さんが来られて話をされているところです」
「なんだあ、良かったぁ~。鈴木係長から聞いたときは、心臓が止まるかと思うくらい、ドキッとしましたけど」
「ただし、ジュン、いいですか。容体悪化は免疫機能が暴走を始めたからです。これが何を意味するかわかりますね?」
「え・・・? それじゃあ・・・。すみません、アレク」
そう言うや、葛西は多美山の方へ駆け出していた。
「多美さん、大丈夫ですか?」
多美山は葛西の姿を見ると、厳しい表情で言った。
「ジュンペイか。仕事はどうした?」
「係長の許可をもらって来たんですが」
「俺は大丈夫だ。俺のことはいいから、おまえは、仕事に戻れ。まだまだ、することが・・・残っとるやろう」
「でも、多美さん・・・」
「いいか、おまえの仕事は、これから重要になる。これからは、職務を優先するんだ。いいな!」
「でも、多美さん」
「いいから行け!!」
多美山から怒鳴られて、葛西は力なく多美山の病室の前から離れた。
「父さん、ちょっとごめん」
幸雄は急いで立ち上がると、葛西の後を追った。
「えっと、君、待って!」
葛西は呼ばれて振り向いた。
「あの、はじめまして。私は多美山の息子で幸雄といいます」
「あ、失礼しました。僕は葛西純平といいます。お父さんにはお世話になってます」
「すみません。うちの父、たまにああいうところがありますんで・・・」
「大丈夫です。僕、しょっちゅう多美山さんに怒られているんで慣れっこですよ」
「そういってくださると、助かります」
幸雄はほっとした表情で言った。
「今日はお父さんとじっくりお話してください。じゃあ、僕はこれで」
と、葛西はにっこりと笑いながら言うと、幸雄に背を向けた。ギルフォードは、彼らの様子を見ていたが、葛西が幸雄から離れたのを確認すると、声をかけた。
「ジュン、チョット待って。これからどうするのですか?」
「あ、アレク。せっかくここまで来たんですが、僕はこれからK署に戻ります。それから、ちょっと気になることを調べたいと思っています」
「そうですか。じゃあ、帰るついでにユリコを送ってもらえますか?」
「いいですけど、自分の車で来てないので、バスと電車ですけど」
「それでいいですよ。実は、僕がお送りするつもりだったんですが、いつになるかわからないので」
「そっか、昨日あんなことがあってますからね。判りました。僕が責任をもってお送りしますよ」
「ちゃんと戸口までお送りしてくださいね。デモ、うちの中に上がり込んじゃダメですよ」
ギルフォードがウインクをしながら言うと、葛西は頭をかきながら言った。
「アレクってば、やだなあ」
「ユリコ、ジュンと一緒に帰ってください。彼がボディガードになってくれるそうです」
「葛西君が? なんか頼りなさそうだなあ」
ギルフォードの提案に、由利子はちょっとだけ不服そうに言った。
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