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3.侵蝕Ⅲ (4)悪夢再び

「なかなか楽しそうな一日でしたな」
由利子の話を聞き終えて、多美山は笑顔で言った。
「時間があまりなくて、ジュンペイからは詳しい内容は聞けませんでしたが、あいつもとても楽しかったと言うとりました」
「ええ、とても。・・・そうだ、病気が治ったら多美山さんも一緒に行きましょうよ。今度はもう少し遠出して・・・」
「そうですなあ・・・」
「いっそ、秘書の紗弥さんや美葉・・・も誘って、一緒に温泉にでも行きましょうか」
「ははは、そりゃあ綺麗どころが揃って、よかでしょうなあ」
多美山は、楽しそうに笑って言ったが、急に真面目な顔になって言った。
「時に篠原さん、ジュンペイのことはどげん思ぉとられますか」
「どげんもこげんも、お会いしてからまだ10日かそこらですので何とも・・・」
「そうですか。お話を聞いていると、けっこういい雰囲気になっとったように思えたんですが・・・」
多美山は少しがっかりして言った。
「ばってん、ジュンペイはあなたを結構気に入っとるようでしてね。あなたのことを話す時は、実に幸せそうな顔をしよりますんで・・・」
「はあ・・・」
「まあ、けしかけたとは実は私なんですが、こりゃあ、瓢箪から駒かな、と、思うとったとですが・・・」
「そりゃあまあ、確かに嫌いじゃあないし、たまに可愛いと思うこともありますが・・・、って、いえ、その・・・だからって特に好きと言うわけでは・・・」
由利子は、口を滑らせて少し焦った。それを見て多美山は安心したように言った。
「嫌いなわけじゃぁなかとですな」
「そっ、それよりも」由利子は、照れくさくなって焦って話題を変えた。「お話し忘れていましたが、海に行った時、アレク・・・ギルフォード先生が、こんなことを言ってたんですよ」
「先生が?」
「はい。日本の海の歌にはワルツが多いと」
「ほう、そうですか。ギルフォード先生が」
多美山は感心して言った。
「ええ。確かに『海』とか『港』とか思い出して歌ってみたら、ワルツなんですよね」
「なるほど、そういえばそうですな。波の打ち寄せるゆったり感がワルツ的なのかもしれませんなあ」
「それで、つらつらといくつかそういう3拍子の海の曲を思い出してみたんですが、『浜辺の歌』の2番がどうしても思い出せなくて・・・」
「ああ、それならこうですよ。♪ゆうべ浜辺を もとおれば 昔の人ぞ しのばるる 寄する波よ 返す波よ 月の色も 星の影(かげ)も」
多美山は、無骨な見かけによらず優しい低い声で繊細に歌った。由利子は感心して言った。
「ああそうです。思い出しました! でも多美山さん、歌が上手いですねえ・・・」
「いえいえ、お粗末様でした。この歌は、死んだ妻が好きな歌でしてね・・・」
「奥さん、亡くなられたんですか・・・」
「はい。ガンやったんですが、気付くのが遅れて・・・病院に行った時はもう手がつけられなくなっとったとです。それなのに私は、その時大きな事件を抱えとってろくに見舞いにも行ってやれんでした。時たま見舞いに行くと、いつも寂しそうに窓の外を見ていました。その姿は今でも思い出します。海辺にある病院で、窓から綺麗な浜辺がよく見えたとです。ある日見舞いに行くと、気分が良かったのか窓際に座って、この歌を歌ってました・・・」
「そんなことが・・・」
「この歌は2番までしか歌われんですが、3番があっとです。♪疾風(はやち)たちまち波を吹き 赤裳(あかも)のすそぞ ぬれひじし 病みし我はすでにいえて 浜辺の真砂(まさご) まなごいまは・・・」
「昔の歌だから、歌詞が難しいですね」
「そうですな。妻も意味はようわかっとらんやったと思います。今考えると、『病みし我は、すでに癒えて』という歌詞が羨ましかったのかも知れんです・・・」
「・・・」
由利子は何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
「結局、死に目にも会えんでした。あん時は息子にずいぶんと責められましたなあ・・・。当然っちゃあ、当然ですが。でも、妻は自分の為に被害者をおろそかにするな、仕事を優先しろと言うてくれましたんで・・・。根っからの警官の妻でした。ばってん・・・」
多美山はここで少し間を空けて言った。
「実際、自分がこうやって病気になってみると、あの時の妻の気持ちがようわかります。・・・心細いもんですなあ」
「すみません。なんか辛いことを思い出させてしまったみたいで・・・」
由利子は、軽い気持ちで聞いた歌に悲しい思い出があったと言うことを知り、話題を振ったことを後悔した。
「いえ、実はその前にインフルエンザに罹りましてな、さすがに5日間ほど自宅で寝込んでしまいまして、その時に痛感したとです」
「え? それって5月にK市で流行った?」
「そうです」
「それ、私もやったんですよ。きつかったです。私は一週間会社を休みましたよ」
「そうやったとですか。うちはやもめの一人暮らしなんで、ジュンペイや他の同僚も様子を見に来てくれたんですが、やはり大半を寝たきりで一人で過ごすとはちょっと辛かったですな」
「私もそんな感じでした。同僚が来てくれて・・・。でも、感染る病気だから安易に人は呼べないですから、辛いですよね。普通なら家族に来てもらうんだけど」
「家族・・・ですか。今は息子しかおらんです。それも、東京に住んどるんで、なかなか・・・。娘が生きていれば、あれでも・・・来てくれた、かもしれんですが・・・」
「娘さんも亡くなられたんですか?」
「はい。まだ、私が若か頃です。娘は・・・交通事故やったです。そん時も・・・私は仕事で―――――...」
多美山はそこで言葉に詰まった。由利子は、かける言葉を失っていた。何を言っても嘘くさくなりそうだからだ。今まで二人の会話を黙って聞いていた園山看護士が、とうとう口を挟んだ。
「多美山さん、篠原さん、そろそろこの辺で・・・」
「あ、すみません。楽しかったんで、つい長話を・・・」
由利子は恐縮して言った。
「わたしゃあ・・・、まだ構わんです、けど・・・」
多美山は言ったが、園山はそれを退けた。
「ダメですよ。もう1時間以上お話されてますでしょう? また熱が上がってるみたいじゃないですか」
そう言いながら園山は、リクライニングさせたベッドをさっさと元に戻しはじめた。
「多美山さん、良かったらまた明日も来ますから・・・。今日はもうゆっくりお休み下さい。それに、後からアレクや・・・それに葛西さんも来られるかもしれないでしょ、その時お話される体力は残しておかなくっちゃあ」
と、由利子も多美山に休むことを薦めた。
「そう・・・ですか・・・。じゃあ、しば らく 休むことに、しまっしょう。篠原さん、私も、楽しかった・・・ですよ」
そういうと、多美山はベッドに横たわり、ふうっとため息をついた。
「やはり、きつかったんじゃありませんか?」
由利子は、心配そうに訊いた。多美山は笑顔で答えた。
「まあ・・・、ちっとは――・・・。ばってん、久しぶりに、女性と楽しく・・・語らいました・・・な」
「そう言ってくださると嬉しいです。なんか最後の方、暗い話になっちゃってすみません。じゃ、ゆっくりお休みくださいね」
「はい。それでは少し・・・お休みさせて、いただきまっしょうか・・・」
多美山は、布団に身体を埋めると目を閉じた。園山が掛け布団の少し乱れたすそあたりを整えていた。由利子は黙ってそれを眺めていた。今は病気の為にやつれ気味だが、本当は実直で辛抱強くて頑強な刑事さんなんだろうなと思った。と、急に多美山が目を開けて由利子をじっと見て言った。
「篠原さん・・・、私に何かあったら、ジュンペイば、よろしく頼みます・・・・・」
「多美山さん、そんな気の弱いこと言わないでください」
「たのみ、ます・・・ね・・・」
それだけ言うと、また眼を閉じた。
「多美山さん、あの・・・」
由利子は立ち上がってガラスにギリギリまで近寄ったが、そこで無情にも窓は元の曇りガラスへと瞬時に変わってしまった。由利子はがっくりと椅子に腰掛けた。視界がじわっとぼやけていった。多美山の容態が急激に悪化したことが由利子にもわかった。由利子はしばらく座ったまま、下を向いてぼんやりと床を見つめていた。
 多美山の入院当初から傍にいた園山看護士も、会話中の多美山の変化からなにか不吉なものを感じていた。
(今までと、様子が違う)
園山は直感した。急いでインターフォンで内線電話をかけ、他のスタッフと二言三言話すと電話を切り、多美山の様子を伺った。多美山はもう寝息を立てていた。園山はそれを確認すると軽く頷き、急いで病室を出ると、通路にあるインターフォンでセンター長室に居る高柳と連絡を取った。

「園山君か。多美山さんに何かあったのか?」
高柳は、内線電話に出るとすぐに問うた。
「はい。ついさっきまで、篠原さんとお話になってたんですが、急に様子が変わったように思われて・・・」
「どんな風なのかね?」
「何か、会話が急に緩慢になって・・・」
「お疲れになっただけじゃないのか?」
「始めはそう思ったのですが、なんか違う気がして・・・。上手く説明できないのですが、急に知的レベルが落ちたというか、劣化したというか・・・」
「うむ、ギルフォード先生の話や葛西刑事のレポートにあったような状態だろうか。ところで、君は廊下のインターフォンでかけているようだが、何故病室からかけなかったのかね?」
「患者に容態についての話を聞かせるわけにはいきません。寝ているようでも眼をつぶっているだけかもしれませんし」
「しかし、多美山さんの様子は見ていたまえ。私は今からスタッフと相談してみよう」
「お願いします」
「ギルフォード先生は、まだ西原兄妹の部屋に居るはずだ。防護服を着用しているはずだから、至急連絡してきてもらいなさい」
「はい。では」
園山は高柳との回線を切ると、西原兄弟の居る部屋に内線をかけなおした。

 園山が廊下で連絡をとっている間に多美山は急に目を開け、何かに驚いたように飛び起きた。続けて周りを見回し、その後自分の両手を見た。
「おおお・・・」
多美山はうなると、両手で頭を押さえた。しかし、すぐに吐き気が襲ってきたらしく、片手で口を覆ってよろよろとバスルームに向かった。

内線電話を切りながら、ギルフォードは祐一たちに言った。
「緊急の用件が入りました。僕は急いで行かねばなりません」
「え~、先生、行くとぉ? つまんない」
香菜は不満そうだ。入って来たときとは雲泥の対応である。祐一はそんな妹をたしなめた。
「香菜、先生は遊びでここにいるわけじゃないんだよ。わがままを言うたらいかんやろ」
「また来ますよ、カナちゃん。ユウイチ君、じゃあね」
その言葉を残しつつ、ギルフォードはあっという間に姿を消した。
「ほら香奈、勉強を続けるぞ」
「え~~~。普通の勉強って面白くないもん。アレク先生のお話の方がいいよお」
「だ~か~ら~、わがまま言うなってば。1週間の欠席だぞ。学校に戻ってから授業に遅れたら大変やろ」
「は~~~い」
そういうと、香菜は素直に教科書を読み始めた。 

 園山は、連絡を終えると急いで多美山の病室に戻りドアに手をかけた。その時、部屋の中でガチャンという、何かが壊れる音がした。園山は驚いて部屋に飛び込んだ。しかし部屋には誰もいなかった。一瞬狐につままれたような表情になった園山だが、すぐに今聞こえるガチャガチャという音がバスルームであることに気がついた。
「多美山さん、何があったんですか?」
園山はドアをノックして尋ねた。しかし、返事がない。嫌な予感がして、園山はドアを開けた。
「多美山さん!! 何してるんですか!!」
園山は、半ば悲鳴のような声で叫んだ。

 多美山と話した後、由利子は椅子に座ったまま考えていた。
(ひょっとして、私が疲れさせたからやろうか・・・)
(でも、奥さんの話になるまで、全然普通やったから・・・。ああ、歌のことなんか聞かなきゃあ良かった)
そんな時、高柳がスタッフステーションに戻ってきて、スタッフ達と話始めた。
「ずっと様子を見ていた園山君がああ言うんだ。異変がおきたのは間違いないだろう。私が直接行ってみるから君たちは・・・」
高柳が言うとスタッフの三原が止めた。
「ダメです、先生。あなたにはこれからずっとここの指揮を執ってもらわないといけませんから、万一のことがあったら大変です。僕が行きます」
「三原先生の言うとおりですわ、高柳先生」
山口が同意する。高柳は頷いて言った。
「わかった、三原君、行ってくれ」
高柳の言葉が終わらないうちに、三原は駆け出していた。
「山口君、交代要員の二人もまだ早いが緊急に出てくるように伝えてくれないか?」
その時、多美山の部屋のモニターからガチャンと言う音が聞こえた。
「春野君、窓を『開けて』!」
高柳が叫んだ。すぐに春野看護士は切り替えスイッチを入れた。すぐに窓が透明になった。由利子も急いで室内に目をやった。が、誰もいない。
「え?」
由利子は驚いたが、すぐに病室に園山が入ってきた。園山は、一瞬躊躇したように見えたが、すぐにバスルームに向かうとノックして何か言い、すぐにドアを開けた。園山の叫ぶような声がスピーカーから響いてきた。由利子は、目の前でおきていることを見て、目を疑った。周りを見ると、スタッフ全員が窓に張り付くように中の光景を見ていた。

 ギルフォードが多美山の部屋に急いでいると、遠くで何か割れるような音がした。嫌な予感がして、ギルフォードは全力で走り、病室に飛び込んだ。実際防護服を着て全力で走ることはかなり苦しい。ギルフォードは部屋に飛び込んだものの、しばらく息が上がって動けなかった。しかし、顔を上げて何がおこっているのかを確認し、想像もしていなかった展開に息を呑んだ。多美山が、包帯で覆われた右手に何かガラスのようなものを持って暴れており、園山が後ろから羽交い絞めにして、多美山のしようとしている行動を必死で阻止していた。園山は、一見中背で痩せ気味だが、職業柄見かけよりかなり筋肉質で力が強かった。園山は、ギルフォードを確認すると言った。
「ギルフォード先生!! すみません、ちょっと目を離した隙にこんなことになってしまって・・・」
「先生、後生やから、死なせてくれんですか」
多美山は、ギルフォードの姿を見ると、半ば泣き声で言った。園山は、何とか多美山を落ち着かせようとして言った。
「死んじゃダメです!! 多美山さん、どうか、落ち着いてください。お願いですから、手に持ったガラスを捨ててください」
「いったい、何が起こったのです?」
ギルフォードは、そう言いながら、今は凶器となったガラスの出所を探した。それは開け放された、バスルームの中を見ると一目瞭然だった。
(”バスルームの鏡か!”)
ギルフォードは、驚愕した。まさか、そんなことまで『させる』なんて・・・! 
「タミヤマさん、どうなさったのです?」
ギルフォードは、勤めて落ち着くように自分に言い聞かせながら言った。
「あなたは自殺を考えるような方じゃなかったはずです」
「先生・・・、さっきから、周囲が赤く見えるごと、なっとぉとです。とうとう、私も発症してしもうて・・・」
「タミヤマさん、あなたらしくないです。一緒に病気と闘うって言ったじゃないですか。一体どうして・・・」
「病気が怖かとじゃありません。いつか、誰かに襲い掛かりそうで、それが、怖かとです。見舞いに来た、ジュンペイや、由利子さんを、傷つけるかもしれんとです」
「あなたにそんなことは、僕たちがさせませんから・・・!」
園山が、一所懸命に多美山を止めながらも平静を努めて言った。
「だから、落ち着いてベッドに戻りましょう。ね、多美山さん」
「そうですよ、タミヤマさん。さあ、僕にそれを渡してください」
そう言いながら、優しく笑ってギルフォードは手を差し伸べた。しかし、予想に反して多美山はそれを拒んだ。
「近づかんで下さい、先生!」
ギルフォードが手を差し伸べたと同時に、多美山はガラスを持った手を振り回した。それは、一瞬だった。信じられない出来事に、ギルフォード本人はもとより、誰もが声を上げることすら出来なかった。多美山の持った鏡の破片は、その鋭い断面でギルフォードの防護服の手袋を突き破り、さらに多美山の包帯のない掌の一部の皮膚も破り、血が飛び散った。ギルフォードの防護服にも飛び散った血があちこちに赤黒い花を咲かせた。
「ああっ! ギルフォード先生!!
園山が叫んだ。
「だっ大丈夫ですか!?」
スピーカーからも高柳の声が響いた。
「大丈夫か? ギルフォード君!?」
「大丈夫、じゃ・・・なさそうです・・・」
ギルフォードは、後退りをして病室の壁にどっともたれかかった。それを見た高柳は、怒鳴った。
「何をしている! 急いでそこを出て血を洗い流せ! そして傷の有無を確認しろ!」
しかし彼はそこを動こうとせず、壁にもたれ小刻みに震えながら右手を見た。やはり、裂けた手袋にも血が飛び散っている。
「Oh, fuckin' damnit...! (くそ!やっちまった)」
ギルフォードはつぶやくと、力なく壁にもたれかかったまま床に座り込んだ。スピーカーから高柳の声が再度響いた。
「ギルフォード君! 早くそこを出て傷を確認したまえ! 急げ!!」
その時、遅れて三原が病室に飛び込んできた。彼は、状況を見て一瞬唖然としたが、すぐに我に返って言った。
「ギルフォード先生、しっかりして! ここは僕に任せて、急いで傷の確認をしてください! 早く!!」
「ありがとう、ミハラさん」
三原の声で自分を取り戻したギルフォードは、すぐに立ち上がって病室から出て行った。多美山は、自分のしでかしたことに驚いて、呆然として言った。
「お・・・俺は、なんちいうこつば、してしもうたとか・・・」
多美山は、へなへなと床にへたり込んだ。
「多美山さん、さあ、もういいでしょ。それを渡してください」
園山は、多美山の前にしゃがむと言い、さっきの光景を目にしながら恐れることなく多美山に手を差し伸べた。多美山は、今度は素直にガラス片を園山に渡した。
「先生方、すみません、すみません。私も何でこんなことをやってしもうたんか判らんとです」
多美山は、泣きそうな顔をして何度も謝った。
「ギルフォード先生は大丈夫でしょうか・・・」
三原は、そんな多美山の背をさすりながら言った。
「あの人ならきっと大丈夫です。だから、傷の手当をして、ガラスの破片がついていたらいけないので着替えて、少し休みましょう」
「はい」
多美山は素直に答えた。園山はふと気になって尋ねた。
「多美山さん、ところで、まだ視界が赤く見えますか?」
「はい・・・。まるで、夕焼けか朝焼けの真っ只中にいるごたります・・・」
多美山は、熱に浮かされた声で答えた。

 由利子はスタッフステーションで、一部始終を目撃していた。由利子は目の前で起きていることが、にわかに信じ難かった。さっきまであんなに温厚にしていた多美山が、まるで別人のようになって暴れていた。
「多美山さん、やめて! 自分を取り戻して!!」
由利子はガラスの向こうに向けて叫んだが、マイクを通していないので病室に届くはずがなかった。こちら側では緊急事態の勃発に、高柳がてきぱきとスタッフに指示をしていた。しかし、由利子は窓から病室を見ているしかなかった。
 最初に多美山を羽交い絞めにした園山がバスルームから姿を現した。多美山は手にガラス片を持っている。すぐにギルフォードが飛び込んで来て、2・3秒ほど動かなかったが、すぐに多美山に向かって説得を始めた。しかし、ギルフォードが多美山に向けて手を差し出した途端、多美山はギルフォードに向かって凶器を持った手を振り下ろした。
「きゃあ、アレク!! うそっ!!」
由利子はガラスに張り付いて叫んだ。それを聞きつけて高柳が病室を確認し、急いで指示をだした。しかし、ギルフォードは相当うろたえているらしく、高柳の指示に気がついていないのか、防護服のせいで聞こえないのか、そのまま床に座り込んでしまった。由利子は、彼が例の虫以外であんなに狼狽するなんて思ってもいなかった。
「アレク! しっかりして!! 高柳先生の言うことを聞いて!」
由利子は、ガラスを叩きながら叫んだ。聞こえないのがわかっていても、声を上げずにはいられなかった。その時、三原が病室に駆け込んできた。三原に言われて、ギルフォードはようやく病室から出て行った。由利子は取りあえずほっとして椅子に座り込んだ。しかし、彼はすでに感染の危険に曝されている。予断は許されない状態だった。由利子は、何かに祈るように両手を組んで目をつぶった。

 ギルフォードは病室を飛び出すと、隔離病室のあるホットゾーン(危険区域)からの出口に急いだ。まず、第一のドアを開け、消毒槽に入りさらに上から消毒液のシャワーを浴びる。その後、グレーゾーンの部屋に移り、防護服や、その下に着ていたもの全てを脱いで、消毒ボックスに放り込まねばならない。ギルフォードは、逸る思いで消毒室を通り、グレーゾーンに入ると、急いで防護服を手袋ごと脱ぎボックスに投げ入れた。その後、防護服の下につけていた手袋を外そうと恐る恐る右手を確認した。やはり、こっちの手袋まで切れていた。ギルフォードは右手の手袋を外すため、左手を右手首に持って行き、手袋の端を掴んだ。しかし、ギルフォードは無意識に手から顔を背けた。今まで関わった、さまざまな出血熱の患者の姿が脳裏をよぎったからだ。ギルフォードは思わず神に祈った。
 

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3.侵蝕Ⅲ (5)トラップ

 ギルフォードは手袋を取る手を止め、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。今更じたばたしても仕方がない。もし、傷が出来ていてそこからウイルスが侵入していたなら、とっくに血流に乗って体中を駆け巡っているだろう。血液は平均して1分ほどで体内を一周するのだから。深呼吸のおかげか、ギルフォードはだいぶ落ち着きを取り戻した。まだ心臓の鼓動が判る程は緊張しているが、それなりに落ち着いて、まだ手袋をつけたままの右手をよく観察した。ラテックスの薄い手袋の人差し指と中指の付け根より1cmほど下に3mmほどの傷があった。しかし、よく見るとその傷は手袋自体を突き破ってない様に思われた。血液が付着している様子もない。ギルフォードはゆっくりと手袋をとった。両手袋を消毒BOX横の廃棄BOXに投げ捨て、急いで手洗いに走り、消毒液で手を念入りに洗った。その後、ゆっくりと右手を目の前に持ってきて該当部分をじっと見た。数秒後、ギルフォードは上を向いて目をつぶった。口からため息が漏れ、そのまま床にへたっと座り込んだ。・・・ギルフォードの手は傷ついていなかった。文字通り髪の毛一本の差、間一髪で命拾いしたのである。
 ギルフォードは、すぐに立ち上がると着ている物一切を廃棄BOXに脱ぎ捨て、そのまま次のシャワー室に駆け込んだ。それからすぐに熱いシャワーを頭から浴びた。一時絶望的な状況に追い込まれたが、ギリギリで危機を脱した。もし神が本当に存在するならば、まだソレはこの俺に生きろと言っているらしい・・・。
そう思った途端、無意識に口元が少し歪んだ。
「くっ・・・くくく・・」
ギルフォードの口から自嘲的な笑いが漏れた。最初泣き声とも思えるような笑いがいつしか哄笑に変わり、土砂降りの雨のようなシャワーを浴びながら、彼はヒステリックに笑い続けた。衝動的な笑いが収まると、ギルフォードはシャワー室の壁に両手をつき、がっくりと下を向いた。
”よかった・・・”
少し間を置いて、彼の口から弱弱しい言葉が漏れた。
”イヤだ・・・、あの時のように死ぬ思いは・・・。シンイチ、君と約束したのに・・・、本当は怖いんだ、俺は・・・。無様・・・だな・・・”
激しいシャワーの音に紛れて、嗚咽する声がかすかに聞こえた。ギルフォードはそのまましばらく動かなかった。
 

 真樹村極美は、彼女が拠点とするホテルの中にある喫茶店で考え事をしていた。彼女はどん詰まっていた。
 例の事件について取材していたが、いまいち情報が集まらない。疫病に関しても、ホームレスから雅之に、そして、雅之から祖母と母へというルートで感染したというところで、経路がぷっつり切れてしまった。あの公園の事件で現場に居合わせた生徒二人にも取材を試みたが、双方からけんもほろろな応答が返って来た。特に小柄な少年の敵意に満ちた対応には辟易させられた。
 例の『教授』と呼ばれているらしい外人も、防護服を着ていたため、背格好と性別くらいしか同定の決め手はなく、年齢も髪の色もわかりにくい。防護服から垣間見えた少ない情報から、目の色はグレー系で、髪の色はおそらく茶系か金髪だろうということは判ったが、白人である限りは珍しくもないことだった。ただ、彼と一緒に行動しているらしい、あの忌々しい女はバッチリ覚えている。極美は彼女から容赦なく腕をねじり上げられ、無様に拘束された屈辱を忘れてはいなかった。『教授』の正体を知るには、あのサヤという女のほうから突っついたほうが早いかもしれないな、と極美は思った。それより、さらに不思議なことに、勝太が一時収容されていたという、『県立病院IMC』とかいう病院が、いくら探しても見つからないということだった。電話帳で調べても、104で聞いても、ネットで検索しても一向に引っかからないのだ。
「何なのよ、これ・・・」
極美は、ペンの後ろでアゴをトントンと叩きながらつぶやいた。その時、極美の傍に何者かが近づいてきて言った。
「相席、よろしいでしょうか?」
(まだ空いている席もあるのに、何だこの人は・・・)
極美はそう思いながら胡散臭そうに声の主の方を見ると、そこには30歳前後の男が立っていた。極美は適当に断ろうと思い、言葉を捜した。
「相席って・・・、あの、ええっと――」
「ウイルスに興味がお有りなんでしょ?」
男の意味深な言葉に、極美は目を丸くして男の顔をじっと見た。
 

 スタッフ・ステーションでは、ギルフォードからの連絡があまりに遅いので、由利子を始め皆やきもきしていた。
「消毒に時間がかかるとはいえ、遅すぎるな。シャワーの浴びすぎで更衣室で伸びているかもしれん。山口君、更衣室に内線を入れてくれないか?」
「はいっ」
山口は、歯切れの良い返事をしてインターフォンに向かった。
「ギルフォード先生、そこにおられますか? ギルフォード先生?」
山口が呼びかけると、数秒経ってギルフォードの声がした。
「はい。ギルフォードです」
スピーカーからギルフォードの声を確認すると、高柳が走ってきてマイクに向かって怒鳴った。
「みんな心配しとるんだ、連絡ぐらい入れたまえ!」
「すみません」
「で、大丈夫だったのか?」
「はい。防護服と手袋は破れていたようですが、素手の方にはめていた手袋は破れていませんでした。タミヤマさんの血液が侵入していた形跡もありませんでした」
「そうか。それはよかった」
「防護服の丈夫さと、手袋の伸縮力に救われました」
「そうか。ウイルスが空気感染するレベルじゃなくて良かったな」
「取り乱してもうしわけありませんでした」
「そういう場合には当然の反応さ。気にするな。特に君の場合は無理からん話だろう」
「すみません」
「君の感染に関する審議をしなきゃならんが、多分大丈夫だろう。その間、君も隔離だが、とりあえず、山口君をそっちにやろう。そのままそこに居たまえ」
「はい、わかりました・・・」
ギルフォードは素直に答え、電話を切った。

「あ~、電話が通じないや・・・」
放課後、帰宅片方ギルフォードに電話をかけていた良夫は、ガッカリしてつぶやき、電話を切った。
「何よ、通じないの?」
傍で彩夏が言った。
「先生は忙しいんだよ。っていうか、何であんたがついてくるんだよ」
良夫が鬱陶しげに言うと、彩夏は腕を腰にあてて高飛車に言った。
「だったら、さっさと留守録いれときなさいよ」
「そんなの、わかっとぉ」
良夫は、ぶつぶつ言いながら再度電話をかけ、伝言を入れた。
「良夫です。あのことで新事実がわかったので、お知らせしたくて電話しました」
それだけ言うと、良夫は電話を切った。そばで、また不満げに彩夏が言った。
「何よ、それだけ? それに新事実って何よ。バラエティの見過ぎじゃないの、あんた」
「あ~、うるさい!」
良夫は、彩夏に向かってシッシッと手を振りながら言った。二人より少し後ろを歩いていた勝太がぼそりと言った。
「二人とも、ツンデレ?」
「バカッ!!」
二人から同時に振り向き様に言われ、勝太は首をすくめた。
 

 夕方のC川で、若者達が群れていた。
 気候が暖かくなると、若者達が集まってバーベキュー・パーティーをやる姿がよく見られるが、それに乗じて大音量で音楽をかけたり花火や爆竹を鳴らしたりして騒いだり、川や周囲を汚したまま帰ったりする輩も少なくないので、近隣の住民からはいい顔をされないが、広いC川の河川敷故に大目に見られている、言ってしまえば放置されている状態であった。
 今日も例に漏れず、彼らはバーベキューの準備に余念がなかった。彼らはワイワイ騒ぎながら、ハイテンションで作業をしている。そんな中、仲間の女性がきゃあという悲鳴を上げた。
「どうした?」
「なんかおったと?」
「ゴ・・・ゴキブリがいるの」
女性は怯えたように答えた。
「え~、ウッソ~。気持ち悪~」
別の女性も気味悪そうに言ったが、多分に媚が入っていた。仲間の男の一人が言った。
「ゴッキーなんて、有史以前から人のいるところにいるようなもんだ。気にしてたらきりがないよ」
「そうそう。それよりちゃっちゃ準備して早く始めようや」
「おれ、もう腹が減ってたまらんばい」
男達は、怯える女性達を尻目に準備に余念がない。しかたなく彼女らも準備を再開した。バーベキューコンロに火が入り、炭火の臭いがあたりに広がった。その頃には、みんなゴキブリのことはすっかり忘れてワイワイとコンロを囲んでいた。
 

 その頃、由利子は山口と共に、ギルフォードの待機している更衣室に向かっていた。
「あの、ほんとに私も行って良いんでしょうか」
由利子は少し心配そうに訊いた。山口は爽やかな笑顔で答えた。
「だいじょうぶよ。じゃなきゃ高柳先生から行っていいなんて言うわけないでしょ」
「そうでしょうか」
「それに、空気感染する病気じゃないでしょ。万一感染していたとしても、人に感染すようになるまで何日かかかるわ。まあ、そうなったらもう簡単には会えなくなるでしょうけど」
「そんな・・・」
「うふふ、大丈夫よ。アレク先生は悪運が強いもの・・・。って、やだ、悪運なんて言っちゃった」
山口は、心配する由利子が安心するように勤めて明るく言った。山口は30歳半ばくらいの女性で、小柄で華奢な体格をしている。その上顔は可愛くてなんとなく幼く見える。しかし、彼女は見かけとは裏腹に、この病棟を支える優秀な医療スタッフの一人だ。
「それより・・・」山口は意味深な笑みを浮かべて言った。「私ね、アレク先生が紗弥さん以外に気に入ったという女性に会ってみたかったの」
「え?」
「ほら、あの人あまり女性に興味持たないでしょ」
(有名じゃん、アレク)
由利子は思った。
「だから、どんなスーパーレディーかと思ってたのよ。でも良かったわ」
「全然普通の凡人だったので、がっかりしたでしょう?」
「ううん、逆よ逆。お付き合いしづらい人だったらどうしようかって思ってたの。あなたとは気が合いそうだわ。私、山口朋恵(ともえ)。改めてよろしくね」
山口は由利子の方を再度見ると、右手を差し出した。由利子はその手を取って言った。
「私の方こそ、よろしくお願いしますね」
「じゃ、これから敬語は無しで、お願いね」
山口はにっこり笑うと言った。由利子も負けじと笑顔で答えた。
「ええ」
「おっと、着いたわ。ここよ。念のために中にもうひとつドアがあるからね」
山口は、分厚い扉を開けて中に入った。由利子も後に続く。山口の言ったように、中にもうひとつ頑丈そうなドアがあった。病棟自体が回りを厚い壁の廊下で囲まれているから、2重3重に防御されていることになる。更衣室は当然男女別だったが、山口は躊躇せずに男子用のドアを叩いた。
「アレク先生? お加減はいかがですか?」
すると、中からギルフォードの元気そうな声がした。
「はい、ダイジョウブです」
「入ってもよろしいでしょうか?」
「あ、ドアの鍵は開いてます。デモ、チョット待って・・・」
ギルフォードがそう言い終わらないうちに、鍵が開いているという言葉に反応した山口がドアノブに手をかけていた。チョット待ってという言葉も耳に入ったが、反射的にやってしまったことなので、手を止められずにドアをあけてしまった。と、同時に二人は「キャァッ」という短い悲鳴を上げた。中には焦って立ち上がろうとしている素っ裸のギルフォードが居た。
「Oh! No!!」
流石のギルフォードも驚いてその場でうずくまった。
「もうっ! いつまですっぽんぽんで落ち込んでんのよッ! バカ!!」
由利子は怒鳴りながら真っ赤になって後ろを向いたが、山口は流石に医師と言うだけあってすぐに平静を取り戻して冷静に言った。
「アレク先生、大丈夫です。ご本尊様までは見えませんでしたから」
「ご、ご本尊様・・・、ご本尊様って・・・」
由利子は耐え切れず、その場に座り込むとケラケラと笑い出した。
 

「え? テロォ?」
流石の極美も胡散臭そうに問い直した。
 最初、近づいてきた見知らぬ男に警戒した極美だが、その男がいかにも育ちがよさそうで、しかもイケメンだったので、彼が言った意味深な言葉もあって相席を了解したのだった。男は降屋裕己(ふるやひろき)と名乗った。この界隈のオフィスに勤めているが、家はK市にあるという。その後、世間話をしながら彼の様子を見ていたが、誠実そうで中々好青年のように思われた。そこで、最初振られた話を改めて訊いたところ、出てきたのが「バイオテロ」というものだったのだ。
「シッ! 声が大きい」
「ごめんなさい」
極美は声のトーンを落として続けた。
「ええっとぉ、それが、何でこの地で?」
「そこまでは・・・。しかし、これは僕の知り合いの公安から直接聞いた話なんだ。実は、僕も今回ホームレスが集団死した事件を不審に思ってたんだよ。実は、当日の朝公園の前を犬を連れて散歩していたら、警官達に通行を止められてしまって、気分の悪い思いをしてさ。僕は文句を言って中に強引に入ろうとしたんだけど、警官達に取り押さえられて・・・。で、その時見たんだ。中に異様な格好をしている警官達が沢山いたのを・・・」
「それって、何かの防護服みたいな?」
「そうそう。そんな感じだったよ。それで、気になっていろいろ調べていたら、さっき言った知り合いの公安警察官から、危険だから嗅ぎ回るのを止めるように忠告されたんだ。その時、彼が言ったのが『バイオテロ』かもしれないということだったんだ」
そこまで聞くと、極美は彼の言うことに興味を持つようになった。何より彼は自分も見たあの防護服の警官達を見ている。極美は彼に自分の見たものを話すことにした。
「なんだって? そんなことがあったなんて・・・。君、すごいことに遭遇したんじゃないか!」
降屋はやや興奮気味に言った。
「あなた、公園のこと調べてたのに、気がつかなかったの?」
「あのね、その頃は僕、会社だよ。それに、用もないのにわざわざ帰宅方面と反対方向の公園なんかに寄るわけないだろ」
「あ、そっか」
「だけど君の話を聞いて、正直しまったなって思ったよ。帰りに寄ってみれば、まだ何か見れたかもしれないって。実は、また公園が閉鎖されたので、変だとは思ってたんだ」
「でね、写真を撮ったけど警官にばれてデリられちゃったの」
極美は、まだ2枚ほど証拠写真が生きていることを、彼に教えることは控えた。
「なんてことだ」
降屋は、残念そうに言った。
「それにね、おかしいことだらけなの」
と、極美はさらに声のトーンを落として言った。小声で頭を寄せながら話す二人は、傍からは仲の良い恋人同士に見えたかもしれない。
「その事件は報道されなかったのよ。女の子が誘拐・・・多分だけど、されて、犯人の女が自殺したのよ。全国報道されてもおかしくない事件よ。なのに、ローカルニュースでも報道されなかった・・・。私、その日はワクワクしながらニュースを待っていたのよ。見逃す筈がないわ」
「報道規制されたと?」
「そうとしか考えられないじゃない。それに、私が調べたその事件関連の病院がないの」
「なるほどね。例の公安警察・・・ぶっちゃけ僕の親友なんだけど、彼は、僕があんまり息巻いていたんで、危険とおもったんだろうね。ここだけの話だからって教えてくれたんだ」
「え? 何?」
極美は身を乗り出して聞いた。しかし、降屋はにやりと笑って言った。
「君、他にも何か知ってるだろ? それを教えてくれなきゃあ続きは無しだよ」
「え・・・? どうしてそんなこと・・・。そういえば、最初あなた、ウイルスに興味があるとか聞いたわよね。どうしてそんなこと?」
「実はね、僕がホームレス死亡事件を不審に思って調べてたって言ったよね。その時、偶然君が同じ事件を調べているところを見たんだ。それで、興味があってしばらく君の周辺を見張ってたのさ」
「え~~~? 全然気がつかなかったわ」
極美はいささかゾッとしながら言った。
「君、自分だけが知ってるって思ってただろ? だから周囲に無頓着だった。『鹿追うものは森を見ず』っていうだろ? 気をつけないといけないよ」
降屋はしごく真面目な表情で言った。極美は降屋のそういう態度にすっかり彼を信用してしまった。それで、彼女は調べたことの概要を降屋に話した。
「なるほどね。君があの公園で見た防護服の警官と細菌を結びつけたのはいい線行ってるよ。ただし、それは細菌じゃなくてウイルスらしいけどね」
「ウイルス・・・? それって細菌の一種じゃないの?」
「ちがうよ。ウイルスはもっと小さくて、他の細胞に寄生しないと増えないモノさ。生物とはいえないね、あんなの。まあ、僕も最近までそんなこと知らなかったけどさ」
「それで?」
「それでって、だからウイルスと・・・」
「それじゃないわ。今度はあなたが話す番でしょ」
「そうでした。僕が公安の親友から聞いたのは、ホームレスたちがウイルス病で死んだってことと、それはテロリストがウイルスの効果を調べるためにやった実験らしいということ。テロリストの正体はまだわかっていないらしい。判っていることは、それには・・・」
「それには?」
「ある外国人のウイルス学者が関わっているってこと」
「外人の!? そういえば、公園の事件の時居たわ。外人の男が一人。でも、彼は警察側の人間みたいだったわ」
「多分そいつだ。知事の信頼をいいことに警察内部に入り込んでいるって話だ」
「そういえば、私が会った少年から聞いた話にも、そいつが『教授』って呼ばれてたって・・・。でも、彼はウイルスを防ぐ側だったみたいだけど?」
「実験のつもりがそのマサユキとかいう少年のために感染拡大したんで、慌てて収拾をつけようとしてるんじゃないかな」
「じゃ、じゃあ、拡大が防げなった場合は・・・」
「多分、・・・日本中で本格的なテロが始まる・・・!」
「大変だわ!」
極美は言った。
「裕己さん、私ね、実は週刊誌の記者なの。これ、名刺」
極美は急いで名刺を渡した。
「えっと、『週間サンズ・マガジン』・・・? あ~、あの有名な・・・」
「有名な?」
「タブロイド紙・・・」
降屋の言葉に、極美はがっくりした。
「あのね、違うわよ。確かに最近妙な記事がよく載ってるけど、もとは正統派のジャーナリズムを追求する・・・」
「でもねえ、今はタブロイド色が強いのは事実だし・・・」
「わ、わたしが元の路線に戻してやるわよ。だから、あなたの話の掲載を許可してちょうだい。掲載されたらそれなりの代価を払うわ」
「でもねえ、タブロイド紙にこんな話載せても、何人が信じてくれると思う?」 
「でも、誰かが報せないと・・・! 一部の人たちだけでも信じてくれたら、もしテロが始まった時に有効だと思うの。お願い、裕己さん」
極美は真剣な顔で降屋をじっと見た。
「わかったよ。許可しよう」
降屋も真剣な顔で答えた。
「その代わりだけど・・・」
そう言いながら、降屋はじっと極美の胸の辺りを見ながら言った。
「な、何よ?」
極美は、次の言葉を予想して身構えた。
「あのね、僕、実はKIWAMIちゃんのファンだったの。これにサインしてくださ~い!」
降屋は急に相好を崩しながら、カバンから写真集を出して言った。
「そ、そんなんでいいの?」
想定外の降屋の行動に、極美はすっかり毒を抜かれた形となった。
 二人は目的の話が終わっても、しばらく世間話で盛り上がった。降屋は、極美からグラビアアイドルだった頃の裏話を聞いて、怒ったり爆笑したりした。極美は彼のそういう純なところが気に入った。
「あはは、極美ちゃん、話上手いよ、ほんっと。ジャーナリストよりタレント目指せばよかったのに」
「ううん。もう、根無し草のような生活に疲れちゃったの。でも、考えたら今の仕事だってジャーナリストというよりヤクザ仕事よね」
「せっかく転職したんだろ。がんばってよ。僕も影ながら応援するよ。また何か情報を仕入れたら連絡する。僕の名刺、失くさないで」
「私のもね。じゃあ、今から部屋に帰って忘れないうちにまとめておくわ。またお会い出来るかな」
「電話してくれたらソッコーで会いに行くよ。仕事中はだめだけどね」
「頼もしいわね」
極美は立ち上がりながら言った。
「じゃ、そろそろ行かなきゃ。情報をありがとう。今日は楽しかったわ。お勘定済ませとくわね」
極美は伝票を手にしながら言った。
「あ、ありがとう。僕も楽しかった・・・っていうか極美ちゃんと話せて夢みたいだったよ」
「うふふ、上手いわね。じゃ!」
極美は手を振ると、颯爽とレジに向かい、勘定を済ませると降屋に向かってぺこりと頭を下げて店を出た。降屋もニコニコ笑いながら、手を振っていたが、極美の姿が見えなくなると急に笑顔が消えた。そして、ふうっと上を見ながら言った。
「これで宜しかったですか?」
「名演技でしたよ。ご苦労様でした」
降屋の後ろの席に座っていた男性が答えた。降屋は振り向かないまま、胸に手をあてゆっくりと頭を下げながら言った。
「お役に立てて光栄です。長兄さま」

 罠にはめられたとも知らず、極美は陰謀を暴くべく、正義感に燃えて自室に向かっていた。その足取りは自信に満ちていた。
 

 C川でバーベキューパーティーをしていたグループは、盛り上がっていた。日は落ちていたがまだ明るい。夕焼けもかなり色褪せ、空には朱色の雲に混ざって紫や灰色の雲が目立ち始めた。しかし、彼らにとってはこれからがパーティーの本番である。興に乗った彼らは、かけている音楽のヴォリュームを上げ、プチ祭り状態となった。その時、女性の悲鳴が上がった。
「何だよ」
「どうしたん?」
「またアレが出たんか?」
男達が、めんどくさそうに悲鳴を上げた女性の方を向いていった。しかし、女性は悲鳴を上げながら何かを指差している。他の女性達もそれに気がつき、共に悲鳴を上げた。その方向を見ると、彼らが残飯やゴミを捨てたビニール袋に沢山の黒いドットが出来ていた。しかも、それは動いている。
「うわぁあ~~~~~!!」
流石の男達も、叫び声を上げた。臭いに釣られたのかゴキブリたちが続々と集まって来ていた。パーティーの場は、いきなりパニック状態になった。
「みんな落ち着け!」
一人の青年が叫んだ。
「いいか、まだ虫の侵入していないものはビニール袋やクーラーボックスに入れて急いで車に積むんだ。食べかけたものや封の開いたものは廃棄しろ! 開けてないカンやペットボトルはクーラーから出して! ビニール袋の口は、しっかり閉めろよ!」
彼はテキパキと仲間達に指示を出した。
「本剛さん、ゴキのたかったゴミはどうする?」
「他のゴミと一緒に燃やそう! コンロの中の燃えた炭を被せるんだ。焦って火傷はするなよ!」
「判った!」
「頼んだぞ、早渡(ハヤト)!」
「了解。 多岐、手伝え! みんな、ゴミをここに集めろ!」
すばやくゴミが集められ、早渡と多岐はコンロを運び、空いた方の手で口を塞ぎながらコンロの炭をゴミの山に被せた。ジュウッと激しい音がして、灰が周囲に舞った。
「いって~! 灰が目に入った! コンタクトが~!」
しかし、皆が呆然としていて誰もその声に反応しなかった。彼は片目を押さえながら走って煙から逃れ堤防の法面(のりめん)を駆け上がった。女性が一人それに気付いて後を追った。
「末松君、大丈夫?」
「ああ、亜由美か? なんとか大丈夫や。目薬で目とコンタクトを洗ったけん」
そう言いながら彼女の方を振り返ろうとして、彼の動きが止まった。彼は、橋の下にある粗末な急ごしらえの小屋のようなものを見つめていた。彼女もそれに気がついてそっちを見た。どうやらあの虫達はあそこから湧いたらしい。
「くそっ、浮浪者やろ? 俺達のバーベキューを台無しにしやがって・・・。ちょっと文句言ってくらあ」
末松は、そう息巻くと『小屋』の方に向かった。亜由美もその後をこわごわ追った。
「おい、オッサン!」
末松は乱暴にノックしながら声をかけた。しかし、何の反応もない。
「もういいじゃん。みんなのトコに帰ろうよぉ。なんだか嫌なにおいもするし・・・」
しかし、頭に血の上った末松は、亜由美の言葉は通じなかった。
「そりゃあ、浮浪者やけん臭いにおいもするやろ。おい、オッサン、返事せぇ!!」
末松はもう一度激しくドアを叩いた。しかし、力任せに叩いたのが不味かったのだろう。もともと粗末だった作りの戸口がバタンと倒れ、それと共に埃やチリがもうもうと舞った。
「うおっ」
末松はまた目にゴミが入りそうになって、とっさに目を閉じ小屋から走って逃れた。そのため、法面に足をとられて半ばまですべり落ちてしまった。亜由美は、逃げる余裕もなく顔を覆ってしゃがみこんだ。亜由美は咳き込みながらしばらくその体勢でいたが、おずおずと目を開いた。埃はかなり収っていた。ほっとして亜由美は立ち上がった。黄昏の薄闇のなか、小屋の中は灯油ランプが点いていたので、薄ぼんやりと明るかった。そこで亜由美は男がこっちに頭を向けて仰向けに倒れているのを見た。亜由美は恐怖で動けなくなり男から目が離せなくなってしまった。見たくもないのにその様子が目に入った。男は死んでおり、すでに硬直していた。遺体はかなり損傷しておりその上には大きな虫が10数匹ちょろちょろしていた。
(アレラハ、死体ヲ食ベテイルンダ・・・)
亜由美がやっとそれを理解した時、男の眼窩から一際大きな虫が這い出てきた。亜由美の目と口が大きく開かれ、のどから悲鳴がほとばしった。末松は驚いて亜由美のもとに走った。河川敷の仲間らもそれに気がついて数人の青年達が二人の方に向かって駆け出した。

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3.侵蝕Ⅲ (6)知事の決断

「そこに入った気分はどうかね、ギルフォード君」
高柳は、一旦隔離病室に入ったギルフォードとガラス越しに対面して言った。ギルフォードはとりあえず検査用のガウンを着てベッドに腰掛けていた。
「あまりいい気分はしませんよ。思い出したくないことまで思い出しそうで・・・」
ギルフォードは、肩をすくめながら言った。高柳は含み笑いをしながら言った。
「まあ、せいぜいそこで大人しくしているんだな」
「さっきから、何、悪の首領みたいなコト言ってるんですか」
ギルフォードは、困ったような表情で高柳を見ながら言った。
「いや、この状況がいかにもなんでね、なんとなく」
ギルフォードに突っ込まれた高柳は、若干テレたように言うと続けた。
「まあ、おそらく君はすぐ出られるとは思うがね。身体を調べても特に感染に繋がるような傷は無かったようだし」
「そう願いたいですね。一泊するのはカンベンですよ」
「いっそ休養を兼ねて三泊くらいしたらどうだ?」
「カンベンしてください。今日中にやっつけてしまいたい仕事があるんです」
「今からその審議がある。ま、もう少しの辛抱さ」
「隣はタミヤマさんの部屋ですよね。彼の様子はどんな感じですか?」
ギルフォードは、気になっていたことを聞いてみた。
「容態は今のところ落ち着いているよ。ただ、自分の行動にかなりショックを受けておられるようだが」
「そうでしょうね・・・」
「病気の影響だと充分な説明してはいるんだがね」
「そうですか。ここを出られたら、僕がフォローしてみます。ところでユリコは?」
「彼女ならここにいるよ。君があられもない姿を見せるから、恥ずかしがって隠れてるんだ。篠原さん、おいで。大丈夫、ちゃんと服は着せてるから。検査用だけどね」
高柳に呼ばれて、由利子はようやくギルフォードに顔を見せたが、何となく居心地悪そうだ。
「ハイ!」
ギルフォードは、由利子を見ると笑顔で言った。
「心配かけて申し訳なかったです。その上、とんでもない姿まで見せてしまって」
「私の方こそ、小娘みたいな悲鳴あげちゃって・・・」
由利子もテレながら言った。その様子を見ながら大丈夫と思ったのだろう、高柳は二人に向けて言った。
「じゃあ、行って来るよ。篠原さん、彼の話相手をしてやってね。ヒマそうだから」
だが、高柳は途中で何か思い出したらしく引き返して来た。
「そうそう、ギルフォード先生、知事が多美山さんのお見舞いを兼ねてここに来られるそうだ。僕らに話があるらしい」
「知事が? 何の用でしょうね」
ギルフォードはいぶかしげに言った。
「さあね・・・。でも、ひょっとしたら・・・。まあいいか、来たらはっきりすることだしな。じゃ、ほんとに行ってくるから」
そう言うと、高柳は早足で去っていった。由利子は彼の後ろ姿を見ながら言った。
「渋いおじさまなのに、面白い人ですねえ・・・」
「これから来るらしいおぢさんも、かなり面白いというか、変な人ですよ」
ギルフォードは、若干ゲンナリ気味に言った。
「森の内知事の事ですか?」
ギルフォードは黙ってこっくりと頷いた。
「へえ、あの方、タレントさんの時もかなり変でしたが、あれは素だったんですか」
「この前、ウチの研究室に来られた時の姿を、お見せしたいくらいですよ」
「へえ、一体どんな格好をされてたんですか?」
「知事の学生時代のファッションとやらでサイケな格好で来られました。まあ、知事の学生時代はあんなもんだったのかも知れませんが、まるで70年代のヒッピーでした」
「ラブ&ピースですね」
「アレじゃ却って目立ちますよ。案の定、学生や追いかけてきたマスコミにバレて、構内が大パニックになってました。僕への用件を済ませた後だったんで、僕達には累は及びませんでしたが」
「まあ、彼は普段でもすごいオーラ放ってますからねえ。それじゃさぞかし目立ったでしょう」
「知事としては、優秀だと思うんですけどね。僕も彼がここまでがんばるとは思ってませんでした」
「そうですね。まあ他所のタレント出身の知事に対して、ライバル心もあるようですけど」
由利子が同意したところで、なんとなく室内の空気がざわついてきた。由利子はドアの方を見て言った。
「その『優秀な』知事が来られたようですよ」
「噂をすれば・・・、ですか」
ギルフォードは、肩をすくめて言った。
「やあ、こんにちは、みなさん。ご苦労様です」
知事は軽く挨拶をしてステーションに入ってきた。その後から警護の人たちがぞろぞろと入って来ようとしたが、知事が制止した。
「だめですよ、みなさん。ここのスタッフさんたちの邪魔になりますから、ドアの前あたりで待機しておいてください」
そう言いながら、森の内は部屋から彼ら全員を締め出し、ドアを閉めた。
「こんにちは、知事」
「こんにちは」
「こんにちは~」
森の内に気がついたスタッフ達が挨拶をした。
「えっと、ギルフォード教授は?」
早速知事は、ギルフォードのことを尋ねた。
「先生なら、あちらの隔離病室におられます」
春野看護士が『窓』の方を左掌で示しながら言った。森の内は驚いて半ば駆け足で病室の窓の方に向かった。
「ああ、ギルフォード先生、こんなことになってるとは・・・」
森の内はガラスにペタリと張り付くと、中のギルフォードを見て言った。由利子は、そんな森の内を目の前にして少し引いたが、軽く会釈をした。しかし、森の内は目の前のことに集中して気がつかない。ギルフォードはその様子を見ながら苦笑いをして言った。
「大丈夫ですよ、知事。感染は免れていると思います。まあ、ここにいるのは審査待ちです。規則ですから」
「そうなんですか。良かったぁ~」
森の内は、やっとガラスから離れると、ようやく由利子の存在に気がついた。森の内が張り付いていたあたりのガラスは顔の辺りが曇っている。由利子は改めて会釈をしたが、当惑してついついアルカイックスマイルになる。
「やッ、これはどうも失礼をば」
森の内は恐縮して2度ほど会釈を返した。
「彼女は、来週から僕のところにバイトに来てくれる、篠原由利子さんです」
ギルフォードは紹介した。
「おや、この方がそうですか。ご挨拶が遅れました。森の内です」
森の内はそういいながら右手を差し出した。由利子もそれに習う。
「篠原です。お会いできて光栄です」
森の内は、両手で由利子の手をがっつり掴むと言った。
「ギルフォード先生を、しっかりとサポートしてあげてくださいね」
「はい」
由利子はなんとなくデジャヴを感じながら言った。案の定、森の内は握ったまま手を離さない。
「知事、知事」
それに気がついて、ギルフォードが言った。
「いい加減手を離してあげてください。相変わらずなんだから、もう」
(あんたが言うな)
由利子は心の中で突っ込んだ。
「おっと失敬」
森の内はようやく手を離した。
「そういえば、高柳先生は?」
「だから、他の先生方と、僕がここを出れるかどうかの審議中ですよ」
ギルフォードが鬱陶しげに答えた。
「そうですか。じゃあ、高柳先生と君への用件は後にするとして、多美山さんの具合はどんなでしょう?」
森の内が言うと、それに気がついた春野看護師が言った。
「今は、落ち着いておられるようですが」
「お会いできますか? ほんの短い間でいいのです」
「聞いてみましょう」
春野は病室に待機している園山看護師に内線で問い合わせた。
「多美山さんの希望もありまして、お会いできるとのことです。ただし、ガラス越しに5分間だけという条件つきですけど、よろしいですか?」
「はい、わかりました」
「では、ちょっとだけお待ち下さい」
「ああ良かった」
森の内は言った。
「実は、ここに来る前に庁舎で、今日ここで起こったことの連絡がありまして、それで今日はもうお会いできないだろうと諦めていたんですよ。せっかく、多美山さんにお会いできると思ってたのにと、がっかりしていたんです」 
「知事にそういってもらえたら、きっと多美山さんも浮上されると思います」
春野が答えた。
「そんなに落ち込んでおられるのですか?」
「ええ、私達があれは病気のせいだって何度説明しても、やはりご自分が許せないようで・・・」
「そうですか。責任感の強い方とお聞きしていますから、なおさらなんでしょうなあ」
「そうですね・・・。あ、準備が出来たみたいです。知事、どうぞこちらへ」
春野が森の内を手招きした。
 『窓』の前に立つと森の内は多美山と対面した。多美山はベッドに横たわったままで、なんとなく生気がずいぶんと損なわれているように思われた。森の内はそんな彼の姿を見て、痛ましく思うと同時に胸に熱いものが込み上げてきた。しかし、森の内はそれを表に出さず、笑顔で多美山に声をかけた。
「多美山巡査部長、初めまして。F県知事の森の内です」
多美山は力無い笑顔で答えた。
「多美山です。こちらこそお会いできて光栄です、知事。横になったままでお会いすることをお許し下さい」
「いえいえ、お楽になさっていて下さい。きつくなったら(疲れたら)いつでも言ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
「今日は、あなたが命がけで子どもたちをを救って下さったことへのお礼に参りました。あなたのおかげで4人の子どもが感染から免れました。内二人はまだ様子を見ている段階ですが、おそらく大丈夫だろうと言うことですから。あなたが守った子らの中に、小さい女の子がいましたね。彼女はもう、笑顔を見せるくらい元気になったそうですよ」
「笑顔を・・・、そうですか・・・」
多美山はほっとしたせいか、こんどは心からの笑顔を見せたが、それはすぐにまた雲ってしまった。
「ばってん、私は結局美千代と同じことをやってしまうところでした。もう少しでかけがえの無い人を死に追いやるところやったとです。森の内知事、私には、あなたからの感謝の言葉を受け取る資格はなかですよ・・・」
「そんなことはありません。それに、あれは病気のせいということでしょ? 幸いギルフォード先生は傷を負うことなく、おそらくすぐに病室から解放されるでしょう。いいですか、あなたは身体を張って子ども達4人を助けたのです。警官とはいえ誰でも出来ることではありません。あなたはやはり、ヒーローなんですよ。少なくともあの子らや僕にとってはそうなんです」
森の内は、選挙演説以来とも思える真剣な顔で熱く言った。
「知事・・・」
多美山は森の内の顔を、じっと見ながら言った。
「ありがとうございます。なんとなく気が楽になりました。でも、ヒーローは大袈裟ですよ」
「いえ、決して大袈裟なんかじゃありません。きっと子どもらは、多美山さんという頼もしい刑事さんのことは一生忘れないでしょう。だから、あなたもまた元気な姿で子ども達と会えるように、希望を捨てないでください。気持ちを強く持っていれば、これから病気に惑わされることはないでしょう」
「知事のおっしゃるとおりですよ、多美山さん」
森の内はいきなり背後で声がしたので、ぎょっとして後ろを見た。そこには高柳が立っていた。
「所長、驚かさないで下さいよ」
「いや、すまんですな、知事」
高柳はそのまま彼の横に立ち多美山に向かって言った。
「多美山さん。ああいうことになってしまったのは残念ですが、幸いにもバスルームの鏡と防護服の手袋以外、特に被害はありませんでした。ですが、我々は今回のことも教訓としてこれからに活かすことができます。ですから多美山さん、あなたはもう気に病む必要はありません」
「はあ・・・」
「多美山さん、はっきり言いますが、発症してしまった限りは我々の打つ手は限られます。一部のウイルスには有効なものがありますが、基本的にウイルスに対する特効薬と言うものはほとんどありません。いくつかの抗ウイルス薬は試してみますが、これからは対症療法が主になるでしょう。あなたの身体に抗体が出来るまで、ウイルスの攻撃に耐え抜けばあなたの勝利です。苦しい戦いになりますが、いっしょにがんばりましょうね」
「はい。ありがとうございます」
「そうそう、多美山さん」
高柳は、少し声のトーンを上げて言った。
「さっき連絡がありまして、息子さんが今、こちらに向かってこられているそうです。明日には奥さんとお孫さんもお見舞いに来られるそうですよ」
「本当ですか?」
多美山の顔が少し明るくなった。
「もちろんですとも。土日を利用して帰ってこられるそうです」
「そうですかぁ・・・、息子が・・・孫も・・・」
そういうと多美山は数秒間、目を瞑った後少し笑って言った。
「それは、がんばらんといけませんなあ」
「そうですよ、多美山さん」
森の内も言った。
「早く治して、お孫さんを抱きしめてあげてください」
「そうですなあ、早く会いたかですなあ」
多美山は、そういいながら天井の方を向いて遠い眼をして笑った。高柳はその様子を見て、何か不吉な予感を覚えたが、口には出さなかった。
「それにしても・・・」
多美山は、再び森の内たちの方を向くと言った。
「ギルフォード先生があのようにうろたえられっとは・・・」
「僕も内心お驚きました。いつも飄々としておられるし、冷静な方だと・・・」
園山看護士も横から言った。
「それは、病気の恐ろしさを知っていれば当然のことです。彼はね、若い頃中央アフリカの小国に医療援助に行った時、医療事故でラッサ熱に罹ったことがあるらしいのです。その時、何人かスタッフが亡くなったとお聞きしています。だから彼は・・・」
その時、山口が高柳を呼んだ。
「高柳先生、緊急のお電話です」
「おっと、急用だ。とりあえず失礼しますよ」
高柳はそういうと走って電話に向かった。残った森の内たち三人は、顔を見合わせたまましばらく黙り込んでしまった。
 しかし、驚いたのは彼らだけではなかった。傍で何となく話を聞いていた由利子も、初めて聞いたこの事実に驚いてギルフォードの方を見た。
「どうしました? ユリコ?」
こちらの会話が聞こえないギルフォードは、訝しげな顔をして尋ねた。
「あ、いえ、何か高柳先生に緊急電話が入ったようです」
由利子は、何となくこのことに触れてはいけないような気がして、誤魔化してしまった。
「緊急電話? またこの事件で何か起こったんでしょうか・・・」
「そうですね。心配だなあ」
由利子は言った。
 園山が、まず口を開いた。
「そうだったんですか。先生にそんなことが・・・」
「一瞬、悪夢が甦ったのでしょうね」森の内が納得をして言った。「そんな恐ろしい目に遭ったのに、まだウイルスとの戦いを続けておられるのですね」
「私もがんばらんといけませんな・・・」
多美山は驚きの余韻を残しつつ、噛みしめるように言った。
「ああ、もう5分過ぎていますね。知事、そろそろ・・・」
園山は、時計を見て少し焦り気味に言った。
「ああ、そうですか。5分は短いですなあ」
「あまり長い時間はお体に触りますし、知事も忙しい方ですから」
「多美山さん、今日はあなたにお会いできて本当に良かった。私はあなたに勇気をもらいました。ありがとう。またお会いしましょう」
森の内は、多美山に握手を求めるように右手を差し出した。多美山もそれに答え、右手を差し出した。美千代の事件で傷ついた上に、さっきの鏡での傷が加わり、見るからに痛々しいその手に森の内の胸は痛んだ。ガラス窓が邪魔をして、二人は当然握手をすることは出来ない。それでも、二人は気持ちの上ではしっかりと手を握っていた。
「今度お会いする時は、バーチャルでない握手をしましょう」
森の内が言うと、多美山も答えた。
「そうですな。・・・知事、テロの封じ込めをよろしくお願いします。是非、テロリストたちを殲滅してください」
「もちろん、そのつもりです。私達に任せて、治療に専念して下さい」
「ええ。今日は本当にありがとうございました」
「では、お二人とも、いいですか? 窓を閉めます」
園山の声とともに、窓がさっと曇り病室と遮断された。森の内は、その曇りガラスを見つめたままつぶやいた。
「多美山さん、私はあなたに背中を押してもらいました。ありがとう」
その時、高柳が珍しく慌てた様子で走ってきた。
「知事! 大変なことが起きているようです」
「何が起きたのですか?」
「C川河川敷きで大量の蟲が発生し、同時に例のウイルスで死んだらしいホームレスの遺体が、発見されたそうです」
「蟲って、つまり、ゴキブリですか?」
「そうらしいですな」
「では、遺体は・・・・」
「はい。かなり食い荒らされていたようです」
「うわあ・・・」
嫌そうな表情を浮かべた森の内を尻目に、高柳はギルフォードがいる部屋のマイクに向けて言った。
「ギルフォード君」
「はい、今、ユリコから内容は聞きました。動きがあったようですね」
「今、葛西君たちが現場に向かっているそうだ。何か重要な手がかりが発見されるといいのだが」
「蟲は?」
「例によって、いくつかサンプルを捕って後は駆除だな」
「これで2度目ですか。他の場所でおきてなければいいのですが」
「知事」高柳は森の内の方を見て言った。「2度目ということは、他所でもこういうことが起こっている可能性があります。ウイルス感染者の出たK市やF市やその周辺に限らず、F県全域で情報収集を行って下さい」
「そのつもりです。それより僕が今日、ここに訪れた理由のひとつに、お二人に是非最初にお伝えしたいことがあると言いましたね」
森の内は、再び真面目で厳しい表情をした。二人はそれを見て、ただならない様子を感じ取った。森の内は続けた。
「僕は、このウイルス病に関する非常事態について、正式に発表しようと思っています」
森の内の決心を聞いて、高柳や由利子のみならず、ギルフォードまで驚いて彼の方を見た。
 

「葛西刑事、こちらです」
葛西は、先に現場に到着していた警官に案内されて、橋台下にある粗末な『住居』に向かった。河川敷には警察のNBC対策車が黒いシルエットを夕闇に潜め、広範囲に出立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされていた。周囲には野次馬が入り込まないよう警官達が警備を固めていたが、対岸の堤防道路や周囲の住宅からは、その異様な光景が見えるだろう。葛西はその様子を確認しながら、そろそろこの事件を隠し続けることが困難になりつつあることを感じていた。立ち入り禁止区域の中に、関係者の若者達が全員集められて事情聴取をされていた。彼らは一様に、生化学防護服に身を包んだ警察官達の姿を訝しげに眺めていた。そこから離れた場所で、別に女性一人と男性二人が警官達に囲まれていた。
「彼らは?」
葛西は案内の警官に尋ねた。
「第一発見者の女性と、遺体のすぐ近くまで近寄った者達です。状況から考えて、おそらく彼らは隔離でしょう」
「そうですか。可哀想ですけどそれが無難でしょうね」
葛西は彼らの方を見て気の毒そうに言った。住居と言うより掘建て小屋が正しいホームレスの住処に、注意深く葛西が入っていった。小屋の周囲には青いビニールシートが張られつつあった。すでに周りは黄昏を通り越して薄暗くなっており、シートを夜間照明が一際青く際立たせている。中に入った葛西が、犠牲者にそっと近づくと、案内の警官が遺体にかけてあるシートをめくった。
「うわっ!」
葛西は小さい悲鳴を上げると一歩後退りをした。
「酷い状態でしょう? 私もこのような仏さんは始めてです。ゴキブリから食い荒らされてこんな状態になるなんて・・・」
警官の説明に、葛西は無意識に防護服のマスクの上から口を押さえながら言った。
「彼を食害した虫の姿が見当たりませんが、逃げてしまったんでしょうか?」
「発見者の話では、見つけた当初はまだ体表や眼窩の中・・・おそらく脳内でしょう・・・に異様に大きな虫が居たようですが、いつの間にか居なくなっていたそうです」
「じゃあ、どこかに潜んでいる可能性がありますね。気をつけたほうが良さそうですね」
「河川敷に居た連中が、バーベキューパーティーを楽しんでいた時に、突如、大量の虫・・・ゴキブリが現れたそうです」
「ゴキブリと判断できたってことは、それらは普通のゴキブリだったんですね」
「だと思います。彼らはとっさの判断で、それらをゴミごと焼却したということです。あそこにまだ燻った名残がありますでしょう?」
警官は、そう言いながら河川敷でまだ赤く燃え残っている跡を指差した。
「なるほど、相当派手に燃やしたようですね」
「彼らの110番通報とほぼ同時に、近隣の住民数件から消防と警察に通報があっています。河川敷で火遊びをしているようだ、という通報でした」
「とっさの判断とはいえ、対処方法としては間違ってないでしょう。ただ、全部の虫が殲滅されたかどうかは疑わしいですね。それに、女性の見た巨大な虫とゴキブリがどう関係するかということですが・・・」
その時、別の警官が大声で葛西を呼んだ。
「葛西刑事、来てください!!」
声の方を見ると、一人の警官が、懐中電灯で橋台と橋桁の隙間を照らしていた。葛西は急いで彼の隣に立って照らされた方を見て息を呑んだ。海中電灯の光を反射して、いくつかの赤い点がチラチラと見え隠れした。数匹の蟲がそこに潜んでこちらの様子を伺っていた。

「知事、何となくそんな気はしていたんですが、本気で言っておられるんですか?」
高柳が森の内に改めて確認をした。
「はい。ただし、テロの可能性については伏せようと思います。まだ確証は得られておりませんし、皆の不安を必要以上煽るのは避けたいからです。そもそも、危険な感染症が発生した場合は、住民の安全のために情報公開をせねばならないのですが、やはり、諸般の事情で中々そう簡単にはいかないものです。議会からも猛反発を受けましてね、僕も、かなり悩みました。ことによると、感染症よりも、パニックや風評被害でのダメージの方が大きくなりますから。ましてや、7月には全国的にも有名な祭りが控えています。客足が遠のいた場合の損失は計り知れないでしょう。しかし、すでに判っているだけで9人・・・いえ、今日で10人ですね、・・・の犠牲者が出ています。他にも犠牲者が出てくる可能性が高いでしょう。それに美千代から感染した者が居る可能性も忘れてはいけませんよね。何より、僕は多美山さん・・・現役の警官の感染にショックを受けました。そして、今起こっている河川敷での事件です。いつかは、いえ、近いうちに流言飛語の類が飛び交うことになるでしょう。そうなる前に、正確な情報を提示しておくべきだと思うんです」
森の内は一気に自分の考えを伝えた。ギルフォードは、知事の英断に手を叩きながら言った。
「知事、よく決断されました。僕はあなたの判断は正しいと思います」
「しかし、公表の上手い方法を考えないと、却って最悪の事態を招くことになりますよ」
高柳が言うと、森の内はうんと頷きながら言った。
「そうなんです。今、最良の方法を模索中です。いずれにしろ、来週早々には公表するつもりです」
「判りました。我々にも協力できることがあれば、おっしゃってください」
「ありがとうございます」
「あのお・・・」
今まで男性3人の会話に入れずに大人しくしていた由利子が、おずおずと割って入った。
「ところで、ギルフォード先生はまだ出られないのでしょうか?」
「おっと忘れていた。ギルフォード君、審議の結果、感染の可能性はほとんど無いだろうという結論になった。さっさとそこから出て来たまえ」
「早くソレを言って下さいよぉ、タカヤナギ先生~」
ギルフォードは、仏頂面をしつつ立ち上がった。
「文句はいいから、とっととこっちに帰って来なさい」
「了解」
ギルフォードは一言言うと、次の瞬間駆け出してあっという間に病室から出て行った。
「よく今まで大人しくしていたもんだな」
『窓』を曇りガラスに戻しながら、高柳が言った。森の内も笑っている。由利子はそんな森の内に尋ねた。
「公表の方法は? 新聞で号外を出しますか? それとも、テレビを使って?」
「広報と号外そしてインターネット、もちろんテレビでの発表も考えています。今のところ、一番認知率が高いのはテレビだと思いますので、効果的な方法を考えているところです」
「夕方のローカルニュースを利用するとか、夜の報道番組に出演するとか・・・?」
由利子が言うと、森の内は「う~ん」と考えながら言った。
「全国ネットってのは考え物ですね。下手をすればそれこそ風評被害で大変なことになりそうですし」
「公表の目的は?」
「未知の感染症に対する注意の喚起と、秋山美千代と接触した人間の捜索です」
その時、多美山の病室から園山看護士の悲痛な呼び声がした。
「高柳先生! 多美山さんが、急変しました。早く誰か先生を!!」
「三原君、すまんが、また行ってくれ!」
「はい!」
高柳の命を受け、三原医師が多美山の元に走った。
「何があったんだ? さっきまで安定した状態で落ち着いておられたのに・・・」
高柳はそうつぶやきながら急いで『窓』を開けた。そこに居る全員が、多美山の部屋の前に集まった。由利子も恐る恐る病室を覗いた。ベッドの上で多美山が苦しそうに喘いでいた。傍で園山看護士が必死で多美山を励ましている。その状況を見て、山口と春野が「私達も行って来ます」と、駆け出した。と、同時に多美山の病室に三原が駆け込んできた。由利子は、あまりのことに驚いて高柳の方を見て尋ねた。
「一体何がおこっているんですか」
その時、後ろで声がした。
「サイトカイン・ストーム・・・? まさか・・・」
二人が振り向くと、ギルフォードが緊張した面持ちをしながら半ば呆然と立っていた。

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