3.侵蝕Ⅲ (6)知事の決断
「そこに入った気分はどうかね、ギルフォード君」
高柳は、一旦隔離病室に入ったギルフォードとガラス越しに対面して言った。ギルフォードはとりあえず検査用のガウンを着てベッドに腰掛けていた。
「あまりいい気分はしませんよ。思い出したくないことまで思い出しそうで・・・」
ギルフォードは、肩をすくめながら言った。高柳は含み笑いをしながら言った。
「まあ、せいぜいそこで大人しくしているんだな」
「さっきから、何、悪の首領みたいなコト言ってるんですか」
ギルフォードは、困ったような表情で高柳を見ながら言った。
「いや、この状況がいかにもなんでね、なんとなく」
ギルフォードに突っ込まれた高柳は、若干テレたように言うと続けた。
「まあ、おそらく君はすぐ出られるとは思うがね。身体を調べても特に感染に繋がるような傷は無かったようだし」
「そう願いたいですね。一泊するのはカンベンですよ」
「いっそ休養を兼ねて三泊くらいしたらどうだ?」
「カンベンしてください。今日中にやっつけてしまいたい仕事があるんです」
「今からその審議がある。ま、もう少しの辛抱さ」
「隣はタミヤマさんの部屋ですよね。彼の様子はどんな感じですか?」
ギルフォードは、気になっていたことを聞いてみた。
「容態は今のところ落ち着いているよ。ただ、自分の行動にかなりショックを受けておられるようだが」
「そうでしょうね・・・」
「病気の影響だと充分な説明してはいるんだがね」
「そうですか。ここを出られたら、僕がフォローしてみます。ところでユリコは?」
「彼女ならここにいるよ。君があられもない姿を見せるから、恥ずかしがって隠れてるんだ。篠原さん、おいで。大丈夫、ちゃんと服は着せてるから。検査用だけどね」
高柳に呼ばれて、由利子はようやくギルフォードに顔を見せたが、何となく居心地悪そうだ。
「ハイ!」
ギルフォードは、由利子を見ると笑顔で言った。
「心配かけて申し訳なかったです。その上、とんでもない姿まで見せてしまって」
「私の方こそ、小娘みたいな悲鳴あげちゃって・・・」
由利子もテレながら言った。その様子を見ながら大丈夫と思ったのだろう、高柳は二人に向けて言った。
「じゃあ、行って来るよ。篠原さん、彼の話相手をしてやってね。ヒマそうだから」
だが、高柳は途中で何か思い出したらしく引き返して来た。
「そうそう、ギルフォード先生、知事が多美山さんのお見舞いを兼ねてここに来られるそうだ。僕らに話があるらしい」
「知事が? 何の用でしょうね」
ギルフォードはいぶかしげに言った。
「さあね・・・。でも、ひょっとしたら・・・。まあいいか、来たらはっきりすることだしな。じゃ、ほんとに行ってくるから」
そう言うと、高柳は早足で去っていった。由利子は彼の後ろ姿を見ながら言った。
「渋いおじさまなのに、面白い人ですねえ・・・」
「これから来るらしいおぢさんも、かなり面白いというか、変な人ですよ」
ギルフォードは、若干ゲンナリ気味に言った。
「森の内知事の事ですか?」
ギルフォードは黙ってこっくりと頷いた。
「へえ、あの方、タレントさんの時もかなり変でしたが、あれは素だったんですか」
「この前、ウチの研究室に来られた時の姿を、お見せしたいくらいですよ」
「へえ、一体どんな格好をされてたんですか?」
「知事の学生時代のファッションとやらでサイケな格好で来られました。まあ、知事の学生時代はあんなもんだったのかも知れませんが、まるで70年代のヒッピーでした」
「ラブ&ピースですね」
「アレじゃ却って目立ちますよ。案の定、学生や追いかけてきたマスコミにバレて、構内が大パニックになってました。僕への用件を済ませた後だったんで、僕達には累は及びませんでしたが」
「まあ、彼は普段でもすごいオーラ放ってますからねえ。それじゃさぞかし目立ったでしょう」
「知事としては、優秀だと思うんですけどね。僕も彼がここまでがんばるとは思ってませんでした」
「そうですね。まあ他所のタレント出身の知事に対して、ライバル心もあるようですけど」
由利子が同意したところで、なんとなく室内の空気がざわついてきた。由利子はドアの方を見て言った。
「その『優秀な』知事が来られたようですよ」
「噂をすれば・・・、ですか」
ギルフォードは、肩をすくめて言った。
「やあ、こんにちは、みなさん。ご苦労様です」
知事は軽く挨拶をしてステーションに入ってきた。その後から警護の人たちがぞろぞろと入って来ようとしたが、知事が制止した。
「だめですよ、みなさん。ここのスタッフさんたちの邪魔になりますから、ドアの前あたりで待機しておいてください」
そう言いながら、森の内は部屋から彼ら全員を締め出し、ドアを閉めた。
「こんにちは、知事」
「こんにちは」
「こんにちは~」
森の内に気がついたスタッフ達が挨拶をした。
「えっと、ギルフォード教授は?」
早速知事は、ギルフォードのことを尋ねた。
「先生なら、あちらの隔離病室におられます」
春野看護士が『窓』の方を左掌で示しながら言った。森の内は驚いて半ば駆け足で病室の窓の方に向かった。
「ああ、ギルフォード先生、こんなことになってるとは・・・」
森の内はガラスにペタリと張り付くと、中のギルフォードを見て言った。由利子は、そんな森の内を目の前にして少し引いたが、軽く会釈をした。しかし、森の内は目の前のことに集中して気がつかない。ギルフォードはその様子を見ながら苦笑いをして言った。
「大丈夫ですよ、知事。感染は免れていると思います。まあ、ここにいるのは審査待ちです。規則ですから」
「そうなんですか。良かったぁ~」
森の内は、やっとガラスから離れると、ようやく由利子の存在に気がついた。森の内が張り付いていたあたりのガラスは顔の辺りが曇っている。由利子は改めて会釈をしたが、当惑してついついアルカイックスマイルになる。
「やッ、これはどうも失礼をば」
森の内は恐縮して2度ほど会釈を返した。
「彼女は、来週から僕のところにバイトに来てくれる、篠原由利子さんです」
ギルフォードは紹介した。
「おや、この方がそうですか。ご挨拶が遅れました。森の内です」
森の内はそういいながら右手を差し出した。由利子もそれに習う。
「篠原です。お会いできて光栄です」
森の内は、両手で由利子の手をがっつり掴むと言った。
「ギルフォード先生を、しっかりとサポートしてあげてくださいね」
「はい」
由利子はなんとなくデジャヴを感じながら言った。案の定、森の内は握ったまま手を離さない。
「知事、知事」
それに気がついて、ギルフォードが言った。
「いい加減手を離してあげてください。相変わらずなんだから、もう」
(あんたが言うな)
由利子は心の中で突っ込んだ。
「おっと失敬」
森の内はようやく手を離した。
「そういえば、高柳先生は?」
「だから、他の先生方と、僕がここを出れるかどうかの審議中ですよ」
ギルフォードが鬱陶しげに答えた。
「そうですか。じゃあ、高柳先生と君への用件は後にするとして、多美山さんの具合はどんなでしょう?」
森の内が言うと、それに気がついた春野看護師が言った。
「今は、落ち着いておられるようですが」
「お会いできますか? ほんの短い間でいいのです」
「聞いてみましょう」
春野は病室に待機している園山看護師に内線で問い合わせた。
「多美山さんの希望もありまして、お会いできるとのことです。ただし、ガラス越しに5分間だけという条件つきですけど、よろしいですか?」
「はい、わかりました」
「では、ちょっとだけお待ち下さい」
「ああ良かった」
森の内は言った。
「実は、ここに来る前に庁舎で、今日ここで起こったことの連絡がありまして、それで今日はもうお会いできないだろうと諦めていたんですよ。せっかく、多美山さんにお会いできると思ってたのにと、がっかりしていたんです」
「知事にそういってもらえたら、きっと多美山さんも浮上されると思います」
春野が答えた。
「そんなに落ち込んでおられるのですか?」
「ええ、私達があれは病気のせいだって何度説明しても、やはりご自分が許せないようで・・・」
「そうですか。責任感の強い方とお聞きしていますから、なおさらなんでしょうなあ」
「そうですね・・・。あ、準備が出来たみたいです。知事、どうぞこちらへ」
春野が森の内を手招きした。
『窓』の前に立つと森の内は多美山と対面した。多美山はベッドに横たわったままで、なんとなく生気がずいぶんと損なわれているように思われた。森の内はそんな彼の姿を見て、痛ましく思うと同時に胸に熱いものが込み上げてきた。しかし、森の内はそれを表に出さず、笑顔で多美山に声をかけた。
「多美山巡査部長、初めまして。F県知事の森の内です」
多美山は力無い笑顔で答えた。
「多美山です。こちらこそお会いできて光栄です、知事。横になったままでお会いすることをお許し下さい」
「いえいえ、お楽になさっていて下さい。きつくなったら(疲れたら)いつでも言ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
「今日は、あなたが命がけで子どもたちをを救って下さったことへのお礼に参りました。あなたのおかげで4人の子どもが感染から免れました。内二人はまだ様子を見ている段階ですが、おそらく大丈夫だろうと言うことですから。あなたが守った子らの中に、小さい女の子がいましたね。彼女はもう、笑顔を見せるくらい元気になったそうですよ」
「笑顔を・・・、そうですか・・・」
多美山はほっとしたせいか、こんどは心からの笑顔を見せたが、それはすぐにまた雲ってしまった。
「ばってん、私は結局美千代と同じことをやってしまうところでした。もう少しでかけがえの無い人を死に追いやるところやったとです。森の内知事、私には、あなたからの感謝の言葉を受け取る資格はなかですよ・・・」
「そんなことはありません。それに、あれは病気のせいということでしょ? 幸いギルフォード先生は傷を負うことなく、おそらくすぐに病室から解放されるでしょう。いいですか、あなたは身体を張って子ども達4人を助けたのです。警官とはいえ誰でも出来ることではありません。あなたはやはり、ヒーローなんですよ。少なくともあの子らや僕にとってはそうなんです」
森の内は、選挙演説以来とも思える真剣な顔で熱く言った。
「知事・・・」
多美山は森の内の顔を、じっと見ながら言った。
「ありがとうございます。なんとなく気が楽になりました。でも、ヒーローは大袈裟ですよ」
「いえ、決して大袈裟なんかじゃありません。きっと子どもらは、多美山さんという頼もしい刑事さんのことは一生忘れないでしょう。だから、あなたもまた元気な姿で子ども達と会えるように、希望を捨てないでください。気持ちを強く持っていれば、これから病気に惑わされることはないでしょう」
「知事のおっしゃるとおりですよ、多美山さん」
森の内はいきなり背後で声がしたので、ぎょっとして後ろを見た。そこには高柳が立っていた。
「所長、驚かさないで下さいよ」
「いや、すまんですな、知事」
高柳はそのまま彼の横に立ち多美山に向かって言った。
「多美山さん。ああいうことになってしまったのは残念ですが、幸いにもバスルームの鏡と防護服の手袋以外、特に被害はありませんでした。ですが、我々は今回のことも教訓としてこれからに活かすことができます。ですから多美山さん、あなたはもう気に病む必要はありません」
「はあ・・・」
「多美山さん、はっきり言いますが、発症してしまった限りは我々の打つ手は限られます。一部のウイルスには有効なものがありますが、基本的にウイルスに対する特効薬と言うものはほとんどありません。いくつかの抗ウイルス薬は試してみますが、これからは対症療法が主になるでしょう。あなたの身体に抗体が出来るまで、ウイルスの攻撃に耐え抜けばあなたの勝利です。苦しい戦いになりますが、いっしょにがんばりましょうね」
「はい。ありがとうございます」
「そうそう、多美山さん」
高柳は、少し声のトーンを上げて言った。
「さっき連絡がありまして、息子さんが今、こちらに向かってこられているそうです。明日には奥さんとお孫さんもお見舞いに来られるそうですよ」
「本当ですか?」
多美山の顔が少し明るくなった。
「もちろんですとも。土日を利用して帰ってこられるそうです」
「そうですかぁ・・・、息子が・・・孫も・・・」
そういうと多美山は数秒間、目を瞑った後少し笑って言った。
「それは、がんばらんといけませんなあ」
「そうですよ、多美山さん」
森の内も言った。
「早く治して、お孫さんを抱きしめてあげてください」
「そうですなあ、早く会いたかですなあ」
多美山は、そういいながら天井の方を向いて遠い眼をして笑った。高柳はその様子を見て、何か不吉な予感を覚えたが、口には出さなかった。
「それにしても・・・」
多美山は、再び森の内たちの方を向くと言った。
「ギルフォード先生があのようにうろたえられっとは・・・」
「僕も内心お驚きました。いつも飄々としておられるし、冷静な方だと・・・」
園山看護士も横から言った。
「それは、病気の恐ろしさを知っていれば当然のことです。彼はね、若い頃中央アフリカの小国に医療援助に行った時、医療事故でラッサ熱に罹ったことがあるらしいのです。その時、何人かスタッフが亡くなったとお聞きしています。だから彼は・・・」
その時、山口が高柳を呼んだ。
「高柳先生、緊急のお電話です」
「おっと、急用だ。とりあえず失礼しますよ」
高柳はそういうと走って電話に向かった。残った森の内たち三人は、顔を見合わせたまましばらく黙り込んでしまった。
しかし、驚いたのは彼らだけではなかった。傍で何となく話を聞いていた由利子も、初めて聞いたこの事実に驚いてギルフォードの方を見た。
「どうしました? ユリコ?」
こちらの会話が聞こえないギルフォードは、訝しげな顔をして尋ねた。
「あ、いえ、何か高柳先生に緊急電話が入ったようです」
由利子は、何となくこのことに触れてはいけないような気がして、誤魔化してしまった。
「緊急電話? またこの事件で何か起こったんでしょうか・・・」
「そうですね。心配だなあ」
由利子は言った。
園山が、まず口を開いた。
「そうだったんですか。先生にそんなことが・・・」
「一瞬、悪夢が甦ったのでしょうね」森の内が納得をして言った。「そんな恐ろしい目に遭ったのに、まだウイルスとの戦いを続けておられるのですね」
「私もがんばらんといけませんな・・・」
多美山は驚きの余韻を残しつつ、噛みしめるように言った。
「ああ、もう5分過ぎていますね。知事、そろそろ・・・」
園山は、時計を見て少し焦り気味に言った。
「ああ、そうですか。5分は短いですなあ」
「あまり長い時間はお体に触りますし、知事も忙しい方ですから」
「多美山さん、今日はあなたにお会いできて本当に良かった。私はあなたに勇気をもらいました。ありがとう。またお会いしましょう」
森の内は、多美山に握手を求めるように右手を差し出した。多美山もそれに答え、右手を差し出した。美千代の事件で傷ついた上に、さっきの鏡での傷が加わり、見るからに痛々しいその手に森の内の胸は痛んだ。ガラス窓が邪魔をして、二人は当然握手をすることは出来ない。それでも、二人は気持ちの上ではしっかりと手を握っていた。
「今度お会いする時は、バーチャルでない握手をしましょう」
森の内が言うと、多美山も答えた。
「そうですな。・・・知事、テロの封じ込めをよろしくお願いします。是非、テロリストたちを殲滅してください」
「もちろん、そのつもりです。私達に任せて、治療に専念して下さい」
「ええ。今日は本当にありがとうございました」
「では、お二人とも、いいですか? 窓を閉めます」
園山の声とともに、窓がさっと曇り病室と遮断された。森の内は、その曇りガラスを見つめたままつぶやいた。
「多美山さん、私はあなたに背中を押してもらいました。ありがとう」
その時、高柳が珍しく慌てた様子で走ってきた。
「知事! 大変なことが起きているようです」
「何が起きたのですか?」
「C川河川敷きで大量の蟲が発生し、同時に例のウイルスで死んだらしいホームレスの遺体が、発見されたそうです」
「蟲って、つまり、ゴキブリですか?」
「そうらしいですな」
「では、遺体は・・・・」
「はい。かなり食い荒らされていたようです」
「うわあ・・・」
嫌そうな表情を浮かべた森の内を尻目に、高柳はギルフォードがいる部屋のマイクに向けて言った。
「ギルフォード君」
「はい、今、ユリコから内容は聞きました。動きがあったようですね」
「今、葛西君たちが現場に向かっているそうだ。何か重要な手がかりが発見されるといいのだが」
「蟲は?」
「例によって、いくつかサンプルを捕って後は駆除だな」
「これで2度目ですか。他の場所でおきてなければいいのですが」
「知事」高柳は森の内の方を見て言った。「2度目ということは、他所でもこういうことが起こっている可能性があります。ウイルス感染者の出たK市やF市やその周辺に限らず、F県全域で情報収集を行って下さい」
「そのつもりです。それより僕が今日、ここに訪れた理由のひとつに、お二人に是非最初にお伝えしたいことがあると言いましたね」
森の内は、再び真面目で厳しい表情をした。二人はそれを見て、ただならない様子を感じ取った。森の内は続けた。
「僕は、このウイルス病に関する非常事態について、正式に発表しようと思っています」
森の内の決心を聞いて、高柳や由利子のみならず、ギルフォードまで驚いて彼の方を見た。
「葛西刑事、こちらです」
葛西は、先に現場に到着していた警官に案内されて、橋台下にある粗末な『住居』に向かった。河川敷には警察のNBC対策車が黒いシルエットを夕闇に潜め、広範囲に出立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされていた。周囲には野次馬が入り込まないよう警官達が警備を固めていたが、対岸の堤防道路や周囲の住宅からは、その異様な光景が見えるだろう。葛西はその様子を確認しながら、そろそろこの事件を隠し続けることが困難になりつつあることを感じていた。立ち入り禁止区域の中に、関係者の若者達が全員集められて事情聴取をされていた。彼らは一様に、生化学防護服に身を包んだ警察官達の姿を訝しげに眺めていた。そこから離れた場所で、別に女性一人と男性二人が警官達に囲まれていた。
「彼らは?」
葛西は案内の警官に尋ねた。
「第一発見者の女性と、遺体のすぐ近くまで近寄った者達です。状況から考えて、おそらく彼らは隔離でしょう」
「そうですか。可哀想ですけどそれが無難でしょうね」
葛西は彼らの方を見て気の毒そうに言った。住居と言うより掘建て小屋が正しいホームレスの住処に、注意深く葛西が入っていった。小屋の周囲には青いビニールシートが張られつつあった。すでに周りは黄昏を通り越して薄暗くなっており、シートを夜間照明が一際青く際立たせている。中に入った葛西が、犠牲者にそっと近づくと、案内の警官が遺体にかけてあるシートをめくった。
「うわっ!」
葛西は小さい悲鳴を上げると一歩後退りをした。
「酷い状態でしょう? 私もこのような仏さんは始めてです。ゴキブリから食い荒らされてこんな状態になるなんて・・・」
警官の説明に、葛西は無意識に防護服のマスクの上から口を押さえながら言った。
「彼を食害した虫の姿が見当たりませんが、逃げてしまったんでしょうか?」
「発見者の話では、見つけた当初はまだ体表や眼窩の中・・・おそらく脳内でしょう・・・に異様に大きな虫が居たようですが、いつの間にか居なくなっていたそうです」
「じゃあ、どこかに潜んでいる可能性がありますね。気をつけたほうが良さそうですね」
「河川敷に居た連中が、バーベキューパーティーを楽しんでいた時に、突如、大量の虫・・・ゴキブリが現れたそうです」
「ゴキブリと判断できたってことは、それらは普通のゴキブリだったんですね」
「だと思います。彼らはとっさの判断で、それらをゴミごと焼却したということです。あそこにまだ燻った名残がありますでしょう?」
警官は、そう言いながら河川敷でまだ赤く燃え残っている跡を指差した。
「なるほど、相当派手に燃やしたようですね」
「彼らの110番通報とほぼ同時に、近隣の住民数件から消防と警察に通報があっています。河川敷で火遊びをしているようだ、という通報でした」
「とっさの判断とはいえ、対処方法としては間違ってないでしょう。ただ、全部の虫が殲滅されたかどうかは疑わしいですね。それに、女性の見た巨大な虫とゴキブリがどう関係するかということですが・・・」
その時、別の警官が大声で葛西を呼んだ。
「葛西刑事、来てください!!」
声の方を見ると、一人の警官が、懐中電灯で橋台と橋桁の隙間を照らしていた。葛西は急いで彼の隣に立って照らされた方を見て息を呑んだ。海中電灯の光を反射して、いくつかの赤い点がチラチラと見え隠れした。数匹の蟲がそこに潜んでこちらの様子を伺っていた。
「知事、何となくそんな気はしていたんですが、本気で言っておられるんですか?」
高柳が森の内に改めて確認をした。
「はい。ただし、テロの可能性については伏せようと思います。まだ確証は得られておりませんし、皆の不安を必要以上煽るのは避けたいからです。そもそも、危険な感染症が発生した場合は、住民の安全のために情報公開をせねばならないのですが、やはり、諸般の事情で中々そう簡単にはいかないものです。議会からも猛反発を受けましてね、僕も、かなり悩みました。ことによると、感染症よりも、パニックや風評被害でのダメージの方が大きくなりますから。ましてや、7月には全国的にも有名な祭りが控えています。客足が遠のいた場合の損失は計り知れないでしょう。しかし、すでに判っているだけで9人・・・いえ、今日で10人ですね、・・・の犠牲者が出ています。他にも犠牲者が出てくる可能性が高いでしょう。それに美千代から感染した者が居る可能性も忘れてはいけませんよね。何より、僕は多美山さん・・・現役の警官の感染にショックを受けました。そして、今起こっている河川敷での事件です。いつかは、いえ、近いうちに流言飛語の類が飛び交うことになるでしょう。そうなる前に、正確な情報を提示しておくべきだと思うんです」
森の内は一気に自分の考えを伝えた。ギルフォードは、知事の英断に手を叩きながら言った。
「知事、よく決断されました。僕はあなたの判断は正しいと思います」
「しかし、公表の上手い方法を考えないと、却って最悪の事態を招くことになりますよ」
高柳が言うと、森の内はうんと頷きながら言った。
「そうなんです。今、最良の方法を模索中です。いずれにしろ、来週早々には公表するつもりです」
「判りました。我々にも協力できることがあれば、おっしゃってください」
「ありがとうございます」
「あのお・・・」
今まで男性3人の会話に入れずに大人しくしていた由利子が、おずおずと割って入った。
「ところで、ギルフォード先生はまだ出られないのでしょうか?」
「おっと忘れていた。ギルフォード君、審議の結果、感染の可能性はほとんど無いだろうという結論になった。さっさとそこから出て来たまえ」
「早くソレを言って下さいよぉ、タカヤナギ先生~」
ギルフォードは、仏頂面をしつつ立ち上がった。
「文句はいいから、とっととこっちに帰って来なさい」
「了解」
ギルフォードは一言言うと、次の瞬間駆け出してあっという間に病室から出て行った。
「よく今まで大人しくしていたもんだな」
『窓』を曇りガラスに戻しながら、高柳が言った。森の内も笑っている。由利子はそんな森の内に尋ねた。
「公表の方法は? 新聞で号外を出しますか? それとも、テレビを使って?」
「広報と号外そしてインターネット、もちろんテレビでの発表も考えています。今のところ、一番認知率が高いのはテレビだと思いますので、効果的な方法を考えているところです」
「夕方のローカルニュースを利用するとか、夜の報道番組に出演するとか・・・?」
由利子が言うと、森の内は「う~ん」と考えながら言った。
「全国ネットってのは考え物ですね。下手をすればそれこそ風評被害で大変なことになりそうですし」
「公表の目的は?」
「未知の感染症に対する注意の喚起と、秋山美千代と接触した人間の捜索です」
その時、多美山の病室から園山看護士の悲痛な呼び声がした。
「高柳先生! 多美山さんが、急変しました。早く誰か先生を!!」
「三原君、すまんが、また行ってくれ!」
「はい!」
高柳の命を受け、三原医師が多美山の元に走った。
「何があったんだ? さっきまで安定した状態で落ち着いておられたのに・・・」
高柳はそうつぶやきながら急いで『窓』を開けた。そこに居る全員が、多美山の部屋の前に集まった。由利子も恐る恐る病室を覗いた。ベッドの上で多美山が苦しそうに喘いでいた。傍で園山看護士が必死で多美山を励ましている。その状況を見て、山口と春野が「私達も行って来ます」と、駆け出した。と、同時に多美山の病室に三原が駆け込んできた。由利子は、あまりのことに驚いて高柳の方を見て尋ねた。
「一体何がおこっているんですか」
その時、後ろで声がした。
「サイトカイン・ストーム・・・? まさか・・・」
二人が振り向くと、ギルフォードが緊張した面持ちをしながら半ば呆然と立っていた。
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