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3.侵蝕Ⅲ (5)トラップ

 ギルフォードは手袋を取る手を止め、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。今更じたばたしても仕方がない。もし、傷が出来ていてそこからウイルスが侵入していたなら、とっくに血流に乗って体中を駆け巡っているだろう。血液は平均して1分ほどで体内を一周するのだから。深呼吸のおかげか、ギルフォードはだいぶ落ち着きを取り戻した。まだ心臓の鼓動が判る程は緊張しているが、それなりに落ち着いて、まだ手袋をつけたままの右手をよく観察した。ラテックスの薄い手袋の人差し指と中指の付け根より1cmほど下に3mmほどの傷があった。しかし、よく見るとその傷は手袋自体を突き破ってない様に思われた。血液が付着している様子もない。ギルフォードはゆっくりと手袋をとった。両手袋を消毒BOX横の廃棄BOXに投げ捨て、急いで手洗いに走り、消毒液で手を念入りに洗った。その後、ゆっくりと右手を目の前に持ってきて該当部分をじっと見た。数秒後、ギルフォードは上を向いて目をつぶった。口からため息が漏れ、そのまま床にへたっと座り込んだ。・・・ギルフォードの手は傷ついていなかった。文字通り髪の毛一本の差、間一髪で命拾いしたのである。
 ギルフォードは、すぐに立ち上がると着ている物一切を廃棄BOXに脱ぎ捨て、そのまま次のシャワー室に駆け込んだ。それからすぐに熱いシャワーを頭から浴びた。一時絶望的な状況に追い込まれたが、ギリギリで危機を脱した。もし神が本当に存在するならば、まだソレはこの俺に生きろと言っているらしい・・・。
そう思った途端、無意識に口元が少し歪んだ。
「くっ・・・くくく・・」
ギルフォードの口から自嘲的な笑いが漏れた。最初泣き声とも思えるような笑いがいつしか哄笑に変わり、土砂降りの雨のようなシャワーを浴びながら、彼はヒステリックに笑い続けた。衝動的な笑いが収まると、ギルフォードはシャワー室の壁に両手をつき、がっくりと下を向いた。
”よかった・・・”
少し間を置いて、彼の口から弱弱しい言葉が漏れた。
”イヤだ・・・、あの時のように死ぬ思いは・・・。シンイチ、君と約束したのに・・・、本当は怖いんだ、俺は・・・。無様・・・だな・・・”
激しいシャワーの音に紛れて、嗚咽する声がかすかに聞こえた。ギルフォードはそのまましばらく動かなかった。
 

 真樹村極美は、彼女が拠点とするホテルの中にある喫茶店で考え事をしていた。彼女はどん詰まっていた。
 例の事件について取材していたが、いまいち情報が集まらない。疫病に関しても、ホームレスから雅之に、そして、雅之から祖母と母へというルートで感染したというところで、経路がぷっつり切れてしまった。あの公園の事件で現場に居合わせた生徒二人にも取材を試みたが、双方からけんもほろろな応答が返って来た。特に小柄な少年の敵意に満ちた対応には辟易させられた。
 例の『教授』と呼ばれているらしい外人も、防護服を着ていたため、背格好と性別くらいしか同定の決め手はなく、年齢も髪の色もわかりにくい。防護服から垣間見えた少ない情報から、目の色はグレー系で、髪の色はおそらく茶系か金髪だろうということは判ったが、白人である限りは珍しくもないことだった。ただ、彼と一緒に行動しているらしい、あの忌々しい女はバッチリ覚えている。極美は彼女から容赦なく腕をねじり上げられ、無様に拘束された屈辱を忘れてはいなかった。『教授』の正体を知るには、あのサヤという女のほうから突っついたほうが早いかもしれないな、と極美は思った。それより、さらに不思議なことに、勝太が一時収容されていたという、『県立病院IMC』とかいう病院が、いくら探しても見つからないということだった。電話帳で調べても、104で聞いても、ネットで検索しても一向に引っかからないのだ。
「何なのよ、これ・・・」
極美は、ペンの後ろでアゴをトントンと叩きながらつぶやいた。その時、極美の傍に何者かが近づいてきて言った。
「相席、よろしいでしょうか?」
(まだ空いている席もあるのに、何だこの人は・・・)
極美はそう思いながら胡散臭そうに声の主の方を見ると、そこには30歳前後の男が立っていた。極美は適当に断ろうと思い、言葉を捜した。
「相席って・・・、あの、ええっと――」
「ウイルスに興味がお有りなんでしょ?」
男の意味深な言葉に、極美は目を丸くして男の顔をじっと見た。
 

 スタッフ・ステーションでは、ギルフォードからの連絡があまりに遅いので、由利子を始め皆やきもきしていた。
「消毒に時間がかかるとはいえ、遅すぎるな。シャワーの浴びすぎで更衣室で伸びているかもしれん。山口君、更衣室に内線を入れてくれないか?」
「はいっ」
山口は、歯切れの良い返事をしてインターフォンに向かった。
「ギルフォード先生、そこにおられますか? ギルフォード先生?」
山口が呼びかけると、数秒経ってギルフォードの声がした。
「はい。ギルフォードです」
スピーカーからギルフォードの声を確認すると、高柳が走ってきてマイクに向かって怒鳴った。
「みんな心配しとるんだ、連絡ぐらい入れたまえ!」
「すみません」
「で、大丈夫だったのか?」
「はい。防護服と手袋は破れていたようですが、素手の方にはめていた手袋は破れていませんでした。タミヤマさんの血液が侵入していた形跡もありませんでした」
「そうか。それはよかった」
「防護服の丈夫さと、手袋の伸縮力に救われました」
「そうか。ウイルスが空気感染するレベルじゃなくて良かったな」
「取り乱してもうしわけありませんでした」
「そういう場合には当然の反応さ。気にするな。特に君の場合は無理からん話だろう」
「すみません」
「君の感染に関する審議をしなきゃならんが、多分大丈夫だろう。その間、君も隔離だが、とりあえず、山口君をそっちにやろう。そのままそこに居たまえ」
「はい、わかりました・・・」
ギルフォードは素直に答え、電話を切った。

「あ~、電話が通じないや・・・」
放課後、帰宅片方ギルフォードに電話をかけていた良夫は、ガッカリしてつぶやき、電話を切った。
「何よ、通じないの?」
傍で彩夏が言った。
「先生は忙しいんだよ。っていうか、何であんたがついてくるんだよ」
良夫が鬱陶しげに言うと、彩夏は腕を腰にあてて高飛車に言った。
「だったら、さっさと留守録いれときなさいよ」
「そんなの、わかっとぉ」
良夫は、ぶつぶつ言いながら再度電話をかけ、伝言を入れた。
「良夫です。あのことで新事実がわかったので、お知らせしたくて電話しました」
それだけ言うと、良夫は電話を切った。そばで、また不満げに彩夏が言った。
「何よ、それだけ? それに新事実って何よ。バラエティの見過ぎじゃないの、あんた」
「あ~、うるさい!」
良夫は、彩夏に向かってシッシッと手を振りながら言った。二人より少し後ろを歩いていた勝太がぼそりと言った。
「二人とも、ツンデレ?」
「バカッ!!」
二人から同時に振り向き様に言われ、勝太は首をすくめた。
 

 夕方のC川で、若者達が群れていた。
 気候が暖かくなると、若者達が集まってバーベキュー・パーティーをやる姿がよく見られるが、それに乗じて大音量で音楽をかけたり花火や爆竹を鳴らしたりして騒いだり、川や周囲を汚したまま帰ったりする輩も少なくないので、近隣の住民からはいい顔をされないが、広いC川の河川敷故に大目に見られている、言ってしまえば放置されている状態であった。
 今日も例に漏れず、彼らはバーベキューの準備に余念がなかった。彼らはワイワイ騒ぎながら、ハイテンションで作業をしている。そんな中、仲間の女性がきゃあという悲鳴を上げた。
「どうした?」
「なんかおったと?」
「ゴ・・・ゴキブリがいるの」
女性は怯えたように答えた。
「え~、ウッソ~。気持ち悪~」
別の女性も気味悪そうに言ったが、多分に媚が入っていた。仲間の男の一人が言った。
「ゴッキーなんて、有史以前から人のいるところにいるようなもんだ。気にしてたらきりがないよ」
「そうそう。それよりちゃっちゃ準備して早く始めようや」
「おれ、もう腹が減ってたまらんばい」
男達は、怯える女性達を尻目に準備に余念がない。しかたなく彼女らも準備を再開した。バーベキューコンロに火が入り、炭火の臭いがあたりに広がった。その頃には、みんなゴキブリのことはすっかり忘れてワイワイとコンロを囲んでいた。
 

 その頃、由利子は山口と共に、ギルフォードの待機している更衣室に向かっていた。
「あの、ほんとに私も行って良いんでしょうか」
由利子は少し心配そうに訊いた。山口は爽やかな笑顔で答えた。
「だいじょうぶよ。じゃなきゃ高柳先生から行っていいなんて言うわけないでしょ」
「そうでしょうか」
「それに、空気感染する病気じゃないでしょ。万一感染していたとしても、人に感染すようになるまで何日かかかるわ。まあ、そうなったらもう簡単には会えなくなるでしょうけど」
「そんな・・・」
「うふふ、大丈夫よ。アレク先生は悪運が強いもの・・・。って、やだ、悪運なんて言っちゃった」
山口は、心配する由利子が安心するように勤めて明るく言った。山口は30歳半ばくらいの女性で、小柄で華奢な体格をしている。その上顔は可愛くてなんとなく幼く見える。しかし、彼女は見かけとは裏腹に、この病棟を支える優秀な医療スタッフの一人だ。
「それより・・・」山口は意味深な笑みを浮かべて言った。「私ね、アレク先生が紗弥さん以外に気に入ったという女性に会ってみたかったの」
「え?」
「ほら、あの人あまり女性に興味持たないでしょ」
(有名じゃん、アレク)
由利子は思った。
「だから、どんなスーパーレディーかと思ってたのよ。でも良かったわ」
「全然普通の凡人だったので、がっかりしたでしょう?」
「ううん、逆よ逆。お付き合いしづらい人だったらどうしようかって思ってたの。あなたとは気が合いそうだわ。私、山口朋恵(ともえ)。改めてよろしくね」
山口は由利子の方を再度見ると、右手を差し出した。由利子はその手を取って言った。
「私の方こそ、よろしくお願いしますね」
「じゃ、これから敬語は無しで、お願いね」
山口はにっこり笑うと言った。由利子も負けじと笑顔で答えた。
「ええ」
「おっと、着いたわ。ここよ。念のために中にもうひとつドアがあるからね」
山口は、分厚い扉を開けて中に入った。由利子も後に続く。山口の言ったように、中にもうひとつ頑丈そうなドアがあった。病棟自体が回りを厚い壁の廊下で囲まれているから、2重3重に防御されていることになる。更衣室は当然男女別だったが、山口は躊躇せずに男子用のドアを叩いた。
「アレク先生? お加減はいかがですか?」
すると、中からギルフォードの元気そうな声がした。
「はい、ダイジョウブです」
「入ってもよろしいでしょうか?」
「あ、ドアの鍵は開いてます。デモ、チョット待って・・・」
ギルフォードがそう言い終わらないうちに、鍵が開いているという言葉に反応した山口がドアノブに手をかけていた。チョット待ってという言葉も耳に入ったが、反射的にやってしまったことなので、手を止められずにドアをあけてしまった。と、同時に二人は「キャァッ」という短い悲鳴を上げた。中には焦って立ち上がろうとしている素っ裸のギルフォードが居た。
「Oh! No!!」
流石のギルフォードも驚いてその場でうずくまった。
「もうっ! いつまですっぽんぽんで落ち込んでんのよッ! バカ!!」
由利子は怒鳴りながら真っ赤になって後ろを向いたが、山口は流石に医師と言うだけあってすぐに平静を取り戻して冷静に言った。
「アレク先生、大丈夫です。ご本尊様までは見えませんでしたから」
「ご、ご本尊様・・・、ご本尊様って・・・」
由利子は耐え切れず、その場に座り込むとケラケラと笑い出した。
 

「え? テロォ?」
流石の極美も胡散臭そうに問い直した。
 最初、近づいてきた見知らぬ男に警戒した極美だが、その男がいかにも育ちがよさそうで、しかもイケメンだったので、彼が言った意味深な言葉もあって相席を了解したのだった。男は降屋裕己(ふるやひろき)と名乗った。この界隈のオフィスに勤めているが、家はK市にあるという。その後、世間話をしながら彼の様子を見ていたが、誠実そうで中々好青年のように思われた。そこで、最初振られた話を改めて訊いたところ、出てきたのが「バイオテロ」というものだったのだ。
「シッ! 声が大きい」
「ごめんなさい」
極美は声のトーンを落として続けた。
「ええっとぉ、それが、何でこの地で?」
「そこまでは・・・。しかし、これは僕の知り合いの公安から直接聞いた話なんだ。実は、僕も今回ホームレスが集団死した事件を不審に思ってたんだよ。実は、当日の朝公園の前を犬を連れて散歩していたら、警官達に通行を止められてしまって、気分の悪い思いをしてさ。僕は文句を言って中に強引に入ろうとしたんだけど、警官達に取り押さえられて・・・。で、その時見たんだ。中に異様な格好をしている警官達が沢山いたのを・・・」
「それって、何かの防護服みたいな?」
「そうそう。そんな感じだったよ。それで、気になっていろいろ調べていたら、さっき言った知り合いの公安警察官から、危険だから嗅ぎ回るのを止めるように忠告されたんだ。その時、彼が言ったのが『バイオテロ』かもしれないということだったんだ」
そこまで聞くと、極美は彼の言うことに興味を持つようになった。何より彼は自分も見たあの防護服の警官達を見ている。極美は彼に自分の見たものを話すことにした。
「なんだって? そんなことがあったなんて・・・。君、すごいことに遭遇したんじゃないか!」
降屋はやや興奮気味に言った。
「あなた、公園のこと調べてたのに、気がつかなかったの?」
「あのね、その頃は僕、会社だよ。それに、用もないのにわざわざ帰宅方面と反対方向の公園なんかに寄るわけないだろ」
「あ、そっか」
「だけど君の話を聞いて、正直しまったなって思ったよ。帰りに寄ってみれば、まだ何か見れたかもしれないって。実は、また公園が閉鎖されたので、変だとは思ってたんだ」
「でね、写真を撮ったけど警官にばれてデリられちゃったの」
極美は、まだ2枚ほど証拠写真が生きていることを、彼に教えることは控えた。
「なんてことだ」
降屋は、残念そうに言った。
「それにね、おかしいことだらけなの」
と、極美はさらに声のトーンを落として言った。小声で頭を寄せながら話す二人は、傍からは仲の良い恋人同士に見えたかもしれない。
「その事件は報道されなかったのよ。女の子が誘拐・・・多分だけど、されて、犯人の女が自殺したのよ。全国報道されてもおかしくない事件よ。なのに、ローカルニュースでも報道されなかった・・・。私、その日はワクワクしながらニュースを待っていたのよ。見逃す筈がないわ」
「報道規制されたと?」
「そうとしか考えられないじゃない。それに、私が調べたその事件関連の病院がないの」
「なるほどね。例の公安警察・・・ぶっちゃけ僕の親友なんだけど、彼は、僕があんまり息巻いていたんで、危険とおもったんだろうね。ここだけの話だからって教えてくれたんだ」
「え? 何?」
極美は身を乗り出して聞いた。しかし、降屋はにやりと笑って言った。
「君、他にも何か知ってるだろ? それを教えてくれなきゃあ続きは無しだよ」
「え・・・? どうしてそんなこと・・・。そういえば、最初あなた、ウイルスに興味があるとか聞いたわよね。どうしてそんなこと?」
「実はね、僕がホームレス死亡事件を不審に思って調べてたって言ったよね。その時、偶然君が同じ事件を調べているところを見たんだ。それで、興味があってしばらく君の周辺を見張ってたのさ」
「え~~~? 全然気がつかなかったわ」
極美はいささかゾッとしながら言った。
「君、自分だけが知ってるって思ってただろ? だから周囲に無頓着だった。『鹿追うものは森を見ず』っていうだろ? 気をつけないといけないよ」
降屋はしごく真面目な表情で言った。極美は降屋のそういう態度にすっかり彼を信用してしまった。それで、彼女は調べたことの概要を降屋に話した。
「なるほどね。君があの公園で見た防護服の警官と細菌を結びつけたのはいい線行ってるよ。ただし、それは細菌じゃなくてウイルスらしいけどね」
「ウイルス・・・? それって細菌の一種じゃないの?」
「ちがうよ。ウイルスはもっと小さくて、他の細胞に寄生しないと増えないモノさ。生物とはいえないね、あんなの。まあ、僕も最近までそんなこと知らなかったけどさ」
「それで?」
「それでって、だからウイルスと・・・」
「それじゃないわ。今度はあなたが話す番でしょ」
「そうでした。僕が公安の親友から聞いたのは、ホームレスたちがウイルス病で死んだってことと、それはテロリストがウイルスの効果を調べるためにやった実験らしいということ。テロリストの正体はまだわかっていないらしい。判っていることは、それには・・・」
「それには?」
「ある外国人のウイルス学者が関わっているってこと」
「外人の!? そういえば、公園の事件の時居たわ。外人の男が一人。でも、彼は警察側の人間みたいだったわ」
「多分そいつだ。知事の信頼をいいことに警察内部に入り込んでいるって話だ」
「そういえば、私が会った少年から聞いた話にも、そいつが『教授』って呼ばれてたって・・・。でも、彼はウイルスを防ぐ側だったみたいだけど?」
「実験のつもりがそのマサユキとかいう少年のために感染拡大したんで、慌てて収拾をつけようとしてるんじゃないかな」
「じゃ、じゃあ、拡大が防げなった場合は・・・」
「多分、・・・日本中で本格的なテロが始まる・・・!」
「大変だわ!」
極美は言った。
「裕己さん、私ね、実は週刊誌の記者なの。これ、名刺」
極美は急いで名刺を渡した。
「えっと、『週間サンズ・マガジン』・・・? あ~、あの有名な・・・」
「有名な?」
「タブロイド紙・・・」
降屋の言葉に、極美はがっくりした。
「あのね、違うわよ。確かに最近妙な記事がよく載ってるけど、もとは正統派のジャーナリズムを追求する・・・」
「でもねえ、今はタブロイド色が強いのは事実だし・・・」
「わ、わたしが元の路線に戻してやるわよ。だから、あなたの話の掲載を許可してちょうだい。掲載されたらそれなりの代価を払うわ」
「でもねえ、タブロイド紙にこんな話載せても、何人が信じてくれると思う?」 
「でも、誰かが報せないと・・・! 一部の人たちだけでも信じてくれたら、もしテロが始まった時に有効だと思うの。お願い、裕己さん」
極美は真剣な顔で降屋をじっと見た。
「わかったよ。許可しよう」
降屋も真剣な顔で答えた。
「その代わりだけど・・・」
そう言いながら、降屋はじっと極美の胸の辺りを見ながら言った。
「な、何よ?」
極美は、次の言葉を予想して身構えた。
「あのね、僕、実はKIWAMIちゃんのファンだったの。これにサインしてくださ~い!」
降屋は急に相好を崩しながら、カバンから写真集を出して言った。
「そ、そんなんでいいの?」
想定外の降屋の行動に、極美はすっかり毒を抜かれた形となった。
 二人は目的の話が終わっても、しばらく世間話で盛り上がった。降屋は、極美からグラビアアイドルだった頃の裏話を聞いて、怒ったり爆笑したりした。極美は彼のそういう純なところが気に入った。
「あはは、極美ちゃん、話上手いよ、ほんっと。ジャーナリストよりタレント目指せばよかったのに」
「ううん。もう、根無し草のような生活に疲れちゃったの。でも、考えたら今の仕事だってジャーナリストというよりヤクザ仕事よね」
「せっかく転職したんだろ。がんばってよ。僕も影ながら応援するよ。また何か情報を仕入れたら連絡する。僕の名刺、失くさないで」
「私のもね。じゃあ、今から部屋に帰って忘れないうちにまとめておくわ。またお会い出来るかな」
「電話してくれたらソッコーで会いに行くよ。仕事中はだめだけどね」
「頼もしいわね」
極美は立ち上がりながら言った。
「じゃ、そろそろ行かなきゃ。情報をありがとう。今日は楽しかったわ。お勘定済ませとくわね」
極美は伝票を手にしながら言った。
「あ、ありがとう。僕も楽しかった・・・っていうか極美ちゃんと話せて夢みたいだったよ」
「うふふ、上手いわね。じゃ!」
極美は手を振ると、颯爽とレジに向かい、勘定を済ませると降屋に向かってぺこりと頭を下げて店を出た。降屋もニコニコ笑いながら、手を振っていたが、極美の姿が見えなくなると急に笑顔が消えた。そして、ふうっと上を見ながら言った。
「これで宜しかったですか?」
「名演技でしたよ。ご苦労様でした」
降屋の後ろの席に座っていた男性が答えた。降屋は振り向かないまま、胸に手をあてゆっくりと頭を下げながら言った。
「お役に立てて光栄です。長兄さま」

 罠にはめられたとも知らず、極美は陰謀を暴くべく、正義感に燃えて自室に向かっていた。その足取りは自信に満ちていた。
 

 C川でバーベキューパーティーをしていたグループは、盛り上がっていた。日は落ちていたがまだ明るい。夕焼けもかなり色褪せ、空には朱色の雲に混ざって紫や灰色の雲が目立ち始めた。しかし、彼らにとってはこれからがパーティーの本番である。興に乗った彼らは、かけている音楽のヴォリュームを上げ、プチ祭り状態となった。その時、女性の悲鳴が上がった。
「何だよ」
「どうしたん?」
「またアレが出たんか?」
男達が、めんどくさそうに悲鳴を上げた女性の方を向いていった。しかし、女性は悲鳴を上げながら何かを指差している。他の女性達もそれに気がつき、共に悲鳴を上げた。その方向を見ると、彼らが残飯やゴミを捨てたビニール袋に沢山の黒いドットが出来ていた。しかも、それは動いている。
「うわぁあ~~~~~!!」
流石の男達も、叫び声を上げた。臭いに釣られたのかゴキブリたちが続々と集まって来ていた。パーティーの場は、いきなりパニック状態になった。
「みんな落ち着け!」
一人の青年が叫んだ。
「いいか、まだ虫の侵入していないものはビニール袋やクーラーボックスに入れて急いで車に積むんだ。食べかけたものや封の開いたものは廃棄しろ! 開けてないカンやペットボトルはクーラーから出して! ビニール袋の口は、しっかり閉めろよ!」
彼はテキパキと仲間達に指示を出した。
「本剛さん、ゴキのたかったゴミはどうする?」
「他のゴミと一緒に燃やそう! コンロの中の燃えた炭を被せるんだ。焦って火傷はするなよ!」
「判った!」
「頼んだぞ、早渡(ハヤト)!」
「了解。 多岐、手伝え! みんな、ゴミをここに集めろ!」
すばやくゴミが集められ、早渡と多岐はコンロを運び、空いた方の手で口を塞ぎながらコンロの炭をゴミの山に被せた。ジュウッと激しい音がして、灰が周囲に舞った。
「いって~! 灰が目に入った! コンタクトが~!」
しかし、皆が呆然としていて誰もその声に反応しなかった。彼は片目を押さえながら走って煙から逃れ堤防の法面(のりめん)を駆け上がった。女性が一人それに気付いて後を追った。
「末松君、大丈夫?」
「ああ、亜由美か? なんとか大丈夫や。目薬で目とコンタクトを洗ったけん」
そう言いながら彼女の方を振り返ろうとして、彼の動きが止まった。彼は、橋の下にある粗末な急ごしらえの小屋のようなものを見つめていた。彼女もそれに気がついてそっちを見た。どうやらあの虫達はあそこから湧いたらしい。
「くそっ、浮浪者やろ? 俺達のバーベキューを台無しにしやがって・・・。ちょっと文句言ってくらあ」
末松は、そう息巻くと『小屋』の方に向かった。亜由美もその後をこわごわ追った。
「おい、オッサン!」
末松は乱暴にノックしながら声をかけた。しかし、何の反応もない。
「もういいじゃん。みんなのトコに帰ろうよぉ。なんだか嫌なにおいもするし・・・」
しかし、頭に血の上った末松は、亜由美の言葉は通じなかった。
「そりゃあ、浮浪者やけん臭いにおいもするやろ。おい、オッサン、返事せぇ!!」
末松はもう一度激しくドアを叩いた。しかし、力任せに叩いたのが不味かったのだろう。もともと粗末だった作りの戸口がバタンと倒れ、それと共に埃やチリがもうもうと舞った。
「うおっ」
末松はまた目にゴミが入りそうになって、とっさに目を閉じ小屋から走って逃れた。そのため、法面に足をとられて半ばまですべり落ちてしまった。亜由美は、逃げる余裕もなく顔を覆ってしゃがみこんだ。亜由美は咳き込みながらしばらくその体勢でいたが、おずおずと目を開いた。埃はかなり収っていた。ほっとして亜由美は立ち上がった。黄昏の薄闇のなか、小屋の中は灯油ランプが点いていたので、薄ぼんやりと明るかった。そこで亜由美は男がこっちに頭を向けて仰向けに倒れているのを見た。亜由美は恐怖で動けなくなり男から目が離せなくなってしまった。見たくもないのにその様子が目に入った。男は死んでおり、すでに硬直していた。遺体はかなり損傷しておりその上には大きな虫が10数匹ちょろちょろしていた。
(アレラハ、死体ヲ食ベテイルンダ・・・)
亜由美がやっとそれを理解した時、男の眼窩から一際大きな虫が這い出てきた。亜由美の目と口が大きく開かれ、のどから悲鳴がほとばしった。末松は驚いて亜由美のもとに走った。河川敷の仲間らもそれに気がついて数人の青年達が二人の方に向かって駆け出した。

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