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2.侵蝕Ⅱ (7)キッドナップ

「ああ~、いい気持ちだった~。お風呂サイコー」
由利子は、気分よく風呂から上がった。髪は洗い立てなので頭には大きめのタオルを巻き、暑いのでこれまた大き目のTシャツにアンダーパンツだけのあられもない姿だったが、一人暮らしで同居人は猫だけという気楽な生活であるので、そのあたりはさして気にする必要もない。由利子は、冷蔵庫を開けると缶ビールに手を出そうとした。しかし、つい1時間半前くらいまで飲んでいたことを思い出し、予定を変更して手を牛乳パックの方に向けた。グラスに牛乳をついで、く~~~っと一気飲みをした。その後グラスを流しの中に置き水に浸け、キッチンから部屋にもどり、ぬれた髪を乾かし始めた。ドライヤーの苦手な猫2匹は、ベッドの中に避難した。いつものことなので由利子は全く気にしていない。髪を乾かしながらふと机の上の携帯電話を見ると、着信の知らせが入っていた。中を確かめてみると美葉からの着信とメールだった。電話は、メッセージも何もなく切れていた。変だなと思いメールを開いてみる。件名はなく本文も短いようだ。しかしその内容を見て、由利子は首をかしげた。

 由利ちゃんどうしよう、ゆうきさ

「何、これ?」
普通なら、単なる送り間違いとして大笑いで終わりそうなメールだったが、由利子は、そのメール文の妙な中途半端さに、却って不気味なものを感じた。
「『ゆうきさ』って何? 勇気さ? 違うよな。『どうしよう、勇気さ』じゃあ辻褄が合わんやろ。なんだろ、引っかかるな。ゆうきさ・・・ゆうき・・・ゆう・・・き?」
由利子はハッとした。この前ギルフォードと美葉の部屋に行った時、長沼間の伝言を彼女に伝えたが、その時彼女が口にした彼氏の名前が、確か『ゆうき』だったということに思い当たったからだ。不吉な予感がして、いそいで電話を入れる。
「頼む、出て・・・!」
祈るような気持ちで電話を耳に当てる。しかし、呼び出し音はせず、無情にも留守番電話サービスに繋がった。電源が入ってないか電波の届かないところに居る・・・? しかし、美葉が携帯電話の電源を切ることはほぼないと思っていい。また、美葉がこんな時間に電波の届かないようなところに行く可能性も少ない。第一、由利子から危険に曝されていることをあんなに注意されたのだから。
「何かあったんだ・・・」
由利子は直感した。由利子は急いで着替えると火元の確認をし、電話と財布を引っ掴み、髪が半濡れのまま部屋を飛び出した。猫達が不思議そうな顔をして、ベッドから顔を出した。

 由利子は、一気に走って大通りに出てタクシーを捜したが、こういうときに限ってなかなか空車が来ない。やきもきしていると、ようやくランプを点けたタクシーが一台走ってきた。両手を振ってタクシーを止める。
「すみません。助かります」
由利子は乗りながら運転手に礼を言った。その後すぐに行き先を告げ、タクシーが動き出すとすぐにギルフォードに電話を入れた。ここは110番より、事情を知っているギルフォードに電話したほうがいいと思ったからだ。しかし、これまた繋がらない。
(しまった! 彼は今、病院にいるんだった! なんてこと・・・)
由利子は伝言を入れた後電話を切ると、しばらく電話を眺めながら考え込んだ。
(やっぱ、110番か・・・)
そう思って再度電話を開いた時、ちょうど電話が震えた。ギルフォードからだ。由利子は速攻で電話に出た。
「あ、アレク? 由利子です」
「どうしました?」
「電話、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫です。携帯電話の電源を入れ忘れてました。今、帰ろうと思って駐車場に向かっているところです。サヤさんもジュンも一緒ですよ」
「あのっ、美葉が電話に出ないんです」
「電話に出ないって、トイレとかお風呂じゃないんですか?」
「電源が切れてるんです。美葉のところには固定電話がないから、彼女が家にいる時、携帯電話の電源を切ることは、まずないんです」
「なるほど」
「それに、美葉から着信があってて、その後、途中までの意味不明なメールが来てたんです。だからそれまでは電源は切ってなかったはずです。ほんの15分かそこら前のことです」
「確かに、それは変ですね・・・」
「今、タクシーで美葉のところに向かってます」
「わかりました。僕らもそっちに向かいます。交通事情によってはこっちからのほうが早いかもしれません。事件性が不明なので警察は動けないかも知れませんが、一応110番してみて下さい。何よりパトカーが一番速いでしょうから。僕は、長沼間さんに連絡を入れてみます。張り込みの人に様子を見てもらえるかもしれないですし」
ギルフォードは、その張り込みの警察官が、まず倒されてしまったことをまだ知らない。由利子は言われたとおり110番したが、やはり事件性の根拠が希薄なせいか、あまり熱心には受け取ってくれなかった。それでも、とにかく誰か向けましょうと言ってくれたので、由利子はとりあえずほっとした。一方通報を受けた通信司令室の警官は、司令室前方の大ディスプレイでパトカーの所在を確認して「あちゃ~」と言った。パトカー出動を表す地図を見ると、九州最大級の繁華街であるN州近辺とQ自動車道の方にパトカーが集中しており、電話の通報のあったマンション付近に即向かえる位置にパトカーがいなかったからだ。
「そういえば、繁華街で発砲事件と、高速では玉突き事故が発生していたな・・・」
彼はつぶやいた。

 ギルフォードは事情を説明して運転を紗弥に任せ、長沼間に電話をいれた。その間、葛西があることに気がついて紗弥に尋ねた。
「紗弥さん、ひょっとして酒気帯びでは・・・?」
「大丈夫です。生ビールをほんの一杯しか飲んでませんから、もうとっくに分解していますわ」
紗弥は澄ました顔で答えた。
「マジ・・・?」
いくら何でも三時間やそこらで分解はないだろう。しかし、そういえば酒臭さはしないようだ。
(バケモノ・・・?)
葛西は思ったが、もちろん口には出さなかった。
 長沼間は何故か電話に出るまでに時間がかかったが、しばらくして不機嫌そうな声で応答してきた。
「俺だ。こんな時間に何だ、先生」
「あ、ナガヌマさん、ギルフォードです。あのミハさんが・・・」
「あいつ等に電話しても繋がらないんで、張り込みの現場に向かおうとしていたところだ。まったく糞の役にも立たん連中だよ」
「え? 現場の部下に連絡がとれない・・・?」
ギルフォードは不吉な予感に襲われた。
「ナガヌマさん、これは何かあったのかもしれませんよ」
ギルフォードは長沼間に、由利子からの電話の内容を話した。
「くそ~!」長沼間は言った。「本当に役立たずな奴らだ。オマケに心配までかけさせやがる」
そこまで言うと電話がブチッと切れた。
「長沼間さんが向かったようです。急ぎましょう」
ギルフォードが言った。紗弥は、何も言わずにアクセルを踏んだ。車はいきなりスピードを上げた。後部座席に乗った葛西が驚いて言った。
「うわあ、一応現役の警察官が乗ってるんです。派手なスピード違反はやめて下さい」
「サヤさん、急ぐとは言え公道です。ある程度の速度で手を打ってくださいね」
それでも、紗弥はスピードを緩めない。
「パトランプが欲しいぞ~~~!」
葛西が叫んだ。

 由利子は思ったより早く美葉のマンションについた。電話の内容から緊急性に気づいた運転手が、抜け道の限りを駆使して急いでくれたからだ。警察もギルフォードもまだ来ていない。がっかりしながらも、由利子は運転手に心からお礼を言うと、急いでマンションの中に駆け込んだ。急いでインターフォンで美葉の部屋に連絡をとってみる。やはり反応がない。仕方がないので管理人を呼び出した。深夜にも関わらず彼女は幸い起きていて、すぐに出てきてくれた。由利子は事情を説明し、管理人に美葉の部屋の鍵を開けることを納得させた。二人は美葉の部屋に向かった。
「いえね、変と思ったのよ」
管理人の女性が言った。
「多田さんの部屋が騒がしいって苦情が出たの。彼女が入居してからこんなこと初めてだったのよ。でね、様子を見に言ったら、なんでもないって言われて。ほら、こっちもそれ以上追求できないでしょ」
管理人の言い訳じみた話を聞きながら、由利子は不安を募らせた。美葉の部屋の前に着くと、管理人はインターフォンで美葉に呼びかけた。
「多田さん?」
応答がない。管理人はドアをノックしながら言った。
「多田さん? 居るの? 何かあったんじゃないの? 開けるわよ」
やはり、何の反応もない。由利子と管理人は顔を見合わせた。二人とも顔がこわばっている。
「仕方がない、開けましょう」
管理人は言うと、合鍵でドアを開けた。中は電気が消えて真っ暗になっていた。管理人が慌てて電気を点ける。部屋は急に明るくなり、由利子は一瞬目をつぶった。
 部屋の中は、かなり荒らされていた。美葉の部屋では誰かが暴れたような跡があった。床には砕けた携帯電話が落ちており、血を拭いた様な跡もあった。尋常でない事態が起こったことは間違いない。管理人は「110番、110番」と言いながらオロオロしながら電話をポケットから取り出していた。その間由利子は部屋中を美葉と美月の姿を探し回り、バスルームのドアを開けて息を呑んだ。
「美月!!」
由利子は悲鳴に近い声で、美葉の愛犬の名を呼んだ。

 幸い、葛西が同業者に遭うことなく目的地に着いた。どうやら、長沼間より先に着いたようだ。葛西は乗っている間、生きた心地がしなかったが、ほっとして車から降りた。ギルフォードも車を降りながら言った。
「しかし、まったく警察には遭わなかったけど、何か事件でもあってるんでしょうか」
「そうかもしれませんね」
「いずれにしても良かったですね、ジュン」
「ですが、逆にこっちにすぐ来れない可能性も出てきました。急ぎましょう!」
葛西がそう言ったと同時に、もう一台車が止まり、男が降りてきた。長沼間だ。彼は、バタンと激しくドアを閉じると、駆け足でギルフォードたちの方に向かってきた。
「何があったんだ? アレクサンダー」
「いえ、僕たちも今来たばかりです。ナガヌマさんの部下さんたちはどこに?」
「それは、俺が行く。オマエさんたちは早く多田美葉のところに行ってくれ」
「OK、急ぎましょう、二人とも」
ギルフォードたちと長沼間は二手に分かれ、目的の方へ向かった。
 ギルフォードたちは、エントランスのオートロックの前で顔を見合わせた。
「管理人を呼んでみましょう」
葛西はインターフォンで100を押してみる。しかし、応答がない。
「寝てるんでしょうか」
「ユリコに電話してみましょう」
ギルフォードはそう言いつつ電話をかけ始めた。
「もしもし、ユリコ?」
「アレク!」
電話の向こうで珍しく冷静さを欠いた由利子の声がした。
「アレク! どうしよう、美月が、美月が・・・!!」
「ミツキちゃんが? てことは、今、美葉さんのところに居るんですね」
「あ、はい。でも美葉がいないんです。それで、美月が大怪我をしていて・・・」
「大ケガ?」
「はい。息はあるけど全く反応がなくて・・・どうしたら・・・」
由利子の声が涙声になった。
「すぐ行きますから、とにかくオートロックをどうにかして欲しいのですが」
「管理人さんに言ってみます」
そのまま電話が切れ、少しするとドアが開いた。と、同時に三人は中に入り急いでエレベーターに向かおうとしたところで、紗弥が異変に気がついた。
「呻き声が聞こえますわ」
紗弥は、あたりを見回すとまっすぐに建物内の公共トイレに向かいドアを開けた。
「教授!」紗弥はギルフォードを呼んだ。「中で人が三人倒れていますわ」
「なんだって?」
ギルフォードより葛西が先に反応し、走ってきた。ギルフォードも後に続く。
「女性が一人で男性が二人。男性の一人はもう息がありません。後の二人は呼吸は安定していますが、急いで病院に運ばないと」
紗弥が説明した。葛西はギルフォードに向かって言った。
「ここは僕たちに任せて、アレクは早く由利ちゃんのところに行ってあげてください!」
その時、長沼間が走ってきた。
「あ、ナガヌマさん! こっちに人が倒れています。お願いします」
そう言いながら、ギルフォードはきびすを返し由利子のもとに向かった。
「何があった?」
長沼間は、葛西と紗弥が人をトイレから引っ張り出しているのを見て駆け寄ってきたが、そのうちの一人を見て驚き、怒鳴った。
「武邑!!」
長沼間は、葛西を押しのけて部下の脈を見、まだ息のあるのを確認してほっとした。葛西はむっとした顔をしたが、すぐに救急車要請のため電話をかけはじめた。長沼間は、武邑の頬を軽く叩きながら怒鳴った。
「武邑! しっかりしろ! わかるか? 俺だ!!」
武邑はうっすらと目を開けて言った。
「・・・。長沼間さん、すみません。ヤツを取り逃がして・・・。僕が油断したせいで、松川まであんな目に遭わせてしまって・・・」
「もういい、後は病院で聞こう」
「長沼間さん、少しお退きくださいませ。息のない男性の蘇生をしてみますわ。まだ暖かいですから」
そういいながら、紗弥はバックから感染防止用の人口呼吸マスクを出すと、蘇生をはじめた。
「流石、ギルフォードの秘書だな、用意のいいこって」
長沼間は感心しつつ言ったが、すぐに葛西に向かって言った。
「一台すでに呼んでいるんだ。念のため別口だということを伝えといてくれ。連中時たま勘違いするからな」
以前女性が車中で水死した事件のことを言っているらしい。葛西は頷き電話を続けた。
「すぐ来るそうです。一台呼んだってどういうことですか」
「車の方で、部下が一人倒れていた。まだ息はあるが、意識不明の重体だ。それで、もう一人の確認のためこっちに来た。すまんが、向こうの様子を見に戻らんといかん。こっちはよろしく頼む」
長沼間は葛西に頭を下げると、外に走って行った。入れ替わりに警官が二人走ってきた。
「すみません、立て込んでいたので遅くなりました」
そう言うなり、思った以上の惨事に警官二人は一瞬たじろいだ。
「何があったとですか?」
「わかりません。僕らも来たばかりなので」
葛西が、警官達に向かって手帳を出しつつ言った。
「ご苦労様です。K署捜査一課の葛西です」
「K署の刑事さんが何でこんなところへ?」
と、警官の一人が訝しげに訊いた。
「成り行きです」葛西は答えた。「通報した女性の知り合いです。連絡を受けたので急いで来ました。しかし、まさかこんなことになっていようとは・・・」
葛西は絶句した。傍らでは、もう一人の警官が、増員を要請している。
「通報があったのは、上の階の女性の件でしたが・・・」
「そうです。今二人、その女性の関係者が行ってます。ここは任せて、とにかく行ってあげてください」
「わかりました。行くぞ!」
二人の警官は通報現場に向かった。遠くから救急車のサイレンが聞こえ始めた。

 ギルフォードは管理人に通され美葉の部屋に入ると、室内の状況を確認し予想以上の荒れように驚いた。しかし、すぐに、心配そうに美月の傍に座っている由利子のところに向かった。
「ユリコ」
「アレク! 美葉がどこにもいないの。誘拐されちゃった・・・」
「とにかくミツキちゃんの様子を見させてください」
ギルフォードは、急いで美月の容態を見ると言った。
「急がないと危ないです。今から知り合いの獣医師のところに連れて行きましょう。毛布かバスタオルはありますか?」
「探してみます」
由利子は立ち上がった。まもなく押入れからタオルケットを引っ張り出して持ってきた。ギルフォードは美月をタオルケットで包みながら言った。
「酷いことをしますね・・・」
「ええ・・・」由利子は答えた。「美葉から彼氏について聞いた話では、気の弱い優しい人だったのに、こんなことをするなんて・・・」
「ペルソナ・・・。人はいろんな仮面をつけているものですよ。・・・或いは何か薬物をやっているのかもしれません」
「クスリ・・・?」
「ええ。ある種の薬物は人の性格を変えてしまいます。ホラ、あそこの携帯電話、見事に砕かれているでしょう? 多分、君にメールを送ったことがわかって、あれに怒りをぶつけたんです。かなり衝動的な行動です。あと、家の中を物色した形跡がありますね。ここに何か探しに来たんでしょうか。見つからなかったので、怒ったのでしょう。周囲のものが壊されています。これは相当イカれてますね」
「そんな危険なヤツに、美葉は連れ去られたって・・・」
由利子は言葉を失った。
「部屋に入れてしまった段階で、もう勝負は見えています。言わんこっちゃないです。厳しいようですが、これは、ミハの失態です。かわいそうに、この子はミハを必死で守ろうとしたんでしょう」
「でも、悪いのは美葉の彼氏です。でも、不甲斐無いのは美葉を守ると言った公安だわ。彼らの目をスルーしてやってきたから、美葉も安心したんだと思うわ」
「その公安の人たちですが、おそらくやられてしまったようです」
「ええ? そんなバカな・・・!!」
由利子は驚いて言った。そんな事態は考えてもいなかった。ギルフォードは美月を抱き上げると、立ち上がって言った。
「男は何か強力な武器を持っています。それにこの子はやられたようです。下にも被害者がいました」
「下に!? 気がつかなかった・・・。なんてこと・・・」
「一刻を争いますので、僕はこれからこの子を病院に連れて行きます。あとはよろしくお願いしますよ」
そういうと、ギルフォードは急いで美葉の部屋を出て行こうとした。その背中に由利子が声をかけた。
「よろしくお願いします。助けてください」
「大丈夫。彼ならきっと助けてくれます」
ギルフォードはにっこり笑って言うと、部屋を出た。出掛けに警官二人に出会った。
「ああ、ゴクロウサマです。今から被害にあった犬を病院に連れて行くところです。急がないと間に合わないので・・・」
ギルフォードは不審そうに自分を見る警官達に説明した。
「あ、その人は大丈夫です。あの、私が110番した者ですが・・・」
由利子が玄関から顔を出すと、急いで説明をした。
 ギルフォードがエレベーターで一階に降りると、増員された警官と救急隊員でごった返していた。血を流した犬を、タオルケットで包んで抱きかかえた大男のガイジンは、目立ちすぎて警官達の不審そうな目が集中し、ギルフォードはエレベーターから出た途端、警官たちに囲まれてしまった。
「どいてください! この子を早く病院に連れて行かないと・・・」
ギルフォードはゲンナリとして言った。こういう時は、やはり自分がこの国では異分子なのだと実感する。葛西がギルフォードの声に気がついて焦って説明した。
「この人は大丈夫です。僕の友人で、Q大のギルフォード教授です」
「失礼しました」
警官達がさっと道を開けた。
(”モーゼの気分だな”)
ギルフォードは思った。彼は、警官たちから解放され足早にマンションから出ると、片手で美月をしっかりと抱きながら片手で電話をかける。
「あ、ハルさん? 僕です。夜遅くすみません。大怪我をした犬がいます。診てもらえますか? いいですか? よかった。さすがハルさん、頼りになります。愛してますよ」
電話の向こうで何か騒ぐ声がしたが、気にせずにギルフォードは電話を切った。急いで車に戻ると、後部座席に美月を乗せ、シートベルトで上手く固定するとサッと運転席に乗り、エンジンをかけた。
”必ず助けてやる.がんばるんだぞ,ミツキ”
後部座席の方を振り向き美月に声をかけると、ギルフォードは車を発進させた。

 由利子は、警官達から事情を聞かれて困っていた。どこまで話していいかさっぱりわからなかったからだ。そもそも長沼間からは詳しい話はほとんど聞いていない。通報した経緯までは話したが、それまでのことはどういうべきか迷った。そこに葛西と長沼間が入って来た。
「葛西君!」
由利子は葛西を見てほっとした表情になったが、後ろの長沼間を見ると一変して険しい顔つきになった。由利子は長沼間に近づくと、噛み付かんばかりの勢いで言った。
「うそつき! 美葉を守るって言ったじゃない! 美葉、居なくなっちゃったわ。きっと、あいつに連れて行かれちゃったのよ!」
「すまない」
長沼間は素直に謝った。苦渋に満ちた表情だった。事実、これは長沼間らの大失態である。おまけに部下2名がしばらく活動不能にされてしまったのだ。
「あなたに謝られても美葉は帰ってこないわ! 早く探してよ、急がないと殺されてしまうかもしれない・・・」
「由利子さん、長沼間さんをあまり怒らないでください。この人も二人の部下を意識不明の重体にされたんです」
見かねた葛西が、長沼間に助け舟を出した。
「とにかく早く探してください!! あの人たちにはあなたからちゃんと説明して」
由利子は制服警官たちを指差して言った。二人の警官は由利子の剣幕に驚きつつ、話の内容からこれは思っていたような痴話げんかではないことを認識した。由利子に言われて、長沼間は警官達の方に向かった。
「あなたは?」
「公安の長沼間です」
「公安?」
二人の警官の顔色が変わった。痴話げんかどころか、これが普通の刑事事件ですらないことがはっきりしたからだ。二人は顔を見合わせた。

 ギルフォードが動物病院に着くと、獣医師の小石川晴希が半分シャッターを明け、戸口で待っていた。小石川獣医師は40代後半で、身長はギルフォードと競う高さだったが、体格はもっとがっしりしているため、ギルフォードよりでかく見え、さらに動物病院の医師にありがちな髭を生やしている。近所の人からは春風動物病院の熊先生と呼ばれ、親しまれていた。ギルフォードは美月を小石川に渡すと、医師は美月を見るなり驚き、野太い声で言った。
「美月ちゃん!」
「知ってるんですか?」
「ええ、僕はこの子の罹りつけです」
「とにかくお願いします」
ギルフォードはそう言うと病院の駐車場に車を置きに行った。急いで美月の元に走る。診察室に入ると、小石川が、診察台で酸素マスクをつけた美月を深刻な顔で診ていた。
「ひどい怪我です。何があったんです?」
「この子の飼い主が連れ去られました。その犯人にやられたようです」
「多田さんが? 一体どうして?」
「わかりませんが、犯人はかなりイカれた人物には間違いないですね」
「そうですね。動物をこんな目に遭わせるなんて・・・」
小早川は、表情を曇らせた。
「とにかくレントゲンを撮って背骨に異常がないか見てみます。あと、内臓の損傷も。場合によっては今から手術することになるかもしれません」
「お願いします。お金は僕が立て替えますから」
「いや、気にしないでいいですよ。飼い主にちゃんと請求しますから」
「でも、彼女は今・・・」
「大丈夫、きっと帰ってきます」
小石川は断言した。その時、クウンというかすかな声が聞こえた。酸素マスクのおかげで意識を取り戻したらしい。美月はギルフォードと小石川の顔を見ると安心したように尻尾を弱弱しく振った。
”ミツキ! 気がついたか?”
とっさにギルフォードは英語で言った。それでも美月にはなんとなく意味がわかったらしい。彼女を撫でようと差し伸べられたギルフォードの手を舐めた。しかし、それも力ない。
「Good girl! 僕がわかるんですね。一度しか、それも少しの間しか会っていないのに・・・。」
ギルフォードは感動して言った。
「ハルさん、この子をなんとか助けてやってください。お願いします」
「アレクさん、この子はね、3月のまだ寒い満月の夜に海辺に捨てられていたんです。多田さんが見つけた時は半分ほど塩水に浸かっていて、他の姉妹二匹はすでに死んでいたそうです。この子だけがかろうじて生きていて、必死で鳴いていたそうです。ここに連れて来られた時は、ほとんど意識がありませんでした。でも、この子は生き延びました。今回もきっと生き延びてくれると信じています」
「そうだったんですか・・・。美月、君も大変だったんですね。命の恩人を君は守ろうとしたんですね・・・」
「さ、そろそろ治療を始めます。もうすぐ妻が助手をしにやってきますが、会っていきますか?」
「いえ、僕はミハのところに帰って説明をせねばなりません。奥様にはまた今度」
「残念ですね。妻も会いたがっているのに」
「じゃあ、ミツキちゃんをよろしくお願いしますね。じゃ、ミツキ、がんばるんですよ」
ギルフォードは美月をもう一度優しく撫でると、病院を出ようとした。そこで、小石川の妻とばったり出会った。まだ20代の若い女性である。小柄で可愛らしく、夫と並ぶとまるで赤頭巾ちゃんと野獣といった風情だ。実はギルフォードはこの女性が苦手であった。
 彼女はギルフォードの姿を見るなり言った。
「きゃああ~、ギル教授、おこんばんは~」
彼女はそのままきゃあきゃあ言いながらギルフォードに抱きついた。実は彼女はゲイ大好き腐女子で、おまけに抱きつき魔だった。
「あ、あの、マイさん、僕はこれから急ぎますので・・・」
「舞衣、先生の邪魔をしちゃあダメだろ。早くこっちに来て手伝ってくれないか。重傷なんだ」
小石川は焦って妻を呼んだ。
「マイさん、ミツキちゃんをよろしくお願いします」
ギルフォードはそう言い残すと、病院を出た。
「え? 美月ちゃんなの?」
舞衣は急に真面目な顔になって、夫の元へ走った。

「どうしてこんなことになったんやろ・・・」
由利子は、長沼間や葛西が警官達と話しているのを見ながら、ぼんやり考えていた。
 今日は、楽しい一日で終わるはずだった。だが、夕方から多美山が発症し、そしてトドメのように美葉が誘拐されてしまった。
(一体何がおころうとしているんだろうか・・・)
 由利子は不安を募らせた。しかし、美葉誘拐の重要な鍵は由利子自身が持っていたのだ。そう、美葉から預かった、CD-Rのことである。それは由利子のバッグの内ポケットの中で、統計計算ソフトのパッケージに収まって、綺麗さっぱりと忘れられていた。

(「第2部 第2章 侵蝕Ⅱ」 終わり)  
 

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3.侵蝕Ⅲ (1)愛憎~The man she loves to hate.

20XX年6月14日(金)
※後半R18注意

 美葉失踪に関して、由利子は事情聴取を受けたが、ここに残っても由利子にはこれ以上もうどうしようもないので、後は警察に任せてとりあえず家に帰ることとなった。

 由利子はそのままギルフォードに車で家まで送ってもらい、念のためボディガードとして部屋の前まで付いてきてもらった。普通ならお茶くらい振舞うのだけれど、なにぶん丑三つ時を過ぎている。ギルフォードは、くれぐれもこれから注意するように言って、部屋の前から去っていった。
 由利子は帰ったが、いつもの猫たちのお出迎えがない。少し不思議に思ったが、時間が時間なので寝ているのだろうと、あまり気にせずにまずトイレに向かった。ドアを開ける瞬間、美月を発見した時のことを思い出して少し躊躇した。当然何もない。用を済ませると、とりあえず部屋に向かった。走り回ったので、せっかくお風呂でさっぱりしていたのにもとの木阿弥である。とにかくもう一度シャワーを浴びて着替えようと思った。
 部屋に入って、照明をつけた。玄関の明かりを点けたままにしていたので、そこまで真っ暗闇ではなかったが、やはりまぶしい。一瞬明るさで目がよく見えなかったがすぐに慣れた。しかし、由利子はベッドの方を見て驚いた。美葉がベッドの横に座り、寄りかかって眠っていたのだ。猫たちも美葉に寄り添うように眠っている。
「美葉! 起きて! 起きなさい!!」
由利子は美葉の傍に座ると彼女の肩をゆすぶった。
「あ・・・、由利ちゃん、おはよ」
「由利ちゃんおはようじゃないやろ!! ったっくもう今まで何処におったと? なんで私の部屋にいるわけ?」
心配した分、安堵でむしろ怒りが湧いてきた。由利子は美葉に問いつめようと改めてまっすぐ座りなおした。美葉は、眼をこすりながら言った。
「逃げて来たと。 あいつに誘拐されそうになったから、途中であいつを投げ飛ばしてタクシーでここまで来たんやけど・・・」
「そうならそうと、なんで連絡せんかったと!?」
「だって、ケイタイ壊されたし、電話番号全然覚えとらんし・・・」
「もう、アンタ、携帯電話に頼りすぎだよ」
「エヘヘ・・・」
美葉は屈託のない顔をして笑った。由利子はやれやれという顔をしながら言った。
「それにね、危険な時は私より先に110番しなきゃあ・・・」
「うん、そうだよね。なんか気が動転しとって・・・」
「そうそう、美月はね、アレクが病院に連れて行ってくれたよ。安心して。さ、今日は疲れたやろ、ちゃんと寝て」
「ありがとう。でも、あのね、冷たいお茶が飲みたい。なんか喉が痛くてさ・・・」
「大変やったもんね。じゃ、はと麦茶でもついで来るから待っとって」
由利子はすぐに麦茶をグラスについで持っていった。美葉は美味しそうにそれを飲んでいた。
「じゃあ、アレクと葛西君に電話して、とりあえず保護したって言っとくから・・・」
由利子がそう言った直後、美葉がなんとなく怪訝そうな顔をしながら言った。
「あれぇ、由利ちゃん・・・、蛍光灯、変じゃない? さっきから何となく部屋が赤い色しとぉよ・・」
由利子は一瞬耳を疑った。
「あんた、まさか・・・」
美葉はいきなり頭を押さえると苦しみだした。由利子は凍り付いたようにそれを見ていた。恐怖で身体が硬直してピクリとも動くことが出来なかった。美葉は由利子の方に手を伸ばし、苦しそうにあえいだ。その口からは、赤黒い血があふれ出した。
「痛いよ・・・苦しいよ・・・、助けて、助け・・・て・・・」
「美葉っ!!」
由利子は、我に返って美葉に駆け寄ろうとしたが、何者かが前に立ちはだかった。
「危ないユリコ! 近寄ってはダメです」
「アレク、何でここへ?」
「嫌な予感がしたので戻って来ました。ユリコ、早く猫を連れて逃げなさい」
「だ、だって・・・」
「いいから行きなさい!!」
ギルフォードはドアの方に由利子を突き飛ばした。由利子はドア横の壁に背中をしこたま打ち付けて、壁に張り付いたような形になった。その状態で、由利子は信じられないような状況を目の当たりにした。美葉があっと言う間に何か黒いモノに覆われたのだ。それは人型を形作ると突然飛散し、ギルフォードを襲った。ギルフォードは声を上げる暇もなく、それに飲み込まれた。
「アレクっ!! 美葉っ!! いやぁああ!!!」

由利子は飛び起きた。
「美葉!! ・・・あれ? 美葉は? アレクも・・・何処?」
由利子はきょろきょろと周りを見回した。しかし、時計の音が規則正しい音を立て、遠くから時折車の走る音が聞こえてくる以外は静かなものであった。
「夢・・・? はぁぁ、良かった・・・」
由利子はほっとした。どうやら、ベッドに寄りかかって寝ていたのは由利子の方らしい。家に帰りついて安心したせいか、そのまま転寝(うたたね)をしてしまったのだ。しかし、一体どこからが夢なのかさっぱりわからなかった。時計を見ると、3時を過ぎていた。大して長い時間は眠ってはいなかったようだ。
「変だと思ったっちゃんね。美葉やアレクが私の部屋に勝手に入って来るとか・・・」
由利子は、ふうっとため息をついて言った。
「美葉・・・。いったい何処に行ったんやろ・・・。もう、なんであいつは人に心配ばかりかけるかな・・・」
そう言うと、体育座りで膝を抱えたまま、顔を伏せてもう一度深いため息をついた。視界がぼやけ、左目から涙がひとすじ頬を伝って流れた。猫たちが飼い主の様子に気がついて擦り寄ってきた。由利子は彼女らの頭を撫でながら言った。
「何? おまえたちも心配なん? ・・・ありがとね」
その時、机の上で電話の震える音がした。振動音とはいえ静かな明け方に近い深夜では、かなり大きい音に聞こえ、由利子はドキッとした。ギルフォードからだった。手の甲で涙を拭いながら、急いで電話を取る。
「もしもし、由利子です」
「ハイ、ユリコ。こんな時間に電話をかけるのもどうかなと思ったんですが・・・」
「大丈夫です」
由利子は少し鼻を啜りながら答えた。
「おや、ひょっとして・・・、泣いてたのですか」
「あ、いえ、その、・・・美葉が帰って来ている夢を見て・・・」
「そうですか・・・。心配な時はそういう夢ばかり見ますよね。でも、警察とミハを信じて待ちましょう。希望を持って元気を出して」
「ありがとう、アレク。そう言えばあなた、夢の中で助けてくれたのよ」
「おや、どんな夢でしたか?」
「それが・・・」
由利子は夢の話をかいつまんで話した。ただし、最後の部分・・・ギルフォードたちが蟲に呑まれたところは、きっと嫌がるだろうと教えないことにした。
「そうですか。夢は不安を的確に表現します。ナガヌマさんの話から、ユウキという男がウイルスをばら撒いた犯人かもしれないと思った、そんなところから連想したんでしょう。・・・そうそう、本題を忘れるところでした。ミツキちゃんの容態が安定したそうです」
「え? ・・・ホントですか?」
「ええ、さっき電話がありました。幸い内臓には重篤な障害はなかったそうです。背中の傷も、凶器が一旦首輪に当たって威力が減じられたので致命傷にならなかったんだろうということでした。それに体毛もショックを和らげますからね。まともに当たってたら、背骨が折れていたかもしれないということでした」
「背骨が・・・」
由利子はゾッとした。と、同時に大事に至らなくて良かったとほっとした。
「じゃあ、助かるんですね!」
「まだ太鼓判は押せないということでしたが、当面の危機は乗り越えたということです」
「アレク、本当にありがとう。あなたが的確な措置をとってくれたおかげよ」
「いえ、それに偶然でしたが、僕が連れて行ったところがミツキちゃんの罹り付けの先生だったんですよ」
「そうだったんですか」
「とにかく彼は腕も良いし、信頼できる男です。これで心配がひとつ減りましたね。とにかく、今日はもうゆっくり休んでください」
「ええ、そうします」
「そうだ、もうひとつ。明日はお暇ですか?」
「暇も何も、暫定失業者ですから」
「あはは、暫定ですか。では、明日は感染症対策センターの方に来てもらえませんか」
「感染症対策センター?」
「はい、現在多美山さんが入院されている県の医療施設です。家でじっとしていても不安でしょ? これから君も頻繁に出入りするところですから、見学とご挨拶を兼ねて。午前中僕は講義があるので、午後からにしましょう。大丈夫、帰りはまたお送りしますから」
「わかりました。実は行ってみたかったんです、そういう所」
「OK、では、場所等はメールでお送りしておきますね」
「はい」
「では、また明日・・・」
「あ、そういえば葛西君は?」
「今日は、僕の部屋にお泊め・・・したかったのは山々でしたが、ナガヌマさんと県警本部の方に行きました。非常に残念です」
「それは良かった」
由利子はくすくす笑いながら言った。
「え~っと・・・。まあ、いいですけどね。では、僕と違って君はミハの件で精神的にかなりダメージを受けていますから、ゆっくり眠ってください。寝る前にあったかいミルクを飲むといいですよ」
「ありがとう、やってみます。ではおやすみなさい」
「Good night!」
ギルフォードとの電話が終わると、由利子はまたため息をついた。美葉の行方はわからないが、あそこで殺されたり傷つけられてれて放置されたりしていなかったので、彼女が無事な可能性は高い。それに、なんとか美月は助かりそうだ。美葉は見かけに寄らず芯の強い女だ。ギルフォードの言うように希望を持とう、由利子は思った。

 

 どうしてこんなことになったんだろう・・・。

 美葉は虚ろな眼でぼんやり考えていた。
 横にはかつて愛していた、今は憎むべき男がぐっすりと眠っていた。美葉ならば、逃げようと思えばさして難しい状況ではない。しかし、彼女は逃げることが出来なかった。

 美葉は、暗い場所で眼を覚ました。何か狭いところに寝かされているようだ。しかし彼女は、自分の置かれた状況がしばらく理解できなかった。一時的に記憶が飛んでいるらしい。
(今日は由利ちゃんと会って、確か私はうちに帰って・・・)
考えているうちに、美葉はだんだんと記憶を取り戻した。
(そうだ、私はあの時首になにか当てられて、そのまま気が遠くなって・・・)
美葉は、状況を把握しようとゆっくりと周囲を見まわした。どうやら車の中に居るようだ。後部座席のシートを倒して、寝かされている。とにかく身を起こそうとした美葉は、愕然とした。両手がヘッドレストに縛り付けられている。美葉は、必然的に万歳をしたような格好で寝かされていた。
「なに、これ?」
美葉は、自分の置かれた状況に驚いて言った。運転席でFM局を聞きながら、缶コーヒーを片手にくつろいでいた結城が、その声に気がついて振り返った。張り付いた笑い仮面のような表情だった。一瞬目が合って、美葉はおぞましさに息を呑んだ。
「やあ、眼が覚めたかい?」
結城が言った。
「すまないね。また暴れられると厄介だから、ちょっと自由を奪わせてもらったよ」
そう言いながら結城は、運転席と助手席の間をするりと抜けて、美葉の横に座った。
「傍に来ないで! 早く私をうちに帰して! 早く病院に連れて行かないと、美月が死んじゃう!!」
「犬のことより自分の心配をしたらどう?」
結城は笑いながら言うと、結城は美葉の上に覆いかぶさった。
「流石のおまえもこれでは何も出来ないよね」
美葉は、とっさに膝蹴りを入れようと試みたが、狭い車内では簡単にはいかず、あっさり右膝を掴まれて押さえつけられてしまった。そのため、短めの黒いルームワンピースのすそがめくれ上がり、白い内腿がむき出しになった。
「なかなかいい格好だねえ」
結城はまた笑いながら言うと、舐めるような目で美葉の身体を見た。
「久しぶりだね、美葉」
「触らないで! もうあんたなんか大っ嫌い!!」
美葉は顔を背けながら言った。
「もう『ゆっちゃん』とは呼んでもらえないんだ。つれないねえ・・・。」
結城は両手で美葉の顔を押さえて正面に向けた。
「今まで、数え切れないほど肌を合わせていたじゃないか。ほら、この唇も、他の部分も・・・」
そう言いながら結城は美葉と唇を合わせたが、すぐにはじかれたように飛びのいた。
「おまえ、本当は気が強かったんだね」
結城は唇を拭いながら言った。血が少し滲んでいた。美葉は低いが静かな声でいった。
「こんどやったら、本気で噛み千切ってやる」
「おお、怖いねえ・・・。だけど」結城はにやりと嗤った。「おまえは自分の立場がわかっていないね」
結城は右手を伸ばして美葉の細い首を鷲づかみにした。
「ほぉら、こうやって殺すことだってできるんだよ」
そういいながらゆっくりと美葉の首を締め上げた。気道と頚動脈が圧迫され眼と鼻の奥の内圧が上がり、頭の中が急激にもわっとした。自然に眼球と舌が飛び出しそうになる。
「苦しいだろ? 死ぬって苦しいんだ。でも、おまえは殺さないから安心して」
結城はあっさりと手を離した。美葉は咳き込みながら言った。
「殺せば・・・いい・・・」
ようやくそれだけ言うと、美葉は激しく咳き込んだ。咳がなんとか収まると美葉は続けた。
「あんたなんかと一緒にいるくらいなら死んだほうがマシよ。美月だってもう死んでるかもしれない」
「でも君が死んだら、君が大好きなあの『ゆりこ』とかいうお友だちは悲しむよね」
結城は屈託なく笑いながら言った。美葉は一瞬眼を見開いた。
「おまえのような女の扱い方はよくわかっているんだ。おまえはきっと僕から逃げられない。良い事を教えてあげようね」
結城は、楽しそうに言った。
「今ね、県下で密かに流行し始めている疫病はね、僕がやったんだよ」
「えきびょう? 何のこと?」
美葉は、いきなり結城の口から疫病とか言う単語を聞き、寝耳に水できょとんとして尋ねた。
「伝染病さ。新種の出血熱だよ。まったく治療法のない・・・ね」
「出血熱・・・? ホントにそんなものが流行ってるの?」
「おや、君は、あの友人から聞いていないのかい? 親友なんだろ?」
「いくら親友だって、言えることといえないことがあるくらい私だってわかってる。それに由利ちゃんは人に情報を漏らすような軽薄な女じゃないもの。そんな恐ろしい病気だったら尚更よ」
「そうか、じゃあ、僕が教えてあげよう。この前、浮浪者が4・5人ほど公園で死んだ事件があっただろ? あれは僕がやったのさ」
「うそ・・・」
「残念ながら本当だよ。僕は、あの方に言われたとおりにウイルスを撒いたんだ。あの目障りで薄汚い浮浪者たちを掃除するために」
「どういうこと? それにあの方って?」
美葉は、結城の言っていることが飲み込めずに訊いた。
「あの方・・・、偉大なる長兄さまだよ。この地球の救世主様だ。ウイルスで、人間を環境破壊させないレベルまで減らすんだよ。そして、選ばれた人間だけが生き残れるんだ」 
「は? 何それ・・・」
美葉は、自分の状況を一瞬忘れて言った。カルト特有の、アナクロい妄想にしか聞こえなかったからだ。
「その小手試しが僕のやった浮浪者の抹殺だったのさ」
「何言ってるか理解出来ないわ」
美葉は、なんとなく嫌な予感を感じながら言った。
「僕はね、僕を馬鹿にした安田とかいう浮浪者に仕返しをしたかったんだ。そうしたら、あの方が言ったんだ。彼の仲間を強力な伝染病に罹らせれば、自然と安田という男も感染して死ぬだろうってね。それで、僕は実行したんだ。あの方の計画通りに。そして、みんな死んだ」
「酷い・・・。ホームレスの人たちだって、望んでホームレスになったわけじゃないのに・・・」
「今、警察ではテロとして扱われているだろう。すでに浮浪者以外の犠牲者が何人か出ているからね。その前に公安が何か情報を掴んでいたらしい。それで公安に追われる羽目になったんだ。もっとも、最初彼らはまだ僕が実行していないと思っていたらしいけどね」
「で、何故、由利ちゃんがそういうことを知っているっていうの?」
「ヒントはおまえも知ってるあの外人の大学教授さ。 あいつはバイオテロの専門家で、テロ対策のアドバイザーとして日本に呼ばれた男なんだ。何かトラブルがあってそれはほとんど反古状態になって、今はここの知事にのために、新型インフルエンザ兼テロ対策のアドバイザーをしているらしいけど」
「アレクってそんなすごい人だったんだ・・・。それで、由利ちゃんが知っているって訳ね」
「すごい・・・か」
結城はくっくっと嗤いながら言った。
「そうだね。だけどね、あの方によれば、あいつはこの疫病に何らかの形で関わっているそうだよ。本人は気がついていないようだけどね」
「どういうこと?」
「さあ、それ以上は僕にもわからないよ。でもね、あの教授は間違っている。これはバイオテロなんてチンケな犯罪じゃないんだ。地球にとって健全な環境を取り戻すための荒療治なんだ。僕らは世界を救うんだよ」
「何が世界を救うよ! あんたがやっていることは、ウイルスの恐怖で世界を操ろうとするテロそのものじゃない!!」
「黙れッ!!」
結城は怒鳴りながら美葉の頬をひっぱたいた。美葉は頬を叩かれ顔を横に背けたが、すぐにキッと結城をにらみつけた。
「いつか隙を見つけてあんたを倒して、テロの実行犯として警察に突き出してやるから」
「勇ましいんだなあ、美葉は。これも新鮮でいいよ。ところでこれはわかるかな」
結城は首にかけたペンダントをシャツの下から引っ張り出すと、鎖にぶら下がったペンダントヘッドを美葉の目の前にぶら下げた。銀製らしいシンプルな筒型のロケットペンダントだ。
「この中に入っているものは何だと思う?」
「知るわけないじゃない」
「特別に中を見せてあげる」
結城はルームライトを点けると、ロケットの中身を出して右手の親指と人差し指で掴むと、美葉の目の前に見せた。密閉された樹脂のカプセルに、何か鞘型の種のようなものが入っている。ほんの1秒ほど見せて、すぐにロケットの中に戻すとライトを消し、すぐにペンダントをシャツの下に戻した。
「何だと思う?」
「種(たね)・・・?」
「ある意味近いけど、遠いね。これはある虫の卵だよ」
「卵?そんなじゃもう死んでるわね。それが何なの?」
「いや、生きているよ」
結城は、平然として言った。それを聞いた美葉は、一瞬息を呑み無意識に身体を引いた。
「い、生きているの?」
「正確には仮死状態だけどね。これは僕がばら撒いたウイルスを、もう少し強力にしたものに感染させた虫の卵だよ。樹脂のカプセルは、ウイルスが万一漏れないようにするためのものなんだ。これはね、切り札なんだ。あの方から、もし、計画が上手く行かなかった場合に追加で仕掛けるように渡されたんだ。この虫は従来型の何倍も生命力が強くてね、空気に触れると急速に孵化が始まる。孵った幼虫の中でウイルスも急速に増え、あちこちに散った虫から進化型のウイルスが撒き散らされるというわけなんだ」
美葉は、ゾッとして身動き出来ずに結城の説明を聞いていた。
「僕は、あの方の御指令でこれを適所に仕掛けるように言われている。これは僕とあの方だけの秘密さ。そして僕の他にこれを持っている者たちに僕が行動を起こすよう命令するんだ。日本中の数箇所で新たな疫病が発生するんだよ、美葉。でもね、もし君が僕から逃げ出したら、僕はすぐにこれを使うよ。或いは、これを奪って逃げたり僕を警察に売ろうとした場合は、すぐに仲間たちに僕から指令を出すよ。『種を撒け』ってね」
美葉は相変わらず黙っていたが、徐々に呼吸が短く荒くなっていくのが暗い車内で伝わった。相当なショックを受けているのは明らかだった。
「言っとくけど、僕を殺してもダメだよ。僕から定期連絡が無い場合も、仲間が『種を撒く』ようになってるからね。だから、美葉、おまえは僕から逃げられないんだよ。だって、おまえの行動如何で、大勢の人たちが死んでしまうことになるんだからね。わかったら僕から逃げないって約束してくれるかい? おまえはずっと僕の傍にいるんだ」
美葉は無言で頷いた。結城は満足して笑顔で続けた。
「じゃあ、次。僕の預けたCD-Rがどこにあるか教えてよ」
「私の部屋よ」
「うそをつくんじゃない。探したけど見つからなかったぞ」
「探し方が悪かったんじゃない?」
「いい加減にしろ。さっきはどこかに預けたって言ってただろ?」
結城は問い詰めたが、美葉は答えようとしない。由利子に累が及ぶのを恐れたからだ。
「ふん」
結城は鼻で笑うと、バッグから何か取り出した。
「じゃ、これはなにかわかるだろ?」
それは、携帯電話くらいの大きさで黒っぽい色をして、先の方には2箇所電極がついていた。美葉が気を失った時首に当てられたものだった。美葉は、ややこわばった顔で結城を見た。
「そう、スタンガンだよ。これで隠し場所を訊くことにしようかな」
結城はこれ見よがしにスタンガンを放電させた。凄まじい放電光とバチッという嫌な音がした。美葉は、顔を背け眼を瞑った。
「さあ、ちょっと試してみようか。どこがいい?」
結城は美葉の上に馬乗りになって、笑い顔でスタンガンを美葉の額に当てた。そのままつぅーっと眉間から鼻・唇と伝いながら、ワンピース越しに胸を這わせ谷間あたりで一旦止め、電極を押し付けた。
「さてどうする? ここは心臓に一番近いんだけど」
結城に聞かれたが、美葉は顔を背け眼を閉じたまま無言で通した。
「じゃ、先に行っちゃおか」
スタンガンはまた美葉の身体を這いながら、次はへそのあたりに止まった。
「ここは、内臓との間が一番薄いところだからね、多分効くよ。でもやっぱり上の方に戻ろうか、それとももっと下に行く? それも楽しいけど」
美葉は、黙って耐えていた。それに美葉には考えがあった。放電する時には感電を恐れて自分から離れるだろう。その時隙が出来る。その時を狙って彼にもう一度蹴りを入れてやろう。もちろん逃げることは出来ないけれど、しばらくの間、結城を行動不能にしてやれるかも知れない。だが、事態は美葉の思惑を裏切った。結城がいきなりスタンガンを投げ出したからだ。
「や~めた。だって、今また気絶されたら、この後のお楽しみがなくなるからね。それに・・・、CD-Rのありかは大体見当がついちゃった」
結城は貼り付いた笑顔で言った。
「おまえの愛する『ゆりちゃん』のところだろ?」
美葉は、ギクッとして結城を見た。
「正解だね。おまえがあまりにも頑なだから、そうじゃないかって思ってさ。彼女のうちなら僕はもう知ってるから、いつでも取りにいけるよ」
結城はニヤリと嗤って言った。美葉の顔色が蒼白になった。
「この前、マンションの下に行ってみたんだ。最近は住所さえわかれば、難なく目的地にたどり着けるから便利だね」
「ああっ、あの時由利ちゃんが電話で言ってた怪しい男、あれ、あんただったの!? 由利ちゃんに危害を加えたら承知しないから!!」
「だからおまえは僕に従うんだよ。わかったかい、美葉ちゃん。さて・・・」
結城はまた美葉に覆いかぶさり、今度は美葉のルームワンピースを引き裂いた。白い大きな胸が露(あらわ)になった。
「や! 私の服・・・」
「大丈夫だよ」結城は言った。「おまえをトランクに入れて運ぶ時、ついでに服もいくつか選んで入れてきたからね。ダメだよ、自分が入るような大きいトランクを持ってちゃあ」
結城はクスクス嗤いながら言った。
「さて、これからが本番だね。せっかくだからこのままでしようか。刺激的なスタイルだしね」
結城はにっと笑ってヘッドレストに縛られた美葉の手首に触れた。その後、その手はそのまま腕を這い、再び美葉の顔を掴むと結城は自分の顔を近づけた。結城の唇が合さると、缶コーヒーの臭いが鼻を突き、容赦なく侵入してきた舌が、美葉の口の中で踊った。美葉には、大人しくそれを受け入れるしか術はなかった。彼女の頬を涙が伝った。

 美葉は、屈辱のひとときを思い出しながら、ぼんやりと両手首を見つめた。縛られた跡にうっすらと血が滲んでいた。
(今日、私は何度・・・)
再び悔し涙が頬を伝った。シートに体育座りで膝を抱え、顔を埋めて美葉は声を押し殺して泣いた。泣きながら美葉は誓った。必ず今日結城から聞いた話を、なんとかしてギルフォードに報せることを。彼がそれを知ることで、何らかの有効なテロ対策を考えてくれるだろうと美葉は考えた。そして、それは、この男への最大の復讐にもなるだろう。そのためには、この屈辱をじっと耐えてやる。美葉は顔を上げて窓の外を見た。外界は白々と夜が明けようとしていた。
 

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3.侵蝕Ⅲ (2)リーグ~同盟~

 由利子は、美葉が暗い場所で泣いている夢を見て眼が覚めた。
 時計を見ると7時を数分過ぎたくらいだった。いつもより1時間ほど遅いが、昨夜寝たのが4時くらいだったから、ナポレオン並の睡眠時間である。しかし、ギルフォードが言った就寝前のホットミルクが効いたのか、思ったよりよく眠れたような気がした。しかし、由利子は目覚める前に見た夢が気になった。
「美葉・・・、ホントにあんな風に泣いてるんじゃないやろうか・・・」
そう思うと朝から悲しかった。
(昨日のことが全部夢だったらいいのに)
由利子は思ったが、テレビを見てもネットを見ても今日が金曜日であることは疑いようが無かった。由利子は重い気持ちと身体を奮い立たせて、いつもより1時間遅いジョギングに出かける準備を始めた。

 ジョギングから帰ると、いつもより少し遅い朝食を済ませ、午前中時間が空いているので、昨日の観光記事をブログに書き始めた。しかし、楽しかったあのひと時を書き残したいと思いながらも、美葉のことが気になってなかなか進まない。
「はああ~」
とため息をつきながら机に突っ伏した時、インターフォンが鳴った。時計を見ると、まだ9時半ごろだ。誰だろうと思って急いで確認すると、地味な背広を着た二人組みの男が立っていた。美葉の可能性を少しだけ期待していた由利子だが、当然のこととはいえがっかりした。気を取り直して呼びかける。
「はい、どちら様でしょうか?」
「中央警察署、刑事課の者です。多田美葉さん拉致事件の件で伺いました」
男の片方が、モニターで見れるように警察手帳をかざしながら言った。
「あ、は~い、今開けます」
由利子は急いで玄関に向かった。
 刑事たちは、一人が40代後半くらいで背はあまり高くなく、筋肉質ではあったが若干太り気味である。もう一人は葛西よりは若干年上の30代前半くらいで、背が高くがっしりとした体つきの、一昔前の刑事物ドラマによく出てくるステロタイプな刑事そのまんまな感じだった。由利子は若い方より先輩らしい刑事の方が気になった。何かに似ている・・・。しかし、それが何か思い出せない。
(なんか、どっかでよく見るんだよな、こういう感じ)
「あの、どうかされましたか?」
由利子が黙ったまま何も言わないので、若い方が怪訝そうに尋ねた。
「あ、すみません。えっと、美葉の件ですよね」
「そうです」と年上の方が言った。
「あ、紹介が遅れました。多田美葉さん拉致事件の担当になりました、私は富田林(とんだばやし)で、こっちは増岡です」
「篠原です。美葉のこと、よろしくお願いします」
「それで・・・」
「あ、上がってください。話が話ですから玄関では何ですので。お茶くらい出せますから」
由利子が言うと、富田林は遠慮なく答えた。
「じゃあ、お言葉に甘えて・・・。いやぁ、悪いですねぇ」
むさくるしい男二人は、少し照れくさそうに室内に入って来た。
「部屋の方は散らかってますし、猫が怖がるのでキッチンのテーブルでいいですか?ちょっと狭いけど」
「いえいえ、座れるだけでありがたいです」
二人は由利子に勧められるまま、椅子に座った。
「一人暮らしなんですか?」
富田林はが尋ねた。
「ええ。気楽なものですよ」
お茶を入れながら由利子が答えた。
「じゃあ、こんなむさいオッサンが二人も上がっちゃあ不味かったですね」
「あはは、そんなことないですよ。だって警察の方でしょ?」
そう言いながら由利子は思った。
(そういえば、この部屋に父親以外の男の人を上げるのって初めてよね)由利子は思った。(夢では昨夜アレクがいたけど)
「多田さんとはお付き合いは長いんですか?」
「ええ。そうですね、子どもの頃家が近かったから・・・もう30年以上の腐れ縁ですかねえ」
「えっ、30年以上?」
若い方の増岡が驚いて言ったので、由利子は苦笑いした。
「意外と歳食ってるので驚きました?」
「あ、いえ・・・」
「おい、増岡。いつも脊髄反射は止めろって言っとるやろ」
「すみません」
富田林に注意されて、増岡は下を向いた。
「あ、気にしないで」由利子はお茶を配りながら言った。「若く見られたってことだから、嬉しいです。大目に見てあげてくださいな、富田林さん」
そういいつつ、富田林を見た由利子は、さっきから気になっていた疑問が一気に氷解したのを感じた。
(この人、ふっ○い君に似てる・・・! 制服を着たらそっくりだわ)
由利子は、富田林がF県警マスコットに似ていることにようやく気がついた。謎が解けて嬉しくなったが、由利子はそれ以来噴き出しそうで、富田林をまともに見ることが出来なかった。
 

 教主は、長い朝のお祈りを終え、立ち上がった。ここは教主専用の祈祷室で「ニュクス(夜)の間」と呼ばれていた。瞑想の間に比べるとささやかともいえるつくりだが、黒をベースに金の装飾が施され、その中で沢山の蝋燭が燦然と輝き幻想的な雰囲気を漂わせていた。部屋の奥には祭壇が飾られ、さらに多くの蝋燭が美しい模様を形どって輝いていた。その真ん中に神像が飾られていた。男とも女とも見える神秘的な美しい白亜の像である。
 教主がゆっくり振り返ると、後ろに控えていた二人の御付の者は、うやうやしく頭を下げた。
「二人とも、お待たせしましたね。さあ参りましょう。頭を上げてください」
その御付の片方・・・女性の方が言った。
「長兄さま。遥音先生が何かお話されたいということで、控えの間で待っておられます」
「そうですか。何の用でしょうね。すぐにお通ししてください」
 涼子は、控えの間でじっと教主のお目どおりを待っていた。ようやく祈祷室の戸口が開き名を呼ばれた。涼子は立ち上がって祈祷室に向かった。中は洞窟のように感じられた。その暗い洞窟を数多の蝋燭が照らし、御付の者たちと教主を真っ黒いシルエットに浮かび上がらせていた。教主のシルエットが言った。
「いらっしゃい、遥音先生。何かあったのですか?」
「はい。大事なお話があります。お人払いを・・・」
「わかりました」教主は御付の者たちに向かって言った。「私はここでもう少し先生とお話をします。あなた方は先に行ってください」
二人は深くお辞儀をすると、ニュクスの間から出て行った。二人は蝋燭の光の中向かい合った。二人の周りの空気が緊張を帯びたような感じがした。教主は、再び神像の方に向かって座った。涼子もその斜め後ろに座る。
「さて、ご用件は何でしょう?」
教主は、からかうような口調で言った。
「もう、ご存知でしょう?」
涼子は、出来るだけ感情を押し殺して言った。
「私の夫が再び事件を起こしました。今度は警察も動き出しました・・・」
「ああ、そのことですか」
教主はかすかに笑って言った。涼子は、辛そうに顔をゆがめて続けた。
「若い夫婦と公安警察の二人を襲い、愛人の美葉さんを誘拐して再び姿をくらましました。今回結城は直接人に手をかけています。確実に指名手配されるでしょう」
「まったく・・・。君の夫にも困ったものだな」
教主の口調が変わった。
「昔はああじゃありませんでした」
涼子は目を伏せながら続けた。
「少し自分を卑下し人を羨むようなところもありましたが、優しい人でした。ここ2・3年で急にあのような粗暴な人になりました。・・・長兄さまが結成された秘密結社『タナトスの大地』に入会してからです」
「彼は、私の理想に賛同してくれた。だから、特別に入会させ重要なポストにつかせたんだ。お偉い妻を持った負い目があったようだからね。だが彼は増長し、私を裏切って勝手にウイルスを仕掛けた。そして皮肉にもそれは成功し、すでにわかっているだけで10人以上の死者を出し、今もそれは増殖を続けている。まだそれに気がついているのは一部の人間だけだけどね」
「その一部の者たちが問題です。知事や警察がすでに現状を把握しています。おそらく結城が実行犯だということも」
「何、連中はまだ何も出来ないさ。現在の死者数と経済的パニックを計りにかけると、早々に事実を発表するわけにもいかないだろう」
「しかし、人を傷つけた結城は確実に追われるでしょう。何れは我が教団との関連も・・・」
「大丈夫だ。彼を我が教団と関連付けることは出来ない。彼は教団とは関わっていないだろう。直接『タナトス』の方に入ったからね。『タナトス』は、完全な地下組織だからね。まだ公安すらそれを把握していないはずだ。
 ところで、我々が実験的に日本中に仕掛けたウイルスは何箇所だったかね」
「首都を含む5箇所です」
「それがことごとく失敗して、単に結城が私怨で仕掛けたウイルスだけが増殖するとは皮肉な話だな」
「はい。その前にK市で、インフルエンザの組み換えウイルスを使って実験した時は上手く行ったのですが・・・。やはりウイルスの感染力の差でしょう。タナトス・ウイルスの場合、やはりエアロゾルでは感染力が弱いようです。結城は、ターゲットにほぼ『原液』を浴びせたようですが、それは感染者の血液を注射した時とほぼ同じ効果があります。それに、感染可能なのは、人間と我々が『蟲』と呼んでいるゴキブリのみですし、ウイルス自体は直接日光に当たるとすぐに死滅してしまいますから」
「確かに他の動物にも感染すれば、ヒトへの感染の確率はかなり上がるだろうが、動物たちをも死なせてしまうだろう。それで無くともヒトという種に絶滅に追い込まれている彼らまで殺しては、本末転倒だ。だから、君にヒトとゴキブリのみに感染するようなウイルスを注文したわけだ」
「ヒトもゴキブリも要らないものと・・・?」
「バカを言っちゃいけない。ゴキブリは野生ではちゃんとした掃除屋の役割を担っている。ヒトのように汚して回るだけの生き物ではない。ずっと上等な生き物さ。それに感染しても生き残った彼らは、もっと強い種になる。スーパーローチだな」
教主は愉快そうに笑いながら、涼子の方を振り向いた。彼の美しい顔立ちが蝋燭の光で凄みを増して見え、涼子は心ならずもドキッとした。
「遥音先生、ご安心ください。彼は我々がこれまで以上に全力をつくして、警察より先に探し出して見せますよ」
教主は口調をいつも通りに戻して言った。涼子はその教主の目をまっすぐに見て言った。
「あの人は、もうどうでもいいんです。ただ、巻き添えで誘拐された美葉さんを助けてあげてください。今の結城は、彼女に何をするかわかりません」
「ほお、愛人の心配をされますか。お優しいことです。その気持ちをずっとお忘れのないように。彼女の救出ももちろん視野に入れてますからご安心ください」
教主は、優しい笑みを浮かべながら言った。涼子は教主の真意を図りかねたが、深く礼をしながら感謝の言葉を述べた。
「ありがたいお言葉を戴き、気持ちがかなり落ち着きました。美葉さんの保護をよろしくお願いいたします」
「お任せください。ですから、先生は今までどおり何も気にせずに研究に励んでください。妹さんの病気の治療法を1日も早く見つけるためにね」
涼子は無言で再び深く礼をしてから部屋を出て行った。涼子が去った後、教主は自分の右手を広げ数秒間見つめた後、軽く掌を握ると微かな笑みを浮かべてつぶやいた。
「夫婦ともども私の掌の上・・・か」
そして、再び神像の前に跪くと静かに祈り始めた。
 

 由利子の部屋を出た富田林刑事らは、車に乗るともう一度事件現場である美葉の部屋に向かった。
「特に、昨日以上の証言は無かったですね」
増岡が、運転をしながら言った。富田林は助手席でメモを整理しながら言った。
「そうだな。最近まで数年間疎遠だったって言ってたしな。付き合いが再開した途端にこの事件ってわけだ」
「何か因縁を感じますねえ」
「馬鹿なことを言うんじゃないよ。せめてマーフィーの法則とか」
「今時それを言う人こそ、あまりいないんじゃないスか? それにしても・・・」
増岡は、ちょっと嬉しそうに言った。
「猫可愛かったですねえ・・・」
「そうだな。俺はカミサンが猫嫌いだから飼えねぇからな。いいよな、癒しになって」
「僕、ケイタイで写真撮らせてもらったから、待ち受け画面に設定します」
「いいな。俺も出来たらそうしたいけど、カミサンがなあ・・・」
「でも、勤務中に猫撫でたりしてて良かったんでしょうか?」
「まあ、動物をネタに市民との交流を図るのも、警察のイメージアップとしてはいいんじゃないか?」
「そうですね、動物好きの優しい刑事さんって感じで」
「ところで、あの篠原由利子、途中から俺の顔をまともに見なくなったんだけど、何でかな」
「さあ?」
「よくあるんだよな、こういうこと。特に制服を着てる時さぁ」
(そりゃあ、あなたがふ○けい君に似ているから・・・)
増岡は心の中で思ったが、口には出さずに適当に誤魔化した。
「そうなんですか? 不思議ですねえ」
「それより、今署内でも話題になり始めたバイオテロとの関連だが、どう思う?」
「う~ん」
増岡は、うなりながら言った。
「僕は、そんなことが起こっていること自体、まだピンと来ていませんからねえ」
「そうだよな。特に、この誘拐事件の犯人がテロの実行犯の可能性だなんて余計にだよな」
彼らがピンときていようがいまいが、確実に病原体は広がっていた。いずれそれは彼らの上にも暗雲としてのしかかってくるのだが、今の彼らには目先の事件解決しか念頭に無かった。

「あの人たち、猫見に来たんやろか、ねえ、にゃにゃ子、はるさめ」
由利子は、部屋で猫達を撫でながら言った。彼らは一通り質問をした後、遠慮がちに猫を見たいと言い出した。もちろん、由利子もそういわれると嬉しいので、人見知りをしないにゃにゃ子を連れてきて刑事達に見せた。彼らはいきなり相好を崩して、にゃにゃ子を撫でた。口調がいきなり幼児語っぽくなった。
(ごつい刑事が二人、猫萌えしとぉ・・・。しかも、その一人は○っけい君・・。)
由利子は、笑い出しそうになるのをこらえつつ、半ばあきれてそれを見学していたのだった。
「まあ、動物好きに悪い人はいないって言うからね、きっと二人ともいい人なんやろね。いい人たちが担当でよかったね、美葉」
由利子は、写真の美葉に向かって言った。それは、昔旅行に行った時の写真で、まだ20代の二人が楽しそうに笑って写っていた。今朝アルバムから引っ張り出して飾ったのだ。美葉が無事に帰ってくることを祈って。
「この頃はまだ夢がいっぱいあったような気がするな・・・。まだ怖いもの知らずで無敵やったよね」
由利子はため息をついて言った。
「私は無職、美葉は行方不明・・・。そして、二人ともバイオテロなんかに関わっちゃってさ~。一体なんだっていうんやろ。私ら、何か悪いことした?」
由利子はまた、気分が滅入ってくるのを感じた。それで、由利子は窓に向かった。外を眺めると、昨日に引き続き晴天である。由利子は気分転換に窓を開けた。そろそろ日差しが強くなってきそうだが、窓から入る風は梅雨前で若干湿気を含んでいるものの、まだ涼しかった。
「美葉・・・。あんた、今、一体どこにおると・・・?」
由利子は流れる雲をぼんやりと見ながらつぶやいた。
 

 昼休み、食後図書館に行くために廊下を歩いていた彩夏は、ふと窓から外を見た。なんとなく気になる光景が目に入ったからだ。確認しようと窓に近づく。やはりそうだ。校庭の裏庭の片隅で、佐々木良夫と田村勝太が、何か真剣な顔で話をしていた。不審に思った綾香は、急遽予定変更、返す本を持ったまま階段を駆け下り、靴を履き替えるのももどかしく、急いで二人の下に向かった。
 珍しく自分の方に走って来る彩夏を見て、勝太はニコニコしていたが、良夫は若干不機嫌な顔をしながら近づく彩夏に言った。
「何の用だよ。西原君ならまだ病院だよ」
「そんなの知ってるわよ」
彩夏は、彼らの傍まで来ると少し息を弾ませながら言い、さらに数秒間を置いて続けた。
「珍しい顔ぶれで一体何の話をしてるのかしらと思って」
「そんなこと、あんたに関係ないやろ」
良夫はあくまでも彩夏に冷たい。勝太は、こんな可愛い子に話しかけられて、何の不満があるのだろうといぶかしく思った。彩夏はそれを無視して二人に言った。
「あのね、私も同じ事件に関わっているでしょ。外さないでよね。口止めされてるから誰にも言えないから辛いんだから。それに、どうせ言っても誰も信じてくれないし。でも・・・」
彩夏は不安な顔をして口ごもった。
「錦織さん、ひょっとして・・・」勝太が言った。「誰かにそのことを聞かれたっちゃないと?」
「ええ、ええ、そうなの。・・・田村君、ひょっとして、あなたも?」
彩夏は勝太の顔をまっすぐ見て言った。彩夏にそんな風に話しかけられて、勝太はすこし嬉しくなった。
「うん、一昨日。今、ぼくらはその話をしていたところなんだよ」
勝太は、若干ぎこちない標準語で言った。彩夏はそんな勝太に向かって訊いた。
「その人って、わりと若い女性で、美人でスタイルの良い・・・?」
「そうそう、その人!」
「もしかして、佐々木・・・クンも?」
「会ったよ。ボクは昨日。君みたいなやな感じの女やったけどね」
「一体どこで嗅ぎ付けて来たのかしら・・・」
彩夏は良夫の挑発を無視して、腕を組みながら小首をかしげて言った。この事件を嗅ぎまわっている女がいるのは確実だった。
「いらん事をしゃべったりしてないやろうね」
良夫は訝しげに彩夏を見ながら言った。
「言うわけないじゃないの。徹底的に無視してあげたわよ。って、あんたこそどうなのよ」
彩夏はむっとして言うと、良夫も負けじと答えた。
「ボクだって無視したよ。だいたい、男がみんな田村君みたいにフラフラついて行くって思ってんだよ、ああいう女は!」
「田村君、ついて行っちゃったの?」
彩夏が驚いて田村の方を見ながら言った。勝太は焦って答えた。
「あのね、ぼくは、そんなんでついて行ったわけじゃないよ。あの人がどれだけ何を知っているか知りたかっただけだよ。そりゃあ、ちっとはクラクラ来たけどさ」
「やっぱ、そうなんじゃん」
良夫と彩夏は口を揃えて言い、はっと気が付いて「ふん!」とそっぽを向いた。ベタだな、と思いながら勝太は話を続けた。
「お・・・ぼくは、最初にあの人から、雅之の死に疑問を持たなかったかって聞かれて、驚いたんだ。だって、普通は自殺って思うだろ? それで、何を聞いてくるかって思ったんで、ついていったんだよ。事故の状況については、ぼくは辛くて説明できないっていったんだ。本当のことだしね。そしたら、あの人話題を変えてきたんだ。大きい外人の男が関わって来なかったかって聞いたんだよ」
「それ、やっぱギルフォードさんのことやろ?」
「他にいないわよ、そんな人。私はあの時病院で少ししか話さなかったけどさ、目立つよ、あの人」
「何が少しだよ。ボクにギルフォードさんと話す機会をほとんどくれずに、一人で質問してたじゃないか」
良夫がむっとした顔で言った。彩夏は良夫の方を向くと、両手を腰に置いて答えた。
「だって、わからないコトだらけだったんだもん。だいたいギルフォードさんギルフォードさんって、あんた、気持ち悪いわよ」
「で、でさ」
勝太は二人の雰囲気が悪くなる一方なので、焦って口をはさんだ。
「適当に誤魔化そうって思ったんだけど、ついフェイントを受けて、病院の名前とか、ギルフォードさんに会ったこととか言っちゃったんだ。それで、気になって良夫に相談してたんだ」
「どういうフェイントだか」
彩夏があきれて言うと、良夫が珍しく同意して言った。
「まったく、下手の考え休むに似たり、やね。で、さっきの続きやけど、そこまでやって、あの女が何処まで情報を掴んでるかわかったと?」
「ああ、雅之がホームレスを・・・。」
と、言いかけて、勝太は彩夏を見た。
「そのウワサはもうみんなが知ってるわ。気にしないで続けて大丈夫よ」
「う、うん、わかった。・・・雅之のホームレス事件とその時西原君が傍にいたってこと、雅之が事件を悔やんで自殺したんじゃないか、ってこと。でも、彼女はそれを疑問視してる。それから、ギルフォードさんになんか興味を持っているみたいだってことくらいかな」
「たいした情報じゃないじゃん。秋山君の話は、周知のことだし」
彩夏が言うと、良夫がふっと含み笑いをして言った。
「甘いね。問題は、その女がどうしてギルフォードさんのことを聞いてきたかってこと。ギルフォードさんについてはボクたちしか知らないことやし、ひょっとしたら、例の病気について何か掴んでいるのかもしれんやろ」
「そうなんだよ、錦織さん。あの女の人は、雅之の死に疑問を持ってるんだよ。ただの自殺や事故死じゃないって。そこから例の病気のことを突き止めたのかも知れないんだ」
「で、何故、彼女はそんなことを調べてるっていうの?」
二人に言われて彩夏は少しお冠で言った。それに良夫が深刻な顔をして答えた。
「ボクはマスコミ関係者じゃないかって思うんやけど」
「え? あのデカパイが?」
そう言ったのは、なんと彩夏だった。勝太は驚いてぽかんとして彩夏の方を見た。彩夏はつい口に出た言葉に焦って、真っ赤になって口を押さえた。良夫はまた含み笑いをして言った。
「まあ、そんな感じで女性だって見かけによらないってことやね」
「と、とにかく」勝太は彩夏が良夫に突っかかりそうになったので、急いで口を挟んだ。「このことは、ギルフォード先生に報せたほうがよかっちゃ・・・いいんじゃないかな」
「ボクが電話しておくよ。西原君のことも聞きたいし」
良夫は言ったが祐一の名を出した時ちらりと彩夏を見た。
「じゃあ、お願いしておくわね」
彩夏は、見事にそれを無視して言った。
「その人が田村君に接触してから、すでに2日経ってるから急いだほうがいいわ」
「わかっとぉ。今日放課後連絡してみる」
良夫は、少し口を尖らせて言った。彩夏は二人を見ながら言った。
「私達は、西原君も含めて恐ろしい事件に巻き込まれちゃったのよね。だから、私達4人はリーグを組まないといけないの。お互いが協力しあわないと、不安に飲み込まれてしまうわ。だって、それぞれの胸にしまっておくには、事件が大きすぎるもの。だから、お互いの情報は公開し合っていかないと・・・」
雅之から発生した事件に関わった4人をまとめようと考えたのは、他ならぬ彩夏だった。彼女は美千代の事件に関わり、祐一たちと共にギルフォードから質問を受けた。その時、逆に彼を質問攻めにして辟易させたのも彩夏だった。傍にいた良夫やまだショックから覚め切れていない祐一が、驚いて彩夏を見ていた。
 彩夏はその後、雅之の死に関わった勝太に話しかけた。その時、雅之の病気について報せたのが勝太であり、彼はそのために例の病院に連れて行かれ、ギルフォードに会ったということを知った。そして、彩夏は良夫も勝太もかなり精神的にダメージを受けていることを感じていた。彩夏本人は、悲惨な現場を目の当たりにしていないため、まだ余裕があった。それで、事件に関わった自分を含めた四人が支えあうような協力体制を考えたのだ。これなら個々にのしかかる負担が四分の一に軽減されるはずだ。誰にも言えないことほど辛いことはないということを、彩夏は経験上知っていた。
「あの女性も気になるけど・・・」彩夏は続けた。「事故現場で田村君に秋山君の病気のことを教えたっていう女医さんも気になるのよね。まるで病気のことを知っていたよう・・・」
「うん。今考えるとそうだね。でも、その時は医者だから当たり前だって思ってたから・・・」
「え?」
「通りがかりのお医者さんに感染症のおそれがあるって言われたとしか説明しなかったんだ」
「あんた、バカじゃないの?」
彩夏が言った。
「何でちゃんと説明しなかったの? あんたの話を聞いたとき、私だってあの女医はメチャメチャ怪しいって思ったわよ。それにその人に会ったのって君だけなんだよ」
「だって・・・。オレ・・・、あん時すごくショック受けとって、ホントに全然まともに答えられんかったんだ。そんなことまで頭に回らんかったんだよ」
勝太は、彩夏に言われて半べそをかきながら言った。それを見て、流石の良夫も気の毒になったのかフォローに回った。
「田村君、そのことはボクが電話した時ついでに伝えるから・・・。錦織さん、田村君を責めるのは可哀想だよ。実際に悲惨な事件を目の当たりにするとね、すごく辛いんだよ」
「わかったわ。ごめんなさい・・・」
彩夏は素直に謝った。
「とにかく、もうすぐ帰って来る西原君も含めてお互いが協力しあいましょう。これからも何がおこるかわからないし」
「西原君、立ち直れるかなあ・・・」
勝太は心配そうに言った。
「大丈夫だよ」
良夫が言った。
「西原君は強いもの。きっと帰ってくる」
その時、昼休みが終わるチャイムが鳴った。
「いっけない、結局図書館へ行けなかったわ」
「早く教室に戻らないと!」
良夫はそういうと駆け出した。後の二人もそのあとを追った。誰も居なくなった校庭を、午後の日差しが照り付け始めた。
 

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3.侵蝕Ⅲ (3)シンフル・ラヴ~Sinful love

 由利子が感染症対策センターに着いたのは、2時近かった。というのも、ギルフォードがセンターに着くのがそれくらいになりそうだからなのだが、病院の前に立った由利子は、少し緊張した面持ちで病院を眺めた。なんだか場違いな気がしたからだ。建物は、白いモダンな近代建築で大きい門にはレリーフ風に「県立病院IMC」と書かれたいぶし銀のようなプレートがはめ込んである。由利子はそれを確認すると、意を決したように病院内に入って行った。平時は主に総合病院として機能しているらしい。通院患者らしき人たちと何人もすれ違った。しかし、由利子の目指すのは隔離病棟のある、この病院本来の機能を持つ特別棟だった。総合病院の病棟を通り抜けると広い中庭があり、その中を通るパスをさらに通り抜けると高い塀が現れた。門には警備員ではなく、警官が二人立っていた。しっかりと腰に拳銃を携帯している。由利子は彼らに用件を告げた。警官は無線で用件を内部に伝えた。しばらく待つように言われた由利子は、仕方なく門の前でぶらぶらしながら待っていると、門が開いてギルフォードが現れた。
「ユリコ、お待たせしました」
ギルフォードは両手を広げて由利子を迎えた。
「すみませんね。少し前までは、こんなに厳しくはなかったんですが、アキヤマ・ミチヨの事件以来こんな感じになってしまいました。気を悪くしないでくださいね」
由利子はギルフォードの前に駆け寄ると言った。
「そんな、気にするほどのことじゃないですよ。むしろ当然の配慮でしょ?」
「ありがとう、ユリコ。では、早速案内しましょう」
ギルフォードは、由利子をエスコートするようにして院内に連れて行った。
 由利子は、スタッフステーションに案内された。
「ここは、この病棟の中枢でもあるんですよ」
ギルフォードは説明した。中に入ると、高柳と数人のスタッフが何か真剣に話していたが、由利子に気がつくといっせいに彼女の方を見た。由利子は軽く会釈をした。ギルフォードが由利子を紹介した。
「ミナサン、今度から僕の助手として来てくれるシノハラ・ユリコさんです」
「はじめまして、篠原です。よろしくお願いいたします」
由利子は改めてお辞儀をしながら言った。高柳が親しげな笑みを浮かべて言った。
「はじめまして、篠原さん。ギルフォード先生からお話は聞いています。僕はここの責任者の高柳です」
高柳の紹介が終わると、他のスタッフも自己紹介を始めた。
「スタッフの山口です」
「三原です」
「看護師の春野です。よろしく」
「あとは、看護師の園山君が来ているかな。このメンバーが主に多美山さんの治療にあたっているんだよ」
高柳が説明した。
「もし、感染者が増えてもっと状況が深刻化したら、一般病棟を含めてこの病院全体が感染者を受け付ける体制になるんです。そんなことにならないように願いたいですけれども」
と、ギルフォードが追加で説明した。
「今、入院されているのは多美山さんだけなんですか?」
「あと、ニシハラ兄妹が念のため入院していますが、今のところ感染した様子は見られないようです。このままなら、火曜には退院出来ると思います」
「そうですか。良かった。小さい子があんな病気に罹るなんて、考えただけでもゾッとしますよね」
由利子はほっとした表情で言った。
「そうですね・・・。僕はアフリカでそういう幼い患者を沢山見てきました。とても辛いことです」
ギルフォードは思い出したのか、少し表情を歪めた。この人は、そういう修羅場を沢山見てきたんだ・・・と由利子は改めて思った。
「だから、僕はこんな病気をばら撒いた連中を絶対に許せません」
と、ギルフォードは別人のような厳しい表情をして続けた。由利子は頷いて言った。
「私も同じ気持ちです」
それに、美葉を誘拐したのもその関係の可能性があるから、もう私も完全に関わってしまったのかも・・・。と由利子は思った。ギルフォードは由利子の両肩をがっしりと掴み、彼女を真直ぐに見て確認するように言った。
「ユリコ、辛い戦いになるかもしれませんよ」
「もう、とっくにその覚悟はしていますよ」
由利子は、ギルフォードの眼を真直ぐに見返して言った。
「Good!」
ギルフォードは満足そうに言った。
「そうだ、ユリコ、タミヤマさんとは会ったことありますか?」
「ひょっとしたら、K署で会った事があるかもしれません」
「タミヤマさんの調子が良いようならば、会ってあげてください。タミヤマさん、会いたがっておられましたから」
「ええ、是非、お会いしたいです」
「多分ガラス越しになるでしょうけど、面会出来たら、あとで僕も病室に行くからってお伝えください。では、僕は、今からニシハラ・ユウイチ君のところに行かねばなりません。何か話したいことがあるそうですから。君はしばらくここにいてください。タカヤナギ先生、ユリコをよろしくお願いしますね」
ギルフォードはそう言うとスタッフステーションから去って行った。由利子はその後姿を見ながら、なんか寂しそうだな、と思った。彼女は、ギルフォードが親しげに接しながらも、何となく人と距離を置いている様なところがあることに気がついていた。
 

 窪田栄太郎は、体調不良と精神的なストレスで元気がなく、その上午後からは集中力にも欠け、仕事が全くはかどらなかった。精神的なストレス・・・。そう、火曜の深夜・・・実質水曜の午前1時ごろ、過失で自動車でぶつけてしまった男のことをずっと気に病んでいるからだ。相手が車道を歩いていたとしても、もちろん非は窪田にあった。彼は愛人である部下の笹川歌恋の挑発からいわゆる無謀運転になっており、男に気がつくのが遅れた。しかも酒気帯びである。それ故に窪田は被害者を道路脇に隠して逃げてしまったのだ。
 彼は運が悪かった。普通ならあの程度の事故ならば、まず死ぬようなことはない。何故なら、気付くのが遅れたとはいえ、酒気帯びのためスピードを出さないように気をつけて運転していたのが幸いして、重傷を負わせるような衝撃ではぶつからなかったからだ。しかし、男は何故か激しく痙攣して目の前で死んだ。窪田は歌恋に押し切られ、遺体を放置して逃げてしまった。しかし、あれ以来、毎晩のようにその時の夢を見て汗だくで飛び起きる。妻は、そんな彼を不思議に思ったが、敢えて理由を聞くようなことはしなかった。夫婦仲は冷え切っていたのである。

 あの夜の事故の後、窪田は闇雲に車を走らせ、目に付いた山奥のホテルに飛び込んだ。チェックインの電話を済ませると、窪田はそのまま倒れこむようにベッドに横たわった。まだ、心臓がドキドキしていたが、そのくせさっき起こったことが事実だったのかどうか、記憶はあるが実感が全然湧かない。まるで悪夢のようだった。一度眼をぎゅっとつぶって開け、そっと掌を見た。やはりうっすらと血のあとが残っている。あれは紛れもない事実だった。窪田はガバッと起き上がってポケットから血を拭いたハンカチを取り出し、ベッド脇のゴミ箱に投げ捨てた。
「課長・・・」
歌恋の声に、窪田は我に返った。彼女はベッドの傍に心配そうに立っていた。窪田は立ち上がって彼女に向き合うと言った。
「取り乱してすまない、笹川君」
「私こそ、ごめんなさい」歌恋は窪田に抱きつきながら言った。窪田も彼女を抱きしめた。
「でも、あんな自殺者の為に課長の一生が台無しになるなんて、我慢できなかったの・・・」
「自殺・・・?」
「だってそうでしょ? 車道の真ん中をフラフラ歩いていたのよ。第一あれくらいのことで死ぬわけないもの。きっと毒を飲んでたとか、リスカとかしてたんだわ」
「そ・・・そうかな?」
言われて見れば歌恋の言うことはもっともであるように思われた。
「そうですよ」
「でも、遺体が見つかったら・・・」
「大丈夫ですって。だって課長との接点がないもの。課長は捕まったりしないわ。あれくらいだと車体には大して傷はついてないでしょうし、轢いてないからタイヤに血もついてないと思う。だから現場に課長がやったっていう証拠は残ってないはずよ。目撃者もいなかったでしょ」
歌恋は理路整然と言ってのけた。
「そう、そうだよね」
窪田が安堵の表情を浮かべて言うと、歌恋は無言で窪田をぎゅっと抱きしめた。
「笹川君・・・」
「ダメよ、歌恋って呼んでくれなきゃ」
「歌恋・・・」
「うふふ、栄太郎サン・・・」
歌恋は、背伸びをしながら窪田の方に顔を近づけてきた。
「さ、先にお風呂に入ろうよ、ね・・・」
窪田はそう提案したが、若い歌恋はすでに歯止めが効かなくなっていた。
「いや・・・。このまま続けて・・・お願い」
歌恋は濡れた眼をして息を荒げながら言った。あまつさえ歌恋に胸を押し付けられ、股間を彼女が擦り付ける腹にくすぐられていた窪田の理性は遂に吹き飛んだ。そのまま二人は床に崩れ墜ちた。

 窪田は、仕事中にとんでもないことを思い出して、あせって咳払いをした。顔が少し赤くなっていた。
「課長、風邪でもひかれたんですか?」
窪田の元に出来上がった書類を持ってきた、部下の加藤が心配をして声をかけてきた。
「最近元気がないようですし、顔色も悪いですよ」
「あ?・・・ああ、大丈夫だよ。このところなんだか眠れなくてね」
「そりゃあ、よくないじゃないですか」
「ははは、ひょっとして男の更年期かな?」
窪田は自嘲気味に笑いながら言った。それを聞いて加藤は少し安心したように言った。
「何言ってんスか。まだそんな歳じゃないでしょ。そーゆー冗談が言えるようなら大丈夫ですね。はい、これ、来週の会議用の書類です」
「ああ、いつもありがとう。ご苦労さん」
部下へのねぎらいの言葉を忘れない、律儀な性格の窪田は部下達から慕われていた。もちろん歌恋とのことは誰にも知られていない。加藤は書類を渡すと、一礼して自分の席に戻った。窪田はちらりと歌恋の方を見た。彼女はパソコンの前で、黙々とキーボードを打っていた。歌恋は小洒落た名前や派手な見かけによらず、仕事熱心な女性だった。そのため、他の人の分の仕事まで回って来てよく夜遅くまで残って仕事をしていた。ある日、たまたま二人きりで残業になり、夕食を食べに行った。その時、なんとなく意気投合し、その後はお決まりのコースをたどってしまったのである。実は、窪田は今度の土日、つまり明日と明後日で歌恋とこっそり温泉旅行をする企画を立てていた。このまま体調が悪いままだと、行けない可能性が出てくる。
(帰りに栄養ドリンクでも買って帰るかな・・・)
そう思った時、メールが入った。こっそり確認すると歌恋からだった。ふと見ると歌恋は席を立っていた。トイレかどこかでメールを送ったのだろう。内容は、窪田の体調と旅行を心配したものだった。急いで窪田は『大丈夫だよ』という短いメールを返した。
  

 多美山がうつらうつらしていると、傍に人の気配を感じて目を開けた。気配の方を見ると園山看護師だった。
「多美山さん、起きてらっしゃいましたか?」
「やあ・・・、園山さん・・・。もう定期検査の時間・・・ですか?」
「いえ」
園山は答えた。
「面会の方が来られていますが、お会いになりますか? 窓越しですけれども」
「どなたです?」
「篠原由利子さんとおっしゃる方ですが・・・」
「ああ・・・」
多美山の顔に生気が戻った。
「篠原・・・由利子さんですか。もちろん喜んでお会いします」
「そうですか。ただ、あまり無理してお話はなさらないでくださいね」
園山は、そう言うと窓のカーテンを開け、マイクでスタッフセンターに連絡した。
「お会いされるそうです」
しばらくすると、曇りガラスがさっと透明になり、窓の向こうに女性の姿が現れた。
「多美山さん、篠原です。・・・初めまして・・・じゃあないですよね」
女性は親しそうな笑顔を向けて言った。
「そうですな・・・。K署で一瞬だけお会いしましたが・・・。確か、秋山雅之の事故のことをジュンペイに報せに行った時でしたな」
「そうです。葛西さんからお話は良くお聞きしていましたが、あの時の方とは思っていませんでした」
「それより、あの一瞬で覚えておられることが驚きですよ」
「私が最初にK署にお電話した時に、応答されたのも多美山さんですよね」
「おや、そんなことまで覚えとられますか」
由利子は、クスッと笑って言った。
「だってお名前をおっしゃったじゃありませんか」
「そう言えばそうですな」
「珍しいお名前だから覚えてたんですよ」
由利子は、またにっこり笑って言った。多美山は、由利子の笑顔を見て、なんとなくほっとするのを感じた。
「多美山さん、ご気分のほうはいかがですか? あまり長くお話するとお疲れではないですか?」
「大丈夫ですよ。今は熱もだいぶ下がっとりますし・・・、食欲もあっとですよ。午前中は本も少し読めたし昼食は完食しました。入浴やシャワーは禁止されてしもうたとですが、トイレもちゃんと自力で行けっとですよ」
多美山は笑顔で答えた。
「すごいですね。私なんか、具合が悪いと食欲がほとんど無くなりますのに」
「体力勝負の仕事ですけん、出来るだけ食事はとるように訓練しとぉとです。ところで、今日はギルフォード先生はご一緒じゃなかとですか」
「来られてますよ。今、西原君が話したいとかいうので、そっちの方に行っておられます。後で多美山さんの病室の方に行くって言ってましたから、多分近いうちに来られますよ」
「そうですか。篠原さんは、先生のところでアルバイトされるそうですね」
「ええ、当面ですが」
「どういう経緯でお知り合いになられたとですか? やはり、秋山雅之つながりで?」
「まあ、それもありますが・・・、これが傑作なんですよ」
由利子は、ギルフォードと知り合った経緯簡単に話した。
「ほお、先生が人の顔を覚えるのが苦手というのは初耳ですな。まあ、まだそんな長い付き合いでもなかですが」
多美山は愉快そうに続けた。
「ばってん、教授のごたぁ偉か人の悩みが『顔を覚えられない』ってのも面白かですな」
「そうでしょ、そうでしょ」
由利子は言った。
「でも、それを言ったらいじけるんですよ。変な人ですよね」
「ところで、昨日は大変でしたな。お友だちのこと、ご心配でしょう」
多美山は急に神妙な顔をして言った。
「もう、ご存知でしたか」
「今朝ジュンペイが来て教えてくれたとです。昨夜は結局本部の方に泊り込んだと言うとりました」
「あらら、そうでしたか。申し訳なかったですね、せっかくの休暇だったのに」
「いえ、それが警官の仕事ですから、気にせんでください。しかし、先生の秘書の女性はたいしたもんですな。息の止まっていた男性を見事蘇生させたそうですよ」
「そうですか。良かった・・・」由利子はほっとして言った。「私、そんなことに全然気がつかなくて・・・。とにかく美葉のことで頭がいっぱいで、他にも被害者がいるなんて考えもしませんでした。亡くなっていたら、きっとすごく後悔しました」
「普通の人は気付かんですよ。そういう取り込んでいる時は、特に」
「そうでしょうか・・・。それで、他の人たちは?」
「奥さんと、公安の武邑とか言う男は、意識を取り戻したそうで、重傷ですが命に別状はなかということです。しかし、蘇生した夫の方と公安の若い方は、依然意識不明の重体だということでしたが」
「そうですか・・・」
「犯人の男はお友だちと付き合いがあったそうですが、篠原さんは彼とは面識はなかとですか?」
「ええ。話だけで会ったことはないんです。ただ・・・」
「ただ?」
由利子は苦笑しながら言った。
「彼女が彼と付き合い始めた頃、アリバイ作りにずいぶん利用されたみたいで」
「ほお?」
「ある日、いきなり美葉のお母さんから電話が入って、誤魔化すのに大変でした」
「あららら」
「まったくもお、それならそうと一言断ってくれてたらいいのにって、その後美葉と大喧嘩になって、それから何となく気まずくなって、2年近く音信不通ですよ」
「そげんやったとですか」
「それで、最近久々に美葉から連絡があって、会ったら、彼氏のことを相談されて・・・」
「相談を?」
「ええ、彼氏に奥さんがいたって・・・」
「あらま、それは深刻ですな」
「って、私、何を話しているんでしょうね」
由利子は、また苦笑して言った。
「いや、私もついクセで色々聞いてしまいました。職業病ですなあ・・・。それで、お友だち・・・美葉さんとはまたお付き合いが復活したとですね」
「ええ。なんだかんだと言ってもやはり幼馴染ですし、下らないことに意地を張っていたなあって・・・。会って話して、改めてお互いが信頼しあっているって気がついたんです。それなのに、こんなことになってしまって・・・」
由利子は急に悲しくなって下を向いた。
「あのね、篠原さん」多美山は優しく言った。「たぶんね、つきあいが復活したとは、美葉さんに危険がせまっとったからですよ。あなたはきっと、美葉さんというお友達と強い絆で結ばれとぉとです。大丈夫、美葉さんはきっと無事に帰って来ます。その時に彼女をしっかり支えてあげんしゃい」
多美山の言葉に、由利子はついホロリとなって涙ぐんでしまった。
「ありがとうございます」由利子は目の縁を、人差し指でそっとぬぐいながら言った。「すこし、気が楽になりました」
「話題を変えまっしょうか。昨日の市内観光はどうやったですか?」
多美山は、深刻な話題から軽い話題に変更した。
「楽しかったです。朝の10時半に集まって・・・」
由利子は昨日のことを詳しく多美山に話し始めた。
 

「やあ、ユウイチ君、こんにちは。久しぶりですね」
ギルフォードは、西原兄妹のいる病室に入ると声をかけた。兄妹は仲良く並んで勉強していたが、ギルフォードの姿を見ると、香菜は慌てて兄の後ろに隠れた。
「あ、こんにちは、ギルフォードさん。すみません、まだ、香菜はまだその防護服が怖いみたいで・・・」
「オー、カナちゃん、ゴメンナサイネ。規則で着用が義務付けられているので仕方がないんです」
ギルフォードは、とっておきの笑顔で香菜に話しかけたが、笑顔の大部分が隠れてしまっているので大して効果はない。
「香菜、ギルフォード先生にちゃんとご挨拶しなさい。すごくお世話になっているんだよ」
兄に言われて香菜は、おずおずと兄の陰から姿を現し、ぴょこんとお辞儀をすると言った。
「先生、こんにちは。お世話になっています」
「カナちゃん、こんにちは。ご気分はいかがですか?」
「はい、大丈夫です」
そう答えると、香菜はまた兄の後ろに隠れた。その様子を見て、ギルフォードは苦笑しながら言った。
「ユウイチ君、お話したいことがあるそうですね。一時期は僕に会いたくないって言ってたそうですが、どうしたんですか?」
「はい」祐一は答えた。「あなたに合わせる顔がないと思ったからです。僕はあなたからあんなに危険に近づくなと注意されたのに、結局自分から近づいて行って、その結果最悪な事態を招いてしまいましたから・・・。でも、それじゃあいけないって思ったんです。会ってからちゃんと謝らないと、って」
「祐一君、確かに君は自ら危険に近寄ってしまいました。でも、今回は仕方がないと思います。僕だって可愛い妹が盾にされたら同じことをしたかもしれません」
ギルフォードは、祐一に向かって優しく言った。祐一は安堵した顔でそれを聞いていたが、ギルフォードは続けてしっかりと釘を刺した。
「でも、今回はもっと最悪な結果も考えられました。ユウイチ君、確かに、不可抗力という言葉があります。でも、これからは本当に気をつけてください。一人で決着をつけようとしないで、必ず誰かと相談してください。それも、出来るだけ信頼のおける大人に相談するのですよ」
「すみません。これからはきっとそうします」
祐一は、素直に答えた。何となく肩の荷が下りたような気がした。
 ギルフォードは、改めて彼らの座っているテーブルの上を見た。そこには、ノートや参考書が所狭しと並んでいた。そのテーブルは二人が勉強できるように特別に運び込まれたものだった。
「二人とも、ちゃんと勉強しているんですね。エライです。何かわからないコトなどありませんでしたか? せっかくですから、僕がわかるところ限定ですが、お教えしましょう」
「ええ? いいんですか?」
祐一が、嬉しそうに言った。
「ええ、でもホントに僕がわかるところだけですよ」
「はい充分です。実は科学と英語でどうしてもわからない箇所があったんです」
「さて、どこですか?」
ギルフォードは身体を乗り出して尋ねた。
 ギルフォードは祐一だけではなく、香菜の質問にも答えた。香菜の質問は、葉っぱは何故緑色をしているの、とか、虹はどうして出来るのとか、そういう子どもらしい素朴な疑問だったが、ギルフォードはわかる限りのことを答えてやった。それが功を奏したのか、いつの間にか香菜はギルフォードの膝に座るくらいに打ち解けていた。
「女の子って、意外と質問が好きなんですね」
ギルフォードは、笑いながら言った。
「ほら、あの事件で君と一緒にいたあの女の子」
「錦織さんのことですか?」
「そうそう、その子です。彼女からも僕は質問攻めに遭ったでしょ?」
「すみません。錦織さんの出現は、僕にとっても本当にイレギュラーで・・・。あいつ、関係ないくせに勝手に危険に首を突っ込んで・・・。困ったやつです」
「ホントに」
ギルフォードはニヤッと笑って続けた。
「でもユウイチ君、キミ、まんざらでもないでしょ?」
「ギ...ギルフォードっさんっ、あのっっっ!!」
「いや、話のわかる子でよかったです」ギルフォードは焦る祐一を無視して言った。
「賢(さか)しい子です。僕の心配を理解して、事件について伏せることを了解してくれました。彼女は頭がいいだけじゃない、機転も利きそうです。ただ、これ以上事件に興味を持たなければいいんですが・・・」
「そうですね。ご心配は、よくわかります」
祐一も納得して頷いた。

「くしゅん」
彩夏は、軽いくしゃみをした。
(いやだ、風邪ひいちゃったかしら?)
午後のけだるい授業を受けながら、綾香は思った。ふと外を見ると、梅雨前なのに日差しが照りつけて暑そうだが、妙に景色が霞んでいる。
(や~ね、黄砂かもしれないわ。またアレルギーが出ちゃうじゃない)
彩夏はため息をついた。
「錦織さん」
彩夏は急に自分の名を呼ばれて慌てて正面を向いた。名を呼んだのは、もちろん先生だった。
「ちゃんと聞いてる? くしゃみをしたり、ぼうっとしたり、ため息をついたりと忙しいみたいだけど・・・」
「すみません」
彩夏は、恐縮して言った。前の方でクスクス笑う声がした。良夫だった。彩夏は口を尖らせて良夫を見たが、すぐに姿勢を正して授業に専念することにした。
 

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