2.侵蝕Ⅱ (7)キッドナップ
「ああ~、いい気持ちだった~。お風呂サイコー」
由利子は、気分よく風呂から上がった。髪は洗い立てなので頭には大きめのタオルを巻き、暑いのでこれまた大き目のTシャツにアンダーパンツだけのあられもない姿だったが、一人暮らしで同居人は猫だけという気楽な生活であるので、そのあたりはさして気にする必要もない。由利子は、冷蔵庫を開けると缶ビールに手を出そうとした。しかし、つい1時間半前くらいまで飲んでいたことを思い出し、予定を変更して手を牛乳パックの方に向けた。グラスに牛乳をついで、く~~~っと一気飲みをした。その後グラスを流しの中に置き水に浸け、キッチンから部屋にもどり、ぬれた髪を乾かし始めた。ドライヤーの苦手な猫2匹は、ベッドの中に避難した。いつものことなので由利子は全く気にしていない。髪を乾かしながらふと机の上の携帯電話を見ると、着信の知らせが入っていた。中を確かめてみると美葉からの着信とメールだった。電話は、メッセージも何もなく切れていた。変だなと思いメールを開いてみる。件名はなく本文も短いようだ。しかしその内容を見て、由利子は首をかしげた。
由利ちゃんどうしよう、ゆうきさ
「何、これ?」
普通なら、単なる送り間違いとして大笑いで終わりそうなメールだったが、由利子は、そのメール文の妙な中途半端さに、却って不気味なものを感じた。
「『ゆうきさ』って何? 勇気さ? 違うよな。『どうしよう、勇気さ』じゃあ辻褄が合わんやろ。なんだろ、引っかかるな。ゆうきさ・・・ゆうき・・・ゆう・・・き?」
由利子はハッとした。この前ギルフォードと美葉の部屋に行った時、長沼間の伝言を彼女に伝えたが、その時彼女が口にした彼氏の名前が、確か『ゆうき』だったということに思い当たったからだ。不吉な予感がして、いそいで電話を入れる。
「頼む、出て・・・!」
祈るような気持ちで電話を耳に当てる。しかし、呼び出し音はせず、無情にも留守番電話サービスに繋がった。電源が入ってないか電波の届かないところに居る・・・? しかし、美葉が携帯電話の電源を切ることはほぼないと思っていい。また、美葉がこんな時間に電波の届かないようなところに行く可能性も少ない。第一、由利子から危険に曝されていることをあんなに注意されたのだから。
「何かあったんだ・・・」
由利子は直感した。由利子は急いで着替えると火元の確認をし、電話と財布を引っ掴み、髪が半濡れのまま部屋を飛び出した。猫達が不思議そうな顔をして、ベッドから顔を出した。
由利子は、一気に走って大通りに出てタクシーを捜したが、こういうときに限ってなかなか空車が来ない。やきもきしていると、ようやくランプを点けたタクシーが一台走ってきた。両手を振ってタクシーを止める。
「すみません。助かります」
由利子は乗りながら運転手に礼を言った。その後すぐに行き先を告げ、タクシーが動き出すとすぐにギルフォードに電話を入れた。ここは110番より、事情を知っているギルフォードに電話したほうがいいと思ったからだ。しかし、これまた繋がらない。
(しまった! 彼は今、病院にいるんだった! なんてこと・・・)
由利子は伝言を入れた後電話を切ると、しばらく電話を眺めながら考え込んだ。
(やっぱ、110番か・・・)
そう思って再度電話を開いた時、ちょうど電話が震えた。ギルフォードからだ。由利子は速攻で電話に出た。
「あ、アレク? 由利子です」
「どうしました?」
「電話、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫です。携帯電話の電源を入れ忘れてました。今、帰ろうと思って駐車場に向かっているところです。サヤさんもジュンも一緒ですよ」
「あのっ、美葉が電話に出ないんです」
「電話に出ないって、トイレとかお風呂じゃないんですか?」
「電源が切れてるんです。美葉のところには固定電話がないから、彼女が家にいる時、携帯電話の電源を切ることは、まずないんです」
「なるほど」
「それに、美葉から着信があってて、その後、途中までの意味不明なメールが来てたんです。だからそれまでは電源は切ってなかったはずです。ほんの15分かそこら前のことです」
「確かに、それは変ですね・・・」
「今、タクシーで美葉のところに向かってます」
「わかりました。僕らもそっちに向かいます。交通事情によってはこっちからのほうが早いかもしれません。事件性が不明なので警察は動けないかも知れませんが、一応110番してみて下さい。何よりパトカーが一番速いでしょうから。僕は、長沼間さんに連絡を入れてみます。張り込みの人に様子を見てもらえるかもしれないですし」
ギルフォードは、その張り込みの警察官が、まず倒されてしまったことをまだ知らない。由利子は言われたとおり110番したが、やはり事件性の根拠が希薄なせいか、あまり熱心には受け取ってくれなかった。それでも、とにかく誰か向けましょうと言ってくれたので、由利子はとりあえずほっとした。一方通報を受けた通信司令室の警官は、司令室前方の大ディスプレイでパトカーの所在を確認して「あちゃ~」と言った。パトカー出動を表す地図を見ると、九州最大級の繁華街であるN州近辺とQ自動車道の方にパトカーが集中しており、電話の通報のあったマンション付近に即向かえる位置にパトカーがいなかったからだ。
「そういえば、繁華街で発砲事件と、高速では玉突き事故が発生していたな・・・」
彼はつぶやいた。
ギルフォードは事情を説明して運転を紗弥に任せ、長沼間に電話をいれた。その間、葛西があることに気がついて紗弥に尋ねた。
「紗弥さん、ひょっとして酒気帯びでは・・・?」
「大丈夫です。生ビールをほんの一杯しか飲んでませんから、もうとっくに分解していますわ」
紗弥は澄ました顔で答えた。
「マジ・・・?」
いくら何でも三時間やそこらで分解はないだろう。しかし、そういえば酒臭さはしないようだ。
(バケモノ・・・?)
葛西は思ったが、もちろん口には出さなかった。
長沼間は何故か電話に出るまでに時間がかかったが、しばらくして不機嫌そうな声で応答してきた。
「俺だ。こんな時間に何だ、先生」
「あ、ナガヌマさん、ギルフォードです。あのミハさんが・・・」
「あいつ等に電話しても繋がらないんで、張り込みの現場に向かおうとしていたところだ。まったく糞の役にも立たん連中だよ」
「え? 現場の部下に連絡がとれない・・・?」
ギルフォードは不吉な予感に襲われた。
「ナガヌマさん、これは何かあったのかもしれませんよ」
ギルフォードは長沼間に、由利子からの電話の内容を話した。
「くそ~!」長沼間は言った。「本当に役立たずな奴らだ。オマケに心配までかけさせやがる」
そこまで言うと電話がブチッと切れた。
「長沼間さんが向かったようです。急ぎましょう」
ギルフォードが言った。紗弥は、何も言わずにアクセルを踏んだ。車はいきなりスピードを上げた。後部座席に乗った葛西が驚いて言った。
「うわあ、一応現役の警察官が乗ってるんです。派手なスピード違反はやめて下さい」
「サヤさん、急ぐとは言え公道です。ある程度の速度で手を打ってくださいね」
それでも、紗弥はスピードを緩めない。
「パトランプが欲しいぞ~~~!」
葛西が叫んだ。
由利子は思ったより早く美葉のマンションについた。電話の内容から緊急性に気づいた運転手が、抜け道の限りを駆使して急いでくれたからだ。警察もギルフォードもまだ来ていない。がっかりしながらも、由利子は運転手に心からお礼を言うと、急いでマンションの中に駆け込んだ。急いでインターフォンで美葉の部屋に連絡をとってみる。やはり反応がない。仕方がないので管理人を呼び出した。深夜にも関わらず彼女は幸い起きていて、すぐに出てきてくれた。由利子は事情を説明し、管理人に美葉の部屋の鍵を開けることを納得させた。二人は美葉の部屋に向かった。
「いえね、変と思ったのよ」
管理人の女性が言った。
「多田さんの部屋が騒がしいって苦情が出たの。彼女が入居してからこんなこと初めてだったのよ。でね、様子を見に言ったら、なんでもないって言われて。ほら、こっちもそれ以上追求できないでしょ」
管理人の言い訳じみた話を聞きながら、由利子は不安を募らせた。美葉の部屋の前に着くと、管理人はインターフォンで美葉に呼びかけた。
「多田さん?」
応答がない。管理人はドアをノックしながら言った。
「多田さん? 居るの? 何かあったんじゃないの? 開けるわよ」
やはり、何の反応もない。由利子と管理人は顔を見合わせた。二人とも顔がこわばっている。
「仕方がない、開けましょう」
管理人は言うと、合鍵でドアを開けた。中は電気が消えて真っ暗になっていた。管理人が慌てて電気を点ける。部屋は急に明るくなり、由利子は一瞬目をつぶった。
部屋の中は、かなり荒らされていた。美葉の部屋では誰かが暴れたような跡があった。床には砕けた携帯電話が落ちており、血を拭いた様な跡もあった。尋常でない事態が起こったことは間違いない。管理人は「110番、110番」と言いながらオロオロしながら電話をポケットから取り出していた。その間由利子は部屋中を美葉と美月の姿を探し回り、バスルームのドアを開けて息を呑んだ。
「美月!!」
由利子は悲鳴に近い声で、美葉の愛犬の名を呼んだ。
幸い、葛西が同業者に遭うことなく目的地に着いた。どうやら、長沼間より先に着いたようだ。葛西は乗っている間、生きた心地がしなかったが、ほっとして車から降りた。ギルフォードも車を降りながら言った。
「しかし、まったく警察には遭わなかったけど、何か事件でもあってるんでしょうか」
「そうかもしれませんね」
「いずれにしても良かったですね、ジュン」
「ですが、逆にこっちにすぐ来れない可能性も出てきました。急ぎましょう!」
葛西がそう言ったと同時に、もう一台車が止まり、男が降りてきた。長沼間だ。彼は、バタンと激しくドアを閉じると、駆け足でギルフォードたちの方に向かってきた。
「何があったんだ? アレクサンダー」
「いえ、僕たちも今来たばかりです。ナガヌマさんの部下さんたちはどこに?」
「それは、俺が行く。オマエさんたちは早く多田美葉のところに行ってくれ」
「OK、急ぎましょう、二人とも」
ギルフォードたちと長沼間は二手に分かれ、目的の方へ向かった。
ギルフォードたちは、エントランスのオートロックの前で顔を見合わせた。
「管理人を呼んでみましょう」
葛西はインターフォンで100を押してみる。しかし、応答がない。
「寝てるんでしょうか」
「ユリコに電話してみましょう」
ギルフォードはそう言いつつ電話をかけ始めた。
「もしもし、ユリコ?」
「アレク!」
電話の向こうで珍しく冷静さを欠いた由利子の声がした。
「アレク! どうしよう、美月が、美月が・・・!!」
「ミツキちゃんが? てことは、今、美葉さんのところに居るんですね」
「あ、はい。でも美葉がいないんです。それで、美月が大怪我をしていて・・・」
「大ケガ?」
「はい。息はあるけど全く反応がなくて・・・どうしたら・・・」
由利子の声が涙声になった。
「すぐ行きますから、とにかくオートロックをどうにかして欲しいのですが」
「管理人さんに言ってみます」
そのまま電話が切れ、少しするとドアが開いた。と、同時に三人は中に入り急いでエレベーターに向かおうとしたところで、紗弥が異変に気がついた。
「呻き声が聞こえますわ」
紗弥は、あたりを見回すとまっすぐに建物内の公共トイレに向かいドアを開けた。
「教授!」紗弥はギルフォードを呼んだ。「中で人が三人倒れていますわ」
「なんだって?」
ギルフォードより葛西が先に反応し、走ってきた。ギルフォードも後に続く。
「女性が一人で男性が二人。男性の一人はもう息がありません。後の二人は呼吸は安定していますが、急いで病院に運ばないと」
紗弥が説明した。葛西はギルフォードに向かって言った。
「ここは僕たちに任せて、アレクは早く由利ちゃんのところに行ってあげてください!」
その時、長沼間が走ってきた。
「あ、ナガヌマさん! こっちに人が倒れています。お願いします」
そう言いながら、ギルフォードはきびすを返し由利子のもとに向かった。
「何があった?」
長沼間は、葛西と紗弥が人をトイレから引っ張り出しているのを見て駆け寄ってきたが、そのうちの一人を見て驚き、怒鳴った。
「武邑!!」
長沼間は、葛西を押しのけて部下の脈を見、まだ息のあるのを確認してほっとした。葛西はむっとした顔をしたが、すぐに救急車要請のため電話をかけはじめた。長沼間は、武邑の頬を軽く叩きながら怒鳴った。
「武邑! しっかりしろ! わかるか? 俺だ!!」
武邑はうっすらと目を開けて言った。
「・・・。長沼間さん、すみません。ヤツを取り逃がして・・・。僕が油断したせいで、松川まであんな目に遭わせてしまって・・・」
「もういい、後は病院で聞こう」
「長沼間さん、少しお退きくださいませ。息のない男性の蘇生をしてみますわ。まだ暖かいですから」
そういいながら、紗弥はバックから感染防止用の人口呼吸マスクを出すと、蘇生をはじめた。
「流石、ギルフォードの秘書だな、用意のいいこって」
長沼間は感心しつつ言ったが、すぐに葛西に向かって言った。
「一台すでに呼んでいるんだ。念のため別口だということを伝えといてくれ。連中時たま勘違いするからな」
以前女性が車中で水死した事件のことを言っているらしい。葛西は頷き電話を続けた。
「すぐ来るそうです。一台呼んだってどういうことですか」
「車の方で、部下が一人倒れていた。まだ息はあるが、意識不明の重体だ。それで、もう一人の確認のためこっちに来た。すまんが、向こうの様子を見に戻らんといかん。こっちはよろしく頼む」
長沼間は葛西に頭を下げると、外に走って行った。入れ替わりに警官が二人走ってきた。
「すみません、立て込んでいたので遅くなりました」
そう言うなり、思った以上の惨事に警官二人は一瞬たじろいだ。
「何があったとですか?」
「わかりません。僕らも来たばかりなので」
葛西が、警官達に向かって手帳を出しつつ言った。
「ご苦労様です。K署捜査一課の葛西です」
「K署の刑事さんが何でこんなところへ?」
と、警官の一人が訝しげに訊いた。
「成り行きです」葛西は答えた。「通報した女性の知り合いです。連絡を受けたので急いで来ました。しかし、まさかこんなことになっていようとは・・・」
葛西は絶句した。傍らでは、もう一人の警官が、増員を要請している。
「通報があったのは、上の階の女性の件でしたが・・・」
「そうです。今二人、その女性の関係者が行ってます。ここは任せて、とにかく行ってあげてください」
「わかりました。行くぞ!」
二人の警官は通報現場に向かった。遠くから救急車のサイレンが聞こえ始めた。
ギルフォードは管理人に通され美葉の部屋に入ると、室内の状況を確認し予想以上の荒れように驚いた。しかし、すぐに、心配そうに美月の傍に座っている由利子のところに向かった。
「ユリコ」
「アレク! 美葉がどこにもいないの。誘拐されちゃった・・・」
「とにかくミツキちゃんの様子を見させてください」
ギルフォードは、急いで美月の容態を見ると言った。
「急がないと危ないです。今から知り合いの獣医師のところに連れて行きましょう。毛布かバスタオルはありますか?」
「探してみます」
由利子は立ち上がった。まもなく押入れからタオルケットを引っ張り出して持ってきた。ギルフォードは美月をタオルケットで包みながら言った。
「酷いことをしますね・・・」
「ええ・・・」由利子は答えた。「美葉から彼氏について聞いた話では、気の弱い優しい人だったのに、こんなことをするなんて・・・」
「ペルソナ・・・。人はいろんな仮面をつけているものですよ。・・・或いは何か薬物をやっているのかもしれません」
「クスリ・・・?」
「ええ。ある種の薬物は人の性格を変えてしまいます。ホラ、あそこの携帯電話、見事に砕かれているでしょう? 多分、君にメールを送ったことがわかって、あれに怒りをぶつけたんです。かなり衝動的な行動です。あと、家の中を物色した形跡がありますね。ここに何か探しに来たんでしょうか。見つからなかったので、怒ったのでしょう。周囲のものが壊されています。これは相当イカれてますね」
「そんな危険なヤツに、美葉は連れ去られたって・・・」
由利子は言葉を失った。
「部屋に入れてしまった段階で、もう勝負は見えています。言わんこっちゃないです。厳しいようですが、これは、ミハの失態です。かわいそうに、この子はミハを必死で守ろうとしたんでしょう」
「でも、悪いのは美葉の彼氏です。でも、不甲斐無いのは美葉を守ると言った公安だわ。彼らの目をスルーしてやってきたから、美葉も安心したんだと思うわ」
「その公安の人たちですが、おそらくやられてしまったようです」
「ええ? そんなバカな・・・!!」
由利子は驚いて言った。そんな事態は考えてもいなかった。ギルフォードは美月を抱き上げると、立ち上がって言った。
「男は何か強力な武器を持っています。それにこの子はやられたようです。下にも被害者がいました」
「下に!? 気がつかなかった・・・。なんてこと・・・」
「一刻を争いますので、僕はこれからこの子を病院に連れて行きます。あとはよろしくお願いしますよ」
そういうと、ギルフォードは急いで美葉の部屋を出て行こうとした。その背中に由利子が声をかけた。
「よろしくお願いします。助けてください」
「大丈夫。彼ならきっと助けてくれます」
ギルフォードはにっこり笑って言うと、部屋を出た。出掛けに警官二人に出会った。
「ああ、ゴクロウサマです。今から被害にあった犬を病院に連れて行くところです。急がないと間に合わないので・・・」
ギルフォードは不審そうに自分を見る警官達に説明した。
「あ、その人は大丈夫です。あの、私が110番した者ですが・・・」
由利子が玄関から顔を出すと、急いで説明をした。
ギルフォードがエレベーターで一階に降りると、増員された警官と救急隊員でごった返していた。血を流した犬を、タオルケットで包んで抱きかかえた大男のガイジンは、目立ちすぎて警官達の不審そうな目が集中し、ギルフォードはエレベーターから出た途端、警官たちに囲まれてしまった。
「どいてください! この子を早く病院に連れて行かないと・・・」
ギルフォードはゲンナリとして言った。こういう時は、やはり自分がこの国では異分子なのだと実感する。葛西がギルフォードの声に気がついて焦って説明した。
「この人は大丈夫です。僕の友人で、Q大のギルフォード教授です」
「失礼しました」
警官達がさっと道を開けた。
(”モーゼの気分だな”)
ギルフォードは思った。彼は、警官たちから解放され足早にマンションから出ると、片手で美月をしっかりと抱きながら片手で電話をかける。
「あ、ハルさん? 僕です。夜遅くすみません。大怪我をした犬がいます。診てもらえますか? いいですか? よかった。さすがハルさん、頼りになります。愛してますよ」
電話の向こうで何か騒ぐ声がしたが、気にせずにギルフォードは電話を切った。急いで車に戻ると、後部座席に美月を乗せ、シートベルトで上手く固定するとサッと運転席に乗り、エンジンをかけた。
”必ず助けてやる.がんばるんだぞ,ミツキ”
後部座席の方を振り向き美月に声をかけると、ギルフォードは車を発進させた。
由利子は、警官達から事情を聞かれて困っていた。どこまで話していいかさっぱりわからなかったからだ。そもそも長沼間からは詳しい話はほとんど聞いていない。通報した経緯までは話したが、それまでのことはどういうべきか迷った。そこに葛西と長沼間が入って来た。
「葛西君!」
由利子は葛西を見てほっとした表情になったが、後ろの長沼間を見ると一変して険しい顔つきになった。由利子は長沼間に近づくと、噛み付かんばかりの勢いで言った。
「うそつき! 美葉を守るって言ったじゃない! 美葉、居なくなっちゃったわ。きっと、あいつに連れて行かれちゃったのよ!」
「すまない」
長沼間は素直に謝った。苦渋に満ちた表情だった。事実、これは長沼間らの大失態である。おまけに部下2名がしばらく活動不能にされてしまったのだ。
「あなたに謝られても美葉は帰ってこないわ! 早く探してよ、急がないと殺されてしまうかもしれない・・・」
「由利子さん、長沼間さんをあまり怒らないでください。この人も二人の部下を意識不明の重体にされたんです」
見かねた葛西が、長沼間に助け舟を出した。
「とにかく早く探してください!! あの人たちにはあなたからちゃんと説明して」
由利子は制服警官たちを指差して言った。二人の警官は由利子の剣幕に驚きつつ、話の内容からこれは思っていたような痴話げんかではないことを認識した。由利子に言われて、長沼間は警官達の方に向かった。
「あなたは?」
「公安の長沼間です」
「公安?」
二人の警官の顔色が変わった。痴話げんかどころか、これが普通の刑事事件ですらないことがはっきりしたからだ。二人は顔を見合わせた。
ギルフォードが動物病院に着くと、獣医師の小石川晴希が半分シャッターを明け、戸口で待っていた。小石川獣医師は40代後半で、身長はギルフォードと競う高さだったが、体格はもっとがっしりしているため、ギルフォードよりでかく見え、さらに動物病院の医師にありがちな髭を生やしている。近所の人からは春風動物病院の熊先生と呼ばれ、親しまれていた。ギルフォードは美月を小石川に渡すと、医師は美月を見るなり驚き、野太い声で言った。
「美月ちゃん!」
「知ってるんですか?」
「ええ、僕はこの子の罹りつけです」
「とにかくお願いします」
ギルフォードはそう言うと病院の駐車場に車を置きに行った。急いで美月の元に走る。診察室に入ると、小石川が、診察台で酸素マスクをつけた美月を深刻な顔で診ていた。
「ひどい怪我です。何があったんです?」
「この子の飼い主が連れ去られました。その犯人にやられたようです」
「多田さんが? 一体どうして?」
「わかりませんが、犯人はかなりイカれた人物には間違いないですね」
「そうですね。動物をこんな目に遭わせるなんて・・・」
小早川は、表情を曇らせた。
「とにかくレントゲンを撮って背骨に異常がないか見てみます。あと、内臓の損傷も。場合によっては今から手術することになるかもしれません」
「お願いします。お金は僕が立て替えますから」
「いや、気にしないでいいですよ。飼い主にちゃんと請求しますから」
「でも、彼女は今・・・」
「大丈夫、きっと帰ってきます」
小石川は断言した。その時、クウンというかすかな声が聞こえた。酸素マスクのおかげで意識を取り戻したらしい。美月はギルフォードと小石川の顔を見ると安心したように尻尾を弱弱しく振った。
”ミツキ! 気がついたか?”
とっさにギルフォードは英語で言った。それでも美月にはなんとなく意味がわかったらしい。彼女を撫でようと差し伸べられたギルフォードの手を舐めた。しかし、それも力ない。
「Good girl! 僕がわかるんですね。一度しか、それも少しの間しか会っていないのに・・・。」
ギルフォードは感動して言った。
「ハルさん、この子をなんとか助けてやってください。お願いします」
「アレクさん、この子はね、3月のまだ寒い満月の夜に海辺に捨てられていたんです。多田さんが見つけた時は半分ほど塩水に浸かっていて、他の姉妹二匹はすでに死んでいたそうです。この子だけがかろうじて生きていて、必死で鳴いていたそうです。ここに連れて来られた時は、ほとんど意識がありませんでした。でも、この子は生き延びました。今回もきっと生き延びてくれると信じています」
「そうだったんですか・・・。美月、君も大変だったんですね。命の恩人を君は守ろうとしたんですね・・・」
「さ、そろそろ治療を始めます。もうすぐ妻が助手をしにやってきますが、会っていきますか?」
「いえ、僕はミハのところに帰って説明をせねばなりません。奥様にはまた今度」
「残念ですね。妻も会いたがっているのに」
「じゃあ、ミツキちゃんをよろしくお願いしますね。じゃ、ミツキ、がんばるんですよ」
ギルフォードは美月をもう一度優しく撫でると、病院を出ようとした。そこで、小石川の妻とばったり出会った。まだ20代の若い女性である。小柄で可愛らしく、夫と並ぶとまるで赤頭巾ちゃんと野獣といった風情だ。実はギルフォードはこの女性が苦手であった。
彼女はギルフォードの姿を見るなり言った。
「きゃああ~、ギル教授、おこんばんは~」
彼女はそのままきゃあきゃあ言いながらギルフォードに抱きついた。実は彼女はゲイ大好き腐女子で、おまけに抱きつき魔だった。
「あ、あの、マイさん、僕はこれから急ぎますので・・・」
「舞衣、先生の邪魔をしちゃあダメだろ。早くこっちに来て手伝ってくれないか。重傷なんだ」
小石川は焦って妻を呼んだ。
「マイさん、ミツキちゃんをよろしくお願いします」
ギルフォードはそう言い残すと、病院を出た。
「え? 美月ちゃんなの?」
舞衣は急に真面目な顔になって、夫の元へ走った。
「どうしてこんなことになったんやろ・・・」
由利子は、長沼間や葛西が警官達と話しているのを見ながら、ぼんやり考えていた。
今日は、楽しい一日で終わるはずだった。だが、夕方から多美山が発症し、そしてトドメのように美葉が誘拐されてしまった。
(一体何がおころうとしているんだろうか・・・)
由利子は不安を募らせた。しかし、美葉誘拐の重要な鍵は由利子自身が持っていたのだ。そう、美葉から預かった、CD-Rのことである。それは由利子のバッグの内ポケットの中で、統計計算ソフトのパッケージに収まって、綺麗さっぱりと忘れられていた。
(「第2部 第2章 侵蝕Ⅱ」 終わり)
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