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2.侵蝕Ⅱ (3)ギルフォード教授の野外講義 後半

※この講義でふれた種痘の件ですが、これを書いたころはまだ由利子さんの年齢にも種痘の痕があっておかしくありませんでした。しかし、書いていくうちに年月が経ち、由利子さんどころか教授すらその年齢には種痘接種痕のない時代になってしまいました。最終的に書きなおす予定ですが、しばらくはこのままであることをご了承ください。

 由利子と葛西が教授の講義を受け、多美山が園山看護士の顔を見てほっとしている頃、とある場所で大変な騒ぎが起きようとしていた。

 D市在住の大坪俊男は、夕方恒例の犬を連れた散歩をしていた。彼は定年退職後、D市の閑静な住宅地で悠々自適の生活をしていた。彼はこの地に住んでから長いが、近年増え続ける無頼学生に辟易していた。俊男は、今日は気分が良かったので、なんとなく遠出をしてみようと思い、山の方に入った。犬のタロウは、今日の散歩が長いことがわかって、嬉しそうにあちこち嗅ぎまわりながらたまにマーキングをしつつ、歩いている。彼は、柴犬系の白い雑種犬で、滅多に飼い主を引っ張るようなことはなかった。
 山道を通って、俊夫は県道に出た。県道とはいえ、山の中の道路である。歩道は無くその分路肩が広めにとってあった。俊男は、張り切って歩きすぎたと苦笑いしながら愛犬に話しかけた。
「タロウ、遠くに来すぎたごたるけん、そろそろ引き返そうか」
あまり道路際を歩くのを好まない俊男は、タロウを軽く引っ張ろうとした。しかし、タロウの様子がおかしい。耳をピンと立てて何かを警戒している。その後、クンクンと臭いながら、珍しく飼い主を引っ張って草むらの方に歩いて行こうとした。
「なんかあるとや?」
俊男は怪訝そうにタロウの向かいたがる方向に、慎重に歩いて行った。タロウは草むらの一部を見ながら足を止め、上半身を低くしてウーッ!と警戒の唸り声を上げた。その時、草むらがワサワサと揺れ、何か黒い塊が飛び出してきた。
「うわ~!!」
俊男は悲鳴を上げた。タロウは再び低くうなると、ワンワンと激しく吠え立てた。それは大量の虫のようだった。タロウの剣幕のせいか、虫たちは反対方向に逃げ去った。俊男は腰を抜かさんばかりに驚いて言った。
「な・何やったとや、ありゃあ? 心臓が止まるごとあったぞ」
しかし、タロウはまだ警戒を解いていなかった。彼はクンクンと草むらのにおいを嗅ぎながら、何かを探していたが、ある地点でピタリと足を止め、急に怯え始めた。
「あの草むらに何かあるとや?」
俊男はタロウに聞いた。タロウは怯えたまま、今度は頑として動かない。仕方ないので、俊男が様子を見に草むらに入っていった。草をかき分け進むと、何かが足に当たった。固いけれど何となく弾力があるような、妙な感触。嫌な予感がして、俊男はゆっくりと・・・ゆっくりと下を見た。
 

 ギルフォードは、二人に右肩を自分の方に向けさせると言った。
「じゃ、二人とも、肩まで袖を捲ってみて」
「ええ~? 何でそんなこと・・・」
由利子が言うと、ギルフォードは笑いながら言った。
「天然痘に関わる重要な事ですよ。別にストリップしろって言ってるんじゃないですから」
「わかった! 種痘の痕(あと)ですね!」
葛西はポンと手を打って言った。
「正解です。そういうことですので、ユリコ」
ギルフォードは自らの袖も捲りながら言った。「僕にも右の二の腕・・・というか肩に近いところに、はんこを押したような痕があります。ユリコにもありますね」
ギルフォードに言われ、由利子はしぶしぶ袖を捲り上げて言った。
「はい、あります」
「あ、ジュン、ちょっと失礼」
ギルフォードは、手を伸ばして葛西の右腕をとってから言った。
「おや、意外と筋肉質ですねえ」
「一応警官ですから」
と、葛西は若干テレながら言った。
「まあ、それはともかく・・・」ギルフォードは、由利子が何となく冷たい目で見ていることに気がついて、話題を戻して言った。「ほら、彼の腕にはないでしょう? 多分左腕にも無いと思います。ある年代から、種痘を受けなくてもよくなったからです。日本では、1976年に種痘が中止されましたが、その前から種痘を行わなくなっていました。日本での天然痘の自然発生がゼロになっていたのと、副作用の問題が顕在化してきたためです。ユリコの年代が種痘を受けたギリギリのラインではないかと思います」
「アレク、何さりげなく葛西君の腕を持ったままにしてるんですか。葛西君困ってるじゃない」由利子は葛西が気の毒になって言った。「そもそも、フツーそーゆーことは女性に対してやるもんでしょ」
「だって女性にやったらセクハラじゃん」
「そりゃあ、フツーのオヤジならそうでしょうけど、アレク、あなたの場合はイテッ!・・・今、私の足、蹴りましたね!」
「あ、ゴメンナサイネ、足が長いもんで。では、あなたも腕を掴んで欲しかったですか?」
ギルフォードは、そう言いながらテーブルに両肘をついて両手を組みあごを載せ、にっと笑った。
「あのね、アンタね」
由利子はムカッとして、椅子から立ち上がると、テーブルにバンと手を置いて、ギルフォードに迫った。しかし、彼はクスクス笑いながら言った。
「それが地なんだ」
由利子は、その一言で真っ赤になった。しまった、つい、アンタと言ってしまった。横を見ると、葛西が驚いて目を丸くしていた。
「あ、失礼っ、つい・・・」
由利子は無礼を詫び、焦って席に就いた。しかし、ギルフォードは笑いながら言った。
「ノー・プロブレムです、ユリコ。猫は被らなくていいんですよ。これから長いお付き合いになるかもしれないんだから、地はどんどん出してください。そのためのレクリエーションです。僕も女性は活きの良い方が好きですし。では、続きをやりましょう。さて」
ギルフォードは姿勢を正して椅子に座り直すと言った。
「天然痘は、医学では痘瘡と言いますが、ここでは馴染み深い天然痘でいきましょう。天然痘というのは、種痘に対して自然発生する痘瘡をいうようになったようです。このウイルスは人類によって始めて制圧されたウイルスです。種痘という有効なワクチン接種があったことと、自然界ではヒトだけが保有するウイルスであったことが、根絶出来た主な理由です。1980年、WHOは自然界の天然痘ウイルスの根絶を宣言しました。地球上の何処にも天然痘ウイルスが存在しなくなったのです。ただし、いくつかの研究所を除いてですが。その後、何度かの不幸な事故、つまり、バイオハザードで何人かの命が奪われ、結局、天然痘ウイルスは、現在、アメリカのCDCとロシアのベクター研究所の2箇所のみが保管するということで落ち着いています。でも、ほんとは保管されたウイルスは、解明が終わったと同時に廃棄されるはずでした」
「廃棄されなかったんですか?」
由利子が尋ねた。
「はい。密かに誰かがウイルスを悪用しようと保管している可能性は残っており、それがテロや兵器に使われた時に、抗ウイルス剤やワクチンを作るために必要だというのです。まあ、本音は一番怖いのはウイルスを所有しているお互いの国ということだったんでしょう」
「核兵器開発と同じ理由ですね」
と、葛西が言った。
「そうです。まあ、もし、廃棄が実現していたとしても、お互い密かに隠し持っていたでしょうケド。炭疽菌と同じようにね。廃棄に反対する意見の中で面白いのは、病原体とはいえ意図的に人類が一つの種を消滅させてしまっていいのかという、とても『人道的』な意見です」
「ウイルスにとっては、まさにそう言う気持ちでしょうけど、なんだかな」
葛西がいうと、由利子も
「まったくだわ。既に天然痘ウイルスをフルボッコにしていながらそれはないと」
と、苦笑しながら言った。ギルフォードは由利子が言った言葉に興味を持ったらしく、すぐに尋ねた。
「フルボッコ・・・?何ですか、それは?」
「あ、フルパワーでボッコボコにするって意味の略語です」
「オー、ボッコボコは、殴る時の擬音ですね。やはり日本語は面白いです。いろんな言葉を取り入れて新しい言葉を作りますね。あ、すみません、また脱線しましたね。・・・ですから、根絶したことが皮肉にも、この古典的ともいえるウイルスを最強の生物兵器のひとつにしてしまったことになります。しかし、僕は、天然痘撲滅は、アポロの人類月着陸に匹敵する・・・いえ、それ以上の偉業だと思っています。少なくともそれに関しては、人類が初めてひとつの目標のために協力しあったのですから。ですから、これを意図的にばら撒き、元の木阿弥にするのは許せないことです。」
聴講生二人はうんうんと頷いた。
「天然痘は、炭疽病と違って人から人へ感染します。潜伏期間の感染はないですが、身体に発疹が出て天然痘と発覚する前に口や気管の粘膜に発疹が出来、咳やくしゃみによってウイルスが飛び散って他の人に感染します。もちろん全身に広がった発疹の膿や瘡(かさ)からも感染します。天然痘の発疹は独特ですが、最初は水痘、いわゆる水疱瘡と区別がつきにくいです。水痘の場合は天然痘に比べると致死率も低く後遺症も少ないです。痕は少しは残りますが、天然痘のような目立った瘢痕(はんこん)は残しません。しかし、水疱瘡が治癒した後も、水痘ウイルスは神経系に隠れ、何十年も経って、免疫の弱った時を見計らって悪さをします。いわゆるヘルペス・・・、帯状疱疹ってやつです。
 さて、天然痘の発疹は痘疱(とうほう)といってとても特徴的です。同じような大きさの・・・う~~~ん、荷造り用の緩衝材にプチプチ・・・エアークッションがありますね、あのプチプチに空気ではなく膿をつめたようなのが主に手足と顔にびっしりと出来ます。大きさは約10mm程度で少しへこんでいます。身体の前の方はそこまでびっしりにはなりません。そこらへんも水疱瘡とは違います。致死率は高いですし、治癒してもすごい痕が残ってしまいます」
「天然痘ウイルスが今撒き散らされたら大変ということですね。種痘を受けていないからみんな免疫がない」
「そうです。僕も君も種痘の効果はとっくに切れてますから、ジュンとリスクはあまり変わりません。世界中の人間が、およそ30年天然痘ウイルスに触れていないということです。まったく免疫がないことが、どういうことかというと、南米の先住民・北米の先住民、共に、侵略者の持ち込んだ、天然痘ウイルスによって壊滅的な被害を受けました。天然痘患者の膿をつけた毛布を、北米先住民に意図的に配ったという記録もあります」
「なにそれ、ひっどいことしたんだ」
「まあ、その酷いことをしたのは、イギリス人なんですが、僕も許せない行為だと思います。ネイティヴ・アメリカンは勇敢でしたから、まず、その戦闘能力を奪おうとしたのでしょう。当時は病原性微生物によって感染症に罹るという概念はなかったのですが、経験的に試してみたのだと思います。結果的に生物兵器を使ったことになります。それにより、イギリス軍は先住民との戦争に優位に立ちました・・・。もちろん、軍事力の差は大きかったので、残念ながら、いずれは征服される運命だったのでしょうけど・・・」
「歴史の影に微生物あり、ですね」
と、葛西が言った。
「そうですね。さて、話は現代にもどりますが、今度天然痘が自然発生を始めた場合、以前のような根絶運動はできません。なぜなら、エイズの問題があるからです」
「あ、アフリカやアジアの貧困層に蔓延しているみたいですからね」
と、これも葛西。
「そうです。HIV感染で免疫の低くなっている人たちへのワクチン接種は、命取りになりかねません。それでなくても副作用があるのですから。たった30年で、世界はあの時と全く状況が変わってしまったのです」
「アレクはその天然痘ウイルスはどうすべきだったと思う?」
「僕はもちろん廃棄派ですよ、ユリコ。根絶運動の苦労は聞いてますから。種痘はね、覚えてないかも知れないけど、二股針という器具を使って何度も皮膚を軽く刺してワクチンを植え込むんです。そういう行為をするのですから、未開地の部族の方たちに接種する場合など、まず、信頼関係を築かねばなりません。命がけで身体を張って・・・、そう、何かがあったら殺される覚悟で種痘を行った医師だっているんです。それに、ワクチンを作るために犠牲になった牛さんたちにも申し訳ないです」
「牛?」
由利子が訊いた。何故牛?
「そうです。ジェンナーは牛痘・・・牛の罹る天然痘ですね、に罹った人は、天然痘に罹らないということを証明するために、牛の乳を搾る女性の手に感染した牛痘の病変から取った膿を、当時8歳だった羊飼いの少年に接種しました」
「ええ? 自分の息子にじゃなかったんですか?」
「いえ、残念ながら最初の実験では他人の子を使ってます。その少年は、その後20回ほど天然痘患者の膿を接種させられましたが、発症しませんでした。まあ、それが種痘の始まりなのですが、問題があって、人の膿を使うので、ほかの病原体も混じることがあり、ひどいときには種痘によって梅毒もついでにもらってしまうこともありました。英語では天然痘をスモール・ポックス、梅毒は古い言い方でグレート・ポックスというのですが、まあ、天然痘を予防するつもりが、似たような名前の病気に感染してしまうという、洒落にならない状態を招いたりしたのです。因みに名前は似ていますが、この二つは全く違う感染症です。梅毒の発疹に比べて天然痘の発疹が小さいのでこう呼ばれるようになりました。梅毒の病原体は、スピロヘータという細菌と原虫の中間に位置するような単細胞生物です。で、その後、子牛の腹を使ってワクチンを作るという、方法が考え出されたのです。今では動物愛誤の考えから、この方法は使えないでしょうが、天然痘根絶運動の時までは、この古典的方法が使われてきたのです」
「で、ワクチンに使われた牛は・・・?」
と、由利子がすかさず訊いた。
「う~ん・・・、言い難いですけど、だいたい処分されたということです」
「酷い! 使い捨てだったんだ。役に立った牛ということで死ぬまで面倒見るべきでしょう!!」
「そうです。でも、当時にはそういう考え方なんかなかったのでしょう。実験動物は実験が終わったら処分があたりまえだったのではないでしょうか。だから、天然痘根絶の影には、多くの牛さんたちの尊い犠牲があったのです。因みに1頭の牛からは2万人分のワクチンがとれました」
ギルフォードは、フォローともいえないフォローをしたが、由利子の憤りは納まりそうになかった。
(”これじゃ、牛でどうやってワクチンを作るかまで話したら、俺に噛み付きかねんなあ”)
そう思ったギルフォードは、その説明は避けた。その製造方法とは、牛をよってたかって仰向けに押さえつけ、腹の毛を綺麗に剃って、腹全体に縞模様に浅い傷をつけ、そのワクチンの元となるウイルスを擦り付ける。そのあと、ガーゼで傷を覆うが、牛が疲れて座ったら泥がついて台無しになるので、縛り付けて立たせたままにする。一週間後牛の腹に溜まった膿を、また仰向けにねかせて削り取る。それがワクチンになるのだ。明らかに今なら動物福祉法(日本では動物愛護法あるいは実験動物の飼養及び保管等に関する基準)違反であろう。そんな辛い目に遭わされた挙句に殺された牛たちは、迷惑なんてものじゃなかったろう。彼らにとっては、まさに災厄である。
 ギルフォードは話の矛先を変えることにした。
「天然痘撲滅には、日本人も重要な立場で関わっていたんですよ。天然痘根絶計画の2代目のリーダーは、日本人のアリタ(蟻田)博士でした。
 それから、種痘は副作用が強いワクチンで、時に脳症をひきおこしました。それは1歳未満の乳児に多かったので、種痘接種の年齢を1歳半からに上げたりとリスクを減らす工夫はされたのですが、それでも、種痘による副作用は時にですが、おきてしまいました。副作用は、種痘後脳炎のほかに、免疫が落ちた人におこりやすい進行性種痘疹、これは、しばしは致死的状況を招きます。それから、健康な人に時におこる全身性種痘疹、これは見かけに反して予後はいいです。以前、テレビのバラエティ番組で、女性お笑いコンビの黒い方が、子どもの頃種痘の後に発疹が出て、いろんな医者が見に来たとか言ってましたが、彼女もおそらく全身性種痘疹だったのだと思います。まあ、副作用が多いワクチンとはいえ、医者が見に来るくらいなのですから、やはりめずらしいことだったのでしょう。
 で、1970年代の初め頃、日本のハシヅメ(橋爪)博士が脳炎を起こす確率の低い、安全なワクチンを開発されました。しかし、当時はすでに、天然痘は撲滅されつつあり、日本の種痘は1976年には中止されていたので、この、ハシヅメワクチンが、その威力を発揮する機会はなかったですが、昨今のバイオテロの心配から、また注目されるようになりました」
そこまで言うと、ギルフォードは由利子の顔を見て言った
「安心してください、ユリコ。今のワクチン製作の多くは、培養細胞や卵などを使っており、生きた動物は使ってません。これは、動物福祉法の関係もありますが、他の病原体の汚染を防ぐためでもあります」
由利子は納得したようなそうでないような顔をして頷いた。
「さて、これで、何故天然痘によるバイオテロが恐れられているかわかりましたか」
「はい。そういえば、半島にある北の某国ほか数カ国が、天然痘ウイルスを持っている可能性があると聞いたことがありますが」
「そうですね。ソ連の崩壊で、食い詰めた生物学者が、生活に困って売っ払ったり亡命時に持ち込んだりという可能性はあります。だから、さっさと廃棄すべきだったんです。ウイルスの保管は難しく、それなりの設備や技術も必要ですから、その国が隠し持っていたというより、ロシアから得たと考えるほうが無難でしょう」
「なるほど」
由利子は納得した。
「では、時間がなくなって来ましたので、駆け足で次にすすみましょう」
 

 俊男は、ゆっくりと足元を見て、息をのんだ。ついで心臓が飛び出るほど驚いたが、今度は驚きすぎてろくに悲鳴も上げることが出来なかった。
「ひ、ひぃ~」
全力で絞り出たのは、こんなかすれた声だった。俊男は見下ろした先にあったものを、凝視していた。頭ではそれを拒否しているのに、身体が動くことを拒否し、眼が勝手にその全貌を確認した。そこには、死体の頭部らしきものがあった。らしきと言うのは、食い荒らされて顔の特徴部がほとんど無くなっていたからだ。瞼や鼻・唇はすでに食いつくされ、眼球もしつこく突かれた跡があった。目鼻や耳から入った虫から、脳も相当食われているようだった。死体の首から下は大まかには欠けてはいなかったが、細部はあちこち食われてしまっていた。衣服から男性だということの予想はついたが、年齢他、見当がつかないほど、損傷が激しかった。呪縛が解けたように俊男は動き出すと、よろけながら草むらから脱出した。
「う・・・うげぇ」
うずくまり、何度も吐きそうになるのをこらえて、ズボンのポケットから電話を取り出した。
「うげ、ひゃ、ひゃくとおばん・・・おえ」
食事前で良かった、食ってたら確実に吐いていた・・・。俊男は心の隅で思った。そんな俊男を心配して、タロウがやっと動き出し、心配そうに彼の傍に座った。焦りながら、110番を押そうとするが、指が震えてなかなか押せない。その様子を不審そうに見ながら車が何台も通り過ぎていった。そんな中、俊男を心配したのか、その中の一台が引き返してきて、路肩に止まり助手席の女性が降りてきた。
「どうなさいました?」
それは上品そうな熟年女性だった。
「あそこに、し、死体が・・・」
「死体?」
彼女は、俊男が指差している方向に行こうとした。
「だ、だめです! 女性が見るもんじゃなかですけん」
俊男はあせって止めた。その様子を見てただ事じゃないと思ったのだろう、運転席の男の方も降りてきた。
「夏美、どうした?」
「あ、あなた・・・。あの、あそこに死体があるそうなんですよ。どうしましょう」
「死体? なんかの見間違いじゃないのかい?」
夫は、夏美の指差した方へ向かった。その時、俊男がようやく110番通報に成功した。
「F県警本部、通信指令室の河上です。どうされました?」
「は、はい・・・。うげ」
「落ち着いてください。事故ですか、事件ですか?」
「た、多分事件です」
その時、死体を見た夫が悲鳴を上げて、草むらから飛び出してきた。
「こ、こりゃいかん、警察を呼ばにゃ」
「今、電話されているようですよ」
慌てる夫に妻が答えた。通報先の警官にもその悲鳴が聞こえたらしい。
「今なにか悲鳴が聞こえましたが、大丈夫ですか?」
「今、死体を見た人が上げた悲鳴です」
「死体! それは大変だ! まだ息があるようなことはありませんか」
「あれで生きとったら・・・。死後だいぶたっとるようですけん」
「状況を説明出来ますか?」
「状況は・・・、うげ・・・、すんません。とても・・・。とにかく、道路脇の草むらに男の死体が隠してあったとです」
「わかりました。場所はどこですか?」
「D市の県道の・・・、すんません、説明出来そうにありません」
「近くに電柱か自販機はないですか?」
と、警官が尋ねた。固定電話の場合は住所を特定できるが、携帯電話の場合は特定が難しいので、最寄の自販機に書いてある住所、無い場合は電柱の記号で割り出すのだ。
「電柱か自販機ですか?」
俊男はそれらを探そうと周りを見回した。その時、いつの間にか夏美とその夫がタロウと共に、傍で電話の内容を心配そうに聞いていたことにようやく気がついた。
「電柱か自販機ですね」夫の方が言うと、半屈みの状態から立ち上がり、道路際に出て周囲を見回した。
「あ、あそこに電柱があります! ちょっと遠いので僕が見てきましょう。何を見てきたら・・・」
「電柱、あるそうです!」
俊男は警官に告げた。
「では、電柱に番号が書いてありますから、それを教えてください。それで、場所が特定できますから」
「わかりました!」俊男はすぐにそれを協力者に告げた。「電柱の番号だそうです」
「わかりました、見てきます!!」
と言うや、夏美の夫は電柱まで駆け出した。
 

「さて、生物兵器と一口にいいますが、幅が広く、使われる微生物も細菌やウイルスだけでなく、リケッチア・クラミディア・真菌・・・いわゆるカビです、などが使われます。また、生物そのものではなく、それが出す毒素を利用する場合もあります。リシンなんかはよく暗殺に使われます。これは、ヒマという植物の実から抽出した毒素で、猛毒です。摂取したばあいの有効な治療法はありません。ヒマは世界中に自生する植物なので、入手しやすい毒素ということになります。
 O教団がテロに使おうとして失敗したのは、ボツリヌス菌の作り出すボツリヌス毒素です。これは、毒素兵器の代表格なので、少し詳しく説明します。ボツリヌス毒素は、地球最強の毒素で、その毒性は青酸カリの30万倍の強さともいわれています。ボツリヌス菌は、嫌気性の細菌なので、無酸素下でどんどん増えます」
「あ、そういえば、ずいぶん前ですが、からしレンコンからボツリヌス中毒を起こした事件がありました。おかげで、いまでもからしレンコンといえばボツリヌス菌とインプットされちゃってて。まあ、食べますけど」
と、由利子が言った。
「なるほど。ボツリヌス菌は、よく土の中にいるので、たまたまレンコンに付着した菌が、除菌を免れて真空パックの中で増えたのでしょう。酸素を嫌う菌ですから、よくソーセージの中で繁殖して中毒患者をだしますから。ボツリヌス菌も炭疽菌と同じように芽胞を作りますから、熱や乾燥や消毒にも強いです。ただし、毒素自体は高温に弱いですから、熱を加えると無毒化します。ですから、真空パックのものは、過熱して食べたほうが無難なわけです。
 ボツリヌス毒素を摂取すると、普通、1日から数日後に症状が表れます。まず、頭の方から症状が現れます。物が二重に見え始め、ものが飲み込めなくなり、声が出せなくなって、顔から表情がなくなります。その時眼瞼下垂といって瞼が下がるという特徴的な症状がでます。進行すると、全身が脱力して最終的には呼吸困難を起こして死亡します。恐ろしいのはその間意識がはっきりとしているということです。治療しない場合の致死率は20%ですが、これは毒素の摂取量によってもかわります」
「予防や治療法は?」
「はい、今までヒトに中毒を起こした菌型の抗血清はありますが、毒素が神経組織と結合してしまった場合には効果がありません。ボツリヌス中毒で呼吸困難を起こした場合は人工呼吸器をつけてその場をしのぐしかありません。それで神経組織が新たに再生するのを待つのです。有効なワクチンはありますが、珍しい中毒なので、現在ボツリヌスを扱う人にしか接種されていません。まあ、あるかどうかわからないテロのためにワクチンを接種する必要はありませんからね。
 しかし、怖いのは、そのボツリヌス毒素が実際に使われた場合です。テロを含めてボツリヌス毒素を兵器として使う場合は、エアロゾルにして空気中に散布します。もちろん無味無臭ですから、住民は気がつかないうちにボツリヌス毒素に曝露されます。そして間を置いて続々と中毒患者が発生しますが、この場合、患者数が多すぎて、人工呼吸器が足らなくなる可能性は充分にあります。街はパニックに陥るでしょう。サリンテロは行われてしまいましたが、バイオテロが失敗したことは、不幸中の幸いでした。ボツリヌス毒素は国会付近で撒かれていました。毒ガスの場合、効果はすぐに出ますから早急に対処できますが、生物兵器の場合は潜伏期間があり、発症までにタイムラグがあります。その間に、水面下で被害が拡大してしまいますから」
「今回の事件も、今現在水面下で広がっている可能性があるんですよね」
葛西が浮かない顔をして言った。急に心配になったらしい。
「そうでないことを願いたいですが、可能性は高いでしょう」
「こんなことをしてていいんでしょうか・・・?」
「だって、どうなってるかわからないんだもん、じたばたしても仕方ないじゃん」
ギルフォードは、珍しく投げ遣りともいえる発言をしたが、そうではないことはすぐにわかった。
「だから僕たちは、今出来ることを精一杯やるしかないんです。今、君達がすべきことは、バイオテロについてしっかり学ぶことです。そうでしょ」
ギルフォードの言葉に、二人は黙って頷いた。
「もし、何か進展があった場合、すぐに感対センターから僕の携帯電話に連絡が入るようになっています。今のところ、特に連絡はありませんから、ゆっくりしてて大丈夫ですよ。それに・・・」
「それに、何ですか?」
と由利子が訊いた。
「もし、事件が動き始めたら、ひょっとすると休日すらなくなるかもしれません。休める時に休んでおくべきです。では、講義を続けますよ」
「はい」
聴講生二人は同時に返事をした。
「その他の毒素兵器に使われそうなものは、フグ毒のテトロドトキシン・カビ毒のマイコトキシンがあります。マイコトキシンの中で元も重要なのがコウジカビの一種フラバン菌の作るアフラトキシンです。この毒素は安定していて熱にも強く、発がん性があります。一度に大量のアフラトキシンを摂取すると、急性中毒をおこし、最初腹部の不快感を覚え、その後黄疸をおこし、最終的には手足の痙攣、こん睡状態に陥り死亡します。有効な予防も治療法もありません。コウジカビだけにまさに『醸して殺すぞ』ってやつですね。フセイン時代のイラクでは兵器化に成功していたと言ううわさもあります。熱に強いので、エアロゾルとして撒くほかに、ミサイル等に搭載も出来ます。
 細菌では赤痢菌の、今では病原性大腸菌O157の毒素としてのほうが有名なシガ(志賀)毒素、これは、ボツリヌス菌や破傷風菌毒素に匹敵する強毒素です。そして、黄色ブドウ球菌腸管毒素、これは、毒性は今まで挙げたものほど強くなく、致死率も1%以下ですが、エアロゾル化して散布した場合、発熱や嘔吐などの症状で、敵を無力化することが出来ます。治療法がないので、対症療法しかないのが現状です。
 次に、リケッチャとクラミディアです。これらの名前はユリコはあまり馴染みがないのではないかと思いますが・・・」
「あ、クラミジアですよね。それ、聞いたことがあります。たしか性病の・・・」
「それは、性感染症のクラミディア・トラコマティスですね。兵器として使われる可能性のあるクラディミアは、オウム病の原因微生物で、種類が違うのです。こちらはズーノシス・・・人獣共通感染症です」
「あ~、違うんだ」
「そうです。リケッチャやクラミディアは、科の名称です。共に、細菌より小型で、自前の細胞はもっていますが、完全ではないので、ウイルスと同じように他の細胞を利用して増殖します。細菌とウイルスの中間に位置するような生物です。この中では、生物兵器として米陸軍がかつてユタ州の兵士を使って人体実験を行い、また、O教団が特に興味を持っていたという、Q熱について簡単に説明しましょう。
 これは、最初なかなか病原体が見つからず、英語で”Query”・・・謎と言う意味ですが、この頭文字から名づけられました。伏字にしたわけではありません。これは致死率は低いですが、発症した場合病気が長引きますので、黄色ブドウ球菌毒素と同じように、敵の無力化のために使われます。また、Q熱リケッチャは芽胞に近い構造をとることが出来るので、熱・乾燥・消毒に強いという、生物兵器向きの構造をしています。さらに、このQ熱は、たった1個のQ熱リケッチャを取り込んだだけで発症するくらい感染力が強いです。このQ熱リケッチャと同じように、敵の無力化に使われるものに、ブルセラ菌があります」
「ブルセラ?」
由利子が苦笑して言った。
「ブルマーとセーラー服の略じゃありませんよ。僕も最初、驚きました。僕が講義でこの細菌の名前を言うと、講義室内のあちこちでクスクス笑い声がするんです。不思議に思って調べたら、そういう名の風俗系ショップがあると知りました。ブルセラ症は、僕にとっては笑えない感染症ですが、そういう店があることも笑えませんね、公衆衛生的にも」
ギルフォードは、やや不機嫌そうに言った。
「そうですね」由利子も相槌を打って言った。「日本人に、だんだんプライドやモラルが欠けていってるんじゃないかって、よく思います」
「日本人の、娯楽や性風俗のアイディアには、ユニークなものが多いと感心はしますけどね」
「褒められたんだか、けなされたんだか・・・」
由利子が苦笑しながら言うと、ギルフォードは笑いながら言った。
「両方です。さて、生物兵器ですが、直接人間に攻撃を仕掛ける方法ではないものもあります。農作物や家畜を狙う、アグロテロです。しかし、今回はアグロテロはあまり関係ありませんから、簡単にお話します。近代戦の兵器としては、対人間よりも、対家畜のアグロテロが先でした。旧ドイツ軍は、敵方の家畜に炭疽菌や鼻祖菌を感染させようとしました。また、旧日本軍は牛疫という、牛には致命的な感染症を起こす牛疫ウイルスを乾燥させて風船爆弾に詰め込んでアメリカを攻撃する計画を立てていました。結局これは実行されませんでしたが、もし、実行されていたら、アメリカにはまだ牛疫は上陸していなかったので、相当な被害を受けたかもしれません。日本から風船爆弾は9300発が放たれた内、361発がアメリカ本土に届いていたといいます。今は、牛疫には有効なワクチンがありますので、生物兵器としての重要度はなくなりました。今は、同じく牛のウイルス病で有名になった口蹄疫ウイルスや、豚に強い感染性を持ち、時に致命的な病状を示す、ブタコレラウイルスが生物兵器として有効だと考えられます。
 口蹄疫は豚にも感染しますが、いずれにしても、致死率はあまり高くありません。しかし、これに罹った牛は乳を出さなくなってしまいます。感染力が強いので、現在もこれに感染した牛や豚は殺処分されています。ですから、もしこれがアグロテロとして撒かれた場合、相当な経済的損失を受けることになります。このように、アグロテロは、動物や植物のみに感染する病原体を使いますので、テロリストに安全で、人の犠牲者も出しませんが、経済的なダメージを相当与えるものであり、それを狙ったテロということになります。
 さて、バイオテロに関して重要なことを出来るだけわかりやすくお話しましたが、理解できたでしょうか?」
ギルフォードは、二人に尋ねると、ようやく一息入れた。 

 

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◆参考図書◆
  忍び寄るバイオテロ(NHKブックス):山内一也/三瀬勝利
  バイオテロと医師たち (集英社新書):最上 丈二

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