2.侵蝕Ⅱ (2)ギルフォード教授の野外講義 前半
※この講義でのウイルスに関する記述を一部修正する予定です。修正後はまたご報告いたします。(H24年5月11日)
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彼らは、浜辺でまったりとしたティータイムを過ごしていた。しかし今の時期、しかも平日に浜辺でキャンプセットのテーブルでお茶をしている外国人(実のところ、そこらへんの日本人よりも日本人らしいが)を含むおっさんおばさんの3人は、傍から見るとけっこう妙なものらしい。通る人たちが、ものめずらしそうに見て通り過ぎて行った。そろそろ、犬を散歩させる人たちがちらほらし始める時刻である。
「時折写メ撮られてる」由利子は言った。「やっぱ目立つわよねえ」
「その、写メですケド、写真メールって意味ですよね。撮った後は、みんなメールするんですかねえ」
「そりゃあ面白いから写真撮るんで、やっぱり友人に送ったりするんじゃないですかね」
「なんか知らないところでネタにされるのはイヤですねえ・・・」
ギルフォードがぼやいたところで、葛西が急に真剣な顔をして言った。
「実は、アレク、ずっと気になってたんですが・・・。あの美千代が公園で事件を起こしたときに隠れていた女性、携帯電話でも写真を撮ってましたね」
それを聞いて、ギルフォードの表情も厳しくなった。
「どこかに送っている可能性があると・・・?」
「ええ・・・。そうでなければいいのですが・・・」
「それって、トイレに隠れていたって女性のこと?」
葛西の調書を読んで、内容をある程度理解している由利子が聞いた。
「そうです。まったく、嫌な時代になったものですね」
ギルフォードはため息をつきながら言った。その時、由利子の携帯電話に着信が入った。
「あ、美葉からだ。ちょっと失礼しますね」
由利子はそういうと、電話に出た。
「もしもし?何?・・・うん、今ね、S島の浜辺でティータイム。・・・・って、そんな羨ましがらないでよ。・・・・うん、・・・・うん、・・・あ、ちょっと待って、聞いてみるから」
由利子は電話を中断して、二人の方を見て尋ねた。
「あのね、美葉が・・・、あ、葛西君は会ったことないわね。美葉は私の友達なんだけど、今夜、夕食をご一緒しませんかって言ってますが・・・」
「オ~、ミハさんですか。僕はOKですよ」
と、ギルフォードは快く承諾した。
「由利子さんのお友だちなら歓迎です」
と、葛西。そうと決まったら話はすぐに進み、なじみの居酒屋に集まることになった。
「さて、夕方からの予定も決まったことだから・・・」
ギルフォードはもったいぶりながら言った。
「これから、君達のために少しバイオテロについてのレクチャーをしますね」
「ええ~? こんなところで?」
由利子は驚いて言った。ギルフォードはにっと笑って答えた。
「こういう教室とは違ったところで受ける講義も、なかなかいいものですよ。しかも、タダですよ」
「課外授業ですね。久しぶりだなあ、こういうの」
と、葛西が嬉しそうに言った。
「そう言って下さると、タミヤマさんも喜びますよ。このことを提案してくださったのは、他ならぬタミヤマさんですから」
「多美さんが?」
「そうです。タミヤマさんは、ジュンがバイオテロ事件の最前線に行くことになるだろうことを、とても心配しています。それで、個人的にレクチャーするように頼まれたんです。普通は引き受けませんけど、今回はユリコもいますから、ちょうどいいと思いました」
「葛西君、対策本部に入るの?」
由利子が、すこし意外そうに言ったので、葛西は答えた。
「今回の事件に最初から関わってしまいましたので、白羽の矢が立ったみたいです」
「大丈夫ななの? なんか頼りないなあ・・・」
「大丈夫です、ユリコ。彼の専門は、僕と同じ微生物だったそうですから」
「ええ? それがなんで刑事に?」
由利子は再度驚いて言った。
「まあ、いろいろありまして・・・」
葛西は言葉を濁した。それで、由利子はそれ以上追求するのを止めた。
「では、始めます。ジュンが知ってることも説明すると思いますが、初心者がいるということで、復習のつもりで聞いていてくださいね」
葛西は「はい」と言いながら頷いた。ギルフォードもそれを見て頷くと続けた。
「さて、バイオテロといえば・・・まず、何を思い浮かべますか、ユリコ?」
ギルフォードはいきなり由利子に話を振った。フェイントに驚きながらも、由利子は答えた。
「やっぱり、あのアメリカで起きた炭疽菌テロ事件、あれですね」
「そう、米国の炭疽菌テロ事件を思い起こす人が多いでしょう。結局犯人とおぼしき科学者の自殺で幕を閉じることになりましたが・・・。バイオテロはBiological weapons、生物兵器の転用と考えられます。生物兵器とは、病原微生物やそれが作る毒素を利用したものですが、歴史的にはかなり古いです。それは、まだ感染症が微生物が原因で起こることすらわかっていない頃からのことです。疫病で死んだ人や動物の死がいを敵地に投げ込んだりしていました。それが感染るということだけはわかってましたからね」
「随分原始的な方法だったんですね」
「そうです。それが、20世紀に入ってから、兵器として本格的に研究され始めました。その頃生物兵器を研究していた主な国は、イギリス・アメリカ・ドイツそして日本です。特に日本の研究資料は、戦後の生物兵器研究に関わってきます。その日本の研究機関こそが、悪名高い・・・ジュン、知ってますね」
「私も知ってます」由利子が間を割って答えた。「731部隊・・・ですね」
「そうです。さて、生物兵器というと、炭疽菌と天然痘ウイルス、これがまず出てきます。特に炭疽菌は、生物兵器に出来る特性を充分備えているのです。731部隊も炭疽菌の兵器開発にはかなり力を入れてました」
ギルフォードはここで、一息入れた。そして、改めて二人を見ながら言った。
「さて、まずここで、よく混同されるウイルスとバクテリア・・・細菌の違いをはっきりさせておきましょう。ジュン、もちろん君は説明できますね」
「はい。細菌は自分の細胞を持つ単細胞生物ですが、ウイルスは違います。遺伝子とそれを包むたんぱく質の膜しかもっていません。細胞を持っている細菌は宿主の栄養を横取りしながらも自分の力で増えますが、それのないウイルスは、他の細胞に取り付かないと増殖できません。大きさも細菌なら普通の顕微鏡で見えますが、ウイルスは非常に小さくて電子顕微鏡でなければ見ることができません」
「はい、よく出来ました。ですから、病気のおこし方も違います。細菌はO157や破傷風菌、炭疽菌もそうですが、毒素を出して色々な症状をおこさせるもの、結核のように増えた菌が病巣を作り害をなすものなどがあって、いずれも細胞の外側から作用します。しかし、ウイルスは細胞の中に入り込み、結果破壊してしまいますから、細胞の内側から作用していることになりますね。さらに補足しますと、細菌は抗生物質で殺せますが、細胞を持たないウイルスには効きません。よく風邪を引いて病院に行くと抗生物質を処方されますが、あれは、風邪の病原ウイルスを退治するためではなく、免疫力の落ちた身体を細菌による二次感染から予防するためのものです。タミフルのような抗ウイルス剤も、ウイルスを殺すのではなくて、ウイルスの増殖を阻害するものです。ウイルス自体は、人体がそれに対する免疫をつけるまで追い出すことはできません。で、人工的に免疫をつけるのがワクチンです。ただし、全ての細菌やウイルスにワクチンがある訳ではないし、発症してからはワクチンの効果はあまり期待できません。また、ワクチンによっては、副作用の強いものもあります。幸い風邪の場合は普通なら5日から1週間くらいで治りますけどね」
「人体が勝手に治しちゃうんだ」
「そうです。だから、普通の風邪の場合は、脱水症状に気をつけて安静にして寝ていれば、放っておいても治ることが多いです。でも、高熱や咳、時に下痢など、それに伴う苦しい症状を緩和するためには、やはり、病院に行ったほうがいいかもしれません。それに、風邪じゃない可能性もありますからね。ただ、気をつけなければならないのは、時に病院自体が感染症を広める役割をすることがあるということです。だから、新型インフルエンザのような強力な感染症の場合は、病院に行かず直接保健所に連絡しなければいけません。アフリカでのエボラ出血熱の発症者の多くは、病院で感染しています。設備が不十分だったのと、そのために注射針の使いまわし・・・しかもろくに消毒もせずに使いまわした結果でした」
「でも、日本も昔はそうだったみたいですよ」と由利子が口を挟んだ。「私が勤めていた会社の黒岩さんって人が以前言ってたことがあるけど、彼女が子どもの頃、学校で予防接種する時は、一本の注射器で、もちろん針も変えずに軽く3人から5人はこなしていたらしいです」
「オー!」
ギルフォードは首をゆっくりと左右にふりながら言った。
「まあ、昔はおおらかだったということでしょうケド・・・。後々変な病気が出ないと良いのですが」
「彼女はいたって元気でしたよ」
「もちろん、先に注射した人が妙なウイルスを持ってなければ問題ないですが、運悪くそれで肝炎や白血病などのウイルスに感染してしまった場合、数十年後に発症する可能性があるのです」
「白血病も?」
「一部の白血病はヴァイラ・・・ウイルス感染が原因だといわれています」
「そうだったんだ。ところで、時々ヴァイラって言いかけるけど、どうして?」
由利子は、ついでに以前から疑問に思っていたことを聞いた。
「ウイルスって、実は日本語なんですよ」
「日本語?」
「そうです。英語表記はV-i-r-u-sで、読みはヴァイラス、ドイツ語読みではヴィールス。日本でも昔は『ビールス』と言ってたんじゃないですか?」
「そういえば・・・」由利子は言った。「昔読んだモグリの医者が活躍するマンガでも、ビールスってなってました。改訂版はわかりませんが」
すると、葛西が続けて言った。
「あ、『2○世紀少年』っていうマンガでは、少年時代は『ビールス』、大人になった現代では『ウイルス』って使い分けてました」
「マンガになると、みなさんお詳しいですね。まあ、あのマンガでは、作者も途中までウイルスと細菌の区別がついてなかったように思えますが」
「読んでんじゃん」
と、由利子が突っ込んだが、ギルフォードはうふふと笑いつつ続けた。
「Virusというのは、ラテン語の「毒」という意味からきています。ラテン語の発音は『ウィールス』。日本では昔は病毒あるいは濾過(ろか)性病原体と言ってました。中国では今も『病毒』と表現されるそうですが・・・。濾過性というのは、濾過しても濾材を通り抜けるほど小さいということです。このV-I-R-U-Sという単語を日本語でどのように言うかが話し合われた結果、ラテン語読みの『ウイルス』と決まったらしいです。でも、この言葉が定着するまで30年ちかく掛かったらしいです。まあ、ドイツ語を元にしたビールスの方が使い慣れていたからですね。因みに日本ウイルス学会の機関誌の名前は『ウイルス』ですが、その誌名の英語表記はローマ字でU-I-R-U-S-Uです。なんか妙ですね。ですから、僕もたまにヴァイラスと言いかけてしまうのです」
「でも、ヴァイラスって怪獣の名前みたいでカッコイイですね。そういえば、ガ×ラシリーズにバイラスという怪獣というか宇宙人がいますけど」
葛西が横から言った。ギルフォードは、葛西の方を見ながら苦笑いをして言った。
「さっきから、なんとなく伏字になっていないような気がしますが・・・、じゃなくて、ジュンはカイジュウフリークなんですか?」
「いえ、そこまで濃くはないですが、昭和40年代のテレビシリーズものなんかはカナリ好きですね」
「って、葛西君が生まれるずいぶん前じゃん」
と、由利子が言うと葛西は頭を掻きながら言った。
「叔父から、さんざんLDやDVDを見せられまして・・・」
「LD!」由利子は少し驚いて言った。「すっかりその存在を忘れていたなあ。けっこうなマニアなのねえ、そのおじさんって」
「はあ、そうですね。おかげでシルエットだけで怪獣名がわかるようになりました。初期のシリーズだけですけど・・・って、すみません、アレク。話の腰を折っちゃって」
「大丈夫ですよ。こういう脱線も課外授業のいいところですから。僕もそのカイジュウのシリーズ、機会があったら見てみましょう」
「いえ、多分アレクが見ても面白くないと思いますよ。特撮もしょぼいですし」
葛西は、ギルフォードがいきなり言い出したので、少し焦って言った。しかし、ギルフォードは例の最強の笑顔で臆面もなく言った。
「ジュンの好きなものは、僕も見てみたいんです」
「・・・アレク」由利子が心なしかげっそりして言った。「話を先に進めましょう」
「ハイ、そうでしたね。さて、そういうことで、細菌とウイルスがまったく違うとことはわかりましたね、ユリコ」
「はい」
「ですが、ウイルスと細菌の違いをややこしくするものがあるんですね。インフルエンザ菌ってのがあるんです」
「え? インフルエンザはウイルスですよね」
「もちろんそうです。最初にインフルエンザの病原体と勘違いされて、こういう名前になったのです。いったん命名さえたものは変更出来ませんから、インフルの病原体ではないのですが、こういう名前になったのです。菌自体はありふれたもので、ヒトの鼻腔内でよくみつかります。先に言った、風邪を引いた時の二次感染を起こさせる細菌のひとつでもあります」
「さて、ウイルスがどのように自分のコピーを作るのか、簡単に説明をしましょう。ウイルスは宿主の細胞に取り付くと、遺伝子の設計図・・・DNA或いはRNAをちゅーっと入れちゃいます。その段階でウイルスは設計図だけの状態になります。宿主の細胞は、そうとも知らずにその設計図を使ってどんどん複製を作り始めます。そして、細胞内がウイルス粒子で一杯になると、細胞膜をパ~ンと破って大量の複製されたウイルスが出てきます。それらがまた他の細胞に取り付いて、そこで同じように自分のコピーを作っていきます」
「なんか、すっごく嫌なんですけど」由利子が、両腕をさすりながら言った。「私がこの前インフルエンザで苦しんでいた時も、私の身体でそういうことがおこっていたんですね」
「そういうことです。でも、本来、ウイルスは正当な宿主となら、穏やかに共存出来ます。だって、困るでしょ。せっかく入った家が、すぐに壊れてしまっちゃあ。だから、激しい症状を起こして宿主を殺してしまうようなウイルスは、本来の宿主ではないものを選んだということになります。ただし、もともと無害だったものが、強毒性を持つように変異する場合もありますし、天然痘のように、ヒトにししか感染しないのに、病気を起こすものもいますけどね。ま、そのせいで天然痘は自然界では絶滅させられてしまいましたケド。
さて、バイオテロの話にもどりましょう。まずは、生物兵器の代表である炭疽菌からです。なぜ生物兵器として使われたかというと、炭疽菌は生存に危機的状況に陥ると芽胞という形になってその場をしのぐからです。一旦芽胞状態になると、空気も栄養もない状態でも何年も生き延び、かなりの高温低温にも耐える事ができます。炭疽菌は人から人へは感染しませんが、そのような特徴からと、その毒性の高さにより生物兵器の代表格となったのです」
「そうか、無酸素状態にも高温にも強いということは、爆弾に仕込みやすいということですね」
「そうです、ユリコ。馬鹿馬鹿しい話ですが、弾道ミサイルにだって仕込めますよ。さて、炭疽菌は人から人へは感染しませんが、吸入したり、食べたり、炭疽菌が傷口から体内に入ったりして感染、発症します。皮膚に病巣を作った皮膚炭疽・・・まんまですが、の場合、中心部が炭のように黒くなります。炭疽菌といわれる所以ですね。英語の『アンスラクス』という名前は、ギリシャ語の木炭や石炭という意味からきています。皮膚炭疽の場合は、比較的致死率は低く、抗生物質で適切な治療を受ければほぼ治ります。ただし、放置した場合の致死率は約10~20%です。時に炭疽菌が血液を回り、毒素で敗血症を起こすからです。次に、炭疽菌で汚染された肉を食べた場合の消化器炭疽ですが、これは、致死率が上がり未治療の場合は50%です。これも、適切な治療を受ければ致死率はぐんと下がります。それに、汚染肉を生で食べるということかなり珍しいことなので滅多におこりません。最後に吸入炭疽です。これは、名前の通り炭疽菌を吸い込むことによって菌が肺胞まで届いて発症するもので、アメリカの炭疽菌テロ事件での死者5人はすべてこれでした。この致死率は90%と言われていますが、早めに抗生物質で適切な治療を受ければ高い確率で回復するということがわかりました。この吸入炭疽も自然発生では非常に珍しいものです。何故炭疽菌テロでは吸入炭疽が多いかというと、芽胞状態になった炭疽菌を吸入して肺胞まで届きやすくする細工がされているからです」
「細工?」
と、由利子が聞いた。
「そうです。普通、炭疽菌芽胞は周囲に電位を帯びていて・・・、まあ、一粒がベタベタしていると考えてください。非常にお互いがくっつきやすいんです。しかし、その状態では肺胞まで届くことは難しいのです。ですから、自然発生することは非常に珍しいのです。しかし、その電位を取り払う方法を見つけた機関がありました。米国メリーランド州にある米国陸軍基地にあるフォート・デトリックです。そこは当時生物兵器の研究をしていました。まあ、1975年の生物兵器禁止条約発効後もこっそり研究していたようですが。で、調べた結果、テロに使われた炭疽菌はその技術が使われていることがわかりました。その技術は極秘扱いとなっていましたから、米国の炭疽菌テロは、フォート・デトリックから持ち出された炭疽菌が使われた可能性が高いということになったのです。因みに後々他の生物兵器所持国家でもそれぞれの方法で電位を取り除く技術を持つ様になりました」
「結局マッチポンプだったってこと?」
と、これまた由利子。
「いえ、そうではありませんが、米陸軍の炭疽菌テロへのあの対応の早さは、それと無関係ではなかったかもしれませんね。炭疽菌のしつこさはですね、1942年から43年の間、英国の炭疽菌実験に使われたグリニャード島では、実験で大量にばら撒かれた炭疽菌芽胞がなかなか死滅せず、1986年から87年にかけて、大量のホルムアルデヒドを土に混入してようやく死滅させたということからもわかると思います」
「ホルムアルデヒドってホルマリンですよね」由利子は眉を寄せながら言った。「そっちの方が炭疽菌より危険な気がするなあ・・・」
「そうですね。まさに毒を以って毒を制すってやつです。さて、炭疽菌にも有効なワクチンがあります。副作用も少ないのですが、かなり痛いらしい。軍人ですら、接種後は痛くて仕事にならないくらいです。それを6回に分けて接種し、その後も毎年追加してワクチンを打たねばなりません。だから、米軍人でもこれを受けるのは、炭疽菌感染リスクが高い人たちだけです。因みに、O教団のバイオテロが失敗した原因として、彼らが知らずに毒性の少ない炭疽菌のワクチン株を使ったためだといわれています」
「ワクチン株を渡した人GJ!ですね!」
と、今度は葛西が言った。
「まったくです。もし、成功していたらと思うと、ゾッとします。まあ、生き物を利用するのですから、扱いは通常兵器より難しいと思います。次に、ウイルス兵器の代表格、天然痘についてお話しましょう。まず、二人ともこちらに右肩を向けてみてください」
由利子と葛西は、何だろうと思いながらも疑わずにそれぞれギルフォードに右肩を差し出した。
「今頃ジュンペイは、彼女といっしょに先生の講義を受けているんやろうな」
多美山は、代わり映えのしない隔離病棟で本を読む間に、時計を見ながらつぶやいた。
葛西が多美山と過ごしたいと言ってくれた時、本当はとても嬉しかった。しかし、それを素直に受けることは、多美山には出来なかったのだ。もし、ジュンペイがいる時に急に病状が悪化したら・・・、いやそれ以上に怖いのは・・・。そこまで考えて、多美山は頭を振った。思うだに恐ろしかった。しかし、美千代の所業が思い出したくないのにフラッシュバックし、多美山は、頭を抱えてベッドに突っ伏した。
(もし発症したら、俺はどうなる・・・?)
眼に見えない悪魔に怯える日々。一旦発症したら、治療不可能な新型のウイルス感染症。今、俺の身体はじわじわとウイルスに冒されているのか? だとしたら、どれくらいなのか? 俺は死んでしまうのか? 赤い血を撒き散らし、周囲を朱に染めながら・・・? 美千代の前に立ち塞がった時に、覚悟を決めたつもりだった。だが、こうやって一人でいると、恐ろしさがだんだん迫って来る。耐え難い恐怖が。その時、ドアをノックする音が聞こえて、看護士の園山が入ってきた。
「こんにちは。検温に参りました。体調の方はいかがですか?」
「園山さん、ありがとう。助かりました」
多美山は我に返りながらほっとして言った。
「え? どうかなさいました?」
園山は、きょとんとした顔で多美山を見て言った。
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