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2.侵蝕Ⅱ (2)ギルフォード教授の野外講義 前半

※この講義でのウイルスに関する記述を一部修正する予定です。修正後はまたご報告いたします。(H24年5月11日)
 

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 彼らは、浜辺でまったりとしたティータイムを過ごしていた。しかし今の時期、しかも平日に浜辺でキャンプセットのテーブルでお茶をしている外国人(実のところ、そこらへんの日本人よりも日本人らしいが)を含むおっさんおばさんの3人は、傍から見るとけっこう妙なものらしい。通る人たちが、ものめずらしそうに見て通り過ぎて行った。そろそろ、犬を散歩させる人たちがちらほらし始める時刻である。
「時折写メ撮られてる」由利子は言った。「やっぱ目立つわよねえ」
「その、写メですケド、写真メールって意味ですよね。撮った後は、みんなメールするんですかねえ」
「そりゃあ面白いから写真撮るんで、やっぱり友人に送ったりするんじゃないですかね」
「なんか知らないところでネタにされるのはイヤですねえ・・・」
ギルフォードがぼやいたところで、葛西が急に真剣な顔をして言った。
「実は、アレク、ずっと気になってたんですが・・・。あの美千代が公園で事件を起こしたときに隠れていた女性、携帯電話でも写真を撮ってましたね」
それを聞いて、ギルフォードの表情も厳しくなった。
「どこかに送っている可能性があると・・・?」
「ええ・・・。そうでなければいいのですが・・・」
「それって、トイレに隠れていたって女性のこと?」
葛西の調書を読んで、内容をある程度理解している由利子が聞いた。
「そうです。まったく、嫌な時代になったものですね」
ギルフォードはため息をつきながら言った。その時、由利子の携帯電話に着信が入った。
「あ、美葉からだ。ちょっと失礼しますね」
由利子はそういうと、電話に出た。
「もしもし?何?・・・うん、今ね、S島の浜辺でティータイム。・・・・って、そんな羨ましがらないでよ。・・・・うん、・・・・うん、・・・あ、ちょっと待って、聞いてみるから」
由利子は電話を中断して、二人の方を見て尋ねた。
「あのね、美葉が・・・、あ、葛西君は会ったことないわね。美葉は私の友達なんだけど、今夜、夕食をご一緒しませんかって言ってますが・・・」
「オ~、ミハさんですか。僕はOKですよ」
と、ギルフォードは快く承諾した。
「由利子さんのお友だちなら歓迎です」
と、葛西。そうと決まったら話はすぐに進み、なじみの居酒屋に集まることになった。
「さて、夕方からの予定も決まったことだから・・・」
ギルフォードはもったいぶりながら言った。
「これから、君達のために少しバイオテロについてのレクチャーをしますね」
「ええ~? こんなところで?」
由利子は驚いて言った。ギルフォードはにっと笑って答えた。
「こういう教室とは違ったところで受ける講義も、なかなかいいものですよ。しかも、タダですよ」
「課外授業ですね。久しぶりだなあ、こういうの」
と、葛西が嬉しそうに言った。
「そう言って下さると、タミヤマさんも喜びますよ。このことを提案してくださったのは、他ならぬタミヤマさんですから」
「多美さんが?」
「そうです。タミヤマさんは、ジュンがバイオテロ事件の最前線に行くことになるだろうことを、とても心配しています。それで、個人的にレクチャーするように頼まれたんです。普通は引き受けませんけど、今回はユリコもいますから、ちょうどいいと思いました」
「葛西君、対策本部に入るの?」
由利子が、すこし意外そうに言ったので、葛西は答えた。
「今回の事件に最初から関わってしまいましたので、白羽の矢が立ったみたいです」
「大丈夫ななの? なんか頼りないなあ・・・」
「大丈夫です、ユリコ。彼の専門は、僕と同じ微生物だったそうですから」
「ええ? それがなんで刑事に?」
由利子は再度驚いて言った。
「まあ、いろいろありまして・・・」
葛西は言葉を濁した。それで、由利子はそれ以上追求するのを止めた。
「では、始めます。ジュンが知ってることも説明すると思いますが、初心者がいるということで、復習のつもりで聞いていてくださいね」
葛西は「はい」と言いながら頷いた。ギルフォードもそれを見て頷くと続けた。
「さて、バイオテロといえば・・・まず、何を思い浮かべますか、ユリコ?」
ギルフォードはいきなり由利子に話を振った。フェイントに驚きながらも、由利子は答えた。
「やっぱり、あのアメリカで起きた炭疽菌テロ事件、あれですね」
「そう、米国の炭疽菌テロ事件を思い起こす人が多いでしょう。結局犯人とおぼしき科学者の自殺で幕を閉じることになりましたが・・・。バイオテロはBiological weapons、生物兵器の転用と考えられます。生物兵器とは、病原微生物やそれが作る毒素を利用したものですが、歴史的にはかなり古いです。それは、まだ感染症が微生物が原因で起こることすらわかっていない頃からのことです。疫病で死んだ人や動物の死がいを敵地に投げ込んだりしていました。それが感染るということだけはわかってましたからね」
「随分原始的な方法だったんですね」
「そうです。それが、20世紀に入ってから、兵器として本格的に研究され始めました。その頃生物兵器を研究していた主な国は、イギリス・アメリカ・ドイツそして日本です。特に日本の研究資料は、戦後の生物兵器研究に関わってきます。その日本の研究機関こそが、悪名高い・・・ジュン、知ってますね」
「私も知ってます」由利子が間を割って答えた。「731部隊・・・ですね」
「そうです。さて、生物兵器というと、炭疽菌と天然痘ウイルス、これがまず出てきます。特に炭疽菌は、生物兵器に出来る特性を充分備えているのです。731部隊も炭疽菌の兵器開発にはかなり力を入れてました」
ギルフォードはここで、一息入れた。そして、改めて二人を見ながら言った。
「さて、まずここで、よく混同されるウイルスとバクテリア・・・細菌の違いをはっきりさせておきましょう。ジュン、もちろん君は説明できますね」
「はい。細菌は自分の細胞を持つ単細胞生物ですが、ウイルスは違います。遺伝子とそれを包むたんぱく質の膜しかもっていません。細胞を持っている細菌は宿主の栄養を横取りしながらも自分の力で増えますが、それのないウイルスは、他の細胞に取り付かないと増殖できません。大きさも細菌なら普通の顕微鏡で見えますが、ウイルスは非常に小さくて電子顕微鏡でなければ見ることができません」
「はい、よく出来ました。ですから、病気のおこし方も違います。細菌はO157や破傷風菌、炭疽菌もそうですが、毒素を出して色々な症状をおこさせるもの、結核のように増えた菌が病巣を作り害をなすものなどがあって、いずれも細胞の外側から作用します。しかし、ウイルスは細胞の中に入り込み、結果破壊してしまいますから、細胞の内側から作用していることになりますね。さらに補足しますと、細菌は抗生物質で殺せますが、細胞を持たないウイルスには効きません。よく風邪を引いて病院に行くと抗生物質を処方されますが、あれは、風邪の病原ウイルスを退治するためではなく、免疫力の落ちた身体を細菌による二次感染から予防するためのものです。タミフルのような抗ウイルス剤も、ウイルスを殺すのではなくて、ウイルスの増殖を阻害するものです。ウイルス自体は、人体がそれに対する免疫をつけるまで追い出すことはできません。で、人工的に免疫をつけるのがワクチンです。ただし、全ての細菌やウイルスにワクチンがある訳ではないし、発症してからはワクチンの効果はあまり期待できません。また、ワクチンによっては、副作用の強いものもあります。幸い風邪の場合は普通なら5日から1週間くらいで治りますけどね」
「人体が勝手に治しちゃうんだ」
「そうです。だから、普通の風邪の場合は、脱水症状に気をつけて安静にして寝ていれば、放っておいても治ることが多いです。でも、高熱や咳、時に下痢など、それに伴う苦しい症状を緩和するためには、やはり、病院に行ったほうがいいかもしれません。それに、風邪じゃない可能性もありますからね。ただ、気をつけなければならないのは、時に病院自体が感染症を広める役割をすることがあるということです。だから、新型インフルエンザのような強力な感染症の場合は、病院に行かず直接保健所に連絡しなければいけません。アフリカでのエボラ出血熱の発症者の多くは、病院で感染しています。設備が不十分だったのと、そのために注射針の使いまわし・・・しかもろくに消毒もせずに使いまわした結果でした」
「でも、日本も昔はそうだったみたいですよ」と由利子が口を挟んだ。「私が勤めていた会社の黒岩さんって人が以前言ってたことがあるけど、彼女が子どもの頃、学校で予防接種する時は、一本の注射器で、もちろん針も変えずに軽く3人から5人はこなしていたらしいです」
「オー!」
ギルフォードは首をゆっくりと左右にふりながら言った。
「まあ、昔はおおらかだったということでしょうケド・・・。後々変な病気が出ないと良いのですが」
「彼女はいたって元気でしたよ」
「もちろん、先に注射した人が妙なウイルスを持ってなければ問題ないですが、運悪くそれで肝炎や白血病などのウイルスに感染してしまった場合、数十年後に発症する可能性があるのです」
「白血病も?」
「一部の白血病はヴァイラ・・・ウイルス感染が原因だといわれています」
「そうだったんだ。ところで、時々ヴァイラって言いかけるけど、どうして?」
由利子は、ついでに以前から疑問に思っていたことを聞いた。
「ウイルスって、実は日本語なんですよ」
「日本語?」
「そうです。英語表記はV-i-r-u-sで、読みはヴァイラス、ドイツ語読みではヴィールス。日本でも昔は『ビールス』と言ってたんじゃないですか?」
「そういえば・・・」由利子は言った。「昔読んだモグリの医者が活躍するマンガでも、ビールスってなってました。改訂版はわかりませんが」
すると、葛西が続けて言った。
「あ、『2○世紀少年』っていうマンガでは、少年時代は『ビールス』、大人になった現代では『ウイルス』って使い分けてました」
「マンガになると、みなさんお詳しいですね。まあ、あのマンガでは、作者も途中までウイルスと細菌の区別がついてなかったように思えますが」
「読んでんじゃん」
と、由利子が突っ込んだが、ギルフォードはうふふと笑いつつ続けた。
「Virusというのは、ラテン語の「毒」という意味からきています。ラテン語の発音は『ウィールス』。日本では昔は病毒あるいは濾過(ろか)性病原体と言ってました。中国では今も『病毒』と表現されるそうですが・・・。濾過性というのは、濾過しても濾材を通り抜けるほど小さいということです。このV-I-R-U-Sという単語を日本語でどのように言うかが話し合われた結果、ラテン語読みの『ウイルス』と決まったらしいです。でも、この言葉が定着するまで30年ちかく掛かったらしいです。まあ、ドイツ語を元にしたビールスの方が使い慣れていたからですね。因みに日本ウイルス学会の機関誌の名前は『ウイルス』ですが、その誌名の英語表記はローマ字でU-I-R-U-S-Uです。なんか妙ですね。ですから、僕もたまにヴァイラスと言いかけてしまうのです」
「でも、ヴァイラスって怪獣の名前みたいでカッコイイですね。そういえば、ガ×ラシリーズにバイラスという怪獣というか宇宙人がいますけど」
葛西が横から言った。ギルフォードは、葛西の方を見ながら苦笑いをして言った。
「さっきから、なんとなく伏字になっていないような気がしますが・・・、じゃなくて、ジュンはカイジュウフリークなんですか?」
「いえ、そこまで濃くはないですが、昭和40年代のテレビシリーズものなんかはカナリ好きですね」
「って、葛西君が生まれるずいぶん前じゃん」
と、由利子が言うと葛西は頭を掻きながら言った。
「叔父から、さんざんLDやDVDを見せられまして・・・」
「LD!」由利子は少し驚いて言った。「すっかりその存在を忘れていたなあ。けっこうなマニアなのねえ、そのおじさんって」
「はあ、そうですね。おかげでシルエットだけで怪獣名がわかるようになりました。初期のシリーズだけですけど・・・って、すみません、アレク。話の腰を折っちゃって」
「大丈夫ですよ。こういう脱線も課外授業のいいところですから。僕もそのカイジュウのシリーズ、機会があったら見てみましょう」
「いえ、多分アレクが見ても面白くないと思いますよ。特撮もしょぼいですし」
葛西は、ギルフォードがいきなり言い出したので、少し焦って言った。しかし、ギルフォードは例の最強の笑顔で臆面もなく言った。
「ジュンの好きなものは、僕も見てみたいんです」
「・・・アレク」由利子が心なしかげっそりして言った。「話を先に進めましょう」
「ハイ、そうでしたね。さて、そういうことで、細菌とウイルスがまったく違うとことはわかりましたね、ユリコ」
「はい」
「ですが、ウイルスと細菌の違いをややこしくするものがあるんですね。インフルエンザ菌ってのがあるんです」
「え? インフルエンザはウイルスですよね」
「もちろんそうです。最初にインフルエンザの病原体と勘違いされて、こういう名前になったのです。いったん命名さえたものは変更出来ませんから、インフルの病原体ではないのですが、こういう名前になったのです。菌自体はありふれたもので、ヒトの鼻腔内でよくみつかります。先に言った、風邪を引いた時の二次感染を起こさせる細菌のひとつでもあります」
「さて、ウイルスがどのように自分のコピーを作るのか、簡単に説明をしましょう。ウイルスは宿主の細胞に取り付くと、遺伝子の設計図・・・DNA或いはRNAをちゅーっと入れちゃいます。その段階でウイルスは設計図だけの状態になります。宿主の細胞は、そうとも知らずにその設計図を使ってどんどん複製を作り始めます。そして、細胞内がウイルス粒子で一杯になると、細胞膜をパ~ンと破って大量の複製されたウイルスが出てきます。それらがまた他の細胞に取り付いて、そこで同じように自分のコピーを作っていきます」
「なんか、すっごく嫌なんですけど」由利子が、両腕をさすりながら言った。「私がこの前インフルエンザで苦しんでいた時も、私の身体でそういうことがおこっていたんですね」
「そういうことです。でも、本来、ウイルスは正当な宿主となら、穏やかに共存出来ます。だって、困るでしょ。せっかく入った家が、すぐに壊れてしまっちゃあ。だから、激しい症状を起こして宿主を殺してしまうようなウイルスは、本来の宿主ではないものを選んだということになります。ただし、もともと無害だったものが、強毒性を持つように変異する場合もありますし、天然痘のように、ヒトにししか感染しないのに、病気を起こすものもいますけどね。ま、そのせいで天然痘は自然界では絶滅させられてしまいましたケド。
 さて、バイオテロの話にもどりましょう。まずは、生物兵器の代表である炭疽菌からです。なぜ生物兵器として使われたかというと、炭疽菌は生存に危機的状況に陥ると芽胞という形になってその場をしのぐからです。一旦芽胞状態になると、空気も栄養もない状態でも何年も生き延び、かなりの高温低温にも耐える事ができます。炭疽菌は人から人へは感染しませんが、そのような特徴からと、その毒性の高さにより生物兵器の代表格となったのです」
「そうか、無酸素状態にも高温にも強いということは、爆弾に仕込みやすいということですね」
「そうです、ユリコ。馬鹿馬鹿しい話ですが、弾道ミサイルにだって仕込めますよ。さて、炭疽菌は人から人へは感染しませんが、吸入したり、食べたり、炭疽菌が傷口から体内に入ったりして感染、発症します。皮膚に病巣を作った皮膚炭疽・・・まんまですが、の場合、中心部が炭のように黒くなります。炭疽菌といわれる所以ですね。英語の『アンスラクス』という名前は、ギリシャ語の木炭や石炭という意味からきています。皮膚炭疽の場合は、比較的致死率は低く、抗生物質で適切な治療を受ければほぼ治ります。ただし、放置した場合の致死率は約10~20%です。時に炭疽菌が血液を回り、毒素で敗血症を起こすからです。次に、炭疽菌で汚染された肉を食べた場合の消化器炭疽ですが、これは、致死率が上がり未治療の場合は50%です。これも、適切な治療を受ければ致死率はぐんと下がります。それに、汚染肉を生で食べるということかなり珍しいことなので滅多におこりません。最後に吸入炭疽です。これは、名前の通り炭疽菌を吸い込むことによって菌が肺胞まで届いて発症するもので、アメリカの炭疽菌テロ事件での死者5人はすべてこれでした。この致死率は90%と言われていますが、早めに抗生物質で適切な治療を受ければ高い確率で回復するということがわかりました。この吸入炭疽も自然発生では非常に珍しいものです。何故炭疽菌テロでは吸入炭疽が多いかというと、芽胞状態になった炭疽菌を吸入して肺胞まで届きやすくする細工がされているからです」
「細工?」
と、由利子が聞いた。
「そうです。普通、炭疽菌芽胞は周囲に電位を帯びていて・・・、まあ、一粒がベタベタしていると考えてください。非常にお互いがくっつきやすいんです。しかし、その状態では肺胞まで届くことは難しいのです。ですから、自然発生することは非常に珍しいのです。しかし、その電位を取り払う方法を見つけた機関がありました。米国メリーランド州にある米国陸軍基地にあるフォート・デトリックです。そこは当時生物兵器の研究をしていました。まあ、1975年の生物兵器禁止条約発効後もこっそり研究していたようですが。で、調べた結果、テロに使われた炭疽菌はその技術が使われていることがわかりました。その技術は極秘扱いとなっていましたから、米国の炭疽菌テロは、フォート・デトリックから持ち出された炭疽菌が使われた可能性が高いということになったのです。因みに後々他の生物兵器所持国家でもそれぞれの方法で電位を取り除く技術を持つ様になりました」
「結局マッチポンプだったってこと?」
と、これまた由利子。
「いえ、そうではありませんが、米陸軍の炭疽菌テロへのあの対応の早さは、それと無関係ではなかったかもしれませんね。炭疽菌のしつこさはですね、1942年から43年の間、英国の炭疽菌実験に使われたグリニャード島では、実験で大量にばら撒かれた炭疽菌芽胞がなかなか死滅せず、1986年から87年にかけて、大量のホルムアルデヒドを土に混入してようやく死滅させたということからもわかると思います」
「ホルムアルデヒドってホルマリンですよね」由利子は眉を寄せながら言った。「そっちの方が炭疽菌より危険な気がするなあ・・・」
「そうですね。まさに毒を以って毒を制すってやつです。さて、炭疽菌にも有効なワクチンがあります。副作用も少ないのですが、かなり痛いらしい。軍人ですら、接種後は痛くて仕事にならないくらいです。それを6回に分けて接種し、その後も毎年追加してワクチンを打たねばなりません。だから、米軍人でもこれを受けるのは、炭疽菌感染リスクが高い人たちだけです。因みに、O教団のバイオテロが失敗した原因として、彼らが知らずに毒性の少ない炭疽菌のワクチン株を使ったためだといわれています」
「ワクチン株を渡した人GJ!ですね!」
と、今度は葛西が言った。
「まったくです。もし、成功していたらと思うと、ゾッとします。まあ、生き物を利用するのですから、扱いは通常兵器より難しいと思います。次に、ウイルス兵器の代表格、天然痘についてお話しましょう。まず、二人ともこちらに右肩を向けてみてください」
由利子と葛西は、何だろうと思いながらも疑わずにそれぞれギルフォードに右肩を差し出した。

「今頃ジュンペイは、彼女といっしょに先生の講義を受けているんやろうな」
多美山は、代わり映えのしない隔離病棟で本を読む間に、時計を見ながらつぶやいた。
 葛西が多美山と過ごしたいと言ってくれた時、本当はとても嬉しかった。しかし、それを素直に受けることは、多美山には出来なかったのだ。もし、ジュンペイがいる時に急に病状が悪化したら・・・、いやそれ以上に怖いのは・・・。そこまで考えて、多美山は頭を振った。思うだに恐ろしかった。しかし、美千代の所業が思い出したくないのにフラッシュバックし、多美山は、頭を抱えてベッドに突っ伏した。
(もし発症したら、俺はどうなる・・・?)
眼に見えない悪魔に怯える日々。一旦発症したら、治療不可能な新型のウイルス感染症。今、俺の身体はじわじわとウイルスに冒されているのか? だとしたら、どれくらいなのか? 俺は死んでしまうのか? 赤い血を撒き散らし、周囲を朱に染めながら・・・? 美千代の前に立ち塞がった時に、覚悟を決めたつもりだった。だが、こうやって一人でいると、恐ろしさがだんだん迫って来る。耐え難い恐怖が。その時、ドアをノックする音が聞こえて、看護士の園山が入ってきた。
「こんにちは。検温に参りました。体調の方はいかがですか?」
「園山さん、ありがとう。助かりました」
多美山は我に返りながらほっとして言った。
「え? どうかなさいました?」
園山は、きょとんとした顔で多美山を見て言った。

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2.侵蝕Ⅱ (3)ギルフォード教授の野外講義 後半

※この講義でふれた種痘の件ですが、これを書いたころはまだ由利子さんの年齢にも種痘の痕があっておかしくありませんでした。しかし、書いていくうちに年月が経ち、由利子さんどころか教授すらその年齢には種痘接種痕のない時代になってしまいました。最終的に書きなおす予定ですが、しばらくはこのままであることをご了承ください。

 由利子と葛西が教授の講義を受け、多美山が園山看護士の顔を見てほっとしている頃、とある場所で大変な騒ぎが起きようとしていた。

 D市在住の大坪俊男は、夕方恒例の犬を連れた散歩をしていた。彼は定年退職後、D市の閑静な住宅地で悠々自適の生活をしていた。彼はこの地に住んでから長いが、近年増え続ける無頼学生に辟易していた。俊男は、今日は気分が良かったので、なんとなく遠出をしてみようと思い、山の方に入った。犬のタロウは、今日の散歩が長いことがわかって、嬉しそうにあちこち嗅ぎまわりながらたまにマーキングをしつつ、歩いている。彼は、柴犬系の白い雑種犬で、滅多に飼い主を引っ張るようなことはなかった。
 山道を通って、俊夫は県道に出た。県道とはいえ、山の中の道路である。歩道は無くその分路肩が広めにとってあった。俊男は、張り切って歩きすぎたと苦笑いしながら愛犬に話しかけた。
「タロウ、遠くに来すぎたごたるけん、そろそろ引き返そうか」
あまり道路際を歩くのを好まない俊男は、タロウを軽く引っ張ろうとした。しかし、タロウの様子がおかしい。耳をピンと立てて何かを警戒している。その後、クンクンと臭いながら、珍しく飼い主を引っ張って草むらの方に歩いて行こうとした。
「なんかあるとや?」
俊男は怪訝そうにタロウの向かいたがる方向に、慎重に歩いて行った。タロウは草むらの一部を見ながら足を止め、上半身を低くしてウーッ!と警戒の唸り声を上げた。その時、草むらがワサワサと揺れ、何か黒い塊が飛び出してきた。
「うわ~!!」
俊男は悲鳴を上げた。タロウは再び低くうなると、ワンワンと激しく吠え立てた。それは大量の虫のようだった。タロウの剣幕のせいか、虫たちは反対方向に逃げ去った。俊男は腰を抜かさんばかりに驚いて言った。
「な・何やったとや、ありゃあ? 心臓が止まるごとあったぞ」
しかし、タロウはまだ警戒を解いていなかった。彼はクンクンと草むらのにおいを嗅ぎながら、何かを探していたが、ある地点でピタリと足を止め、急に怯え始めた。
「あの草むらに何かあるとや?」
俊男はタロウに聞いた。タロウは怯えたまま、今度は頑として動かない。仕方ないので、俊男が様子を見に草むらに入っていった。草をかき分け進むと、何かが足に当たった。固いけれど何となく弾力があるような、妙な感触。嫌な予感がして、俊男はゆっくりと・・・ゆっくりと下を見た。
 

 ギルフォードは、二人に右肩を自分の方に向けさせると言った。
「じゃ、二人とも、肩まで袖を捲ってみて」
「ええ~? 何でそんなこと・・・」
由利子が言うと、ギルフォードは笑いながら言った。
「天然痘に関わる重要な事ですよ。別にストリップしろって言ってるんじゃないですから」
「わかった! 種痘の痕(あと)ですね!」
葛西はポンと手を打って言った。
「正解です。そういうことですので、ユリコ」
ギルフォードは自らの袖も捲りながら言った。「僕にも右の二の腕・・・というか肩に近いところに、はんこを押したような痕があります。ユリコにもありますね」
ギルフォードに言われ、由利子はしぶしぶ袖を捲り上げて言った。
「はい、あります」
「あ、ジュン、ちょっと失礼」
ギルフォードは、手を伸ばして葛西の右腕をとってから言った。
「おや、意外と筋肉質ですねえ」
「一応警官ですから」
と、葛西は若干テレながら言った。
「まあ、それはともかく・・・」ギルフォードは、由利子が何となく冷たい目で見ていることに気がついて、話題を戻して言った。「ほら、彼の腕にはないでしょう? 多分左腕にも無いと思います。ある年代から、種痘を受けなくてもよくなったからです。日本では、1976年に種痘が中止されましたが、その前から種痘を行わなくなっていました。日本での天然痘の自然発生がゼロになっていたのと、副作用の問題が顕在化してきたためです。ユリコの年代が種痘を受けたギリギリのラインではないかと思います」
「アレク、何さりげなく葛西君の腕を持ったままにしてるんですか。葛西君困ってるじゃない」由利子は葛西が気の毒になって言った。「そもそも、フツーそーゆーことは女性に対してやるもんでしょ」
「だって女性にやったらセクハラじゃん」
「そりゃあ、フツーのオヤジならそうでしょうけど、アレク、あなたの場合はイテッ!・・・今、私の足、蹴りましたね!」
「あ、ゴメンナサイネ、足が長いもんで。では、あなたも腕を掴んで欲しかったですか?」
ギルフォードは、そう言いながらテーブルに両肘をついて両手を組みあごを載せ、にっと笑った。
「あのね、アンタね」
由利子はムカッとして、椅子から立ち上がると、テーブルにバンと手を置いて、ギルフォードに迫った。しかし、彼はクスクス笑いながら言った。
「それが地なんだ」
由利子は、その一言で真っ赤になった。しまった、つい、アンタと言ってしまった。横を見ると、葛西が驚いて目を丸くしていた。
「あ、失礼っ、つい・・・」
由利子は無礼を詫び、焦って席に就いた。しかし、ギルフォードは笑いながら言った。
「ノー・プロブレムです、ユリコ。猫は被らなくていいんですよ。これから長いお付き合いになるかもしれないんだから、地はどんどん出してください。そのためのレクリエーションです。僕も女性は活きの良い方が好きですし。では、続きをやりましょう。さて」
ギルフォードは姿勢を正して椅子に座り直すと言った。
「天然痘は、医学では痘瘡と言いますが、ここでは馴染み深い天然痘でいきましょう。天然痘というのは、種痘に対して自然発生する痘瘡をいうようになったようです。このウイルスは人類によって始めて制圧されたウイルスです。種痘という有効なワクチン接種があったことと、自然界ではヒトだけが保有するウイルスであったことが、根絶出来た主な理由です。1980年、WHOは自然界の天然痘ウイルスの根絶を宣言しました。地球上の何処にも天然痘ウイルスが存在しなくなったのです。ただし、いくつかの研究所を除いてですが。その後、何度かの不幸な事故、つまり、バイオハザードで何人かの命が奪われ、結局、天然痘ウイルスは、現在、アメリカのCDCとロシアのベクター研究所の2箇所のみが保管するということで落ち着いています。でも、ほんとは保管されたウイルスは、解明が終わったと同時に廃棄されるはずでした」
「廃棄されなかったんですか?」
由利子が尋ねた。
「はい。密かに誰かがウイルスを悪用しようと保管している可能性は残っており、それがテロや兵器に使われた時に、抗ウイルス剤やワクチンを作るために必要だというのです。まあ、本音は一番怖いのはウイルスを所有しているお互いの国ということだったんでしょう」
「核兵器開発と同じ理由ですね」
と、葛西が言った。
「そうです。まあ、もし、廃棄が実現していたとしても、お互い密かに隠し持っていたでしょうケド。炭疽菌と同じようにね。廃棄に反対する意見の中で面白いのは、病原体とはいえ意図的に人類が一つの種を消滅させてしまっていいのかという、とても『人道的』な意見です」
「ウイルスにとっては、まさにそう言う気持ちでしょうけど、なんだかな」
葛西がいうと、由利子も
「まったくだわ。既に天然痘ウイルスをフルボッコにしていながらそれはないと」
と、苦笑しながら言った。ギルフォードは由利子が言った言葉に興味を持ったらしく、すぐに尋ねた。
「フルボッコ・・・?何ですか、それは?」
「あ、フルパワーでボッコボコにするって意味の略語です」
「オー、ボッコボコは、殴る時の擬音ですね。やはり日本語は面白いです。いろんな言葉を取り入れて新しい言葉を作りますね。あ、すみません、また脱線しましたね。・・・ですから、根絶したことが皮肉にも、この古典的ともいえるウイルスを最強の生物兵器のひとつにしてしまったことになります。しかし、僕は、天然痘撲滅は、アポロの人類月着陸に匹敵する・・・いえ、それ以上の偉業だと思っています。少なくともそれに関しては、人類が初めてひとつの目標のために協力しあったのですから。ですから、これを意図的にばら撒き、元の木阿弥にするのは許せないことです。」
聴講生二人はうんうんと頷いた。
「天然痘は、炭疽病と違って人から人へ感染します。潜伏期間の感染はないですが、身体に発疹が出て天然痘と発覚する前に口や気管の粘膜に発疹が出来、咳やくしゃみによってウイルスが飛び散って他の人に感染します。もちろん全身に広がった発疹の膿や瘡(かさ)からも感染します。天然痘の発疹は独特ですが、最初は水痘、いわゆる水疱瘡と区別がつきにくいです。水痘の場合は天然痘に比べると致死率も低く後遺症も少ないです。痕は少しは残りますが、天然痘のような目立った瘢痕(はんこん)は残しません。しかし、水疱瘡が治癒した後も、水痘ウイルスは神経系に隠れ、何十年も経って、免疫の弱った時を見計らって悪さをします。いわゆるヘルペス・・・、帯状疱疹ってやつです。
 さて、天然痘の発疹は痘疱(とうほう)といってとても特徴的です。同じような大きさの・・・う~~~ん、荷造り用の緩衝材にプチプチ・・・エアークッションがありますね、あのプチプチに空気ではなく膿をつめたようなのが主に手足と顔にびっしりと出来ます。大きさは約10mm程度で少しへこんでいます。身体の前の方はそこまでびっしりにはなりません。そこらへんも水疱瘡とは違います。致死率は高いですし、治癒してもすごい痕が残ってしまいます」
「天然痘ウイルスが今撒き散らされたら大変ということですね。種痘を受けていないからみんな免疫がない」
「そうです。僕も君も種痘の効果はとっくに切れてますから、ジュンとリスクはあまり変わりません。世界中の人間が、およそ30年天然痘ウイルスに触れていないということです。まったく免疫がないことが、どういうことかというと、南米の先住民・北米の先住民、共に、侵略者の持ち込んだ、天然痘ウイルスによって壊滅的な被害を受けました。天然痘患者の膿をつけた毛布を、北米先住民に意図的に配ったという記録もあります」
「なにそれ、ひっどいことしたんだ」
「まあ、その酷いことをしたのは、イギリス人なんですが、僕も許せない行為だと思います。ネイティヴ・アメリカンは勇敢でしたから、まず、その戦闘能力を奪おうとしたのでしょう。当時は病原性微生物によって感染症に罹るという概念はなかったのですが、経験的に試してみたのだと思います。結果的に生物兵器を使ったことになります。それにより、イギリス軍は先住民との戦争に優位に立ちました・・・。もちろん、軍事力の差は大きかったので、残念ながら、いずれは征服される運命だったのでしょうけど・・・」
「歴史の影に微生物あり、ですね」
と、葛西が言った。
「そうですね。さて、話は現代にもどりますが、今度天然痘が自然発生を始めた場合、以前のような根絶運動はできません。なぜなら、エイズの問題があるからです」
「あ、アフリカやアジアの貧困層に蔓延しているみたいですからね」
と、これも葛西。
「そうです。HIV感染で免疫の低くなっている人たちへのワクチン接種は、命取りになりかねません。それでなくても副作用があるのですから。たった30年で、世界はあの時と全く状況が変わってしまったのです」
「アレクはその天然痘ウイルスはどうすべきだったと思う?」
「僕はもちろん廃棄派ですよ、ユリコ。根絶運動の苦労は聞いてますから。種痘はね、覚えてないかも知れないけど、二股針という器具を使って何度も皮膚を軽く刺してワクチンを植え込むんです。そういう行為をするのですから、未開地の部族の方たちに接種する場合など、まず、信頼関係を築かねばなりません。命がけで身体を張って・・・、そう、何かがあったら殺される覚悟で種痘を行った医師だっているんです。それに、ワクチンを作るために犠牲になった牛さんたちにも申し訳ないです」
「牛?」
由利子が訊いた。何故牛?
「そうです。ジェンナーは牛痘・・・牛の罹る天然痘ですね、に罹った人は、天然痘に罹らないということを証明するために、牛の乳を搾る女性の手に感染した牛痘の病変から取った膿を、当時8歳だった羊飼いの少年に接種しました」
「ええ? 自分の息子にじゃなかったんですか?」
「いえ、残念ながら最初の実験では他人の子を使ってます。その少年は、その後20回ほど天然痘患者の膿を接種させられましたが、発症しませんでした。まあ、それが種痘の始まりなのですが、問題があって、人の膿を使うので、ほかの病原体も混じることがあり、ひどいときには種痘によって梅毒もついでにもらってしまうこともありました。英語では天然痘をスモール・ポックス、梅毒は古い言い方でグレート・ポックスというのですが、まあ、天然痘を予防するつもりが、似たような名前の病気に感染してしまうという、洒落にならない状態を招いたりしたのです。因みに名前は似ていますが、この二つは全く違う感染症です。梅毒の発疹に比べて天然痘の発疹が小さいのでこう呼ばれるようになりました。梅毒の病原体は、スピロヘータという細菌と原虫の中間に位置するような単細胞生物です。で、その後、子牛の腹を使ってワクチンを作るという、方法が考え出されたのです。今では動物愛誤の考えから、この方法は使えないでしょうが、天然痘根絶運動の時までは、この古典的方法が使われてきたのです」
「で、ワクチンに使われた牛は・・・?」
と、由利子がすかさず訊いた。
「う~ん・・・、言い難いですけど、だいたい処分されたということです」
「酷い! 使い捨てだったんだ。役に立った牛ということで死ぬまで面倒見るべきでしょう!!」
「そうです。でも、当時にはそういう考え方なんかなかったのでしょう。実験動物は実験が終わったら処分があたりまえだったのではないでしょうか。だから、天然痘根絶の影には、多くの牛さんたちの尊い犠牲があったのです。因みに1頭の牛からは2万人分のワクチンがとれました」
ギルフォードは、フォローともいえないフォローをしたが、由利子の憤りは納まりそうになかった。
(”これじゃ、牛でどうやってワクチンを作るかまで話したら、俺に噛み付きかねんなあ”)
そう思ったギルフォードは、その説明は避けた。その製造方法とは、牛をよってたかって仰向けに押さえつけ、腹の毛を綺麗に剃って、腹全体に縞模様に浅い傷をつけ、そのワクチンの元となるウイルスを擦り付ける。そのあと、ガーゼで傷を覆うが、牛が疲れて座ったら泥がついて台無しになるので、縛り付けて立たせたままにする。一週間後牛の腹に溜まった膿を、また仰向けにねかせて削り取る。それがワクチンになるのだ。明らかに今なら動物福祉法(日本では動物愛護法あるいは実験動物の飼養及び保管等に関する基準)違反であろう。そんな辛い目に遭わされた挙句に殺された牛たちは、迷惑なんてものじゃなかったろう。彼らにとっては、まさに災厄である。
 ギルフォードは話の矛先を変えることにした。
「天然痘撲滅には、日本人も重要な立場で関わっていたんですよ。天然痘根絶計画の2代目のリーダーは、日本人のアリタ(蟻田)博士でした。
 それから、種痘は副作用が強いワクチンで、時に脳症をひきおこしました。それは1歳未満の乳児に多かったので、種痘接種の年齢を1歳半からに上げたりとリスクを減らす工夫はされたのですが、それでも、種痘による副作用は時にですが、おきてしまいました。副作用は、種痘後脳炎のほかに、免疫が落ちた人におこりやすい進行性種痘疹、これは、しばしは致死的状況を招きます。それから、健康な人に時におこる全身性種痘疹、これは見かけに反して予後はいいです。以前、テレビのバラエティ番組で、女性お笑いコンビの黒い方が、子どもの頃種痘の後に発疹が出て、いろんな医者が見に来たとか言ってましたが、彼女もおそらく全身性種痘疹だったのだと思います。まあ、副作用が多いワクチンとはいえ、医者が見に来るくらいなのですから、やはりめずらしいことだったのでしょう。
 で、1970年代の初め頃、日本のハシヅメ(橋爪)博士が脳炎を起こす確率の低い、安全なワクチンを開発されました。しかし、当時はすでに、天然痘は撲滅されつつあり、日本の種痘は1976年には中止されていたので、この、ハシヅメワクチンが、その威力を発揮する機会はなかったですが、昨今のバイオテロの心配から、また注目されるようになりました」
そこまで言うと、ギルフォードは由利子の顔を見て言った
「安心してください、ユリコ。今のワクチン製作の多くは、培養細胞や卵などを使っており、生きた動物は使ってません。これは、動物福祉法の関係もありますが、他の病原体の汚染を防ぐためでもあります」
由利子は納得したようなそうでないような顔をして頷いた。
「さて、これで、何故天然痘によるバイオテロが恐れられているかわかりましたか」
「はい。そういえば、半島にある北の某国ほか数カ国が、天然痘ウイルスを持っている可能性があると聞いたことがありますが」
「そうですね。ソ連の崩壊で、食い詰めた生物学者が、生活に困って売っ払ったり亡命時に持ち込んだりという可能性はあります。だから、さっさと廃棄すべきだったんです。ウイルスの保管は難しく、それなりの設備や技術も必要ですから、その国が隠し持っていたというより、ロシアから得たと考えるほうが無難でしょう」
「なるほど」
由利子は納得した。
「では、時間がなくなって来ましたので、駆け足で次にすすみましょう」
 

 俊男は、ゆっくりと足元を見て、息をのんだ。ついで心臓が飛び出るほど驚いたが、今度は驚きすぎてろくに悲鳴も上げることが出来なかった。
「ひ、ひぃ~」
全力で絞り出たのは、こんなかすれた声だった。俊男は見下ろした先にあったものを、凝視していた。頭ではそれを拒否しているのに、身体が動くことを拒否し、眼が勝手にその全貌を確認した。そこには、死体の頭部らしきものがあった。らしきと言うのは、食い荒らされて顔の特徴部がほとんど無くなっていたからだ。瞼や鼻・唇はすでに食いつくされ、眼球もしつこく突かれた跡があった。目鼻や耳から入った虫から、脳も相当食われているようだった。死体の首から下は大まかには欠けてはいなかったが、細部はあちこち食われてしまっていた。衣服から男性だということの予想はついたが、年齢他、見当がつかないほど、損傷が激しかった。呪縛が解けたように俊男は動き出すと、よろけながら草むらから脱出した。
「う・・・うげぇ」
うずくまり、何度も吐きそうになるのをこらえて、ズボンのポケットから電話を取り出した。
「うげ、ひゃ、ひゃくとおばん・・・おえ」
食事前で良かった、食ってたら確実に吐いていた・・・。俊男は心の隅で思った。そんな俊男を心配して、タロウがやっと動き出し、心配そうに彼の傍に座った。焦りながら、110番を押そうとするが、指が震えてなかなか押せない。その様子を不審そうに見ながら車が何台も通り過ぎていった。そんな中、俊男を心配したのか、その中の一台が引き返してきて、路肩に止まり助手席の女性が降りてきた。
「どうなさいました?」
それは上品そうな熟年女性だった。
「あそこに、し、死体が・・・」
「死体?」
彼女は、俊男が指差している方向に行こうとした。
「だ、だめです! 女性が見るもんじゃなかですけん」
俊男はあせって止めた。その様子を見てただ事じゃないと思ったのだろう、運転席の男の方も降りてきた。
「夏美、どうした?」
「あ、あなた・・・。あの、あそこに死体があるそうなんですよ。どうしましょう」
「死体? なんかの見間違いじゃないのかい?」
夫は、夏美の指差した方へ向かった。その時、俊男がようやく110番通報に成功した。
「F県警本部、通信指令室の河上です。どうされました?」
「は、はい・・・。うげ」
「落ち着いてください。事故ですか、事件ですか?」
「た、多分事件です」
その時、死体を見た夫が悲鳴を上げて、草むらから飛び出してきた。
「こ、こりゃいかん、警察を呼ばにゃ」
「今、電話されているようですよ」
慌てる夫に妻が答えた。通報先の警官にもその悲鳴が聞こえたらしい。
「今なにか悲鳴が聞こえましたが、大丈夫ですか?」
「今、死体を見た人が上げた悲鳴です」
「死体! それは大変だ! まだ息があるようなことはありませんか」
「あれで生きとったら・・・。死後だいぶたっとるようですけん」
「状況を説明出来ますか?」
「状況は・・・、うげ・・・、すんません。とても・・・。とにかく、道路脇の草むらに男の死体が隠してあったとです」
「わかりました。場所はどこですか?」
「D市の県道の・・・、すんません、説明出来そうにありません」
「近くに電柱か自販機はないですか?」
と、警官が尋ねた。固定電話の場合は住所を特定できるが、携帯電話の場合は特定が難しいので、最寄の自販機に書いてある住所、無い場合は電柱の記号で割り出すのだ。
「電柱か自販機ですか?」
俊男はそれらを探そうと周りを見回した。その時、いつの間にか夏美とその夫がタロウと共に、傍で電話の内容を心配そうに聞いていたことにようやく気がついた。
「電柱か自販機ですね」夫の方が言うと、半屈みの状態から立ち上がり、道路際に出て周囲を見回した。
「あ、あそこに電柱があります! ちょっと遠いので僕が見てきましょう。何を見てきたら・・・」
「電柱、あるそうです!」
俊男は警官に告げた。
「では、電柱に番号が書いてありますから、それを教えてください。それで、場所が特定できますから」
「わかりました!」俊男はすぐにそれを協力者に告げた。「電柱の番号だそうです」
「わかりました、見てきます!!」
と言うや、夏美の夫は電柱まで駆け出した。
 

「さて、生物兵器と一口にいいますが、幅が広く、使われる微生物も細菌やウイルスだけでなく、リケッチア・クラミディア・真菌・・・いわゆるカビです、などが使われます。また、生物そのものではなく、それが出す毒素を利用する場合もあります。リシンなんかはよく暗殺に使われます。これは、ヒマという植物の実から抽出した毒素で、猛毒です。摂取したばあいの有効な治療法はありません。ヒマは世界中に自生する植物なので、入手しやすい毒素ということになります。
 O教団がテロに使おうとして失敗したのは、ボツリヌス菌の作り出すボツリヌス毒素です。これは、毒素兵器の代表格なので、少し詳しく説明します。ボツリヌス毒素は、地球最強の毒素で、その毒性は青酸カリの30万倍の強さともいわれています。ボツリヌス菌は、嫌気性の細菌なので、無酸素下でどんどん増えます」
「あ、そういえば、ずいぶん前ですが、からしレンコンからボツリヌス中毒を起こした事件がありました。おかげで、いまでもからしレンコンといえばボツリヌス菌とインプットされちゃってて。まあ、食べますけど」
と、由利子が言った。
「なるほど。ボツリヌス菌は、よく土の中にいるので、たまたまレンコンに付着した菌が、除菌を免れて真空パックの中で増えたのでしょう。酸素を嫌う菌ですから、よくソーセージの中で繁殖して中毒患者をだしますから。ボツリヌス菌も炭疽菌と同じように芽胞を作りますから、熱や乾燥や消毒にも強いです。ただし、毒素自体は高温に弱いですから、熱を加えると無毒化します。ですから、真空パックのものは、過熱して食べたほうが無難なわけです。
 ボツリヌス毒素を摂取すると、普通、1日から数日後に症状が表れます。まず、頭の方から症状が現れます。物が二重に見え始め、ものが飲み込めなくなり、声が出せなくなって、顔から表情がなくなります。その時眼瞼下垂といって瞼が下がるという特徴的な症状がでます。進行すると、全身が脱力して最終的には呼吸困難を起こして死亡します。恐ろしいのはその間意識がはっきりとしているということです。治療しない場合の致死率は20%ですが、これは毒素の摂取量によってもかわります」
「予防や治療法は?」
「はい、今までヒトに中毒を起こした菌型の抗血清はありますが、毒素が神経組織と結合してしまった場合には効果がありません。ボツリヌス中毒で呼吸困難を起こした場合は人工呼吸器をつけてその場をしのぐしかありません。それで神経組織が新たに再生するのを待つのです。有効なワクチンはありますが、珍しい中毒なので、現在ボツリヌスを扱う人にしか接種されていません。まあ、あるかどうかわからないテロのためにワクチンを接種する必要はありませんからね。
 しかし、怖いのは、そのボツリヌス毒素が実際に使われた場合です。テロを含めてボツリヌス毒素を兵器として使う場合は、エアロゾルにして空気中に散布します。もちろん無味無臭ですから、住民は気がつかないうちにボツリヌス毒素に曝露されます。そして間を置いて続々と中毒患者が発生しますが、この場合、患者数が多すぎて、人工呼吸器が足らなくなる可能性は充分にあります。街はパニックに陥るでしょう。サリンテロは行われてしまいましたが、バイオテロが失敗したことは、不幸中の幸いでした。ボツリヌス毒素は国会付近で撒かれていました。毒ガスの場合、効果はすぐに出ますから早急に対処できますが、生物兵器の場合は潜伏期間があり、発症までにタイムラグがあります。その間に、水面下で被害が拡大してしまいますから」
「今回の事件も、今現在水面下で広がっている可能性があるんですよね」
葛西が浮かない顔をして言った。急に心配になったらしい。
「そうでないことを願いたいですが、可能性は高いでしょう」
「こんなことをしてていいんでしょうか・・・?」
「だって、どうなってるかわからないんだもん、じたばたしても仕方ないじゃん」
ギルフォードは、珍しく投げ遣りともいえる発言をしたが、そうではないことはすぐにわかった。
「だから僕たちは、今出来ることを精一杯やるしかないんです。今、君達がすべきことは、バイオテロについてしっかり学ぶことです。そうでしょ」
ギルフォードの言葉に、二人は黙って頷いた。
「もし、何か進展があった場合、すぐに感対センターから僕の携帯電話に連絡が入るようになっています。今のところ、特に連絡はありませんから、ゆっくりしてて大丈夫ですよ。それに・・・」
「それに、何ですか?」
と由利子が訊いた。
「もし、事件が動き始めたら、ひょっとすると休日すらなくなるかもしれません。休める時に休んでおくべきです。では、講義を続けますよ」
「はい」
聴講生二人は同時に返事をした。
「その他の毒素兵器に使われそうなものは、フグ毒のテトロドトキシン・カビ毒のマイコトキシンがあります。マイコトキシンの中で元も重要なのがコウジカビの一種フラバン菌の作るアフラトキシンです。この毒素は安定していて熱にも強く、発がん性があります。一度に大量のアフラトキシンを摂取すると、急性中毒をおこし、最初腹部の不快感を覚え、その後黄疸をおこし、最終的には手足の痙攣、こん睡状態に陥り死亡します。有効な予防も治療法もありません。コウジカビだけにまさに『醸して殺すぞ』ってやつですね。フセイン時代のイラクでは兵器化に成功していたと言ううわさもあります。熱に強いので、エアロゾルとして撒くほかに、ミサイル等に搭載も出来ます。
 細菌では赤痢菌の、今では病原性大腸菌O157の毒素としてのほうが有名なシガ(志賀)毒素、これは、ボツリヌス菌や破傷風菌毒素に匹敵する強毒素です。そして、黄色ブドウ球菌腸管毒素、これは、毒性は今まで挙げたものほど強くなく、致死率も1%以下ですが、エアロゾル化して散布した場合、発熱や嘔吐などの症状で、敵を無力化することが出来ます。治療法がないので、対症療法しかないのが現状です。
 次に、リケッチャとクラミディアです。これらの名前はユリコはあまり馴染みがないのではないかと思いますが・・・」
「あ、クラミジアですよね。それ、聞いたことがあります。たしか性病の・・・」
「それは、性感染症のクラミディア・トラコマティスですね。兵器として使われる可能性のあるクラディミアは、オウム病の原因微生物で、種類が違うのです。こちらはズーノシス・・・人獣共通感染症です」
「あ~、違うんだ」
「そうです。リケッチャやクラミディアは、科の名称です。共に、細菌より小型で、自前の細胞はもっていますが、完全ではないので、ウイルスと同じように他の細胞を利用して増殖します。細菌とウイルスの中間に位置するような生物です。この中では、生物兵器として米陸軍がかつてユタ州の兵士を使って人体実験を行い、また、O教団が特に興味を持っていたという、Q熱について簡単に説明しましょう。
 これは、最初なかなか病原体が見つからず、英語で”Query”・・・謎と言う意味ですが、この頭文字から名づけられました。伏字にしたわけではありません。これは致死率は低いですが、発症した場合病気が長引きますので、黄色ブドウ球菌毒素と同じように、敵の無力化のために使われます。また、Q熱リケッチャは芽胞に近い構造をとることが出来るので、熱・乾燥・消毒に強いという、生物兵器向きの構造をしています。さらに、このQ熱は、たった1個のQ熱リケッチャを取り込んだだけで発症するくらい感染力が強いです。このQ熱リケッチャと同じように、敵の無力化に使われるものに、ブルセラ菌があります」
「ブルセラ?」
由利子が苦笑して言った。
「ブルマーとセーラー服の略じゃありませんよ。僕も最初、驚きました。僕が講義でこの細菌の名前を言うと、講義室内のあちこちでクスクス笑い声がするんです。不思議に思って調べたら、そういう名の風俗系ショップがあると知りました。ブルセラ症は、僕にとっては笑えない感染症ですが、そういう店があることも笑えませんね、公衆衛生的にも」
ギルフォードは、やや不機嫌そうに言った。
「そうですね」由利子も相槌を打って言った。「日本人に、だんだんプライドやモラルが欠けていってるんじゃないかって、よく思います」
「日本人の、娯楽や性風俗のアイディアには、ユニークなものが多いと感心はしますけどね」
「褒められたんだか、けなされたんだか・・・」
由利子が苦笑しながら言うと、ギルフォードは笑いながら言った。
「両方です。さて、生物兵器ですが、直接人間に攻撃を仕掛ける方法ではないものもあります。農作物や家畜を狙う、アグロテロです。しかし、今回はアグロテロはあまり関係ありませんから、簡単にお話します。近代戦の兵器としては、対人間よりも、対家畜のアグロテロが先でした。旧ドイツ軍は、敵方の家畜に炭疽菌や鼻祖菌を感染させようとしました。また、旧日本軍は牛疫という、牛には致命的な感染症を起こす牛疫ウイルスを乾燥させて風船爆弾に詰め込んでアメリカを攻撃する計画を立てていました。結局これは実行されませんでしたが、もし、実行されていたら、アメリカにはまだ牛疫は上陸していなかったので、相当な被害を受けたかもしれません。日本から風船爆弾は9300発が放たれた内、361発がアメリカ本土に届いていたといいます。今は、牛疫には有効なワクチンがありますので、生物兵器としての重要度はなくなりました。今は、同じく牛のウイルス病で有名になった口蹄疫ウイルスや、豚に強い感染性を持ち、時に致命的な病状を示す、ブタコレラウイルスが生物兵器として有効だと考えられます。
 口蹄疫は豚にも感染しますが、いずれにしても、致死率はあまり高くありません。しかし、これに罹った牛は乳を出さなくなってしまいます。感染力が強いので、現在もこれに感染した牛や豚は殺処分されています。ですから、もしこれがアグロテロとして撒かれた場合、相当な経済的損失を受けることになります。このように、アグロテロは、動物や植物のみに感染する病原体を使いますので、テロリストに安全で、人の犠牲者も出しませんが、経済的なダメージを相当与えるものであり、それを狙ったテロということになります。
 さて、バイオテロに関して重要なことを出来るだけわかりやすくお話しましたが、理解できたでしょうか?」
ギルフォードは、二人に尋ねると、ようやく一息入れた。 

 

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2.侵蝕Ⅱ (4)テロと生物兵器

 荘厳で重厚な回廊を、三人の男が足早に歩いていた。彼らは、一際荘厳さの際立つ部屋の扉の前に並んだ。扉の両側に立った、親衛隊らしき二人が彼らを見るとサッと姿勢を正した。彼らの中で一番格上らしい50代の男が言った。
「長兄さまはおられるか? こちらに来ておいでのはずだが」
「はい。ですが、ただいまは瞑想の間に入っておられます」
二人の「衛兵」は異口同音で答えた。
「瞑想の間か。厄介な場所に入っておられるな。あそこは、一切の電波が遮断されておる」
「広間の前で待つしかないでしょう」
彼の息子らしき男が言った。
「そうだな、では、そちらに向かうとしよう」
三人は、「衛兵」に背を向けるとその場を後にした。「衛兵」たちは、一糸乱れずに敬礼をし、また元の微動だにしない姿勢に戻った。
(ふん、双子でもないのに、相変わらず気味の悪い連中だ。まるでロボットだな)男は、密かに思った。(彼のお付きの連中はみんなこんな感じだ。まるで意思と言うものが感じられん)
 彼らは、瞑想の間の前室である読書の間で教主を待った。ここでは、信者達が静かに本を読んでいたが、圧倒的に若い女性信者が多く、華やかな雰囲気が漂っていた。蔵書は、宗教がらみというより、自然科学的なものが多かった。中でも、戦争や民族紛争、飢餓、環境破壊や絶滅動物等に関するような、現代の環境を危ぶむようなものが多数を占めていた。宗教関連の本もあったが、この教団の教義に関する本はもちろん、聖書や経典のみならず、新興宗教からカルトに至るまで、さまざまな本がストックしてあった。信者達は、物音もさせずに熱心に読書をしている。三人は居心地悪そうに黙ってソファに座り教主を待っていた。 

 しかし、彼らが思ったより待たずに瞑想の間の扉が開いた。中から、信者の中でも上級クラスなのだろう、白いゆったりとした衣服を身にまとった30代の美しい女性が姿を現し、静かな笑みを浮かべながら言った。
「お会いになられるそうです。お入りください」
三人は、ぞろぞろと中に入って行った。
 瞑想の間は、かなり広く高い天井は半球のドーム型をしていた。全体が深いブルー系統の色に統一され、壁面と天井には透明なブルーの材質のモザイクで幾何学模様が描かれていた。窓は全くなく、瞑想中であったために照明が落とされたままになっており、そのため青く薄暗い室内は深海を思わせた。部屋の真ん中台座があり大型の椅子が設置され、椅子の上には3mほどの高さの天蓋があり、そこからやはりブルーの薄いカーテンが降りて周囲を囲っていた。三人は、台座の前で跪(ひざまず)き、声のかかるのを待った。
「よくいらっしゃいました。冨野川(ふのかわ)教館長」
カーテンの中で椅子に座った人影は、そういうと立ち上がり姿を現した。彼は台座の階段をゆっくりと下りると、冨野川たちの方に近づき、彼らの目の前に立った。冨野川たちは深く頭を下げた。頭(こうべ)を垂れたまま、冨野川が言った。
「長兄さまには今日も美しい碧玉のご加護を・・・」
「冨野川さん」教主は、厳かな笑みを浮かべて言った。「堅苦しいご挨拶は抜きにしましょう」
「貴重な瞑想のお時間をお邪魔いたしまして、誠に申し訳ございません」
「いいえ、大事な情報を持って急いで来られたのでしょう? そんなあなた方にお会いするのは私の務めです」
教主は笑みを浮かべたまま言った。
「はは・・・、ありがたきお言葉・・・」
そういうと三人はいっそう深く頭を下げた。
「さあ、頭をお上げください。そして楽な姿勢になられて・・・。どうぞ、お話をお聞かせください」
そう言われて、三人はようやく頭を上げた。しかし、跪いた姿勢は崩さずに、富野川は口を開いた。
「は、先ほど入った情報によりますと、秋山美千代から感染した森田健二の遺体が先ほど発見されたそうです」
「森田健二・・・、ああ、あの第二のばら撒き屋候補の男ですね。彼であることは間違いないのですか」
「はい、彼をマークさせていた信者が、彼が熱に浮かされて夢遊状態で山奥まで行き、自動車事故に遭い死亡した一部始終を目撃しています。彼を轢いた者は罪を逃れようと、遺体を草むらに遺棄して逃げたということです」
「そうですか、残念でしたね。彼にはもう少しがんばって欲しかったところですが」
「今のところ潜伏期が平均して短く、発症後も研究段階より病状の進行が早いようですので」
「そうですか。さて、遥音先生、いらっしゃいますね」
「ここに」
教主が何者かに声をかけると、台座の後ろの方から女が返事をした。冨野川は、ぎょっとした。人のいる気配などなかったからだ。しかし、声のしたほうをよく見ると、カーテンの陰に女の姿があった。
「そのあたりの改良点についてどう思われますか」
「潜伏期間は、人によりまちまちです。現在は比較的感染の進行の早い人たちが発症していますが、いまだ潜伏期間の人も多くいるはずです。それに、蟲たちも順調に数を増やしていると思われます。私は、もうしばらく様子を見るべきだと考えます。新たに改良ウイルスを撒くリスクは避けるべきです」
「なるほど。先生には、このままで充分だという自信がおありなのですね。たのもしい限りです」
教主はそういうと、かすかに口元を歪めた。しかしそれは一瞬のことだったので、誰もそれに気がついた者はいない。涼子を除いては。涼子は心の中で身震いしたが、表面は全く動じずに答えた。
「お褒めに与(あずか)り嬉しゅうございます。が、慢心せず、引き続き真摯に研究を続ける所存でございます・・・」
「お任せいたしましょう。さて・・・」そう言うと、教主は冨野川たちの方を見て言った。「教館長。その森田某の遺体はどの様に発見されたのでしょうか」
「はい、我々が採りこんだ警官からの報告ですが、草むらに遺棄されたままの遺体を、散歩中の飼い犬が発見したということです」
「警察では、彼の身元は割り出しているのですか」
「いえ、おそらくすぐにはわかりますまい。彼をマークしていた我々と違いますし、遺体の損傷も激しい。なにせ、二日近く野ざらし状態だったので、充分蟲たちの贄(にえ)になってくれましたから」
「そうですか・・・。働かず学びもせず、大地を汚し資源をムダに消費するだけの愚か者が、やっと、大地のために役立とうとしている・・・。良いことです」
「はい、真に・・・」
三人は恭(うやうや)しく答えた。その後、冨野川は若干間を置いて、教主に言った。
「ところで長兄さま、ここにおります河本が、甥の不始末についてお伺いしたいと申しておりますが・・・」
「さて、何のことでしょうか・・・」
教主は、空とぼけた顔をして言った。
「申し訳ありません、長兄さま・・・」河本がいきなり床に頭を擦り付けて土下座しながら言った。「長兄さまのご意向に逆らって、我々が勝手に秋山美千代を捕獲し隔離しようとしたことは、勇み足だったと思っております。しかし、甥は・・・・」
「河本さん」教主は河本の言葉を遮って言った。「あなた方が秋山美千代の存在を恐れたというのは、わからないでもありません。しかし、その結果、美千代の暴走を招き、敵にむざむざとウイルス感染の経緯を教えるサンプルを与えることとなってしまったのです。現役の刑事が感染したとなれば、これからは相手も本気でかかってくるでしょう。シナリオに若干の狂いが生じ始めています」
「申し訳ありません」
河本は、再度額を床に擦り付けた。
「私達は、なんとか息のある状態の甥を探し当て、教団の病院に入院させました。しかし、いつの間にかどこかに連れ去られてしまいました。今、甥がどこにいるか長兄さまがご存知なのではと・・・」
「彼の身体ですか・・・」
教主は、一瞬冷やりとするような笑みを浮かべて言った。
「彼の身体は生きていますが、魂はすでにそこにありません。抜け殻は抜け殻としての使い道があります」
「まさか・・・」
河本のみならず、冨野川父子までもが蒼白な顔をして涼子を見た。その彼らに向かって涼子は、表情も変えずに説明した。
「はい。甥の河本泰一郎さんの身体は、私がお預かりしています。貴重な御献体ですから、細部まで大事に使わせていただきますので、ご安心ください」
「そんな・・・」
河本は、力が抜けそのまま床に突っ伏した状態になった。慌てて冨野川が彼を支え起こした。そんな河本に、教主は冷徹に質問をはじめた。
「河本さん、甥ごさんの身体は回収出来ましたが、彼の所有する自動車等が、警察の手に渡っています。それから、我が教団が浮上するようなことはありませんね」
「はい・・・」河本はヨロヨロと身体を起こすと言った。「ご・・・ご安心・・・ください。車には教団関係のものは一切乗せておりません。さらに、甥が我が教団に入信しているということは、彼の両親・・・すら・・・知らないことです。一般の信者と同じように、全て秘密裏に遂行されておりますゆえ」
「そうですか、安心しました。まだまだ、我々の名を浮上させる訳にはいきませんからね」
そう言うと、教主は人好きのする笑顔を浮かべた。その顔を見ながら、涼子は再び肌が粟立つのを覚えた。教主の側近達は皆マインドコントロールを受けていた。しかし、涼子は別だ。マインドコントロールで彼女の頭脳が使い物にならなくなる可能性が高かったこともあるが、そんなもので征服するよりも、彼女を雁字搦めにして繋ぎ止めることの出来る理由があったのである。
「河本さん・・・」
教主は、今度は今までとはうって変わった辛そうな表情を浮かべて言った。
「甥ごさんは気の毒な事になりました。若干方向は違っていたとはいえ、教団の為を思ってやったことで命を落とすことになりました。私の力不足です。申し訳なく思います」
そう言いながら、はらはらと涙を流す教主を見て、河本は再び額を床にすりつけながら言った。
「そんな、もったいのうございます」
「私を許してくださるのですか」
「許すだなんて、そんな畏れ多い・・・」
河本はひれ伏したまま答えた。声が感動で震えている。
「河本さん、甥ごさんは無駄死にをするのではありません。彼の御尊体は、我が教団の崇高な計画のために尽くして下さるのです。この大地を守るために。さあ、河本さん」
そう言いながら、教主は河本に手をさしのべ跪きながら彼の手を取った。河本は驚いて半身をおこした。教主は彼の肩にもそっと手を添えながら言った。
「河本さん、私たちの理想は同じです。共に、この世界を守るために戦いましょう」
「ああ、もったいのうございます」
河本は、跪いたまま教主の両手にすがると、感動のあまり号泣しはじめた。冨野川親子を始め、信者達はその光景を見ながら涙していた。その様子を涼子は、ただひとり無表情で眺めていた。
 教主への報告終え、三人は部屋から出て行くべく立ち上がると、教主に向かって深く礼をした。河本は、冨野川親子に支えられるように歩いている。それは、甥を失った悲しみより、教主の言葉に感激したことが大きかった。その彼らを教主は慈愛に満ちた眼をして見ていたが、その後、涼子の方を向いて言った。その眼はさっきとはうってかわった冷ややかな眼だった。
「遙音先生、もう一度確認したい。このまま様子を見ている状態で、本当に充分なのか」
「はい」涼子は答えた。
「少なくとも、秋山雅之の事故現場にいた人たちの一部や、森田健二を轢いた男性はまだ潜伏期にあります。そして、蟲に咬まれた男性も。秋山珠江の急激な病状の変化も、想定内です。おそらく、あの刑事も発症の経過を見るような余裕はないでしょう・・・」
「そうか。楽しみだな」
そう言うと教主は楽しそうに笑った。涼子はその様子を、暗い眼で眺めていた。

  

「はい、早速質問です」
由利子が手を挙げた。
「何でしょう?」
「今お話で出てきたものの他に、使われそうなものはありますか?」
「そうですね、CDCがカテゴリーAに挙げているもので重要なものを簡単に言いましょう。
 まず、ウイルスですが、有名なところではエボラとマールブルグですね。これはフィロウイルス科に属しています。フィロとは紐(ヒモ)という意味で、ウイルスなのに文字通りヒモのようなミミズのような姿をしています。その不気味な形状も、このウイルスが有名になる一因となりました。因みにあの有名なエボラウイルスの羊杖状の電子顕微鏡写真ですが、ひも状のウイルスがたまたまああいう形になっただけで、エボラウイルスはヒモが色々な形になるのと同じように、さまざまに形を変えます。ひも状と言えば、炭疽菌も増えると連なって、毛糸玉のようになります。サイズは全く違いますけどね。
 それと、アレナウイルス科に属するラッサ熱。これは、一度アフリカ帰りの日本人が感染していたことがありました。これらの出血熱のほかにクリミア・コンゴ出血熱、南米出血熱、そして天然痘と後に挙げるペストは、日本でも一番危険度の高い一類感染症に指定されています。ペスト以外は全部ウイルス疾患です。
 それから、将来の使用危険度の高いカテゴリーCにランクされているのにハンタウイルスというのがあります。これもまた731部隊が目をつけて研究していたものです。1960年頃、何故か大阪の一部で流行した記録もあります。これは、主にセズジネズミという可愛らしいネズミが媒介するウイルスですが、大阪の例ではドブネズミが感染源になっていたようです。もともとアジアにあった風土病の出血熱で、主に腎臓をやられます。しかし、アメリカで先住民のナバホ族に拡がったものは、変わり種で感染者に肺炎をおこさせました。ハンタウイルス肺症候群といいます。このハンタウイルスには、シンノムブレという名前がつきました。「誰も知らない」と言う意味です。普通は、発生した土地の名を付けるのですが、激しい反対が起きたので、命名者が気を利かせてそう言う名にしたのです。因みにマールブルグはドイツの地名です。そこにあるワクチン製造工場で発生したのです。ワクチンに使う腎臓を提供するアフリカ産ミドリザルが未知のウイルスに感染していて起きた、バイオハザードでした。エボラは発生地の近くを流れる川の名前からつけられました。本来ならウイルスが猛威をふるった旧ザイールのヤンブクという町の名が付けられるのですが、命名者があまりにもむごいヤンブクの惨状に心を痛めてそれを避けたのです。
 カテゴリーAにランクされている細菌では、炭疽菌と同じくらい生物兵器として使用頻度が高そうなのが、野兎(やと)病です。野兎(のうさぎ)と書いて『やと』と読みますが、その名の通り野ウサギに潜む細菌で、これも安定した菌ですので、エアロゾルにして撒くことが出来ます。それから重要なものとして、ペストが挙げられます。中世に黒死病と怖れられた疫病です。まあ、あの時猛威をふるったのは、もちろん公衆衛生上の問題もあったでしょうが、宗教的理由で猫を殺しすぎたというのも原因の一つという説もあります。日本では、猫を殺すと7代祟ると言いますよね」
「ホントにもう、よくご存じで」と由利子は言った。「あの頃は本当に嫌な時代だと思いますね。猫にとっても女性にとっても。ところで何故猫?」
「ペストの宿主はノミですが、それを媒介するのがネズミなのです。ネズミを捕獲していた猫を殺し尽くしたためにネズミが増え、ネズミにペストが蔓延した結果であるという見解です(※)」
「なるほど、ここでも宗教が感染症を広げる役割をしたわけですね」と、これは葛西。
「そうです。まあ、イエスさまが生きていたら、猫が悪魔の使いだから殺せ何てことは、言わなかったでしょうけどね。もちろん魔女狩りも。全て宗教の名を借りた、人間の欲望が招いたことです。因みにペスト菌にも有効な抗生物質がありますが、抗生物質の乱用による耐性菌も出てきています。これは、結核菌にも言えることです。もし、意図的にそのような菌株あるいは遺伝子操作で抗生物質に耐性をつけた菌株を撒かれた場合、対処が困難になります。地域的には中世の再来のようになるかもしれません」
そこで、葛西がそっと手を挙げた。
「ジュン、なんでしょう?」
「エボラウイルスには、O教団の教祖も興味を持っていたって聞きましたが・・・」
「ええ、わざわざ部下にアフリカまでウイルスを探しに行かせたといいますね。しかし、アレはまだ宿主がコウモリらしいとしかわかっていませんし、当時はそれすらも確定ではなかったですから、ウイルスをゲットしようがなかったでしょうね。よかったよかった」
「まったくだわ! あんなキチ○イ集団があんな危険なウイルスを持つなんて、文字通りキ○ガイに刃物だわ」
由利子は眉間に皺を寄せながら、厳しい口調で言ったが、はっとして続けた。
「ひょっとして、今回のテロはそれを手に入れたO教団の残党が・・・?」
「それはないでしょう。今のところ彼らにはそんな力は無いと思います。それに、同じグループに同じ犯罪を起こさせるほど日本の警察も甘くないでしょうし、エボラやマールブルグなら、調べればすぐにわかります。少なくとも、今回のウイルスは、既存のウイルスには合致しませんでした。旧ソ連がエボラだったかマールブルグだったかを、遺伝子操作して強力に兵器化したものに成功しているという話もありますが、それを手に入れたと仮定しても、それでも同じ種類のウイルスですから、調べればどちらかの抗体反応があるはずです。その仮定はありえません。それに、彼らは炭疽菌やボツリヌス毒素の失敗で、生物兵器を扱う難しさがわかっているはずですから」
それを聞いて、由利子が怪訝そうな顔をして言った。
「そんな面倒くさいものを、どうしてテロリストは使おうと考えるのかしら?」
「いい質問です、ユリコ。病原体を兵器に使うというのは、アイディアとしてはユニークですが、生物兵器は兵器としてはデメリットが多い不完全な兵器なんです」
「不完全?」
「そうです。まず、これは生物兵器の長所でもありますが、病気は密かに拡がりますから効果がすぐにはわからない。さっき出たマンガでは、ウイルスを浴びた人が、その瞬間血を吹き出して即死するシーンがありますが、実は生物兵器ではそれはあり得ません。感染症には潜伏期間がありますし、それに、その場で死んでしまった場合は病気を拡散させることが出来ませんよね。って、フィクションの世界にちょっと野暮なこと言ってしまいました。でも、あれは僕も大好きなマンガなんですよ。
 さて、効果がすぐにわからないと言うことは、それが成功か失敗かがすぐにはわからないと言うことです。ですから、失敗した場合、すぐに次の手段を講じると言うことが難しいのです。
 そして、これが一番の問題点ですが、ブーメラン効果です。これは、どこかの野党が与党を攻撃するたびに食らっていましたが、まあ、似たようなことです。例えミサイルや爆弾で遠くを攻撃したとしても、風向きや、感染症の広がり具合によっては、攻撃した方にも被害が拡がる可能性があるのです。また、その病気がもし、パンデミック・・・世界的流行ですね、を引き起こした場合、戦争の勝ち負けなど関係なく、世界が壊滅的な状況になりかねない。さっき言った耐性菌や、エボラなどを強化した遺伝子操作ウイルスのばあい、特にそういう危惧があります。
 しかし、生物化学兵器は、貧者の核兵器と言われているように、低いコストで核兵器に匹敵する威力を持ちうる兵器です。ですから、経済的に厳しい国でも持つことができますね。ところが、今まで生物兵器の開発に積極的だったアメリカですが、1969年にニクソン大統領が攻撃用生物兵器の開発中止声明をだしました」
「アメリカがですか? 意外ですね」
「案外、裏があったりしてね」
葛西は素直に驚いたが、由利子は若干穿った見解を口にした。
「スルドイですね」
ギルフォードは由利子を見てにっと笑って言うと続けた。
「これは、ベトナム戦争での枯葉剤使用に対するダーティーなイメージを払拭しようとする意図もありますが、その真意は、それよりも、『貧者の核兵器』といわれる生物兵器を多くの国が持つことを良しとしなかったからです。
 充分な核兵器を持つアメリカ合衆国にとって、不完全な兵器である生物兵器を持つメリットはあまりないことに気がつきました。しかし、自国だけが中止したところで、核に匹敵するレベルの兵器を多くの国が持ってしまうと、当然アメリカの軍事力との差が縮まってしまいます。攻撃用生物兵器開発中止声明の後、アメリカが中心となって、1972年に生物兵器禁止条約がまとめられ、炭疽菌の時にも言いましたが1975年にこの条約が発効されました。しかし米ソを中心として72カ国が調印したにもかかわらず、アメリカを信用していなかったソ連は、その後も鉄のカーテンのなかで大々的な研究開発を続けてきたのです。ま、アメリカもこっそり研究していたのが、炭疽菌事件でバレちゃいましたが」
「だけど、そのソ連が崩壊して、その生物兵器のノウハウや病原体が他国に流出したということでしたね」
「そうです。そして、そこから今度はテロリストの方に流れていった可能性もあるのです」
「国家自体がテロリストレベルの国もありますよね。」
「そうです。そして、9.11のテロや、その後頻発する自爆テロからもわかるように、死ぬことを恐れない連中にとっては、自分が感染することも、ブーメラン効果も意に介さないでしょう。ですからテロに使う場合、安価で手に入る、あるいは製造できる生物兵器は、実に都合がよいのです。さらに、種類によっては土壌や身近な生き物から得ることも出来ます。安価で核兵器並みの恐怖を世界にもたらすことが出来るのです。まさにテロにうってつけだと思いませんか?
 また、すぐに効果が現れないと言うことは、実行犯が病原体を散々ばら撒いた後から悠々と逃げることが出来るということです。騒ぎは充分逃げおおせた頃に起きるので、犯人達はその成果を、安全圏でお茶でも飲みながら、テレビやネットで悠々と見ることも出来るのです」
「なんか、だんだん腹が立ってきちゃった」
由利子が言った。
「何で、そんなことが平気で考えられるの? 平気で実行できるの?」
「確信犯と言うものはそういうものですよ、ユリコ。人間は自分が正しいと思ったら、どんな残酷なことでも出来る生き物ですから。戦争なんてみんなそうでしょ」
「確かにそうだけど・・・」
「でも!」
と葛西が口を挟んだ。
「テロに関しては、何故そのようなことが起きるのか、原因を考え、その元を正していけば、ゼロにはならないでしょうけど、減らすことは出来るんじゃないでしょうか」
「まさにそうです、ジュン。どこかの国のように、軍事力に任せて叩くだけでは減らせないのは確かです。むしろ、憎しみを増長させ、テロを増やすことになりかねません」
「すでに、そうなっているような気がするな・・・」
と、由利子がつぶやいた。
「そうですね。ベルリンの壁が壊されてソ連が崩壊して冷戦が終わり、これからは平和な世界が来るかも知れないと、一瞬期待はしましたが、現実はそんなものじゃなかった。むしろ二大対立の構図が無くなった分、世界の力関係がわかりにくくなってしまった。そして、その構図はそのままイスラムとそれに敵対する宗教と言う形にシフトしました。それにロシアや中国の民族紛争などが加わって、もうごちゃごちゃです」
「そういえば、さっき葛西君がテロには起きる原因があるって言ってましたが、今回の事件にも何か原因とか思想とかがあるんでしょうか」
「もちろんあるでしょう。しかし、今は何もわかりません。それがわかれば、対処の方法がわかるかもしれませんね」
「今度のウイルスが、パンデミックを起こす可能性はあるんですか?」
と、今度は葛西が尋ねる。
「感染力自体は弱くないようですが、今のところ、空気感染はしていないようですし、眼や粘膜・傷口からウイルスが直接入らない限り、感染は難しいと思われます。ですから、爆発的に世界中に広がると言うことはないと思いますが・・・。ただ、気になるのは・・・」
「遺体を食べたゴキブリのことですね」
「そうですが・・・」
ギルフォードは、ものすごく不愉快な顔をして言った。
「スミマセン、ユリコ。それ、ストレートに言うの、止めてくださいませんか?」
「了解。アレクの弱点っての、忘れてました。で、あれが・・・」
「あの、『あれ』っていうのも、アレクと被るからやめてください。せめてムシとかGとか」
「いちいちうるさいわね。で、そのGがウイルスを広げる可能性はあるんですか」
「それが、マサユキ君のお祖母さんについていたGは、河原で大量に死んでいました。しかし、その数は把握してませんから、生き延びた個体がある可能性も否定できません」
「はっきりしないなあ」
「あの、由利子さん、それはしかたありませんよ。まだあまりにもデータが少なすぎるんですから」
と、葛西がギルフォードをフォローした。
「そういうことです。これからすべきことは、ウイルス拡散の範囲とその阻止、病原体の特定と治療方法、事態についての広報とパニックの防止です」
「病原体の特定はどうするの? 確か、日本では調べる設備が使えないって・・・」
「はい、マサユキ君とおばあさんからいただいた献体を、CDCに送るようになっているはずです。そろそろ届く頃ではないでしょうか」
「そうですか。それなりに手配はされているんですね」
「まあ、そのくらいは当然でしょう。本当は自分の国でやれるべきなのでしょうけど・・・」
「そうですねえ・・・。だけど」
と、由利子は周りの景色を見回しながら言った。
「とても、そんな疫病が身近に迫って来ているなんて思えない・・・」
「そうですね・・・。とても平和で美しい風景です」
ギルフォードが相槌を打った。葛西はそんな二人に向かって言った。
「みんなでがんばって守りましょう。僕らの街をウイルスから」
二人は頷いた。日はすっかり傾いて、潮もだいぶ満ちてきた。風がもう肌寒い。
「ああ、もう6時を過ぎてしまいましたね」
ギルフォードが時計を見ながら言った。
「お話が面白かったので、時間の過ぎるのが早かったからですね!」
「ああっ! 忘れてた! 美葉に今夜の待ち合わせとか連絡しないと!」
「オ~!いけませんね。早く電話してあげてクダサイ。今頃電話の前で首長竜になってますよ」
由利子は焦って携帯電話を取り出した。

※参考:猫とペスト
 ただし、本格的な魔女狩りは17世紀以降で、中世の黒死病蔓延とは時代が異なるようだ。

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2.侵蝕Ⅱ (5)赤い暗雲

 電話を見ると、案の定美葉から着信とメールが入っていた。
「やっば~、やっぱり電話してきてる。話に夢中で気がつかなかった」
由利子は急いで美葉に電話をした。
「もしもし、美葉? ゴメン、話に夢中になっとった。今、まだS島やけど・・・」
「ま~、いいわね~。私はたったひとり、事務所でパソコン相手よ」
「え? みんな帰っちゃったの? ひとりで大丈夫?」
「な~んてね、うそうそ。まだ半分くらい人が残ってるけん大丈夫よ。私もあと30分くらいやって帰ろうかと思ってたんだ」
「そっか。こっちは車だから、時間がはっきり言えないけど、どうする?」
「そうやね、先に行っとこうか?」
「先に行くって、ひとりでウロウロして大丈夫なん?」
その時、ギルフォードが口を挟んだ。
「ダメですよ、アブナイです。サヤさんにお願いしましょうか? 頼りになりますよ。ついでにサヤさんも一緒にごはんしましょう。早速電話してみますね」
「アレクの秘書の紗弥さんって人にお迎えを頼んでみるって」
由利子は美葉に伝えた。美葉は驚いて言った。
「ええ? いいの? 会社H駅方面だけど、大学から遠いんじゃない?」
「っていうか、もう電話しよぉよ」
「早っ!」
二人が驚いているうちに、ギルフォードはさっさと話を進めていた。
「ユリコ、ミハの特徴を教えてくれって言ってます」
「あ、はい。・・・え~っと、小柄です。150cmくらい。で、童顔でちまちましてて可愛いですね。髪は・・・えっと、肩くらいでちょっとだけ茶色に染めてます。それから、え~っと・・・」
「ユリコは人の顔を忘れないわりに、説明が下手ですねえ」
ギルフォードは紗弥に由利子の言うとおりをそのまま伝えていたが、途中でつい、思ってたことを言ってしまった。葛西がそれを聞いて吹き出した。由利子は葛西をちらりと見て言った。
「外野、うるさい。・・・あ、そうそう、小柄だけど胸がでかいです」
「ちょっとお、要らんこと言わんでもええやろ」
電話の向こうで美葉が焦って言った。ギルフォードは、思い出したように、ポンと手を叩いた。
「ああ、けっこうグラマーでしたよね。昔風に言えば、トランジスタ・グラマーってヤツですね。いや、興味深いです。友達ってのは、やっぱりお互いを補うようなタイプを選ぶんでしょうかねえ。サヤさんのもササヤカだけど、ユリコはさらにペッタンコで。あ、安心してください。僕はペッタンコの方が好きですから。いや、改めて見ると、ホントにペッタンコおうっ!・・・蹴りましたね、ユリコ」
「さっき蹴ったお返しよ、この、セクハラオヤジ! 人が気にしてるのに、よくも3回もペッタンコって言ってくれたわね!」
「電話の向こうからも、どやされました」
ギルフォードは、苦笑いをして言った。葛西があ~あという顔をして見ている。
「だいたい、あなたにペッタンコ好きって言われても嬉しくないわよ。そもそもあなたイテ! また蹴ったわね」
「余計なことは言わないでくださいね」
「あーのーねー!」
例の如くにっこり笑って言うギルフォードに、由利子が再び突っかかろうとした。足下の攻防が始まりそうになったので、葛西が心配して声をかけた。
「あのぉ、由利子さん、お友だちほったらかしでは・・・」
「きゃああ~、忘れてた」
由利子は急いで電話に戻った。

 結局、ギルフォードの提案どおり、紗弥が美葉の会社まで迎えに行くことになった。
「さて、だいぶ日が落ちてきましたね。空も赤くなってきましたよ。・・・そろそろ片付けましょうか」
そういうと、ギルフォードはテキパキと片付け始めた。由利子と葛西もそれぞれ持って来た物を片付ける。
「じゃ、僕はまた車を持ってきますから、ちょっと待っててくださいね」
ギルフォードはそういうと、走って行った。浜辺にはまた二人が残された。
「元気ねえ、アレクは。駆け足で駐車場までいったわよ」
「そうですねえ。でも・・・。あの、由利子さん」
「何?」
「・・・なんか、いつの間にかケンカ出来るほどアレクと仲が良くなってたんですね」
「な~に~、それ」
由利子は笑い出した。
「そういえばそうだわ。あんな変な外人のオッサンとテーブルの下で蹴り合いしてたなんて、なんか可笑しい」
「見ててうらやましいです」
「何言ってんの。アレクと私なんて、男同士みたいなものよ、きっと。ぺったんこだし」
「意外と根に持つんですね」
「そりゃあ、持つわよ。それより、6月ともなれば、日が長いわねえ。なかなか日が沈まない」
「まあ、夏至も近いですからね。でも、だいぶ夕焼けらしくなってきました」
「うん・・・。まだ赤みは少ないけど、綺麗よね」
「ええ。それに、雲の間から光のカーテンが降りてますね。まるで西洋の宗教画です」
「そういえば、理科の授業で習ったわね。何現象だっけ?」
「チンダル現象です」
「変な名前よね」
「発見者の名前ですよ」
「そうだったわね。他にもコロイドとかブラウン運動とか」
「懐かしいですね」
二人は、その後静かに金色に輝く海を眺めていた。心地よい波音の中、ゆったりとした時間が流れ、さっきギルフォードからバイオテロの話を聞いたばかりなのに、世界中が平和そのもののように錯覚してしまう。現実は、世界中のあちこちで今も戦争や紛争があっており、あまつさえ自分らの身の回りにもただならない危険が迫ってきているはずなのに・・・。
 浜辺に二人きりで立っていると思うと、今度は由利子の方が気恥ずかしくなってきて言った。
「昨日、天気が悪かったので心配してたんだけど、いい天気に恵まれて良かった・・・」
「てるてる坊主を作ったかいがありました」
「え? てるてる坊主?」
想像以上に緊張感のない言葉が返ってきたので、由利子は気の抜けたような声で聞き返した。
「作ったの? 葛西君が?」
「変ですか?」
「う・・・うん。ちょっと変かも。・・・あ、じゃあ、晴れたから銀の鈴をつけてあげないと」
「ああ、そんな歌詞がありましたね」
その時、車の音が聞こえてきた。ギルフォードが戻って来たらしい。二人が迎えると、ギルフォードはバンから降りて言った。
「さあ、荷物を積んで帰りましょう」
 

 帰りの道路は、通勤時間の影響もあって、けっこう混んでいた。その間、空は朱の色がだんだん濃く変化し、見事な夕焼け空になった。
「ジュン、本格的な夕焼けです。街中の夕焼けもそれなりに綺麗ですね」
ギルフォードが信号待ちの間、空を眺めながら言った。
「そうですね。夕日にビルが映えてとても綺麗だ。そういえば、あまりこういう風に空を見たことがなかったなあ・・・。でも、周囲が赤く見えたという発症者には、夕焼けでもない時にこういう風に見えるのでしょうか?」
「まあ、実際にどう見えてるかってのはわからないでしょう。今だって、君や由利子や僕が、それぞれ同じ光景を同じように見ているかは疑問でしょう。脳がどう判断しているのかなんて、誰にもわかりません。ただ、赤く見えているらしいということしか」
「どっちにしても、あまり気持ちの良いもんじゃないわね、自分だけ周囲が赤く見えるって考えたら」
由利子が、眉を寄せながら言った。
「まったくです。・・・ところで、サヤさんは無事にミハを連れて行けたでしょうか」
「特に連絡が無いから、大丈夫でしょ」
「そうですか。正直に言うと、僕はミハみたいなタイプは基本苦手なんですが、彼女に対してはそんな風に思えないんです。不思議な人ですね」
「うふふ・・・」
由利子が急に意味深に笑った。
「さすがのアレクも見た目の可愛さに、若干騙されてましたね。ああ見えて彼女、合気道やってるんですよ。だから、私なんかより随分強いんです。ホントは護衛も要らないかもしれない」
「ええ? そうなんですか、なるほど。ユミ・カホリですね」
「また、妙なことを知ってるんだから」
「で、何か訳ありなんですか?」
由利子は、一瞬躊躇した後答えた。
「あのコ、子どもの頃誘拐されかかったんです。で、お父さんが護身のために習わせたんです。でも、美葉はそれが気に入っちゃって、とうとう有段者に・・・」
由利子の説明を受けて、ギルフォードは若干こわばったような表情を浮かべて言った。
「そうですか・・・。彼女も誘拐されたことが・・・」
「彼女『も』?」
由利子は、ギルフォードの言葉の細部を聞き逃さなかった。葛西も気になったらしい。由利子の後に続いて質問した。
「知り合いの方とかに、誘拐被害者がいるんですか?」
「ええ、まあ・・・。彼はけっこう悲惨な目に遭ったみたいですが」
「そうですか。気の毒に・・・。美葉の場合は未遂・・・でしたけど、かなり怖い経験だったようです。犯人は、子どもを何人も暴行した非道いヤツでした。当時は幼い被害者たちのことを考慮して、あまり表沙汰にはなりませんでしたが。美葉ももし誘拐されていたかと思うと・・・」
「ゾッとしますね」
ギルフォードは、厳しい表情で言った。
「だけど、どんなに強くても、隙を見せるとやられてしまいます。ですから、けっして油断してはいけません。これは、テロ対策と同じです」
「そうですね」
由利子が答えると、ギルフォードが不安げな表情をして言った。
「それに、ひとつ気にかかることがあるんです」
「え?」
「長沼間さんが、ミハの張り込みから外されたそうです。住民からの苦情だそうですが、僕は、通報だったんじゃないかと思ってますけれども」
「怪しい男がうろついているってですか? まあ、あの悪役商会ヅラでは仕方がないですね。よく見たらいい男なのだけど」
「今は、あの時に居た若い男と、ルーキーの警官が張り込みにあたっているそうです」
「う~~~ん、確かにそれじゃ心配ですね、でも・・・」
由利子は自分に言い聞かすように言った。
「大丈夫ですよね。彼らだってプロなんだもん。ね、葛西君」
「え? は・はい。そりゃあ、大丈夫じゃないと困ります」
葛西は自分に振られると思っていなかったので、焦って答えた。
「ところで、何のお話ですか?」
「あ、そうか、葛西君の知らない話だったわね。そもそも葛西君は美葉に会ったことないんだし」
話が見えていない葛西に、由利子が経緯を説明した。
 夕闇が迫る頃、彼らはようやく目的地に着いた。ギルフォードは二人を居酒屋の前で降ろすと、例によって駐車場に車を止めに行った。二人はギルフォードを見送ると、古びた居酒屋に入っていった。

 

 黄昏のC川は、ジョギングや犬を散歩させる人たちと入れ変わりに、若者達が河川敷に集まり、騒ぎ始めていた。車道橋には、自動車がやや渋滞気味で、時折改造バイクが耳障りな騒音を立てながら走り去っていく。その橋台の下の「住居」で、「主」の男が仰向けに倒れていた。
 男は、全身出血しているらしく、皮膚が全体的に黒ずみ、目や鼻からは血を流していた。さらに、彼の右腕と額から右頬にかけて、酷い発疹が広がっていた。彼は全身を襲う痛みに、弱弱しい呻き声をあげていた。しかし、その赤い目は、橋脚の隙間を怯えながら見つめていた。そこには、何か生き物がいるらしく、いくつかのうごめく影とチロチロと光る目のようなものが見える。
(あいつら、おれが死ぬとを待っとぉとか・・・)
男は絶望と恐怖の中、何故こんなことになったのかを考えていた。
 先月、ホームレス仲間がC川に落ちて溺死した。男は、あの夜に聞いた水音が知り合いが川に落ちた音だったいうことを、新聞で読んで初めて知り、ゾッとした。
 その数日後の夜、男は灯油ランプの明かりの下、酒を飲みながら拾った新聞を読んでいた。それは、彼にとって至福の時間だった。新聞は、彼が世の中の情報を知る数少ない手段だった。数社の新聞を毎日隅々まで読む彼は、そのあたりで騒いでいる若者達よりよほど世界情勢に詳しかった。その彼のまったりとした時は、いきなり壊されてしまった。外からなにか黒いじゅうたんのようなものが侵入してきたのだ。それは大量の虫だった。男は驚いて飛び起きたが、右手と顔面の一部に、そいつらがぶち当たった。男は怯えながら部屋の隅でその尋常ならぬ大群を見ていた。ここは彼らに占拠されてしまうのか?
 しかし、男の心配は当たらなかった。彼らは単にそこを通路にしただけで、すぐに彼の「住居」は平和を取り戻した。男は、恐る恐る自分の寝場所に戻った。放置した酒は倒されずにいたが、中になんだかいろんなものが浮いていた。虫の正体はわかっていたのでさすがに気持ち悪くて、もったいないと思ったが酒は捨て、仕方がないので寝ることにした。
 それから。2・3日して、右手と顔面に湿疹のような発疹が出始めた。痛くもかゆくもなかったが、却ってそれが気持ち悪い。しかし、病院に行く余裕が彼にはなかった。それからまた数日して、今度は眼の奥が痛み始めた。さらに明るいものが眩しくて見れなくなり、彼は日中外に出ることが出来なくなった。そして発熱。発疹はいくつかが集まって膿を持ち傷みを伴うようになった。高熱ののせいか、体中の関節が痛んだ。寝ていても、身の置き所のない苦痛。その病状はインフルエンザによく似ていた。しかし、その後、間断のない吐き気と腹痛までが襲ってくるようになった。そして今、かれはほとんど身動きできない状態にあった。発疹が出始めてから約2週間が経っていた。
 男は胸の辺りにざわつきを感じて目を覚ました。いつの間にか意識を失っていたらしい。苦痛に耐えて、なんとか上半身を起こし、胸に居る何かを確認しようとした。彼の目に映ったのは、とある昆虫・・・。しかし、大きさは成虫だがその姿はどう見てもまだ翅のない幼虫だった。男はゾッとして、とっさにまだ自由の利く左手でそれを払った。そのまま男は力尽き身を横たえた。周囲を確認すると、弱い灯油ランプの明かりにいくつかの黒い影がチラチラしていた。男は再び意識を失いかけたが、今度は右目のあたりにざわつきを感じて目を開けた。そこで、彼は信じがたいものを文字通り目の当たりにした。右目にあの蟲がとまっており、ランプの明かりを反射したそいつのキラキラした複眼をぼんやりと確認した。
「ひ、ひいっ・・・」
男はかすれた悲鳴を上げると、再び左手でそれを払おうとした。しかし、他の蟲がその手に飛びついてきたため、男は手を振ってそれを剥がそうとした。男の注意がそれた隙に、顔面の蟲が男の眼窩に潜り込んだ。男のかすれた絶叫が辺りに響いた。しかし、それは橋を通る自動車の騒音と、河川敷で騒ぐ若者達の嬌声に紛れ、誰にも気づかれることはなかった。

 

 多美山は、珍しく早い時間から床についていた。
 彼が隔離されてから、丸3日経っていた。今まで何十年も刑事として忙しい日々を送っていた彼にとって、この隔離生活は、かなり苦痛であった。そろそろ読書にも飽き、葛西の持ってきたテレビを点けて何か見るものはないかとチャンネルを変え確認すると、民法の特番で、歴史もののドキュメントをやっていた。それで、それを見ることにし、テレビをサイドテーブルに置き、ベッドに座った。しばらくはそんな感じでテレビを見ていたのだが、なんとなくだるさを感じてテレビを消しベッドに横になった。
「多美山さん、こんばんは~」
園山看護士が定期検温にやって来たが、多美山が寝ていることに気がついて言った。
「多美山さん? 寝ていらしゃいますか?」
その声に多美山は目を覚まし、身を起こした。
「あ、すんまっせん、園山さん。寝てしまいましたな」
「ご気分はどうですか?」
「たいして変わりないと思うとですが、何となくだるいですな・・・」
「だるい・・・?」
園山は、少し緊張した表情で言った。
「とりあえず、検温しましょう」
園山は体温計を取り出しセットすると多美山に渡した。

 

 由利子と葛西は、待ち合わせ場所の居酒屋に入っていった。カウンターのところまで行くと、中に居る店の主人と目が合った。
「大将、こんばんは~」
「おっ、篠原さん、らっしゃい。久しぶりですなあ。お連れさんたち、いらしてますよ」
主人の言葉に、カウンター席に座っている美葉と紗弥が振り向いた。
「あ、由利ちゃん。思ったより早かったねえ」
美葉は立ち上がって由利子を迎えた。
「あれ? アレクは?」
「車を置きに行ったよ。二人とも、待たせてごめんなさいね。美葉、彼がK・・・」
「あ、僕、K市にある会社に勤めてます、葛西といいます」
それを聞いて、ちょっと不思議そうな顔で美葉が言った。
「多田美葉です。はじめまして。由利ちゃんとは小学校の時からのお付き合いなんですよ」
「まあ、腐れ縁ってヤツですけどね」
由利子が笑いながら言った。美葉は、二席空けて座り、紗弥との間に由利子と葛西を座らせた。
「アレクが来たら、真ん中に座らせようね」
と、美葉が笑いながら言った。葛西は座るとすぐに、小声で言った。
「すみません。警察官とか言ったら周りから敬遠されちゃうんで、普通は会社員って言ってるんです」
「それって、職業詐称じゃないの?」
「みんなそうみたいですよ。仕事内容によっては身分を明かせないこともあるし。まあ、嘘も方便って言うじゃないですか」
「そういえばそうよね」
由利子は納得した。その時、入り口の戸が開いてギルフォードが入って来た。思いがけず、大きなガイジンが入って来たので、客も店の主人も驚いた。
「スミマセン、お待たせしました」
ギルフォードはそう言いながら、まっすぐに由利子たちの座っているカウンターにやって来た。由利子はアレクを真ん中に座らせた。これで、カウンターから見ると、右から紗弥・葛西・ギルフォード・由利子・美葉と並んだ。
「あ、大将、紹介しますね。えっと、アレクサンダー・ギルフォードさん、彼はQ大で教授をされてます。
「こんにちは。はじめまして」
ギルフォードが挨拶をすると、主人は恐縮しつつ答えた。
「こちらこそ、これからご贔屓に」
「で、ひとり置いて、向こうの綺麗な女性は紗弥さんっと言って教授の秘書さんです」
紗弥は紹介されると、にっこり笑って一礼した。店の主人も釣られて笑顔になりながら「よろしく」と言った。
「そして、この頼りなさそうなのが、会社員の葛西君」
「あの~、僕だけ説明が情けないんですけど・・・」
と言いながら、立ち上がって一礼をする。
「けっこう頼りになりますよ」
とギルフォードが横からフォローした。
「そうそう! 男の値打ちはいざと言う時ですたい。がんばりんしゃい、兄さん」
主人は、葛西にそう声をかけると、ギルフォードに向かって言った。
「それにしても、先生の日本語は上手かですなあ」
「先生は止めてください。アレクって呼んでくださいね」
例によっての決まり文句に、紗弥を除く三人が笑った。
「あ、注文しなきゃ」
由利子が気がついて言った。
「とりあえず、3人とも生ビールでいいかしら?」
「あ、僕はウーロン茶か緑茶にしてください」
こう言ったのは、意外にもギルフォードだった。
「え? 飲まないの? あ、車だから?」
「いえ、実は僕、下戸なんです」
「えええ~?」
これまた紗弥を除く3人が驚いて言った。
「珍しいですね。外国の方はみんなアルコールに強いとばかり思ってましたが」
葛西が言うと、ギルフォードは笑いながら答えた。
「日本人に酒豪がいるように、白人にも下戸はいます。特に、母方の祖母がネイティヴアメリカンの血を引いているので、僕にそれが遺伝したようです。家族で下戸は僕だけですし」
「え~、本当? それ」と半信半疑のまま、由利子は注文した。「じゃ、大将、生ビール2杯とウーロン茶一杯ね」
「へえ、アレクの旦那、下戸には見えないけどねえ」
そういいながら、主人はビールを注ぎ始めた。
「アレクの旦那?」ギルフォードは、ちょっと困ったように言った。「なんか、時代劇みたいですねえ・・・」
とりあえず、飲み物が揃ったので、5人は乾杯をした。

「ところでサヤさんは車で来たんですか?」
ギルフォードは、しばらくして思い出したように訊いた。
「あ、如月君が送ってくださいましたわ」
「へえ、あのシブチンのキサラギ君が? その上ミハまで拾って運んでくれたんですか? よく承知してくれましたねえ。彼の自宅と正反対じゃないですか」
「ええ、最初は嫌がっていましたけど、あの事をバラしますよ、と言ったら、二つ返事で引き受けてくださいましたわ」
「で、あのこととは何だったんですか?」
「さあ。何だったんでしょう?」
「ハッタリですか。こういう人ですよ」
ギルフォードは肩をすくめて言った。その時、ギルフォードの電話に着信が入った。
「あ、電話です。ちょっとかけて来ますね」
ギルフォードは、電話を耳に当てつつ小走りで店の外に出て行った。しばらくして、ギルフォードが深刻な顔をして帰ってきた。
「ジュン、タミヤマさんが発熱されたそうです」
「ええ? 多美さんが!?」
「すみません、みなさん。僕は帰らねばならなくなりました。ジュンはどうしますか?」
「僕も行きます!」
葛西は居ても立ってもいられない様子で言った。
「では、私もご一緒しますわ」
と紗弥が言った。
「アレクの旦那、もうお帰りですか?」
「すみません。急に野暮用が入ってしまって。とりあえずの清算、いいですか?」
ギルフォードは、清算を済ませながら主人に言った。
「大将、お料理美味しかったです。魚介類も新鮮で良かったです。今度また、ゆっくり来ますね」
ギルフォードは清算を済ませると、心配そうな顔の由利子と訳のわかっていない顔の美葉に向かって言った。
「二人とも、良いお店を紹介してくれてありがとう。君たちはゆっくりして帰ってください。じゃ、行きますね」
ギルフォードは、そういうと急いで店を出て行った。
「美葉、ごめん。ちょっと待ってて」
と、言い残すと、由利子はギルフォードの後を追った。店を出たところで由利子はギルフォードを呼び止めた。
「待って、アレク!」
「ユリコ。追ってくると思ってましたよ」
「多美山さん・・・まさか・・・?」
「わかりません。抗ウイルス剤は試していたんで、副作用かもしれませんし。それよりユリコ、必ずミハはタクシーで送り届けてください。ユリコもそのままタクシーで帰るように。これ、タクシー代の足しにしてください」
ギルフォードは由利子に5千円ほど手渡した。
「いいえ、大丈夫です。タクシー代くらいありますよ」
「受け取ってください。僕は君らを家まで送り届けるつもりでしたから、その代わりです。いいですね、無事に家に帰るまでが遠足ですよ。じゃ」
ギルフォードは手を振ると、足早に去って行った。
「由利子さん、今日は楽しかったです。また行きましょうね。今度は紗弥さんも一緒に」
「ごきげんよう、由利子さん」
葛西と紗弥も口々に言うと、ギルフォードの後に続いた。
「うん、私も楽しかったよ。気をつけてね」
由利子は彼らの後姿に声をかけた。そしてそのまま、彼らの姿が人ごみに紛れて見えなくなるまで、名残惜しそうに見送っていた。
 

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2.侵蝕Ⅱ (6)七匹の子ヤギ

 三人が去った後、残された女二人は拍子抜けしたような心持ちで、しばらく黙って酒を飲んでいた。最初に美葉が口を開いた。
「いきなり寂しくなっちゃったねえ・・・」
「そうやね・・・」
由利子も頬杖を付きながら、冷酒を片手にぼそりと言った。
「何があったんやろ。由利ちゃん知っとぉ?」
「警察関係のことみたいだから、よくわからんけど、仕事中に怪我をした葛西君の先輩の容態がよくないごたぁよ」
詳しい内容を言うことができないので、由利子はかなり大雑把に答えた。
「ふうん。警官も大変やねえ」
美葉は納得したようだった。由利子は考えていた。長沼間とギルフォードの会話から、美葉に対する張り込みも、この事件と関係しているように思えたのだが、それから推理すると、とんでもない結論に行き着くのだ。
(まさかね・・・)
由利子は焦って否定した。しかし、やはり気になるので少し聞いてみることにした。
「ところで美葉、あれから彼氏だか元カレだかしらないけど、あいつから何か連絡はあったと?」
「ううん。あれから一向に連絡して来る気配はないよ」
「そう。いっそのことずっと連絡無ければいいのにね」
「相変わらず手厳しいなあ、由利ちゃんは」
美葉は笑いながら言ったが、すぐに真面目な表情をして訊いた。
「カレのことはともかくさ、由利ちゃん、あの紗弥さんって人、何?」
「何って?」
急に話が紗弥の方に向かったので、由利子は驚いて聞き返した。
「うん、迎えに来てくれて、最初、綺麗で感じのいい人だなって思ったんやけど、話しているうちにだんだん感じが悪くなってきて・・・」
「会話が噛み合わなかっただけじゃない? 教授秘書と一般会社のOLだもん。そういえば、私も一対一で話したことないし」
「そうかな」
「そだよ」
(ああ、だから最初ここに来た時、二人の空気が微妙だったんだ)
由利子は、思い当たって納得した。
(まあ、どっちかって言うとミーハーな美葉と浮世離れした紗弥さんでは話が合わないのも当然かもしれないな。紗弥さんのようなタイプはアレクと一緒で、美葉のように一見女々したタイプは苦手なのかもしれないし・・・)
「じゃ、由利ちゃん、今日は二人でしこたま飲もう!」
「え~っと、私、今週やたら飲んでいるような気がするけど・・・。って、あんた明日会社やん」
「あ、そうか。なんか感覚的に金曜日のごと思っとったよ。あはは、じゃ、適当に飲んで引き上げるか」
「そやね」
そう言うと、由利子は冷酒をく~っと空けると言った。
「大将、お代わりね」
「はいよっ! 今日も良い飲みっぷりやね、篠原の姐(ねえ)さん」
「だからその言い方はやめろって」
由利子は左手で額を抱えながら、右手で主人に向けて裏手チョップのしぐさで突っ込んだ。

 ギルフォードは感対センターの門に着くと、物々しい警備の中、身分証を差し出した。確認後、門が開き、ギルフォードたちの乗った車は中に通された。
「すごい警備ですわね」
「ミチヨのことがあってから、警備が厳重になりましたからね」
ギルフォードは、緊張した面持ちで言った。駐車場に車を止めると、足早に多美山のいる特別病棟に向かった。
 隔離病室に隣接するスタッフステーションの前で、ギルフォードは葛西に言った。
「ジュン、君にとって辛い現実が待っているかもしれません。その時、もし君が平常心を保つ自信がないなら、黙ってこのまま帰ったほうが良いです。どうしますか」
「それなら最初からここには来ません。大丈夫です」
葛西はきっぱりと言った。
「Good! では行きますよ」
ギルフォードはドアをノックすると、部屋に入っていった。
「ギルフォードです。遅くなりました」
「お呼び出ししてすまんね、ギルフォード先生」
高柳医師は、ギルフォードを迎えた。
「それで、タミヤマさんは?」
「今日の昼間までは、特に問題はなかったんだが、夕方から発熱をしていたらしい」
「体温は?」
「今のところ37度8部程度だが、これからおそらく上がっていくだろう。血液検査から、すでにウイルス感染の兆候が出ている」
「リバビリンは効かない可能性が高い・・・ということですね」
「うむ。ラッサに有効な抗ウイルス薬だし、感染の初期も初期だったから、ちったぁ期待はしたんだが・・・」
「敵は我々にそう簡単な解決はさせてくれそうにない、ということです。他の抗ウイルス薬を試してみるしかないですね」
「暗中模索だよ。中世の医者の気持ちがよくわかるね」
葛西は、二人の会話を聞きながら、不安を募らせた。
「あの、アレク、すみません。多美さんとお話は出来ますか?」
「ああ、ジュン。ほっぽっててすみませんね。高柳先生、どうですか?」
「そうだな」
そういうと、曇りガラスの大窓の傍に行き、壁のインターフォンを手にした。
「園山君。多美山さんはまだ起きておられるかな? そうか。そこを開けても大丈夫だな」
そういうと、ギルフォードたちを大窓の傍まで手招きした。
「君は、葛西君・・・だったね。そこに立っておいで」
高柳が壁のスゥイッチを押すと、曇りガラスが一瞬にして透明ガラスに変化した。
「通電すると、透明になる仕組みだよ」
高柳は少し得意げに言うと、受話器を葛西に手渡した。
「これで、会話をしなさい」
「あ、すみません」葛西は高柳に礼を言うとすぐに病室に呼びかけた。「多美さん、大丈夫ですか?」
多美山は、ベッドに横たわったまま葛西の方を向くと、笑顔で言った。
「おお、ジュンペイ。残念ながら、あまり気分はよくなかばってん、まあ、心配せんでんよか。こっちには優秀な先生方がおられっとやから」
「多美さん、すみません、僕・・・」
「何ば謝りよっとか、おまえは。これはおまえのせいやなか。ところで今日は楽しかったか?」
「はい」
「先生から、ちゃんとバイオテロの講義を受けたか?」
「はい・・・」
「そうか。俺の代わりにがんばってくれな。頼むぞ」
「そんな、多美さん。それじゃあ・・・」
「何ば言うとっとか。俺は必ず治って復帰するぞ。そん時はまたコンビを組もう。一緒にテロリスト共をやっつけよう。な?」
「は、はい!」
葛西が返事をすると、多美山は満足そうに笑った。
「それと、多美さん。頼まれていた御守を買って来たんですけど・・・」
「ジュンペイ、ありがとうな。ばってん、もう外から簡単に物が持ち込めんごとなったったい」
「え? どうしてですか?」
葛西の疑問にギルフォードが答えた。
「病室に雑菌を持ち込まないためですよ。患者はかなり免疫が落ちますから、二次感染のリスクを最小限に押さえるためです」
「そうですか・・・。せっかく買って来たのに・・・」
「ジュンペイ」気落ちする葛西に、多美山が声をかけた。「俺が治るまで、俺の代わりにおまえが持っといてくれ」
「それじゃ、意味がないような気がしますよ」
葛西が、少し笑って答えた。
「笑ったな、ジュンペイ。そんでよか。見えない未来を悪い仮定を以って怖がったり悲しんだりしたらいかん。苦境に立った時、何をしていいかわからなくなったら、とりあえず笑ってみろ。そこの先生のごとな」
葛西は多美山に言われてギルフォードの方を見た。ギルフォードは、忙しく他のスタッフと話し合いをしていた。
「葛西さん、多美山さんお疲れのようですから、そろそろこの辺でよろしいですか」
病室の園山看護師が言った。
「あ、はい。すみません。・・・じゃあ、多美さん、お大事に」
「おう、ジュンペイ。おまえもがんばれよ。ただし、無茶をするんやなかぞ」
「はい」
葛西が答え終わると同時に、無情にも窓が一瞬でもとの曇りガラスにもどり、多美山との回線が途切れた。葛西は、窓に両手を突いてよりかかると、ぎゅっと両目を閉じた。その葛西の肩に誰かがそっと手を置いた。意外にもそれは紗弥だった。

 由利子は、ギルフォードに言われたとおり、タクシーで美葉のマンションの前まで行くと、タクシーを待たせたまま美葉を部屋まで送り届けようと一緒に車を降りた。
「あ、ちょっと待ってね」
美葉は、そういうとマンションの前に止まっている車の方に駆けて行った。由利子が後を追うと、美葉は車の運転手と親しげに話をしている。
「美葉ったら、危なかろうもん。ってこの車には見覚えがある! この人ひょっとして・・・」
「そうよ。公安の松川さん。なんとなく話しかけるようになっちゃって・・・」
「あのね~、それじゃ意味がないやろ~、あんたら」
「えへへ・・・」
美葉は照れ笑いで誤魔化した。
「もう、さっさと部屋に帰るよっ、美葉!」
「は~い。じゃ~ね。がんばって張り込んでね」
美葉は松川に手を振ると、由利子と並んでエントランスに入り、オートロックの入り口を通るとエレベーターに乗った。
「一人のときは、これ、使ったらイカンよ」と、由利子は言いながら、ふと気がついた。「あれ、見張り、もう一人のたけむらって人が居なかったな」
「今買いだしに行ってるって」
「そっか、張り込みも大変だね」
「あの松川って人、ちょっといい男でしょ?」
「またぁ、悪い癖が始まった。いい? これはアレクが今日言ったことやけど、どんな強い人でも隙を見せればやられるって。決して油断してはいけないって・・・。美葉は複数の男に襲われたって負けないかもしれないけど、例えば目の前で銃をぶっ放されたら避けれないでしょ」
「わかったわかった」
ちょうどその時エレベーターが美葉の部屋の階に着き、ドアが開いた。二人はそそくさと降り、美葉の部屋に向かった。まだ深夜には早いせいか、住人が彼氏と並んで歩いていくのとすれ違った。
「今からどっかに行くのかな?」
「コンビニでしょ。お酒でも切れたんじゃない?」
「もお、由利ちゃん基準でしょ、それ」
美葉が笑いながら言った。
 部屋について美葉がドアを開けると、愛犬の美月が座って待っていた。彼女は美葉が帰ると喜んで尾をばたばたと振り、擦り寄った。その後に由利子にも軽い挨拶をしに来た。
「美月ちゃん、いつもお留守番お利口さんやねえ」
由利子は、しゃがんで美月の頭を撫でた。
「あ、お茶でも飲んで行く? いっそ泊まってったら?」
「いや、タクシー待たせとるけん、すぐに帰るよ。ウチにも猫がいるしね。じゃ、また。今度はみんなで一緒に遊ぼうね」
「うん。楽しみにしとぉよ」
「じゃ」
由利子は手を振るとドアを閉め、マンションの廊下を足早で歩いた。急ぎながら、何故か後ろ髪を引かれるような気がした。
(下に公安の人が見張ってるんだし、葛西君も大丈夫って言ってたし。頼りになりそうな長沼間さんも事件自体から外された訳じゃなさそうだし、大丈夫よ)
由利子は階段を駆け下りる間に気を取り直し、そのまま駆け足でタクシーまで急いだ。

 感対センターの廊下にある例の自販機コーナーで、紗弥と葛西がソファに座って紅茶とコーヒーを飲んでいた。ギルフォードが打ち合わせで忙しそうだったので、邪魔にならないように二人はスタッフセンターを出てここでギルフォードを待つことにしたのだ。
「落ち着きました?」
紗弥が尋ねた。
「ええ」葛西はテレながら言った。「アレクにはああ言ったものの、ガラスが曇って多美さんの姿が見えなくなった途端、たまらなくなってしまって。情けないですね」
「そういうところが良いんだと思いますわ。だから、みんなあなたに好意を持ってくれるのだと」
「そうでしょうか」
「ええ。でも、気をつけないと、それは自分自身を危険に追い込む要因にもなりますわ。時には非情になることも必要です」
「僕に出来るでしょうか」
「無理ですわね、きっと」
紗弥はキッパリと言った。
「はああ・・・」
葛西はため息をついて、上半身を前に倒し膝の上にうつ伏せた。紗弥の答えがモロに応えたらしい。その横で、紗弥が珍しく感情を表し困惑したような表情で葛西を見ていた。

 由利子は、ようやく家に帰り着いた。部屋に入ると、すぐに騒ぐ猫たちにご飯を与える。そして自分用の紅茶を淹れミルクティーにした。ギルフォードと出会ってから、ミルクティーを飲む回数が確実に増えたように思われた。ちゃぶ台代わりの炬燵テーブルの前に座り、ミルクティーを飲みながら、ようやくほっと一息入れた。そこに美葉から電話が入った。
「はい、美葉?」
「うん、帰り着いたかなって思ったけど、連絡が無いんで」
「さっき帰り着いたっちゃん。電話しようと思っとったところやったんよ」
「そっか。私は今お風呂から上がったとこ」
「私も今から入ろうかな~。今日はシャワーで済ませないで湯船にたっぷりお湯溜めて・・・」
「いい湯だな♪なんて歌いながら?」
「風邪ひくなよ、歯ぁ磨いたか?なんてね」
「ババンババンバンバン」
「あははは、懐かしい」
由利子は美葉と他愛ない話を15分ほど続けた後、電話を終えた。
「さてっと、この紅茶を飲んだら、お風呂に入ろうっと」
由利子の頭の中は、すでに入浴モードになっていた。

 美葉は、由利子との電話を終えると寝そべっていたソファから起き上がり、う~んと伸びをして立ち上がった。
「さぁてっと。コーヒーでも入れて、クッキーでも食べながらテレビ見ようっと」
美葉はそう独り言を言うと、コーヒーを立てようとキッチンに向かった。その時、インターフォンが鳴った。
「こんな時間に誰かな?」
時はすでに夜11時を過ぎていた。インターフォンからモニターを見る。
「ゆ、結城さん・・・」
美葉は驚いた。美葉の反応に結城は不審そうな顔をして訊いた。
「どうしたの? 何を驚いてるんだい?」
「あ・・・、いえ、今まで音沙汰なくて、急に来られたから・・・。それに、髪も少し伸びて無精ヒゲも・・・」
「やだな、僕はヒゲが濃いから油断したらすぐに無精ヒゲ生えてたじゃない。それより、早く中に入れてよ。のどが乾いてるからなにか飲ませて」
「あ、あの、それより入り口ののオートロックのドア、どうやって通ったの?」
「ああ、ちょうど帰って来たカップルが居たから、一緒にいれてもらったんだよ」
「え?・・・そう。で、ここに来るまで誰にも声をかけられなかった?」
「全然。むしろ、こっちからご苦労さんって声をかけてやったくらいだよ」
「声をかけて何ともなかった?」
「どうしてそんなこと聞くんだい?」
「あ、ああ、たいしたことじゃないの」
美葉は、なんとか誤魔化しながら、考えていた。
(それで、松川さんたちが何も言わなかったってことは、この人を探してるんじゃないってことよね。部屋に通して大丈夫だよね)
「とにかく開けてくれないかなあ。トイレにも行きたいんだ。ここで漏らしちゃうぞ~」
結城は身体を揺らしながら、おどけて言った。
「もぉ、相変わらずオヤジやね。ちょっと待ってね」
美葉はくすっと笑うと、玄関まで走って行き、ドアのチェーンを外そうとした。すると、美葉の後をついてきた美月が「ウ~!」と低く警戒のうなり声を上げた。
「こら、美月。相変わらず結城さんと相性が悪いわね。いい子にしていなさい。ハウス!」
美葉に命令されて、美月はすごすごと所定の場所に帰って行った。しかし、「美月の家」の前にいじけたように寝そべった美月だが、耳と目はじっと美葉の様子を伺っていた。
 美葉が結城を招き入れると、彼は彼女を見ながら眩しそうな笑顔で言った。
「美葉、久しぶりだね」
そして、彼はいきなり美葉を抱きしめた。
「ああ、美葉だ。美葉だ。ずっと会いたかったよ。ずっと後悔してた。妻のこと黙っててごめんな、騙すつもりじゃなかったんだ」
「結城さん・・・」
美葉は、自分を騙していたこの男に対して、ついさっきまで抱いていた恨みや怒り・悲しみが、抱きしめられたことによって氷解していくのを感じた。結城の心臓の音や息遣いを聞いて、切なくなった。美葉は、一瞬自分も結城を抱きしめようとしたが、途中でその手を止めた。それからすぐに結城を軽く押しのけ、顔を赤らめて言った。
「結城さん、なんだか臭い」
「おっと、そうだった。ずっと風呂に入ってなかったんだ、僕。ちょっとトイレのついでにシャワーも使わせてくれない?」
「いいわよ。あ、私、今日湯船に浸かったから、お風呂にも入れるわよ。あ、ちょっと待って」
そういうと、美葉は箪笥に向かい、タオルを出した。
「あ、そうだ。着替えの下着・・・。たしか随分前に置いて帰ったのがあったよね」
美葉が引き出しの中をごそごそと探すと、奥の方からビニール袋に入った男物の下着が出てきた。
「あ、あったあった。はい、どうぞ。 さすがに着替えの服はないから、今のままで我慢してね」
「ありがとう。これでさっぱり出来るよ。じゃあ、ちょっと入ってくるから」
「ええ、ごゆっくり。じゃ、私はコーヒー沸かして待っているわね」
「嬉しいね」
そう言いながら、結城はバスルームに入っていった。しばらくすると、水音がし始めた。美葉は、キッチンに向かい、コーヒーを入れるため戸棚からフィルターを出そうと手を伸ばして、ふっと考えた。しばらくお風呂に入ってないって、どういうこと? それに、さっきインターフォンで結城が言った言葉。
『むしろ、こっちからご苦労さんって声をかけてやったくらいだ』
(確かに私は誰かに声をかけられなかったかって聞いたけど、普通ならなんて答える? 私なら・・・? そう、多分『いいえ。どうして?』。でも、彼の言い方は何? まるで張り込みを知ってた様・・・)
そう思ったとたん、美葉の背に冷たいものが走った。
(私のバカ! 結城さん、張り込みのレクチャーが出来るほど、そういうのに詳しかったじゃない! 声をかけたって、まさか・・・)
(どうしよう・・・。うちの中に入れちゃった・・・)
美葉は、由利子が言ったギルフォードの言葉を思い出した。
『どんな強い人でも隙を見せればやられる。決して油断してはいけない』
美葉は、手に取ったフィルターを放り出すと、居間まで携帯電話を取りに行った。急いで由利子に電話をかける。しかし、繋がらない。
「あ・・・、由利ちゃんも入浴中なんだ・・・!」
美葉はつぶやくと、がっかりしてソファにへたり込んだ。
(そうだ、メール! とにかくメール送っとこう!)
美葉は気を取り直すと、また携帯電話に向かった。しかし、焦ってなかなか文字が打てない。
「もぉ~、何でこんなにやりにくいと、ケイタイメールって! もっと練習しとくんやった」
美葉は、テンキーでの文字うちに慣れていない自分を呪った。その時、後ろで男の声がした。
「誰に焦ってメールしてるんだい? 美葉?」
ぎょっとして美葉が振り返った。そこには、全裸でまだ身体が濡れたままの結城が立っていた。手には、なにか黒い得物のようなものを持っている。メールに四苦八苦していた美葉は、それに全く気がつかなかったのだ。美葉はとっさにメールを下書きで保存し立ち上がったが、結城の様を見るなり電話を握りしめ目を見開いたまま、一瞬身動き出来なくなってしまった。

 時間はその少し前に戻る。
 松川は、買出しに出た武邑の帰りが遅いので、やきもきして待っていた。その時、電話に着信があった。長沼間からだ。急いで電話に出る。案の定、武邑が居ないことに対して大目玉を食らった。
「武邑は、後からこっ酷く説教をしてやる。とにかく、武邑が帰って来るまで油断するなよ。いいな。結城の顔はちゃんと覚えているだろうな」
「忘れませんよ。でも、あんなインテリそうな人がテロを画策しているなんて信じられません」
「馬鹿か、貴様。 アメリカの炭疽菌事件の犯人はどうだった? いや、それ以前にO教団のテロ事件に、どれだけのインテリと言われていた連中が関わっていたと思うんだ!?」
「す、すみません。勉強不足で・・・!」
「まったく、おまえら、普通のリーマンにでもなっとれば良かったんだ。平和ボケしやがって! 税金ドロボーが!! もういい。とにかく異状があったらすぐに連絡しろ、いいな。ターゲットになにかあったら、貴様ら二人まとめてひき肉にしてやるからな!!」
長沼間は、一方的にまくし立てると電話を切ってしまった。
「はあ~。ああいうけど、何日もずっと異状なしだし、退屈だもんなあ・・・。ああ、家のベッドで寝てぇ・・・」
そういうと、松川は大あくびをした。その時、窓を叩く音がしたので、松川はぎょっとしてそっちを振り向いた。そこには、中年の男らしい姿が見えた。しかし、松川の目には少し涙が浮かんでいるため、若干視界がかすんで見えた。もちろん、先ほどの大あくびのせいだった。松川は、焦って目をこすった。
「お疲れ様。退屈そうですね」
男はそう声をかけると、にこっと笑って背を向けた。男の顔と姿を確認した松川は、驚いて車から降りようとした。中肉で背は高め、面長の顔で人好きのする知的な笑顔、写真より若干やつれ、長髪と無精ヒゲで容貌はかなり変わっているが、さんざっぱら写真で容姿を覚えさせられた、結城に間違いない。急いで車を降りながら、松川は男に声をかけた。
「そこのあなた、止まりなさい」
男はゆっくりと振り向いた。
「御用ですか?」
「警察です。少しお話を聞かせて・・・」
その時、男がにやりと笑った。そのままきびすを返してマンションに駆け込もうとする。
「ま、待て!!」
松川が結城を追おうとしたその瞬間、彼の後頭部に激痛が走った。そのまま松川の意識が途切れた。

「松川! しっかりしろ!!」
松川は自分をゆり起こす声を聞いた。買出しから帰った武邑だった。松川は急いで時計を見た。まだ2分と経っていない。松川は立ち上がろうとして、うめき声を上げ後頭部を押さえた。大量の血で掌がべっとりと赤く染まった。
「ゆうき・・・いま・・・マンション・・・」
松川はそれだけ言うと、また意識を失った。武邑は松川が完全に気を失ったのを確認すると、彼を置いてマンションのエントランスに駆け込み怒鳴った。
「結城! 今日は逃がさんぞ! 貴様の不始末の報いを受けさせてやる!!」
その時、男女の小さい悲鳴が聞こえた。声の方向を見た武邑は、信じられない光景を目撃した。オートロックのドアの前で、マスクとサングラスで顔を隠した男が気絶した女性を抱えて立っており、足元には若い男が倒れていた。男の片手には、細長い黒い皮の袋のようなものが確認できた。
「スラッパー・・・! そんなもので人を・・・貴様ァッ!」
武邑は、危険を感じとっさに男に体当たりをかませようと突進した。しかし男はあろうことか、武邑に向かって、今抱きかかえていた女性を物のように投げつけた。見た目からは考えられない力だった。武邑に女性の身体が直撃して、二人は重なったまま床に倒れた。強い衝撃を受けて、武邑は全身が痺れ動けなくなった。その武邑の目に男がゆっくりと近づくのが見えた。男の靴の裏が自分の顔面に迫って来るのを、彼は成す術もなく見つめていた。男は武邑の頭を蹴り上げた。とどめが効いて武邑は意識を失った。男は三人の身体を公共トイレの中に隠すと、悠々とエレベーターに乗った。

「悪い子だなあ、美葉は。様子が変だと思ったら、やっぱり警察と繋がってたんだね」
結城は笑いながら言った。美葉は目を見開いたまま首を横に振った。
「違うのか? まあいいや」
結城は美葉の手から電話をもぎ取り、床に投げ捨てた。電池の蓋が外れて電池が飛び出した。
「さて、預けたCD-Rを返してくれないか?」
結城は、美葉に詰め寄ると彼女の身体を抱きよせようとした。その瞬間、結城の身体が空に舞った。結城は裸のまま、みっともなく床に投げつけられた。
「ぐう・・・、美葉、きさま・・・!?」
結城は呻き声を上げながら言った。美葉のような小柄な女に投げ飛ばされるとは、夢にも思っていなかった。彼は美葉が合気道をしているなんて全く知らされていなかった。美葉は、付き合う男に嫌われたくなくて、そんなそぶりは全く見せない女だったからだ。結城が床に倒れている間に、美葉は急いで携帯電話を拾い、電池を入れなおして再び由利子に電話をかけようした。しかし、まだ風呂から上がってないらしく、繋がらない。それで、美葉は書きかけのメールを送ることにした。読んでもほとんど意味不明だが、きっと由利子なら異変に気づいてくれる。美葉はそう確信したからだ。メールを送信した直後、体勢を立て直した結城が美葉を再び襲ってきた。手に持った黒い凶器を美葉に向けて振り下ろそうとした。避けきれない!! 美葉は次に来る衝撃を覚悟した。その時、凄まじい吼え声と共に、美月が結城に牙をむいて飛び掛った。美葉は驚いて愛犬を止めようと命令した。
「ダメ! 美月! ステイ!!」
しかし、主人の危機を察した美月は、もはや美葉の言うことは聞こうとしなかった。だが、次の瞬間、ギャインという悲鳴と共に、美月が床に転がった。結城が手に持った得物で美月を思い切り殴ったのだ。床に転がった美月は、それでも美葉を守るために必死の思いで立ち上がろうとした。その美月の腹を、結城は容赦なく蹴り付けた。美月は再びギャンという悲鳴を上げると、そのまま動かなくなった。その美月を結城はさらに蹴りつけようとした。
「やめてぇ!!」
美葉は、結城に取りすがって止めた。
「お願い、もう止めて。もう逆らわないから。この子をこれ以上傷つけないで・・・!!」
その時、玄関の戸を叩く音がした。
「多田さ~ん? なんか騒々しいって近くの数部屋から苦情が来てるけど、どうしたの?」
「あ、は~い」
美葉は返事をしながら結城を見た。
「行ってこい。怪しまれるとまずい。妙な事を言うと・・・、わかってるよな?」
美葉は頷くと玄関に出て行った。
「あ、管理人さん。すみません。ちょっとお部屋の模様替えをしていたら、うっかり犬の上に物を落としちゃって・・・」
「あらそうなの? 美月ちゃん、怪我しなかった?」
「大丈夫です。びっくりしただけみたい。もう終わりましたから。明日、皆さんにはお詫びに伺いますわ」
「そうね。あなたはしっかりしてるから大丈夫よね。じゃあね。もう、夜中に模様替えなんかしちゃあだめよ」
「すみません。おやすみなさい」
美葉は、恐縮しつつドアをしめた。管理人は、少し首をかしげながら自室に戻って行った。
「管理人さんだったから、適当に誤魔化して来たわ」
美葉は結城に告げ、彼には見向きもせずに美月の方に駆け寄った。辛うじて息はしているが、背中の毛に血が滲み、口と鼻からも血を流している。これは早く医者に見せないと危ないかもしれない・・・。美葉は美月を優しく撫でながら言った。
「ごめんね、美月。私のせいで・・・。アレクの言ったとおりだったね。私がバカだったよ・・・」
美葉の目から涙があふれた。しかし、後悔しても時間は戻らない。美葉は結城に向かって言った。
「この子を動物病院に連れて行きます。急がないと・・・」
「あのCD-Rを渡すんだ」
「ここにはないわ。ある場所に預けたの」
「どこだ、それは」
「病院が先よ。このままだといずれ美月は死んでしまう!」
「ダメだ。そろそろ公安が動き出すかもしれない。さっさとここを出るぞ」
「どこにでも行けばいいじゃない! 人でなし!」
美葉は結城に目もくれず、美月を撫でながら吐き捨てるように言った。
「おまえも一緒だよ」
「え?」
驚いて振り向こうとした美葉は、首筋になにか当たるのを感じた。耳元でバチッと凄まじい音がして、そのまま気を失った。
 

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