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1.侵蝕Ⅰ (4)カサイ・レポート

 尋常でない室内の様子から、健二の異変にやっと気がついた紅美が警察を呼んだことから、健二の住むマンション付近がいきなり只ならぬ雰囲気に包まれた。今までも、夜中に学生達が乱痴気騒ぎをして警察が出動したことが何回となくあったが、昼間から、しかも本格的な捜査が入ったのは初めてのことである。近隣の住人達も、興味半分心配半分で、家から出てきて様子を探っている。
 警官達が室内をくまなく探したが健二の姿はどこにも無かった。しばらくすると鑑識が到着し、早速室内を調べはじめた。彼らはやはり、ベッドや床の赤黒い染みに着目した。状況からすると血液と考えるのが妥当であり、調べた結果も間違いなく血液の反応があった。しかし、この色はあまりにも奇妙だ。
「吐物でしょうか? なんか腐った血に似ていますね」
鑑識の1人が言った。まだ若い青年だ。
「おいおい、ここの住人は少なくとも昨日まではここに住んでいたんだ。ゾンビじゃあるまいに、生きた人間の血が腐ったりするかい」
と、彼より年上の男がたしなめた。だが、ある意味若い方の鑑識の言葉は正しかった。健二の体内は急激なウイルスの増殖により崩壊し始めていたのだ。
 紅美は、後悔と心配ですっかり沈み込んでいた。
(私があんな意地を張らないで、早く様子を見に来ていたらこんなことにはならなかったのに・・・)
しかし、後悔しても時間は戻らない。
(健ちゃん、いったいあんたの身に何があったの?)
紅美は、警官達が忙しく動き回る中、1人健二の机の前に座りぼんやり警官達を眺めていた。すると、1人の私服警官が紅美に声をかけてきた。
「あなたが通報された方ですね」
「あ・・・、は、はい」
紅美は、あせって答えた。
「失踪された方の奥さんですか?」
「いえっ、いいえっ、違います。まだ結婚はしてませんっ」
妻かと聞かれた紅美はさらに焦り、思っても無かったことを口走って驚いた。
(やだ、『まだ結婚はしてない』だなんて、私ってばこんな浮気男との結婚を考えてたんやろか?)
だが、刑事はそんな紅美の心境など知る由も無く事務的に話を進めた。
「あ、失礼いたしました。詳しいお話をお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか」
「はい」
と、紅美は素直に答えた。それにしても、健二はどこに行ってしまったのか。話を前夜に戻そう。

 夜中の県道を、一台の車が走っていた。時間は午前2時近く、道路は県道とはいえ山の中を通っており、昼間はけっこうな交通量があるのだが、この時間ともなれば交通量は激減、時たま対向車とすれ違う程度だった。注意して見ると、その車はたまにふらつくような不審な走り方をしていた。乗っているのは会社員の窪田栄太郎と部下の笹川歌恋(かれん)、窪田は40半ばの中間管理職だったが歌恋の方はまだ20代前半の若い女性だった。この日は大事なプロジェクトが成功したため市内の飲食店で盛大な打ち上げがあり、その後に行った二次会の帰りだった。そういうわけで窪田は酒気の抜けきらない状態で運転していた。もちろん、重大な交通違反である。彼は、二次会では用心してアルコールを控えてはいたが、一次会ではそれなりに飲んでいる。だが、それくらいで運転に支障をきたすことはないと自負していたし、実際、彼の運転はしっかりしていた。実はたまに運転がふらつくのは、助手席に座っている歌恋に原因があった。
「歌恋ちゃん、頼むよ、もうすぐ着くからさ、ちょっとの間我慢してくれないかなあ・・・」
窪田はしつこくちょっかいを出してくる歌恋に若干手を焼いていた。窪田が酒気帯びでありながら車で帰っているのは、途中、とある場所で酔いを醒ますつもりだったからだ。しかし、歌恋はくすくす笑いながらまた手を伸ばしてきた。
「あ・・・、もうっ、いい加減にしなさいよ」
窪田は叱り口調で言ったが、息を荒げながらでは威厳もへったくれも無い。歌恋は窪田の様子を見てきゃらきゃらと笑った。その時、窪田は男性らしき人影が道路でフラフラしていることに気がついた。窪田はとっさにブレーキを踏んだ。その甲斐あって、彼はその人影を跳ね飛ばすようなことにはならなかったが、ギリギリでぶつかってしまったらしく、軽い衝撃が伝わった。男は数歩後退りをすると、道路に倒れこんだ。
「な、何よお!?」
歌恋は急ブレーキのせいで乱れた髪をかきあげながら文句を言った。
「人を轢いたようだ」
窪田はそう言うとヘッドライトを消しすぐに車を降りて、車の前に倒れた男に近づいた。歌恋も心配になって後を追う。とりあえず窪田は男に声をかけてみた。
「君、大丈夫か?」
しかし、男は路上に仰向けになったまま激しく痙攣をしていた。空は曇り、街灯の光がようやく届く程度の明るさだったが、男の凄まじい表情に、可憐はかすれた悲鳴を上げ窪田にしがみついた。男はうなり声をあげて弓なりに痙攣し、ふっと力が抜けてまた路上に大の字になるとそのまま動かなくなった。死んだ? 馬鹿な! 車はかなり減速しており、致命的な衝突はしていないはずだ。祈るような気持ちで窪田は男の上半身を抱え上げ、心臓に耳を当てた。男の心臓は動いていなかった。
「そ、そんな・・・」
窪田は呆然として言った。たが、雲間から顔を出した月光を浴び浮き上がった男の容貌に驚いて、歌恋が悲鳴を上げた。それを聞いて反射的に男の顔を間近で見た窪田は、さらに驚愕し男を放り出して飛びのいた。男は再び道路に転がり、頭がゴッと嫌な音をたてた。男は苦悶の表情で目をむき、口から血のようなものを吐いていた。口元に黒いものがこびりついており、Tシャツの柄だと思っていたものは、吐物で赤黒く染まったものだった。しかし、それは若干乾きかけており、今の事故のせいではないのは明らかだった。よく見ると、彼の短パンの方も同じように汚れていた。顔には無数の発疹が浮き、鼻や目からも血を流していた。明らかに交通事故とはちがう異常死体である。呆然と立つ窪田に歌恋がしがみつきながら言った。
「課長、逃げましょう。今なら誰も見ていないわ、ね?」
「しかし、このままにしておくわけには・・・」
「このまま警察を呼んでもあたし達が疑われるだけだし、その上飲酒運転で捕まっちゃったら、罰金どころか課長、会社を首になっちゃうかも。第一、あたし達の・・・」
歌恋はそこで口ごもった。窪田の頭の中で一瞬の葛藤があったが、状況を考えると逃げることが妥当なように思えた。それからの窪田の行動は早かった。窪田は遺体の足を持って引きずり道路わきの草むらに隠した。遺体は生え放題になっている草に上手く隠された。それを確認すると窪田は車に飛び乗って歌恋を呼んだ。
「早く乗って!」
歌恋は反射的に車に乗り込んだ。車は一目散にその場から立ち去った。
「ふう」
しばらくして緊張の解けた窪田は、やっとため息をついた。ハンドルを持つ手はまだ震えている。窪田は自分が汗だくになっているのにようやく気がついた。額の汗が流れて目に入りそうになり、慌てて手でそれを拭いた。しかし窪田はその掌を見て驚いた。男を触った時に血が付いていたらしい。はっとして耳を触った。すると、耳たぶにも少し付着しているようだった。窪田は驚いてポケットからハンカチを出して顔と手と耳を拭いた。白いハンカチに赤黒い染みが出来た。窪田はそれを見て気持ち悪くなったが、そのままそのハンカチをポケットにしまい込んだ。
 草むらに隠された遺体、それは、変わり果てた健二であった。病気で動けなかったはずの健二は、熱に浮かされたためか、夢遊病者のように自分の部屋から抜け出していたのだ。夜中だったこともあって、彼は誰にも会うことなく、従って誰にも不審に思われることもなく、道路を歩き事故に遭ったのである。

 そういうこととは夢にも思わない紅美は、健二の行方を心配しながら、刑事に向かって一所懸命に今までの経緯を説明していた。

 

 由利子は午前中を、研究室内にある書籍や雑誌類に目を通すことで過ごした。
 今日の昼食は、由利子が始めて来たということで、紗弥と三人でギルフォードたち行きつけの喫茶店で昼食を取った。BGMにジャズが流れていて、なかなか居心地も良い。由利子はギルフォードに薦められて、そこのお勧めメニューである『Q大のそば』という焼きそばのセットを注文した。豚肉と野菜がたっぷりの焼きそばが、鉄板の皿の上でジュウジュウという景気の良い音をさせながら運ばれてきた。その上には目玉焼きと紅しょうが、そして青海苔がたっぷりとかけられており、その三色が更に彩りを添えていた。特製ソースの美味しそうな香りが鼻腔をくすぐった。一口食べると由利子は言った。
「美味しい! ほんと、美味しいです。頼んでよかった!」
「気に入ってもらえて嬉しいです」ギルフォードは、にこにこ笑って言った。「ここは夕方6時からパブタイムになりますが、夜11時くらいまで開いてますから、気に入ったら今後もご利用くださいね」
「ええ、これから寄らせていただきます」
由利子は笑って言うと、カウンターでこのやり取りを聞いていたこの店のマスターがうやうやしく礼をしながら言った。
「よろしくお願いいたします」
「あ、マスター、この人はシノハラ・ユリコさんです。今度ウチの研究室に・・・」
ギルフォードは、マスターに由利子の紹介をはじめた。

 研究室に戻ると、ギルフォードは紗弥からプリントアウトした数ページ程の書類を受け取り、自分の席に直行して真剣な顔で読みはじめた。彼は一度ざっと目を通すと、今度はもう一度ゆっくりと読み始めた。読みながら時折眉間にしわを寄せたり右手でこめかみあたりを押さえたりしていたが、だんだん顔つきが厳しいものに変化していった。それは、由利子に先週の縦読みメール事件の時を思い出させた。だが、今回はあの時のように怒りを爆発させるようなことはなかった。しかし、それはギルフォードの心の奥に刻まれ、彼にある決心をさせるに充分だった。森の内知事の思惑は成功したのである。
 ギルフォードは由利子を呼んだ。
「ユリコ、ちょっと、また応接セットまで来てくれませんか?」
「はい」
由利子が座ると、ギルフォードも例の書類を持ったまま向かいに座って言った。
「ユリコ、この前ここに来たときお話ししたテロのことは覚えてますか?」
「はい。縦読みの挑戦状、忘れるわけないです」
やはりそのことだったか、と由利子は思いながら答えた。
「それは、誰にも口外していませんね」
「はい、もちろんです」
「OK、ユリコ、いいですか? おそらく、これから僕たちはそれと深くかかわることになると思います。したがって、ユリコ、君にも手伝ってもらうことになると思いますが、良いですか?」
「もちろんです。いえ、やらせてください」
由利子ははっきりと言った。由利子は雅之とも祐一とも直接話したことはない。遠くから顔を見ただけだ。また、この事件についてはさわりを聞いただけで、全体像はある程度把握しているものの、個々についての詳しい情報を聞いているわけではない。しかし、それでも由利子は犯人がテロを「演出」しようとしているような気がして漠然とした怒りを感じていた。それで、ギルフォードの申し出に即決して答えたのだ。 
「そう言ってくれると思っていました。ありがとう、ユリコ。では、これからこのレポートに書いてあることも含めて詳しい経緯をお話します。長くなりますが、聞いてください」
由利子は無言で頷いた。ギルフォードは語った。
「まず、発端はホームレスの異常死体の司法解剖からでした。その後、似たような遺体の司法解剖が行われる際、執刀医である法医学者が前もって僕を呼び寄せ、解剖に立ち合わせました。その時僕はその遺体の真の死因に出血熱を疑いました。その遺体が、アキヤマ・マサユキに暴行死させられたホームレスのヤスダさんでした。ウイルスはヤスダさんからマサユキ君へ、そして彼のお祖母さんのタマエさんに感染し、ご存知のようにマサユキ君は私鉄の電車に飛び込み轢死しました。彼のお祖母さんも前日に亡くなっています。マサユキ君の両親は感染の恐れがあり、念のため感染症対策センターで様子を見ることになりました」
「ちょっと待ってください」
由利子が言った。
「今まで亡くなった方がその未知のウイルスに感染していたという証明は出来たのですか? だって、その正体すらわかっていないのでしょう」
「ウイルス自体が未知でも、ウイルス感染かどうかを調べる方法はあります。そして、彼らが共通して何らかのウイルスに冒されていたということまではわかっているのです」
「わかりました。続けてください」
「ウイルスはマサユキの遺体に触れた母親のミチヨに感染していました。そして、あの縦読み挑戦状メールへと話が繋がります。正体不明のテロリスト・・・ここでは単に『犯人』と呼ぶことにしましょう。犯人は感染症対策センター・・・感対センターからミチヨを連れ出し彼女が持っていた息子の携帯電話を奪いました。例のメールを発信するためです。僕は最初、彼女がセンターから単独で逃亡し、街中に潜む危険を考えていましたが、そのメール事件から、彼女の殺害の可能性も考えました。しかし、彼女は生きていました」
「殺されたんじゃなかったんですね」
「そうです。犯人の本当の目的は、携帯電話などではなく、ミチヨをばら撒き屋に仕立てることだったのです。これは、感染者が街中に潜んでいるよりまずいことです。感染者にウイルスを広める意志があるのですから。そして、愚かにも彼女はそれを承諾しました。しかし、彼女はユウイチ君を恨んでいました。ユウイチ君は、マサユキ君のホームレス狩りを止めようとして事件に巻き込まれました。幸い彼はウイルス感染を免れましたが、そのせいで母親のミチヨから恨まれることになったのです。それで、ミチヨはユウイチ君をおびき出して復讐しようと考え、彼の妹を利用して彼を公園・・・、マサユキ君がホームレスを殺害した公園に誘い出しました。それを知った彼の友人が僕に連絡をしてきたので、僕はジュンの電話番号を教え、僕たちも急いでバイクで現場に向かいました。それが月曜日、一昨日(おととい)のことです」
「一昨日? そんなことがあったんですか」
「ジュンは先輩であり相棒のタミヤマ刑事と少年課の女性警官との3人で急遽現場に向かいました。その時のことをジュンが調書にまとめたのがこの書類です。僕が現場に行った時はすでに全てが終わっていましたが現場が取り込んでいたので、何が起こっていたのか詳しいことを聞く余裕がありませんでした。しかし、これを読んでほぼ全貌がつかめました。敵さんはミチヨに息子の細胞で増殖したウイルスは息子の遺伝子を持っているといかにも息子の一部が生きているような錯覚をおこさせて、彼女にウイルス拡散を命じたのでしょう。それは子どもを亡くしたばかりの女性を惑わすには充分だったでしょう。少なくとも彼女の話からはそれを実行したことが伺えます」
「では、雅之君のお母さんが接触したらしい人たちを探し出さないとまずいのでは・・・」
「そうです。でも、彼女が死んだ今となっては、糸口が全くつかめないのです。まさか、今の段階で公開捜査をすることも出来ませんし・・・」
「え? 亡くなられたんですか」
「はい。ミチヨはユウイチ君殺害を目的として彼を公園に誘ったわけではなかったのです。彼女は彼を感染させて息子と同じ目に遭わせるため、彼に自らの血液を浴びせようとして、自害しました。しかし、それを見抜いていたタミヤマ刑事に阻止され、子どもたちは直接それを浴びずにすみました。しかし、タミヤマ刑事がその身代わりとなってしまい、今、センターに隔離され様子を見ているところです。これは、ジュンの書いたその事件のレポートです。僕が説明するより読んだほうが早いでしょう。ジュンのレポートは緻密でわかりやすいですから」
ギルフォードは由利子に葛西作成の調書のコピーを渡した。由利子は真剣にそれを読んでいたが、読み終えるとギルフォードに向かって言った。
「そんな大変なことが起きているなんて知りませんでした。何でこの事件がニュースにならなかったんですか? 少なくともローカルニュースになる程度のインパクトはあると思うんだけど」
「おそらく、用心のために報道を規制したのだと思います」
「それってまずいんじゃ・・・」
「まずいです。でも、今の段階では仕方がないのでしょう」
「葛西君、落ち込んでるんじゃないですか」
「ええ、かなり。今度会ったら元気付けてあげてください」
「会ったらですね。・・・ところでこれを読んで思ったんですが、美千代さんが言ったことから犯人についての手がかりがいくつかありますね」
「ほお。で、それは?」
「まず、犯人は1人ではなくある程度組織立った団体ということです。そして、美千代さんが『あの方』と呼んでいた人、その人は多分、その団体の中でも主犯あるいは主犯に近い人物ですよね。そして、その人はナントカ『イ』様と呼ばれています。なんか他所の国の人の名前みたいにも思えますが、彼らが何処かの国に属するものなのか、宗教団体か、極右あるいは極左団体なのかわかりませんが、一般女性が関わりやすいものと考えると、私は宗教団体ではないかと思います。美千代さんは多分、その団体と元々関わりがあったんです。だから犯人達も彼女を利用しやすかった。それに、いくら子どもを失ってまともな精神状態ではなかったとはいえ、初めて出会った人の言葉をいとも簡単に信じるのは不自然です。また、先の方で、美千代さんは『あそこに行かなければ』と言ってます。多分、『あそこ』というのはその宗教団体を指すのではないですか」
「良い推理です、ユリコ。宗教団体がテロを行うことは珍しくありません。その多くは爆弾テロですけど、カルト宗教団体がバイオテロを行った事例は、十数年前のO教団や、この前例にあげたラジニーシ教団の例があります」
「え? O教団はサリンテロだけじゃなくてバイオテロもやってたんですか?」
「はい。ボツリヌス毒素や炭疽菌でテロを起こそうとしました。しかし、バイオテロの方は不成功に終わったので、日本ではあまり取り上げられていませんが、アメリカではこの事実を重く受け取って、バイオテロ対策を強化しました。まあ、その頃の大統領が、テロ対策を重視していたクリントンだったってこともありますけど」
「そうだったんですか」
「はい。そう考えて、僕も該当しそうな新興宗教団体を探してみました。しかし、どれもこれといった決め手がありません。そもそも、バイオテロを行う動機が見つからないんです」
「動機ですか・・・」
「そうです。宗教団体が殺人ウイルスをばら撒いて何の得があるのか、僕にはさっぱりわかりません」
「あの、病原体を培養するためには、それなりの施設が要るんじゃないですか? それを探せば・・・」
「その点が宗教がらみだと難しいのです。宗教施設の場合は、よほど犯罪の証拠が無い限り、手をだすことが難しいんです。O教団の時もそれが捜査に当たって重大な障害になったといいます。彼らがかなり大掛かりなプラントを持っていたにも関わらず、です」
「はあ、困ったものですねえ」
「ホントに。宗教は厄介です」
ギルフォードは、肩をすくめて言うと続けた。
「他にも解決しなければいけない謎があります。先ず、指針症例であるホームレスがどのようにしてウイルスに感染させられたかという、根本的な問題があります。ウイルスはいつどこでどのようにして仕掛けられたのか。そして、それは何箇所に仕掛けられたのか。そして、犯人達の目的と要求。これを知ることが出来ないと、このテロ事件の輪郭がはっきりしません」
「そうですね。ところで・・・」
由利子は、前から気になっていたことを聞いてみることにした。葛西が雅之の祖母のことで言葉を濁し、言いたがらなかったあの件である。
「葛西君が言いかかったことなのですが、雅之君のお祖母さんのことで何か恐ろしいことがあったとか。葛西君ってば、言いかけたくせに、悪夢だからって教えてくれなかったんです」
「ああ、マサユキ君のお祖母さんの・・・。えっと、それは・・・僕の口からは説明し難いな・・・」
ギルフォードは口ごもった。
「ええ? アレクまで? どして?」
由利子は少し驚いて言った。ギルフォードは少し黙っていたが、重い口を開いた。
「それは、秋山雅之の祖母である秋山珠江の遺体の状態のことです。彼女の遺体は、夥しい蟲・・・たちに食い荒らされていたのです。そして、その約一週間後、その蟲らしきものが大量死しているのが見つかりました」
「遺体を食べた虫たちが全部死んじゃったってことですか?」
「それはわかりません」
「でも、一体どうして・・・」
「遺体がある種の昆虫を引き寄せるにおいを出していたらしいのです」
「ある種の昆虫って?」
「そ、それは、えっとですね」
「ゴキブリですわ」
横から紗弥が間髪いれずに言った。
「ゴキブリ!! これまたよりによって嫌な虫が・・・」
由利子は流石にゾッとして言った。
「そうでしょう。僕にとっては死ぬより辛いですよ。遺体をあんなモノに食われるなんて、死んでも死にきれません」
と、ギルフォードは得も言われぬ表情をしていった。
「ひょっとして・・・」由利子はギルフォードに言った。「ゴキブリ、苦手なんですか?」
由利子の質問に固まったギルフォードの代わりに紗弥が答えた。
「そのようですわ。しかも、名前を口にすることすら出来ないくらいに」
「やだ、カワイイ~!」
「でしょ?」
由利子と紗弥は二人してギルフォードの顔を見ると、ケラケラと笑った。
「だって、本当に大っキライなんだもん。そんな笑わなくてもい~じゃん」
ギルフォードはまたいじけモードで口をとがらせながら言った。

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