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1.侵蝕Ⅰ (2)新たなる旅立ち

「え? 県警本部に? どういうことですか?」
葛西は署長の前で緊張して立っていたが、署長の言葉がよく理解出来ずに聞き返した。
「まだ本決まりではないがね」
村上K警察署長は葛西に言った。
「今回の感染症発生に関して、対策本部を県警に設置することになったんだ。秋山美千代の事件を重く受けてのことらしい」
村上は慎重にテロという言葉を避けながら言った。
「それで、この事件に早くから関わっているうちの署員を迎えたいという、向こうからの打診があった。しかし多美山巡査部長はあのような状態だ。そこで、君に白羽の矢が立ったというわけだ」
「そ、そんな・・・。僕にはそんなところでやっていける自信はありません!」
「いや、君は適任だと思うよ。確か君は、大学では微生物専攻だったな」
「はい、最初、獣医を目指していたんですが、どうも合わない事がわかって・・・」
「そういうこともあって、私は君を推薦することにした。おそらく近いうちに辞令が出るだろう。普通は事前に報せるようなことはしないんだが、今回は特殊な事件だからな。心の準備をしておいて欲しい。おそらく例を見ない事件の最前線に立つことになるだろう、危険な任務だからな」
「は、はい!」
葛西は若干引きつった顔をして返事をした。
「よろしい。では、仕事にもどりなさい」
村上から退室の許可を得て、葛西は敬礼をすると、「失礼します」と言って署長室から出て行った。若干足元がふらついていた。
「大丈夫なんだろうな、あいつ・・・」
村上は一抹の不安を感じながら言った。葛西は、署長室を出て1課に向かう廊下を歩きながら、一抹どころか不安で一杯になっていた。しかし、くよくよしても仕方がない。それに、その方が、この事件の核心に迫ることが出来、多美山や祐一をあんな目にあわせた犯人達を追い詰めることができるじゃないか。葛西はそう思いなおし不安を振り切ろうとしたが、あることを思い出してつぶやいた。
「ひょっとして、あの防護服が日常になるんじゃ・・・」
葛西はこれからの季節を想像してげっそりとしてしまった。

 ギルフォードは、午後の講義が終わった後、研究室で県知事を待っていた。約束の時間が近づくにつれ、ギルフォードはさらに落ち着かなくなった。
「教授、何をそわそわしてらっしゃるんですの?」
と、紗弥が不思議そうに尋ねた。
「あの人の周りはなにかと騒がしいんですよ。ああ、僕が知事を尋ねて行った方がよっぽど気が楽です」
ギルフォードは頭を抱える振りをしながら言った。
「そういえば、一時期程ではないけれど、よく報道陣にたかられてますものね」
「せっかく静かな環境にいるのに、ヘンな連中が押し寄せてきたら大迷惑ですよ。それに、僕だって目立ちたくないんです」
(それは無理ですわね)
と、紗弥は心の中で密かに突っ込んだ。
 ギルフォードたちが、そのような会話をしていると、研究室の戸口で声がした。
「こんにちは~。ちょっとおじゃましますよ」
見ると、そこにはヘンなおっさんが立っていた。彼は、プリズムのイラストが描かれた色落ちした黒いTシャツにベルボトムのGパンとロンドンブーツ、そして丸いサングラスをかけて黄色と緑のチューリップ帽子をかぶっていて、ちょうど70年代の学生のような格好をしていた。しかし、中肉中背で中年太りこそしていないが、どうみても中年の男性である。
「やれやれ、学生時代の服を引っ張り出して着てみたんだけど、やっぱりずいぶんと浮いちゃったみたいだねえ」
怪しげな男は、そういいながら研究室にすたすたと入ってきた。ギルフォードは彼の顔を見て頭を抱えながら言った。
「えっと、ひょっとして・・・?」
「やあ、こんにちは、ギルフォード先生。お騒がせしたらいかんので、ひとりでこっそりタクシーで来ました。流石に誰も僕とはわからなかったみたいですよ、あっはっは」
「それじゃあ、わからないですよ。しかしまあなんて格好で・・・。相変らずですねえ」
ギルフォードはそういうと、笑いながら知事に右手を差し出した。
「知事、お久しぶりです。相変わらずお元気そうで」
「元気なだけが取り得ですからね」
森の内知事はギルフォードの手を取ると、両手でがっちり掴んで答えた。
 森の内を応接セットに座らせると、ギルフォードは自分も前の席に座った。森の内はソファに座って落ちつくと、帽子を脱ぎトンボ眼鏡を外して普通のシルバーフレームの眼鏡にかけかえた。森の内は怪しい中年男から、ロマンスグレーの紳士に変身した。
「で、知事自ら出てこられるなんて、いったい何があったんですか? 言ってくだされば僕の方から行きましたのに」
「こちらからお願い事をするんですから、そうはいきませんよ」
森の内がそう言ったところで紗弥がお茶を運んできた。森の内は「ありがとう」と言いながら座ったまま会釈をし、さらに言った。
「紗弥さん、相変わらず綺麗ですね」
「ありがとうございます。知事も相変わらずお上手ですわね」
紗弥はにっこりと笑って受け流し、部屋を出て行った。その後姿がドアの外に消えると、森の内がにやりと笑って言った。
「ところでアレックス、君、実は『元米軍の恐ろしい細菌学者』だそうですね」
「はあ~?」
ギルフォードは、驚くというよりあきれて言った。
「ははは、やっぱり思った通りの反応だ! 僕も『ハア?』ってなったんですよ。でも、本人が一番『ハア??』となりますワね」
「いったいどこからそんなことを聞いてきたんです?」
「例の秋山美千代が、西原祐一に電話をかけたときに言ったそうですよ」
「確かに、かつて僕はアメリカの大学で、ユーサムリッド(USAMRIID:アメリカ陸軍伝染病医学研究所)と関わったことはあります。しかし、僕は基本的に軍隊とは相容れません。それにしても、『米軍の細菌学者』だなんて、アナクロすぎませんか」
「うん。だけどね、そういう知識のない人に吹き込むにはわかりやすいネタでしょう?」
「ということは・・・、やはりアキヤマ・ミチヨに犯人が接触したと?」
「おそらくそうです。そして、美千代に嘘八百を吹き込んで、『ばら撒き屋』に仕立て上げた可能性があるとですよ」
「なんですって!?」
ギルフォードは椅子から立ち上がって、森の内の方に前のめりになりながら食いつかんばかりに言った。
「それはホントですか?」
「アレックス、照れるからあまり顔を近づけないで欲しいなあ」
森の内はにっと笑って言った。ギルフォードは、肩をすくめると椅子に座りなおして言った。
「もう、そんな情報を得てるんですか」
「うん、現場にいた刑事が、今日西原祐一君から事情聴取したことと、自分らの見聞きしたことをまとめた報告書をね、緊急にメールしてもらったとですよ」
「現場にいた刑事・・・、ジュン、いや、カサイ刑事のことですね」
「あ、知り合いだったの? そういえば、君も現場に急行したんでしたね」
「ハイ。でも、私が着いた時はすでにミチヨは意識不明になってましたし、当事者たちに状況を聞けるような状態でもなかったので・・・」
「ちょうど良かった。ここにプリントしたものを持ってきたから、読んでみて。漢字は大丈夫です?」
「ハイ、ある程度は読めます。マンガで鍛えましたから」
ギルフォードは笑いながら言うと、レポートを受け取って読み始めた。ギルフォードの顔から笑顔が消えた。ざっと目を通したあと、森の内の方を見て顔をしかめながら言った。
「何ですか、これは?」
「どうです、気持ちの悪かでしょう。僕は、対テロ特設チームを作ることを考えていましたが、今回の事件で刑事が感染の危機に陥るという事態を招いたことで、その時期を早めることにしました。その相談をしたくてここに来たんですよ。そのために、その事件のレポートを急いで入手したんですが、実際読んでみて、かなり驚きました。これは急がないと拙いと思いました」
「確かにマズイですね。まずは、ミチヨと接触した人間を探し出して、隔離しなければ」
と、ギルフォードが言うと、ここぞとばかりに森の内は言った。
「それで、これが本題です。アレックス、君に特設チームの顧問をお願いしたい、そのためにここに来たんです」
「僕に?」
ギルフォードは少し間を置いてから答えた。
「光栄ですが、お断りいたします。わざわざ外国人の僕に顧問をさせなくても、適した方が外に沢山いらっしゃるでしょう?」
「いや、この事件に比較的初期から関わっている人と言うことを考慮すれば、君しか適任者はいないと僕は思います。引き受けてくれんですか? お願いします!」
「ごめんなさい」
ギルフォードは立ち上がって頭を下げた。
「そんな・・・、なんかの番組でおつきあいをお断りしてるんじゃないんだから・・・」
森の内は苦笑いをしながら言った。ギルフォードは座りなおすと続けた。
「それに、大学にだって迷惑がかかりますし」
「あ、大学? それなら、先に学長に打診したところ、どうぞ持っていってくださいとおっしゃってましたよ」
「持っていけ、ですか・・・?」
ギルフォードは、やや引きつった笑いを浮かべながら言ったものの、心の中で悪態をついた。
(”あンのぉ~、狸オヤジ、人をモノみたいに! いったい何考えてんだよ、ったく・・・”)
そしてギルフォードはゲンナリとしながら言った。
「わかりました・・・。1日程考えさせてください」
「期待していますよ。葛西刑事からの続きの報告は、届き次第メールで転送しますから、それも読んだ上で決めて下さい」
森の内はそこまで言うと、チラと時計を見て少し焦ったような表情をした。
「では、私はスケジュールが押してますのでそろそろ帰ります」
森の内はいきなり立ち上がりながら言った。ギルフォードはそれを聞いて若干口の端を上げ気味に言った。
「そうですか、残念ですねえ、ホントニ」
「そこはかとなく嬉しそうだけど・・・ま、いっか。じゃ、お邪魔しました。良いご返事をお待ちしておりますから」
森の内は帽子を被ってから戸口の方に向かおうと横を向いて、いつの間にかそばに紗弥が立っているのに気がつき非常に驚いて「うわぁっ!」と悲鳴を上げた。紗弥はにっこり笑って言った。
「まあ、もうお帰りですの?」
「用件が済んだのでお帰りだそうですよ」
ギルフォードは既に自分の席について仕事を始めながら言った。
「戸口までお見送りしてあげて下さい」
「かしこまりました」
紗弥が答えると、森の内は「いいです、いいです、じゃっ!」と言いながら、脱兎の如く走って研究室を出て行った。出様に、研究室に来た如月とぶつかりそうになった。
「あ、失敬!」
森の内は如月に向かって軽く謝ると、そのまま走って廊下を曲がっていった。如月は首をかしげながら研究室に入ってきた。
「何でっか、ありゃあ。 そう言や、どっかで見た顔のような気もするんやけど・・・」
如月はブツブツ言いながら席につくと、パソコンの電源を入れ、カバンから資料を出し始めた。
 紗弥は紅茶を飲みながら、窓の外を見ていた。しばらくすると、走って建物から出てくる、森の内の悪目立ちする姿が見えた。時計を見ながら紗弥が言った。
「想定外の早さで出て来られましたわ。本当に急いでいらっしゃるのね」
さらに観察していると、棟を出てそ知らぬ顔で学生達に混じろうとしたところ、学生のひとりに知事ということがばれたらしい。彼はわらわらと学生達に囲まれ、握手と写真攻めに遭いはじめた。そこに通りかかった男たちが森の内を見つけて、学生達を追い散らしながら近づいていった。
「まあ、知事ってば、こんどはとうとうお付きの人に見つかったみたいですわね。あらら、ついでにマスコミの人にも見つかってもみくちゃにされてますわ」
ギルフォードは左手にカップを持ち、右手のマウスでPC画面をスクロールしながら涼しい顔をして言った。
「いいですよ、僕に累が及びさえしなけりゃ」
「それにしても、教授、彼、ずいぶん馴れ馴れしいですがどういった経緯でお知り合いに?」
「別にお尻をあわせた訳では・・・」
ギルフォードはそこでパソコン画面から顔をそらし紗弥の方をそっと見た。その時紗弥の眉間にかすかにしわが寄っているのをみて、ちょっとの間舌を出した後某CMの兄風に言った。
「スミマセン、ふざけてマシタ」
「洒落になりませんわよ、そのオヤジギャグ」
「彼とは・・・。キョウ・・・松樹警視が僕を彼に紹介してくれたんです。そう、馴れ馴れしいんですよ。キョウのマネをしてすぐに僕をアレックスと呼び始めるし」
「まあ」
「でもね、政治家としては未知数ですが、期待できる人です。形式に囚われずに考えられる人です。でも、その分敵も多いです。だから、僕も出来るだけサポートはしたいんですが・・・」
「では、お願いを聞いて差し上げればいいのに・・・?」
「僕が関わらないほうがいいことだってあるんですよ」
ギルフォードは、パソコンに向かったまま言った。なんとなく寂しそうな後姿だった。

 由利子は、花束をもらってみんなに見送られながら退社した。綺麗な深紅のバラの花束だった。気が抜けたようにとぼとぼと歩いていると、悲しさと惨めさと不安が襲ってきて目の前の景色がぼやけた。由利子は道端で涙ぐんだ照れくささから、立ち止まって花束を見た。赤いバラもぼやけてカスミソウの白と混じり、不思議な模様に見えた。古賀課長は気分が悪いのが納まらず、早退した。帰り際に古賀は由利子に言った。
「最後なのに見送ってやれんですまんね。がんばれよ。これは、終わりやなか、新しか門出なんやからな!」
由利子は、課長の言葉を思い出していた。
(新しい門出かあ・・・。これは新しい道に続いているんかなあ・・・)
由利子は不安になりながらも、古賀の言葉に力づけられたような気がした。
(いえ、その通りよ。第一マイナス思考なんて私のガラじゃないよね)
由利子はそう思いなおすと、軽快に歩き始めた。

 ギルフォードは夕方、多美山の病室を尋ねた。多美山はテレビをつけたまま、本を読んでいたが、ギルフォードの姿を見ると、椅子から立ち上がって彼を迎えた。
「ギルフォード先生、こんにちは。昨日はどうも」
「こんにちは、タミヤマさん。こんなカッコしてるのに、よく僕ってすぐにわかりましたね」
「そりゃあもう、その背丈と長い足でわかりますよ」
多美山は葛西と会話した時のことを思い出しながら言った。
「これは?」
ギルフォードはテレビの方を見て言うと多美山は嬉しそうに答えた。
「ジュンペイが持ってきてくれたとです。なんか音がなくて寂しかもんで、つい点けっぱなしにしとおとですよ」
「小さいし軽そうですね」
「風呂ん中でも見られるそうですよ。ばってん、裸でおる時に画面上とはいえ人の顔があるってのも恥ずかしかですから、遠慮しときますけどね」
多美山は笑って言った。そんな多美山を見ながら、ギルフォードはふと、彼の体の中で凶悪なウイルスが増殖しているのは悪い冗談じゃないかと錯覚した。今朝の血液検査の数値も、怪我のせいで白血球数が増えている以外は特に異常はない様に思われた。このまま発症せずにいてくれたら・・・。だが、ギルフォードは今までもそんな気持ちを何度も裏切られてきたのだった。
「お元気そうで、良かったです」
ギルフォードは率直に言った。多美山は、笑いながら答えた。
「ええ、このまま一週間後には何もなかったように退院できるごと気になってきとります」
しかし、多美山は急に真面目な顔をして言った。
「先生、ばってんお願いがあっとです。もし、私が発病した場合、どうか遠慮なく私の身体で試して、有効な治療法ば見つけてくれんですか。そのために私が命を落としたってかまわんですから」
「タミヤマさん、もちろんそうなった場合、僕たちは出来うる限りの治療を行います。だけど、それはあなたを救うためです。今までの経験から有効そうな薬を使って経過を見るのです。けっして突拍子のない薬を使って無茶な人体実験をするようなことはありません」
ギルフォードも真剣な顔で答えた。
「お願いします」
と、多美山は頭を下げた。ギルフォードは一瞬辛そうな顔をしたが、すぐにいつもの笑顔にもどった。頭を下げていた多美山は、もちろんギルフォードのその表情には気がつかなかったが、頭を下げていなくても、マスクとゴーグルで微妙な表情には気がつかなかったかもしれない。ふいに、多美山が思い出したように手を打ちながら言った。
「あ、そうだ、もうひとつお願いがあっとですが・・・」
「何ですか?」
「こういうことを、先生にお願いしていいかどうかわからんとですが、今私がお願いできるんは先生しか思いつかんとですよ」
「かなえられるかどうかはわかりませんが、遠慮なくおっしゃってください」
「そう言って下さると嬉かですが・・・」
多美山はそれでも少し躊躇しながら言った。
「先生がもし、木曜に休みが取れるとでしたら、ジュンペイをドライブかなんかに誘ってくれんでしょうか」
「はあ、カサイさんをですか? それはまたどうして?」
ギルフォードは、不審そうな顔をして尋ねた。
「あいつは、大学からずっと東京におって、警官になってからこっちに帰ってきたようなもんなんですが、あれがクソ真面目で、ろくに有給も取らんでですね。それでなくてもこの仕事はなんかあればすぐに駆り出されて土日もあったもんじゃない事が多かとですよ。まあ、それで、念願の刑事にはなれたんですが、なんか余裕ってもんがないとですよ。そのジュンペイが久々に代休を取ったとかいうのに、私の世話に来るとかいいましてね・・・」
「いい子じゃないですか。多分そのために代休を取られたんでしょう、きっと」
「いや、いい若いもんがこんな年寄りの世話にたまの休日をつかっちゃイカンですよ。で、どうやらあいつ、先生のところにアルバイトが決まったという篠原由利子さんに好意を持っとうごたるとです」
ギルフォードはそれを聞いて少し驚いた。
「へえ、ジ・・・いえ、カサイさんがユリコのことをですか?」
「ええ、それで、一緒に篠原さんも誘ってドライブにでも行って下さればいいと思ったんですが・・・」
「う~~~ん」
ギルフォードは考えを巡らせた。木曜は特に講義のない曜日だし、多美山の容態が変わるとか、新たな感染者が運び込まれるとかなければ可能だろうと、彼は判断した。
「わかりました。誘ってみましょう。ただし、これからこの感染症の広がり次第では実行できないかもしれませんよ」
「ありがとうございます、先生」
多美山は再び頭を下げて言った。

 由利子は家に帰ると、もらったバラの花束を玄関に飾った。にゃにゃ子がトンと棚の上に乗って嬉しそうに花瓶に近づくと、ぱくりとバラの葉っぱに噛み付いた。
「こら!」
由利子はにゃにゃ子を持ち上げ、ぽんと軽く頭をはたいて言った。
「ばかもの! 君にはちゃんと猫の草を置いてあるだろう?」
由利子はそのまま彼女を抱えて玄関から離れ、そのまま部屋に入り、しばらくぼおっとしていたが、立ち上がると夕食の用意を始めた。新しい旅立ちを祝うため、少し豪華な料理をメインディッシュとしてデパートで買ってきて、ちょっぴり上等なワインも買った。あとは、サラダとスープを作るだけだ。しかし、その少し豪華な食事を取りながら、由利子はとても空しくなった。ワインを半分開けると、由利子はベッドにゴロンと大の字になりながら言った。
「いやだ、私ってば昨日もしこたま飲んだばっかりやん」
おなか一杯になった上にワインが効いたらしく、由利子はそのままうとうとしてしまった。しばらくして、ブーンブーンというでっかい虫の羽音のような音で目を覚ました。寝ぼけた頭で時計を見ると、夜10時を過ぎている。羽音の正体は携帯電話のバイブ音であった。発信先を見ると、美葉からだった。由利子は急いで電話に出た。
「こんばんは~。確かお仕事今日までだって聞いてたから、どうしてるかなって思って電話したっちゃん」
美葉は由利子が落ち込んでいるのではないかと心配して電話してきたらしい。由利子は会社での様子と、帰ってから1人で門出を祝ったことを伝えた。美葉は笑いながら言った。
「いやだ、由利ちゃんってば。言ってくれたら私が行って何か作ってあげたのに」
「だめだよ、あんた、寄り道するなって言われとぉやろ、いくら私の家でもだめだよ。第一帰りが心配やろうもん」
「そうだったね~。ああ、つまんないなあ」
「あれからどうなの?」
「うん、見張りの人が変わったみたいなの。なんか若くて頼りなさそうな人」
「で、例の困ったちゃんの彼氏は?」
「CD送ってきたやろ、あれから音沙汰なしよ」
「そっか~。それはそれで気味悪いね。いい? 変わったことがあったら、すぐに110番するとよ」
「うん、わかっとぉ」
「ほんとに大丈夫かなあ・・・」
由利子はそういいつつ、ふと窓を見た。しまった、カーテンを閉め忘れている。そう思って電話をしながらカーテンを閉めようと窓に近づき、ふと外を見てぎょっとした。窓から見える電信柱の影にこちらの様子を伺う人影のようなものを確認したからだ。しかし、部屋は4階なのでそいつの様子がよくわからない。それで、目を凝らしてそいつをよく見た由利子はつい声を上げた。
「いやだぁ~もう~」
「由利ちゃん、どうしたの?」
「ヘンなヤツが外にいるって思ったら、立ちションしてるオッサンやった~。げげ、やなもの見ちゃったよお~」
由利子はそう嘆きながら、カーテンをシャッと閉めた。
「やだ、ホント?」
「うん、幸い暗かったんで、よくわからなかったけど」
「時々いるっちゃんね、夜、道端で、女性が通るとわざと立ちションして見せるやつ。こっちもシカトして通るけど、本心は撃ち殺してやりたいと思うもん」
「そうそう、射殺許可が欲しいよね」
由利子たちは何も知らず物騒な会話をしていたが、件の男は由利子の部屋のカーテンが閉まり、彼女の影が窓際から去ると、立ちションをするポーズを止め、もう一度部屋を確認した。男は微かにニヤリと笑って、立ち去っていった。 

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1.侵蝕Ⅰ (3)広がる染み

20XX年6月12日(水)

 川崎三郎は、朝食を食べながら浮かない顔をしていた。

 定年退職してから半年が経とうとしていたが、未だに庭いじりくらいしか趣味が持てないでいた。専業主婦の妻は、子どもが育ち上がって独立したあと、すなわち夫の在職中から旅行だの絵手紙だのフラダンスだのと充実した老後を満喫しているが、仕事一辺倒だった三郎は、唯一の趣味であったDIYと彼の職種であった造園の知識を生かして、せっせと庭の手入れにいそしむくらいしか時間の潰しようがなかった。その甲斐あって、川崎家の庭はそこらの庭園より立派になっていった。妻から「いずれ兼六園を越えるかもしれんねえ」と、しょっちゅうからかわれるくらいだった。最近では、近所の庭の手入れも頼まれるようになり、彼のセカンドライフも充実し始めていた。

 三郎が浮かない顔をしているのは、今日、朝からの雨模様のせいで唯一の趣味である庭の手入れが出来そうにないからではなかった。実は、八日(ようか)前に虫にかまれたらしいところの炎症がひどくなっているのに気がついたからだった。八日前、そう、珠江の家で彼女の遺体にたかった大量の「虫」たちが三郎たちの足下を抜けた際に咬まれたあの傷である。
 三郎は、あの時長い作業ズボンをはいていたが、暑いので靴下を履いていなかった。その右足首前方に逃げる虫が一匹正面衝突し、行きがけの駄賃で食いついていったらしい。
 家に帰ってから、気になって咬まれたあたりを確認すると、ちょっと赤くなっているだけで特に咬み口もよくわからない状態だった。しかし1日経った頃、ちょうど蟻に刺された時のように腫れ上がったので、虫さされの薬を塗ってその場をしのいだ。薬が効いたのか、腫れは収まったのでそのまま気しないようにして放置していたのだが、昨日、また腫れているのに気がついた。それどころか、周りに小さいブツブツがいくつか出来はじめていた。三郎は医者に行くべきかと考えたが、当時のことを思い出して躊躇していた。あの時・・・。

 三郎たちが通報した後、すぐに警官二人がやってきた。彼らは三郎たち5人から簡単に事情を聞くと、さっさと家の中に入っていった。三郎たちが戸口で様子を見ていると、「なんだ、これは!?」「うわっ」という声がした後、彼らはすぐに血相を変えて戻って来て、「何があったとですか、ありゃあ」と三郎たちに改めて質問をした。三郎たちは口々に状況を説明した。
「じゃあ、この家の住人は、つい最近までまったく異常なく元気だったんですね」
「てことは、大量のゴキブリに食われて仏さんがああなったっていうとですか? そんな馬鹿な」
警官の言葉に典子は見たものを思い出し、耳をふさいで身を震わせた。女性たちは典子を気遣って警官と三郎が話しているところから彼女を遠ざけた。三郎は警官たちに詰め寄って言った。
「珠江さんの死因は何かわからんですが、遺体があの虫で覆われとってその後いっせいに逃げ出したとは、あたしら全員が見とります! 今思い出したって身の毛もよだとうごとある光景やったとですよ!」
三郎の剣幕に、警官達は顔を見合わせた。信じられない話だが、確かにあの遺体の様子はそう考えたほうが辻褄が合いそうな気がした。
「これは、保健所にも報せたほうがよかな」
そういうと警官は無線で署の方に連絡をとり始めた。
 三郎たちは、名前と電話番号を聞かれた後まもなく解放され、各々が家に戻って行った。しかし、皆一様に暗く辛そうな表情をしていた。
 それから数時間後、三郎がなんとか空元気を取り戻し、妻とお茶を飲みながらテレビを見ていると、警察がやってきた。亡くなった秋山珠江が危険な感染症に罹っていた恐れがあるので、とにかく感染症対策センターまで来て欲しいということだった。三郎たち5人は、センターの車に乗せられて、ほとんど強制的に連れて行かれた。そこで、マスク・ゴーグル等をつけた怪しい格好をした連中から遺体発見時のことを根ほり葉ほり聞かれた挙句、遺体に接触していないということで、高熱が出る等身体の異変があった時はすぐに保健所に届ける事を条件に、まもなく解放された。だが、遺体を食んでいたらしい虫が足元をすり抜けていったということは、はたして接触していないと言い切れるだろうか。少なくとも、間接的には接触したことになりはしないか。ましてや、食いつかれたとあっては・・・。三郎は怖くなったので咬まれた事は一切口に出さなかった。もし、そのことを伝えていたならば、三郎への対応は違っていたかもしれない。
(アレが咬むっちゃあ・・・)
三郎は腫れた患部の周囲をさすりながら思った。三郎はあの時起こった事が未だに信じられなかった。ヤツらが飛ぶことは知っていたがまさか食いつくとは。その上傷がこんなことになってしまうなんて。
(熱はないごたるが、こりゃあ体の異変にあたるんやろか・・・)
三郎は、考えた。
(やとしたら、保健所に連絡せんといかん。ばってん・・・)
そんなことをしたら、あの何とかいうセンターに連れて行かれ、こんどこそ隔離されてしまうのではないか・・・。そう思うと、三郎は怖くてとても保健所に電話することなど出来なかった。しかし、普通の病院に行って、万一そこで病気が広がったら・・・。そう思うと、三郎はさらにゾッとした。

「お父さん、なんボンヤリしとうとですか?」
妻の言葉に三郎は我に返った。
「あ、すまんすまん。ちょっと考え事ばしとった」
「はやく、お食事済ませてくださいよ。私、今日の午前中は尚子さんたちとお買い物に行く予定なんですから、早く片付けたいとですよ」
「ああ、そんなこと言うとったな。悪い悪い、すぐに食べてしまうけん」
そういうと、三郎はご飯にお茶をかけて急いで掻き込んだ。

 由利子はギルフォード研究室の応接セットで、借りてきた猫のようになっていた。
 今日は、いつもの時間に目が覚め、日課のジョギングもこなし万全の体調で家を出た。今日はお試しとはいえ初出勤である。由利子は遅刻しないようにネットできっちりと電車の時刻を調べ、早めの電車に乗ったはずだった。ところが、間の悪いことに信号のの故障とやらで足止めを食い、結局30分ほど遅れて研究室に着いた。もちろん、遅れる旨を電話し、ギルフォードたちも「大変だったね」と、ねぎらいながら迎えてくれたが、あまり幸先の良いスタートではない。特に完璧主義の由利子には、不可抗力とはいえ初日からの遅刻は許せないものがあった。
「まあ、そんな気にしないで」
由利子の前に座ったギルフォードが言った。紗弥は紅茶をサーブした後、自分の席について仕事を始めた。
「あ、そうだ、言い忘れてたけど、今度、履歴書を持ってきてください。提出しないといけないので」
「あ、持ってきてます。・・・っていうか、退職が決まってから、次の就活用に何通か書いていたのを常備しているものですが・・・」
由利子は、バッグから履歴書を出すと、今日の日付を書き込んでギルフォードに渡した。
「へえ、準備がいいですねえ」
ギルフォードは、感心しながら履歴書を受け取ると内容を読み始めた。
「大学は東京でそのままあっちで就職されたんですね。Uターンして前職に?」
「はい」
由利子は答えた。
「やっぱり、こっちの方が良かったんですか?」
「まあ、いろいろありまして・・・。でもまあ、確かにこっちの方が暮らしやすいですね。親元も近いし食べ物も美味しいし。ただ、今再就職するとなると、こっちではかなり難しそうですが・・・」
由利子は、出来るだけ率直に答えた。
「運転免許をお持ちですが、まさか、ペーパーじゃないですよね」
ギルフォードの問いに、由利子は笑って言った。
「車は持ってませんが、運転は大丈夫です。前の会社でもけっこう使ってましたから」
「車、持ってないんですか」
「ええ、東京でもこっちでも通勤には使わなかったし、持つメリットが無かったんです。最初持ってたんですが、維持費がかかるので売っ払ってしまいました。でも、仕事では使うことが多かったんで、運転に関しては問題ないと思います」
「わかりました。まあ、車の運転をお願いすることはあまりないと思いますけど、いざというときはお願いしますね」
と、ギルフォードは笑って言った。
「で、前の会社ではどういう仕事をしておられたんですか?」
「はい、データの打ち込みや文書作成、そのほかに3D-CADを使ってパースとかも描いてました」
「パースが描けるんですか」
「はい、手描きも出来ますよ」
「すごいですね。で、データや文字を打つのは早いですか」
「普通だと思うのですが・・・」
「ちょっと僕のパソコンで打ってみてください」
「え? 今からですか」
「はい」
ギルフォードは、またにっこり笑うと言った。しかたなく由利子は立ち上がってギルフォードの席についた。ギルフォードは、その横に立つと、ワープロソフトを立ち上げ、手近な本を手に取り中をランダムに開いてそのページを指差すと言った。
「このページの最初から5行くらいを打ってみてください」
「はい」
由利子は返事をするや否や打ち始め、あっという間に作業を終えた。
「オー、さすが! 早いですね。ミスもなさそうです。OK、これなら大丈夫でしょう。ためしに僕が今から言うことを、そのまま打ってみてもらえますか?」
「はい」
「じゃ、行きますよ。『隣の竹垣に 竹立てかけたのは、竹、立てたかったから 竹立てかけた』」
「って、これ、早口言葉・・・。どんだけ日本語が上手いんですか、アレク?」
由利子は言われたとおりをほぼ同時に打ち終えてから言ったが、口調はややあきれ気味だった。
「おお、バッチリですね。・・・あ、ゆっくり慌てずに言えば、早口言葉は誰でも言えますよ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんです。じゃ、また元の席にもどりましょうか」
二人はまた応接セットに座った。ギルフォードはすぐに口を開いた。
「で、ですね。出来たら来週から本格的に来て欲しいんですけど、来られますか?」
「ええ、もちろんです」
「じゃあ、月曜の9時から、よろしくお願いしますね。バイト料等に関しては、その時に説明します」
「ありがとうございます」
由利子は、なんとか当座はしのげることがわかって、ほっとしつつ言った。
「ところでですね、明日なんですがね、ユリコ」ギルフォードが、ちょっと言い難そうに言った。「ちょっと僕たちにお付き合いしてくださいませんか」
「え?」
由利子はちょっと驚いて言った。しかし、「僕たち」と言ったからにはギルフォード1人にたいして付き合うわけではないらしい。それで由利子は聞いてみることにした。
「はあ、どういったことで?」
「たいしたことじゃないです。僕はここに来て1年以上経ちますが、あまりこの街をゆっくり見て回ったことがないんです。で、もう1人の友人と一緒に、穴場を案内して欲しいんです」
「え~っと、それは、観光案内して欲しいということですか?」
「そうです」
ギルフォードはニコニコしながら言った。由利子はひとつ気になったことを尋ねた。
「で、もう1人の友人っていうのは?」
「それは、来てからのお楽しみです」
「で、なんでそれが木曜日に?」
「え~~~っと、もう1人の都合・・・でしょうか? いいじゃないですか、ユリコもいちおう有給休暇中だし、たまには故郷観光をしてみるのもいいでしょう?」
由利子は、この人、何をたくらんでいるんだろう、と、思いながら面白そうなので受けることにした。
「わかりました。あしたですね」
「ありがとう、ユリコ。詳しいことが決まったら連絡しますね。じゃ、僕は仕事に戻りますので、ユリコはこの研究室を自由に見てください。今は、学生達はまだ来ていませんが、そろったらまた紹介しますから」
ギルフォードはそう言って立ち上がると、自分の席に戻っていった。由利子は、応接セットに座ったまま、どうしようかと考えながら、室内を見回した。

 森田健二の彼女、北山紅美は、また連絡の取れなくなった健二のことが心配になって、昼頃彼のマンションを訪ねていた。
 健二が浴室で倒れているのを発見して、救急車で病院に運んだあの日、結局、彼の症状は高熱ではあったが過度に飲酒した上に高温の風呂に入ったため眠ってしまい、長時間湯船に使っていたために起こした熱中症とそれによる脱水症状のせいだろうということになった。1泊したものの、翌日には熱も引いたため健二は自宅に帰された。一晩心配して彼の傍にいた紅美は、帰りのタクシーの中で、元気を取り戻した健二に言った。
「もう、どんだけ飲んでたのよ! バカ健二!!」
「そう耳元できいきい言うなよ。二日酔いでまだ頭がガンガンしてんだから」
「そりゃあ、昼間っから倒れるほど飲んでりゃあ二日酔いにもなるでしょうよ」
「違うよぉ、クミ、飲んだのは朝まで。友人達が来てさ、オレ、体調が悪かったけど、飲んだら良くなると思って飲み始めたら、勢いづいてさ、結局8時くらいまで飲んだかなあ・・・。連中が帰ったんで、それからちょっと寝たけど、汗で気持ち悪いし頭もガンガンするんで熱い風呂に入ろうと思ってさ、お湯出しながら湯船に浸かったまでは覚えとるんやけど」
「あんたさ~、そんな長い間お湯出しっぱなしのままお風呂に入ってたら、そりゃあ、熱中症にもなるよ。下手したら死んでたんだからね! 人騒がせにも程があるよ、もう」
「ありがと、クミ。君は命の恩人だよ。しかし、よく溺れんかったなあ、オレ」
「私が行った時は湯船から出てたから、無意識に湯船からは脱出したんやね。ま、大事に至らなくて良かった。せいぜい今月の光熱費の請求見て目を回してなさい」
「げげ、代わりに財布が大事に至りそうだ~~~」
健二は、両手で頭をのけぞらせて悩むポーズをした。その時、紅美は健二の首辺りにかすかな紅い点々があるのを見つけた。
「あら? 健ちゃん、首に薄紅いブツブツみたいのがあるけど・・・」
「ああ、オレ、薬飲んだ後にたまに軽い蕁麻疹が出ることがあるけん、多分それやろ。心配すんな」
「そっか、じゃ、大丈夫やね。これに懲りて、今度からお酒はほどほどにしてね」
紅美は、安心したせいか軽口をたたくくらいで、いつものように誰と飲んでたの等としつこく聞くことは無かった。それが、健二を油断させたらしい。
 夕方、紅美が病み上がりの健二のために、また夕食の用意をしてやろうと彼の部屋に行くと、お見舞いと称して数人の女性が彼のベッドの傍にたむろしていた。それを目撃し頭に血の上った紅美は、そこらに買ってきたものを投げつけるとそのまま家に帰り、その後かかって来た彼からの電話にもメールにも頑として応答しなかった。しかし、火曜の深夜辺りから電話もメールもぷっつりと絶えてしまった。それでも怒りさめやらない紅美は、気に留めまいと無視を決め込むことにした。しかし、水曜になってもまったく連絡が無い。心配になった紅美は、とうとうメールを確認した。すると、最初は、ひたすら謝罪だったメールが途中から、体調を崩したことを報せる内容へと変わっていた。「なんか目が疼くし頭も痛い」から「急に高熱が出てしまった」「体中の関節が痛い」「体中に蕁麻疹が出たようだ」そしてとうとう「うごけん」という4文字のメールで連絡が途絶えた。一件入っていた留守録を聞くと
「クミ、助けて、部屋の中が、赤い・・・」
という息も絶え絶えな気味の悪いメッセージが入っていた。留守録の時間は日付の変わった水曜日の1時であった。紅美は急に心配になった。しかし、これは自分を心配させるための健二のウソかもしれない。アイツならやりかねない、とも思った。だが、それにしては切羽詰っている。紅美は悩んだ挙句、やはり彼のマンションに行くことにしたのだった。
 彼女が部屋に行くと、玄関の鍵がかかっていないのに気がついた。ドアが少し開いていたのだ。彼女はドア越しに声をかけてみた。
「健ちゃん・・・?」
返事は無かった。思い切って中に入ってみた紅美は、室内に嫌な臭いが漂っているのに気がついて顔をしかめた。今回は電気も消えテレビなどの音もなく、部屋は静まり返っていた。
「健ちゃん、いないの?」
紅美は彼の部屋まで行って様子を見たが、やはり誰も居ない。ひょっとしたらと思ってバスルームも見てみた。だが、今回はそこも健二の姿は無かった。
「もう、健ちゃんってば、カギ開けっ放しでどこ行っちゃったんだろ。やっぱウソ電話やったのかな。もう、このまま帰っちゃおうか・・・」
紅美はブツブツと独り言を言いながら、また健二の部屋に入ってこんどは照明をつけた。外が雨模様のため、かなり暗かった部屋の中がぱあっと明るくなった。紅美は健二のベッドに近づいてみた。何となく枕あたりになんかどす黒いものが見えた。なんだろうと思って、紅美は掛け布団をめくったが、その瞬間彼女は悲鳴を上げていた。
「キャッ! 何これ! 血・・・?」
布団の枕元と下半身辺りに、どす黒い染みの様なものが出来ていた。よく見ると、部屋のところどころに同じような染みがあった。これは健二の身に何かあったにちがいない! そう確信した紅美は、悩んだ挙句にとうとう警察に通報した。

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1.侵蝕Ⅰ (4)カサイ・レポート

 尋常でない室内の様子から、健二の異変にやっと気がついた紅美が警察を呼んだことから、健二の住むマンション付近がいきなり只ならぬ雰囲気に包まれた。今までも、夜中に学生達が乱痴気騒ぎをして警察が出動したことが何回となくあったが、昼間から、しかも本格的な捜査が入ったのは初めてのことである。近隣の住人達も、興味半分心配半分で、家から出てきて様子を探っている。
 警官達が室内をくまなく探したが健二の姿はどこにも無かった。しばらくすると鑑識が到着し、早速室内を調べはじめた。彼らはやはり、ベッドや床の赤黒い染みに着目した。状況からすると血液と考えるのが妥当であり、調べた結果も間違いなく血液の反応があった。しかし、この色はあまりにも奇妙だ。
「吐物でしょうか? なんか腐った血に似ていますね」
鑑識の1人が言った。まだ若い青年だ。
「おいおい、ここの住人は少なくとも昨日まではここに住んでいたんだ。ゾンビじゃあるまいに、生きた人間の血が腐ったりするかい」
と、彼より年上の男がたしなめた。だが、ある意味若い方の鑑識の言葉は正しかった。健二の体内は急激なウイルスの増殖により崩壊し始めていたのだ。
 紅美は、後悔と心配ですっかり沈み込んでいた。
(私があんな意地を張らないで、早く様子を見に来ていたらこんなことにはならなかったのに・・・)
しかし、後悔しても時間は戻らない。
(健ちゃん、いったいあんたの身に何があったの?)
紅美は、警官達が忙しく動き回る中、1人健二の机の前に座りぼんやり警官達を眺めていた。すると、1人の私服警官が紅美に声をかけてきた。
「あなたが通報された方ですね」
「あ・・・、は、はい」
紅美は、あせって答えた。
「失踪された方の奥さんですか?」
「いえっ、いいえっ、違います。まだ結婚はしてませんっ」
妻かと聞かれた紅美はさらに焦り、思っても無かったことを口走って驚いた。
(やだ、『まだ結婚はしてない』だなんて、私ってばこんな浮気男との結婚を考えてたんやろか?)
だが、刑事はそんな紅美の心境など知る由も無く事務的に話を進めた。
「あ、失礼いたしました。詳しいお話をお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか」
「はい」
と、紅美は素直に答えた。それにしても、健二はどこに行ってしまったのか。話を前夜に戻そう。

 夜中の県道を、一台の車が走っていた。時間は午前2時近く、道路は県道とはいえ山の中を通っており、昼間はけっこうな交通量があるのだが、この時間ともなれば交通量は激減、時たま対向車とすれ違う程度だった。注意して見ると、その車はたまにふらつくような不審な走り方をしていた。乗っているのは会社員の窪田栄太郎と部下の笹川歌恋(かれん)、窪田は40半ばの中間管理職だったが歌恋の方はまだ20代前半の若い女性だった。この日は大事なプロジェクトが成功したため市内の飲食店で盛大な打ち上げがあり、その後に行った二次会の帰りだった。そういうわけで窪田は酒気の抜けきらない状態で運転していた。もちろん、重大な交通違反である。彼は、二次会では用心してアルコールを控えてはいたが、一次会ではそれなりに飲んでいる。だが、それくらいで運転に支障をきたすことはないと自負していたし、実際、彼の運転はしっかりしていた。実はたまに運転がふらつくのは、助手席に座っている歌恋に原因があった。
「歌恋ちゃん、頼むよ、もうすぐ着くからさ、ちょっとの間我慢してくれないかなあ・・・」
窪田はしつこくちょっかいを出してくる歌恋に若干手を焼いていた。窪田が酒気帯びでありながら車で帰っているのは、途中、とある場所で酔いを醒ますつもりだったからだ。しかし、歌恋はくすくす笑いながらまた手を伸ばしてきた。
「あ・・・、もうっ、いい加減にしなさいよ」
窪田は叱り口調で言ったが、息を荒げながらでは威厳もへったくれも無い。歌恋は窪田の様子を見てきゃらきゃらと笑った。その時、窪田は男性らしき人影が道路でフラフラしていることに気がついた。窪田はとっさにブレーキを踏んだ。その甲斐あって、彼はその人影を跳ね飛ばすようなことにはならなかったが、ギリギリでぶつかってしまったらしく、軽い衝撃が伝わった。男は数歩後退りをすると、道路に倒れこんだ。
「な、何よお!?」
歌恋は急ブレーキのせいで乱れた髪をかきあげながら文句を言った。
「人を轢いたようだ」
窪田はそう言うとヘッドライトを消しすぐに車を降りて、車の前に倒れた男に近づいた。歌恋も心配になって後を追う。とりあえず窪田は男に声をかけてみた。
「君、大丈夫か?」
しかし、男は路上に仰向けになったまま激しく痙攣をしていた。空は曇り、街灯の光がようやく届く程度の明るさだったが、男の凄まじい表情に、可憐はかすれた悲鳴を上げ窪田にしがみついた。男はうなり声をあげて弓なりに痙攣し、ふっと力が抜けてまた路上に大の字になるとそのまま動かなくなった。死んだ? 馬鹿な! 車はかなり減速しており、致命的な衝突はしていないはずだ。祈るような気持ちで窪田は男の上半身を抱え上げ、心臓に耳を当てた。男の心臓は動いていなかった。
「そ、そんな・・・」
窪田は呆然として言った。たが、雲間から顔を出した月光を浴び浮き上がった男の容貌に驚いて、歌恋が悲鳴を上げた。それを聞いて反射的に男の顔を間近で見た窪田は、さらに驚愕し男を放り出して飛びのいた。男は再び道路に転がり、頭がゴッと嫌な音をたてた。男は苦悶の表情で目をむき、口から血のようなものを吐いていた。口元に黒いものがこびりついており、Tシャツの柄だと思っていたものは、吐物で赤黒く染まったものだった。しかし、それは若干乾きかけており、今の事故のせいではないのは明らかだった。よく見ると、彼の短パンの方も同じように汚れていた。顔には無数の発疹が浮き、鼻や目からも血を流していた。明らかに交通事故とはちがう異常死体である。呆然と立つ窪田に歌恋がしがみつきながら言った。
「課長、逃げましょう。今なら誰も見ていないわ、ね?」
「しかし、このままにしておくわけには・・・」
「このまま警察を呼んでもあたし達が疑われるだけだし、その上飲酒運転で捕まっちゃったら、罰金どころか課長、会社を首になっちゃうかも。第一、あたし達の・・・」
歌恋はそこで口ごもった。窪田の頭の中で一瞬の葛藤があったが、状況を考えると逃げることが妥当なように思えた。それからの窪田の行動は早かった。窪田は遺体の足を持って引きずり道路わきの草むらに隠した。遺体は生え放題になっている草に上手く隠された。それを確認すると窪田は車に飛び乗って歌恋を呼んだ。
「早く乗って!」
歌恋は反射的に車に乗り込んだ。車は一目散にその場から立ち去った。
「ふう」
しばらくして緊張の解けた窪田は、やっとため息をついた。ハンドルを持つ手はまだ震えている。窪田は自分が汗だくになっているのにようやく気がついた。額の汗が流れて目に入りそうになり、慌てて手でそれを拭いた。しかし窪田はその掌を見て驚いた。男を触った時に血が付いていたらしい。はっとして耳を触った。すると、耳たぶにも少し付着しているようだった。窪田は驚いてポケットからハンカチを出して顔と手と耳を拭いた。白いハンカチに赤黒い染みが出来た。窪田はそれを見て気持ち悪くなったが、そのままそのハンカチをポケットにしまい込んだ。
 草むらに隠された遺体、それは、変わり果てた健二であった。病気で動けなかったはずの健二は、熱に浮かされたためか、夢遊病者のように自分の部屋から抜け出していたのだ。夜中だったこともあって、彼は誰にも会うことなく、従って誰にも不審に思われることもなく、道路を歩き事故に遭ったのである。

 そういうこととは夢にも思わない紅美は、健二の行方を心配しながら、刑事に向かって一所懸命に今までの経緯を説明していた。

 

 由利子は午前中を、研究室内にある書籍や雑誌類に目を通すことで過ごした。
 今日の昼食は、由利子が始めて来たということで、紗弥と三人でギルフォードたち行きつけの喫茶店で昼食を取った。BGMにジャズが流れていて、なかなか居心地も良い。由利子はギルフォードに薦められて、そこのお勧めメニューである『Q大のそば』という焼きそばのセットを注文した。豚肉と野菜がたっぷりの焼きそばが、鉄板の皿の上でジュウジュウという景気の良い音をさせながら運ばれてきた。その上には目玉焼きと紅しょうが、そして青海苔がたっぷりとかけられており、その三色が更に彩りを添えていた。特製ソースの美味しそうな香りが鼻腔をくすぐった。一口食べると由利子は言った。
「美味しい! ほんと、美味しいです。頼んでよかった!」
「気に入ってもらえて嬉しいです」ギルフォードは、にこにこ笑って言った。「ここは夕方6時からパブタイムになりますが、夜11時くらいまで開いてますから、気に入ったら今後もご利用くださいね」
「ええ、これから寄らせていただきます」
由利子は笑って言うと、カウンターでこのやり取りを聞いていたこの店のマスターがうやうやしく礼をしながら言った。
「よろしくお願いいたします」
「あ、マスター、この人はシノハラ・ユリコさんです。今度ウチの研究室に・・・」
ギルフォードは、マスターに由利子の紹介をはじめた。

 研究室に戻ると、ギルフォードは紗弥からプリントアウトした数ページ程の書類を受け取り、自分の席に直行して真剣な顔で読みはじめた。彼は一度ざっと目を通すと、今度はもう一度ゆっくりと読み始めた。読みながら時折眉間にしわを寄せたり右手でこめかみあたりを押さえたりしていたが、だんだん顔つきが厳しいものに変化していった。それは、由利子に先週の縦読みメール事件の時を思い出させた。だが、今回はあの時のように怒りを爆発させるようなことはなかった。しかし、それはギルフォードの心の奥に刻まれ、彼にある決心をさせるに充分だった。森の内知事の思惑は成功したのである。
 ギルフォードは由利子を呼んだ。
「ユリコ、ちょっと、また応接セットまで来てくれませんか?」
「はい」
由利子が座ると、ギルフォードも例の書類を持ったまま向かいに座って言った。
「ユリコ、この前ここに来たときお話ししたテロのことは覚えてますか?」
「はい。縦読みの挑戦状、忘れるわけないです」
やはりそのことだったか、と由利子は思いながら答えた。
「それは、誰にも口外していませんね」
「はい、もちろんです」
「OK、ユリコ、いいですか? おそらく、これから僕たちはそれと深くかかわることになると思います。したがって、ユリコ、君にも手伝ってもらうことになると思いますが、良いですか?」
「もちろんです。いえ、やらせてください」
由利子ははっきりと言った。由利子は雅之とも祐一とも直接話したことはない。遠くから顔を見ただけだ。また、この事件についてはさわりを聞いただけで、全体像はある程度把握しているものの、個々についての詳しい情報を聞いているわけではない。しかし、それでも由利子は犯人がテロを「演出」しようとしているような気がして漠然とした怒りを感じていた。それで、ギルフォードの申し出に即決して答えたのだ。 
「そう言ってくれると思っていました。ありがとう、ユリコ。では、これからこのレポートに書いてあることも含めて詳しい経緯をお話します。長くなりますが、聞いてください」
由利子は無言で頷いた。ギルフォードは語った。
「まず、発端はホームレスの異常死体の司法解剖からでした。その後、似たような遺体の司法解剖が行われる際、執刀医である法医学者が前もって僕を呼び寄せ、解剖に立ち合わせました。その時僕はその遺体の真の死因に出血熱を疑いました。その遺体が、アキヤマ・マサユキに暴行死させられたホームレスのヤスダさんでした。ウイルスはヤスダさんからマサユキ君へ、そして彼のお祖母さんのタマエさんに感染し、ご存知のようにマサユキ君は私鉄の電車に飛び込み轢死しました。彼のお祖母さんも前日に亡くなっています。マサユキ君の両親は感染の恐れがあり、念のため感染症対策センターで様子を見ることになりました」
「ちょっと待ってください」
由利子が言った。
「今まで亡くなった方がその未知のウイルスに感染していたという証明は出来たのですか? だって、その正体すらわかっていないのでしょう」
「ウイルス自体が未知でも、ウイルス感染かどうかを調べる方法はあります。そして、彼らが共通して何らかのウイルスに冒されていたということまではわかっているのです」
「わかりました。続けてください」
「ウイルスはマサユキの遺体に触れた母親のミチヨに感染していました。そして、あの縦読み挑戦状メールへと話が繋がります。正体不明のテロリスト・・・ここでは単に『犯人』と呼ぶことにしましょう。犯人は感染症対策センター・・・感対センターからミチヨを連れ出し彼女が持っていた息子の携帯電話を奪いました。例のメールを発信するためです。僕は最初、彼女がセンターから単独で逃亡し、街中に潜む危険を考えていましたが、そのメール事件から、彼女の殺害の可能性も考えました。しかし、彼女は生きていました」
「殺されたんじゃなかったんですね」
「そうです。犯人の本当の目的は、携帯電話などではなく、ミチヨをばら撒き屋に仕立てることだったのです。これは、感染者が街中に潜んでいるよりまずいことです。感染者にウイルスを広める意志があるのですから。そして、愚かにも彼女はそれを承諾しました。しかし、彼女はユウイチ君を恨んでいました。ユウイチ君は、マサユキ君のホームレス狩りを止めようとして事件に巻き込まれました。幸い彼はウイルス感染を免れましたが、そのせいで母親のミチヨから恨まれることになったのです。それで、ミチヨはユウイチ君をおびき出して復讐しようと考え、彼の妹を利用して彼を公園・・・、マサユキ君がホームレスを殺害した公園に誘い出しました。それを知った彼の友人が僕に連絡をしてきたので、僕はジュンの電話番号を教え、僕たちも急いでバイクで現場に向かいました。それが月曜日、一昨日(おととい)のことです」
「一昨日? そんなことがあったんですか」
「ジュンは先輩であり相棒のタミヤマ刑事と少年課の女性警官との3人で急遽現場に向かいました。その時のことをジュンが調書にまとめたのがこの書類です。僕が現場に行った時はすでに全てが終わっていましたが現場が取り込んでいたので、何が起こっていたのか詳しいことを聞く余裕がありませんでした。しかし、これを読んでほぼ全貌がつかめました。敵さんはミチヨに息子の細胞で増殖したウイルスは息子の遺伝子を持っているといかにも息子の一部が生きているような錯覚をおこさせて、彼女にウイルス拡散を命じたのでしょう。それは子どもを亡くしたばかりの女性を惑わすには充分だったでしょう。少なくとも彼女の話からはそれを実行したことが伺えます」
「では、雅之君のお母さんが接触したらしい人たちを探し出さないとまずいのでは・・・」
「そうです。でも、彼女が死んだ今となっては、糸口が全くつかめないのです。まさか、今の段階で公開捜査をすることも出来ませんし・・・」
「え? 亡くなられたんですか」
「はい。ミチヨはユウイチ君殺害を目的として彼を公園に誘ったわけではなかったのです。彼女は彼を感染させて息子と同じ目に遭わせるため、彼に自らの血液を浴びせようとして、自害しました。しかし、それを見抜いていたタミヤマ刑事に阻止され、子どもたちは直接それを浴びずにすみました。しかし、タミヤマ刑事がその身代わりとなってしまい、今、センターに隔離され様子を見ているところです。これは、ジュンの書いたその事件のレポートです。僕が説明するより読んだほうが早いでしょう。ジュンのレポートは緻密でわかりやすいですから」
ギルフォードは由利子に葛西作成の調書のコピーを渡した。由利子は真剣にそれを読んでいたが、読み終えるとギルフォードに向かって言った。
「そんな大変なことが起きているなんて知りませんでした。何でこの事件がニュースにならなかったんですか? 少なくともローカルニュースになる程度のインパクトはあると思うんだけど」
「おそらく、用心のために報道を規制したのだと思います」
「それってまずいんじゃ・・・」
「まずいです。でも、今の段階では仕方がないのでしょう」
「葛西君、落ち込んでるんじゃないですか」
「ええ、かなり。今度会ったら元気付けてあげてください」
「会ったらですね。・・・ところでこれを読んで思ったんですが、美千代さんが言ったことから犯人についての手がかりがいくつかありますね」
「ほお。で、それは?」
「まず、犯人は1人ではなくある程度組織立った団体ということです。そして、美千代さんが『あの方』と呼んでいた人、その人は多分、その団体の中でも主犯あるいは主犯に近い人物ですよね。そして、その人はナントカ『イ』様と呼ばれています。なんか他所の国の人の名前みたいにも思えますが、彼らが何処かの国に属するものなのか、宗教団体か、極右あるいは極左団体なのかわかりませんが、一般女性が関わりやすいものと考えると、私は宗教団体ではないかと思います。美千代さんは多分、その団体と元々関わりがあったんです。だから犯人達も彼女を利用しやすかった。それに、いくら子どもを失ってまともな精神状態ではなかったとはいえ、初めて出会った人の言葉をいとも簡単に信じるのは不自然です。また、先の方で、美千代さんは『あそこに行かなければ』と言ってます。多分、『あそこ』というのはその宗教団体を指すのではないですか」
「良い推理です、ユリコ。宗教団体がテロを行うことは珍しくありません。その多くは爆弾テロですけど、カルト宗教団体がバイオテロを行った事例は、十数年前のO教団や、この前例にあげたラジニーシ教団の例があります」
「え? O教団はサリンテロだけじゃなくてバイオテロもやってたんですか?」
「はい。ボツリヌス毒素や炭疽菌でテロを起こそうとしました。しかし、バイオテロの方は不成功に終わったので、日本ではあまり取り上げられていませんが、アメリカではこの事実を重く受け取って、バイオテロ対策を強化しました。まあ、その頃の大統領が、テロ対策を重視していたクリントンだったってこともありますけど」
「そうだったんですか」
「はい。そう考えて、僕も該当しそうな新興宗教団体を探してみました。しかし、どれもこれといった決め手がありません。そもそも、バイオテロを行う動機が見つからないんです」
「動機ですか・・・」
「そうです。宗教団体が殺人ウイルスをばら撒いて何の得があるのか、僕にはさっぱりわかりません」
「あの、病原体を培養するためには、それなりの施設が要るんじゃないですか? それを探せば・・・」
「その点が宗教がらみだと難しいのです。宗教施設の場合は、よほど犯罪の証拠が無い限り、手をだすことが難しいんです。O教団の時もそれが捜査に当たって重大な障害になったといいます。彼らがかなり大掛かりなプラントを持っていたにも関わらず、です」
「はあ、困ったものですねえ」
「ホントに。宗教は厄介です」
ギルフォードは、肩をすくめて言うと続けた。
「他にも解決しなければいけない謎があります。先ず、指針症例であるホームレスがどのようにしてウイルスに感染させられたかという、根本的な問題があります。ウイルスはいつどこでどのようにして仕掛けられたのか。そして、それは何箇所に仕掛けられたのか。そして、犯人達の目的と要求。これを知ることが出来ないと、このテロ事件の輪郭がはっきりしません」
「そうですね。ところで・・・」
由利子は、前から気になっていたことを聞いてみることにした。葛西が雅之の祖母のことで言葉を濁し、言いたがらなかったあの件である。
「葛西君が言いかかったことなのですが、雅之君のお祖母さんのことで何か恐ろしいことがあったとか。葛西君ってば、言いかけたくせに、悪夢だからって教えてくれなかったんです」
「ああ、マサユキ君のお祖母さんの・・・。えっと、それは・・・僕の口からは説明し難いな・・・」
ギルフォードは口ごもった。
「ええ? アレクまで? どして?」
由利子は少し驚いて言った。ギルフォードは少し黙っていたが、重い口を開いた。
「それは、秋山雅之の祖母である秋山珠江の遺体の状態のことです。彼女の遺体は、夥しい蟲・・・たちに食い荒らされていたのです。そして、その約一週間後、その蟲らしきものが大量死しているのが見つかりました」
「遺体を食べた虫たちが全部死んじゃったってことですか?」
「それはわかりません」
「でも、一体どうして・・・」
「遺体がある種の昆虫を引き寄せるにおいを出していたらしいのです」
「ある種の昆虫って?」
「そ、それは、えっとですね」
「ゴキブリですわ」
横から紗弥が間髪いれずに言った。
「ゴキブリ!! これまたよりによって嫌な虫が・・・」
由利子は流石にゾッとして言った。
「そうでしょう。僕にとっては死ぬより辛いですよ。遺体をあんなモノに食われるなんて、死んでも死にきれません」
と、ギルフォードは得も言われぬ表情をしていった。
「ひょっとして・・・」由利子はギルフォードに言った。「ゴキブリ、苦手なんですか?」
由利子の質問に固まったギルフォードの代わりに紗弥が答えた。
「そのようですわ。しかも、名前を口にすることすら出来ないくらいに」
「やだ、カワイイ~!」
「でしょ?」
由利子と紗弥は二人してギルフォードの顔を見ると、ケラケラと笑った。
「だって、本当に大っキライなんだもん。そんな笑わなくてもい~じゃん」
ギルフォードはまたいじけモードで口をとがらせながら言った。

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