1.侵蝕Ⅰ (2)新たなる旅立ち
「え? 県警本部に? どういうことですか?」
葛西は署長の前で緊張して立っていたが、署長の言葉がよく理解出来ずに聞き返した。
「まだ本決まりではないがね」
村上K警察署長は葛西に言った。
「今回の感染症発生に関して、対策本部を県警に設置することになったんだ。秋山美千代の事件を重く受けてのことらしい」
村上は慎重にテロという言葉を避けながら言った。
「それで、この事件に早くから関わっているうちの署員を迎えたいという、向こうからの打診があった。しかし多美山巡査部長はあのような状態だ。そこで、君に白羽の矢が立ったというわけだ」
「そ、そんな・・・。僕にはそんなところでやっていける自信はありません!」
「いや、君は適任だと思うよ。確か君は、大学では微生物専攻だったな」
「はい、最初、獣医を目指していたんですが、どうも合わない事がわかって・・・」
「そういうこともあって、私は君を推薦することにした。おそらく近いうちに辞令が出るだろう。普通は事前に報せるようなことはしないんだが、今回は特殊な事件だからな。心の準備をしておいて欲しい。おそらく例を見ない事件の最前線に立つことになるだろう、危険な任務だからな」
「は、はい!」
葛西は若干引きつった顔をして返事をした。
「よろしい。では、仕事にもどりなさい」
村上から退室の許可を得て、葛西は敬礼をすると、「失礼します」と言って署長室から出て行った。若干足元がふらついていた。
「大丈夫なんだろうな、あいつ・・・」
村上は一抹の不安を感じながら言った。葛西は、署長室を出て1課に向かう廊下を歩きながら、一抹どころか不安で一杯になっていた。しかし、くよくよしても仕方がない。それに、その方が、この事件の核心に迫ることが出来、多美山や祐一をあんな目にあわせた犯人達を追い詰めることができるじゃないか。葛西はそう思いなおし不安を振り切ろうとしたが、あることを思い出してつぶやいた。
「ひょっとして、あの防護服が日常になるんじゃ・・・」
葛西はこれからの季節を想像してげっそりとしてしまった。
ギルフォードは、午後の講義が終わった後、研究室で県知事を待っていた。約束の時間が近づくにつれ、ギルフォードはさらに落ち着かなくなった。
「教授、何をそわそわしてらっしゃるんですの?」
と、紗弥が不思議そうに尋ねた。
「あの人の周りはなにかと騒がしいんですよ。ああ、僕が知事を尋ねて行った方がよっぽど気が楽です」
ギルフォードは頭を抱える振りをしながら言った。
「そういえば、一時期程ではないけれど、よく報道陣にたかられてますものね」
「せっかく静かな環境にいるのに、ヘンな連中が押し寄せてきたら大迷惑ですよ。それに、僕だって目立ちたくないんです」
(それは無理ですわね)
と、紗弥は心の中で密かに突っ込んだ。
ギルフォードたちが、そのような会話をしていると、研究室の戸口で声がした。
「こんにちは~。ちょっとおじゃましますよ」
見ると、そこにはヘンなおっさんが立っていた。彼は、プリズムのイラストが描かれた色落ちした黒いTシャツにベルボトムのGパンとロンドンブーツ、そして丸いサングラスをかけて黄色と緑のチューリップ帽子をかぶっていて、ちょうど70年代の学生のような格好をしていた。しかし、中肉中背で中年太りこそしていないが、どうみても中年の男性である。
「やれやれ、学生時代の服を引っ張り出して着てみたんだけど、やっぱりずいぶんと浮いちゃったみたいだねえ」
怪しげな男は、そういいながら研究室にすたすたと入ってきた。ギルフォードは彼の顔を見て頭を抱えながら言った。
「えっと、ひょっとして・・・?」
「やあ、こんにちは、ギルフォード先生。お騒がせしたらいかんので、ひとりでこっそりタクシーで来ました。流石に誰も僕とはわからなかったみたいですよ、あっはっは」
「それじゃあ、わからないですよ。しかしまあなんて格好で・・・。相変らずですねえ」
ギルフォードはそういうと、笑いながら知事に右手を差し出した。
「知事、お久しぶりです。相変わらずお元気そうで」
「元気なだけが取り得ですからね」
森の内知事はギルフォードの手を取ると、両手でがっちり掴んで答えた。
森の内を応接セットに座らせると、ギルフォードは自分も前の席に座った。森の内はソファに座って落ちつくと、帽子を脱ぎトンボ眼鏡を外して普通のシルバーフレームの眼鏡にかけかえた。森の内は怪しい中年男から、ロマンスグレーの紳士に変身した。
「で、知事自ら出てこられるなんて、いったい何があったんですか? 言ってくだされば僕の方から行きましたのに」
「こちらからお願い事をするんですから、そうはいきませんよ」
森の内がそう言ったところで紗弥がお茶を運んできた。森の内は「ありがとう」と言いながら座ったまま会釈をし、さらに言った。
「紗弥さん、相変わらず綺麗ですね」
「ありがとうございます。知事も相変わらずお上手ですわね」
紗弥はにっこりと笑って受け流し、部屋を出て行った。その後姿がドアの外に消えると、森の内がにやりと笑って言った。
「ところでアレックス、君、実は『元米軍の恐ろしい細菌学者』だそうですね」
「はあ~?」
ギルフォードは、驚くというよりあきれて言った。
「ははは、やっぱり思った通りの反応だ! 僕も『ハア?』ってなったんですよ。でも、本人が一番『ハア??』となりますワね」
「いったいどこからそんなことを聞いてきたんです?」
「例の秋山美千代が、西原祐一に電話をかけたときに言ったそうですよ」
「確かに、かつて僕はアメリカの大学で、ユーサムリッド(USAMRIID:アメリカ陸軍伝染病医学研究所)と関わったことはあります。しかし、僕は基本的に軍隊とは相容れません。それにしても、『米軍の細菌学者』だなんて、アナクロすぎませんか」
「うん。だけどね、そういう知識のない人に吹き込むにはわかりやすいネタでしょう?」
「ということは・・・、やはりアキヤマ・ミチヨに犯人が接触したと?」
「おそらくそうです。そして、美千代に嘘八百を吹き込んで、『ばら撒き屋』に仕立て上げた可能性があるとですよ」
「なんですって!?」
ギルフォードは椅子から立ち上がって、森の内の方に前のめりになりながら食いつかんばかりに言った。
「それはホントですか?」
「アレックス、照れるからあまり顔を近づけないで欲しいなあ」
森の内はにっと笑って言った。ギルフォードは、肩をすくめると椅子に座りなおして言った。
「もう、そんな情報を得てるんですか」
「うん、現場にいた刑事が、今日西原祐一君から事情聴取したことと、自分らの見聞きしたことをまとめた報告書をね、緊急にメールしてもらったとですよ」
「現場にいた刑事・・・、ジュン、いや、カサイ刑事のことですね」
「あ、知り合いだったの? そういえば、君も現場に急行したんでしたね」
「ハイ。でも、私が着いた時はすでにミチヨは意識不明になってましたし、当事者たちに状況を聞けるような状態でもなかったので・・・」
「ちょうど良かった。ここにプリントしたものを持ってきたから、読んでみて。漢字は大丈夫です?」
「ハイ、ある程度は読めます。マンガで鍛えましたから」
ギルフォードは笑いながら言うと、レポートを受け取って読み始めた。ギルフォードの顔から笑顔が消えた。ざっと目を通したあと、森の内の方を見て顔をしかめながら言った。
「何ですか、これは?」
「どうです、気持ちの悪かでしょう。僕は、対テロ特設チームを作ることを考えていましたが、今回の事件で刑事が感染の危機に陥るという事態を招いたことで、その時期を早めることにしました。その相談をしたくてここに来たんですよ。そのために、その事件のレポートを急いで入手したんですが、実際読んでみて、かなり驚きました。これは急がないと拙いと思いました」
「確かにマズイですね。まずは、ミチヨと接触した人間を探し出して、隔離しなければ」
と、ギルフォードが言うと、ここぞとばかりに森の内は言った。
「それで、これが本題です。アレックス、君に特設チームの顧問をお願いしたい、そのためにここに来たんです」
「僕に?」
ギルフォードは少し間を置いてから答えた。
「光栄ですが、お断りいたします。わざわざ外国人の僕に顧問をさせなくても、適した方が外に沢山いらっしゃるでしょう?」
「いや、この事件に比較的初期から関わっている人と言うことを考慮すれば、君しか適任者はいないと僕は思います。引き受けてくれんですか? お願いします!」
「ごめんなさい」
ギルフォードは立ち上がって頭を下げた。
「そんな・・・、なんかの番組でおつきあいをお断りしてるんじゃないんだから・・・」
森の内は苦笑いをしながら言った。ギルフォードは座りなおすと続けた。
「それに、大学にだって迷惑がかかりますし」
「あ、大学? それなら、先に学長に打診したところ、どうぞ持っていってくださいとおっしゃってましたよ」
「持っていけ、ですか・・・?」
ギルフォードは、やや引きつった笑いを浮かべながら言ったものの、心の中で悪態をついた。
(”あンのぉ~、狸オヤジ、人をモノみたいに! いったい何考えてんだよ、ったく・・・”)
そしてギルフォードはゲンナリとしながら言った。
「わかりました・・・。1日程考えさせてください」
「期待していますよ。葛西刑事からの続きの報告は、届き次第メールで転送しますから、それも読んだ上で決めて下さい」
森の内はそこまで言うと、チラと時計を見て少し焦ったような表情をした。
「では、私はスケジュールが押してますのでそろそろ帰ります」
森の内はいきなり立ち上がりながら言った。ギルフォードはそれを聞いて若干口の端を上げ気味に言った。
「そうですか、残念ですねえ、ホントニ」
「そこはかとなく嬉しそうだけど・・・ま、いっか。じゃ、お邪魔しました。良いご返事をお待ちしておりますから」
森の内は帽子を被ってから戸口の方に向かおうと横を向いて、いつの間にかそばに紗弥が立っているのに気がつき非常に驚いて「うわぁっ!」と悲鳴を上げた。紗弥はにっこり笑って言った。
「まあ、もうお帰りですの?」
「用件が済んだのでお帰りだそうですよ」
ギルフォードは既に自分の席について仕事を始めながら言った。
「戸口までお見送りしてあげて下さい」
「かしこまりました」
紗弥が答えると、森の内は「いいです、いいです、じゃっ!」と言いながら、脱兎の如く走って研究室を出て行った。出様に、研究室に来た如月とぶつかりそうになった。
「あ、失敬!」
森の内は如月に向かって軽く謝ると、そのまま走って廊下を曲がっていった。如月は首をかしげながら研究室に入ってきた。
「何でっか、ありゃあ。 そう言や、どっかで見た顔のような気もするんやけど・・・」
如月はブツブツ言いながら席につくと、パソコンの電源を入れ、カバンから資料を出し始めた。
紗弥は紅茶を飲みながら、窓の外を見ていた。しばらくすると、走って建物から出てくる、森の内の悪目立ちする姿が見えた。時計を見ながら紗弥が言った。
「想定外の早さで出て来られましたわ。本当に急いでいらっしゃるのね」
さらに観察していると、棟を出てそ知らぬ顔で学生達に混じろうとしたところ、学生のひとりに知事ということがばれたらしい。彼はわらわらと学生達に囲まれ、握手と写真攻めに遭いはじめた。そこに通りかかった男たちが森の内を見つけて、学生達を追い散らしながら近づいていった。
「まあ、知事ってば、こんどはとうとうお付きの人に見つかったみたいですわね。あらら、ついでにマスコミの人にも見つかってもみくちゃにされてますわ」
ギルフォードは左手にカップを持ち、右手のマウスでPC画面をスクロールしながら涼しい顔をして言った。
「いいですよ、僕に累が及びさえしなけりゃ」
「それにしても、教授、彼、ずいぶん馴れ馴れしいですがどういった経緯でお知り合いに?」
「別にお尻をあわせた訳では・・・」
ギルフォードはそこでパソコン画面から顔をそらし紗弥の方をそっと見た。その時紗弥の眉間にかすかにしわが寄っているのをみて、ちょっとの間舌を出した後某CMの兄風に言った。
「スミマセン、ふざけてマシタ」
「洒落になりませんわよ、そのオヤジギャグ」
「彼とは・・・。キョウ・・・松樹警視が僕を彼に紹介してくれたんです。そう、馴れ馴れしいんですよ。キョウのマネをしてすぐに僕をアレックスと呼び始めるし」
「まあ」
「でもね、政治家としては未知数ですが、期待できる人です。形式に囚われずに考えられる人です。でも、その分敵も多いです。だから、僕も出来るだけサポートはしたいんですが・・・」
「では、お願いを聞いて差し上げればいいのに・・・?」
「僕が関わらないほうがいいことだってあるんですよ」
ギルフォードは、パソコンに向かったまま言った。なんとなく寂しそうな後姿だった。
由利子は、花束をもらってみんなに見送られながら退社した。綺麗な深紅のバラの花束だった。気が抜けたようにとぼとぼと歩いていると、悲しさと惨めさと不安が襲ってきて目の前の景色がぼやけた。由利子は道端で涙ぐんだ照れくささから、立ち止まって花束を見た。赤いバラもぼやけてカスミソウの白と混じり、不思議な模様に見えた。古賀課長は気分が悪いのが納まらず、早退した。帰り際に古賀は由利子に言った。
「最後なのに見送ってやれんですまんね。がんばれよ。これは、終わりやなか、新しか門出なんやからな!」
由利子は、課長の言葉を思い出していた。
(新しい門出かあ・・・。これは新しい道に続いているんかなあ・・・)
由利子は不安になりながらも、古賀の言葉に力づけられたような気がした。
(いえ、その通りよ。第一マイナス思考なんて私のガラじゃないよね)
由利子はそう思いなおすと、軽快に歩き始めた。
ギルフォードは夕方、多美山の病室を尋ねた。多美山はテレビをつけたまま、本を読んでいたが、ギルフォードの姿を見ると、椅子から立ち上がって彼を迎えた。
「ギルフォード先生、こんにちは。昨日はどうも」
「こんにちは、タミヤマさん。こんなカッコしてるのに、よく僕ってすぐにわかりましたね」
「そりゃあもう、その背丈と長い足でわかりますよ」
多美山は葛西と会話した時のことを思い出しながら言った。
「これは?」
ギルフォードはテレビの方を見て言うと多美山は嬉しそうに答えた。
「ジュンペイが持ってきてくれたとです。なんか音がなくて寂しかもんで、つい点けっぱなしにしとおとですよ」
「小さいし軽そうですね」
「風呂ん中でも見られるそうですよ。ばってん、裸でおる時に画面上とはいえ人の顔があるってのも恥ずかしかですから、遠慮しときますけどね」
多美山は笑って言った。そんな多美山を見ながら、ギルフォードはふと、彼の体の中で凶悪なウイルスが増殖しているのは悪い冗談じゃないかと錯覚した。今朝の血液検査の数値も、怪我のせいで白血球数が増えている以外は特に異常はない様に思われた。このまま発症せずにいてくれたら・・・。だが、ギルフォードは今までもそんな気持ちを何度も裏切られてきたのだった。
「お元気そうで、良かったです」
ギルフォードは率直に言った。多美山は、笑いながら答えた。
「ええ、このまま一週間後には何もなかったように退院できるごと気になってきとります」
しかし、多美山は急に真面目な顔をして言った。
「先生、ばってんお願いがあっとです。もし、私が発病した場合、どうか遠慮なく私の身体で試して、有効な治療法ば見つけてくれんですか。そのために私が命を落としたってかまわんですから」
「タミヤマさん、もちろんそうなった場合、僕たちは出来うる限りの治療を行います。だけど、それはあなたを救うためです。今までの経験から有効そうな薬を使って経過を見るのです。けっして突拍子のない薬を使って無茶な人体実験をするようなことはありません」
ギルフォードも真剣な顔で答えた。
「お願いします」
と、多美山は頭を下げた。ギルフォードは一瞬辛そうな顔をしたが、すぐにいつもの笑顔にもどった。頭を下げていた多美山は、もちろんギルフォードのその表情には気がつかなかったが、頭を下げていなくても、マスクとゴーグルで微妙な表情には気がつかなかったかもしれない。ふいに、多美山が思い出したように手を打ちながら言った。
「あ、そうだ、もうひとつお願いがあっとですが・・・」
「何ですか?」
「こういうことを、先生にお願いしていいかどうかわからんとですが、今私がお願いできるんは先生しか思いつかんとですよ」
「かなえられるかどうかはわかりませんが、遠慮なくおっしゃってください」
「そう言って下さると嬉かですが・・・」
多美山はそれでも少し躊躇しながら言った。
「先生がもし、木曜に休みが取れるとでしたら、ジュンペイをドライブかなんかに誘ってくれんでしょうか」
「はあ、カサイさんをですか? それはまたどうして?」
ギルフォードは、不審そうな顔をして尋ねた。
「あいつは、大学からずっと東京におって、警官になってからこっちに帰ってきたようなもんなんですが、あれがクソ真面目で、ろくに有給も取らんでですね。それでなくてもこの仕事はなんかあればすぐに駆り出されて土日もあったもんじゃない事が多かとですよ。まあ、それで、念願の刑事にはなれたんですが、なんか余裕ってもんがないとですよ。そのジュンペイが久々に代休を取ったとかいうのに、私の世話に来るとかいいましてね・・・」
「いい子じゃないですか。多分そのために代休を取られたんでしょう、きっと」
「いや、いい若いもんがこんな年寄りの世話にたまの休日をつかっちゃイカンですよ。で、どうやらあいつ、先生のところにアルバイトが決まったという篠原由利子さんに好意を持っとうごたるとです」
ギルフォードはそれを聞いて少し驚いた。
「へえ、ジ・・・いえ、カサイさんがユリコのことをですか?」
「ええ、それで、一緒に篠原さんも誘ってドライブにでも行って下さればいいと思ったんですが・・・」
「う~~~ん」
ギルフォードは考えを巡らせた。木曜は特に講義のない曜日だし、多美山の容態が変わるとか、新たな感染者が運び込まれるとかなければ可能だろうと、彼は判断した。
「わかりました。誘ってみましょう。ただし、これからこの感染症の広がり次第では実行できないかもしれませんよ」
「ありがとうございます、先生」
多美山は再び頭を下げて言った。
由利子は家に帰ると、もらったバラの花束を玄関に飾った。にゃにゃ子がトンと棚の上に乗って嬉しそうに花瓶に近づくと、ぱくりとバラの葉っぱに噛み付いた。
「こら!」
由利子はにゃにゃ子を持ち上げ、ぽんと軽く頭をはたいて言った。
「ばかもの! 君にはちゃんと猫の草を置いてあるだろう?」
由利子はそのまま彼女を抱えて玄関から離れ、そのまま部屋に入り、しばらくぼおっとしていたが、立ち上がると夕食の用意を始めた。新しい旅立ちを祝うため、少し豪華な料理をメインディッシュとしてデパートで買ってきて、ちょっぴり上等なワインも買った。あとは、サラダとスープを作るだけだ。しかし、その少し豪華な食事を取りながら、由利子はとても空しくなった。ワインを半分開けると、由利子はベッドにゴロンと大の字になりながら言った。
「いやだ、私ってば昨日もしこたま飲んだばっかりやん」
おなか一杯になった上にワインが効いたらしく、由利子はそのままうとうとしてしまった。しばらくして、ブーンブーンというでっかい虫の羽音のような音で目を覚ました。寝ぼけた頭で時計を見ると、夜10時を過ぎている。羽音の正体は携帯電話のバイブ音であった。発信先を見ると、美葉からだった。由利子は急いで電話に出た。
「こんばんは~。確かお仕事今日までだって聞いてたから、どうしてるかなって思って電話したっちゃん」
美葉は由利子が落ち込んでいるのではないかと心配して電話してきたらしい。由利子は会社での様子と、帰ってから1人で門出を祝ったことを伝えた。美葉は笑いながら言った。
「いやだ、由利ちゃんってば。言ってくれたら私が行って何か作ってあげたのに」
「だめだよ、あんた、寄り道するなって言われとぉやろ、いくら私の家でもだめだよ。第一帰りが心配やろうもん」
「そうだったね~。ああ、つまんないなあ」
「あれからどうなの?」
「うん、見張りの人が変わったみたいなの。なんか若くて頼りなさそうな人」
「で、例の困ったちゃんの彼氏は?」
「CD送ってきたやろ、あれから音沙汰なしよ」
「そっか~。それはそれで気味悪いね。いい? 変わったことがあったら、すぐに110番するとよ」
「うん、わかっとぉ」
「ほんとに大丈夫かなあ・・・」
由利子はそういいつつ、ふと窓を見た。しまった、カーテンを閉め忘れている。そう思って電話をしながらカーテンを閉めようと窓に近づき、ふと外を見てぎょっとした。窓から見える電信柱の影にこちらの様子を伺う人影のようなものを確認したからだ。しかし、部屋は4階なのでそいつの様子がよくわからない。それで、目を凝らしてそいつをよく見た由利子はつい声を上げた。
「いやだぁ~もう~」
「由利ちゃん、どうしたの?」
「ヘンなヤツが外にいるって思ったら、立ちションしてるオッサンやった~。げげ、やなもの見ちゃったよお~」
由利子はそう嘆きながら、カーテンをシャッと閉めた。
「やだ、ホント?」
「うん、幸い暗かったんで、よくわからなかったけど」
「時々いるっちゃんね、夜、道端で、女性が通るとわざと立ちションして見せるやつ。こっちもシカトして通るけど、本心は撃ち殺してやりたいと思うもん」
「そうそう、射殺許可が欲しいよね」
由利子たちは何も知らず物騒な会話をしていたが、件の男は由利子の部屋のカーテンが閉まり、彼女の影が窓際から去ると、立ちションをするポーズを止め、もう一度部屋を確認した。男は微かにニヤリと笑って、立ち去っていった。
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