1.侵蝕Ⅰ (3)広がる染み
20XX年6月12日(水)
川崎三郎は、朝食を食べながら浮かない顔をしていた。
定年退職してから半年が経とうとしていたが、未だに庭いじりくらいしか趣味が持てないでいた。専業主婦の妻は、子どもが育ち上がって独立したあと、すなわち夫の在職中から旅行だの絵手紙だのフラダンスだのと充実した老後を満喫しているが、仕事一辺倒だった三郎は、唯一の趣味であったDIYと彼の職種であった造園の知識を生かして、せっせと庭の手入れにいそしむくらいしか時間の潰しようがなかった。その甲斐あって、川崎家の庭はそこらの庭園より立派になっていった。妻から「いずれ兼六園を越えるかもしれんねえ」と、しょっちゅうからかわれるくらいだった。最近では、近所の庭の手入れも頼まれるようになり、彼のセカンドライフも充実し始めていた。
三郎が浮かない顔をしているのは、今日、朝からの雨模様のせいで唯一の趣味である庭の手入れが出来そうにないからではなかった。実は、八日(ようか)前に虫にかまれたらしいところの炎症がひどくなっているのに気がついたからだった。八日前、そう、珠江の家で彼女の遺体にたかった大量の「虫」たちが三郎たちの足下を抜けた際に咬まれたあの傷である。
三郎は、あの時長い作業ズボンをはいていたが、暑いので靴下を履いていなかった。その右足首前方に逃げる虫が一匹正面衝突し、行きがけの駄賃で食いついていったらしい。
家に帰ってから、気になって咬まれたあたりを確認すると、ちょっと赤くなっているだけで特に咬み口もよくわからない状態だった。しかし1日経った頃、ちょうど蟻に刺された時のように腫れ上がったので、虫さされの薬を塗ってその場をしのいだ。薬が効いたのか、腫れは収まったのでそのまま気しないようにして放置していたのだが、昨日、また腫れているのに気がついた。それどころか、周りに小さいブツブツがいくつか出来はじめていた。三郎は医者に行くべきかと考えたが、当時のことを思い出して躊躇していた。あの時・・・。
三郎たちが通報した後、すぐに警官二人がやってきた。彼らは三郎たち5人から簡単に事情を聞くと、さっさと家の中に入っていった。三郎たちが戸口で様子を見ていると、「なんだ、これは!?」「うわっ」という声がした後、彼らはすぐに血相を変えて戻って来て、「何があったとですか、ありゃあ」と三郎たちに改めて質問をした。三郎たちは口々に状況を説明した。
「じゃあ、この家の住人は、つい最近までまったく異常なく元気だったんですね」
「てことは、大量のゴキブリに食われて仏さんがああなったっていうとですか? そんな馬鹿な」
警官の言葉に典子は見たものを思い出し、耳をふさいで身を震わせた。女性たちは典子を気遣って警官と三郎が話しているところから彼女を遠ざけた。三郎は警官たちに詰め寄って言った。
「珠江さんの死因は何かわからんですが、遺体があの虫で覆われとってその後いっせいに逃げ出したとは、あたしら全員が見とります! 今思い出したって身の毛もよだとうごとある光景やったとですよ!」
三郎の剣幕に、警官達は顔を見合わせた。信じられない話だが、確かにあの遺体の様子はそう考えたほうが辻褄が合いそうな気がした。
「これは、保健所にも報せたほうがよかな」
そういうと警官は無線で署の方に連絡をとり始めた。
三郎たちは、名前と電話番号を聞かれた後まもなく解放され、各々が家に戻って行った。しかし、皆一様に暗く辛そうな表情をしていた。
それから数時間後、三郎がなんとか空元気を取り戻し、妻とお茶を飲みながらテレビを見ていると、警察がやってきた。亡くなった秋山珠江が危険な感染症に罹っていた恐れがあるので、とにかく感染症対策センターまで来て欲しいということだった。三郎たち5人は、センターの車に乗せられて、ほとんど強制的に連れて行かれた。そこで、マスク・ゴーグル等をつけた怪しい格好をした連中から遺体発見時のことを根ほり葉ほり聞かれた挙句、遺体に接触していないということで、高熱が出る等身体の異変があった時はすぐに保健所に届ける事を条件に、まもなく解放された。だが、遺体を食んでいたらしい虫が足元をすり抜けていったということは、はたして接触していないと言い切れるだろうか。少なくとも、間接的には接触したことになりはしないか。ましてや、食いつかれたとあっては・・・。三郎は怖くなったので咬まれた事は一切口に出さなかった。もし、そのことを伝えていたならば、三郎への対応は違っていたかもしれない。
(アレが咬むっちゃあ・・・)
三郎は腫れた患部の周囲をさすりながら思った。三郎はあの時起こった事が未だに信じられなかった。ヤツらが飛ぶことは知っていたがまさか食いつくとは。その上傷がこんなことになってしまうなんて。
(熱はないごたるが、こりゃあ体の異変にあたるんやろか・・・)
三郎は、考えた。
(やとしたら、保健所に連絡せんといかん。ばってん・・・)
そんなことをしたら、あの何とかいうセンターに連れて行かれ、こんどこそ隔離されてしまうのではないか・・・。そう思うと、三郎は怖くてとても保健所に電話することなど出来なかった。しかし、普通の病院に行って、万一そこで病気が広がったら・・・。そう思うと、三郎はさらにゾッとした。
「お父さん、なんボンヤリしとうとですか?」
妻の言葉に三郎は我に返った。
「あ、すまんすまん。ちょっと考え事ばしとった」
「はやく、お食事済ませてくださいよ。私、今日の午前中は尚子さんたちとお買い物に行く予定なんですから、早く片付けたいとですよ」
「ああ、そんなこと言うとったな。悪い悪い、すぐに食べてしまうけん」
そういうと、三郎はご飯にお茶をかけて急いで掻き込んだ。
由利子はギルフォード研究室の応接セットで、借りてきた猫のようになっていた。
今日は、いつもの時間に目が覚め、日課のジョギングもこなし万全の体調で家を出た。今日はお試しとはいえ初出勤である。由利子は遅刻しないようにネットできっちりと電車の時刻を調べ、早めの電車に乗ったはずだった。ところが、間の悪いことに信号のの故障とやらで足止めを食い、結局30分ほど遅れて研究室に着いた。もちろん、遅れる旨を電話し、ギルフォードたちも「大変だったね」と、ねぎらいながら迎えてくれたが、あまり幸先の良いスタートではない。特に完璧主義の由利子には、不可抗力とはいえ初日からの遅刻は許せないものがあった。
「まあ、そんな気にしないで」
由利子の前に座ったギルフォードが言った。紗弥は紅茶をサーブした後、自分の席について仕事を始めた。
「あ、そうだ、言い忘れてたけど、今度、履歴書を持ってきてください。提出しないといけないので」
「あ、持ってきてます。・・・っていうか、退職が決まってから、次の就活用に何通か書いていたのを常備しているものですが・・・」
由利子は、バッグから履歴書を出すと、今日の日付を書き込んでギルフォードに渡した。
「へえ、準備がいいですねえ」
ギルフォードは、感心しながら履歴書を受け取ると内容を読み始めた。
「大学は東京でそのままあっちで就職されたんですね。Uターンして前職に?」
「はい」
由利子は答えた。
「やっぱり、こっちの方が良かったんですか?」
「まあ、いろいろありまして・・・。でもまあ、確かにこっちの方が暮らしやすいですね。親元も近いし食べ物も美味しいし。ただ、今再就職するとなると、こっちではかなり難しそうですが・・・」
由利子は、出来るだけ率直に答えた。
「運転免許をお持ちですが、まさか、ペーパーじゃないですよね」
ギルフォードの問いに、由利子は笑って言った。
「車は持ってませんが、運転は大丈夫です。前の会社でもけっこう使ってましたから」
「車、持ってないんですか」
「ええ、東京でもこっちでも通勤には使わなかったし、持つメリットが無かったんです。最初持ってたんですが、維持費がかかるので売っ払ってしまいました。でも、仕事では使うことが多かったんで、運転に関しては問題ないと思います」
「わかりました。まあ、車の運転をお願いすることはあまりないと思いますけど、いざというときはお願いしますね」
と、ギルフォードは笑って言った。
「で、前の会社ではどういう仕事をしておられたんですか?」
「はい、データの打ち込みや文書作成、そのほかに3D-CADを使ってパースとかも描いてました」
「パースが描けるんですか」
「はい、手描きも出来ますよ」
「すごいですね。で、データや文字を打つのは早いですか」
「普通だと思うのですが・・・」
「ちょっと僕のパソコンで打ってみてください」
「え? 今からですか」
「はい」
ギルフォードは、またにっこり笑うと言った。しかたなく由利子は立ち上がってギルフォードの席についた。ギルフォードは、その横に立つと、ワープロソフトを立ち上げ、手近な本を手に取り中をランダムに開いてそのページを指差すと言った。
「このページの最初から5行くらいを打ってみてください」
「はい」
由利子は返事をするや否や打ち始め、あっという間に作業を終えた。
「オー、さすが! 早いですね。ミスもなさそうです。OK、これなら大丈夫でしょう。ためしに僕が今から言うことを、そのまま打ってみてもらえますか?」
「はい」
「じゃ、行きますよ。『隣の竹垣に 竹立てかけたのは、竹、立てたかったから 竹立てかけた』」
「って、これ、早口言葉・・・。どんだけ日本語が上手いんですか、アレク?」
由利子は言われたとおりをほぼ同時に打ち終えてから言ったが、口調はややあきれ気味だった。
「おお、バッチリですね。・・・あ、ゆっくり慌てずに言えば、早口言葉は誰でも言えますよ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんです。じゃ、また元の席にもどりましょうか」
二人はまた応接セットに座った。ギルフォードはすぐに口を開いた。
「で、ですね。出来たら来週から本格的に来て欲しいんですけど、来られますか?」
「ええ、もちろんです」
「じゃあ、月曜の9時から、よろしくお願いしますね。バイト料等に関しては、その時に説明します」
「ありがとうございます」
由利子は、なんとか当座はしのげることがわかって、ほっとしつつ言った。
「ところでですね、明日なんですがね、ユリコ」ギルフォードが、ちょっと言い難そうに言った。「ちょっと僕たちにお付き合いしてくださいませんか」
「え?」
由利子はちょっと驚いて言った。しかし、「僕たち」と言ったからにはギルフォード1人にたいして付き合うわけではないらしい。それで由利子は聞いてみることにした。
「はあ、どういったことで?」
「たいしたことじゃないです。僕はここに来て1年以上経ちますが、あまりこの街をゆっくり見て回ったことがないんです。で、もう1人の友人と一緒に、穴場を案内して欲しいんです」
「え~っと、それは、観光案内して欲しいということですか?」
「そうです」
ギルフォードはニコニコしながら言った。由利子はひとつ気になったことを尋ねた。
「で、もう1人の友人っていうのは?」
「それは、来てからのお楽しみです」
「で、なんでそれが木曜日に?」
「え~~~っと、もう1人の都合・・・でしょうか? いいじゃないですか、ユリコもいちおう有給休暇中だし、たまには故郷観光をしてみるのもいいでしょう?」
由利子は、この人、何をたくらんでいるんだろう、と、思いながら面白そうなので受けることにした。
「わかりました。あしたですね」
「ありがとう、ユリコ。詳しいことが決まったら連絡しますね。じゃ、僕は仕事に戻りますので、ユリコはこの研究室を自由に見てください。今は、学生達はまだ来ていませんが、そろったらまた紹介しますから」
ギルフォードはそう言って立ち上がると、自分の席に戻っていった。由利子は、応接セットに座ったまま、どうしようかと考えながら、室内を見回した。
森田健二の彼女、北山紅美は、また連絡の取れなくなった健二のことが心配になって、昼頃彼のマンションを訪ねていた。
健二が浴室で倒れているのを発見して、救急車で病院に運んだあの日、結局、彼の症状は高熱ではあったが過度に飲酒した上に高温の風呂に入ったため眠ってしまい、長時間湯船に使っていたために起こした熱中症とそれによる脱水症状のせいだろうということになった。1泊したものの、翌日には熱も引いたため健二は自宅に帰された。一晩心配して彼の傍にいた紅美は、帰りのタクシーの中で、元気を取り戻した健二に言った。
「もう、どんだけ飲んでたのよ! バカ健二!!」
「そう耳元できいきい言うなよ。二日酔いでまだ頭がガンガンしてんだから」
「そりゃあ、昼間っから倒れるほど飲んでりゃあ二日酔いにもなるでしょうよ」
「違うよぉ、クミ、飲んだのは朝まで。友人達が来てさ、オレ、体調が悪かったけど、飲んだら良くなると思って飲み始めたら、勢いづいてさ、結局8時くらいまで飲んだかなあ・・・。連中が帰ったんで、それからちょっと寝たけど、汗で気持ち悪いし頭もガンガンするんで熱い風呂に入ろうと思ってさ、お湯出しながら湯船に浸かったまでは覚えとるんやけど」
「あんたさ~、そんな長い間お湯出しっぱなしのままお風呂に入ってたら、そりゃあ、熱中症にもなるよ。下手したら死んでたんだからね! 人騒がせにも程があるよ、もう」
「ありがと、クミ。君は命の恩人だよ。しかし、よく溺れんかったなあ、オレ」
「私が行った時は湯船から出てたから、無意識に湯船からは脱出したんやね。ま、大事に至らなくて良かった。せいぜい今月の光熱費の請求見て目を回してなさい」
「げげ、代わりに財布が大事に至りそうだ~~~」
健二は、両手で頭をのけぞらせて悩むポーズをした。その時、紅美は健二の首辺りにかすかな紅い点々があるのを見つけた。
「あら? 健ちゃん、首に薄紅いブツブツみたいのがあるけど・・・」
「ああ、オレ、薬飲んだ後にたまに軽い蕁麻疹が出ることがあるけん、多分それやろ。心配すんな」
「そっか、じゃ、大丈夫やね。これに懲りて、今度からお酒はほどほどにしてね」
紅美は、安心したせいか軽口をたたくくらいで、いつものように誰と飲んでたの等としつこく聞くことは無かった。それが、健二を油断させたらしい。
夕方、紅美が病み上がりの健二のために、また夕食の用意をしてやろうと彼の部屋に行くと、お見舞いと称して数人の女性が彼のベッドの傍にたむろしていた。それを目撃し頭に血の上った紅美は、そこらに買ってきたものを投げつけるとそのまま家に帰り、その後かかって来た彼からの電話にもメールにも頑として応答しなかった。しかし、火曜の深夜辺りから電話もメールもぷっつりと絶えてしまった。それでも怒りさめやらない紅美は、気に留めまいと無視を決め込むことにした。しかし、水曜になってもまったく連絡が無い。心配になった紅美は、とうとうメールを確認した。すると、最初は、ひたすら謝罪だったメールが途中から、体調を崩したことを報せる内容へと変わっていた。「なんか目が疼くし頭も痛い」から「急に高熱が出てしまった」「体中の関節が痛い」「体中に蕁麻疹が出たようだ」そしてとうとう「うごけん」という4文字のメールで連絡が途絶えた。一件入っていた留守録を聞くと
「クミ、助けて、部屋の中が、赤い・・・」
という息も絶え絶えな気味の悪いメッセージが入っていた。留守録の時間は日付の変わった水曜日の1時であった。紅美は急に心配になった。しかし、これは自分を心配させるための健二のウソかもしれない。アイツならやりかねない、とも思った。だが、それにしては切羽詰っている。紅美は悩んだ挙句、やはり彼のマンションに行くことにしたのだった。
彼女が部屋に行くと、玄関の鍵がかかっていないのに気がついた。ドアが少し開いていたのだ。彼女はドア越しに声をかけてみた。
「健ちゃん・・・?」
返事は無かった。思い切って中に入ってみた紅美は、室内に嫌な臭いが漂っているのに気がついて顔をしかめた。今回は電気も消えテレビなどの音もなく、部屋は静まり返っていた。
「健ちゃん、いないの?」
紅美は彼の部屋まで行って様子を見たが、やはり誰も居ない。ひょっとしたらと思ってバスルームも見てみた。だが、今回はそこも健二の姿は無かった。
「もう、健ちゃんってば、カギ開けっ放しでどこ行っちゃったんだろ。やっぱウソ電話やったのかな。もう、このまま帰っちゃおうか・・・」
紅美はブツブツと独り言を言いながら、また健二の部屋に入ってこんどは照明をつけた。外が雨模様のため、かなり暗かった部屋の中がぱあっと明るくなった。紅美は健二のベッドに近づいてみた。何となく枕あたりになんかどす黒いものが見えた。なんだろうと思って、紅美は掛け布団をめくったが、その瞬間彼女は悲鳴を上げていた。
「キャッ! 何これ! 血・・・?」
布団の枕元と下半身辺りに、どす黒い染みの様なものが出来ていた。よく見ると、部屋のところどころに同じような染みがあった。これは健二の身に何かあったにちがいない! そう確信した紅美は、悩んだ挙句にとうとう警察に通報した。
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