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6.暴走 (8)キープ・オン・ウォーキング

 子どもらの乗った救急車と、それを護衛するような形で警察車両が感染症対策センターまで向かった。生化学防護服を着たギルフォードは、紗弥と目的地で会う事にして葛西ら防護服組の警官達と行動を共にした。
 ギルフォードは知り合いということで葛西の横に座らせてもらった。しかし、葛西は浮かない顔をして、ずっと押し黙っている。ギルフォードは、葛西の肩をぽんと叩いて尋ねた。
「ジュン、眼鏡に替えたんですか?」
「え・・・? あ、はい、今日コンタクトを落としちゃったんで・・・」
「そうですか、眼鏡、よく似合ってますよ」
 しかし、葛西はギルフォードのフリに応じず、また黙り込んでしまった。コンタクトレンズを落とした時・・・そう、今日多美山と強盗犯を追った時は、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。今日はいつもどおりに終わり、また、いつもと変わりない多忙な明日が訪れるはずであった。だが、多美山は、あの、実直な刑事は今、致死性のウイルス感染の危機にある。何故だ! 何でこんなことになってしまったんだ!? 葛西は今にも叫びたい気持ちだった。ギルフォードはしばらく黙って葛西の様子を見ていたが、とうとう我慢できずに声をかけた。
「ジュン、タミヤマさんが心配なんでしょう?」
「あ、はい・・・」
 葛西はそう言って少し黙ったものの、思い切って話を続けた。
「あの、・・・本当は僕が美千代を取り押さえに向かうべきだったんじゃないでしょうか・・・。僕の足なら間に合ったんじゃないかって思うと、なんか僕・・・悔しくて・・・」
葛西は下を向いたまま、ギルフォードの方を見ずに答えた。
「タミヤマさんは、ミチヨさんの自殺を止めるのに失敗した時のリスクを考えて、自分より君の方が少年達を守れると判断したんだと思いますよ。僕は彼の判断は正しかったと思います」
 ギルフォードは葛西にそう説明したが、葛西は黙ったままじっとしている。ギルフォードは続けた。
「ジュン、終わってしまったことをいつまでも悔やんではいけません。君は少年達を守った。タミヤマさんはウイルスの拡散を最小限に留めた。二人とも立派に職務を全うしました。そうでしょ?」
ギルフォードに諭されて、葛西はこっくりと首を縦に振ったが、やはり口をつぐんだまま足下をぼんやり眺めている。ギルフォードも仕方なく静かにしていた。しばらくして葛西が言った。
「アレク、この防護服ってすごく暑いですね。これから真夏に向かうのに、思いやられますよ」
「僕はアフリカや南米で何度も着ました。それも、もっと宇宙服みたいなやつで、その上十何年も前だから、今より出来も良くなくて・・・。感染の恐怖でなんとか脱ぎたい衝動を抑えていたくらいです」
「僕はこれでも絶えられないくらい辛いです。汗は拭けないしうっかりすると眼鏡は曇るし・・・。もう、こんなモノを着るような事態が起きないといいですが・・・」
 そういうと、葛西は深いため息をついた。その後、またしばし黙っていたが、いきなりギルフォードの方に向かうと、ゴーグル越しにまっすぐ彼を見て言った。
「アレク、いえ、ギルフォード先生、多美さんをお願いします。どうか助けてください」
葛西の目は濡れていた。ギルフォードの顔に一瞬悲しいような困ったような表情が浮かんで消え、その後少し寂しそうな笑顔を浮かべて言った。
「もし、タミヤマさんが発症に至った場合、僕もセンターのスタッフも、タミヤマさんと共にウイルスと戦います。決して望みを捨てません。それが僕たちの使命ですから。だから、ジュンもがんばってこのテロ事件を解決してください」
 葛西はハッとした。そうだ、僕は警官だ。落ち込んでいる場合じゃない。事件は始まったばかりで、ウイルスもそれをばら撒いた犯人も野放しのままだ。
「そうでしたね。落ち込んでいる場合じゃなかったですね。また多美さんからどやされてしまうところだった。アレク、僕は警官としてこの事件に全力で取り組みます。多美さんの事、よろしくお願いします」
 葛西は再びギルフォードをまっすぐに見て言った。
 数十分後、彼等は感染症対策センターに到着した。センターの専用駐車場で、乗ってきた車両をグレーゾーンにして防護服を脱いだ。その後、防護服は滅菌、救急車と警察車両は徹底的に消毒された。

 美千代は搬送の途中で息を引き取った。致命傷を負ったウイルスに蝕まれた末期の体には、救急隊員たちの、せめて夫に会わせるまではという懸命な努力も通用しなかった。多美山は美千代の遺体に両手を合わせ、しばらくじっと動かなかったが、その後どっと疲れたように椅子に座って目を閉じた。彼は、じわじわと実感が湧いてくる恐怖と戦い始めていた。

 一方、祐一は搬送途中で目を覚ました。
「西原君、大丈夫?」
彼を心配して横に座っていた良夫と彩夏が同時に声をかけ、その後お互いの顔を見て「ふん!」と言って顔をそむけた。祐一は彼らを無視して、その後ろにいた堤の方を見て何がどうなったか尋ねた。しかし、堤は優しく笑って「いいから今は寝ていなさい」とだけ言った。ふと見ると、堤の傍で香菜が下を向いたまま黙って座っており、堤は香菜に寄り添うように座って時折優しく声をかけている。祐一は堤が香菜に考慮しているのだと気がつき、「わかりました」と言って、また目を閉じた。

 美千代は感染症対策センターに搬入され、そこで死亡が確認された。
 子どもらは感染症対策センターに着くと、簡単な調書を取られた。事情聴取は葛西と堤が行った。疲れているだろうからと、詳しい事情聴取は日を改めて行われることになった。すっかり夜が更けてしまったので、良夫と彩夏はパトカーで家まで送られることとなった。堤が彼らに付き添った。センターには祐一たちの両親がすでに待機していた。母親は祐一の顔を見るなり「バカッ!!」と怒鳴りつけ、彼の横っ面をひっぱたいたが、すぐにその場にへたりこむとおいおい泣き出した。
「かーさん、何回も心配かけてごめん・・・、本当に、ごめん・・・」
 祐一は床に膝を着き、母親の肩に手を置いて何度も謝った。両目から涙がこぼれた。父親は声をかける機会を逸して、困ったように傍に立っていた。
 香菜は、発症していた美千代と長く一緒にいたので、可哀想ではあるが念のため両親とは直接会わせず、ガラス越しの対面となり、一週間ほどセンターで監視されることとなった。一週間というのは、今までの感染者が一週間以内に発症しているからだ。まだ幼い子であることから、祐一が一緒にいることを申し出、特別に許可された。香菜の話から美千代が彼女に触れておらず、ギルフォードが香菜の感染リスクを当初考えられたよりもかなり低いだろうと判断したからだ。
 香菜の話では、美千代は直接香菜には一切触れなかったようであった。それが、香菜に美千代に嫌われているという印象を与えていた。落ち込んでいる香菜に葛西が言った。
「香菜ちゃん、僕ね、君の話を聞いて思ったんだ。美千代さんは、ホントは君が大好きだったんだよ。だから病気を感染(うつ)したくなくて、君に絶対に触ろうとしなかったんだ」
 おそらく腰紐に関しても、と思ったが、葛西はそこまでは口に出さなかった。それを聞いて、香菜は急に美千代が心配になったらしく、葛西に容態を尋ねた。
「あの、おばちゃんは大丈夫ですか? 病気は重いんですか?」
 美千代の死と多美山の負傷は、香菜には伏せられていた。葛西はすぐに答えた。
「おばちゃんはね、あの後すぐに救急車で運ばれたから安心していいよ」
 香菜はそれを聞いて、ほっとした顔をしたが、今まで気を張り詰めていたのだろう、急に堰を切ったように泣き出した。祐一は妹をそっと抱いた。妹の暖かさが心に染みて、自分のせいで妹まで辛い思いをさせたという罪悪感が広がっていった。彼は妹を抱きしめて一緒に泣いた。その傍で、葛西が1人困っていた。
 香菜は、よほど疲れていたのだろう、祐一に抱かれたまま、いつの間にか泣き寝入りをしていた。涙を流し辛そうな表情のまま眠る香菜の顔を見て、葛西の胸は痛んだ。同時にテロリストに対する怒りが徐々に増大して行った。葛西はあのスパムメール事件の時のギルフォードの激しい怒りを理解した。
 祐一が落ち着いた頃を見計らって、葛西が言った。
「あのね、祐一君。自分を責めちゃダメだ。これは、全部病気のせいなんだ。そうだろ?」
「葛西さん」祐一は葛西に向かって改めて真剣に尋ねた。「その件でお聞きしたいことがあったんです。僕はずっと考えていたんですが、この病気は意図的にバラ撒かれたものじゃないですか?」
 祐一の言葉に葛西はぎょっとした。
「こんな疫病が自然発生するなんて、不自然だと思うんです。教えてください。僕にはもう知る権利があるはずです。お願いします」
 祐一に問い詰められて葛西は悩んだ。しかし、このまま彼に事実を隠したままでいると、彼はきっと自分に怒りの矛先を向けてしまうだろう。そう思った葛西は意を決して言った。
「わかった。誰にも言わないと約束できるなら教えよう」
「約束します。絶対に誰にも言いません」
 祐一は、まっすぐに葛西を見ながら間髪を入れず答えた。葛西は、うんと頷くと言った。
「君の推理どおり、これは意図的にばら撒かれたウイルスによる感染症の可能性が高いそうだ。ただ、困ったことに、まだ誰が何の目的を持ってやっているのか、まったくわからない状態なんだよ」
「やはり、そうだったんですか」
「だから悪いのは君じゃない、こんな病気をばら撒いた連中だ。君らは被害者なんだ。雅之君や彼のお母さんを含めてね。いいかい、もう一度言うけど、決して君が悪いんじゃない。怒りの矛先を間違ってはいけないよ。いいね」
「はい」
 祐一は答えると、無意識のうちに妹を抱きしめた。

 多美山は、特別室に入れられ厳重な監視と試行錯誤の治療が開始されることとなった。彼が発症すれば、発症から経過が観察出来る患者第1号となる。人類が幸運であれば、これで有効な治療法が見つかるかもしれない。スタッフ達は、センター所長の高柳とギルフォードの指示の下、一縷の望みをかけて多美山の治療にあたるのである。

 怒涛の半日が一段落し、ギルフォードと紗弥は感染症対策センターの廊下にある自販機のドリンクでブレイクしていた。
「サヤさん、今日、僕は改めて自分の無力さを実感しました」
 廊下の長椅子に座って、ペットボトルのミルクティーを飲んでいたギルフォードは、こう言うと深いため息をついた。彼は、前のめりになって足を組み左ひざに左手で頬杖をつくと、右手で紅茶の残ったペットボトルを持ち何となくラベルを眺めながら続けた。
「子どもたちを命がけで守った刑事さんの危機を目の前にして、何も出来ないのですから・・・」
 壁に寄りかかってストレートティーを飲んでいた紗弥は、ギルフォードの横に並んで座ると珍しく優しい声で言った。
「教授、焦らないで。新型のウイルスが厄介なことは、教授が一番ご存知じゃありませんか」
「ふふ・・・、慰めてくれてるんですか? サヤさん」
 ギルフォードは紗弥の方を見ると、少しだけ笑って言った。
「それも私の仕事ですから」
 紗弥は、正面を向いたまま答えた。少し照れくさそうな顔をしているような気がした。
「今日はホントに辛かったです。ジュンが捨てられた子犬がすがりつくような眼で、タミヤマさんを助けてくれって言うんです」
「あの、落ち込んだところはそこですか?」
 と、紗弥が訝しげな顔でギルフォードを見ると、彼は真面目な顔をして言った。
「いえ、思い出したんです」
 ギルフォードは、遠くを見るような目をして続けた。
「アフリカで、子どもたちから、お父さんをお母さんを助けて、とかね、よく言われたんです。僕らが来たから助かるって、すがるような眼をして言うんです。辛かったですよ、彼等の目が期待から失望に変わっていくのを見るのは・・・。今日のジュンの眼が、もう、それと同じで・・・」
 その時、横の方で声がした。
「ギルフォード先生」
 ギルフォードは声の方を振り向き、紗弥は驚いて立ち上がった。声の主はセンター長の高柳だった。彼は50歳半ばで、一見俳優の故、平田昭彦のような渋い外見だが、意外とお茶目な面もある男だ。
「脅かしてすまんね。私もコーヒーを買いに来たんだが、なんとなく声をかけにくい雰囲気だったんで、そっと近づいて機会をうかがってたんだ」
 と、高柳はにっと笑って言った。
「そっと近づいてって、まるでライオンの狩りですね」
 ギルフォードは笑いながら言った。実際紗弥に気づかれずに近づくなんて、タダモノではない。
「珍しく落込んでいるようだね」
 高柳はそう言いながら自販機の前に行くと、ブラックの缶コーヒーを買った。そのままピシッと缶のフタを開けると一気飲みして、ふうと一息つき、ぽいと空き缶をゴミ箱に投げ込んだ。その後ギルフォードの前に立つと、白衣のポケットに両手を突っ込んで、なにやら神妙な顔をして言った。
「ギルフォード先生、君もご存知のように、森之内知事の就任後の重要な目標の一つに新型インフルエンザ対策があった。そのために知事は君の助言を乞い、君はそれに応えてくれた。その準備があったからこそ、今回のような対応が取れたわけだ。最悪の場合、広範囲に広がって表面化するまで気付かずにのほほんとしていて、気がついた時は手が付けられなくなっている可能性もあったんだよ。こんな仕事をしていると、たまに無力感に襲われるときもあるけど、君は君が思っているほど無力ではないってことさ」 
「タカヤナギ先生・・・」
「まあ、弱気になるってことは、疲れている証拠さ。これからはもっと大変だ。今日は旨い物でも食って、ゆっくり風呂にでも浸かって早めに寝るといい。じゃ、私はもうちょっとやることが残っているから失礼するよ」
 高柳は言いたいことだけいうと、きびすを返した。
「タカヤナギ先生、ありがとうございます」
 ギルフォードが高柳の後姿に向かって礼を言うと、彼は振り向かず右手を肩のところまでしゅたっと上げて答え、「おいら宇宙のパイロット♪」と、歌いながら去って行った。
「なんか、カッコつけなわりに変な先生ですわね」
「面白い先生です。じゃ、サヤさん。先生の言うとおりご飯を食べに行きましょう。今日は大変な目にあわせたから、オゴります。中華バイキングのお店でいいですか?」
「そうですわね。先生を破産させたくないからそれにしましょう」
 と、紗弥が言った。
「じゃ、行きましょうか。また後ろに乗せてくださいね。帰りは僕が運転しますから」
二人は空きボトルをゴミ箱に捨てると、並んで廊下を歩いて夜間出口に向かった。
「あ、しまった」
 と、急にギルフォードが言った。
「ナガヌマさんを問い詰めるのをすっかり忘れてました!」
「あの状態では仕方なかったですわよ」
「そうですね。じゃ、早く中華屋さんに行きましょう」
 二人はガードマンに挨拶すると、センターの建物から出、駐輪場に向かった。

 

 さて、忘れられないうちに、由利子の事についても少し触れておこう。

 辞表を提出した今日、会社の有志が急遽送別会を企画してくれ、もちろん由利子はそれに主賓として出席した。平日の、それも月曜日にも拘らず、思ったより人が集まって由利子の退職を惜しんでくれた。由利子はギルフォードや葛西が今日、大変な思いをしたなどと知る由もない。彼女は大いに飲み、大いに食べた。そして、2次会のカラオケ屋で不評を覚悟の半ば居直り状態で、アニメ『宝島』のオープニングテーマを歌ったら意外に評判がよく、それがきっかけで大アニメ祭りが始まって盛り上がりに盛り上がった。送別会は結局2時近くまで行われ、みんなへろへろになってそれぞれタクシーや代行運転を使って帰宅した。由利子は途中まで同じ方向に向かう人のタクシーに便乗させてもらった。K市からストレートでタクシーを使うとバカ高くなってしまうからだ。由利子が社内で一番遠くから通っていたのである。
 1人乗り換えたタクシーの中、何故か由利子の頭の中で、『宝島』の歌、特に2番のこの部分が何度もリフレインしていた。

海が呼ぶ 冒険の旅路で、苦しい事や嵐に きっと遭うだろう
いつも微笑みを 忘れずに、勇気を胸に進もうよ
ただひとつの 憧れだけは、どんな時にも捨てはしないさ 

由利子は、歌詞の言葉の意味をひとつひとつ考えながら、なんとなく涙が出そうになった。
(いけない、いけない。ナーバスになっちゃダメだ)
 由利子はそう思って違うことを考えようとした。
(そういえば・・・。外人なのにいつもアルカイックスマイルを浮かべているから気がつかなかったけど、アレクってあのジョン・シルバーに似ているかも)
「あの、お客さん?」
 その時、運転手が由利子に声をかけたので、彼女は我に返った。
「はい、何ですか?」
「すみません、あの、眠らないでくださいね。女性を起こすのは大変なんです。下手に触れると問題になることもあるんで」
「あ、ちょっと考え事をしてたんです。大丈夫ですよ。目は冴えてますから・・・」
「そうですか」
 運転手は安心したように言った。
(う~ん、アレクとシルバーが似てるって思うなんて、そうとう酔っているな・・・)
 由利子はそう思って苦笑した。由利子を乗せたタクシーは、深夜の道路を走り続けた。明かりも疎らになった寝静まった丑三つ時の街の道路は、異次元への通り道のようにも思えた。
(これからどうなるんだろう)
 由利子は、窓の外の闇を見つめながら、これからのことに漠然とした不安を感じていた。

(「第1部 第6章 暴走」 終わり)   
第一部:終わり

参考: 『宝島』オープニングテーマ  『宝島』エンディングテーマ

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1.侵蝕Ⅰ 【幕間】豊島家、ある夜の話

 豊島恵実子は現在、ごく普通の専業主婦である。以前は教師をしていたこともあるが、結婚して子どもが生まれたのを契機に教師をすっぱり辞め、母親業に専念することを選んだ。彼女は、公務員の夫、悟志(さとし)と二人の娘志帆海(しほみ)と裕海(ゆみ)、そして歳の離れた長男輝海(あきみ)の5人家族だが、今年長女の志帆海が就職のため東京で暮らし始めたので、4人暮らしになったばかりだった。

 4人での生活にようやく慣れた頃のある夜、恵実子がちょっと遅くなった夕食の片付けを終えて居間に戻ると、小学二年生の息子がテレビを夢中で見ていた。この日は夫は出張、下の娘は明日テストがあるとか言って、すでに自分の部屋に篭ってしまっていて、息子だけがぽつねんと、居間の床にクッションを敷き座っていた。彼はこうしてテレビを見ることが気に入っているらしい。
「こら、あっくん、とっくに9時過ぎとろうもん。寝る時間やろ!」
恵実子は息子の輝海(あきみ)の傍に座ると、何を見てるか番組のチェックをした。どうやらHNKの特集を見ているらしい。しかし、どう見ても7・8歳の男の子が喜んで見るような内容ではない。どこかの有名な医師が出てきて癌がどうのこうのと説明している。新聞のテレビ欄で確認すると、『癌治療最前線』と書いてある。
「あんた、何見とるん?」
恵実子は、画面を食い入るように見ている幼い息子の横顔を、まじまじと見ながら言った。
「なんね、お父さんが癌になったらいかんけん見とぉとね?」
しかし、息子は首を横に振った。
「違うと? どっちにしろ、もう寝んと、また明日起きんってぐずるやろうもん? さっ、おふとん行こ」
恵実子はリモコンでテレビのスイッチを切ると息子を抱きかかえようとした。すると、いきなり息子が半べそをかきながら抗議を始めた。
「おっ、おかあさんは、ぼくがガンで死んでもいいって思っとぉと?」
「へ????」
子どもは面白い。時折とんでもないことを言って大人を面食らわせることもよくある。恵実子の息子も例に漏れず・・・というか、上の子達と比べたらそういうことがずいぶんと多いような気がした。男の子のせいかしら?と恵実子は思った。まあ、そのおかげで退屈しない毎日を過ごせるのだが。
「何ね、あっくんは自分のために一所懸命見よっとね」
「うん」
輝海は、しかつめらしい顔をしながら答えた。
「わかったわかった。じゃ、おかあさんもあっくんが癌になったらイカンけん、いっしょに見ようかねえ」
恵実子は仕方なくテレビを点けると、輝海の横に並んで座った。しかし、昨夜寝るのが遅かったせいか、ものの十分もしないうちに、睡魔が襲ってきた。あくびを連発しながら、我が息子の様子を見ると、さっきまでの真剣さはどこへやらで、下を向いて船を漕いでいる。
(予想通りやね。でも、私の方が先に寝てしまいかねん状態やけど・・・)
恵実子の心配は当たらず、その後3分ほどで輝海は恵実子の膝を枕に夢の国で続きを見ていた。恵実子は輝海のふくふくした頬を人差し指で「ぷにっ」と押してみた。起きない。すでに爆睡状態である。
「よっしゃ、寝た!」
と、恵実子は輝海をよっこらしょと抱え上げた。「よっこらしょ」。若い頃は滅多に言うことのなかったこの言葉を、最近は1日のうちに何度も言うようになったなと、恵実子は思った。年齢と共に年々体力が衰えてくる。それは仕方がないことだと恵実子は達観していた。しかし、それでも自分の体力が衰えていることを実感してため息をつくこともある。恵実子は輝海を抱えて寝室に連れて行った。
「やっぱ、こういうときはお父さんが居らな困るねえ」
と、恵実子は独り言を言った。ようやく息子をベッドに寝かせると、幸せそうに眠るちょっぴりユニークな我が子の寝顔を見ながらしみじみと思った。
(でもさ、こういうのを『幸せ』っていうんだよね)
なんの変哲もない、日常の切片の積み重ね。悲しいことや辛い事も沢山ちりばめられているけれど、それでも平均すれば幸せのラインにいる。特別じゃないけれど平穏。
(だけど、これで充分!!)
恵実子はそう思うと、輝海の頭を撫でて電気を消し、そうっと部屋を出た。
「さて、これからたまったDVDでも見るか!」
子どもも寝たし、夫は出張だし・・・と、恵実子はつかの間の開放感に背伸びをして居間に向かった。
 紅茶をたっぷりポットにを用意して、お茶菓子も出して、さて何を見ようかとDVDを物色していたら娘の裕海が居間に入って来た。
「あ、DVD、私、『トータル・フィアーズ』がまた見たい! カップ持ってくるけん、ちょお待っとって」
「あんた、勉強は?」
「あ~、終わった終わった」
裕海はキッチンに行って自分のカップを持ってくると、母親の横にすわって勝手に紅茶を注ぎ始めた。
「『トータル・フィアーズ』やね。これ1本見たら、ちゃんと寝るとよ」
恵実子は、娘に夜更かししないように釘を刺した。
「わかった、わかった」
と、裕海が軽く返事をした。
(あまりアテにならんごたるね)
と、恵実子は思った。そして、母娘の映画鑑賞が始まった。中盤ほど見たところで、恵実子が言った。
「こわいね、核テロとか、ホントに出来るっちゃろか?」
「911テロとか現実にあったけんね。これも911の後に製作された映画やし。原作ではテロリストは中東関係のグループだったのを、洒落にならんからって極右団体に変更されたらしいよ」
と、裕海。好きなだけあって詳しい。
「そういやあ、日本でも世界に先駆けてサリンテロとかあったもんね」
「あまり、そういったもんで先駆けてほしくないなあ」
「あ、核爆発した!」
「これ、大統領もたいがいに放射線被曝しとるよなあ」
「死の灰、死の灰」
「平気で走り回っとぉやん、ジャック」
「あははは」
母娘で突っ込みを入れながら映画を見るのはそれなりに楽しい。そして、平和な豊島家の夜は更けていった。

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1.侵蝕Ⅰ (1)悪夢の明けた朝

20XX年6月11日(火)

 朝、多美山が目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋ではなかった。一瞬自分の置かれた状況が理解できなかったが、昨日の一連の出来事を思い出し、さらに自分が隔離状態にあることを思い出した。
 多美山は身体を起こすと、昨日怪我をした右手を見た。綺麗に包帯が巻いてあり、過度に出血しているようには思えなかったが、化膿しかかっているような軽くズキズキとした痛みがあった。そのほかは特に熱もなくいつもどおりの至って良好な体調であるように思えた。多美山は、ふと、これは現実なのだろうかと思った。実は俺はまだ自宅で眠っていて、これは夢の続きを見ているのではないか?と。しかし、それが現実逃避であることは、多美山自身がよくわかっていた。
 彼は、起き上がると病室の中を少しうろうろとしてみた。昨夜は疲労困憊して、この部屋の確認をする余裕もなく眠ってしまったからだ。
 部屋はビジネスホテルのシングルルームに似ていた。ベッドが1床置いてあり、サイドデスクもある。トイレ付きのバスルームも完備しており、この部屋を一歩も出ずに生活できるようになっている。逆を言うと、この部屋から一歩も出れないということでもある。さらに、部屋全体の白さが否応なく病室ということを感じさせた。昨日の説明では、部屋は陰圧に保たれており、中の空気が外に漏れないようになっているということだった。さらに、ベッドの横には空気清浄機までセットされていた。『窓』はあるにはあったが、それは部屋から外を見るものではなく、スタッフステーションから患者の様子を見るためのもので、多美山はまだ発症していないので、プライバシーを守るために今はきっちりと閉じられていた。窓のない代わりに、美しい湖水地方の絵の描いてある額縁が飾られている。要するに、少々消毒臭いのと、若干の閉塞感のあるものの、ビジネスホテル並みの快適さは補償されているようだった。ただし、病原体が外に漏れない構造故に、照明がすべて消えれば昼間でも暗闇になってしまうだろう。スタッフステーションの周りにはこのような第1類感染症用の隔離病棟が4部屋で、最大8人を治療することが出来、そのひとつに西原兄妹がいるという。4部屋というとかなり少ないが、旧センターでは2床しか用意されていなかったのだから、大躍進である。そのほか、2類用には最大100床の用意ができるようになっている(因みにこれらの部屋は平時は普通の病室として使われている)。しかし、新型インフルエンザのような感染力の強い疫病が発生した場合、それでも全く足らないのは明らかだ。
 秋山雅之の父、信之は1週間経った後発症しなかったということで、日曜夕方に「退院」した。もちろん、その後も経過の報告が義務付けられ、体調を崩した場合は再度感対センターに入院となる。退院にあたって、信之の姉が迎えにきた。母親と息子が死に、妻も行方不明のため誰かがしばらくついているべきだと病院側が身内に連絡したところ、すぐに姉がやってきたのだった。彼は、帰ったら息をつく暇もなく、母と息子の葬儀の準備に取り掛からねばならなかった。その翌日に妻の死を伝えられ、再び感対センターに姉と共にやってきた信之の姿は哀れなものであった。実はギルフォードの落ち込みのひとつはそれのせいでもあった。あの状態の信之を家に帰すべきではないと、ギルフォードは主張したが、信之自身が葬儀の準備ために帰りたがっており、人権上これ以上拘束することは出来ないということで、一晩様子を見ただけで帰されてしまった。もちろん、妻の遺体は感染の危険があるため連れて帰ることは出来なかった。
 多美山は検査室に向かう途中、待合室で姉と共に呆けたように座っている信之の姿を見た。
(俺がもっとさばけとったら・・・・)
多美山は、自責の念に駆られた。
 多美山は昨夜の信之の姿を思い出して、サイドデスクの前に座るとため息をついた。しばらくそこでぼうっとしていたが、続け様に昨日のことがいろいろ思い出されて辛くなった。それで、テレビはないが、ラジオは聞けるようになっているようなので、ためしに点けてみた。ちょうどニュースが流れていたが、昨日の件については全く報道されていないようだった。
 しばらくすると、コンコンとドアをノックする音が聞こえて、「多美山さん、おはようございます」という声と共に、中背で痩せ気味の看護師らしき男が入ってきた。彼はゴーグル・マスクにガウンといった出で立ちで、それは多美山に自分が危険な病原体の感染の疑いがあるという現実を認識させるに充分だった。
「あ、起きていらっしゃいましたか。このような姿で申し訳ありません。しかし、これは規則なものですから」
看護士は言った。
「私は今日からあなたの担当をいたします園山修二と申します。何かあったらお気軽におっしゃって下さい」
若いが礼儀正しそうな男だった。多美山も立ち上がって言った。
「こちらこそ、お世話になります。ひょっとしたらこれから色々ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
「あ、お気遣いなく。どうぞお座りください」
園山は多美山を座らせると続けた。
「ご気分の方はいかがですか?」
「すこぶる良好です、と言いたい所ですが、昨日怪我をした傷がちと痛みますな」
「後で先生に傷の様子を見てもらいましょう。これから、どんな些細な体の変調でもいいですから、必ず報告してください。治療に於いての方向性もそれによって変わってきますから」
「わかりました。極力お伝えするようにします」
と、多美山が答えた。

 由利子は、朝6時半に猫達のご飯ちょうだい攻撃によって起こされた。
 昨日は結局、帰り着いてソッコーでシャワーを浴びて化粧を落として床に就いたのが3時だった。ブログの更新も止む無く休んだ。流石に実質3時間ちょっとの睡眠時間では厳しい。単に夜更かししただけならなんてことはないが、昨夜は月曜ということである程度自粛はしていたもののそれなりに酒は飲んでいる。起きるのは大層辛かったが、自業自得である。由利子はなんとか布団から身体を引っぺがすと、の~っと起き出してトイレに入り、そのままバスルームに直行し熱いシャワーを浴びた。しかし、いつものように芯からしゃきっとしない。今日は日課としているジョギングをする時間もない。しかたがないので少しだけストレッチをしてお茶を濁すことにした。その前に、窓を開けて外を見ると、空はどんよりと曇っていた。
「ああ、梅雨の季節だなあ・・・。傘、いるかな」
由利子はつぶやいた。沖縄の方はすでに入梅(つゆいり)しているから、こっちもそろそろだろう。由利子は憂鬱になった。彼女は雨の日は嫌いではない。しかし、梅雨は・・・。今年は陽性の梅雨だったらいいな、と由利子は思った。晴れた日が多くて降る時はどっかんと降る。
(あ、いかん、さっさとしないと遅刻やん)
有給消化のため、実質今日が由利子の最終出勤日となるので遅刻は出来ない。由利子は急いでストレッチを始めた。その後、由利子はメールとブログのコメントやトラバのチェックをし、スパム関連を削除すると、猫と自分の朝食の準備に取り掛かった。そして、なんとかいつもの時間に家を出、会社に向かった。
 会社では、感心にも昨日の送別会参加組の面子は全員無遅刻で来た。皆寝不足の顔をしながら仕事はしっかりこなしている。ただ、昨日何故か一番はじけていた古賀課長がひとりどんよりとしていた。机の上にはポカリスェットの500mlペットボトルが置かれており、ひどくキツそうにしていた。
「おはようございます。大丈夫ですか」
と、由利子は声をかけた。古賀は由利子の顔を見ると苦笑いしながら言った。
「うん、昨日は調子に乗りすぎたけんね。やっぱ、歳には勝てんなあ。昔はあの程度の酒じゃなんてことなかったばってん」
由利子はそれに答えずに、笑ってごまかした。古賀は続けた。
「篠原君は相変わらず強いなあ。ところで出社は今日までやったね」
「はい、お世話になりました。急なことで申し訳ありません」
由利子は答えた。
「いやいや、会社の都合やけん君のせいやないもんな。余った有給は使わんともったいないし。ちょうど仕事も暇な時期やから心配せんでいいよ。で、こんなことを聞ける立場やなかけど・・・、これからの予定は決まっとぉとか?」
「はい」由利子は答えた。「とりあえずアルバイトをしながら次を探します。バイト先はもうあたりをつけてますんで」
「そうか、さすが決めたら行動が早かね。ま、身辺整理が終わったら今日はゆっくりしていなさい。あ、後、何がどこにあるかわかるようにしとってね」
「はい、ありがとうございます」
由利子は、古賀に一礼すると自分の席に戻り、机の中の整理をすることにした。

 葛西は、ドキドキしながら病室のドアを叩いた。鈴木係長に言われて多美山の様子を見に来たのだ。2・3秒躊躇した後ドアを開けると、サイドデスクの前に座って本を読んでいた多美山が、顔を上げて葛西の方を見た。

「よお、ジュンペイ」多美山は葛西を見ると笑顔で言った。「なかなか素敵な格好やね」
多美山に言われて、葛西は自分の対感染症の厳重な井出達を確認しながら苦笑いをして言った。
「もう、昨日からこういうカッコばっかりですよ。でもよかった。多美さん、元気そうで」
「おお、傷がちょっと痛むくらいで、あとはまったくいつもどおりで異常なかとたい」
「そうですね。こんなの着てるのがばからしく思えますよね。脱いじゃおっかな」
葛西が言うと、多美山が真顔で言った。
「馬鹿なことを言うちゃいかん。それに刑事たるもの・・・」
「目先で判断しちゃイカン・・・でしたね」
葛西は多美山の言おうとしたことを先に言った。
「それに、決まりは守らないといけませんよね」
「そういうこったい。でもなあ、正直相手の顔、特に表情がようわからんとは辛かばってんが・・・」
「そうですか・・・。でも、僕ってよくすぐにわかりましたね」
「そりゃあ、わかるばい。相棒やろうもん。あと、何でかギルフォード先生もわかっとたい」
「でかい上に足が長いですからね」
二人はそういうと笑った。とりわけ葛西は多美山に「相棒」と言われ、嬉しかった。
「ばってん、元気なおかげで退屈でな。とりあえず看護士に頼んで適当に本を持ってきてもろうたったい」
「へえ、アガサ・クリスティですか。定番ですが、僕も高校生の頃一時期凝ったなあ」
「何十年かぶりばい、ゆっくり推理小説やら読むとは。やはりポアロのシリーズは面白かね」
「テレビドラマでやってましたよね、ポアロ。あれ、イメージにピッタリですね。声優さんの声がもうあの風貌にこれまたピッタリで・・・」
「あの声優がヒッチコックの声をあてるとまた絶妙でなあ・・・。ところでおまえ仕事は?」
「はい、朝からここで、祐一君たちから事情を聞いてました。で、鈴木係長から多美さんの様子も見てきてくれと言われまして・・・」
「そうや。あん人も気を遣うけんなあ。そういえばコンビニ強盗事件の調書が途中やったけど、どうした?」
「あれから署に帰って書き上げました。書き直しナシで無事に受け取ってもらえましたよ」
「そりゃよかった。」
「それより、多美さん。聞いたらテレビを置いてもいいっていうんで持ってきたんですよ。激安店で特売品の小型テレビですが・・・」
「おいおい、激安ってもテレビやけんそれなりの値段のするやろ。ここは隔離病棟やけん持って出れるかどうかもわからんとに、もったいなかけん気を使わんでっちゃよかたい」
「いいからいいから。一課のみんなでお金出し合って買ったんですよ。ちょっと待ってくださいね、持ってきますから」
葛西はそういうと、テレビの一式を抱えて持ってきて、さっさとセットしはじめた。手袋をはめての作業なので、多少てこずっていたが、なんとかセットを終えた。
「小さいですが持ち運び出来るし、お風呂でも見れますよ。じゃ、点けてみます」
葛西は電源を入れた。
「ほおお、小さいけど見やすかね。最近のデジタルもんの躍進はハンパやないなあ」
テレビは午後のワイドショーを映していた。多美山はそれを見ながらしきりに感心していたが、急に眉間にしわを寄せて言った。
「おい、ジュンペイ、昨日の事件ばってん、なんか報道されとったか?」
「いえ、それが全然です。報道が規制されてるんかなあ。まあ、ローカルな事件だし、報道されるにしても地方のニュースだったでしょうけど、結局自殺で終わったというのも、報道されない理由かもしれません。」
「う~~~ん、そんなもんかなあ。まあ、事件に関わった人たちのことを考えたら、報道されんで良かったとは思うばってんが・・・」
そういうと多美山は考え込んだ。
「そういや、病気をばら撒いた犯人からの犯行声明もまだなんやろ?」
「アメリカの炭疽菌テロ事件の時も結局正式な犯行声明は出されなかったようですから、なんとも言えませんね。犯人の目的もまださっぱりわからないですし・・・。それに、もし、もしですよ、病気を広めることだけが目的だった場合、犯人達がまったく表に出てこない可能性だってあります。でも僕は、彼、あるいは彼らが挑戦状メールを送ってきた事から考えて、いずれはなにかコンタクトを取ってくるとは思っていますが・・・」
「本当に気持ちの悪か事件やな」
多美山は憮然として言った。多美山はしばらく腕を組んで黙っていたが、不意に葛西の方を見てにやりと笑いながら言った。
「ときにジュンペイ、おまえ先生のとこで、偶然篠原由利子さんに会ったって嬉しそうに言うとったな」
「ええ、お互いに指を指して驚きましたよ、・・・って、嬉しそうにって、そんなでしたか、僕?」
「おおよ。俺の言うたとおり、おまえのストライクゾーンやったろ、彼女」
「やだな~、多美さん。・・・じゃ、僕、仕事があるんで、そろそろ帰りますね。祐一君たちから聞いた話の調書を作らないといけないんで。夕方からは佐々木君たちの事情聴取です」
雲行きが怪しくなってきたし、あまり長居も出来ないので葛西は退散することにした。
「そうやな。今日はありがとうな。こいつのおかげで退屈せんで過ごせそうや」
多美山は少し寂しそうに言った。葛西はなんとなく後ろ髪を引かれたような気がして言った。
「明日も時間見て来ますね。それから、僕、あさっての木曜日にこの前の代休を取ることにしたんで、ここに来ようって思ってるんです。奥さん亡くなってらっしゃるし、多美さんの息子さん、東京だからすぐには来れないでしょ?だから・・・」
「ジュンペイ、俺なんかのために貴重な代休を使わんでよかけん、ゆっくり休め」
「いいからいいから。では、失礼します!」
葛西は急に多美山に向かってびしっと敬礼すると、一礼して部屋から出て行った。残された多美山は、椅子に座ったままドアの方を見ながら、軽いため息をついた。病室が妙に広く感じた。白い室内に、ワイドショーの司会の大袈裟な声が空しく響いていた。
「こういうのも久々に見るが、そういや俺、こいつ嫌いやったったい」
多美山はそう言いながらもう一度ため息をつくと、チャンネルを変えることにした。

 日ごろから整理整頓を心がけている由利子にとって、身辺整理はたいして時間もかからず、午前中には終えてしまった。昼休みには、また黒岩が弁当を持って遊びに来た。食べながら黒岩がしみじみと言った。 
「いっしょにおべんと食べるのは、今日が最後やね」
「そうですね。お互い入社して長いけど、こうしてお昼を一緒に食べだしたのって最近ですよね」
「あ、ほんとやね。なんか篠原さんって近寄りがたいイメージがあってさ~。こんな人ってわかっとったら、もっと早う親しくしとったのにって思うよ。残念!」
「あ、それ、私も黒岩さんのこと、そう思ってました」
「なんだ、お互い敬遠しあってたのか~」
お互い様ということがわかって、二人は笑った。
「で、バイトはいつから?」
と、黒岩が聞いた。
「先方次第ですが、来いといわれたら明日からでも行ってみようかなと」
由利子が答えると、黒岩が言った。
「それ、確認しとったほうがいいっちゃないと?」
「そうですね。もう少ししたら電話してみます」
由利子は、それもそうよねと思いながら答えた。

 ギルフォードは何となく落ち着かなかった。知事が直接電話をかけてきて、夕方頃ギルフォードの研究室に来るというのだ。何の用件か気になって、昼食のほか弁を食べながら紗弥に言った。
「いったい、何の用なんでしょうかねえ、サヤさん?」
紗弥は、カップのもやしみそラーメンを食べる手を止めて答えた。
「流れから考えても、昨日の事件を受けての訪問じゃないでしょうか?」
「やっぱりそう思いますか」
紗弥の答えに、ギルフォードはうんうんと頷きながら言った。
「しかし、サヤさん、お昼にカップラーメンなんて不健康じゃないですか? それも1.5倍って・・・」
「いえ、ちゃんとバランスを考えてますわ。この後に100%野菜ジュースと特保のピチピチ乳酸菌入りヨーグルトもいただきますもの」
「健康なんだか不健康なんだかよくわからないメニューですねえ・・・」
その時ギルフォードの携帯電話が鳴った。例の笑い声が入ったワルツの着メロだ。
「あ、ユリコからです。バイトの件かな。・・・はい、ギルフォードです。・・・こんにちは、ユリコ」
ギルフォードはニコニコしながら言った。
「え? バイトはいつから来たら良いかですか?」ギルフォードは紗弥に向かって、やっぱりそうだったよというようにウインクした。
「ユリコはいつから? ・・・・。明日から有給取って休む? そうですか、ユリコがいいなら、明日、ウォーミングアップのつもりで出てきませんか? ・・・・・。そうですか、来てみますか」
ギルフォードは嬉しそうに続けた。
「じゃ、明日は9時くらいに出てきてください。いいですか? OK? わかりました、じゃあ、明日、お待ちしていますね」
ギルフォードは満足そうに電話を切って紗弥に言った。
「明日から来れるそうですよ。嬉しいですね」
「そうですか。じゃあ、由利子さん用の机を用意しておかないといけませんね」
と、紗弥がいつものポーカーフェイスで答えた。

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