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6.暴走 (4)イレギュラー

 真樹村極美(きわみ)は財布の中身を見てため息をついていた。帰りの旅費を引くと1000円にも満たない。彼女は20代後半、背が高く細身でかなり華のある美人だ。それもそのはず、今彼女は駆け出しのジャーナリストとして弱小週刊誌の記者をしているが、少し前まで「KIWAMI」という名でグラビアアイドルをしていた。しかし、チャンスに恵まれず鳴かず飛ばずだったグラビアの仕事に見切りをつけて、思い切って今の職業に転職したのだが、ほとんど枕営業でやっと入り込んだ今の仕事も鳴かず飛ばずは相変わらずで、見入りは以前よりかなり悪くなってしまった。今回もデスクに命令されてK市の暴力団抗争の取材にはるばる九州まで行かされたのだが、命令された段階で既に出足から遅れており、後手後手に回ってろくな取材も出来ずに終わってしまった。ここまでされて流石の極美も、自分が厄介者扱いされていることに気がついた。彼女は腹が立ってなんとか一矢報いたいと思いつつ、どうしようもない現実に持って行き場の無い苛立ちを感じていた。このままおめおめと東京に帰るのか・・・。それとも自腹を切って取材費を出し、もう数日取材を続けるか・・・。そう考えながら、K駅のコンコースを歩いていると、美味しそうなにおいがした。見るとうどん屋の暖簾がかかっている。腹が減っては戦が出来ない・・・。それにうどんなら安く食べられるだろう。そう彼女は考えて、うどん屋の暖簾をくぐった。
(肉うどん・・・。大エビ天ぷら2尾入りの上天ぷらうどん・・・、あ、蕎麦もあるじゃん)
メニューを見ながら彼女はごくりと唾を飲み込み、朝から何も食べていなかったことにようやく気づいた。少しは栄養があるだろうと、ペットボトルのミルクティーを1本買って飲んだだけだ。極美は続けてメニューを見た。
(昆布うどんにワカメうどんって・・・ヘルシーじゃん。へ~え、ごぼう天うどんってのがある、何これ・・・、あ、練り物のごぼ天じゃなくて、切ったゴボウに衣をつけて揚げた天ぷらが入ってる。おいしそー)
しかし、極美は財布の中身と相談した末に一番安いかけうどんを注文した。うどんはすぐに来た。来たうどんを見て極美はちょっと嬉しかった。ネギだけではなく、ペラペラのスライス状ではあるが縁が紅色の板かまぼこが2枚入っていて彩を添えていたからだ。かけ汁は関東に比べるとやはり色がかなり薄く関西風ではあるが、見た目ほど甘くはなく、昆布と鰹のだしが効いていておいしい。極美はあっという間に平らげると、最後に水を一気飲みしてようやく人心地がついた。そしてしばらくここで休んでこれからのことを考えることにし、傍に置いてあるウォーターピッチャーからコップに水を注いだ。道は二つ。彼女は水をちびちび飲みながら考えた。このまますごすごと帰るか、確率の低いスクープを求めて、自腹で取材を続行するか・・・。
 そんな中、極美は近くの席に座って話している、40代くらいの主婦らしき女性二人の話が耳に入った。
「ねえ、この前、ここから少し行ったところにあるA公園で、ホームレスの大量死が見つかったやない?」
「4人が大量というかはともかく、気持ち悪い話ではあるね」
「あれね、暴行死っていう話やけど、実は伝染病じゃないかってウワサもあるとよ」
「ああ、アタシも聞いたことある、そのウワサ。早朝の公園に防護服を着た人がいっぱい居たとか、警官が他のホームレスにも熱を出したのがおらんか聞いて回っとったとか」
「実際数日間立ち入り禁止になっとったし消毒臭かったけんね。まあ、死体が四つも出たっちゃけん、それも不思議じゃなかばってんが」
「あれ以来、あの公園に近づく人もめっきり減ったけん」
「ここのバスセンター界隈にもホームレスの多かろうが。なんか気持ちの悪かばってんが」
「なんとかならんとかね、あん人たちゃ」
極美のアンテナが何かを察知した。彼女は女性たちの席の近くに椅子ごと移動すると声をかけた。
「すみません、その話、詳しくお聞きしていいですか?」
「詳しくって言うたって、ウチらもそげん詳しいことは知らんとやけどねえ」
女性達は、困惑したような表情でお互い顔を見合わせた。

 

 授業を終えた香菜は、途中まで同じ道の友だちと別れた後一人で自宅に向かっていた。その横に、一台の自動車が止まって中の女性が香菜に声をかけた。
「香菜ちゃん!? 西原香菜ちゃんでしょ?」
香菜は振り返って首を傾げながら尋ねた。
「はい、そうですけど、あのぉ、おばちゃん、だれですか?」
「私? 私はあなたのお母様、真理子さんの友だちで、秋山美千代っていうの。それより、お兄さんの祐一君が大変なのよ」
「ええ!? おにいちゃんってば、またたおれちゃったの?」
「そうよ。それでお母さんに頼まれたの。一緒に来てくれる?」
「はい。ありがとうございます」
香菜は、美千代が綺麗で優しそうな女性で母親の友だちと名乗り、さらに母親や兄の名前も知っていたので、安心して車に乗り込んでしまった。
 しばらく香菜は大人しく助手席に座っていたが、家では絶対に乗せてもらえない慣れない助手席と、なかなか目的地らしきところに着かないことから、不安になって恐る恐る美千代に尋ねた。
「あ、あのっ・・・、どこまで行くんですか?」
「お兄ちゃんの学校の近くの病院よ。学校の中で倒れたらしいの」
「じゃ、遠いからなかなかつかないですよね・・・。おにいちゃん、だいじょうぶかしら? きのうはもうだいじょうぶって言ってたのに・・・」
「そうね・・・、大丈夫だといいわね」
美千代はそっけなく答えた。美千代の態度に香菜は若干の不安を覚えたが、兄への心配が先立って美千代を疑うことは微塵もなかった。それより、香菜は美千代の顔色の悪さが気になった。この人、本当は気分が悪いんじゃないかしら・・・? 香菜はそう思ったが、気を遣って質問することを控えた。しばらく走って美千代はコンビニの前で車を止めた。
「祐一君の状態を尋ねて来るわね。・・・香菜ちゃん、携帯電話持ってる?」
「ううん、まだ持たせてくれないの。でも香菜今のところ無くても平気・・・です」
「そう、じゃ、そこの公衆電話でかけるから、そこで大人しく待っていてね」
美千代はそう言うと、香菜を助手席に残して公衆電話に向かった。

 帰りのSHRの時間、校内放送が祐一に電話がかかっていることを告げた。祐一は担任に席を立つ許可をもらい、事務室に急いだ。事務の先生が祐一に言った。
「あ、西原君、なんか秋山雅之君の叔母っていう方からよ。秋山君のお葬式のことでお知らせしたいことがあるって・・・。可愛そうに、雅之君・・・」
彼女は何かを思い出したように涙ぐみながら事務室内に戻って行った。祐一は窓口にある電話に出て、恐る恐る言った。
「もしもし・・・?西原ですが」
「祐一君ね。久しぶりだわ。すっかり声も大人ねえ」
「え? なんですか?」
祐一は、想像した電話の内容とのあまりの相違にいぶかしげに言った。
「うふふ。私・・・、雅之の母よ。昨日チラッと目が合ったわよねえ」
「やっぱりあれはおばさんだったんですか・・・。すみません、僕がついていながらあんなことに・・・」
祐一は、彼なりの誠意を伝えた。しかし、相手はヒステリックに言った。
「いい加減なこと言わないでよ! 私のまあちゃんは死んでしまったの。あなたに謝ってもらっても帰ってこないのよ!!」
「・・・」
祐一には返す言葉が無かった。
「今ね、誰と一緒だと思う?」
美千代はさっきとはうって変わった落ち着いたトーンで尋ねた。祐一は状況が全く読めずに尋ね返した。
「どういうことですか?」
「今ね、香菜ちゃんと一緒よ。・・・赤ちゃんだったあの子がこんなに大きくなって、それにすっごく可愛いわ。私も二人目に女の子が欲しかったんだけど、ダメだったわ・・・」
「・・・? それで、なんで香菜がおばさんといるんですか?」
祐一は不安になって聞いた。
「あの子、ホントに可愛いわ。危険な目にあわせたくないでしょ?」
「どういうことですか?」
祐一は、高いところから下を見下ろした時のように、足下からのズシンという衝撃を感じ、一瞬倒れそうになった。
「祐一君、私ね、まあちゃんがホームレスを暴行したとかいうの、信じてないのよ。本当はあなたでしょ。私は騙されないわ」
「いえ、僕は嘘はつけません。それだけは事実なんです、おばさん・・・」
「いいわ。これから1時間後、例の公園で会いましょ。待っているわ。そこでその時の説明をしてちょうだい。絶対にボロを出させてあげるわ」
「わかりました。わかりましたから、香菜を家に帰してやってください。香菜を人質にしなくても、必ず僕はそこに向かいますから」
祐一は必死で懇願したが、美千代は頑として聞き入れなかった。
「そうだわ、念のためあなたの携帯番号を教えてちょうだい」
祐一は仕方なく番号を教えた。
「いいわね、一人で来るのよ。香菜ちゃんを無事に返して欲しいでしょ?」
(無事に・・・?)
祐一はその言葉が引っかかった。まさか・・・?
「おばさん、ひょっとして・・・どこか具合が悪いんじゃないですか?」
「私の体調なんてあなたにはどうでもいいでしょ? ・・・それともあなた、何か知ってるの?」
「いえ、ただ、僕はギルフォードさんという人に・・・」
その名前を聞いた美千代は、再び冷静さを欠いて言った。
「なんですって!? あの元米軍の恐ろしい細菌学者とお知り合いなのね。ほら、ひとつボロが出た。この決着は公園でつけましょう」
そう言って美千代は電話を一方的に切った。
「はあ?」
祐一は美千代の捨てゼリフの意味がわからずに、電話が切れた後も数秒間受話器を見つめていた。元米軍の恐ろしい細菌学者って何だよ・・・。
「西原君、どうだった?」
事務の先生が出てきて尋ねてきたので、祐一は適当に答えて教室に戻った。帰りの会はほとんど終わりつつあった。最後に礼をして今日のカリキュラムが終わった。皆が部活やら帰宅やらの準備や世間話でざわついている教室で、祐一は席に座り、机に両肘を着いて両手で顔を覆いながらさっきの電話について必死で考えた。とにかく香菜が心配だった。雅之のお母さんは、完全に何か誤解している。だけど、病気のことを何故か気がついていて、ギルフォードさんのことについても何か知っているらしい。祐一は考えると余計に何がなんだかわからなくなった。しかし、とにかく行って誤解だけは解かないと・・・。
(だけど・・・、もしおばさんに雅之の病気が感染っていたら・・・)
祐一はゾッとした。彼は彼なりにこの疫病について仮説を立てていたからだ。
(香菜・・・。無事でいてくれ・・・)
祐一は知らず知らずのうちに、両手を額のところで組んで何者かに祈っていた。
「西原君、どうしたと?」
その声に祐一はハッとして顔を上げると、良夫が心配そうに顔を覗き込んでいた。
(しまった、厄介なヤツに気がつかれてしまった・・・)
祐一は思った。美千代は1人で来いと言った。状況を説明したら、良夫は絶対に付いて来たがるに違いない。だけど、それは香菜だけでなく良夫まで危険な目に遭わせる事になる・・・。祐一は当惑しながら良夫の顔を見た。

 美千代は、車に戻ると香菜にコンビニで買った紙パックの100%オレンジジュースを与えた。
「さ、喉が渇いたでしょ、お飲みなさい」
「はい、ありがとう」
香菜は素直にジュースを飲み始めた。美千代は自分用にスポーツ飲料を買っていた。しかし、彼女は一口飲むと、そのまま蓋を閉めてボトルホルダーにそれを置いてしまった。香菜はそれに気がついて美千代の顔をなんとなく見て驚いた。
「おばちゃん、すごい汗。だいじょうぶ? お熱があるんじゃないですか」
香菜は美千代を心配して、母親がやるように彼女の額に手を伸ばした。
「触らないで!」
美千代は香菜の手を跳ね除けた。香菜は予想外の仕打ちに怯えて泣きそうになった。
「ご、ごめんなさい。もし、風邪だったらいけないわ。香菜ちゃんに感染っちゃったら困るでしょ? おばちゃんもあなたのお母さんから怒られちゃう」
美千代はそう言って取り繕いながら、ハンカチで自分の顔の汗を拭いた。それは、例の教主からもらったハンカチだった。香菜は、その言い訳を信じたらしく、こっくりと頷くと、またジュースの残りを飲み始めた。しかし今の出来事で、香菜の心に美千代に対する危険信号のようなものが生まれ始めていた。
「これから下の道は混み始めるから、高速を通るわよ」
美千代は香菜に言った。
「・・・はい」
香菜は、少し警戒したまま答えた。実は美千代は、さっきコンビニで借りたトイレで用を足した時の事で絶望感を感じていた。特に腹痛は感じなかったのだが、大量の黒いタール状の便が出たのだ。さらに手足に小さい内出血が見られた。それで驚いて両手の袖をめくると、点滴の跡に大きく内出血の染みが出来ていた。雅之とまったく同じ状態だ。顔も化粧でカバーされているが、よく見ると目の下に隈が出来ていて、昨日よりかなりやつれていた。香菜の手を跳ね除けたのも、とっさに感染の危険性を考えたからだ。
(私は本当に死んでしまうのだろうか・・・)
美千代はその不安を振り払うように、車を飛ばした。

「あのね、西原君」
良夫は、祐一の横にまた自分の椅子を持って来て座ると小声で話し始めた。
「ボクね、あのことについてギルフォードさんに電話してみたんだ。そしたら先に西原君も電話して来たって教えてくれたんだ」
「そうか・・・。で、どげな話をしたと?」
祐一は、内心の心配をカンのいい良夫に気取られまいと、出来るだけ平静を装いながら、やはり小声で言った。
「多分、西原君と同じやと思うけど・・・」
良夫はその後少し躊躇して言った。
「話の内容は誰にも言わないって、男同士の約束をしたけん・・・、西原君にも言えんと」
「オレもだ」
祐一は答えた。それに対して良夫は言った。
「でもね、ボクたち同じ事件に遭遇したやろ、だからそれについてお互いの意見を話すことは出来ると思うっちゃんね。でね、ボクが思ったこと言っていい?」
「ああ、いいよ」
祐一はむしろ良夫の考えに興味を持って言った。良夫は続けた。
「あのホームレスの安田さん、やっぱり伝染病に罹っとって、あの時秋山君に感染った。それで、秋山君もきっとあのおじさんみたいに、訳わかんなくなって電車に飛び込んだんだって思う・・・」
「うん、オレの考えもだいたい同じだよ」
「でね、これはギルフォードさんから否定されたんやけど、ボクの考えではこの病気に罹った人はね・・・」
「何、さっきから二人でこそこそ話してるの?」 
不意に二人の後で女の子の声がした。二人はぎょっとして振り向くと、女子のクラス委員長、錦織彩夏(にしきおり あやか)が立っていた。因みに男子は祐一である。彼女は東京から越してきた子で、容姿も綺麗だが言葉も綺麗な標準語を話した。彼女はツインテールにした長い真っ黒な髪を揺らしながら両手を腰に当てて言った。
「あなた達、最近アヤシイわよ」
「錦織さんってば、嫌だなあ、ヘンなこと言わないでよ。ひょっとして腐女子?」
つられて祐一のしゃべり方までが標準語っぽくなった。
「あ、オレ、もう帰らなきゃ・・・。じゃね、錦織さん」
祐一は、そそくさと席を立つと彼女の傍をすり抜けて行った。良夫がその後を追う。
「待ってよ、まだ話の途中やろうもん」
「ちょっと、西原君ってば・・・!」
彩夏は祐一の背に向けて言ったが、彼は振り向きもせずに行ってしまった。
「もおっ、頑固者! トーヘンボク! 私だって話があったのに・・・」
彩夏は少しふくれっ面をして言ったが、その後小声でつぶやいた。
「なんであんな風に言っちゃうんだ、バカ彩夏!」
実は先週、彩夏は雅之の死後際限なく落ち込んでいく祐一を力づけようとして、つい、叱咤激励してしまったのである。つい、というのは叱咤激励の比率が「叱咤:激励=9:1」だったからだ。それで、その後何となく二人の間がギクシャクしてしまったので謝ろうと思っていたのだ。
 祐一にフラれた彩夏は、自分の席に着くと左手で頬杖をついてつまらなそうに足を組みながら、思った。
(何よ、チビの佐々木良夫なんかに懐かれちゃってさ、ホ~モ)
しかし、その後祐一から『腐』と言われたことを思い出して、また落ち込んでしまった。

「待って・・・! 待ってってば、西原君」
良夫は、長い足でさっさと歩く祐一を駆け足で追いかけながら言った。
「あのさ、錦織さんと何かあったと?」
祐一はそれを無視してさらに足早に歩いて行った。良夫は若干むっとしたが、気を取り直して本気でダッシュし祐一を追い越した。そのまま祐一の前に立ちふさがって言った。
「じゃ、なくてさっきの続き・・・やけど・・・さ・・・」
そこまで言うと、身体をくの字に曲げ両膝に手を置いてハアハアと息を荒げた。
「西原君さ・・・、足、速すぎる、よ」
そんな良夫を見ると、祐一はもう無視することが出来なくなった。まあいいや、こいつとはいつも駅前で別れるんだし。祐一はそう考えると言った。
「ヨシオ、さっきの続き、オレが言ってみようか?」
「え?」
「病気が末期になって宿主に死期が近づくと、近くの人間に感染しようと宿主を操る・・・やろ?」
良夫は驚いたように祐一を見た。
「うん! やっぱ西原君も同じ考えやったんやね。でも、ギルフォードさんには笑われちゃった。それこそまるでゲームや映画みたいだって。寄生虫にはそういうのがいるけど、遺伝子しか持たない、無生物と生物の中間の性質を持つウイルスには不可能だって」
「でも、あの状況を目の当たりにしたら、そう思ってしまうよな」
祐一は言った。
「でね、ボクね、その遺伝子に仕掛けがあるっちゃないかって思うっちゃん」
「なるほどね・・・」
そこまで話している間に二人はバス停に着いてしまった。
「あ、もう人がおるけん話はここまでやな」
祐一が言った。
 駅に着いてバスから降り、祐一が今日は用があるからと良夫と別れようとした時、電話が入った。
「家からだ。なんやろ?」
そういいながら、電話に出る。
「もしもし? どうしたん? メールじゃなくて電話って、なんかあったと? え? 香菜が帰って来ない?」
もちろん祐一は香菜の帰らない理由を知っていた。しかし彼は、どう説明していいものか、それどころか言っていいものかすら迷った。
「う~ん、だけどかーさん、今までだって何回か遅くなったことあったやろ? 猫拾って困ってたり、逆上がりが出来なくて放課後練習してたり・・・。下校時間までだってもうちょっとあるし、もう少し待ってみたらいいっちゃない? うん・・・、うん・・・、出来るだけオレも早く帰るけん、あまり心配せんどき」
そう、母親をなだめると祐一は電話を切った。
(かーさん、うそついてごめん。でも、オレだけで行かないと香菜が危険なんだ)
電話をポケットにしまいながら、祐一は思った。しかし、良夫は彼の表情を見逃さなかった。
「西原君さ、今の件、なんか知ってるんとちがう?」
「オレが知るわけないやん。香菜の学校は家から歩いて10分だぞ。こっからだとメチャクチャ遠いやん」
「だって、学校で西原君に電話があってからヘンなんやもん」
「考えすぎやって。じゃ、オレ、心配やけんもう帰るわ」
そう言って、祐一はやや一方的に良夫と別れた。良夫は少しの間、そこに立ったまま途方にくれていたが、祐一の尾行をすることに決め、こっそりと彼の後を追った。
 

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6.暴走 (5)少年探偵団

 良夫は祐一から距離をおきながら、さりげなく後を追った。追いながら、良夫はギルフォードに相談をすべく電話をかけた。しかし、頼みの綱であるギルフォードの電話は留守電になっていた。
(ああ、授業があってるんだ)
良夫はがっかりしたが、とにかく祐一を追うことに専念することにした。祐一は階段を上って電車の改札口まで行き、定期券を通して中に入った。それでも良夫は用心深く目で祐一の行き先を追っていると、祐一はホームに上がらず反対の改札口から出て行ってしまった。良夫はすぐに走ってその反対の改札口に回った。そこで祐一の姿を探すと、階段を降りる彼の後姿が見えた。
(やっぱり、なんか様子が変だ・・・。いったいどこに行くんやろう)
良夫は何か嫌な予感を覚えながら、祐一が階段を下りてしまうのを見計らって駆け足で、しかし気取られないように用心深く階段を降りていった。階段を下りると、数メートル先に祐一の歩いている後姿を確認、引き続き尾行を続けた。
(なんか少年探偵になった気分やね)
良夫は小学生の頃読んだ、江戸川乱歩のシリーズものを思い出した。しかし、しばらく歩いたところの曲がり角付近で、良夫は祐一の姿を見失った。
「しまった!!」
良夫は小さい声で言った。タクシーにでも乗ったか、何処かのビルに入り込んだのか、いずれにしろ良夫の尾行の可能性を考えてとった行動に違いない。こうなったら良夫にはどうすることも出来ない。良夫は途方に暮れてしまった。その時、良夫の電話が震えた。
「ひゃあ~!」
良夫は相変わらず慣れない電話のバイブに驚きながら、急いでポケットから電話を出した。着信はギルフォードからだ。良夫は安堵し嬉しそうに電話に出た。
「もしもし、良夫です!」
「ハイ、ヨシオ君。さっきは悪かったですね、講義中だったので。・・・何かあったんですか?」
「はい、あのっ・・・」
良夫は祐一に電話がかかってからの経緯を話した。それを聞いたギルフォードは、う~んとうなってから言った。
「そうですか、確かに様子がヘンですね。妹サンが心配なら、家に急いで帰ったハズです。仲の良い兄妹だとお聞きしていますし」
「あのっ、ひょっとして、妹さんの誘拐って可能性はありませんか?」
「誘拐の可能性も考えられますが、それとユウイチ君の行動がどう関わるかがわかりません。いずれにしても、私の管轄外ですし、起こったコトにアドヴァイスすること以外どうすることもできません。・・・ヨシオ君、ユウイチ君に関しては、どう行動するか僕より君の方が推理し易いと思うのですが、彼が行きそうな場所の心当たりはありませんか?」
「西原君が行きそうな場所・・・?」
「はい、今、君はK駅近辺に居るのですよね。でも、ユウイチ君は電車に乗らず駅を出てどこかに行ったのでしょう? その駅近辺で彼の行きそうな場所はどこですか?」
「この辺で・・・、あっ」
良夫はハッとした。自分自身忘れたいことだったので、思いもよらなかった場所があった。
「あの公園・・・。西原君、最近よく考え事をしていて・・・。多分、ボクと同じくずっとあの事件のことを考えてたと思うんです。でも、ボクは二度とあそこへは行きたくなかったから、思いもつきませんでした。ボク、今からそこへ行ってみます」
「君にとっても辛い場所です。気をつけて行ってください。もし、何かあったらすぐに110番するんですよ」
「わかりました。また電話します」
良夫はそう言って電話を切り、一回深呼吸をして公園に向かって歩き出した。ギルフォードは電話を切ると、立ち上がり、出かける用意を始めた。紗弥が尋ねた。
「お出かけされるのですか? 今の電話、何かあったんですか?」
「いえ、まだわかりません。しかし、例の病気が発生した公園で、また何かあるかもしれないんです。取り合えず、何かあったらすぐに出かけられるようにしておきます」
「何かあったらって・・・気が早すぎませんか? それに、これから白水川先生のお嬢様が研究室の見学にこられる予定じゃありませんか。ひょっとして、それから逃げようとしていません?」
「見学って、あのワガママ娘のゴキゲン取りをするだけじゃないですか。そりゃあ、僕はイヤですよ。それでなくても僕は女性がニガテなんです。特にあーゆー女性にはどう接していいかわかりません。この前はヒドイ目に遭いましたし。あなたが機転をきかせてくれなかったら、僕は襲われていましたよ」
「・・・・」
「あ、今笑いそうになりましたね。面白がっているでしょう?」
ギルフォードは仏頂面をしながら言った。
「とにかく、それとこれとは違いますからね。じゃっ、着替えますからちょっと席を外してください」
教授室から紗弥が出ると、待ってましたとばかり、如月が質問した。
「紗弥さん、ホンマでっか? 白水川先生のお嬢さんに教授が襲われかけたって言うんは」
「正確には、お嬢様じゃなくてお嬢様がお連れしていた犬が、牙をむいて飛びかかろうとしてたのです」
「な~~~んや、犬でっか・・・っていうか、その状況は却って危険やおまへんか? せやけど、教授は よう犬や猫から好かれてますやろ? 一体なんで・・・」
すると、教授室からギルフォードの声がした。
「飼い主の性格が悪いと、犬の方もタチが悪くなるんですよ」
「ですって」
紗弥は、肩をすくめて言った。

 良夫はギルフォードからヒントを得、例の公園に向かっていた。しかし、あの忌まわしい場所が近づくに連れだんだん気持ちが萎えてくるのがわかった。行きたくない・・・! その気持ちが心の底から徐々にあふれ出してきた。とうとう良夫は気分が悪くなり、途中にあったバス停のベンチに座って休憩した。
(ボクだってこんなに行きたくないのに、西原君はどうしてあんなところに行こうとしてるんやろう・・・。アレは一体なんの電話やったんやろうか?)
そう、改めて疑問に思っていると、また電話が震えた。良夫はまたギルフォードからだと思って急いで電話を取ったが、それは電話ではなくメールだった。送り主を見ると祐一である。
(あれ? ボクのアドレス知ってたっけ? ・・・あ、同じ電話会社だからか)
良夫は急いでメールを開いた。それは長文で、びっしりとベタ打ちされていた。

 ヨシオ、撒いてごめん。巻き込みたくなかったんだ。でも僕に何かあった時のためにメールしとく。これから1時間しても僕から連絡が無かったら警察に知らせてほしい。実は今日の電話は雅之のお母さんからで、あの公園で何があったか真実を知りたいから公園に来いといわれたんだ。何か誤解をしているみたいなんで会ってちゃんと説明して来る。それにあの人は何故か香菜を連れているんだ。ウソだと思いたかったけどさっき電話があって声を聞かされた。ひょっとしたらあのおばさんも感染しているかもしれない。おまえは危険だから絶対に来るな。頼んだことよろしくな。

「に、西原君!!」
メールを読み終わった良夫は、立ち上がって叫んだ。周りにいたバスを待つ人たちが一斉に彼を見た。良夫はそのままバス停から離れると、すぐにギルフォードに電話をかけた。
「ヨシオ君、彼は見つかりましたか?」
ギルフォードは電話に出るとすぐに尋ねた。
「いえ、まだです。でも、あの公園に向かったことは間違いないみたいなんです」
良夫はたった今受けたメールの内容を伝えた。
「なんですって? マサユキ君の母親が?」
ギルフォードは驚いた。状況から、行方不明の美千代は、拉致され最悪殺されている可能性も考えていたからだ。何故、美千代が今頃現れて祐一を公園に呼び出そうとしているのかを考えて、ギルフォードは嫌な予感を覚えた。
「とにかく急いで公園に行って様子を見てきます。でも・・・」良夫は至極最もなことを尋ねた。「どうして秋山君のお母さんは、西原君を呼び出したりしたんでしょう?」
「こういう事を君に言って良いかわかりませんが、非常事態なので・・・。マサユキ君のお父さんから聞いたのですが、お母さんはずいぶんユウイチ君を恨んでいたようです。心当たりと言えば、これしかないですね」
「最悪だ! じゃあ、ボク、今から走って・・・」
「ちょっと待ってください。彼女も感染している可能性が高いです。危険ですから君が行くのは止めたほうがいい・・・」
「じゃあ、110番してから行きます」
「だから、行ってはダメだってば! ここは、ある程度事情を知っている人に連絡したほうがいいと思います。ジュン・・・いえ、葛西刑事は覚えていますね」
「はい」
「彼なら事情がわかるし、場所的にも公園にも行きやすいです。すぐに彼に連絡して状況を説明してください。電話番号は知ってますか」
「いえ、知らないです」
「わかりました、今から教えます。メモしてください」
良夫は葛西の電話番号を控えると言った。
「ありがとうございます。今からすぐに電話しますから」
「とにかく、公園には行かないでくだs・・・」
と言うギルフォードの声が終わらないうちに電話は切れた。
「Shit!」
ギルフォードはそうつぶやいて電話を切ると、立ち上がり紗弥に言った。
「今からすぐに例の公園に行って来ます」
そう言いながら、急いで部屋を出ようとしつつあるギルフォードに紗弥が言った。
「そこって、K市ですわよね。本当に今から行くんですの?」
「はい、なんか大変なことが起きそうなのです。道が混む時間ですが、バイクで高速を飛ばせば40分かからないかもしれません」
「私も行きますわ」
そう言うと、紗弥はジャケットとヘルメットをさっさとロッカーから出し、靴をブーツに履き替え始めた。ギルフォードは如月に声をかけた。
「キサラギ君、出かけます。帰る時間はわかりませんので、戸締り等よろしく頼みます」
声を残して二人は研究室を飛び出していった。
「え? あのっ、先生たち? どこに行かはるんでっか? ・・・って、もうおらへんし」
如月はため息をついて言った。

 祐一は公園にたどり着くと、きょろきょろと周りを見回した。誰も居なかったが、トイレあたりに何かの影が見えたような気がして周囲を見て回ったが、特に異常はないようだった。念のため、男子トイレの中に入ってみた。かつて3K(汚い・暗い・臭い)と言われていた公衆トイレだが、最近はだいぶ綺麗に建て直されたものが増えている。この公園のトイレもそんな感じで小奇麗になってはいたが、ここからも遺体が見つかったらしいというので、あまりいい気持ちがしなかった。それで、すぐにそこを出ると、美千代が姿を現すまで公園内を歩いてみた。あの事件以来、ほとんど人が近づかなくなったというが、それは事実らしい。それまでは、夜こそ一部施設がホームレスの寝場になっていたものの、昼間は子ども達の遊び場や散歩コースになっており、春には桜が満開になり花見客でにぎわうような、それなりに市民に利用されていた公園だった。一体あの事件について、流言飛語の類を含め、どれくらいの情報が流れているのだろう・・・と、祐一は思った。祐一自身、実況見分立会いのため訪れて以来この公園には来ておらず、2度と来ることもないのではないかとすら思っていたが、期せずしてまた足を運ぶことになってしまった。
 祐一はある場所で足を止めた。ホームレスの安田と出くわした場所だ。昼間なのであの時と全く雰囲気が違うが、ここから全てが始まったのである。祐一はまたしてもフラッシュバックが起きそうになり、急いでその場所から離れた。そう、初めてフラッシュバックが起きたのは、実況見分でここに立って説明している時だった。祐一は傍でおろおろする良夫と共に、そこから救急車で病院に連れて行かれた。祐一は自分の精神力が強いほうだと思っていたので、そこまで自分が精神的に追い込まれているとは思わなかったが、結果はASD(ストレス障害)と診断されてしまった。祐一は足早にそこから立ち去ると、ベンチに座って美千代たちを待った。
(こんなことで、おばさんに上手く説明できるのだろうか・・・)
祐一は不安になっていた。そこに、香菜を連れた美千代が姿を現した。美千代の容貌は、やつれたせいかすっかり変わっており、香菜を連れていなければ誰かわからないくらいだった。
「おにいちゃん!」
香菜が叫んだ。 
「ごっ、ごめんなさい。こんなことになるなんて思わなかったの」

 良夫は、公園に急ぎながら葛西に電話をかけていた。本来歩きながら電話することが苦手な良夫だが、そんなことは言っていられなかった。
「はい、葛西です」
良夫は、葛西の声を聞くと少し安堵した。
「ボク、佐々木良夫です。ホームレスの安田さんの事件の時・・・」
「良夫君、覚えているよ。なんか声が焦っているようだけど、何かあったの?」
「はい、ギルフォードさんから、あなたに連絡して助けてもらうように言われて・・・」
良夫は、今までのことを葛西に話した。
「わかった。今すぐ手配して、僕らもすぐに公園に向かうから、君は危ないので公園内には入らないで・・・」
「いえ! ボクは西原君が心配だから、行きます。もうすぐ公園なんで・・・」
「良夫君!ダメだ、それは許可出来ない。後は僕らに任せて・・・」
葛西が全部言い切らないうちに良夫は電話を切った。
「くそっ!」
葛西は電話を切りながら言った。
「どうしたとや? オマエさんらしくなかばってん、困ったことが起きたみたいやな」
「ええ、今の電話の内容を説明します」
葛西は、横で葛西を指導していた多美山に言った。葛西はちょうど、今日逮捕した男についての書類を書いているところだった。まだ新米刑事の葛西にとって、今回の犯人逮捕が初めてで、ベテランの多美山に色々指導を受けていたのである。事情を聞いた多美山は、立ち上がって言った。
「行こう、ジュンペイ! なんだか嫌な予感がするばい。すんません、鈴木係長!」
多美山は、ディスクワーク中の鈴木に言った。
「秋山雅之の母親、美千代が、西原祐一を例の公園に呼び出したそうです。彼女は感染者である恐れがあり、さらに、西原祐一を恨んでいて彼に害をなす可能性もあります。今からすぐに現場に向かいます。行くぞ、ジュンペイ!」
「おい、多美さん」鈴木は驚いていった。「その情報はアテになるのか?」
「呼び出された西原祐一本人からメールを受けた佐々木良夫からの知らせです。後の手配をよろしくお願いします」
そう言うと、多美山は後ろも見ずに飛び出して行った。
「あ、ちょっと待ってください、多美さん」
葛西は焦って後を追った。
「早いな」
鈴木は感心して言った。
「感染している可能性があるのか・・・。向かわせる警官にはそれなりの装備をさせないと・・・」
そう言って鈴木はハッとした。
「あいつら、全く無防備で向ってるんじゃないか?」
外を見ると、多美山たちは既に捜査用車両で署から出ようとしていた。緊急ではあるが目立つ白黒のパトロールカーは避ける判断をしたらしい。近くを通りかかった少年課の堤みどりが、車中に葛西の姿をつけて車に向かって走って近づき手を振った。仕方なく葛西は車を止めて、窓を開け言った。
「ごめん、堤さん急いでるんだけど、なんか用?」
「葛西君、焦ってどうしたと?」
葛西は簡単に事情を話した。
「わかった、私も行く! 少年が関わっているんなら私もお役に立つかもしれないし」
「わかった、乗って!」
その様子を見て、鈴木はここぞとばかりに窓を開けると大声で言った。
「堤君! 葛西君に装備はどうしてるか聞いて!」
「装備はどうだ?っとか聞かれとぉけど・・・」
堤は何だかよくわからないと言った風情で伝えた。
「時間がありません!」
葛西が車の窓から顔を覗かせながら大声で答えた。
「気をつけろ! 無理をするんじゃないぞ!!」
「了解しました!! さっ、堤さん、早く乗って!」
葛西にせかされてみどりは後部座席に乗り込んだ。
「途中までサイレンを鳴らして急ぎます」
葛西はそういうと、いわゆる覆面パトカーを再発進させた。彼らを乗せた車は、緊急のサイレンを鳴らしながらK署を出て行った。

 良夫が公園に駆けつけると、公園の中ほどで祐一と女の子を連れた女性が対面している姿が見えた。祐一と女との間隔は5m弱といったところか。女の子はもちろん香菜だったが、よく見ると幼児がよくされているような腰紐がつけられて、女性が紐の先を握っているようだった。とりあえず傍にあった木の陰に隠れて様子を見ていたら、低木の植樹帯が作る茂みに誰か潜んでいるのを見つけた。それは彩夏(あやか)だった。思いもしなかった彼女の出現に良夫は驚いたが、そっと近づいて小声で彼女を呼んだ。
「錦織さん」
「きゃっ」
彼女は小さい声で悲鳴を上げると振り向いた。
「佐々木・・・クン、お、脅かさないでよ・・・」
「・・・どうしてここにおると?」
こいつ、呼び捨てにしかかったな、と思いながら良夫は聞いた。彩夏は小声で一気に答えた。 
「あなた達の後を追ってたの。西原君は私には気がつかなかったから、見失わなかったのよ。それで、声をかけようかどうか悩んでたらああいうことになっちゃってて、どうしたらいいかわからなくなって、急いでここに隠れたの」
「大丈夫、警察には伝えとおけん、君は危ないからもう帰ったほうがいいよ」
良夫はやや迷惑そうに言った。
「いいえ、私も残るわ。だって心配だもん」
「いいから帰れって」
「いいえ、帰りません」
「帰れよ!」
「嫌っ!」
小声のつもりがだんだんヒートアップした二人の声は大きくなっていった。美千代はそれに気がついて彼らの方を見て言った。
「そこ! こそこそ隠れてないで出ていらっしゃい!」
「しまった・・・!」
良夫は一瞬血の気が引くのを感じた。
「いいから、出ていらっしゃい」
二人は覚悟を決めて、茂みの陰から姿を現した。
「ヨシオ! それに、何で錦織さんまで・・・!」
祐一は目を丸くして言った。その後、良夫に向かって厳しい口調で怒鳴った。
「来るなと言ったろうが、ヨシオ!! それも錦織さんまで巻き込んで!!」
「ちがうわ、西原君、私が勝手にあなたについて来たの。だから、佐々木君より私の方が先だったの」
「そんなことはどうでもいいから、二人ともこっちにいらっしゃい。そして祐一君の後ろに並びなさい」
二人は躊躇してお互い顔を見合わせ、その後に祐一の方を見た。その様子を見て祐一は言った。
「言うとおりにして、二人とも」
二人は走って来て祐一の後ろに並んだ。
「せっかくだから、二人には祐一君の説明を聞いてもらおうかしら?」
美千代が言うと、良夫が言った。
「何回説明してもおんなじだよ、おばさん! 秋山君はここで・・・」
「やめろ、ヨシオ! いいんだ、黙ってて。それに・・・」
祐一は口ごもった。この母親に、ここで息子の所業を聞かせるのは酷ではなかろうか?それに、ここには錦織さんがいる。香菜もいる。雅之のやったことを彼女らにも聞かせたくない・・・。と祐一はとっさに思ったのだ。しかし、そんなことを口に出すわけにはいかない。
「それになによ!」
美千代に問われ祐一は困った。説明をして、なんとか誤解は解きたい。
(どうしたらいいんだ・・・)
祐一は、苛ついた表情の美千代と、兄を信頼し泣くのを必死で耐えている香菜を見比べながら、追い詰められていた。

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6.暴走 (6)赤い情念

「どうしたの、祐一君、何か言ったらどうなの?」
 美千代は薄笑いを浮かべながらからかい口調で言った。祐一が口ごもっているのは、彼にとってまずいことだからだろうと思ったらしい。そして、祐一は、苦渋の選択に悩み黙って下を向いている。後ろにいる二人はハラハラしながら状況を見守っていた。
「祐一君! 良夫君!」
 その時、彼らを呼ぶ声がした。祐一たちはいっせいに声の方を見た。すると、そこには彼らのところに駆けて来る葛西の姿があった。
「葛西さん!」
 良夫が嬉しそうに言った。
「祐一君、私は確か、1人で来なさいって言ったハズよね・・・!!」
 美千代が険しい顔で祐一に言ったので、良夫はマズイと思ってすぐに答えた。
「違うよ、僕が勝手に呼んだんだ。西原君は、最初っから1人でおばさんと会うつもりやったんだよ」
「本当かどうかわかったもんじゃないわ。これじゃ人が増える一方じゃないの」
 美千代はそう言いながら、葛西の走ってくる方を向いて怒鳴った。
「それ以上近づかないで!!」
 葛西はその声に従ってピタッと立ち止まった。まだ彼らまでの距離は10mほどある。葛西は少年たちに聞いた。
「みんな、大丈夫かい?」
「はい、なんとか」
 良夫が答えた。子どもらの安全を確認して、葛西は今度は美千代に向かって言った。
「秋山美千代さんですね。どうか、落ち着いてください。話し合いましょう。とにかく、香菜ちゃんを早く解放してあげて下さい」
「あなた、どうして私の名前を?・・・ひょっとして、警察の方?」
 美千代はいぶかしげに葛西を見ながら言った。葛西は少し躊躇したが、意を決して答えた。
「そうです。K署、刑事一課の葛西です」
「刑事一課・・・」
 それを聞いて美千代の顔色が変わった。逃げるためとはいえ、人を1人瀕死に追いやったことを思い出したのだ。さらに葛西の後から二人走って来るのを見て、いっそう表情が厳しくなった。二人のうち1人は婦警で警察関係者なのは聞くまでもない。多美山は葛西の隣に並ぶと小声で葛西と葛西の後方に立った堤に言った。
「おまえさんたち、あの女の右手に時々光るもんが見えるとに気がついとるか?」
 多美山は目ざとく美千代が隠し持っている凶器らしきものを見つけた。葛西も確認して言った。
「ああ、ほんとだ。マズイですね・・・」
「ジュンペイ、おまえはとりあえず黙っとけ。おれが説得してみる。堤、おまえさんはあのおじょうちゃんを保護した後を頼む。よかな、二人とも」
「はい!」
 二人は同時に言った。多美山はかるく頷くと、美千代の方を向いて言った。
「秋山美千代さん・・・ですね? 私はK署の者で多美山と申します。」
 そう言いながら、さりげなく一歩を踏み出す。
「お子さんを亡くされて辛い気持ちはようわかります・・・」
「あなたに? あはは、何がわかるって言うのよ!!」
「わかりますよ。私も若い頃娘を1人亡くしましたから・・・」
 多美山は静かに言った。美千代は一瞬目を見開いて息をのんだ。しかし、美千代以外の居合わせた者たちも、驚いて多美山の方を見た。
「仕事で死に目に会えんで、今もそれを思うと胸の辺りがぎゅっとすっとです。だからわかっとですよ、息子さんのために何かしたいと言う気持ちも・・・」多美山は続けた。
「でも、もう充分やなかですか。祐一君を責めたって、雅之君が悲しむだけですよ。もう、こんなことは止めて帰りましょう。それにあなた、体調も良くなかとでしょう? もう立っとうとがやっとなんやなかですか?」
 美千代は黙って何も答えない。さらに多美山は優しく言葉をかけ続けた。
「もう、おじょうちゃんを解放してあげまっしょうよ。可哀想に、一所懸命泣くのばこらえとぉとが判りますか? さ、おじょうちゃんば放してこっちへ渡しんしゃい」
 美千代は首を横に振った。だが、さっきまでの強気は影を潜め、その動きは弱弱しい。多美山の優しい言葉に香菜の肩が震えだしたのに気がついたからだ。自分のしていることが、幼い少女を苦しめていることが判っており、多美山は巧妙にその点を突いたのだった。美千代の心が動いたのを確認した多美山は、さらにゆすぶりをかけた。
「私はあなたを逮捕したくなかとです。どうか、おじょうちゃんを放してやってくれんですか。大丈夫、誰にもあなたに危害は加えさせんですから。そって一刻も早う治療ば受けんと・・・」
「おばさん、僕はどこにも逃げたりしません、しませんから・・・、とにかく香菜を放してください。お願いします!」
 祐一も必死で美千代に声をかける。すると、美千代は祐一の方を向いて言った。
「じゃあ祐一君、こっちに来なさい。代わりに香菜ちゃんを解放してあげるわ」
「祐一君、ダメだ、行っちゃいけない!」
 葛西はとっさに止めたが、祐一はすでに一歩前に足を踏み出していた。
「さあ、ゆっくりこっちにいらっしゃい」
 祐一は言われたとおりに、ゆっくり美千代に近づいて行った。
(こりゃあマズかね・・・)多美山は思った。(こうなったら、何としてでも香菜ちゃんを美千代から離すことを優先せんと・・・)
 多美山は美千代と祐一の様子を慎重に観察した。
「そこで止まって」
 1.5mほど祐一が近づいたところで美千代は彼を制止した。
「そこの可愛いおじょうちゃん」
 美千代は、彩夏の方を見て言った。
「祐一君より一歩手前まで来てちょうだい。あなたに香菜ちゃんをお渡しするわ」
 彩夏はいきなり自分にご指名がきたので驚いたが、すぐに命令に従った。彩夏が祐一の手前で止まったところで、美千代はいきなり香菜の腰紐を引き寄せ、ナイフを構えた。一瞬その場の全員が凍りついた。

 しかし、美千代は約束どおり香菜を解放した。ナイフは腰紐を切るために出したものだったのだ。しかし、紐から手を離せば済むことなのに何故紐を切ったのだろうか。美千代は左手に残った腰紐を握ったままだった。手にはこの季節に薄い手袋をしていた。香菜は紐を切られた反動で少しよろけたが、しっかりとした足取りでバランスをとり立ち止まった。その後美千代の方をまっすぐに見て言った。
「おばちゃん、あの・・・、子どもが死んで寂しいなら、香菜が代わりに子どもになってあげましょうか?」
 それを聞いて、美千代は一瞬戸惑ったようだがすぐに冷たく言い放った。
「いいから行きなさい。おじょうちゃん、あとはお願いね」
 美千代に言われ、彩夏は香菜に近寄りそっと手を握った。香菜は戸惑って祐一を見た。祐一はすぐに言った。
「いいからおねえちゃんと一緒に向こうへ行ってなさい。おにいちゃんは大丈夫だから」
 彩夏は祐一を見て力強く頷いて言った。
「香菜ちゃん、おねえちゃんと向こうで待っとこ? ね?」
 香菜は祐一と彩夏の両方を見比べながら、小さく「うん」と頷いた。
「美千代さん」
 多美山が声をかけた。
「うちの堤をおじょうちゃんたちの保護に向かわせてよかですか?」
「その婦警さんならいいわ。早く遠くに連れて行ってちょうだい」
 美千代はつっけんどんに言ったが、少しだけ目が潤んでいた。それは高熱のせいだったのか、香菜の言葉のせいだったかは、誰にもわからないだろう。堤は美千代の言葉が終わるや否や、駆け出して少女達の許に向かった。その後二言三言彼女らと話すと、香菜を抱きしめ、その後香菜と手をつないで彩夏と共に乗ってきた車の方に向かった。香菜は2・3度心配そうに振り向いたが、大人しく去って行った。それを見届けながら多美山は葛西に小声で言った。
「これからが気を抜けないぞ。いいか、最悪の場合、俺が合図をしたら、おまえはあの子ら二人をあの女から出来るだけ遠ざけろ、よかな!」
「はい!」
 多美山は葛西の返事を聞くと、また美千代の方を見て言った。
「さ、美千代さん、祐一君はあなたの前から逃げませんでした。彼の誠意は充分通じたとやなかですか?」
 美千代と祐一は約1.5mの距離を以って向かい合い、その横に5m近くの距離までなんとか近づいた多美山と葛西の2刑事が彼らを見守っていた。良夫は最初と同じ位置で、緊張して一歩も動けずにいた。
「とりあえず、そのナイフ・・・、危険やから捨ててくれんですか? もう紐を切ったから必要なかでっしょうが?」
 多美山は、まず凶器になりそうなものを排除しようと考えた。
「嫌よ。まだ安心できないもの」
美千代は拒んだ。多美山は彼女がまだ目的を捨ててないことを知り、次の作戦に移ろうと考えた。その時祐一が言った。
「おばさん。僕は今日、おばさんにきちんとあの夜のことを話そうと思って来ました。誤解を解きたかったからです。でも今になって、僕にはそれが出来ないことがわかりました。僕にとってもおばさんにとっても、それは辛すぎる現実だからです。だから、おばさんが元気になって、そしてまだそのことを聞きたいと思った時にお話しようと思います」
「誤解・・・?」
 美千代がつぶやいた。
「いいえ、わかってたわ。本当はわたしのせいでまあちゃんが死んだ・・・」
 多美山は首を振って優しく言った。
「息子さんが亡くなられたとは、あなたのせいやなかですよ。あれは、不幸な事故でした。そげん自分ば責めんでください・・・」
「違う! 私のせいなの・・・!」
 不意に美千代が叫んだ。
「私があそこに行かなかったら、まあちゃんに寂しい思いをさせずに済んだの。だから、まあちゃんが不良になっちゃったんだわ」
 妙に幼い口調だった。多美山たちは顔を見合わせた。
「あそこって、一体どこに行ったんです?」
 多美山はすかさずそれを聞いた。しかし、美千代はそれに答えずに続けた。
「あの方が、まあちゃんのウイルスを広げるように言ったの」
 その場の全員が、美千代の告白の意味がわからずに戸惑っていた。この人は一体何を言い出したのか? ただ、その告白が不吉な意味を持つことは明白だった。
「『まあちゃんのウイルス』ってどういう意味ですか?」
 要領を得ない美千代に対して、とりあえず葛西が質問した。
「まあちゃんの細胞から生まれたウイルスよ。今私の身体に中にいる・・・」
 相変わらず要領を得ない美千代の答えだが、葛西にはその意味がわかってぞっとした。
「美千代さん、ちがいます。ウイルスは確かに宿主の細胞を利用して増えます。でも、それは工場を丸ごと占領しているようなもので、出来たウイルスは宿主とは関係ありません。いったい誰がそんなことを・・・」
 しかし、美千代は意味がわからずきょとんとしていた。ついで多美山が聞いた。
「美千代さん、あの方って一体誰なんです?」
「私は、あの方の言われたとおりに・・・。でも、まあちゃんが死んだのに生きている祐一君が憎くて憎くて・・・、妹と一緒に笑っているのが悔しくて・・・」
 美千代はそういうと顔を覆った。ううっという嗚咽の声が漏れる。
「おばさん、違うよ!」良夫が祐一の後ろで言った。「おばさんは、西原君がどんなに苦しんだか知らないんだ。今だってここにいるだけで辛いのに・・・。僕だって・・・」
 良夫はそこまで言うと、悔しくて涙があふれて言葉にならなかった。しばらく沈黙が続いた。その沈黙を破ったのは、ほかならぬ美千代だった。
「あら?」彼女は不意に顔を上げると不思議そうに周りを見回して言った。
「すごい夕焼け・・・だけど、なんだろ? 雨の降る前の朝焼けみたいに不吉な、血のような赤・・・」
 それを聞いて、祐一は心臓が凍りつくほどぞっとし、眩暈で少しよろけた。
「西原君!!」
 良夫は祐一の傍まで走って行き、彼の腕を掴んで言った。
「同じだ、あのおじさんと!!」
 しかし、祐一は微動だにせず美千代を見つめている。彼はショックで動くことが出来なくなっていた。
「赤い・・・そんな」
 葛西は呆然としてつぶやきながら空を見た。空はいつの間にか雲に覆われ、日差しのカケラもなくどんよりと曇っていた。多美山も葛西の方を見て言った。
「こりゃあ、彼女は確実に感染しとぅと思ってよかな」
「はい」
 と葛西は答えた。『かも知れない』が確実となった。今まで話としてしか知らなかった感染者を目前にして、葛西は両手が汗ばむのを感じた。
「あーっははは・・・」
 美千代がいきなり嬌笑した。
「私はまあちゃんのためにやったつもりだったの・・・あの方のおっしゃるとおりにやったわ。だけど、私はあの方の仲間に殺されそうにな・・・て、だから、そいつの首を・・・て車を奪って逃げたの。多分、あの人、死ん・・・わ・・・」
「美千代さん、本当ですか? それはどこで!?」
 葛西が予想外の美千代の告白に驚いて尋ねた。美千代はそれに構わずに続けた。しかし、言葉はだんだん不明瞭になっていく。
「私は何・・・ためにあんなことをしてたのかしら? ま・・・ちゃんのため? それとも・・・けい様のため・・・? あははは、バッカみたい・・・。もう疲れた、わ・・・。もう、痛みも・・・ない・・・体が鉛・・・よう・・・」
 美千代は、ふうっとため息をついた。
「だから、もうお仕舞い・・・。ここで・・・らせるわ・・・」
 そういうと、美千代は祐一の方に向かい、ゆっくりとナイフを持つ右手をかざした。
「いかん! ジュンペイ、行けぇっ!!」
 その合図と共に、葛西は祐一たちの方へ猛然と走って行った。

 祐一には全てがスローモーションのように感じた。美千代がゆっくりとナイフをかざし、自分に近づいてきた。良夫がとっさに祐一の前に立ちはだかって、果敢にも盾になろうとした。しかし、祐一には何が起こってるのか瞬時には理解できなかった。ただ、漠然と思っていた。ああ、オレはここで終わるんかな? 香菜ごめん。約束守れんかも・・・。何でこんなことになったっちゃろ? 不思議やな。なあ、雅之・・・? その時、視界に葛西の姿がいきなり飛び込んできて、目の前の映像を遮断した。葛西は祐一と良夫の二人に向かって飛び掛ると彼らを抱いた状態で地面に転がりそのまま彼らの上に覆いかぶさった。葛西はその状態で多美山の方を見た。多美山は美千代の前に仁王立ちになっていた。
「多美さ・・・」
 葛西が多美山の身を案じ名前を呼ぼうとしたその時、多美山の後姿の向こうで血しぶきが上がるのが見えた。
「多美さんッ!!」
 葛西は絶叫した。

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6.暴走 (7)軋む歯車

「なんかすごいことになっちゃってる」
 極美は男子トイレの窓からこっそり外を覗きながらつぶやいた。

 駆け出しのジャーナリスト真樹村極美(まきむらきわみ)は、うどん屋で主婦達の話を聞いてから、どうしてもその公園のことが気になった。それで、店を出るとすぐに場所を聞きながらその公園を探し当てた。彼女にとっては慣れない土地で、道を聞いた人たちも例のウワサを知っているのか、あまりいい顔をしなかったので若干手間取ったが、思ったより簡単にたどり着くことが出来た。しかし、いざ公園内に入ってみると、夕方のこの時間なのに人っ子一人いなかった。普通なら遊ぶ子どもらや散歩する人たち等で賑わっている時間帯である。それなのにこの静寂さは周囲のざわめきと対照的で、まるでここだけが異空間を形成しているようだった。とりあえずせっかくここまで来たのだからと、極美は公園のベンチに座って一服することにした。幸いにも喫煙場所らしく、灰皿が設置してある。
「いったいここで何があったのかしら・・・?」
 極美は紫煙をくゆらしつつ周囲を見回しながら思った。しかし改めて見ると、人気がないだけで何の変哲もない公園でしかないように思われた。多分、事件とその後立ったウワサのせいで一時的に過疎化しているだけなのだろう、そう思って一服し終わった極美は公園から出ようと立ち上がった。数歩歩いたところで、彼女が入って来た反対側の入り口から、少年が1人周りを気にしながら入ってくるのが見えた。極美はとっさに近くにあった公衆トイレに身を隠した。彼女に隠れる理由はない。しかし、なんとなく彼の様子から、隠れなければならないような気がしたのだ。トイレの陰から様子を見ていると、少年はキョロキョロとあたりを見回した。どうやら誰かを探しているようだった。しかし、誰もいないことを確認すると、少年は軽くため息をついた。しかし、その後、何か気配を察したらしく、少年はまっすぐにトイレに向かってきた。(やばっ・・・)極美は焦って女子トイレの個室に隠れた。この公園のトイレは、例の事件で徹底的に消毒されたらしい。今もキツイ消毒液の臭いが篭っていた。そんなところに身を隠してしまった極美は、何となく物悲しくなってしまった。
(もう、何隠れてんだろ、わたし。せっかくだからあの子からなんか話でも聞き出せばいいのにさー)
 極美自身が自分の行動を理解出来なかった。彼女は子どもの頃からカンだけは鋭かったので、自分でも気がつかないうちに、なにか尋常ならざる雰囲気を察したのだ。少年は、トイレの周囲をぐるっと回って様子を探っているようだった。しかし、少年だけあって流石に女子トイレまで入ってくる様子はなかった。彼の足音が遠のくのを聞いて、極美はほっとした。彼女は個室から出ると、また公衆トイレの建物の陰から顔を覗かせて、そっと少年の動向をうかがった。少年は公園内を歩き回り何かを探っているようだった。時折考え事をしたり、深いため息をついたり、足を止めた場所で頭を抱えたと思ったら、そこからいきなり走って逃げたりと、妙な行動が目立つ。
(何やってるのかしら? かっこいいコなのにヘンな子ねえ…)
 極美は少しあきれ気味で彼を観察していた。少年は、疲れたのかベンチに座って相手を待つことにしたようだ。極美が座っていたところから対角線上にある遊具の近くのベンチだ。極美は迷ったが、もうしばらく観察を続けることにした。
 しばし待つと、少年の待ち人が現れたようだ。彼は立ち上がると、待ち人の方角へ歩いて行った。しかし、極美の位置からは少年の進行方面がまったく見えない。彼女は女子トイレの中に戻り、入り口の反対側にある窓際に向かった。そして、視界を遮る型板ガラスの窓を少しだけそっと明け、覗いてみたが目隠しの為に植えてある木が邪魔になってほとんど見えない。仕方がないので思い切って男子トイレの方に入り、同じように窓からそっと覗いてみたら、なんとか少年達が視界に入った。少年は、女の子連れの女性と向かい合っていた。極美は最初母親かなと思ったが様子がおかしい。まだ幼い少女は、腰紐をつけられ女に引っ張られていた。
「何、あれ? 犬や幼児じゃあるまいし…。何考えてんのよ、あの女!」
 若干憤りを感じながら、じっと我慢してなおも様子を見ていると、少年の後に彼の友人らしき少年と少女が現れ、続けて青年が駆けつけてきた。少し遅れて初老の男と婦警が走ってきた。
「なんかだんだん人数が増えていくわね」
 極美はその光景を見ながら、なんとなく可笑しくなってくすっと笑った。しかし、さらに観察すると、ことは思ったより深刻であるように感じられた。女の手元に何か光るものが垣間見え、初老の男が盛んに女を説得しているように見えた。しかし、流石に極美のいる場所からは会話の内容までは聞き取れない。彼らの雰囲気や婦警の存在から考えて、男二人は私服警官だろうと極美は判断した。初老の男の説得が効いたのか、女の子は無事に解放され年上の少女と共に婦警に連れられて去って行った。極美はほっとした。いったい何があったのかわからないが、子どもが被害に遭うのを見るのはたまらない。しかし、まだ少年二人が残っている。
「説得できるのかしら、あのおじいさん刑事・・・」
極美は固唾の呑んで見守っていた。しかし・・・。

 刑事と少年たちが説得を試みる中、途中から、女の様子がおかしくなったように見えた。女は急に泣き出したかと思うと、しばしの沈黙の後急に笑い出した。その後しばらくの間何か言いながら、いきなり少年に向かってナイフを振り上げた。しかし、少年は魅入られたように動こうとしない。
(逃げて!)
 極美が思ったその瞬間、若い方の刑事が少年たちに向かってダッシュし、ほぼ同時に少年の友人が彼をかばおうと小柄な身体で前に立ちふさがった。老刑事の方はすばやく上着を脱ぐと、それを手に持ち女に向かって走った。女は最初少年を刺すように思われたが、すぐにその切っ先を自分の喉元に向けた。老刑事は、それを阻止するため手を掴もうとしたが、間に合わず、彼の指先を切っ先が走った。そのまま女は笑いながら自分の喉を切り裂いた。ついで血しぶきが散る。老刑事は仁王立ちになって、彼女から飛散する血液を最小限に留めようとしたが、身体だけでは防ぎきらないと思ったのか、すぐに手に持った上着を女に被せ、そのまま倒れこもうとする彼女を支えた。若い刑事は少年たちをかばった体勢で、老刑事の方を向き、悲鳴のような声で彼の名前を呼んでいた。
「・・・う、うそっ!!」
 極美は、自分が目撃している光景が信じられなかった。その時になって、初めて彼女はこれが自分が求めていたスクープだということに気がついた。
「そうだ、カメラっ、カメラはっ!?」
 極美はカメラを出そうとバッグの中を探した。

「多美さぁん!!」
 葛西は少年達を庇った体勢のまま、もう一度多美山に向かって叫んだ。多美山の陰で美千代が崩れるように倒れていくのが見えた。多美山は美千代を支え、地面に寝かせながら言った。
「俺はまだ大丈夫だ! 早く外で待機している救急と、公園の周りを警備させている警官から2・3人呼んでくれ。充分な装備で来るようにな」
 事態が事態だけに早口だったが、その声は落ち着いている。葛西は少しほっとしながら答えた。
「了解!」
 葛西はすぐに起き上がり、無線でそれを伝えた。すぐに救急車が公園内に入って来た。
「ジュンペイ! 子どもらは大丈夫や?」
 多美山は、美千代を介抱しながら後ろを向いたまま問うた。
「はい、佐々木君の方は大丈夫ですが、西原君の方が気を失ってしまったようです」
「そうか。救急隊員にそっちも見てもらったほうがいいな」
「多美さん、美千代のほうはどうなんですか?」
「うーん…」と、多美山はうなった。「厳しいな、これは…」
 多美山は答えかかったが、良夫がいることを考慮して言葉を濁した。当の良夫は、まだ状況が把握出来ないらしく、葛西に抱きかかえられたままの状態で、へたりこんでいた。おかげで良夫はまだ現場の惨状を目の当たりにしていない。葛西はなんとか彼らをこの場から遠ざけたかった。美千代の上半身は多美山の陰に隠れて葛西にはどういう状態かよくわからなかったが、確認できる彼女の両足はぐったりしながらも時折痙攣し、その周りを血がゆっくりと広がっている。その様子から、多美山が「厳しい」と言った意味がわかり、葛西は何とも表現できない無力感に襲われた。そこに無線が入った。
「え? 外人の男と女性の二人組みが中に入れろって五月蝿い?」
 葛西が言うと、すぐに良夫が言った。
「ギルフォードさん…、来てくれたんだ」
「すぐお通ししてください。専門家の方です。あ、その前に防護服の着用もお願いします」
 葛西はそういうと無線を切った。
「意識を失ったっていうのは、その少年ですね」
 と言いながら、防護服に身を包んだ救急隊員が1人走ってきた。葛西はすぐに答えた。
「はい、そうです。診てやってください」
b救急隊員は、祐一を診ると言った。
「多分、この状況を見たショックで失神したんだと思いますが、ここは危険ですのでとにかく救急車に運びましょう」
 葛西は彼を救急隊員に任せることにした。担架で運ばれる祐一を見守りながら葛西は言った。
「よろしくお願いします。佐々木君、西原君についていてくれるね」
「もちろんです」
 良夫はすぐに答えた。
「頼むよ」
 葛西はそういうと、しばらく祐一が運ばれていくのについて行き、救急車に入ったのを見届けると、多美山の方に向かった。そこには既に生化学防護服を着た警官や救急隊員たちが集まっており、数人が美千代の蘇生を試みていた。彼らは防護服を着用していない葛西に言った。
「危険ですからそれ以上近づかないで!」
 葛西は仕方なく足を止めて言った。
「すみません、状況を教えてください。多美さんは大丈夫なんですか?」
「ジュンペイ」多美山は言った。「とにかく、防護服ば着てこんね」
「多美さん、どういう状況だったんですか? 怪我はないんですか?」
「美千代の自殺を阻止しようとしたばってん、止められんやった。おまえ達に血が飛ばんごとすっとが精一杯やった…。あげに躊躇せんで喉をかっさばくとはなあ・・・」
 そういって振り向いた多美山を見て、葛西は息をのんだ。彼はほぼ上半身にかけて美千代の血を浴びていたのだ。
「そんな・・・」
 葛西はそういうと、へなへなとその場に座り込んだ。目の前が真っ暗になったような気がした。
「ジュンペイ! しっかりせんか、情けなかぞ。さっさと防護服を着て職務につけ!」
「は、はいっ!」
 多美山に怒鳴られて、葛西は立ち上がった。彼は公園の入り口に待機している警察車両に向かって走った。走りながらも涙で眼鏡が曇る。
(これだから、眼鏡は・・・)
 泣きながらも妙に冷静にそう思った。
(いや、泣いている場合じゃない。しっかりするんだ、純平!)彼は涙を拭いて気持ちを奮い立たせた。途中、公園の出入り口で防護服に身を包んだギルフォードと紗弥に出合った。
「ハイ! ジュン」
 ギルフォードは葛西に声をかけた。葛西は一旦すれ違ったが足を止め、ギルフォードに向かって言った。
「アレク、多美さん・・・多美さんが・・・、あのっ、よろしくお願いします」
 葛西は、一礼すると、また走り出した。
「大変なことになってるようですね。紗弥さんはこの辺で待っていてください」
 ギルフォードは、防護服を着ていない紗弥に向かって言うと、すぐに駆け出した。

 ギルフォードが現場に駆けつけると、美千代が救急車に乗せられようとしていた。彼女には感染防止のための厳重な措置がなされている。
「お疲れ様です。Q大のギルフォードと申します」
 ギルフォードは隊員達に挨拶すると、すぐに尋ねた。
「容態は?」
 彼の問いに、1人の隊員が答えた。
「我々が駆けつけた時はすでに心肺停止状態でした。なんとか蘇生させましたが出血多量で依然危険な状態です。女性がこんな風にためらいなく自分の喉を掻き切っただなんて・・・」
 救急隊員はそう言うと、首を横に振った。救急車の中を見ると、すでに多美山が乗っていた。彼は血まみれの衣服を脱いで、毛布に包(くる)まっていた。元気そうなので、彼にかかっている血は美千代のものだろうとギルフォードは判断したが、彼が右手を手当てされているのを見て顔をしかめた。すかさずギルフォードは、最後に救急車に乗り込もうとしていた隊員に尋ねた。
「すみません、中に入って少しタミヤマさんのお話を聞いていいですか?」
「ことは一刻を争いますので、手短にお願いします」
 隊員の許可を得て、ギルフォードは救急車に乗った。前方の椅子に座って応急処置をされている多美山が、ギルフォードの方を見て防護服の中の顔を確認すると言った。
「ギルフォード先生・・・ですよね。すんません。最悪の結果になってしまいました」
「怪我をされたんですか?」
「ええ、美千代の自刃を止めようとして、指先に切っ先が触れたとです。結局彼女の血を子どもらにかからんごとすっとが精一杯でした」
 多美山は悔しそうに言った。
「彼女は頸動脈を切ったのです。あなたが盾にならなければ、血液は相当飛び散ったでしょう。あなたは良くおやりになりました。でも・・・」
 ギルフォードは沈痛な表情を浮かべ、その後の言葉を濁した。相手が未知のウイルスであるため、現時点では確実な治療法がまったくないのだ。それを察知して多美山が答えた。
「もう、覚悟は出来とります」
 ギルフォードは硬い表情をしたまま無言で頷くと、美千代の方を向き容態を観察した。首は応急処置を施されているが、血がかなり滲んでいる。呼吸も自立では出来ず機械に頼っているようだ。袖をめくってみると、大きな内出血が認められた。点滴の跡と思われた。身体も点々と内出血をしている。ギルフォードは右手で顔を覆った。その後姿に多美山が言った。
「先生、美千代は錯乱する前に周囲が赤く見えたようです。すごい夕焼けだ、と言ってました」
「夕焼け・・・。マサユキ君も友人に『朝焼けか』と聞いたそうです。やはり・・・」
 その時、救急隊員が言った。
「タイムリミットです。続きは搬送先の感染症対策センターでお願いします」
「あ、申し訳ないです」
 ギルフォードが焦って救急車から降りると、すぐにドアが閉まって発進した。サイレンの音が否応なく緊張感を招く。また、近隣の噂になるだろうなとギルフォードは思った。多美山と美千代を乗せた救急車が公園を出た頃、葛西が走ってきた。
「ああ、行ってしまいましたか」葛西はがっかりしながら言うと次にギルフォードの方を見て言った。
「先生・・・、いえ、アレク、多美山さんは大丈夫でしょうか。感染者の血を浴びても感染しない可能性だってあるんですよね」
「ジュン・・・」ギルフォードは厳しい表情で答えた。「もちろんそういうラッキーな可能性はあります。しかし、タミヤマさんは、指先に深い切り傷を負ってました。決して楽観は出来ない状態です」
「え? 多美さんが怪我を!?」
「そうです。さっき救急車の中で少しお話ししたのですが、ミチヨさんの持った刃物がかすったということです。傷口に感染者の血液がかかったということが何を意味するか、君にはわかりますね」
「そんな・・・」
 葛西は呆然として言った。その時、女性の悲鳴が聞こえた。声の方向を見ると男が公衆トイレから女を引きずり出そうとしていた。
「貴様、何をしている!!」
 現場にいる警官達がほぼ同時に叫んだ。ギルフォードも警官達の怒鳴り声に振り向き、男の顔を見て驚いた。それは長沼間だったからだ。
「ナガヌマさん、どうしてここに!?」
 ギルフォードは長沼間に向かって言った。防護服越しなので、どうしても大声になる。
「おっと、少し体型が違うのがいると思ったら、先生だったのかい?」
 長沼間は、女を後ろ手に掴んで引きずるように連れてきた。
「イッタイ! 痛いわね! 離してよ、野蛮人!!」
 女は悪態をつきながら抵抗している。件の女はもちろん極美だった。その騒ぎに気がついて、紗弥も待機していた入り口から走ってきた。葛西は警官達に仕事に戻るように言い、その後、改めてギルフォードに訊いた。
「アレク、あの男とお知り合いなんですか?」
「君達の同業者ですよ。公安警察のナガヌマさんです」
「公安ですって・・・!?」それを聞いた葛西は険しい顔をして言った。「くそっ! いったいどこからこのことを嗅ぎつけてきたんだ!」
 珍しく毒つく葛西に驚いて、ギルフォードは聞かれる前に言った。
「僕じゃないですよ」
 長沼間は極美を引っ張って皆の近くまで来ると、にやりと笑って言った。
「甘いな、オマエさんたち。こんなネズミが潜んでいるのに気がつかなかったのか?」
「民間の方にそんな乱暴は止めてください!」
 葛西が怒鳴った。しかし、長沼間は極美を離そうとしない。それどころか、彼女のバッグの中を探ってカメラを取り出してしまった。極美はそれを見ると自由なほうの手で焦ってカメラを取り返そうとしたが、その手は空しく空を切った。
「何すんのよ、泥棒! 返せってば、馬鹿ぁ!!」
 極美はまた悪態をついたが、長沼間はまったく無視している。
「警官に対して泥棒ですか・・・」
 ギルフォードは苦笑しながらつぶやいた。
「こいつを見てみろ・・・と言っても、みんなそんな格好じゃ迂闊にはカメラに触れないな。紗弥さん、このカメラの画像を確認してごらん」
 カメラを渡された紗弥は、言われたとおりに画像を見ると珍しく驚きを表して言った。
「何てこと! この現場が何シーンも写っていますわ」
 そういうと、紗弥はギルフォードと葛西に画像を見せた。特殊な防護服を着た男達や救急車、仰々しい装備で搬送される美千代等、見ただけで尋常でないことが起こっているとわかるシーンばかりだ。ギルフォードはそれを見るなり眉間にしわを寄せ、胡散臭そうに極美を見た。葛西は信じられないという顔をして極美に向かって言った。
「どういうことなんですか、これ?」
「こんなものがネットなんかで流出しちゃあ、マズくねぇか?・・・おっと、こっちもだ。ほれ、紗弥さん」
 長沼間は極美の携帯電話を探し出すと、紗弥に投げてよこした。紗弥は難なくキャッチするとそれも確認して言った。
「こっちにも数枚写ってます。こっちには倒れている女性と血まみれの刑事さんの顔まで写ってますわ。遠いから鮮明ではありませんが、確かに不味いですわね」
「困ったお嬢サンですね。不審者として警察署までご同行ですか、ジュン?」
 ギルフォードは渋い顔で葛西に問うた。それを聞いた極美は、長沼間に腕を掴まれたまましくしく泣き始めた。
「ごめんなさい。ちょっと休もうとここに来たら、偶然すごい事件を目撃しちゃって、つい、写真を撮っちゃったんですぅ」
「まあ、反省しているみたいだし、今回は・・・」
 葛西が言いかけると、長沼間が横で怒鳴った。
「馬鹿か、おまえは。まず画像をなんとかしろ! こんなもんが流出した場合、どういうことになるかよく考えてみろ!!」
 頭ごなしに言われて葛西はむっとした顔をしたが、長沼間は無視をして極美に向かって言った。
「そういうわけだ、おじょうさん。悪いが画像は全て消去させてもらうぞ。紗弥さん、この女とカメラを交換しよう。捕まえておいてくれ」
 紗弥は黙ったままカメラを渡すと、代わりに受け取った極美の手を取りねじり上げた。これでは極美は痛くて身動きできない。
「いった~い、何よ、この女!!」
「サヤさん、やりすぎですよ。ナガヌマさん、サヤさんを共犯に仕立てないで下さいよ」
 ギルフォードは長沼間の方を見て困った顔をして言った。
「共犯たぁ人聞きの悪い。捜査に協力してもらっているだけだろ」
 長沼間は、嘯(うそぶ)きながらカメラを操作した。その間半べそをかきながら極美が抗議し続けていた。作業が終わると長沼間は
「紗弥さん、もう離していいぞ。これ、返してやってな、ほれ」
 と言って紗弥に携帯電話とカメラを投げ返した。紗弥はそれらを軽く受け取って極美に渡す。
(ふん)長沼間は思った。(この紗弥って女、やはりタダモノじゃねぇな)
 その時、返されたカメラや携帯電話のチェックをしていた極美が悲鳴に近い声で言った。
「何よ、これぇ!! 綺麗さっぱり画像データが無くなってるじゃない!!」
「すまんな。面倒だったから全部削除したよ。カードに保存してある分もな」
 と、長沼間は、しれっとして言った。
「うっそぉ~!」極美は一瞬気が遠くなったような気がした。カメラにはこれまで取材した時の写真も記録されていたが、全てはオシャカである。極美はマジ泣きして抗議した。
「ひどい! 官憲の横暴だわ! 訴えてやるから!!!」
「オマエな、それより自分の立場を考えたらどうだ?」
 長沼間が言うと、ギルフォードも援護する。
「彼は公安の人ですから、容赦ないです。怖いから大人しくしたほうがいいですよ」
「えらい言われようだな」
 長沼間は苦笑すると、極美への職務質問を始めた。
「身分を証明するものは?」
 極美はしぶしぶ運転免許証を差し出した。名刺も持っていたが、この場でそんな雑誌記者を証明するものを出したりしたら、どうなるかわからない。
「え~と真樹村・・・ゴクミ・・・でいいのか?」
「『きわみ』です」
 極美は内心むっとして答えた。今まで散々そう読み間違えられてきたからだ。
「まきむらきわみ・・・、住所は東京都○○区・・・。東京から来たのか、ご苦労なこった。で、観光か?」
「はい」極美は答えた。
「観光客が1人で、なんでこんな人気のないところに来たんだ?」
 理由を聞かれて、極美は適当にそれらしく説明をした
「ここには有名な○○ラーメンを食べに来て、・・・えっとそのあと・・・I美術館とかに行ってぇ、ちょっと疲れたんで、休もうと思ってこの公園に入ったんです。まさか、こんなに誰も居ないなんて・・・。ここで以前何かあったんですか?」
 極美はドサクサに紛れて聞いてみた。因みにラーメンを食べたのは昨日のことである。しかし、長沼間はけんもほろろに答えた。
「知らんな」
(ちぇっ)
 極美は心の中で舌打ちしながら言った。
「もういいでしょ? いい加減許してください」
 その様子を見ていたギルフォードは、痺れを切らして長沼間に言った。
「あまり、ここに居られてもリスクが増えるばかりですから、彼女の言うとおりそろそろ解放してあげたほうがいいと思いますけど・・・」
「怪しすぎるんだよ、この女は。だいたい、さっきも男子用トイレに潜んでたんだぞ」
「ええ? 女性の痴漢ですか?」
 と、いままで黙ってやり取りを見ていた葛西が、驚いて言った。
「女性の場合は痴女じゃないですか? やっぱり逮捕したほうがいいカモしれませんね」
 と、ギルフォード。
「違います、誤解です。この人が近づいて来たんで、怖くてとっさにトイレに隠れたんです。そしたらそこが男子トイレだったんです。本当です」
 極美は、そういうとわっと泣き出した。
「俺か? 俺のせいか? ・・・まあ、いい。名前と住所と免許証の登録番号を控えたし、ついでに顔も覚えたから、もう行っていいぞ」
 長沼間は鬱陶しくなったのか、極美を放免してやることにしたらしい。極美はそれを聞くや否や、そのまま泣きながらも脱兎の如く走って公園を出て行った。
「なんだったんですか、あれは?」
 葛西があきれて聞いた。長沼間は苦々しい顔で、極美の去って行った方向を見ながら行った。
「怪しいが、これ以上引きとめようがないんでな」
 そのとき、警官の1人が近づいて来て、葛西に言った。
「葛西刑事、あの女性どこかで見たことがあると思って見てたんですが、『きわみ』という名でやっと思い出しました。グラビアアイドルのKIWAMIちゃんですよ」
「グラドル? あの子が?」
 葛西は意外なことに首をかしげて言った。
「ええ、売れっ子ではなかったですが、週刊誌の袋とじや青年漫画誌のグラビアによく載ってましたね」
「ほう、よく覚えていたな。ファンだったのか?」
 長沼間が、にやりと笑いながら警官に向かって尋ねた。
「はい、お世話になってました」
 ははは、と男性陣から誰ともなく笑い声が上がった。紗弥は呆れ顔で肩をすくめた。
「確かグラドルを辞めたと聞いてますが、まさかこんなところでご本人と遭遇するとは・・・。そういえば、ジャーナリストになるとか言って辞めたそうです」
「なんだって?」
 長沼間が聞き返す。
「はい。あまりにも職種が違いすぎるので、冗談だと思われて軽くあしらわれていましたが」
と、件の若い警官が答えた。
「まずかったかな・・・」
 長沼間はそう言いながら、ギルフォードと葛西の顔を見た。
「まあ、いずれにしても、もう近くにはいないでしょうね」ギルフォードが答えた。「ところで、ナガヌマさん、あなたはミハさんを監視していたんじゃなかったですか?」
「下ろされたよ」
 と長沼間は苦々しい表情をして言った。
「苦情が入ったらしい。ひょっとしたら・・・・」
「じゃあ、ミハさんは今、誰にも見守られていないということですか?」
「いや、武邑ともう1人ペーペーの部下に張り込みを続行させている。連中は俺と違って見かけで怪しまれたりしないだろうからな」
「確かにアヤシイですもんね、ナガヌマさんは」
「ほっとけ!」
 怪しさでは引けをとらないギルフォードに言われて、長沼間はヤケ気味に言った。その時、公園内に鑑識が入ってきた。それを見て葛西が言った。
「鑑識の方たちがこられました。僕はこれから彼らに説明をしに行きます。アレクもついてきてくださいませんか?」
「もちろんです。そのために来ました。紗弥さん、ちょっと行って来ますね」
 ギルフォードと葛西は、紗弥と長沼間をその場に残し、鑑識の集まっている現場に向かった。
「アレク、そういえばバイクは?」
 葛西が尋ねるとギルフォードが答えた。
「今日はサヤさんのバイクでタンデムで来ました。それに彼女なら、何かあっても臨機応変に行動出来ますから後を任せても大丈夫です」
「そうですか」
 葛西は答えたが、二人がバイクに乗った図を想像してちょっと萌えた。
 

 極美は泣きながら公園を出ると、周囲を見張っている警官達に胡散臭い目で見られながら、そのまま走って公園を後にした。しばらく走って誰も追ってこないことを確認すると、ゆっくり歩き始めた。
「あいつ等、絶対になにかを隠しているわ。あそこできっと何か公表されちゃあマズイ事件があったのよ。でも、証拠隠滅のために写真を全部消されたのは悔しいけど・・・」
 極美はそうつぶやくと、携帯電話を開いてにやりと笑った。
「実は、携帯の写真、こっちにもあるんだよね」
 そう言って、携帯電話でインターネットに接続し、ウエブメールを開いた。確認をすると、無事に3枚写真が添付されたメールが届いていた。
「あはは、ザマーミロだわ。私を舐めないで欲しいわね」
 極美は、警官達をあざ笑った。極美は長沼間に見つかった時、咄嗟にトイレの個室に籠り、携帯電話からパソコンのメールに写真を添付し送信、すぐに履歴を消した。それから降参したフリをして個室を出、長沼間に捕まったのである。
「さて、この写真を見せて、取材の許可をもらえるようデスクを説得すればいいわね。多分取材費も弾んでくれるはずよ。見てなさい。警察が何を隠蔽しようとしているか、私が暴いてあげるから」
 極美は意気揚々と歩き始めた。
「さて、今夜の宿を探すか」
 そう言うと彼女は、5時を過ぎて会社帰りの人たちがあふれ始めた街の雑踏の中に姿を消した。

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