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5.出現 (6)アクロスティック

 由利子と如月は文章の仕掛けに気がついて興奮しているものの、他の者たちは何がなんだかわからない状態であった。ギルフォードは、二人に尋ねた。
「なんですか、『ねこ大好き』って?」
如月がその質問に答えた。
「縦読みのことですよ。英語ではアクロスティックとかいいませんか?」
「はい、アクロスティックなら知っています。推理小説等にもよく使われますね。でも、何故、それが『ねこ大好き』なのですか?」
ギルフォードの質問に、如月が再度説明する。
「以前、ある巨大掲示板で、ある人が縦読みで『氏ね』と締めようとしたら最後の『ね』が思いつかんで、苦し紛れに『ねこ大好き』と入れたことが由来らしいですワ」
「それで・・・」と、如月に続いて由利子が言った。「このメールの左端を縦に読むと・・・、あ、ちょっとアレク、何か書くものを貸してください」
由利子はわかりやすくしようと、紙に書いて説明することにした。
「まず、最初のメールから左端の文字を抜書きしてみます」
由利子は、ギルフォードから紙とペンを借りると、彼の横に膝をついて座り込み、パソコンディスクの空いた場所に紙を置いて、書き写し始めた。

げんき? 僕のこと覚えてる?
ー度くらい、お返事ください。
無理かどうかは、やってみないとわからないだろう?
はじめてだけど、君だったらだいじょうぶ

はげしいほど君が大好きだっていう
自信が僕にはあるんだ。
まずはメールして。連絡先を教えます。
つねにきみを見ていたよ。素敵な人だっ
て、ずっと思ってた。眠れない夜を過ごしてた。
いつでもまっているからね。
ルネより。

「こうなります」

《 げ/ー/無/は/ /は/自/ま/つ/て/い/ル 》

「で、次のは、こう」

差出人:ルネ
件名:僕だよ

きのうメールした、ルネです。
みてくれたかい?
二度もメールしてごめんよ。でもぼくは
こんなに君が大好きなんだ
レポートを書いていても、忘れられなくて、だから、
がんばってきみに愛されたいって思ったんだよ
とにかく、へんなメール送ってごめん。よかったら
メールのお返事くださいね。
らくな気持ちでいいの。どうかお願い、一度でいいから
れんらくしてください。
ルネより
かならずだよ

《 き/み/二/こ/レ/が/と/メ/ら/れ/ル/か 》

「声に出して読んでみます。『げ ー 無 は  は 自 ま つ て い ル 』『き み 二 こ レ が と メ ら れ ル か』。わかりました? 念のため、ちゃんと読んでみます。『ゲームは始まっている。君にこれが止められるか』。どう? アレク、あなたへの挑戦状みたいに思えませんか?」
由利子は、ギルフォードに向かって言った。
「確かに、そう受け取れます・・・。でも、どうして僕宛てに・・・」
教授の問いに、葛西はウンと首を縦に振って言った。
「この犯人は自己顕示欲が強そうですから、文面は違うかもしれませんがおそらく何箇所も送っているでしょう。ただ、どこでもスパムとして開かれることなく処理されているのかもしれません。だけど、アレク、あなたを強く意識しているのは間違いなさそうです」
「だけど、僕がもともとどんな理由で日本に呼ばれたかを知る人は少ないです。最近頓に、警察のアドバイザーのようになってますが、表向きは一介の客員教授という立場だし」
「でも、彼らはあなたに挑戦してきたんです」
と、葛西は言い切った。その横から如月が心配そうに言った。
「せやけど、単なる愉快犯のイタズラメールかもしれへんですよ。変に騒ぐとそいつを喜ばせるだけやないですか?」
「いや、如月君。単にイタズラと片付けられない理由があるんだ」
葛西はポケットから携帯電話を出しながら言った。
「僕は今から本部にどう対処すべきか聞いてみます。僕はこういうのは専門外なので」
そしてすぐに電話をかけ始めた。
「まあ、いきなり騒然としていますけど、何かあったのですか?」
由利子のためにお茶を入れて研究室に戻ってきた紗弥は、先ほどとうって変わった教授室の雰囲気に驚いた。ギルフォードは、簡単に経過を話した。紗弥はさっそく興味を持ったらしく、応接セットのテーブルに紅茶を置くと、お盆を持ったままギルフォードのパソコンを覗きに行った。
「まっ、ひどい文章! 座布団全部没収ですわ」
メールを見るなり、紗弥は一刀で切り捨てた。
「多分わざとでっせ、紗弥さん」
と、如月が言った。
「縦読みだと気づかせるために、わざと不自然な文章にしたんやと思います。現に教授はメールを読んで悩んではりましたやろ?」
「まあ、『僕だよ』にひっかかってメールを開けるなんてアッサリ敵の術中にハマるあたり、そこらのスケベオヤジとレベルは一緒ですわね」
紗弥は返す刀でギルフォードも叩き切った。ギルフォードは両手で顔を覆うと指の間から紗弥を見て情けない声で言った。
「サヤさぁ~~~ん、スケベオヤジってのだけはやめて下さいよ」
「エロオヤジのほうがよろしいかしら?」
「どっちもイヤですよ!」
ギルフォードはきっぱりと断った。
「あらま、ホントにすごい文章」
「思い切りアッーなメールやね」
「教授がうっかり開けちゃうわけだ」
「で、ルネって誰よ」
「ルネ・シマールかな?」
「誰よ、それ?」
「アタシのママが若い頃好きだった美少年歌手だって」
「知らんわ、『ミドリ色の屋根』なんて」
「知ってんじゃねーか」
「おまえら、いつの生まれだ」
すでにギルフォードのPCモニターの周りには、研究生がたかってわいわい言っていた。ギルフォードは仕方なく、右上の|-|をクリックしてブラウザを最小化した。
「あ~~~、またぁ、ずる~~~い」
「こすか~~~」
ギルフォードはわめく学生達を再度無視して如月に言った。
「キサラギ君、みんなを連れて行ってください。これから彼らと大事な話をしますから」
ギルフォードは由利子と葛西を指して言った。
「了解しました。おい、みんな行くで!」
如月は彼らを外に出した後、最後に部屋を出てドアを閉めた。教授室は静けさを取り戻しため、葛西のぼそぼそと電話をかける声が際立った。とはいえ、ギルフォードの教授室は研究室の中にパーテーションで仕切られただけの部屋なので、自分らの持ち場に戻った学生達が引き続き盛り上がって話す声も良く聞こえる。
「ユリコ、口外しないという約束で、お話があります。守れますか?」
ギルフォードは、由利子の方を向くと真剣な顔で言った。正面から見据えられて、由利子は不覚にも一瞬ドキリとした。まともな顔をするとかなりいい男だからだ。もちろん由利子の返事は決まっていた。
「はい、もちろんです」
「OK、では、またあっちの席にもどりましょう。長くなりますから」
二人はパソコンから離れ、先ほどまで座っていた応接セットに戻った。葛西は少し離れた窓際で電話している。由利子が座ると、早速ギルフォードは話を始めた。
「信じられないと思いますが、あなたは知らないうちに、バイオテロ事件に関わってしまったようです」
「はぁ~?」
由利子はギルフォードが言ったとおり、思い切り信じられないという顔をして言った。
「僕にはテロと断言する決め手がありませんでしたが、今のメールで確信しました。何故かはわかりませんが、このF県下で、バイオテロを起こした連中がいます」
「あのォ、それを信じろと? 大体なんで中央じゃなくてこんなとこから始めるっていうんですか?」
「それは、わかりません。しかし、交通機関の発達している現在、どこで起こるかより、確実に感染を広げるほうが有効ですから。F空港からだって、2時間以内に東京に、12時間ほどでヨーロッパに着くんですよ」
「確かにそうですが・・・」
「テロが必ず首都やその付近で起こるとは限りません。たとえば、1984年にアメリカで実際にあった、ラジニーシ教団というカルトがおこしたサルモネラ菌によるバイオテロ事件は、オレゴン州ワスコ郡で起こりましたよ。今回のテロは、日本国内で何箇所もウイルスをばら撒いた結果、K市のみで成功したのかもしれません。とにかく、今わかっているだけで、マサユキ君を含む7人、いえ、おそらく8人が犠牲になっています」
「ちょっと待ってください。雅之君が感染していたんですか?」
「そうです。彼が暴行したホームレスが感染・発症していたからです」
「それで私も関わっていると・・・」
「そういうことです」ギルフォードは言った。
「悪いことに8人目の犠牲者はヒロシマまで出かけています」
その時、葛西が話に割って入った。
「お話の途中ですが、アレク、例のメールを県警のサイバー犯罪対策部に転送してください。管理者に発信元の確認をさせるということです」
「わかりました。すぐに転送しましょう」
「それは私がやっておきますわ。教授はお話を続けてください」
紗弥がその役目を買って出た。
「お願いします、サヤさん」
ギルフォードは彼女の申し出を受け、任せることにした。葛西は電話を続けながら、紗弥をサポートするために彼女の傍に行った。ギルフォードは、テーブルに右肘を付くと掌であごを支え、指で顔下半分を覆いながら仏頂面をして言った。
「それにしても、ナガヌマのあのクソオヤジ、ロコツにバックレやがって・・・」
「へ?」
「あ、すみません、下品な言葉を使ってしまいました。今のは忘れて下さい」
「はあ」
由利子は驚いたが、こんなに日本語がしゃべれるし学生たちとも付き合っているのだから、多少乱暴な言葉だって知ってるだろうと考えた。だがそれでも(一瞬別人が居るかと思った・・・)と、今までのイメージの違いに少しとまどってしまった。
「ナガヌマさんは、このことを知っていたんです。少なくとも嗅ぎつけていたのに、僕が聞いた時にアカラザマにごまかしてました。あとで電話でとっちめてやります」
「それで、あのメールのメッセージが理解できました。テロリストがあなたに挑戦してきたわけですね」
「僕に対しての挑戦だけではないでしょう。それならテロを起こす前からなんらかのアクションがあったはずです。それにしても、敵さんは僕があのメールを開けることを見越していたようで、キモチワルイですけれど」
「それで思ったんですが、『ルネ』って名前に心当たりはないですか?」
由利子は気になっていたことを聞いた。
「それこそ、縦読みの文字あわせに使うための適当な名前じゃないんですの?」
予想外に自分の隣で声がしたので由利子はぎょっとした。いつの間にか由利子の横に座っていた紗弥が言ったのだ。
「いえ」由利子は平静を装って言った。「それならルネでもルッキオでもルンルンでもルフィーでも、極端な話ルパン三世でも構わないと思うんです。わざわざルネという名前にしたというのが気になるんです」
「ルネ・・・ルネ・・・。う~~~ん・・・」
ギルフォードはしばらく考えていたが、首を横に振りながら言った。
「学生時代にまで記憶をさかのぼってみましたが、ルネという名の男性に心当たりはありませんねえ」
「って、女性には心当たりはないんですか?」
由利子が訊くと、ギルフォードと紗弥が二人そろってにっこりと笑った。何となく訊いてはいけないことを訊いたのだと思って、由利子はそれ以上の追及をやめた。微妙な空気の中、電話を終えた葛西がギルフォードの隣に座った。
「とりあえず、連絡待ちです」
葛西は言った。すると、紗弥が立ち上がった。
「由利子さん、お茶、冷えてしまいましたから、入れなおしてきますね」
「あ、そんな・・・。大丈夫ですよ、お構いなく」
由利子は遠慮したが、ギルフォードが遠慮なく言った。
「あ、ついでにジュンと僕の分もお代わりお願いします。サヤさんも一緒にブレイクしましょう」
「かしこまりました。今度は教授以外はコーヒーにしましょうね」
紗弥はそういうと、カップを下げ部屋を出て行った。その間、ギルフォードは由利子に今までの事件の経過を説明した。
「出血熱だなんて、そんな映画みたいな・・・」
由利子はそれでも信じられないという風情だった。
「ダスティン・ホフマンが出てきそうですよね」
葛西も言う。ギルフォードは二人を見ながら、しごく真面目な顔をして言った。
「今の時点では何とも断言できません。病原体の正体がわかっていないからです。今のところ、『きわめて一連の出血熱に良く似た症状のおそらくウイルスが原因の非常に危険な感染症』としか言いようがないんです。まさに『名前のない怪物』です」
「じゃあ、アレク、その『怪物』の特定にはどれくらいかかるんです?」
由利子がもっともな質問をした。ギルフォードはふっとため息をついて言った。
「特定感染症に指定されているようなものならば、最近はかなり早く病原体を特定できます。しかし、今回のような未知のもの、それもウイルスとなると、相手がナノサイズだけに難しいのです。たとえばサーズの時で一ヶ月かかりました」
「そんな、ふうたんぬるい・・・」
「え? フータン・・・?」
聞きなれない言葉に、こんどはギルフォードが戸惑った。
「『ふうたんぬるい』というのは、『とろい』とか『のろま』とか言う意味の方言です」と葛西が口を挟む。
「なるほど。それにしても、面白い言葉ですね」と、ギルフォードは少し珍しそうに言った。そして微妙な笑みを浮かべながら、「さらにそのフウタンなんとか言われそうですが・・・」と言ったが、すぐに真面目な顔に戻った。
「病原体がわかったとしても、ワクチンを作るには最低半年から1年はかかるんです。大人の事情で何年もかかることもありますし、HIVのように変異にワクチンが追いつかないこともあるんです」
「それじゃあ、手の打ち様がないじゃない!」
由利子は憤って言った。しかし、ギルフォードは反論した。
「手の打ち様はあります。ただし、それには官民が力を併せて予防措置をとらねばなりません」
その時、葛西の電話が震えた。ギルフォードと由利子は話をやめて葛西に注目した。
「もしもし、お母さん、何?」
「あらら・・・」
メールの発信元がわかったのかと期待していた二人の緊張が一気に解けた。
「仕事やって言うたやん・・・、うん? そげなことはなかって・・・」
そう言いながら、葛西は二人に目ですみませんを言いながら、廊下に出て行った。
「ジュンも方言を話すんですねえ・・・」
ギルフォードが言った。
「はじめて聞いた」
由利子も言い、二人は顔を見合わせ笑った。
「ところで、アレク、今更こんなこと言うの何だけど、日本語すごく上手いけど誰に習ったの?キッカケは何?」
由利子は会ったときから思っていた疑問を、興味津津で尋ねた。ギルフォードはにっこり笑って答えた。
「学生時代付き合ってた人が日本人留学生だったんです」
「へえ、どんな人?」
「当時は僕より背が高くて・・・途中で僕が少し追い越しましたけどね、キビシイ面もあったけど、思いやりがあって優しくていい男でしたよ」
「男?」
「はい。それで、彼の母国語で彼と話したいと思いました」
ギルフォードは隠すことなく、むしろ臆面もなく答えた。
「―――そっ・・・・、そ、そうなの」
若干の沈黙の後、由利子は言ったが声も若干裏返っていた。
「ちょっとジュンに似ています。初めて会った時、驚きました。で、つい、抱きしめてしまいました。これはジュンにはナイショですよ。彼はこういうことに、かなりウトイみたいですから」
ギルフォードは笑顔でウインクしながら言った。由利子は、あのK署で見た光景を思い出し、なるほどそうだったのかと思った。由利子はそういうことに対して寛容ではあったが、さすがに身近にいるとなると驚きを隠せず、その後に続く言葉が出なかった。そこに、ちょうど紗弥が紅茶とコーヒーを入れて戻って来た。由利子はほっとした。
「もう、湯沸し室までの往復が大変ですわ。早く壊れたポットの補充をしてくださいな」
紗弥は言った。
「すみません、明日、電気屋さんに行って安いの買って来ます」
ギルフォードが、頭を下げながら言った。
「すみませ~ん」
葛西も戻って来た。
「仕事中にはかけるなって言ってるのに、もう、母ときたら・・・」
「そういえば、今日は土曜日じゃない。皆さん仕事なんですよね」
何とか立ち直った由利子が言った。
「僕らは基本土日休みなんですが、現場の方はそういうわけにはいかないもんで」
と葛西が言うと、紗弥も続けて言った。
「ここも人使いが荒くて大変なんですの。先週なんか資料が来るからって、日曜に総出で集合をかけられましたのよ」
「い~じゃん、今日なんか頼んでもいないのに、ユリコ目当てでみんな来てるじゃ~ん」
ギルフォードは例のスネスネ口調で言いながら、紅茶を一口飲んだ。
「あ、あたし? みんな私を見に来たの?」
思ってもないことを言われて、由利子は焦った。そこにまた葛西の携帯電話の震える音がした。葛西は急いで電話に出た。
「はい、葛西です。・・・え? 判りました? は、はやッ」
みんなの緊張が一気に高まった。
「はい、発信は携帯電話からですか。やっぱり。それで・・・?」
しばらく相手の報告を聞いていた葛西の顔色が変わった。
「そ、そんな馬鹿な! あり得ません。その子はもう亡くなっています!」
ギルフォード・由利子・紗弥の3人は顔を見合わせた。嫌な予感がした。
「で、その電話の電波発信は?・・・・え?・・・・H埠頭で消えた? ってことは、海に投げ捨てたって事ですか?・・・それで?」葛西はしばらく相手の話を聞いていた。
「わかりました。また連絡します。どうもありがとうございました」
葛西は電話を切ると、みんなに向かって言った。
「このことは、内密にお願いします。メールの発進元は、秋山雅之の携帯電話からでした。さらに、調べてみると同一携帯電話から同じようにスパムを装ったメールが、県下の官庁や警察関係のおえらいさん数人のプライベートメアドに送られていたそうです。しかし、やはりスパムとして処理され、だれも内容を見ていないようです」
皆は改めて顔を見合わせた。
「どういうこと?」
由利子が言った。
「テロリストが犠牲者の携帯電話を手に入れていたということです」
ギルフォードが答えた。しかし、声のトーンが今までと違っている。由利子はそれに気づいてギルフォードの顔を見た。彼の表情は硬く、笑顔がすっかり消えていた。葛西が続けて言った。
「雅之君のケータイが敵の手に渡っていた。そして、雅之君のお母さんは行方不明・・・。まさか・・・」
「おそらく連中は、マサユキ君が感染していることを知り、ロックオンしていた・・・密かに観察していたんです。彼の死すらも。そしてさらに彼の母親を巻き込み、彼女から息子の携帯電話を奪った」
淡々として話すギルフォードの様子を、紗弥が心配そうに伺っている。
「マサユキ君はまだ14歳でした」ギルフォードは静かに続けた。「確かに彼のやったことはサイテーです。裁かれるべきことです。しかし、彼は充分苦しんだでしょう。罪を償って再出発も出来たはずです。現に自首するつもりで友だちのユウイチ君にメールでそれを伝えていました。だけど、テロリストがウイルスをばら撒かなければ、彼は殺人という大罪を犯すことはなかったんです。何故ならあのホームレスは、発症し死につつあったからです。そして、彼は自分の罪と病の双方に苦しんだ挙句に殺されたんです。そして彼を殺した連中は、あまつさえ彼の携帯電話を利用して、下品な挑戦状メールをばら撒きました。これは死者への冒涜に他なりません」
ギルフォードは淡々と話し続けたが、声のトーンはさらに下がっていった。
「メールに隠されたメッセージのとおり、このテロは彼らにとってゲームなんです。メール送付のやり方自体がお遊びです。必ず読まれるという前提は考えていない。気づけるなら気づいてみろ、そして、止められるものなら止めてみろ、という、犯人のからかい口調すら聞こえて来ます。これは、多くの人命を賭けた最低最悪のゲームです・・・!」
そしてギルフォードは何かに耐えるようにして黙り込んだが、その表情は紗弥でさえ今まで見たこともないような厳しいものだった。室内の空気が異様に張り詰める。しばらくの沈黙の後、ギルフォードは
”********, *******,****!! ”
と、英語で何かつぶやくと立ち上がった。
「すみません、少しの間失礼します」
そう言うと、ギルフォードはすたすたと歩いて研究室の外に出て行ったが、まもなく彼の向かった方向でものすごい音がした。残った3人は顔を見合わせた。隣に居る学生達の声も一瞬途絶え、その後ひそひそと話し始めた。由利子たちは、誰からともなくカップをを手に取り、一斉にコーヒーを飲み干した。なんとか緊張が解け、3人はほっとため息をついた。
「相当怒っていますわね」
紗弥が最初に口を開いた。
「今回何を壊したのやら・・・」
「意外と熱血だったんだ」
由利子が感心して言うと、葛西が戸惑ったように紗弥に尋ねた。
「僕、よく聞き取れなかったけど、なんか英語ですごいこと言ってませんでしたか?」

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5.出現 (7)間~はざま~

「そうですわね。でも、教授の英語での会話は普段からあんなものですわよ。さっきのは際立って粗暴でしたけど」
紗弥は、特に驚くほどもないという風に言った。
「それより私、教授のあんな怖い顔、初めて見ましたわ」
「で、紗弥さん、アレクは一体なんて言ったの?」
英語のまったく苦手な由利子は気になって仕方がないようだ。
「"ド腐れ外道が、必ず捕まえて地獄に叩き落してやる、ケツを洗って待っていやがれ、クソッ"ってところでしょうか」
「確かにすごいけど、紗弥さんの口からそんな言葉が出たことのほうが、破壊的だわ」
由利子は少し引き気味に言った。葛西に至っては、顔が完全に引きつっていた。
「そうだ!」葛西の顔を見て紗弥が思い出したように言った。「葛西さん、良い事をお教えしましょう。魔除けの言葉ですわ」
「なんでしょう?」
葛西はまだ引き気味に言った。
「こんど、教授が『ロシア式挨拶』をせまって来たら、教授に向かって毅然として彼のフルネームを言ってご覧なさいな」
「フルネーム? 『アレクサンダー・ライアン・ギルフォード』でしたっけ?」
「これが効果覿面ですのよ。もう、面白いったら」
そういうと紗弥はくすくすと笑った。
「魔除けというより、孫悟空にとっての緊箍経(きんこきょう)みたいですね」
由利子が言うと、紗弥はそれがツボにハマッたのか、あははと本気で笑い出した。
「紗弥さん、こんなカンジでちゃんと笑うんだ」
「っていうか、一種のツンデレ? かわいい」
紗弥の意外な面に、今まで彼女に少し距離感を感じていた二人は少し親近感を覚えたが、少しすると紗弥はぴたりと笑うのを止めて言った。
「帰ってきましたわよ、孫悟空が」
すると、すたすたと足音がしてギルフォードが帰って来た。
「お待たせしました。サヤさん笑ってましたね、珍しいです」
しかし、彼を見た3人は驚いた。
「きゃあっ、アレク、手っ、手っ!」
「わーーーーっ!!」
「教授、右手から血が滴ってますわ!」
言われて右手を見たギルフォードは「あ・・・」と言った。中指の第三関節辺りからだらだらと血が流れている。血は彼が歩いた道筋を、点々と示していた。ギルフォードはその『点々』を目で追いながら、再度自分の右手をじっと見て、「あ~あ」と言いながら口元に手を持ってくると、ペロッと傷を舐めた。
「いやぁあ、傷口を舐めないでくださいな! もうっ! ケダモノなんだから!」
珍しく紗弥が声を荒げ、急いで救急箱を取りに行った。
「ケダモノだって・・・」
「ケダモノでしょうね、やっぱり・・・」
由利子と葛西が目を点々にして言った。紗弥はギルフォードの手を消毒しながら、
「過激なことをなさるのは構いませんが、後先を考えてくださいませ」
と言うと、傷口に特大の絆創膏を貼り、その上をパシッと叩いた。
「はい、終わりましたわ」
「おうっ、何するんですか、サヤさん」
「自業自得ですわよ」
紗弥は冷たく言うと、モップを取って来てギルフォードに渡した。
「とっとと床に垂れた血をふき取ってきてくださいな」
「は~い」
ギルフォードは素直にモップを持って、床を拭きながら部屋を出て行った。それを見た学生達が声をかけた。
「先生、また怒られたとぉ?」
「はい」
「懲りへんなあ、先生も」
「手伝いま~す」
「アタシも~」
「ああ、素手は駄目ですよ、人の血を触る時は、ちゃんと感染防止の手袋をして・・・」

「さっきとは別人ですね」
葛西が言うと由利子も頷いた。
「ほんとに。さっきはめちゃ怖かったのに、今はまるででっかい子どもみたい」
「というより、やっぱり孫悟空と三蔵法師の構図ですよ」
「でも、学生達には慕われているみたいやね」
「そうですね」
 由利子は、すでにここのバイトのことを本気で考えていた。秘書の紗弥も学生も感じが良いし、研究室の雰囲気も和気藹々としている。何よりもギルフォードの人柄が気に入った。日ごろの物柔らかい言動と、さっきの怒りで見せた熱血さ。面白い。彼にならなんかついて行けそうな気がした。彼がゲイであることなど瑣末なことに思えた。現に学生達はそれを知りながらも偏見なく彼を慕っている。バイトのことを尋ねられたらOKと言おう。由利子は思った。
 だが、由利子の選ぼうとしている道は、実は何よりも険しく辛いものになろうとしていた。もちろん、彼女にはそんなことは知る由もない。 

「僕、そろそろ帰らないと・・・。長居をしすぎてしまいました」
葛西が時計を見ながら言った。
「おや、残念です。でも、ジュンが居てくれて良かったです。メールの件、どうもありがとうございました」
「ウチの者がそのメールについて、事情聴取に来ると思います。テロについてはまだ警察では確定されてはいませんが、それとも関わりが深いということで」
「わかりました」
「あ、私もそろそろお暇(いとま)しようかと・・・」
由利子も言った。
「おや、ユリコもですか? すみません。バイトのことをいろいろ説明しようと思ったのに、ヘンなメール事件で予定がメチャクチャになりましたね」
ギルフォードは残念そうに言った。
「いえ、却ってこの研究室の雰囲気がわかって良かったですよ」
「そうですか・・・」
ギルフォードは元気なく言った。
「では、僕のオファーについては・・・」
「OKです」
「え?」
「バイトに雇ってください」
「いいんですか?」ギルフォードの顔がぱっと明るくなった。
「はい。まあ、次の仕事が決まるまでですが・・・」
「僕はてっきり断られるかと・・・」
それで元気がなかったのか、と由利子は思った。
「月曜に辞表を出します。有給休暇が余ってますから、来週半ばあたりから休むつもりですので、よかったらその辺りからお手伝いにこれますから」
「ありがとう、ユリコ!」
ギルフォードはガバッと立ち上がると、いきなり由利子を抱きしめた。
「ひゃぁあああ!」
由利子はいきなりの攻撃に、驚いて悲鳴を上げた。
「Alexander Ryan Guildford!!」
紗弥と葛西が同時に怒鳴った。

 

 美千代はフラフラしながら、一人でラブホテルの廊下を歩いていた。指定した部屋に入り、途中薬局で買ってきた頭痛薬を飲むと、そのままベッドに突っ伏した。昨夜からどうも気分が悪かったが、午後から発熱したようで節々も痛い。しかし、病院に行く訳にはいかなかった。身元がばれて、またあの恐ろしい病院に連れ戻される可能性があったからだ。そうなったらもうお仕舞いだ。まだ明るいうちから、それも、一人でそういうところに入るのは気が引けたが、とにかくどこかで横になりたかった。背に腹は替えられない。
 ベッドに突っ伏して数分すると、確認の電話がかかってきた。ようやく身体を起こし、電話に出る。電話の向こうで無愛想な女の声がした。
「ご休憩ですね」
「はい・・・」
「失礼ですが、お1人?」
「後で連れが参ります」
「そうですか。ではごゆっくりどうぞ」
電話を切ると、美千代の意識はそのまま遠のいていった。

  
 森田健二は、今朝から気分が優れなかった。彼は臨時収入が入ったので、昨夜友人達を引き連れて繁華街でどんちゃん騒ぎをしたのだが、きっとそのせいで飲みすぎたのがまずかったのかな、と思った。昨日お持ち帰りをした女の子と、昼近くまで正体なく眠っていたら、彼女がやってきてひと悶着あったのち、二人とも出て行ってしまったので、彼は1人だった。部屋はひどい状態だったが片付ける気も起こらず、スポーツ飲料を一杯飲んだだけで午後からまた布団に倒れこんで死んだように眠ってしまった。
 夕方になると、機嫌を直した彼女が色々食材を買ってやってきた。健二は仕方なく起き出したが、気分はだいぶ回復していた。
「もう、だらしないなあ」
そう言いながら彼女は部屋を片付け始めた。やっぱり私がいないと駄目じゃない。健二はその後姿をぼうっと見ていた。気分は改善したが、少し頭痛が残っている。寝すぎのせいだろう、健二は考えた。その時、かかっていたテレビ画面がピカピカと激しく点滅をした。いつの間にかアニメが始まっていたらしい。それを見た健二の眼の奥がズキンと痛んだ。彼は反射的に目を押さえた。
「何よ、子どもみたいに」
彼女が健二の様子を見てからかうように言ったが、健二は両目を押さえたままうずくまって動かない。
「健? 健二!! どうしたん!?」
彼女は驚いて健二に駆け寄った。
「ううう・・・」と苦しそうに言いながら健二は彼女にしがみついて来た。
「きゃあ、どうしたの? しっかりしてよォ!!」
彼女は、おろおろしながら言ったが、しがみついてきた健二に押し倒された形になった。健二はそのまま動かなくなった。
「健! しっかりしてぇ~!!」
彼女が涙声で叫んだとき、健二の上半身が起きあがった。
「なんちゃって」
「ちょっとぉ! お芝居やったん? 本気で心配したやん、モォッ、いい加減にし~よ!!」
「ごめんごめん、クミ、面白かったんでつい」
「許すから、どいてよ。そろそろ夕飯の支度をしなくっちゃ・・・って、ちょっとぉ、何すんの」
「いいじゃん、ちょっとだけ」
「もお、少しは辛抱しなさいよ」
口ではそういいながら、クミはクスクス笑っている。健二は彼女がOKしたと考え、彼女のサマーセーターを捲り上げ、胸元に顔をうずめた。

 
 美千代が目を覚ますと、7時を過ぎていた。頭痛薬が効いたのか、気分はだいぶ良い。清算を済ませて外に出ると、美千代はまた夜の街に消えていった。

 

 由利子は、風呂から上がると紅茶を用意し、飲みながら恒例のブログ記事を書き始めた。今日はギルフォードの研究室を見学しに行って、色々面白い経験をしたが、内密な話が多すぎてうっかりしたことは書けないと判断し、もったいないが書くことを控えた。その代わり、「欧米人における、フルネームの魔力」というテーマで書くことにした。今日の体験もあり、なかなか面白いエントリーになった。読み直して文字のチェックを終え、ふんふんと鼻歌交じりで書き込みボタンを押す。アップされた記事をもう一度読み直すと、一箇所訂正漏れがあった。それを訂正し再々度読み直す。今度は完璧であった。
「よっし、おっけー!」
由利子はそういうと、背伸びをした。そのまま横を向くと、猫たちがベッドの上で正体なく眠っているのが見えた。二匹とも動物園のラッコが眠った時のような格好で並んで寝ていたので、ぷっと吹き出しそうなのをこらえて、携帯電話をこっそり取り出し写真を撮ろうとした。その時、ブーンと電話が震えた。
「うわっ!」
びっくりして電話を取り落としそうになり、焦って電話を持ち直したが、由利子の声で猫たちが目を覚まし、せっかくのシャッターチャンスを逃してしまった。
「ちぇっ! せっかく明日の記事のネタが出来たと思ったのに」
由利子はブツブツ言いながら、電話の相手を確認した。美葉からのメールだった。

「由利ちゃん、元気?アレクの研究室はどうだった?様子を教えてね。そうそう、実家から野菜とお菓子送ってきたから、おすそ分けします。今日送ったよ。市内だから明日には届くと思うよ。お楽しみにね。美葉」

「野菜とお菓子! 助かるなあ」
由利子は喜んでお礼のメールを出した。ついでに今日の様子も知らせる。とはいえ、機密事項が多すぎるので、研究室の雰囲気とバイトを受けたことだけを伝えることにした。ギルフォードがゲイということも、とりあえず伏せておいた。それは今度会った時に伝えよう。そう思ったところで、何となく眠くなってきたので時計を見ると、まだ0時にもなっていなかった。休みの日は夜更かしで、ともすると2時くらいまで起きていたりするのだが、なんとなく気疲れしたらしく、今日は早く寝ることにした。
 ベッドに入ると仰向けになり、両腕を組んで後頭部を支え、背伸びをする。そのまま両手を枕にして天井を見た。電気を消さなくちゃ、と思いつつ目を閉じると今日、葛西と一緒だった帰り道のことが思い出された。 

「ああ、おどろいた」
由利子は葛西と大学内を歩きながら言った。
「女性でも驚きますか?」と、葛西。
「そりゃあ、あんなでかい外人のオッサンにいきなり抱きつかれた日には、誰だって驚くわよ」
「しかし、あの『緊箍経』は、効きますねえ」
「あのアレクが、いきなりしょぼ~んってなったもんねえ」
由利子は思い出してクスクス笑った。
「欧米じゃ、本気で怒られる時はフルネームで呼ばれますから」
「子どもの頃、悪さばっかりしていて、しょっちゅうご両親に怒られてたって、いったいどんな子だったんだろ」
「今からは想像もつかんですねえ。・・・あ、篠原さん、僕、車なので最寄の駅まで送りましょう」
「え? いいんですか?」
「ホントはご自宅までお送りすべきなんでしょうが、なにぶん県警にまた寄らないとならなくなったんで・・・」
「いえ、そんな、駅までで充分だって。で、県警に寄るって、あのメールの件?」
「そうです。実際、このテロ事件、どう動いて良いのか警察の方も判断がつかないんです。アレクの資料は緻密で信憑性は高いのですが、いまいち決め手がない。相手が新種のウイルスらしいとまではわかっても、ウイルスが見つかったわけではない。犠牲になったという8人のうち、二人は事故で1人は暴行が直接の死因です。今回の挑戦状メールにしても、使用された雅之君の携帯電話を探すためにH埠頭の海中を捜索すべきか意見が分かれるでしょう」
「でも、テロ事件の重要な手がかりになるかもしれないんでしょ?」
「そうです。僕が怖いのは、こうやってもたもたしている間に感染が広がって、ある日いきなり病気が表面化する可能性があることなんです。厄介です。相手がナノワールドだと」
葛西はため息をついた。
「それと、もうひとつ気になることがあるんです。雅之君のおばあさんの・・・」
葛西はここで言葉を濁した。
「何?」
「いえ、これは聞かないほうがいいと思います」
「え~? いいじゃない、聞かせてよ」
「僕は、話したくないんです」
「どして?」
「悪夢です。事実、それを聞いた夜、夢に見てうなされました。興味があるなら今度アレクに聞いてください。それより・・・」
由利子は、是非悪夢を見るような話の方を聞きたかったが、葛西が本気で嫌がるのであきらめた。
「それより、何?」
「えっとですね・・・、あのですね・・・」
「だから、何?」
「はいっ! あのぉ、よかったら僕のことを『ジュンちゃん』って呼んで下さい」
「ぶはっ」それを聞いて由利子は吹き出した。「あ、ごめんなさい。ぷっ・・・ぷはははは・・・」
謝った先からまた笑いが込み上げてきた。
「すみません、下品な笑い方しちゃった・・・あははは・・・ジュ、ジュンちゃんて・・・」
「篠原さぁん」
「何、それ、いきなりアレクのマネして笑わせないでよ~~~。腹筋イタ~~~」
「僕は本気です!」
葛西が赤い顔をしてそういうのを聞いて、由利子は苦労して笑うのを止めた。
「本気って、何?」
「いえ、その、僕も篠原さんをユリちゃんって呼びたいなあと・・・」
「却下」
由利子は速攻で答えた。
「だいたい、何で歳下のあなたからちゃん付けで呼ばれなきゃなんないのよ。いいとこ『由利子さん』でしょ?」
「はい、すみません・・・」
葛西はまたしょんぼりとなった。K署での時と同じである。あまりにしょげ返ったので、由利子はまた噴出しそうになった。こいつ、ほんとに刑事っぽくないな、いい意味でも悪い意味でも。由利子は思った。
「まあ、焦らなくても、ひょっとしたらいつか、そういう風に呼び合うようになるかも知れないじゃない。確率はかなり低いけど」
かわいそうなので、由利子がフォローする。
「そ、そうですよね!」
葛西はそういうと、元気を取り戻した。
「それで、何と言って呼んでくれますか?」
「葛西君」
「せめて純平君で・・・」
「葛西君」
「いいです。それで」
葛西はガッカリしながら譲歩した。

「ヘンなヤツよね」
由利子はつぶやいた。背が高く、細身の優男に見えるが彼は一応警官である。しかし、由利子にはまるで子犬のようなイメージがあった。可愛いけど、果たして男としてはどうだろう。その時腹の上に、にゃにゃ子がずしんと乗ってきた。最近太り気味の彼女が乗ると、けっこうなダメージがある。そのせいで由利子は回想から現実に戻った。
「やーね、何を考えてるんやろ。寝よ寝よ!」
由利子は身体を起こすと電気を消した。腹の上に乗っていたにゃにゃ子が転げ落ちて、また「ニャアっ!」と文句を言った。
「あ~、ごめんごめん」
由利子はにゃにゃ子を抱きかかえると、布団の中に入れ、にゃにゃ子を抱きしめたまま、ことんと眠りに入った。寝つきの良いのが取柄であった。抱きしめられたままのにゃにゃ子は、必死で由利子の腕をすり抜け、枕元に座り、「にゃっ!」と鳴きながらしっぽバンをした。その時、尻尾の先が由利子の頬に触れたが、「う~~~ん?」と言っただけで彼女が目を覚ます様子はなかった。由利子が起きそうにないので、仕方なく、にゃにゃ子ははるさめの傍に行って丸くなった。

 

 由利子が平和な眠りについている頃、繁華街の路地の片隅に、女が倒れていた。皆酔っぱらいだと思ったのか、あるいは暗くて気がつかないのか、誰も助けようとする気配がない。女は美千代だった。彼女は今夜の獲物を得るためにここまでやって来たのだが、ついに力尽きて倒れてしまったのだ。カッカッとハイヒールの音を響かせて、女が歩いてきた。彼女は美千代の傍で足を止め、美千代を見下ろした。タクシーがすぐ傍を通り、ヘッドライトが彼女の顔を照らした。花粉対策用のサングラスにマスクをつけた、この場所にそぐわない奇妙な姿が浮かび上がった。遙音涼子だった。涼子は無表情で美千代を見下ろしていた。



(「第五章 出現」 終わり)

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6.暴走 (1)心の闇

20XX年6月9日(日)

「ごめんなさい・・・」
涼子は、美千代の苦しそうな寝顔を見ながら言った。
「こんな、対症療法しか出来なくて・・・。本当はあなたを助けたい・・・。私にはそれができるはずなのに。でも、私はあの方には逆らえない・・・、私は今、自分が作ったワクチンすらも自由に出来ない・・・」
涼子は、ベッドサイドに椅子を持ってきて座ると、うなだれ、しばらくじっと動かなかった。誰も動くもののない室内で、点滴の液だけが規則正しく滴っていた。
 涼子は、あれからなんとか美千代を自分の車まで運び、近くの風俗営業のホテルまで連れて行った。やはり、人目につかないという点で、これを選ばざるを得ないと判断したためである。こういうところははじめての涼子には、かなりのカルチャーショックだったが、途中ご休憩済みの男女とすれ違い、彼らから興味津々な目で見られながらも、どうにかこうにか部屋にたどり着き、美千代をベッドに寝かせたのである。
 しばらくして、涼子は搾り出すような声でつぶやいた。
「あなたの息子さんが亡くなったのは、私の夫のせいなの。彼は私怨を晴らすために、私の目を盗んでウイルスを持ち出した。それがどんなものかもよく知らないで・・・」
そういうと涼子は両手で顔を覆った。誰も聞く者のいない告白であった。

 翌朝、美千代が目を覚ますと、もう涼子の姿はなかったが、美千代にはうっすらと記憶があった。あの時車の中で長兄さまから紹介された、あの女医さんがずっと傍にいてくれたような気がする・・・。美千代は、教主が涼子をよこしてくれたのだと信じた。実際、涼子の治療が効いたのか、気分はかなり良くなっていた。美千代はシャワーを浴びると、きっちりと身づくろいをした。少し痩せたせいか、かつての美千代より妖艶さが増したように思えた。美千代は鏡に全身を映し、満足したように微笑んだ。

 

 すこぶるよい天気になった日曜日、早起きして恒例のジョギングを済ませた後、由利子は張り切って掃除洗濯を午前中に終えた。午後はまったりとした時間を過ごそうと昼食の用意をしていると、チャイムが鳴った。
「ねこねこ宅配便で~す」
インターフォンから声がした。
「は~い、今行きま~す」
由利子はいそいそと玄関に向かった。荷物はもちろん美葉からだった。底の方にはジャガイモやタマネギなどの根菜が入っていて、その上に新聞紙が敷かれ、きっちりとお菓子が並べてある。しかし、野菜とお菓子の間にもう一つ何かが入っていた。
「何やろ?」
由利子はそれを手に取った。厳重に包まれた包装紙を剥がすと、中からCDかDVDらしきものが出てきた。パッケージには安い宇宙の背景に、いかがわしいコスチュームを着て銃を構える女性の写真が合成されている。
「え?『宇宙女刑事インジュー』?」由利子の手からDVDが滑り落ちた。女に『スケバン』刑事に『デカ』とルビがふってある。
「何これ、裏DVDじゃない?!」
それも、オタク向けコスプレモノである。パッケージの裏は主演女優がさまざまなコスプレをした写真で構成され、さらに、やたらと触手のある(安い造形の)怪人が裸同然のヒロインを襲っている画像が下の方に配置されていた。
「ちょっと、なんでこんなもんが野菜と一緒に入っているのよ!!」
由利子は驚いて速攻で美葉に電話をした。美葉はすぐに出た。
「美葉? 何よ、あれ?」
「由利ちゃん、落ち着いて。あれ、結城さんが送って来たと。大事なデータが入っているから私にしばらく預けるって。多分外側は偽装やけん」
「偽装? よりにも寄ってあんなもんに偽装せんでもよかろ~もん」
「だって、手に取っただけで引くやろ?」
「そりゃあ、ドン引きしたよ、ったくぅ。なにが『ハツジョーせよ!インジュー!』だぁぁ!! 謝れ! ギャ○ン・シャリ○ン・シャ○ダーに謝れ!! ついでに麻宮○キにも謝っとけ! あんなモン彼女に送ってくるなんて、トンだセクハラヤローだよ! ほんっとに、ロクでもないヤツだよ、あんたの彼氏は!!」
由利子はマジギレしてまくし立てた。
「ごめんね~」
美葉が電話の向こうで言った。
「だいたい、女性の部屋にこんなモンがあったら余計に目立とーもん。特にあんたの部屋は」
「ほんとにそうやね」
美葉はクスクス笑いながら言った。
「だからって、AVの煽り文句まで言わんでもいいと思う。由利ちゃん、相変わらずやねえ」
「あ・・・、つい勢いで・・・」由利子は冷静さを取り戻すと続けた。「そもそも普通の人が使わない小難しい計算ソフトに偽装するほうが、人に敬遠されそうだからよっぽど偽装の価値があるやろ」
「う~~~~ん、多分そーゆーパッケージしか手に入らんかったんやろ~ね」
「日ごろの暮らしが偲ばれますなあ・・・」
「なんか私じゃ不安だから、由利ちゃんに持っとって欲しいと。ほら、私、監視されてたりするやろ?」
「じゃあ、せめて送る前に了解させて欲しかったよ」
「ごめんごめん、荷造りの時に急に思い立ったんで・・・」
「まあ、いいや。預かってやろう。まあ、パッケージは変えさせてもらうけど」
「ありがとう、由利ちゃん。やっぱ頼りになるわぁ。パッケージについてはお任せします」
「でさ、話は変わるけど・・・」
由利子は、テロやスパムの件を上手く外して、昨日のギル研訪問について話した。
「え~っ! やっぱそうやったんやね、アレクってば。実はね、会った時そんな感じがしたっちゃん」
「ええ? わかったと、美葉?」
「なんか雰囲気がなんとなく。でも、残念やねえ、せっかくイイ男なのに」
「そうよ、女性にとっては多大なる損失だわ。まあ、そのぶん妙なことにならんやろうから、安心やけど」
「あはは、何よぉ、妙なことって」
二人はその後、雑多な話で盛り上がった。電話を切った後、由利子は例のパッケージを見ながらため息をついた。
「これ、どーしよ。捨てることすら恥ずかしいなあ・・・」
とりあえず由利子は、昼食の支度の再開を優先し、CDRの『偽装』については後で考えることにした。

 

 少し日が落ちて若干過ごしやすくなった3時過ぎ、祐一は気分転換にベランダに出て行った。あれ以来祐一は引きこもりがちになっていた。なんに対してもヤル気が起きない。家族は心配していたが、様子を見ながらしばらくそっとしておくことにした。しかし、ベランダの祐一を見ながら両親が心配そうに会話を始めた。
「ひょっとしたら、カウンセリングを受けさせんとイカンかもしれんなあ」
父親は言った。
「友人に医者がおるけん、だれかいい人を知らんか聞いてみとこうか」
「そうね・・・、お願いしておきますね。でも、私は祐一ならこれを、なんとか乗り越えられるような気がするとですよ」
と母親が言った。
「相変わらず親馬鹿やな」
父は、笑いながら言った。
 祐一がベランダに出ると、愛犬が尻尾を振って出迎えた。ジョンと言う名の、5年ほど前に保健所から子犬の時に引き取った雑種のオス犬である。もらってきた時小さかった彼も、今では小ぶりのシェパードほどのサイズに成長した。
「足の太かったけん、身体もでかくなるやろうとは思うとったばってんなあ」
父はどんどん大きくなるジョンを見るたびにしみじみと言った。毛は長いが毛色や模様もシェパードっぽいので、多分親か先祖にシェパードは入っているだろうねと家族で結論した。彼は、自分が一家に命を救われたことを知っているのか、家族の言うことを良く聞いた。しつけも良かったのだろう、彼は身体はでかいが優しい犬に育ったのである。
「ジョン、おいで」
祐一はベランダに座ると愛犬を呼んだ。ジョンは祐一の前に来るとお座りをして尻尾を振った。
「フリスビーをして遊ぼうね。鎖、外してやるけんね」
鎖から開放されたジョンは、喜んで庭をぐるぐると走り回ったが、祐一がフリスビーを投げるとすぐにそれを追って見事にキャッチした。数回それを繰り返していると、友だちと買い物に行っていた妹が帰って来た。
「おにいちゃん、ただいま~」
「香菜、お帰り。早かったね」
「うん。みさきちゃん、これからピアノのおけいこだって・・・あ、ジョンにもただいまぁ」
香菜はお帰りのポーズで待つジョンにも声をかけ、頭を撫でる。ジョンは祐一以外には決して飛びつかなかった。他の人に飛びつくと倒れることがあって危険なことを知っているからだ。
「香菜は何かお稽古事には行かんでもいいと?」
祐一が聞くと香奈が答えた。
「うん。ピアノはお母さんが教えてくれるし、お勉強はおにいちゃんが教えてくれるからいいっちゃん。あ、香菜もジョンと遊ぶけん着替えてくる~。ちょっと待っとってね」
しばらくすると、香菜が着替えてやってきた。ジョンは香菜に良いところを見せようと思ったのか、張り切ってフリスビーを追いかけキャッチした。祐一と香菜の笑い声が響いた。西原夫妻は居間でテレビを見ていたが、笑い声に気がついた。母が、嬉しそうにいった。
「あら、祐一が笑っとお。久しぶりやねえ。良かったぁ」
「やっぱりペットは癒しになるんやなあ」
父もすこしほっとした表情で言った。
「このまま、元気になってくれたらいいとですけど」
「大丈夫、あん子のことやけん、きっと元気になるばい」
しかし、夫婦の会話とは裏腹に、その光景を凄まじい目で見ている人物がいた。ジョンがそれに気づいてけたたましく吼えた。祐一と香菜は、ジョンの吼えた方角に反射的に振り向いた。それと共に、近くに止まっていた自動車が走り去っていった。

「いいわ、出してちょうだい」
犬が吼えるのを聞いて、美千代は運転席の男に言った。
「いいんですか? でも、会ってお話とかは・・・」
「いいから出して。あの子達と話すことはないわ」
男は、不審そうな表情をしながらも、車を発進させた。彼は今までの男達と違って年齢も高く、礼儀正しい紳士だった。
「ヘンな美夜さん。どうしてもここに来たいって言うから来たのですよ」
「顔が見れただけで充分だわ」
美千代は膝の上で両手を握り締めながら言った。
(笑っていたわ)美千代は思った。(私のまあちゃんは死んだのに、あの子は幸せそうに笑っている・・・)
美千代の心の中で、黒い染みがまた広がっていった。
「美夜さん、どうしたの? すごいを顔していますよ」
男が心配そうに声をかける。
「あ、ごめんなさい。少し疲れているんだわ。どこか静かなところに行ってお茶にしません?」
美千代は取り繕うように言った。
「了解。おいしいコーヒーを出すお店を知ってますから、そこにお連れしましょう。静かだし、お店の趣味もなかなか良いんですよ」
「ありがとう、都築さん。楽しみだわ」
美千代は言った。
「少し、眠っていいかしら?」
「どうぞ! 着いたらお起こししますから、安心して眠ってください」
都築の言葉に甘えて、美千代はシートに身体をうずめた。眠りは美千代をさらに深い闇に誘っていった。

「ジョン、どうしたと? ほえちゃダメやろ? おにいちゃん、ジョンがほえるってめずらしいけど、さっきの車のせいかなあ」
香菜はジョンをなだめながら、祐一の方を見た。しかし、祐一の様子がおかしい。
「あの車・・・雅之のお母さんが乗ってたような気がする・・・」
「おにいちゃん?」
「雅之・・・」
祐一はよろめきながら言った。
「おにいちゃん、どうしたん? しっかりしてぇ!!」
「雅之・・・オレが追い詰めたけん死んだとや? ひょっとしてオレが殺したとか?」
そう言いながら、祐一は頭をかかえ座り込んでしまった。ジョンが吼えるのを止めて祐一に駆け寄り、心配そうに彼の手を舐め始めた。
「お父さん! お母さん! おにいちゃんが、おにいちゃんが・・・!」
香菜の叫び声に驚いて両親が家から飛び出してきた。
「いかん、フラッシュバックや!!」
父が言った。
「とにかく家の中に入れよう。母さん、病院の薬、用意しとって」
「はい!」
母はすぐに家の中にとって返した。父は、すでに自分より背の高い息子を軽々と抱えあげると、早足で玄関に向かった。香菜とジョンが後を追った。 

 祐一が自室で目覚めると、家族が心配そうに覗き込んでいた。ジョンまで部屋の中にいる。
「あれ? オレどうしたんだっけ。香菜いっしょにジョンと遊んどって・・・?」
祐一は倒れた時のことをすっかり忘れていた。
「なんでジョンまでおると? こら、ジョン、ちゃんと足を洗ってきたか?」
祐一はそういうと手を差し伸べた。ジョンはクゥ~ンと鳴くと、祐一に近寄ってその手をペロペロと舐めた。
「お前はジョンと遊んどって急に倒れたったい。いろいろあったけん疲れとるんやろ。しばらく寝ときなさい」
父が言った。母は無言で祐一の頭を撫でている。
「おにいちゃん、ごはんの時間になったら起こしたげるけん、いっしょにアニメ見ながら食べよ。今日はテレビ見ながら食べていいって!」
香菜は努めて明るく言った。幼いながら、兄の力になろうと必死だった。
「うん、ありがと」
祐一は言った。
「ジョン、お前しばらく祐一の傍にいなさい。心配なんやろ?」
ジョンは嬉しそうに立ち上がって祐一のベッドの真横に行き、まるで張り番をするように床に座った。
「じゃ、ゆっくり寝てなさい」
「おにいちゃん、後でね」
「みんな居間におるけん何かあったら呼ぶとよ。枕元にあんたの電話置いとるけんね」
母は心配そうにしながら最後に部屋を出て行った。薄暗くなった部屋で祐一は目を閉じた。

「香菜、なんで祐一があげんなったかわかるか?」
しばらくして、父は香菜に聞いた。
「えっとね・・・、ジョンがほえて・・・」
「ああ、吼えよったな。珍しいと思うとった」
「で、香菜とおにいちゃんがいっしょにふり向いたら、車が出て行ったと」
「車が?」
「うん。そしたら、急におにいちゃんが変になったと。香菜びっくりしちゃって」
「祐一はその時なんか言うとらんかったか?」
「あのね、え~と、よぉ聞こえんかったけど、この前死んだ友達のお母さんが乗っとったって・・・」
「それでフラッシュバックを起こしたんやな。で、香菜、ほんとにそのおばちゃんが乗っとったとか?」
「わかんない。香菜、その人知らないもん」
「そうか、秋山さんとことウチが親しかった頃、香菜はまだ赤ちゃんやったもんな、覚えとらんよな」
「そうやね、子供同士の付き合いがなくなったら、自然と疎遠になってしもうたけんね」夕食の支度をしながら母が言った。「中学で同じクラスになったって祐一、喜んどったけど、まさかこんなことに・・・」
「そういや秋山さんの奥さん、行方不明ってウワサやけど、ほんとか?」
「ようわからんけど、秋山さん宅は立ち入り禁止になっとぉみたいですよ。雅之君のお葬式、いったいどうなるんやろ、かわいそうに・・・」
「そうやな。本来ならもうとっくに終わっとかんといかんのになあ」
「おばあちゃんも亡くなられたみたいで、やっぱり家が立ち入り禁止になっとって、何か変な病気じゃないかってうわさになっとるようですよ」
「らしいな。祐一は大丈夫やろか」
「いやですよ、あなた。ウワサに踊らされちゃいかんでしょ」
母は笑いながら言った。
「そうやな。そんな病気が流行っとるんなら、保健所からなんか通知があるやろうけどな・・・。でもな、国が正確な情報を流すとは限らんからな、意図的であれ、不手際であれ。気をつけとかんとな」
と、言いながら、最近は不手際のほうが多いがな、と父は思った。
「ばってん秋山さんの奥さんが行方不明というのが本当なら、見かけたということを警察に知らせた方がいいっちゃないや?」
それを聞いた母は夕食の準備をする手を止め、父の方を向いて真剣にいった。
「あなた、もうこれ以上このことに足を突っ込みたくはなかですよ。祐一が可哀想でしょう」
「そうやな・・・」その場合は『足』ではなく『首』だろう、と思いながら父は言った。「ところで祐一はちゃんと寝とるやろうか」
「鎮静剤を飲ませてますから、大丈夫とは思いますよ」
「そうか・・・」

 そんな家族の心配の中、祐一はあれから寝付けずにいた。時間が経つにつれ、頭の中がだんだんはっきりしてきて、何故自分が倒れたかも思い出した。彼は、ベッドに上半身を起こし、枕元の携帯電話を手に取ると、雅之の最後のメッセージとなったメールを開いた。

『祐ちゃんゴメン。オレ寝込んでて。今からそっちへいくけん待ってて。』

祐一の目から大粒の涙がこぼれた。
「雅之、オレ、どうしたらいいかわからんようになった・・・」
ふと、祐一はギルフォードに会ったとき、彼が言った言葉を思い出した。

「君たちは強い子です。これからいろいろあるでしょうけど、何があっても君たちなら乗越えていけるでしょう」

「色々あるってこういうことやったんやね」
祐一はつぶやいた。あの人もそんな色々のことを切り抜けてきたのだろうか・・・。祐一は思った。
「やけど、オレはギルフォードさんが言うほど強くない・・・」
祐一は足を曲げると、右手で電話を握り締めたまま、膝をかかえた体育座りの状態で両腕に顔を埋めた。彼はしばらくじっとして動かなかった。だが肩が小さく震えている。ジョンがそれに気づき、クゥ~ンと小さく鳴くと起き上がって祐一の左手の甲を舐めた。
「ジョン、ありがと・・・」
祐一はジョンの方を見ると、電話を左手に待ち替え、右手を伸ばしてジョンの頭をなでた。愛犬の暖かい頭を撫でていると、だんだん心が和らいでくる。祐一は徐々に冷静さを取り戻した。冷静になると、今まで忘れていた、いや、ここ数日考えまいとしていた疑問が大きく頭をもたげてきた。

  安田さんを、そして雅之を死に追いやったモノは何だ?

(そうだ、雅之は「待ってて」とメールに記していた)祐一は考えを巡らせた。(あいつは本気で自首するつもりだったはずだ)
あのメールから祐一はそれを確信していた。
(それなのに何故あいつは電車に飛び込んだ・・・?)
その時、いきなり祐一の脳裏にあの公園での出来事がフラッシュバックした。彼は両手で頭を抱え込んだ。だがそれは、祐一に新たな考察を与えた。頭をかかえた状態で祐一は考えた。
 公園の男、安田は最初、比較的理性的に助けを求めてきた。ところがだんだんろれつが回らなくなり、言葉に理性が全く失われた。さらに一旦雅之に蹴り上げられ、地べたに転がったあと、急に凶暴化して雅之に襲い掛かった。凶暴化する前に彼が言った言葉「ミンナ・アカイ」そして「オレに近づくな!!」。そういえば、ギルフォードさんもそこら辺が特に気になっていたようだ・・・。
「安田さんはあの時なんらかの脳障害をおこしていた・・・?」
祐一は、ハッとして頭を上げた。『インフルエンザ脳症』という言葉が急に思い出された。一時期インフルエンザに罹った子どもが異常行動をおこし、死亡する事件が世間を騒がせた。インフルエンザの特効薬タミフルとの因果関係もささやかれているが、それは証明されていない。それはさておき、再び祐一は思考を巡らせた。
 雅之も病気のせいで脳症をおこしていたとしたら・・・。そして、周り中が赤く見え、パニックを起こしたとしたら・・・?

 祐一は、ガバッと起き上がった。
(安田さんは、『オレに近づくな!』と言った。彼は自分の病気が感染ることを知っていた・・・。いや、むしろ自分の行動を恐れていた!?)
祐一は空恐ろしいものを感じ、肌が粟立っていくのがわかった。
(ひょっとしたら、オレたちはとんでもないことに巻き込まれたのかもしれない)
祐一はもう一度ギルフォードの言葉の一部を思い出した。

「でも、結果的に現実から逃げないで真っ向から向き合いました」

(そうだ、逃げちゃいけない!)祐一の目に光が戻った。(雅之、おまえの死の原因をつきとめてやる・・・!)
祐一はベッドから降り机の前に座ると、カバンの中から定期入れを出し、ギルフォードの名刺を取り出した。

 しばらくして祐一が居間に姿を現した。
「おにいちゃん!」
最初に香菜が気付いた。
「祐一! 起きてよかとね?」
「大丈夫や?」
両親が驚いて祐一に聞く。
「父さん、母さん、香菜、心配かけてごめん。もう大丈夫やけん」
祐一が家族に向けて力強く言うと、彼の後ろでジョンが「ワン!」と吠えた。

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6.暴走 (2)シニスター~不吉~

20XX年6月10日(月)

「ここは?」
美千代は見覚えのない寝室で目を覚ました。上半身を起こして周りの様子を伺うと、ベッドサイドに椅子に座ったままうつ伏せて寝ている都築の姿が目に入った。美千代は思い出した。都築は昨夜また高熱を出した美千代を病院に連れて行き、その後自宅に連れて帰り、自分のベッドに寝かせてくれたのだ。美千代は熱に浮かされながらも、不思議に思って訊いた。
「どうして、そんなに親切なの?」
「あなたがものすごく辛そうだからですよ。放っておけないくらいに」
都築は笑って答えた。
「でも、私にはあなたに何もお返しが出来ないわ・・・」
「実は一目ぼれだったんです。5年前に妻を失って以来、久々に女性に心を動かされました。でも、公園で見かけたあなたは今にも死にそうな顔をしていた。だから勇気を出して声をかけてみたんです・・・。美夜さん、何があったかわかりませんが、自暴自棄になってはいけません。生きている自分を大切にしてください」
「都築さん・・・」
「もし良かったら、落ち着くまでずっとここに居ても構いませんよ。むしろその方が私は嬉しい」
「ありがとう。でも、ごめんなさい・・・・」
「良いんですよ、私の一方的な気持ちですから。とにかく今はゆっくり眠ってください。大丈夫、私が傍についていますから」
都築にそういわれて、美千代は目を閉じた。病院で処方された薬が効いたのか、彼女はすぐに眠りに落ちた・・・。

 
「都築さん・・・。朝まで看病してくれたの・・・?」
朝、目を覚ました美千代は、都築が昨夜と同じようにしてベッドサイドにうつぶせているのを見て、嬉しさと申し訳なさで一杯になった。しかし、いつまでも彼に甘えるわけにはいかない。幸いなことに、今は熱がだいぶ下がっている。美千代はそっとベッドから抜け出すと、身支度を整え書置きをして都築邸から姿を消した。

 都築が目を覚ますと、すでに美千代の姿はなかった。枕元には封筒と書き置きがあった。
『都築さん、ありがとう。でも、私は行かなくてはなりません。足りるかどうかわかりませんが、病院代としていくらか置いていきます。本当にごめんなさい。あなたともっと早くお会いできたらよかった。美夜子』
「美夜さん、あんな身体でどこへ・・・」
都築は、美千代の手紙を握りしめ、つぶやいた。

 

 雅之の初七日にあたるこの日、祐一は家族に心配されながらも学校に向かった。今日はゆっくり歩いたほうがいいからと、また早めに家を出て、雅之の家と彼の祖母の家の様子を見るため回り道をした。やはり、両方とも立ち入り禁止は解除されておらず、何人か警官が見張りに立っている。しかし雅之の家をじっと見ていた祐一は、警官から胡散臭そうな目で見られたので、早々に退散した。祐一は歩きながら、昨日ギルフォードに電話した時の内容を、もう一度思い返してしてみた。

「ユウイチ君、君がこういう電話をしてくるだろうことは、予想していました」
ギルフォードは言った。心なしか声が嬉しそうだった。
「ただし」ギルフォードは今度は厳しい口調で言った。「僕は君の質問に全て答えることは出来ません。また、君は私が答えた事についても他言は許されません。何故なら、まだ発表段階にない事柄であり、無用の混乱を避けるためです。約束出来ますか」
「はい、もちろんです」
「僕が君の質問に答えるのは君がこの事件の当事者でもあり、君の疑問に対して隠したり誤魔化したりすることが難しいと思うからです。ですから、君自身が謎を解く為に、キケンに近づくようなことだけはしないでください。いいですね?」
「は、はい」
「これは男同士の固い約束です。必ず守って下さいますね?」
「はい、わかりました」
「よろしい、では本題に入りましょう」ギルフォードは何度も念を押した上で、ようやく祐一の質問に答え始めた。「ホームレスのヤスダさんが、なにかの感染症に罹っていたのではないかという質問ですが、答えは『イエス』です。これは僕がこの前君たちに質問した時には、すでに予想していたんじゃないですか?」
「はい・・・、安田さんが亡くなった時から『ひょっとして感染るんじゃないか?』という漠然とした不安がありました」
「そうでしょうね・・・。それから、彼らが罹っていた感染症、言ってしまえば疫病についてですが、まだ調査中です。少なくとも既存の感染症とは合致しませんでしたので、新種である可能性が高いです」
「新種なんですか! 何故そんなものが・・・?」
「それについても、まだはっきりとした答えが出てませんのでお答えできません」
「雅之と雅之のおばあちゃんの家が封鎖されているのもそのためですね」
「そうです。ご家族やタマエさん・・・マサユキ君のおばあさんですね、彼女の第一発見者達も、念のため追跡調査している状態です。はっきりと君に言えることは、未知の病原体がどこかに潜んでいるかもしれないということと、マサユキ君がヤスダさんからそれに感染し、タマエさんがマサユキ君経由で感染したということだけです」
「症状については・・・?」
「それに関してはある程度わかっていますが、まだお答え出来る段階ではありません」
「周囲が赤く見えるというのは、症状に合致しますか?」
「それに関しても、なんともいえない状態です。何故なら、この病気の生存者が今のところ存在しないからです。それに関しての記録は君らと、お友だちのショウタ君の証言だけで、実際患者がどんな風に見えていたかは・・・」
「勝太の証言? ってことは、やっぱり雅之にも同じことがおこってたかもしれないのですね!?」

そこまで回想して、祐一はハッと我に返った。周囲が妙に騒がしいことに気がついたからだ。見ると、大人たちが大騒ぎをしながらどこかに向かっている。祐一は何かあると思い、彼らについていった。しかし、長身でしかも学生服の祐一は否応なく目立つ。大人たちは祐一に声をかけてきた。
「おい、ボウズ。学校へは行かんでよかとね?」
「あんたぁ背の高かばってんまだ中坊やろ?」
「学校ずるけたらイカンやろうもん」
「いえ、ちょっと家を早く出すぎちゃって・・・」
祐一は言い訳をした。
「確かに、中学生が登校するにはずいぶん早い時間やね」
「何かあったんですか」
祐一は声をかけられたついでに質問をしてみた。答えはすぐに返ってきた。
「向こうの護岸に人だかりの出来とろうが。あん下に 虫のようけ死んどるったい。うっちゃあ、あげんこつばさらか※虫の死んどうとは初めてみたばい」
と、初老の男性が答えた。
「僕、もうちょっと電車の時間があるんで、一緒に行っていいですか?」
「あんた、中学生の癖に電車通学ね・・・私立のよか学校たい。まあ、遅刻せんっちゅうんならついて来てよかばってん」
「ありがとうございます」
祐一はお礼を言い、彼らの後について問題の場所まで行くと、さっきの初老の男性が祐一を前の方に誘導してくれた。護岸から見下ろすと、河川敷に雑草の生い茂るなか、直径1m弱ほどの真っ黒い小山が出来ていた。すでに、ゴーグル・マスク・コートと完全武装した警官が数人来ていて、立ち入り禁止のテープを張り巡らし、河川敷まで降りてきた野次馬がその近くに寄らないように人払いをしている。大量死している昆虫の種類が種類だけに、警官達の異様な出で立ちを不審に思う者はほとんどいなかった。眼の良い祐一はその小山に目を凝らした。しかし、それがなにか確認した祐一は「うわぁっ!」と言ったまま口を右掌で覆い固まってしまった。
「すごかろうが」と初老の男が言った。「近いうちにまた地震でもあるっちゃないやろかって、みんな心配しとるったい」
「そうそう、モーカン現象やったかねえ」
隣にいるおばさんが相槌を打った。
「宏観異常現象です」
祐一はついつい訂正した。
「あら、そうやったかねえ。学生さんは物知りやねえ」
おばさんが感心して言ったが、正確には学生は大学生を指す言葉で、中高生は生徒というのが正しいらしい。
「もうじき保健所から人が来るけん、心配せんでっちゃよか。あんたぁ、そろそろ学校へ行かな。遅刻するばい」
初老の男は祐一に向かっていった。時計を見ると、かなり走らないと電車に間に合わない時間になっていた。
「あ、本当だ、行かないと! おじさんたち、どうもありがとうございました!」
祐一は丁寧にお礼を言うと、猛然と駆け出した。
「若いけん元気やねえ・・・」
猛ダッシュする祐一の後姿を見ながら、おじさんたちが言った。

 祐一は、何とか電車に間に合った。朝は上り電車に比べ、下りの方は鮨詰めにはならないが、流石に通勤通学時間は人が多い。朝っぱらから全力疾走し、電車に駆け込んだ祐一は、流石に息が上がっていたが、若い分回復も早かった。
(それにしても・・・)
つり革に捕まり、窓の外を見ながら祐一は思った。
(さっきのアレはなんだったんだろう。なんであんなモノがあんなところであんなに沢山死んでいたんだ?)
祐一はさっきの光景を思い出し、再びゾッとした。恐怖と嫌悪感の入り混じった嫌な感じだった。
(昼飯、食えんかも・・・)
思い出しただけで、朝食が逆流してきそうだ。あんなに凝視するんじゃなかったと祐一は後悔した。彼は、雅之の祖母宅で起こった事を知らない。ギルフォードが、子どもには刺激が強すぎるだろうと言うのをためらったからである。知っていれば、それなりの答えが出たかもしれない。見た記憶を消し去りたい・・・。祐一は、ショックでしばらく何も考えることが出来なかった。
 その隣の車両に由利子が乗っていた。彼女は昨夜、何度も書き直した辞表をバッグに入れていた。書きながら流石にいろんな思いがこみ上げてきて、悲しくなってしまった。この会社なら、ずっと勤めていけると思ったのに、とうとうこんな日が来ちゃったなあ。
「はああ」
ドアに寄りかかりながら、由利子は無意識にため息をついていた。
 同じ事件に関わりながら今現在、全く違う思いで悶々としている二人を乗せて、電車はレールの上をいつもの通りに何事もなく走っていた。

 

 ギルフォードは、研究室で午後からある講義の準備をしていた。しかし、どうも落ち着かない。彼は立ち上がると、机の横に置いている水槽を眺めた。中には鮮やかな赤・背面がピンクがかった赤で腹面が白・そして全体的に白っぽくて尾の部分が金色がかった黄色の3匹の金魚がひらひらと泳いでいた。名前は赤いのがネプチューナ・ピンクがピピ・白がミューティオでどれも秋の祭りの出店で掬ったものだった。6匹掬ったのだが残念ながら3匹は次々と昇天し、残った3匹はすくすくと育ち最初からは考えられない程の大きさになった。名付け親は誰かわからないが、ギルフォードが名付ずにいたら、ある日水槽にそれぞれの金魚用に「命名 ○○○○」と書いた紙が貼ってあった。彼女ら(実際オスかメスかはわからないが、名前からメス扱いされている)は、ギルフォードが近寄ってきたのに気がつくと、嬉しそうに寄って来て水面をパクパクしながらえさをねだった。
「ハイハイ、ごはんですね。チョット待ッテ、クダサ~イ♪」
ギルフォードはどこで覚えたのか、懐かしい歌のフレーズを口ずさみながら、エサのビンの蓋を開けると水槽にパラパラとエサを撒いた。彼は、しばらく彼女らの食事風景を見ていたが、何か思い立ったらしく椅子に勢い良く座るといきなり電話をかけ始めた。
「ハァ~イ、マッキアン? ギルフォードです。お元気ですか?」
「アレックス・・・、そのあだ名で呼ぶのは止めてくれんかな。俺には松樹 杏士郎(きょうしろう)という暦(れっき)とした日本名があるんだぜ」
マッキアンこと松樹は、ディスクで大量の書類に囲まれながら言った。
「で、用件は何だ? こう見えても俺は忙しい身でね」
「ええ、それはわかっています。僕が電話したのは、例の疫病についてどこまで対策が検討されているか知りたいからです」
松樹はそれを聞くとふっとため息をつきながら言った。
「君の焦る気持ちはわかるけどね、ギルフォード君。確かに俺は県警の組織犯罪対策課にいるが、しがない管理職だ。俺の力じゃあどうにもならんことはわかっているだろう? ただ、上層部の連中が君を疑っているわけではない。もちろん不審に思っている人間も多いけどね。だが、君の報告を受けて、行政の対応も含めてレベルⅡの対策を進めているのは、君も知っているだろう? この国にしてはずいぶんと対応が早いほうだ」
「しかし、実際はレベルⅢまで事態は進んでいるのです」
「わかっている。事態が急変すればレベルⅢの対策にシフト出来るようになっているはずだ」
「本当にダイジョウブなんですか?」
「知事が就任後初の大仕事で張り切ってるから大丈夫だろう。それより」松樹は少し声のトーンを落として言った。「ウワサによれば君を日本から追い出したい連中がいるらしい。足を掬われない様に気をつけろよ」
「僕を追い出す? どうしてでしょう。僕は誰の何の邪魔もしてません。日本の片隅で大人しくしているだけです。まったく、冗談じゃないですよ、せっかく安住の地を見つけたのに・・・」
「ほお、安住の地か・・・。あれだけ東京から遠いだの僻地に行くのは嫌だのと失礼なことを言って、九州行きをゴネてた君がねえ」
「ジンカン(人間)至るところセイザン(青山)ありです」
「言ってくれるねえ」
「故郷を飛び出してだいぶ経ちますけどね。・・・だから、あなたのお祖父様の計らいには感謝しています、松樹警視正殿」
「君にそう呼ばれるとどうも居心地が悪い。いつも通り『キョウ』でいいよ・・・。あ、ちょっと待ってくれ。内線が入った」
松樹はしばらく内線電話に対応していた。
「アレックス、今の電話だけどね・・・。例の紗池町の河川敷で、大量の昆虫の死がいが見つかったそうだ。多分秋山珠江の遺体を襲ったモノじゃないかということだ」
「死んでいた? 全部がでしょうか」
「さあな。そうであることを祈っているよ。数匹サンプルを残して消毒の上焼却処分するそうだ」
「賢明ですね。しかし、なんでこんな妙な行動を・・・? まるでレミングの自殺伝説みたいです。ひょっとして、あのウイルスは節足動物にも異常行動をおこさせるのでしょうか・・・」
「しかし、影響のあったのはゴ・・・」
「やめてください。せめてローチと言ってください。僕はアレとコオロギに似た羽根のないアレだけは苦手なんです」
「いわゆる便所コオロギだな。正しくは、k・・・」
「それ以上言わないでください」
「わかった、わかった。君とは長い付き合いだが、その弱点は初めて聞いたよ。そのローチだが、ウイルスの宿主あるいはキャリアになるのか?」
「死んでしまったのなら、宿主ではないと思います。しかし、疫病で死んだ人を食害・・・してますから、キャリアになっている可能性は高いですね」そういいながらギルフォードは身震いした。「全滅してくれていることを本気で神に祈りたい気分です・・・」
「日頃信心しないヤツが祈っても、聞いてくれるかどうかわからんぞ」
松樹は笑いながら言った。
「近いうちに、保健所から君に詳しい内容が伝えられるはずだ。楽しみに待っておけ。俺はこれから会議に出にゃならん。悪いがもう切るぞ」
「あ、すみません。お忙しい時に長電話してしまって・・・」
「いや、俺の仕事に関わる内容だったからな。私用電話なら問題だが。ま、意外な話も聞けてよかったよ」
「それはよかったです。それではまた。愛してますよ、キョウ」
「やめてくれ、俺はストレートだ。じゃあな!」
松樹は電話を切って何気なく周囲を見た。すると、皆が松樹を見ていたらしくそれぞれがとっさに下を向いて仕事を始めた。県下に異常事態が発生しているかもしれないという事への関心もさることながら、アレックスだのレベルⅢだのウイルスキャリアだのと一風変わった話の内容につい皆が聞き耳を立ててしまったらしい。特に最後のストレート発言には数人が「おおっ」と小声で言った。
(ったくもう・・・)
松樹はため息をついて立ち上がった。
 松樹からそそくさと電話を切られてしまったギルフォードは、すでに相手と繋がっていない電話に向かって言った。
「そんなに焦って切らなくてもい~じゃん」
その時、後で声がした。
「そりゃあ、焦りますわよ、公用の電話で男性に『愛してる』なんて言われたら」
振り向くと紗弥が立っていた。
「サヤさん・・・、いつの間に来てたんですか?」
ギルフォードが問うと、紗弥は嬉しそうな笑みを浮かべて言った。
「うふふ、教授の弱点がゴキブリとカマドウマだなんて、わたくしも初めてお聞きしましたわ」
紗弥はギルフォードが聞くのも嫌がった名詞をあっさりと言ってのけた。ギルフォードは一瞬でげんなりした。
「カッコワルイから、人に言わないでくださいよ」
紗弥は意味深にニッコリと笑うと、すぐに自分の席についてパソコンのスイッチをいれた。窓機の起動音が研究室に響いた。
(”それにしても・・・”)ギルフォードは思った。(”出血熱とあの昆虫・・・。まるで俺に対する嫌がらせみたいな組み合わせじゃねえか”)
一抹の不安を感じながら、ギルフォードは本来の作業、すなわち講義の準備に戻り、それに没頭することにした。

※ たくさん・大量
もともと筑後弁で純粋な博多弁ではないらしいが、より「大量」感のある言葉だ。

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6.暴走 (3)クリミナル

 由利子は社長室に入ると、退職願を出し一礼してその場を離れようとした。その由利子の背に向かって社長が声をかけた。
「篠原君」
由利子は背を向けたまま立ち止まった。
「ありがとう。私がふがいないせいでこういうことになって申し訳なく思っている。本当にすまない・・・!」
社長は立ち上がり深く礼をしながら言った。社長の真摯な言葉に由利子は笑顔で振り返って言った。
「まあ、これも運命かもしれません。それより会社を潰したら承知しませんからね」
「もちろんがんばるさ。必ず生き残ってみせるから」
社長は由利子にそう確約して言った。
 由利子が社長室を出ると、その前に黒岩るい子が居た。黒岩は泣きそうな顔をして言った。
「ごめん、私の代わりに辞めるっちゃろ? ごめんねごめんね」
由利子は困って言った。
「黒岩さん、そうじゃないです。それに、次の仕事もいちおう見つけてあるし」
「ホント? 本当なんやね?」
「ホントですよ。今、仕事中だからお昼休みにお話しますから」
由利子は努めて明るく言った。

 美千代はファミレスでコーヒーを飲んでいた。
 都築の家を出たものの、どうも体調が思わしくないのでこれからどうするべきか指示を仰ごうと電話を探したが、見つからない。そういえば・・・、美千代は思い出した。携帯電話は電波で居場所を特定される恐れがあるというので、雅之の電話も一緒に教主に預けたのだ。しかし、彼女はこれまでその存在をすっかり忘れていた。かつては手元に無いとあんなに不安だったけど、けっこう無くてもなんとかなるものね・・・。美千代はそう思うと少し可笑しくなってクスリと笑った。気分は解熱剤が効いているのかだいぶマシになっていたが、頭の芯がすこしぼうっとしているような気がした。美千代は教主との連絡先をノートにメモしていた。それを思い出して電話を入れてみると、教団幹部の男が出て使者をよこすという。それで、彼女は今、待ち合わせに指定されたファミレスでコーヒーを飲んでいるわけである。病気の進行のせいか、食欲は全くと言っていいほど無くなっていた。
「美千代さんですね」
教団からの使いが美千代の座った席の前に現れた。若い男で顔もまあまあだったが、少し緩んだ表情があまり利口そうではない印象を与えた。
「F支部の河本です。お迎えにあがりました。さあ、参りましょう」
河本は美千代にそう言うと、さっさときびすを返して店の出口に向かった。美千代は慌てて席を立つと、会計を済ませ店から出た。河本は店先に止めた車の前で待っていた。路上駐車・・・、だから急いだのね、と美千代は理解した。河本は車の後部席のドアを開けて美千代を座らせた。
「体調の方はいかがですか?」
河本は車を走らせながら美千代に聞いた。
「少し気分が悪いけど、だいぶいいですわ」
「吐き気とか腹痛は?」
「おなかは痛くないけど、吐き気はありましたわ。薬を飲んだから今は治まっているけど・・・」
「そうですか」
河本はそこまで聞くと、また無言になった。美千代はだんだん不安になってきた。一体どこへ連れて行くつもりなのだろう。その気持ちを抑え、美千代は一番気になっていたことを聞いてみた。
「雅之の・・・息子の遺体ですけれど・・・、どうなっているかご存知ですか?」
「私はそのように重要な件には加担しておりませんので・・・」
河本はそっけなく言った。車はどんどん山道を進んでいるが、以前行った教団の支部へ続く道とは全く違うように思えた。美千代の不安はさらに大きくなった。
「行き先はどこですの?」
美千代は思い切って男に聞いた。
「あなたは教団にとって危険だ」
河本は言った。
「長兄さまは面白がっておられるが、一部の幹部からあなたを野放しにすることを危険視される意見も出ています」
「え?」
美千代は自分の耳を疑った。
「あなたはおそらくもうすぐに死ぬ。だが、それまである場所に隔離させてもらいます。全てが終わったら、そこに火をかけて浄化します」
河本は抑揚の無い声で言った。想像もしていなかった事態に美千代はパニックを起こしかけたが、なんとか自分を抑えた。だが、このままだと美千代にとって危機的状況を招くことは間違いない。美千代は生き残る方法を探るため考えを巡らせた。今ここで死ぬわけには行かない。自分の病状から息子と同じ病であることは想像がついた。河本の言うように、ひょっとすると自分も死ぬかもしれない。だが今、彼らに拉致監禁され、そこで死ぬわけには行かない。美千代はバッグの中をそっと探った。この状況から抜け出すために何か役に立ちそうなものはないか・・・。すると美千代の手にあるものが触れ、彼女はかすかに微笑んだ。それだけ残していてもしようも無いものだったが、捨てなくてよかった・・・と美千代は思った。
 しばらく、山道を走ったところで美千代は勝負に出た。彼女は後部座席でうめき声を上げた。
「ご、ごめんなさい、本当はさっきからずっとおなかが痛くて・・・吐き気もするの。苦しい、助けて・・・」
「もう15分もしたら目的地に着きます。がんばってください」
河本は流石に驚いたらしく、声に少し感情が混じっていた。美千代はさらに息を荒げながら言った。
「だめ・・・よ、それまで・・・もたないわ。・・・ねえ、車を止めて! 外に出してちょうだい。林の中でするから!!」
「ダメです。あなたを逃がすリスクは避けねばなりません」
「わかったわ。放っとくがいいわよ。でも、ここで漏らしても知らないわよ」
「それは困ります!! 私まで感染リスクが上がってしまいます。今だって充分怖いんですよ!」
美千代は河本が無愛想だった理由がわかった。病気を恐れていたのだ。病気のことを知っているということは、河本は彼が言う以上に教団の中心に近しい人物なんだろうと美千代は判断した。
「ああ、どうしよう・・・、ホントに・・・もたないわ。死にそうよぉ・・・お願い、車を止めてぇ・・・」
美千代は身体をくの字に曲げて苦しんで見せたが、右手にはさっき見つけたものを握りしめていた。
「わかりました。でも、私はあなたが逃げないように監視する義務がありますから・・・」
「いいわ、紐で括ろうが傍で見ていようが勝手にするといいわ!」 
美千代は自暴自棄に言った。とうとう河本はあきらめて車を止めた。木々がうっそうと茂り車通りもほとんど無い山道だった。以前問題になった、利用者のいない利権のみで作られた道のひとつらしい。車を止めて振り向こうとした河本の首に何かが巻かれ、一瞬にして首を絞められた。美千代がヘッドフォンのコードを彼の首に引っ掛け、彼女の全体重をコードにゆだねたのだ。
「ぐえぇ・・・」
河本の目が異様に見開かれ舌が飛び出した。彼は口から涎を垂らし泡を吹きながら数秒もがいたが、すぐに力が抜けた。美千代はロックを解除すると車外に飛び出し運転席のドアを開けると、満身の力を込めて河本を引きずり出した。さらに彼女は河本の身体を山道の隅に必死で引きずりながら運んだ。絞首のショックで勃起した河本の股間辺りから排泄物の強い臭いが漂ってきた。大きく開いた口から泡を吹き鼻血を流し、白目を剥いたままぐったりと動かない河本の胸に、美千代は恐る恐る耳を当てた。心臓はなんとか動いている。美千代はほっとした。彼女の体重が軽かったのと車内が狭かったために、幸いにもトドメを刺すに至らなかったのだ。それでも美千代は自分のしでかしたことに恐怖したせいか、胃から何かが逆流して来るのを感じた。美千代は河本の横で吐いた。すでに吐くものは無いはずの吐物はどす黒く、赤黒い血の塊が混じっていた。
 美千代は河本の身体を見つかりにくい法面の林の下生えの中に隠すと、彼の車に乗り込み何処かに走り去った。

 多美山と葛西は、ひとりの男を追っていた。二人は情報を受けて、とある大衆食堂の前で男が昼食を終えて出てくるのを待った。受けた情報どおりに男が店から出てきたので、それを見計らって近づいた。男は30代でガタイが大きく、如何にも労働者タイプの男だ。多美山は人好きのする笑顔で男に近づき、警察手帳を見せながら言った。
「山田 孝さんですね。XXのコンビニ強盗の件ですが、ちょっと署までご同行願えんですか?」
男は咄嗟に多美山を突き飛ばして駆けだした。多美山はバランスを崩し、路上に尻餅をついてしまった。
「多美さん!」
「いいから追え、ジュンペイ!!」
葛西は多美山が言う前にすでに駆けだしていた。路地に入ったところで山田は振り向いて驚いた。もういい加減ひき離しただろうと思ったのに、すぐ後ろに葛西が追ってきていたからだ。葛西は自分を何の取り得の無い男だと思っていたが、脚だけには自信があった。高校時代陸上部で中距離ランナーをやっていたからだ。山田は道に置いてあったゴミ袋を蹴飛ばして妨害しようとした。葛西は一瞬脚を取られかけたが、すぐに体勢を立て直して男にタックルをかませた。二人してもんどり打って倒れ、山田は足下にしがみつく葛西から逃れようともがいたが、それが無理とわかり大人しくなった。葛西は起きあがって山田に手錠をかけようとしたが、その隙を狙って彼は寝転がったまま葛西に蹴りをいれた。葛西はとっさに身を引いたが腹に蹴りを食らってその場にうずくまった。その隙に立ち上がって路地裏に逃げようとしたところ、彼は何者かに投げ飛ばされた。そこには多美山が立ちはだかっていた。
「孝君、罪を重ねるとはやめんね」
多美山はすでに戦意を喪失している山田に向かって言った。
「通報、誰からやと思う? あんたのお母さんからたい。・・・お母さんはな、あんたの様子がおかしいとに気づいて心配してな・・・、あんたん部屋ば探して現金と血の着いた包丁ば見つけたったい。・・・そん時のお母さんの気持ちがどげんやったかわかるね?」
山田は多美山の言葉に下を向いたまま微動だにしない。多美山は山田の前にしゃがみこむと、彼の肩に手を置きながら言った。
「お母さんはな、通報するか息子を逃がすかずいぶん悩まれたらしいばってんな、やったことはきっちりと償わせんといかんち思うて、通報を決められたそうだ」
山田は相変わらず下を向いて黙っているが、肩が震えているのが傍目にもはっきりわかる。多美山は続けた。
「孝君、会社を首になって、一所懸命次を探したばってん見つからんで、生活に困った挙句の犯行やろ・・・。そりゃあどんな事情があっても強盗はいかんし、人を傷つけるのはもっといかん。ばってん初犯やし刺した相手も重症やけど幸い命に別状はなかごたるけん・・・。お母さんな、あんたが罪を償って出てきたら、またいっしょにがんばりたいっち言うとったぞ。たった一人のお母さんをこれ以上泣かせたらいかんやろ?」
多美山は優しく言い含めるように言った。
「はい・・・」
山田はやっとのことで答えたが、すでに涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。そして彼は、だまって多美山に両手を差し出した。

「ジュンペイ、大丈夫や?」
多美山は、山田の手に手錠をかけると、まだ地面にへたり込んでいる葛西を心配して言った。
「あ、なんとか大丈夫です。とっさに避けたので何とか直撃は免れました。それよりスミマセン。ドジっちゃって」
「いや、オレが油断したとがいかんかった。声かけてどつかれる様じゃ、オレも焼きが回ったなあ」
多美山はすこし悔しそうに言った。
「ジュンペイ、ありがとう。あそこで彼を逃がしとったら取り返しのつかん事になっとったかもしれん」
「いいえ、そんなこと・・・。・・・あれ?」
葛西は目をしばしばとさせた。その後右目を押さえて多美山の顔を凝視した。
「ああ~、しまった・・・! 左目のコンタクトレンズ落としちゃいました」
「え”?」
想定外の葛西の言葉に、多美山と山田が同時に言った。

 

「へえ、大学の研究室でアルバイトすると? すごかやんね」 
由利子はお昼休み、黒岩にこれからのことを簡単に説明した。もちろんギルフォードと出会った経緯やひょっとして大変な事になりかねない疫病については一切カットした。
「え、その長身でハンサムなイギリス人教授がどうやらゲイらしいって??? なにそのジュネ・アラン的世界! あ~ん、羨ましい」
由利子の話を聞いて、黒岩の目がキラキラと輝いた。
(ああ、ここにもいたよ、腐女子が・・・)
由利子は心の中で苦笑いをした。
「凄くいい男なんですよ。もったいないと思いませんか?」
「どうせ手に入らんのやったら、いっそ観賞用のほうがよかろうもん?」
「そういうもんですかねえ」
「篠原さんってボーイッシュやもんね、だけん気に入られたっちゃないやろか」
「そういえば、秘書の紗弥さんもスレンダーだし、着るもの次第で少年に見えないこともないなあ・・・。まあ、深く考えんどこ。で、私のことはこれだけだけど、黒岩さん、もう日にちがあまりないけん、少し突っ込んだこと聞いていい?」
「なんね、いきなり」
黒岩は少し警戒しながら言った。
「あのですね、答えたくないなら答えなくていいですけど・・・。以前母子家庭って言われましたよね。ご主人亡くなられたんですか?」
「ああ、それね。そう、早死にやったよ。なんせ娘が生まれる前やったけんねえ」
黒岩はしみじみと言った。
「え? そうやったんですか・・・。すみません、悪いこと聞いちゃいましたね・・・」
由利子が黒岩にそういう話を聞きたかったのは、自分が身を退くことが正しかったんだという確信を得たかったからなのだが、想像以上にハードそうな身の上に、正直しまったと思った。
「まあ、略奪婚やったけんねえ・・・」
黒岩は遠い目をして言った。
「ええっ?」と由利子はうっかり言ってしまった。
「なんね、失礼な。これでも10ン年前は細くて今よりちったぁ見れたっちゃけん。娘を育てるんでなりふり構わなんかったけん、こうなったったい」
黒岩は笑いながら言った。
「それでも、離婚成立までじっと大人しく待ったとよ。やけん娘が出来たのも結婚してからやん」
「すごい、がんばりましたねえ。私なら既成事実を・・・いえ、茶化してすみません」
「まあ、それまでやったことなかったけんね」
「ええっ??? だって当時はすでにさんじゅう・・・」
「数えんでええっ!」
由利子が指折り始めたので黒岩は焦って止めた。
「意外とお茶目なことするんやねえ」
黒岩は若干引きつったマネをして言った。
「で、我慢してようやく結婚して子どもが出来て・・・・前妻との間には子どもがおらんかったけんね・・・、でね、ようやく幸せに、と思ったら、生まれる前にガッチャーン☆ 交通事故でさ、もう目の前真っ暗よ」
「なんと言っていいやら・・・」
「保険金は慰謝料代わりに元嫁からふんだくられるし」
「え?そんなのあり?」
「色々言ってきて、小うるさいしめんどくさいので払っちゃった」
「ひどっ」
「で、まあ残った保険金と私の働き分でなんとか暮らしてたんだ。母に娘を見てもらいながらさあ。そしたら5年前母も病気であっという間に昇天。で、父もとおに亡くなってたから一気に母娘二人さ・・」
「ダンナさんのご両親は?」
「居るけど長野。来いって言われてるんだけど、私がここを離れきらんでねえ。それに」
「それに?」
由利子は鸚鵡返しに聞いた。
「どうも、あっちの両親は苦手で・・・」黒岩は笑いながら言った。「変やろ? 最愛のダーリンの両親なのに」
「長野、いいとこじゃないですか。いまいち食文化が違いそうだけど・・・。でもまあ、なんとか生活出来るんなら、娘さんが独立するまで今の状態でがんばっていいんじゃないですか?」
「そう思う。でも・・・」
「いえいえ、気にしないで。私なんか独身で身軽だからなんとかやっていけますよ。いざとなったら適当に誰か引っ掛けて・・・」
そこで、何故か葛西の顔がポンと浮かんでしまい、由利子は密かに焦った。
「どうしたん?顔が少し赤うなったけど?」
「いえ、実はですね・・・」
由利子はギルフォードの友人(ということに便宜上勝手に設定した)の刑事のことを、適当に話をつなげて話した。
「はは~~~~ん」黒岩は、意味深な笑いを浮かべて言った。「脈ありそうやん。約10歳歳下かあ。やるじゃん」
「8歳です、黒岩さん」
「四捨五入して10でいいやん」
「その計算だと4歳の幼児は0歳になるわけで・・・」
「ま、細かいことはともかく、教授との三角関係にならんようにね」
「って、黒岩さん、キモイこと考えんでくださいよ~」
由利子は想像もしなかったことを言われて焦った。
「まあ、がんばれや~」
黒岩は、由利子の背中をバシッと叩いて言った。
「いってえ~、黒岩さん、ちったあ手加減てものを・・・」
「あはは、1時になるけん、また課長に言われる前に帰っとくね」
黒岩は明るく笑いながら去って行った。
「ふう・・・」
由利子は小さくため息をつきながらつぶやいた。
「やっぱり、これでよかったんだ・・・」

「へっし!」
ギルフォードが、ほか弁の幕の内を食べようと蓋を開けた途端くしゃみをした。
「Bless you! 風邪ですか?」
紗弥が聞いた。
「いえ、きっと誰か僕の噂話をしてるんですよ」
そういうと彼はもう一度くしゃみをした。

 多美山と葛西は、例の捕り物のせいで少し遅くなった昼食をとるため、署内の食堂に入った。二人とも定食をを注文すると、やっと落ち着いて椅子に座った。葛西は水を飲み干し、多美山は椅子の背にもたれかかった。
 二人は黙々と食事をした。定食を先に平らげた多美山が言った。
「あ~あ、なんか妙に疲れたなあ」
「そうですね」
葛西は最後の漬物を口に運ぶ手を止めて言い、その後それを口に放り込んだ。
「オマエも全力疾走して疲れたやろ? この仕事は体力勝負やからな」
「・・・はい」葛西は漬物を飲み込みながら言った。
「ばってん今日のごと派手な捕り物ばかりじゃない、地道なことの積み重ねの方が多いけん」
「そうですね。・・・でも、今日の男はなんかかわいそうでしたね」
「生活に困って、深夜コンビニに強盗に入って店員を刺した挙句、盗った金額は3万円・・・。やり切れんよなあ」
「だけど、あまりにも短絡的な行動です。お母さんが可愛そうですよ。刺された店員が死ななくて本当に良かったです」
「うむ、類似事件で店員の刺殺されたケースが数件あるけんなあ」
「はい。犯人を追いかけて刺されて亡くなられた店長さんもおられました」
「ああ、東京の方の事件やったかな」
「彼らはやったことの結果がどういうことになるか、考えないんでしょうか?」
「発作的にやってしまうんかな? 犯罪に走る境界線ってのが曖昧になってきたのかも知れんね。ところで、ジュンペイ、おとつい、あの先生んとこ行ったんやろ?」
「ええ、行きました。なんか大変でした」
「そうか、なんか脅迫状が来たって?」
「というか挑戦状ですね」
「テロがどうとかいう? ジュンペイ、あれ、信じられるか?」
「う~ん・・・。でも現に数人が感染症らしき病気で死んでいますから」
「・・・このことは、中央の方には届いているんやろうか」
「知事から報告が行っているはずですが・・・」
「あっちも対応に困っとるんかもな」
「炭疽菌とか天然痘のような特定しやすい病原体ならば、却って動きやすいのでしょうけど」
「おいおい、もし天然痘やったら今頃大変なことになっとるやろう。俺らだって無事じゃすまされん。なんせ、感染者に接触した少年達と会っているんだから。いや、最悪K署内全体が危険区域になったかもしれん。彼らの学校もな」
「まあ、そうですけどね。だけど、正体のわからない敵と正体のわからない病原体。それだけでかなり不安な要素が充分です」
「まあ、先生には悪いが、先生の先走りであって欲しいと思うね」
「わかります。僕もそう思います」
そう言いながら、葛西は窓の外の景色を見た。梅雨を控えた6月の空はまだ青く、明るい日差しにだいぶ色の落ち着いた木々の緑が映え、街は平和そのものだった。この平穏をこわさないでくれ・・・。葛西は祈るような気持ちだった。
「時にジュンペイ」と、多美山が言った。
「なんですか?」葛西は窓から多美山に視点を移して言った。
「オマエ、眼鏡もよく似合うやないか。童顔がカバー出来ていいかもしれんぞ」
「そ、そうですか?」
「コンタクトを失くしたついでに、しばらく眼鏡君でおったらどうや?テレビに出てくる知能派の刑事みたいやぞ」
「やだなあ、多美さん、茶化さないでくださいよお」
葛西は少し赤くなって言った。
「茶化してなかばい。ホントに似合っとおって」
「そっかなあ。じゃ、これ、古いから新しい眼鏡買おうかなあ」
素直な葛西であった。

 昼過ぎ、森田健二の彼女のクミが彼のマンションを訪れた。彼らの大学では珍しく出席に厳しい授業に彼が出てないので、様子を見に来たのだ。もちろんそれは会いに行く口実だった。エントランスのインターフォンで所在の確認をする。返事が無い。(あれ? 出かけてるのかしら?)クミは思った。しかし、ひょっとしたら、またどっかの女を引っ張り込んでいるのかもしれないと、彼女は返事の有無を無視していつものようにマンション内に入っていった。部屋に入ると、テレビの音がする。部屋の電気もパソコンまでついたままだ。しかし、人の気配がしない。
「もうなんもかんもつけっぱなしで、どこ行ったんやろ? そうだ、トイレ! トイレに行きたかったんだ」
彼女は独り言を言うと、かって知ったる彼氏の部屋、さっさとバスルームに向かった。しかし、ドアを開けた瞬間、彼女は息をのんだ。森田健二が裸のまま倒れていたのだ。
「きゃあああ、健ちゃん!!」
クミは慌てて彼に駆け寄った。
「う・・・ん」
健二は、少し首を動かしながらうなった。良かった生きている。しかし、身体が火の様に熱くなっていた。
「待っとって、今、救急車を呼ぶからね、がんばるんよ」
クミは彼にバスローブを被せると、急いで電話を取りに走った。

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