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4.拡散 (3)誰そ彼~たそがれ~

 雅之は、夕方目を覚ました。彼は病院でまた高熱を出し、午後から寝込んでいたのである。
 目を覚ますと熱のせいで喉がカラカラに渇いていた。枕元を見ると、保冷バッグに入ったペットボトルのスポーツ飲料とネズミーのマグカップが置いてあった。母の心遣いだった。ネズミーの絵柄に雅之はちょっと眉を寄せたが、のそのそと起き上がるとスポーツ飲料をカップに注いで半分ほど飲んだ。熱はだいぶ下がったようで気分もよくなっていた。半身を起こしたままカップを両手に、ぼうっと座っていると今日の昼間、病院でのことが思い返されてきた。

 採血の時、看護士が雅之の右手の甲に貼っている大きな絆創膏に気が付いた。絆創膏の通気の孔からは少し傷口からの汁が漏れていた。
「あらら、どうしたの、これ? 絆創膏、お替えしましょうか?」
雅之はあせって右手を引っ込め首を振った。
「オレ、替えを持ってるんで後で自分で貼り替えますから」
「そう? 大丈夫? 左手が内出血してますから右手から採血しますけど、その右手、ギュって握れる?」
そう言われて雅之はしぶしぶ右手を出し、拳を握って見せた。「あ、大丈夫やね」看護士はそう言いながら浮き出た雅之の右手の血管を見て、首をかしげた。
「変やね。こっちの方が立派な血管をしてるのに、何でわざわざ左手に点滴をされたんやろうね?」
雅之は黙っていた。
 結局採血の後に点滴までされて、終わったのは12時近かった。インフルエンザも調べたがマーカーに若干の色変化はあったものの結果はシロだった。
 母親が清算をしている間、雅之はひとりで待合室の椅子に腰掛けていたのだが、その横に女性が座ってきた。まだ空いた席はいくつかあるのに、その女性がわざわざ雅之の隣に座ったので彼は少し気味悪さを覚えた。ベージュのスーツを着た彼女は長身でスタイルも良く、肩までのストレートな髪を髪留めで後ろにまとめており、薄いグレーのサングラスをかけマスクで顔を半分覆っていた。しかし、場所が病院だけに違和感はあまりない。サングラスからのぞく眼等からかなり知的な美しい顔立ちが想像出来た。
 彼女は前を向いたまま小声で雅之に言った。
「山田医院に行きなさい」
雅之は(え?)と思い彼女の方を見た。しかし、彼女にこちらの方を見る様子はない。
「山田医院の大先生にすべて話すの。彼なら適切な処置をしてくれるはずよ」
そういうと彼女は立ち上がり、規則正しいハイヒールの音とともに病院を出て行った。
(あの人、あの事を知っている!?)
雅之は一瞬で血の気が引くのを覚えた。
(ど・・・どうしよう・・・)
膝が震え、冷や汗がどっと出てきた。雅之は椅子に座ったまま身体をくの字に曲げ両手で顔を覆った。
「まーちゃん、どうしたの!?」
精算から戻ってきた母が雅之の状態を見て驚いて駆け寄った。
「ごめん、また熱が出たみたい。早く家に帰りたい・・・」
実際熱よりも関節痛がひどく、長期間座っていることはかなり苦痛だった。
「わかったわ、早く帰りましょう。無理させてゴメンね」
雅之は母に支えられながら病院を出た。外は良い天気だったが、雅之はまともに目を開けていられなかった。相変わらず明るい方を見ると眼の奥が痛むからだ。やっとの思いで家に帰った雅之は、そのまま食事も摂らずに床に就いたのだった。

「あの人はいったい何者なんやろう」
雅之は、あの謎の女性のことが気になった。あの人は明らかに何かを知っている、と雅之は確信した。だからこそ自分に接触してきたのだ。だが、あの口ぶりから警察に通報するようなことはなさそうだった。彼女は山田医院に行けといった。しかし、山田医院の大先生に言ったところで、あのはげ頭のおじいちゃん先生に一体何が出来るというのだろう。反面、彼女に言われるまでもなく、もう一度大先生に診てもらいたいとも思っていた。そんなことを考えていると、母親の美千代が2階の雅之の部屋に様子を見に上がってきた。ドアをノックすると、雅之の返事もまたず部屋に入ってきた。
「あら、まーちゃん起きてたの? 気分はどう?」
美千代は雅之の具合が良さそうなのを見て嬉しそうに言った。
「うん、だいぶ良いみたいだよ」
「良かったわねえ。無理して松田先生に診てもらったおかげだわ」
ニコニコしてそう言う母に、雅之はもう一度山田医院に行きたいとは言えなくなってしまった。
「晩ご飯、食べれそう?」
「うん、おなかも空いてきたし、きっと明日は学校に行けるよ」
そういう雅之に美千代は釘を刺した。
「無理しないでちょうだい。40度も熱があったのよ。調子がよくなっても明日まで休んだ方がいいわ」
「でも、いい加減行かないと授業についていけなくなってしまうよ」
「1日ふつかでおちこぼれるようなことはないわよ。明日の様子を見て考えましょ。今夜はまーちゃんのために美味しい夕食を作るわね。さあさ、もうお布団に入って」
美千代は雅之を寝かせて布団をかけ直すと、鼻歌交じりで部屋を出て行った。
 母親が行ってしまうとまた部屋が静かになった。夕暮れ独特の近所のざわめきが聞こえる。遠くで小学校の下校時間を告げる『家路』のメロディとアナウンスも聞こえてきた。平和な日常の一コマである。
 雅之は布団から左腕を出すと、袖をまくってみた。左手は肘の方まで青黒くなっていたが、徐々に色が薄くなっているように思われた。ほっとして、今度は右手の袖をそっとめくってみた。その採血/点滴跡を確認した雅之は、再び愕然とした。右手の注射跡まで内出血していたのだ。雅之はさっと右手の袖を下ろした。
「あの看護婦さんも採血が下手やったっちゃん・・・、きっとそうやろ」
雅之はつぶやいた。気が付くと部屋の中が赤く色づいている。

     『アカイ・・・』

雅之は男の言った言葉を思い出し、飛び起きて窓を開け外を見た。空には夕焼け雲が広がり、夕日が街を美しく朱に染めていた。
「夕焼けか・・・」
雅之は安堵し、その美しい景色をしばらく眺めていた。

 

 会社側からの話が終わり、会議室からぞろぞろと社員が出てきた。みな興奮した状態で口々になにかしゃべっていた。早く帰ろうとすたすた廊下を歩く由利子の後を、黒岩るい子が追ってきた。黒岩は由利子に追いつくと彼女の肩を叩いて言った。
「やっぱり、リストラの話やったね」
「そうですね。だけど、それでなくても不景気な今、ここを辞めて今更仕事が見つかると思いますか? 腹ん立つ! さっさと帰りましょ!」
「そうやね。特に私なんか50前のおばさんやし・・・」
黒岩は心底困った様子だった。
「まだ肩を叩かれたわけじゃないでしょ。今のところ退職希望者を募っただけだし。退職金に釣られて自分から辞めるといった方が負けです」
由利子は黒岩へというより自分を励ますように言った。

 会社を出た後、帰り道の違う黒岩と別れた。バス停に向かってしばらく歩くと、由利子ははたと思い出し携帯電話を取り出した。少し躊躇したが、さっきかかってきた番号に電話した。数回呼び出し音が鳴り、すぐにさっきの刑事が出た。
「はい、K署の葛西です」
「もしもし? あの、私さっきお電話をいただいた・・・」
「あ~、篠原・・・えっと由利子さん、ですね」
「はい。さっき忙しかったのでかけ直すって言って切っちゃったんで・・・」
「ご多忙のところ、本当に申し訳ありません。実は、篠原さんが情報を下さったホームレス殺害事件で自首してきた少年がおりまして、出来ましたら篠原さんが見た少年かどうかご確認して頂ければと・・・」
「自首して来たんならそれでいいじゃありませんか」
リストラの件であまり機嫌の良くない由利子の口調は、ついつっけんどんになってしまう。
「あのぉ・・・、それが、どうも様子がおかしいのです。未成年と言うこともありますし、念のために篠原さんに確認していただこうと思いまして」
電話の向こうの彼の声が、少し及び腰になっている。
「私は実際に犯行現場を見たわけじゃないので、顔が確認出来たとしてもその人が犯人という証拠にはならないでしょう?」
「もちろんそうです。でも、捜査の手がかりになるかもしれません」
「メールで写真を送って下されば、確認しますよ」
「いや、それは出来ません。特に最近は簡単に掲示板に容疑者の写真がアップされたりしますから・・・。あ、いえ、篠原さんがそういうことをするかもしれないと言っているのではありませんけど」
「わかりましたけど、じゃ、どうすればいいですか?」
「え~っと、では、今からお会いできますか?」
「いえ、今日は不愉快なことがありましたので、もう帰ってフテ寝します」
「え?え?・・・・・」電話の向こうで訳がわからず焦っている声がした。
「すみません、お会いできないかなんてぶしつけなことを・・・。変な意味じゃなかったんですが・・・」
「あ、いえいえ、そうじゃないですよ。うちの会社のことです」
「そうですか、よかった。う~ん、では明日の朝、K署まで来ていただけますか?」
「明日の朝ですかぁ? ・・・わかりました。8時半から9時くらいでいいですか?」
「わかりました。K署に来られたら受付であなたと私の名前、それから用件をお伝えください。すぐにお迎えにあがります」
「えっと、お名前はカサイ・・・さん、でしたね」
「はい、刑事一課の葛西純平と申します」
「わかりました。では明日お伺いいたします。失礼します」
「お忙しいところを本当に申し訳ありません。では明日、よろしくお願いいたします」
電話は終わった。携帯電話を閉じ由利子はまたバス停に向かって歩き出した。(なかなか腰の低い警官やねえ)と由利子は思った。(昔営業マンでもやってたのかな)想像したらちょっと可笑しくて、少し和んだ。(カサイジュンペイだって。少年漫画のキャラみたいな名前。きっと子どもの頃はジュンちゃんって呼ばれてたよね) 由利子は名前から彼の姿を想像してみた。中肉中背・・・いや、中背よりちょっと小さめで、童顔、髪型は・・・ちょっと長めのパサ髪だったりして。
 そんなことを思って歩いていると、いつの間にかバス停にたどりついていた。幸運にもバスはすぐに来た。

 

 ギルフォードは、勝山と今後の対応について話し合った後、大学まで急いで戻った。自分の研究室まで戻ると秘書の鷹峰紗弥がロイヤルミルクティーを入れて待っていた。学生達も数人が残ってまだ部屋で雑談に興じている。
「おや、みんな残ってたのですか? 遅くなるから帰って良いと言っていたのに」
部屋の時計は夜7時を過ぎていた。紗弥はギルフォードを見ると紅茶の入ったお盆を差し出し、にっこり笑って言った。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
のっけからのとんでもない応対に、ギルフォードは若干困った顔をして言った。
「何ですかサヤさん、そのゴシュジンサマっていうのは?」
「殿方はこういう風に出迎えられると喜ぶとお聞きしましたので」
周囲から学生達のクスクス笑いが聞こえる。
「あのね、私はそういう女性蔑視みたいのは嫌いですよ。ところで、私が帰ったのがよくわかりましたね」
「教授のバイクの音を覚えてますので」
「犬みたいですね、まったく」教授は肩をすくめて言ったが、紗弥はそれを無視して尋ねた。
「ところでかなり急いでお帰りになってましたが、何か大変な事でもありましたか?」
「う~~~ん・・・、コトによると・・・ですが。とりあえずちょっとコッチ来て!」
ギルフォードは、紅茶を乗せたお盆を持ったままの紗弥を教授室に引っ張り込んだ。学生達はその様子を見てざわついた。
「なん? なん? 教授が秘書の紗弥さんを部屋に連れ込んだ?」
「その事実だけだとかなりいかがわしいけど、ギル教授に関してはそれはないって」
「それにしては、珍しく緊張した表情をしていたけど、7年に一度の発情期が来たとか」
「バルカン人のポンファーか!」
「貴様ら、トレッキーだったのかよ!」
「まあ、紗弥さんにもニューハーフ疑惑があるから」
「ええ~、あたしそれ初耳ぃ! でも細くて背高いし、ありえないこともないよねえ」

 学生達が勝手に想像を膨らませているのを知ってか知らずか、ギルフォードは、部屋に入ると自分の席に着き、紗弥からミルクティーを受け取ると二口ほど飲んだ。それでとりあえず人心地がついたようだが、一息入れるといきなり英語で話し始めた。
”今日の司法解剖の遺体だが,ひょっとしたら死因は出血熱だったのかもしれねぇんだ”
「まさか・・・」
紗弥は信じられないというように、半分笑い顔で言った。しかし、ギルフォードは真面目な顔で続けた。
"だから俺が呼ばれたらしい.今,カツヤマ先生が遺体からサンプルを採って国立感染症研究所に送る準備をしている ”
”そんな物騒な病気が何故この日本に? ”
ギルフォードにあわせて、紗弥も英語に切り替える。
”昔ならともかく,今の交通事情なら危険なウイルスも24時間で世界中にデリバリーOKさ.何年か前に,サーズに罹った台湾人の医者が日本国内をあちこち観光でうろついていたことは覚えているだろう?”
”ええ,幸いにも日本で彼から感染した人はいなかったと思います”
”まったく、ラッキーだったよ.おかげで中国人しか発症しないなんてデマ流すヤツも出てきたけどね.イタリア人の医師だって死んでるっつーの.それ以前には,アフリカ帰りのビジネスマンがラッサ熱に罹っていたこともある.この時も幸い他に感染者は出なかったが”
”では,今回も旅行者が持ち帰った可能性が?”
”それが良くわからねぇのさ.何せ,感染者と思われるのは今のところホームレスだけなんだからな”
”確かに海外旅行とは縁がなさそうですね”
”可能性としては,タイガー・モスキートのような外来害虫が考えられる.だが,F市の国際空港近辺ならともかく,現場はK市のA公園なんだよな”
ギルフォードはもうひとくちミルクティーを飲んで続けた。
”困ったことにこれがもし,レヴェル4の病原体だった場合この国では手に負えなくなる”
”まあ,どうしてです? まさか,BL-4の研究室がない・・・とか?”
”あるさ,国立感染症研究所と筑波の理研科学研究所にね.近隣住人の猛反対にあって現在はレベル3でしか運用出来ていねぇんだよ”
”反対する気持ちはわかりますけどね”
”原発は平気で何基も稼動させているくせにな.漏れ出した時の脅威としては,放射能も病原体もあまり変らないだろうと俺は思うけどね.旧ソ連に於いてのスヴェルドロフクス(炭疽菌漏れ)事故と、チェルノブイリ(原発)事故を比べてみればいい.むしろ爆発しないだけまだマシさ”
”でも,まだ出血熱かどうかわからないのですよね”
”そう.だから正体どころか,あるかどうかわからない病原体の為に,大騒ぎするわけにはいかねえだろ.で,こっちも動きようが無いわけだ.だが,もしレヴェル4のウイルスが市内に潜在してるのが事実なら,大変なことになる”
そういうと、残りのミルクティーを飲み干し、こんどは日本語で言った。
「と言うわけです。人に言っちゃダメですよ。あ~、バイクをすっ飛ばして帰ってきたんで疲れました。ミルクティー美味しかったです、ありがとう」
そう言うと、ギルフォードは椅子にもたれかかった。飲んだ後のカップを片付けながら紗弥が言った。
「教授は英語と日本語では話し方のギャップがすごいですわね」
紗弥が、カップを下げるためにギルフォードの部屋を出ようとすると、「やば!」という声がしてドアの傍にいた学生たちが、わらわらと逃げていった。紗弥は右手にお盆を持ち左手を腰に当て、彼らを見ながら微笑みを浮かべながら言った。
「ところで、わたしがニューハーフって、いったいどなたが噂しているのかしら?」
「私もまだ42歳にはなってませんけどね」
紗弥の後ろから、教授も一声かける。
(地獄耳)
(地獄耳)
(地獄耳)
学生たちは冷や汗をかきながらお互い顔を見合わせた。

 紗弥が給湯室に去り、教授が部屋に篭ったのを確認すると、学生達はまたひそひそ話し始めた。
「みんな、先生たちなんて話してたかわかった?」
「英語だったやん、わかんねぇよ、オレ。お前英語しゃべれんじゃん、聞き取れたやろうもん」
「早口すぎて、ドア越しじゃあ聞き取れないわよ、あんなの。スラングだらけだし」
「俺らが聞き耳立ててるのを知ってて、英語で話したのかな」
「どうかな、単に英語の方がしゃべりやすいってこともあるかもよ」
と、突然、ギルフォードが部屋から出てきて言った。
「君たち、用がないならいい加減に帰りなさい。8時になってしまいますよ」
「はぁい」
学生達は、しぶしぶ帰る準備を始めた。

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4.拡散 (4)エンジェルス・トランペット

 雅之は夕食後、久しぶりに自分の机の前に座った。夕食も、元気な時ほどは食べられなかったが、完食して母親を喜ばせた。
(明日は学校に行けそうだ)
若干フラフラするものの、だいぶ気分がよくなったので、すでに明日は登校するつもりだった。入浴してさっぱりとし、明日の準備をしようとカバンに手をかけた雅之は、ハッとして中から携帯電話を取り出した。具合が悪くなってから、ずっとカバンの中に入れっぱなしだったことに気がついたからだ。開いて見るとメールがだいぶ入っている。ほとんどがダイレクトメールやspamだったが、友人からもいくつか入っていた。雅之は友人からのメールを開いて読み始めたが、祐一からのメールは怖くて開くことが出来なかった。

  20XX年6月4日(火)

 翌朝、雅之が学校に行く準備をしていると、母親の美千代が心配して2階に上がってきた。
「まあちゃん、本当に大丈夫なの? お熱はもうないの?」
「うん、大丈夫だよ」
雅之は答えた。実はまだ熱は37度を超えていたのだが、登校を止められそうなのでウソをついたのだ。
「そういえば、これはウワサなんだけど、西原さんちの祐一君? 警察にいるらしいわよ」
雅之はそれを聞いて、頭から冷水を浴びせられたような気がした。
「え? どうして・・・?」
「詳しくは知らないわ。それで校長と担任の森川先生が警察に呼ばれたそうよ。・・・あら? まあちゃん、どうしたの?」
美千代は、今にも倒れそうな息子の様子に驚いて言った。
「大丈夫だよ。ちょっとびっくりしただけだよ。二日も寝込んでたからだよきっと」
雅之は動揺を誤魔化そうとして言った。
「ホントに学校に行って大丈夫なの? 無理しないほうがいいわ」
「大丈夫だって。僕は授業に遅れたくないんだよ! 着替えるから部屋から出てって」
雅之は追い立てるように美千代を部屋の外に出し、急いで携帯電話の中の祐一からのメールを開いた。

明日朝、K駅前の交番に行く。雅之も来てくれ。待っとるから。

祐一らしい、実直なメールだった。
(祐ちゃん、オレが来ないからひとりで自首しに行ったんだ)
雅之は愕然とした。早く自分が行って祐一の無実を証明しなければ。雅之はすぐに祐一にメールを送った。

祐ちゃんゴメン。オレ寝込んでて。今からそっちへいくけん待ってて。

雅之はメールの送信をした後、放置していたために電話の電池の残量が少なくなっていることに気が付いた。充電しておこうと充電器につないで机の上に置く。その後、レポート用紙を一枚剥ぎ取ると、それに走り書きをした。

父さん、母さん、ごめんなさい。
ぼく、とんでもないことをやっちゃったんです。祐一君はぼくのかわりに警察に行ったんです。祐一君を助けるために今から自首をしに行きます。親不孝を許してください。
父さん、旅行に行く約束したのに行けなくなってごめんなさい。ぼくが帰ってきたら母さんと3人でいこうね。 まさゆき

何故か雅之は自分の名前が漢字で書けなかったが、気にとめる様子もなく紙を半分に折り机の上に置いた。置手紙を書くのに少々時間を費やしたので、始業時間に間に合わなくなってしまったが、雅之はもう気にならなかった。すぐに着替えて家を出る準備をする。両腕が内出血で黒くなっているので、制服のシャツは長袖を選んだ。玄関まで行くと、母親が心配そうに立っていた。
「気分が悪くなったら、すぐに帰ってくるのよ、いいわね」
「大丈夫だよ、じゃ、行ってきます」
雅之は出来るだけ元気に振舞って家を出た。

 由利子は、いつもより30分早い電車に乗った。警察に行く約束をしていたからだ。早めに家を出ようとすると、猫たちが玄関までついてきて、ふしぎそうな顔で彼女を見送った。

 雅之が急いでいると、後ろから彼を呼ぶ声がした。
「雅之? 雅之やろ? おはよう。病気は大丈夫なんか? ひでぇ人相だぞ」
振り向くと同じクラスの田村勝太だった。昨日の朝K駅で祐一に吊るし上げられた少年である。
「なんだ、勝太か」
「『なんだ勝太か』って、昨日の西原といい失礼なやっちゃな」
「ごめん。おはよう。マスクしとるけん、一瞬誰かと思ったったいね」
「ああ~、そういや西原もマスクがどうの言うとったな。実はアレルギーらしくてさ」
「この時間に会うとは思わんかったし」
「あはは、お互い遅刻やね。おれは常習やけど、雅之は病気やったけん遅刻しても大目に見てもらえるやろう。そういえば、西原、ホームレス殺しの件で自首したらしいな。ゴメンな、雅之、俺らお前を疑っとったんや」
「違うんだ、勝太。あれはオレがやったんだ。今から自首して祐ちゃんを助けに行く」
雅之は素直に言った。
「やっぱそうやったんか。でも大丈夫や? まだ気分悪いんやろ? 今日は暑いのに長袖シャツだし顔色悪いし、白目もなんか黄色っぽいぜ」
「だけど、祐ちゃんを放ってはおけないよ」
「わかった。おれがついて行っちゃるけん」
「ありがとう」
雅之と勝太は並んで歩き始めた。雅之はまた熱が上がっていると感じていた。しかし、祐一の為になんとしてもK署に行って自首しなければいけない・・・。すでに雅之には、最寄の警察に行くという、合理的な判断が出来なくなっていた。
 勝太は、歩きながら雅之に事件の経過を詳しく聞こうと思ったのだが、どうも雅之の話が要領を得ず困っていた。
(なんか小学生と話しているみたいやね。こいつはもう少し理路整然と話すヤツやなかったっけ?)勝太は思った。まだ熱が高いのだろうか? しかし、雅之はそんなそぶりも見せず機械的に歩いていた。

 美千代は雅之が出た後、心配になって彼の部屋をのぞいてみた。すると、机の上に携帯電話が充電されたままになって置いてある。
「あの子ったら、何かあったとき困るじゃない」
そういいながら部屋に入った。雅之を追いかけて渡してこようか。今ならひょっとしたら電車に乗る前に間に合うかもしれない。そう思いつつ、電話の履歴を見た。いつもは触らせてもらえないので、中身が気になったのだ。もちろん学校から親に電話の管理をするように言われているのだが。メールを見ると、西原祐一からのメールがあった。心配になってそのメールを開いた美千代は驚いた。一瞬内容が把握できなかったが、机においてある置手紙を読んで、後頭部を打たれた様なショックを受けた。
「止めなきゃ」美千代はつぶやいた。「まあちゃんを止めて説得しなきゃ。きっと祐一君をかばうつもりなのよ!」
美千代はそういうと、戸締りもそこそこに家を飛び出すと雅之の後を追った。追いかけながら大阪にいる夫に電話する。
「もしもし美千代? どうした?」
信之は、朝早い時間の妻からの電話に驚いて電話に出た。夫は駅にいるらしい。周りがざわついており、構内アナウンスの声が聞こえる。
「あなた?あなた?・・・、雅之が、まあちゃんが・・・!」
美千代は電話をかけたものの、なんと説明していいか混乱していた。
「雅之がどうした? 具合が良くないのか?」
「違うの、違うの・・・。いえ、今はとにかくまあちゃんを止めないと! 後でかけ直すわ」
電話は唐突に切れた。妻からの尋常ならぬ電話に信之は不安を隠せなかった。しばらく携帯電話を持ったまま考え込んでいたが、会社に連絡をとるため乗車客の列を離れた。

 雅之たちは、駅の近くの踏み切りまで来ていた。ここはまだ高架になっておらず、平日朝はいつも通勤客と自動車でごった返していた。雅之が不思議そうな顔をして言った。
「勝太、さっきからすごい朝焼けやけど、雨になるんかねえ」
「朝焼け? 何言ってんだよ、青空だし、全然普通に晴れとるやん」
「だって、周り中全部真っ赤だよ?」
勝太は雅之の言葉にゾッとするものを感じていた。これは、きっと熱のせいに違いない。
「雅之、帰ったほうがいいよ。一度病院に行ってから出直そう? おれも付き合うけんさ、な?な?」
勝太は雅之に言ったが、彼は言うことを聞かずどんどん先へ歩いて行った。その時警報が鳴り始め、数メートル先に見える遮断機がゆっくり下りるのが見えた。その警報の音に触発されたように雅之の様子がおかしくなった。
「赤い・・・。あっ!!」
雅之は急に何かに怯え始め、何者かに追いかけられるように人ごみをかき分け先に進んだ。驚いて勝太が後を追う。
「雅之、待てって! 急にどうしたとや!!」
強引に先に進もうとする二人の少年に押され、通勤の大人たちはいやな顔をしていたが、特に咎める様子はない。雅之は遮断機に遮られ、先に進めなくなった。カンカンと警報の音がヒステリックに鳴り響く中、逃げ場を探して雅之はキョロキョロしていた。
「雅之、どうしたと? 危ないからこっちに来いよ!」
勝太の言葉に雅之は答えた。
「いやだ、あのおじさんが来る! オレを捕まえようとしているんだ」
まったく意味不明な雅之の言葉を聞いて、勝太の脳裏にインフルエンザの特効薬で子どもが異常行動を起こしたという事件のことが浮かんだ。これがそうなんだろうか・・・。勝太は恐ろしくなった。なんとかしないと。
「赤い! 赤い! ・・・怖いよ、助けて!!」
雅之はいきなり遮断機をかいくぐり、線路に飛び出した。
「雅之ィ!! 危ない、特急電車が来よる!!」
勝太は雅之を止めようと後を追って遮断機をくぐろうとしたが、誰かに手をぐいと引っ張られ阻止された。ぎょっとして、勝太は手を引っ張った人の方を見た。女性だったが、サングラスとマスクで顔はよくわからなかった。
「放してください! 雅之が死んでしまう!!」
「やめなさい。もう遅いわ」女は妙に冷静に言った。
「放してください! 放せってば! 放せぇ~~~~!!」
勝太は女の手を振りほどこうともがいた。
「誰か、この子を抑えて! このままじゃこの子まで飛び出してしまうわ!」
女の言葉に傍にいた男性会社員が二人がかりで勝太を押さえ込んだ。身動きできなくなって、勝太は空しく線路の方を見た。踏切内、ひとり雅之は立っていた。あちこちからから悲鳴と「危ないから、戻れ!!」という叫び声が聞こえた。誰かが電車を止めるべく緊急ボタンを押しに走った。しかし、あまりにも電車との距離が近すぎた。電車の運転士はとうに雅之に気づき警笛を鳴らしている。
「放せえっ! 雅之!雅之ぃぃぃぃ――――!!!」
勝太の悲鳴に近い叫び声が警笛にかき消された。雅之は、ゆっくりと電車の方を見た。車体はどんどん近づいて来る。しかし、雅之には何が起こっているかわからない様子だった。電車はすでに運転士の顔がわかるほどの距離になった。運転士は何かを叫びながら必死で電車を止めようとしていた。ブレーキの甲高い音が響き、レールと車輪の激しい摩擦による独特のにおいが当たりに経ちこめた。雅之は電車が迫って来るのをぼんやり見ていた。電車は真正面からぐんぐん近づいてくる。ほんの数秒間のことなのにそれは、まるで映画のスローモーションシーンのようだった。目前に巨大な電車の影が覆いかぶさろうとしたとき、初めて雅之は我に返った。自分の置かれた状況が飲み込めないまま、電車から逃れようとした次の瞬間、雅之は全身に凄まじい衝撃を感じ、自分の体が宙に浮いたのがわかったが、そのまま頭の中が真っ白になり何もわからなくなった。
 凄まじいブレーキ音と警笛を響かせながら、電車は止まった。止まった後も警笛が鳴り響いていた。その音は、まるで巨大な管楽器が鳴り響いているようだった。
 

 電車の中で、由利子はドアの傍に立ち、本を読みながら通勤時間をやり過ごしていた。ふと、窓の外に違和感を感じてそっちをみた。対向の上り電車が駅でもない場所で止まっていた。あれっと思ってそのまま外を見ていると、後続の電車も何台か止まっている。
(事故かしら?)
由利子は思った。他の乗客もざわざわし始め、由利子の乗った電車も徐々にスピードを落としているのがわかった。車内アナウンスが響いた。
「先ほど、B駅で人身事故が発生いたしました。そのため、列車の運行に支障が出始めております。この電車もこれより徐行運転をいたしております。お急ぎのところ真に申し訳ありません。なお、電車の乗り継ぎ等、車内アナウンスや各駅の案内でご確認をお願いいたします」
(えええ~~~?)由利子は思った。(もう少しで着くのに・・・。でも、B駅って私の乗る駅の隣じゃない。いつもの時間に電車に乗っていたら、巻き込まれたかも知れないわね)
電車は5分遅れで到着した。駅から出た由利子は、インターネットでゲットした地図を開いて言った。
「さあて、K署にはどう行ったらいいのかな?」

 祐一は、朝早くから取調室に呼ばれた。促されるままに席に着くと、前に若い刑事が座った。葛西刑事だ。彼は独身寮にいるため、早々に呼び出されたのだ。
「おはよう、西原君」
「おはようございます」
「昨日は眠れたかい?」
「いいえ・・・」
祐一は素直に答えた。
「朝早くからすまないね。実は、急に確認したいことが出来たんだよ。実は今朝早く、君の友だちから電話があったんだ」
「友だちから?」祐一は、雅之からだろうかと期待した。
「佐々木良夫という君の同級生からだよ。彼が全部話してくれた。やったのは君じゃないんだね」
祐一は黙っていた。
「どうして友だちを庇ったりしたの?」
祐一は無言で下を向いた。
「代わりに君が罪を償ったって、友だちのためにはならないと思うよ」
「来ると・・・思ったんです」祐一はやっと口を開き、力のない声で言った。
「雅之・・・。僕が自首したらあいつも自首してくれると思ったんです・・・」
「そっか・・・。佐々木君が言ってたけど、秋山雅之君だっけ? 彼、熱を出して昨日から休んでいるそうだよ。だから、君が警察に来たことを知らないんじゃないか?」葛西は祐一を慰めた。「佐々木君も今朝、君の事を聞いて、びっくりして警察に電話したんだって。佐々木君、詳しいことをちゃんと説明するって、今、こっちに向かってるそうだよ」
「そうですか・・・」
祐一は、雅之がとうとう自首しなかったことに対して失望を隠せなかったが、熱を出しているということを聞いて、あの男の死に様を思い出し不吉な予感が頭をもたげた。
 

 勝太は雅之が電車と衝突する寸前、顔をそむけ目をぎゅっと瞑り耳を覆った。それでもブレーキ音と何かがぶつかる嫌な音が聞こえた。雅之の身体は電車がぶつかった衝撃でとばされ数メートル先の対抗路線の上に落ちた。電車はそのまま数十メートル走ってやっと止まった。線路の上の雅之はうつ伏せに倒れ全く動かなかった。 「救急車を呼べ」「いや、もう死んどるばい」「駅員はまだや?」
踏切り付近は騒然とした。勝太は止める手を振り切って雅之の傍に走っていった。すでにその周りには野次馬が集まりつつあり、車掌が人払いに躍起になっていた。雅之の傍にはもうさっきの女が座って、彼の身体を調べていた。手にはラテックスの手袋をしている。車掌が咎めようとすると女が言った。
「安心して。私は医者よ」
車掌はそれを聞くと、それ以上彼女に質問しようとはしなかった。遅れて運転士が走ってきたが、その状況を見て呆然と立ち尽くしてしまった。しかし、すぐに先輩の車掌に叱咤され野次馬の整理に回った。車掌は場所を離れて無線で会社に状況を説明し始めた。
「だめね。即死だわ」
女は立ち上がると頭を振って言った。勝太は呆然とした。うつぶせた雅之の周囲にはどす黒い血が広がっていた。普通の血となんか違う・・・。勝太は遠くの方でそう思った。頭が呆けたようになっていて思考が回らない。これは現実なのだろうか・・・。その時、勝太は野次馬のなかで携帯電話を出し、雅之の写真を撮ろうとしている者を見つけた。
「やめろ! おれの友だちだぞ! 撮るなぁ!!!」
勝太は叫んで雅之の体に覆いかぶさろうとしたが、女にまた止められた。
「困った風潮ね」
女は首に巻いたスカーフを取ると、ふゎっと広げて雅之の上半身にかけた。青い薔薇の花柄がデザインされた美しいスカーフだったが、雅之の身体にかけたとたんに、彼の流した血がじわじわと染みて薔薇をどす黒く染めた。しばらくして救急車とパトカーのサイレンが聞こえてきた。女は勝太を呼んで言った。
「ごらんなさい」
女は再び雅之の傍に中腰になると彼の袖をめくって勝太にその腕を見せた。
「点々と内出血しているでしょう? これは事故のせいじゃないわ・・・。救急隊員が来たら、感染症の恐れがあるから必ず保健所に届けるように伝えなさい」
そういうと、女はさっさと立ち去ってしまった。勝太は周りを見回した。近くの駅から派遣された応援の駅員たちが、野次馬を追い払っていた。勝太も追い払われそうになったので、あせって言った。
「僕は、彼の友人です。傍にいさせてください」
「友だち? では、この少年が飛び出した時の状況を説明できるかい」
勝太はうなづき、雅之の方を見た。さっきまで話していた友の身体が物のように転がっていた。もう二度とこいつとは話すことが出来ないのだ。そう思い初めて今が現実だと実感した勝太は、顔を覆ってその場に座り込んだ。
「雅之~~~、なんでこんなことに・・・」
そういうと、号泣を始めた。駅員は成す術なく傍に座って彼の肩に手を置いていた。
「すみません、すみません、傍に行かせてください!!」
女性の声が一際高く響いた。
「息子かも知れないんです」
それは、雅之を追ってきた美千代だった。駅の傍まで来たが、事故現場の人ごみを見て嫌な予感がして必死でやってきたのだ。それに気がついた駅員が美千代を人垣から誘導した。美千代は線路に横たわる少年の身体におそるおそる近づいた。スカーフに上半身を覆われていたが、その姿を見て美千代は直感した。力が抜けへたり込む美千代を駅員が支えた。もうひとりの駅員がスカーフをめくって美千代に顔を確認させる。美千代は両手で顔を覆いながら声を絞り出すように言った。
「息子の・・・雅之・・・です」
その後、母親の悲鳴のような泣き声が事故現場に響いた。

 踏み切りの警報は機械的に絶え間なくなり続けていた。救急と警察が到着し、あちこちで光が点滅を始め、事故現場はさらに慌しくなっていった。
 

 由利子はK署に到着し、応接室のようなところに通された。少し待つと、葛西が姿を現した。
「おはようございます」葛西は軽く頭を下げ挨拶した。
「あ、おはようございます」由利子も立ち上がり追って挨拶をする。葛西は前の席に座ると言った。
「葛西です。はじめまして。篠原さん・・・ですよね、朝早くからご足労願いまして申し訳ありません」と、葛西はまた頭を下げる。「実はですね、今朝から状況が変りまして・・・」
「え? と、言われますと?」
「一緒に事件現場の公園にいたという子から電話が入りまして、真犯人について新たな情報が入ったんですよ」
「はあ、ということは、私はもう用済みということですか?」
「とりあえず、この写真ですが見覚えありますか?」
葛西は由利子に写真を見せた。見覚えの無い若い男が写っていた。
「違います。もっといい男でしたもの」
うっかり由利子は言って、あせって口を押さえた。
「すみません、ちょっと試させていただきました。これはウチの署の新人警官の写真です。本物はこれです」
「ふざけないでください」由利子は少しムッとして言った。
「すみません、相手が未成年なもので慎重にと思って・・・」
葛西は頭を掻きながら言った。由利子は新たに出された写真を見て言った。
「この子は、後から駅のホームで例の少年といた子です。間違いありません」
「そうですか。今日の電話と辻褄が合いますねえ・・・」
葛西はしばらく考えて言った。
「ところで篠原さん、今、断言されましたが、本当に顔を覚えたら絶対に忘れないのですか?」
「まず、忘れません」
「では、さっき見せた写真の警官の顔も? 会ったらわかります?」
「写真なので実際に見たほどじゃないですけど、会えばわかると思います」
「へえ、すごいですねえ。僕にもそんな記憶力があればよかったのに」
「人の顔限定ですけどね。まあ、それはそれで困ったものなのですが」
「どうして? そんな能力があったらすごく役に立つと思うのだけど。これは僕が刑事だからそう思うのかもしれないけど・・・」
「困るのは、忘れたくても忘れられないことです。文字通り顔も見たくない人の顔まではっきり覚えてるんですから・・・」
「はあ、なるほど。そうですねえ。確かに小学校の頃僕をいじめた先生の顔とか思い出したくないもんなあ」
「刑事さん、いじめられてたんですか?」
由利子は、屈託の無い葛西の言葉に驚いて言った。
「はあ、なんか僕が気に入らなかったみたいで」葛西は笑いながら言った。その時、多美山がばたばたと部屋に入って来た。
「おい、ジュンペイ! 大変なことになったぞ。今鉄道事故の連絡が入ったんだが、その被害者が例の秋山雅之らしい」
「なんですって?」
葛西は立ち上がって言った。
「僕はさっきの写真の少年のところに行かねばなりません。ここで待っていていただけますか?」
「わかりました」
由利子も予想外の展開にびっくりして、やや呆然としていた。あの事故はあの子が・・・?。由利子は驚くとともに何か妙な宿命のようなものを感じていた。

 葛西は急いで祐一のところに走った。祐一はもう事故の知らせを聞いており、蒼白な顔をして葛西を見ると言った。
「刑事さん、雅之が電車に轢かれたって本当ですか?」
「今、事実確認を急いでいるところだよ」
「預けてある僕の携帯電話を見せてください」
葛西は近くの警官の方を向き、持って来るようにたのんだ。警官は了解し、すぐに祐一の電話をカバンごと持ってきた。祐一は電話を出すと、着信とメールをチェックした。やはり雅之からメールが来ていた。今朝だ。すぐに開いて内容を確認する。

祐ちゃんゴメン。オレ寝込んでて。今からそっちへいくけん待ってて。

「雅之・・・ここに来ようとしていたんだ・・・なのに、なんで・・・」
祐一は掠れた声で言い、よろよろと椅子に座ると電話を持ったまま机につっぷした。肩が小刻みに震えていた。
葛西はその姿を見ながら、事故の情報が間違いであることを願った。
 

 女は事故現場から離れると、電話をかけはじめた。
「私です。例の少年が、今『炸裂』しました。おそらく・・・」
「そうか、やはり予定外に話が進んでしまったな」
「阻止できず、申し訳ありません。まさかあの人があんな・・・」
「気にするな。単に計画が早めに進むだけだ。『賽は投げられた』というわけだな。まあ、こんな地方で始まったのは想定外だが」
「申し訳ありません・・・」
「君が謝ることはない。すべては神の思し召しさ。さあ、早く帰ってきて状況を説明しておくれ」
「承知いたしました」
女は携帯電話を閉じ、軽くため息をついた。
「本当に、どうしてこんなことに・・・」
女はそういうと、遠くに見える事故現場の喧騒を思いながら顔を覆ったが、すぐに姿勢を正すと何かつぶやいた。女はその後しばらく歩き、ようやく見つけたタクシーに乗り込むと、JRL駅まで行った。N鉄道の事故で電車に乗れなくなった人々が流れてきてごった返した駅に向かい、人ごみの中に消えていった。 

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