4.拡散 (3)誰そ彼~たそがれ~
雅之は、夕方目を覚ました。彼は病院でまた高熱を出し、午後から寝込んでいたのである。
目を覚ますと熱のせいで喉がカラカラに渇いていた。枕元を見ると、保冷バッグに入ったペットボトルのスポーツ飲料とネズミーのマグカップが置いてあった。母の心遣いだった。ネズミーの絵柄に雅之はちょっと眉を寄せたが、のそのそと起き上がるとスポーツ飲料をカップに注いで半分ほど飲んだ。熱はだいぶ下がったようで気分もよくなっていた。半身を起こしたままカップを両手に、ぼうっと座っていると今日の昼間、病院でのことが思い返されてきた。
採血の時、看護士が雅之の右手の甲に貼っている大きな絆創膏に気が付いた。絆創膏の通気の孔からは少し傷口からの汁が漏れていた。
「あらら、どうしたの、これ? 絆創膏、お替えしましょうか?」
雅之はあせって右手を引っ込め首を振った。
「オレ、替えを持ってるんで後で自分で貼り替えますから」
「そう? 大丈夫? 左手が内出血してますから右手から採血しますけど、その右手、ギュって握れる?」
そう言われて雅之はしぶしぶ右手を出し、拳を握って見せた。「あ、大丈夫やね」看護士はそう言いながら浮き出た雅之の右手の血管を見て、首をかしげた。
「変やね。こっちの方が立派な血管をしてるのに、何でわざわざ左手に点滴をされたんやろうね?」
雅之は黙っていた。
結局採血の後に点滴までされて、終わったのは12時近かった。インフルエンザも調べたがマーカーに若干の色変化はあったものの結果はシロだった。
母親が清算をしている間、雅之はひとりで待合室の椅子に腰掛けていたのだが、その横に女性が座ってきた。まだ空いた席はいくつかあるのに、その女性がわざわざ雅之の隣に座ったので彼は少し気味悪さを覚えた。ベージュのスーツを着た彼女は長身でスタイルも良く、肩までのストレートな髪を髪留めで後ろにまとめており、薄いグレーのサングラスをかけマスクで顔を半分覆っていた。しかし、場所が病院だけに違和感はあまりない。サングラスからのぞく眼等からかなり知的な美しい顔立ちが想像出来た。
彼女は前を向いたまま小声で雅之に言った。
「山田医院に行きなさい」
雅之は(え?)と思い彼女の方を見た。しかし、彼女にこちらの方を見る様子はない。
「山田医院の大先生にすべて話すの。彼なら適切な処置をしてくれるはずよ」
そういうと彼女は立ち上がり、規則正しいハイヒールの音とともに病院を出て行った。
(あの人、あの事を知っている!?)
雅之は一瞬で血の気が引くのを覚えた。
(ど・・・どうしよう・・・)
膝が震え、冷や汗がどっと出てきた。雅之は椅子に座ったまま身体をくの字に曲げ両手で顔を覆った。
「まーちゃん、どうしたの!?」
精算から戻ってきた母が雅之の状態を見て驚いて駆け寄った。
「ごめん、また熱が出たみたい。早く家に帰りたい・・・」
実際熱よりも関節痛がひどく、長期間座っていることはかなり苦痛だった。
「わかったわ、早く帰りましょう。無理させてゴメンね」
雅之は母に支えられながら病院を出た。外は良い天気だったが、雅之はまともに目を開けていられなかった。相変わらず明るい方を見ると眼の奥が痛むからだ。やっとの思いで家に帰った雅之は、そのまま食事も摂らずに床に就いたのだった。
「あの人はいったい何者なんやろう」
雅之は、あの謎の女性のことが気になった。あの人は明らかに何かを知っている、と雅之は確信した。だからこそ自分に接触してきたのだ。だが、あの口ぶりから警察に通報するようなことはなさそうだった。彼女は山田医院に行けといった。しかし、山田医院の大先生に言ったところで、あのはげ頭のおじいちゃん先生に一体何が出来るというのだろう。反面、彼女に言われるまでもなく、もう一度大先生に診てもらいたいとも思っていた。そんなことを考えていると、母親の美千代が2階の雅之の部屋に様子を見に上がってきた。ドアをノックすると、雅之の返事もまたず部屋に入ってきた。
「あら、まーちゃん起きてたの? 気分はどう?」
美千代は雅之の具合が良さそうなのを見て嬉しそうに言った。
「うん、だいぶ良いみたいだよ」
「良かったわねえ。無理して松田先生に診てもらったおかげだわ」
ニコニコしてそう言う母に、雅之はもう一度山田医院に行きたいとは言えなくなってしまった。
「晩ご飯、食べれそう?」
「うん、おなかも空いてきたし、きっと明日は学校に行けるよ」
そういう雅之に美千代は釘を刺した。
「無理しないでちょうだい。40度も熱があったのよ。調子がよくなっても明日まで休んだ方がいいわ」
「でも、いい加減行かないと授業についていけなくなってしまうよ」
「1日ふつかでおちこぼれるようなことはないわよ。明日の様子を見て考えましょ。今夜はまーちゃんのために美味しい夕食を作るわね。さあさ、もうお布団に入って」
美千代は雅之を寝かせて布団をかけ直すと、鼻歌交じりで部屋を出て行った。
母親が行ってしまうとまた部屋が静かになった。夕暮れ独特の近所のざわめきが聞こえる。遠くで小学校の下校時間を告げる『家路』のメロディとアナウンスも聞こえてきた。平和な日常の一コマである。
雅之は布団から左腕を出すと、袖をまくってみた。左手は肘の方まで青黒くなっていたが、徐々に色が薄くなっているように思われた。ほっとして、今度は右手の袖をそっとめくってみた。その採血/点滴跡を確認した雅之は、再び愕然とした。右手の注射跡まで内出血していたのだ。雅之はさっと右手の袖を下ろした。
「あの看護婦さんも採血が下手やったっちゃん・・・、きっとそうやろ」
雅之はつぶやいた。気が付くと部屋の中が赤く色づいている。
『アカイ・・・』
雅之は男の言った言葉を思い出し、飛び起きて窓を開け外を見た。空には夕焼け雲が広がり、夕日が街を美しく朱に染めていた。
「夕焼けか・・・」
雅之は安堵し、その美しい景色をしばらく眺めていた。
会社側からの話が終わり、会議室からぞろぞろと社員が出てきた。みな興奮した状態で口々になにかしゃべっていた。早く帰ろうとすたすた廊下を歩く由利子の後を、黒岩るい子が追ってきた。黒岩は由利子に追いつくと彼女の肩を叩いて言った。
「やっぱり、リストラの話やったね」
「そうですね。だけど、それでなくても不景気な今、ここを辞めて今更仕事が見つかると思いますか? 腹ん立つ! さっさと帰りましょ!」
「そうやね。特に私なんか50前のおばさんやし・・・」
黒岩は心底困った様子だった。
「まだ肩を叩かれたわけじゃないでしょ。今のところ退職希望者を募っただけだし。退職金に釣られて自分から辞めるといった方が負けです」
由利子は黒岩へというより自分を励ますように言った。
会社を出た後、帰り道の違う黒岩と別れた。バス停に向かってしばらく歩くと、由利子ははたと思い出し携帯電話を取り出した。少し躊躇したが、さっきかかってきた番号に電話した。数回呼び出し音が鳴り、すぐにさっきの刑事が出た。
「はい、K署の葛西です」
「もしもし? あの、私さっきお電話をいただいた・・・」
「あ~、篠原・・・えっと由利子さん、ですね」
「はい。さっき忙しかったのでかけ直すって言って切っちゃったんで・・・」
「ご多忙のところ、本当に申し訳ありません。実は、篠原さんが情報を下さったホームレス殺害事件で自首してきた少年がおりまして、出来ましたら篠原さんが見た少年かどうかご確認して頂ければと・・・」
「自首して来たんならそれでいいじゃありませんか」
リストラの件であまり機嫌の良くない由利子の口調は、ついつっけんどんになってしまう。
「あのぉ・・・、それが、どうも様子がおかしいのです。未成年と言うこともありますし、念のために篠原さんに確認していただこうと思いまして」
電話の向こうの彼の声が、少し及び腰になっている。
「私は実際に犯行現場を見たわけじゃないので、顔が確認出来たとしてもその人が犯人という証拠にはならないでしょう?」
「もちろんそうです。でも、捜査の手がかりになるかもしれません」
「メールで写真を送って下されば、確認しますよ」
「いや、それは出来ません。特に最近は簡単に掲示板に容疑者の写真がアップされたりしますから・・・。あ、いえ、篠原さんがそういうことをするかもしれないと言っているのではありませんけど」
「わかりましたけど、じゃ、どうすればいいですか?」
「え~っと、では、今からお会いできますか?」
「いえ、今日は不愉快なことがありましたので、もう帰ってフテ寝します」
「え?え?・・・・・」電話の向こうで訳がわからず焦っている声がした。
「すみません、お会いできないかなんてぶしつけなことを・・・。変な意味じゃなかったんですが・・・」
「あ、いえいえ、そうじゃないですよ。うちの会社のことです」
「そうですか、よかった。う~ん、では明日の朝、K署まで来ていただけますか?」
「明日の朝ですかぁ? ・・・わかりました。8時半から9時くらいでいいですか?」
「わかりました。K署に来られたら受付であなたと私の名前、それから用件をお伝えください。すぐにお迎えにあがります」
「えっと、お名前はカサイ・・・さん、でしたね」
「はい、刑事一課の葛西純平と申します」
「わかりました。では明日お伺いいたします。失礼します」
「お忙しいところを本当に申し訳ありません。では明日、よろしくお願いいたします」
電話は終わった。携帯電話を閉じ由利子はまたバス停に向かって歩き出した。(なかなか腰の低い警官やねえ)と由利子は思った。(昔営業マンでもやってたのかな)想像したらちょっと可笑しくて、少し和んだ。(カサイジュンペイだって。少年漫画のキャラみたいな名前。きっと子どもの頃はジュンちゃんって呼ばれてたよね) 由利子は名前から彼の姿を想像してみた。中肉中背・・・いや、中背よりちょっと小さめで、童顔、髪型は・・・ちょっと長めのパサ髪だったりして。
そんなことを思って歩いていると、いつの間にかバス停にたどりついていた。幸運にもバスはすぐに来た。
ギルフォードは、勝山と今後の対応について話し合った後、大学まで急いで戻った。自分の研究室まで戻ると秘書の鷹峰紗弥がロイヤルミルクティーを入れて待っていた。学生達も数人が残ってまだ部屋で雑談に興じている。
「おや、みんな残ってたのですか? 遅くなるから帰って良いと言っていたのに」
部屋の時計は夜7時を過ぎていた。紗弥はギルフォードを見ると紅茶の入ったお盆を差し出し、にっこり笑って言った。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
のっけからのとんでもない応対に、ギルフォードは若干困った顔をして言った。
「何ですかサヤさん、そのゴシュジンサマっていうのは?」
「殿方はこういう風に出迎えられると喜ぶとお聞きしましたので」
周囲から学生達のクスクス笑いが聞こえる。
「あのね、私はそういう女性蔑視みたいのは嫌いですよ。ところで、私が帰ったのがよくわかりましたね」
「教授のバイクの音を覚えてますので」
「犬みたいですね、まったく」教授は肩をすくめて言ったが、紗弥はそれを無視して尋ねた。
「ところでかなり急いでお帰りになってましたが、何か大変な事でもありましたか?」
「う~~~ん・・・、コトによると・・・ですが。とりあえずちょっとコッチ来て!」
ギルフォードは、紅茶を乗せたお盆を持ったままの紗弥を教授室に引っ張り込んだ。学生達はその様子を見てざわついた。
「なん? なん? 教授が秘書の紗弥さんを部屋に連れ込んだ?」
「その事実だけだとかなりいかがわしいけど、ギル教授に関してはそれはないって」
「それにしては、珍しく緊張した表情をしていたけど、7年に一度の発情期が来たとか」
「バルカン人のポンファーか!」
「貴様ら、トレッキーだったのかよ!」
「まあ、紗弥さんにもニューハーフ疑惑があるから」
「ええ~、あたしそれ初耳ぃ! でも細くて背高いし、ありえないこともないよねえ」
学生達が勝手に想像を膨らませているのを知ってか知らずか、ギルフォードは、部屋に入ると自分の席に着き、紗弥からミルクティーを受け取ると二口ほど飲んだ。それでとりあえず人心地がついたようだが、一息入れるといきなり英語で話し始めた。
”今日の司法解剖の遺体だが,ひょっとしたら死因は出血熱だったのかもしれねぇんだ”
「まさか・・・」
紗弥は信じられないというように、半分笑い顔で言った。しかし、ギルフォードは真面目な顔で続けた。
"だから俺が呼ばれたらしい.今,カツヤマ先生が遺体からサンプルを採って国立感染症研究所に送る準備をしている ”
”そんな物騒な病気が何故この日本に? ”
ギルフォードにあわせて、紗弥も英語に切り替える。
”昔ならともかく,今の交通事情なら危険なウイルスも24時間で世界中にデリバリーOKさ.何年か前に,サーズに罹った台湾人の医者が日本国内をあちこち観光でうろついていたことは覚えているだろう?”
”ええ,幸いにも日本で彼から感染した人はいなかったと思います”
”まったく、ラッキーだったよ.おかげで中国人しか発症しないなんてデマ流すヤツも出てきたけどね.イタリア人の医師だって死んでるっつーの.それ以前には,アフリカ帰りのビジネスマンがラッサ熱に罹っていたこともある.この時も幸い他に感染者は出なかったが”
”では,今回も旅行者が持ち帰った可能性が?”
”それが良くわからねぇのさ.何せ,感染者と思われるのは今のところホームレスだけなんだからな”
”確かに海外旅行とは縁がなさそうですね”
”可能性としては,タイガー・モスキートのような外来害虫が考えられる.だが,F市の国際空港近辺ならともかく,現場はK市のA公園なんだよな”
ギルフォードはもうひとくちミルクティーを飲んで続けた。
”困ったことにこれがもし,レヴェル4の病原体だった場合この国では手に負えなくなる”
”まあ,どうしてです? まさか,BL-4の研究室がない・・・とか?”
”あるさ,国立感染症研究所と筑波の理研科学研究所にね.近隣住人の猛反対にあって現在はレベル3でしか運用出来ていねぇんだよ”
”反対する気持ちはわかりますけどね”
”原発は平気で何基も稼動させているくせにな.漏れ出した時の脅威としては,放射能も病原体もあまり変らないだろうと俺は思うけどね.旧ソ連に於いてのスヴェルドロフクス(炭疽菌漏れ)事故と、チェルノブイリ(原発)事故を比べてみればいい.むしろ爆発しないだけまだマシさ”
”でも,まだ出血熱かどうかわからないのですよね”
”そう.だから正体どころか,あるかどうかわからない病原体の為に,大騒ぎするわけにはいかねえだろ.で,こっちも動きようが無いわけだ.だが,もしレヴェル4のウイルスが市内に潜在してるのが事実なら,大変なことになる”
そういうと、残りのミルクティーを飲み干し、こんどは日本語で言った。
「と言うわけです。人に言っちゃダメですよ。あ~、バイクをすっ飛ばして帰ってきたんで疲れました。ミルクティー美味しかったです、ありがとう」
そう言うと、ギルフォードは椅子にもたれかかった。飲んだ後のカップを片付けながら紗弥が言った。
「教授は英語と日本語では話し方のギャップがすごいですわね」
紗弥が、カップを下げるためにギルフォードの部屋を出ようとすると、「やば!」という声がしてドアの傍にいた学生たちが、わらわらと逃げていった。紗弥は右手にお盆を持ち左手を腰に当て、彼らを見ながら微笑みを浮かべながら言った。
「ところで、わたしがニューハーフって、いったいどなたが噂しているのかしら?」
「私もまだ42歳にはなってませんけどね」
紗弥の後ろから、教授も一声かける。
(地獄耳)
(地獄耳)
(地獄耳)
学生たちは冷や汗をかきながらお互い顔を見合わせた。
紗弥が給湯室に去り、教授が部屋に篭ったのを確認すると、学生達はまたひそひそ話し始めた。
「みんな、先生たちなんて話してたかわかった?」
「英語だったやん、わかんねぇよ、オレ。お前英語しゃべれんじゃん、聞き取れたやろうもん」
「早口すぎて、ドア越しじゃあ聞き取れないわよ、あんなの。スラングだらけだし」
「俺らが聞き耳立ててるのを知ってて、英語で話したのかな」
「どうかな、単に英語の方がしゃべりやすいってこともあるかもよ」
と、突然、ギルフォードが部屋から出てきて言った。
「君たち、用がないならいい加減に帰りなさい。8時になってしまいますよ」
「はぁい」
学生達は、しぶしぶ帰る準備を始めた。
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