4.拡散 (1)迫り来る悪夢
20XX年6月3日(月)
珠江はいつものように朝6時に目を覚ました。しかし、ひどい頭痛がする上に身体が鉛のように重く感じ起きることが出来なかった。
昨夜、だるさを感じて用心して早めに床についたのだが、夜が明けるとさらにそれは悪化していた。
(また、インフルエンザにでも罹ったんやろか?)珠江は思ったが、あの時よりももっとタチの悪い状態にあることをうっすら感じていた。
(とりあえず、しばらくこのまま休んどこ。日が昇ったら少しは気分がよくなるやろ)
珠江はそう思うと再び目を閉じた。
雅之が目を覚ますと、夜がうっすらと明けていた。昨夜は眠ったのかどうか判らないような夢うつつの状態だったと思っていたが、それなりに眠っていたらしい。
ベッドから部屋を見回すと、窓の方に人影が立っていた。
「父さん?」
雅之が呼ぶと人影が振り向いた。しかし、逆光で顔がよく見えない。その人影は静かに近づいて来た。近寄ると共に顔がだんだん判ってきた。雅之は恐怖に息を呑んだ。あの殺したはずの公園の男だったからだ。彼は雅之に近づくと両の手を伸ばし、雅之の首をつかんだ。男の両親指が首に食い込んで息が止った。目と鼻の奥に圧力を感じ目が飛び出しそうな感覚が襲う。雅之は口をぱくぱくとさせ空気を取りこもうとし、さらに手足をじたばたとさせて必死で抵抗した。
「雅之! 雅之!」
雅之は自分を呼ぶ声に目を覚ました。父親が心配そうに雅之の肩をつかんで揺さぶっていた。
「父さん・・・」
「どうした、怖い夢でも見たとか? ずいぶんとうなされとったけど」
「うん・・・、怖かった・・・」
「熱のせいかも知れんねえ。測ってごらん」
そういいながら、電子体温計のスイッチをいれた。
「もうちょっと待て。よし、いいぞ」
雅之は受け取り脇の下に挟んだ。
「昨日の晩もうなされとったし、熱も高かったので解熱剤飲ませたんやけど、覚えとるか?」
信之は息子に尋ねた。
「ううん・・・。夢を見たこともよく覚えてない」
「そうか」
父は少しガッカリしたように言った。
「でも、父さんと母さんが代わり交替でオレの様子を見に来たのは知っとぉけんね」
雅之は父親を見上げながら言った。信之はテレくさそうにわらったが、そこでピピッと体温計の信号音が聞こえた。
「はい、見せてごらん」
雅之は体温計を受け取った。
「37度5分か・・・、だいぶ下がったな。薬が効いたのかもしれんね。でも、夜になるとまた高熱がでるかも知れんから、油断したらいかんぞ」
「うん」
「なあに、大丈夫。薬を飲んでゆっくり休んで栄養をつけたら、すぐに治るよ」
そういうと、信之は息子の頭を撫でた。
「お父さんは今から会社に行って、今日は大阪の方に戻らんといかんのやけど、何かあったらすぐに帰ってくるけん、心配すんな、な?」
「うん・・・」
「今日はゆっくり休めな。お母さんの言うことを良く聞くんだぞ」
「うん」
「じゃあ、もう出んといかんから」
信之は、そう言いながら雅之の頭をぽんぽんと軽く叩き、雅之を後にした。
「父さん」
雅之は、父を呼び止めた。信之は振り返った。
「良くなったら絶対に旅行行こう」
父は笑ってうなづいた。
「でも、温泉よりUSJがいい」
雅之も笑いながら言った。
「わかった、USJな」信之はそういうと親指を立てて了解のポーズをし、そのまままた雅之に背を向けた。
「いってらっしゃい」父の背中を見ながら雅之が見送りの声をかけた。父は戸口で振り返って軽く手を振って出て行った。階段を下りる音がだんだん小さくなって、それから玄関の方から「行ってくるぞ」という声がして、ドアが閉まる音がした。父の出勤を確認すると、雅之はいきなり心細くなって布団にもぐりこんで丸くなった。
朝8時頃、祐一はK駅の改札口で雅之を待っていた。しかし、約束の時間が来ても雅之は現れなかった。メールの返事も来てなかったので、祐一は不安だったがそれでも一縷の望みを持って待っていた。そこへ、クラスメートの田村勝太が声をかけてきた。彼は例のコンコースで雅之と一緒にいた連中の一人だ。背はまだあまり高くなく、メガネをかけていたが、今日はその上にマスクまでつけていた。
「おはよう、西原君。こんなとこで何立っとぉと?」
祐一はその声に反射的に振り向いたが、田村の顔を確認してがっかりして言った。
「なんだ、田村か」
「あのな、『なんだ』って挨拶はねぇやろ」
「悪い悪い。・・・どうしたん、マスクなんかして? 花粉症にしては時期が遅いっちゃないや?」
「猫アレルギーやと思う。おととい弟が猫を拾ってきてそれからやけん。それよか、早くせんと遅刻するぜ」
「雅之を待っとったい」
祐一はうざったそうに答えた。
「雅之? そういえばあいつ、今日電車に乗ってなかったなあ」そういうと、田村は少し躊躇したように間を置きながら、祐一に言った。
「あのさ、西原君、変なこと聞くけどさ、あいつ・・・、ひょっとして、あのホームレス殺しに関わってとるんやないかって・・・」
祐一はギクリとしたが、平常を装って尋ね返した。
「どういうことや?」
「あいつ、いつもオレ等とつるんでいたけど、日ごろ大口叩くくせに、いざとなると後ろの方で見てるだけで加わろうとせんやったけん、ついみんなでからかってしまって」
「からかった?」
「臆病モンやなかったら、一人で狩ってみろって、みんなで囃し立てて・・・」
「きさん(貴様)ら、雅之にそげなこと言うたとか!!」
祐一は田村の襟首をつかんで乱暴に引き寄せながら怒鳴った。身長170センチを優に超える祐一に襟首をつかまれた田村は、宙吊り状態になってしまった。ずり落ちたメガネがカラカラと音を立てて床に落ちた。それを見た年配の駅員がびっくりして飛んできた。
「こらこらこら、あんたらこんなとこで何ばしよっとね!」
その声に我に返った祐一は、田村から手を離した。田村は祐一から解放されるとメガネを拾って一目散に逃げていった。
「けんかやらしとらんで、早う学校に行かんね」
駅員は祐一に向かって言った。
「すみません」
そういうと祐一は歩き出した。
「雅之・・・、あのバカ!」 ため息とともに祐一の口からうめくような声がした。「しょうもないことで挑発されやがって・・・」
こんなことなら、あの時ぶん殴ってでも雅之を止めるべきだった・・・。祐一は後悔したが今更どうしようもなかった。
階段を下りながら、祐一はふと良夫の事が気になって電話をかけてみた。金曜のあの事件の後、ショックで寝込んでしまったようだが、具合はどうだろう・・・。
「はい、佐々木でございます」と電話に出たのは良夫の母親だった。
「おはようございます、西原ですけど・・・」
「あら、西原君ね、おはよう。良夫ね、まだ具合が良くなくて今日までお休みしますって、いま学校に電話したところなんやけど・・・」
「そうですか・・・」
「熱は下がったっちゃけどね、今日まで休みたいって言うから・・・。あの子ったら、いったいどうしたんやろねえ」
「すみません・・・」
「なんね、西原君が謝ることないやろ」佐々木の母は笑いながら言った。
「はは・・・、そうですよね。じゃ、佐々木君にお大事にとお伝えください」
そういうと祐一は電話を切った。祐一の足は駅からバスセンターに向かっていた。バスセンターの向こうには、交番があった。一見上等な公衆トイレと見まごうような建物だが、パトカーが止まっているので交番だとわかる。祐一は少しの間躊躇したが、意を決したように交番に向かって歩き始めた。
雅之は母と一緒に総合病院の待合室にいた。
朝、美千代が朝食のおかゆを持ってきた時、左腕の内出血に気がついたのだ。雅之は、点滴の漏れた跡だと説明したが、美千代は「点滴の跡って、真っ黒じゃないの! あんな町医者に診せたのがいけなかったんだわ! お母さんの知り合いにいい先生が居るから、そこでもう一度診てもらいましょう」と言って、「山田医院に行きたい」という雅之を強引に連れてきたのだった。
「秋山雅之さま~、第1診察室にお入りください~」
雅之の番を告げる声がしたので彼は立ち上がった。美千代も立ち上がって付いて来ようとしたので、雅之はひとりで大丈夫だからと断った。
「秋山・・・え~っと、雅之君だったね」
まだ若い医者は、カルテを見ながら馴れ馴れしく言った。胸の名札には「松田孝昭」と書いてあった。松田医師は、雅之に病気の経過と昨日の山田医院での診察について質問をした。
「まあ、高熱が出るのは感染症だけじゃないし、念のため血液検査しようか。熱が下がらないし、食欲もないようだから採血の後、そのまま点滴もしとこうね」
雅之はうなづいた。
「それじゃ、用意が出来たら呼びますから、待合室で待っていてね」
雅之は立ち上がって会釈をすると、戸口に向かった。戸を開けると母がそこで待っていた。美千代は満面の笑みで松田医師に挨拶をして、戸を締めた。
さて、こちらは由利子の会社である。
昼休みにまた黒岩が由利子のところに来ていた。今回は弁当付である。黒岩は自前だが、由利子は駅前の弁当屋で買った出来合いである。ブログ更新で昨夜夜更かしをしてしまい、少し寝坊をしたからだ。
「黒岩さん、すごいですねえ。毎日お弁当作って来られて」
「本当は早起き苦手なんやけど、娘がおるけんねえ。それに二人分なら、やっぱ作ったほうが安上がりやし。今日は違うけど、篠原さんも良くお弁当作ってくるよね。会社から遠いのに感心やね。」
「既成のお弁当って揚げ物が多いし飽きるでしょ。だけど、作るったってほとんど昨夜の残り物とか冷凍食品とかだから、あまり感心できる内容ではないし」
「それはアタシも同じことよ。毎日の弁当にそんな凝れませんって」黒岩は豪快に笑った。
「あ、そうそう・・・」由利子は弁当箱の蓋をしながら言った。「昨夜メールした件、おじょうさんに聞いてくれました? 確か、おじょうさんK学園の中等部でしたよね」
「ああ、娘の学校に女子に人気のジョニタレ系男子生徒がいるとか知らないかってアレね」
「そうそう、そうです」
由利子は、あれだけ目立つ少年ならけっこう女子生徒に人気があるのではないかと思ったのだ。
「うん、聞いてみたら、何でそんなこと聞くと?とか言いながらも教えてくれたよ。確か、3年にナントカっていうカッコイイ先輩が居るって言ってたなあ。え~っと、なんて名前やったけ?・・・そうそう、秋山先輩とか言ってたかな」
「秋山君ですか。」
「うん、たしかホークスの元選手と同じ名前やねって思うたけん。・・・で、なんでそんなこと聞くと?」
心の中で親子だなあと思いつつ、金曜のことを簡単に説明した。
「やだ、そげんと? もしその子がほんとに犯人だっても、娘から名前聞いたやら言わんどってよ」
「もちろんですよ。それに警察からなんか言ってこない限り、もうこちらからは連絡しませんから」
由利子はしっかりと約束した。
「頼むよ。ウチ、母子家庭やけんあまり変な事件に巻き込まれたくなかけんね」
「え?」初めて聞いたその事実に由利子は少し驚いた。
「は~い、もう1時過ぎてるよ~~~、持ち場に就こうね」
いつの間にか古賀が部屋に帰ってきていた。
「は~~~い、すんませ~~~ん!」黒岩はあわてて出て行った。妙な既視感を感じながら、由利子は黒岩の後を追って廊下に走った。
「変なこと聞いてすみません。ありがとう」
「いいよ、気にせんどき」といった後に「そうそう」と黒岩が思い出したように言った。「言いたいことがあったんだ」
何故か小声だった。
「総務のコから聞いたんだけど、近いうちに社員になにか大事な話があるそうやって」
黒岩は由利子に耳打ちをして言った。
「なんか嫌な感じがするけん、取り合えず伝えとくよ」
「わかりました」由利子は答えた。黒岩は、どたどた走って自分の持ち場に帰って行った。2課はまたいきなり静かになった。
珠江は、猛烈な腹痛を感じて目を覚ました。部屋の中が妙に赤い。これは夕暮れまで寝てしまったと、あせって身体を起こした。しかし、熱が下がっておらず激しいめまいがして、またすぐにベッドに倒れこんだ。のどが腫れて、唾を飲みこむのも辛くなっていた。また、全身の関節が疼き眼の奥もガンガンしていた。しかし、激しい腹痛を我慢できずにまたよろよろと起き上がって、トイレに向かった。節々が痛い上に高熱でフラフラして足元がおぼつかない。壁や近い将来要るだろうと介護用に取り付けた手すりを伝ってようやくトイレにたどり着いて用を足した。その後立ち上がって便器を見た珠江は息をのんだ。血便で便器がどす黒く染まっていたのだ。
「な・・・なんこれ?」
珠江は驚いてとにかく医者に行かねばとトイレから転がり出た。するとこんどは激しい吐き気が襲ってきた。珠江は洗面台にしがみついて嘔吐した。吐物は不吉な黒い色をしていた。
「なんが起こっとおと?」珠江は混乱して洗面台をつかむ自分の両手を見てぎょっとした。両手のあちこちにどす黒い染みが出来ている。おそるおそる顔を上げて洗面台の鏡を見て悲鳴を上げた。頬はげっそりとこけ、土色になった顔や首のあちこちにも黒い染みが広がっていた。そして、目は白目が真っ赤に充血し、血の涙を流していた。
「き、救急車・・・」
珠江はよろよろ電話を取りに行った。彼女は習慣として、家に居る時は携帯電話をキッチンのテーブルに置いていた。下手にポケットなどに入れて持ち歩くと、トイレや風呂場などの水場に落としてしまうからだ。実際一度トイレに落として大変なことになったのだ。珠江はよろけながらキッチンまでたどり着いて、テーブルに寄りかかった。手を伸ばし携帯電話を手に取ろうとしたが、目測を誤って手で携帯電話を弾き飛ばしてしまった。電話は無情にも転がり、床に落ちた。
「あっ!」
珠江は予想外のことに驚いて、テーブルに寄りかかったまま一瞬呆然となった。しかし、とにかく電話をかけて救急車を呼ばなければ、この先どうなるかわからない。珠江は椅子を伝って移動し、そのまま床にうつぶせて、這うように電話に近づいていった。手を伸ばしきって、ようやく電話を手にすることが出来た珠江は、電話を開き119を押そうとした。その時珠江を激しい痙攣が襲った。声にならない声を上げながら珠江の身体は痙攣を続けた。珠江の身体の触れているテーブルと椅子が連動してガタガタと揺れ、テーブル上のものがいくつか落下した。落ちたしょうゆ差しが割れ、中身がこぼれてしょうゆの臭いがあたりに立ち込めた。
数分後、痙攣が止まった。
珠江は2度と動くことはなかった。大きく見開いた赤い目は、生きた光を失いながら虚空をにらんでおり、両手は空をつかむように突き出し、指が気味悪くわしづかみの状態で曲がっていた。口からは黒い液体が流れ、顔の下に黒い溜まりを作り、寝巻きの襟や肩のあたりまでどす黒く染めていた。珠江の死は発症から1日とかからなかった。これは、後に劇症化と恐れられる症状であった。
時計は午後1時半を指していた。
「おい、ジュンペイ。あの少年の言っとおことについてどげん思う?」
「あの、西原って子ですか? 多美さん」ジュンペイと呼ばれた30歳くらいの若い男は答えた。「僕には誰か庇ってるように思えます」
ここはK警察署内、今朝自首してきたホームレス殺しの犯人について二人の刑事が話していた。多美と呼ばれた50がらみの男がうんうんとうなづきながら言った。
「お前もそう思うか?」そういいながら、手帳を取り出して続けた。「昨日、善意ある市民から犯人かもしれない少年を見たってタレコミ、いや、情報提供があったとばってんが、それがあの西原少年の言った時刻に近かったい」
「はあ」
「でな、おまえ、その彼女に連絡ばしてみんね?」
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