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3.潜伏 (6)山田医院

 小柄な雅之は父親に抱かれたまま、診察室に通された。どうやら医院に出てきたのは大(おお)先生だけのようだった。
「すまんねえ、今日は休みだから看護婦はおらんとよ」
と、大先生は椅子に座りながら冗談っぽく言った。さらに、
「残念やねえ。うちの看護婦は美人ばっかりなんやけど。」
と付け加えると、ふぉっふぉっと笑った。大柄で太り気味で、頭はほとんど禿げ上がってしまっているが、その分白い口ひげを蓄えている。一見怖そうだが細い金縁メガネの奥の目は優しそうだった。
「雅之君はキツそうやね。診察台に寝かせてやんなさい」
信之は、言われるままに息子を診察台に寝かせた。
「熱を測ってみようかね。かなり高熱みたいだねえ」大先生は体温計を信之に渡しながら言った。
「あ、脇の下じゃ汗で正確な体温が測れんかもしれんから、口にくわえてな。大丈夫、ちゃんと消毒はしてあるから」
雅之は父から体温計を受け取ると素直に口にくわえた。それは昔からある水銀を使ったものだった。
「信之君、そんなところに立っとらんでこの椅子に座りんしゃい」
大先生は信之に診察用の椅子に座るように勧めた。信之が座ると大先生が質問をした。
「いつからこうなったとね?」
「あの、実は・・・今日の夕方僕が家に帰ったら、雅之が倒れてまして・・・」と、信之は言いにくそうに答えた。
「倒れていた?」大先生が驚いて信之の顔を覗き込む。
「はい、お恥ずかしい話ですが。ですから、わたしには何が何だかさっぱり・・・」
「そういえば、君は今大阪に単身赴任しとるんやったな」
「はあ。そしてたまたま今日、妻も午後から出かけていて、その間に具合が悪くなったらしいとです」
信之はばつの悪そうに言った。
「まあ、急に発熱することは珍しくなかけんね・・・おっと、3分過ぎた」
大先生は立ち上がり、雅之から体温計を受け取ると驚いて言った。
「39度2分! こりゃあ、なんらかの感染症やね、熱が高すぎる。どこか化膿しとらんね?」
雅之は首を振りながら、そうっと右手を隠した。
「最近、何か生き物に触れたとか引っ掻かれたとか、海外旅行に行ったとか、山でダニに刺されたとか心当たりはないね?」
「ないです。動物あんまり好きじゃないし、山とか嫌いだし、旅行も今学校で行けないし」
雅之は答えた。
「ちょっと診察するけど、起き上がれるかね?」
大先生が言うと、雅之はうなづいて身体を起こそうとした。信之が背中を支える。
「あ、降りんでよかよか。そのまま診察台に腰掛けて」
大先生は、雅之の方にガラガラと椅子ごと移動した。
「喉の様子を見よう。お口開けて・・・。う~~~ん、妙に赤くなっとるねえ。はい、もうよかよ」
そういうと、大先生はそのまま雅之の首の方を触って診た。
「おや?リンパ腺が腫れかかっとるね・・・」
大先生は少し首をかしげると、聴診器を当てて胸の様子を診、
「雑音もしないし、今のところ特に異常はないようだね」と言ったあと改めて問診を始めた。
「熱はいつ頃から出始めたね?」
「あの・・・、お昼過ぎて、3時頃から気分が悪くなって・・・腰や手足の関節が痛くなって、頭も痛くて、それからすごい吐き気がして・・・」
「熱が高いからねえ。その前に何か思い当たるようなことや症状はなかったね?」
「ないです」
そう答えたが、もちろん雅之には心当たりがあった。しかし、それを言うには犯罪を告白するのに等しかったし、それ以上にあの男の死に様を思い出し、自分もそうなるのではないかと思うと、二重の意味で怖かった。
「うーん、ひょっとしたらインフルエンザかも知れんけどね、ちょっと今キットの在庫を切らしとおとよ。今日は日曜で設備も充分に動いてないからね、明日になっても容態がかんばしくなかったら、必ず来なさい。今日は脱水症状を起こしとるようやから、とにかく点滴をしようね。解熱剤と吐き気止めも入れとこう。かなり楽になると思うよ。あと、飲み薬でも解熱剤を出しておくから、熱が下がらないようなら飲ませて。ひょっとしたら40度越すかもしれん。熱があるほうが病原体にとっては厳しい環境なんやけど、40℃を越えると人体にも厳しい状態になるけんね」
大先生がそう言ったとき、ドアが開いて彼の息子である院長の山田昭雄が入って来た。まだ若い。今帰ったばかりらしくまだカバンを持っていた。
「お父さん、また勝手に病院を開けて! 僕のいない間に勝手をするなって言っているでしょ!」
「おや昭雄、帰って来たんか。急患がうちを頼って来たんやから、診るのは当たり前やろ。それより、診察室に入るなら、着替えてきちっと手を洗って白衣を着て来なさい」
「わかったわかった、後は僕がするから。すぐに着替えてくる」
逆に怒られてしまった昭雄は、そういうと診察室から出て行った。
「まったく、あいつは基本がなっとらん。あたらしい機材や技術ばっかりに気をとられて、大事なことを忘れとる」
大先生は腕を組み、口をへの字にしながら言った。

 雅之は左手に点滴を受けながら、ぼうっと病院の天井を見つめていた。
 その数分前のこと、院長自らが点滴の注射針を刺したのだが、「あれ?・・・変だな・・・」と独り言を言いながら手間取った挙句、うっかり自分の指を刺しかかり、大先生からまたダメ出しを食らっていた。
「看護士ばかりに任せとるけん、腕が落ちっとたい。非常事態に備えて何でも1人で出来るように日ごろから訓練ばしとかんといかん!」
院長は、秋山親子に肩をすくめながら言った。
「親父は僕にここを任せて、あちこちの国に医療協力で出かけてますからね、こういうことには厳しいんですよ。僕なんていつまでもヒヨッコで・・・」

 傍らに座った父親は、暇つぶしに医院においてあった週刊誌を読んでいる。雅之もだんだん退屈になってきて、信之の読んでいる週刊誌の表紙を見るとはなしに見た。今話題の女優がにこやかに笑っている表紙には、殺人現場のレポートやUFO目撃談、中央アフリカでの疫病感染爆発の写真つきレポートから政治家のスキャンダルまで、いかにも人目を引きそうなセンセーショナルな見出しが躍っていた。と、いきなり静かな診察室に『笑点』のテーマが鳴り響いた。信之の携帯電話着信メロディだった。
「うわぁ、しまった! 病院にいるのに電源を切ってなかったよ! いかんねえ・・・」
信之はあせって電話を背広のポケットから取り出したが、曲はすぐに途切れた。メールだったらしい。
「父さん、その着メロ変だよ」
雅之はクスクス笑いながら言った。
「ようやく笑ったなあ、雅之。少しは気分の良うなったごとあるねえ」信之は、そう言いながらメールを確認する。
「お母さんからや。おまえの容態を気にしとぉよ。ちょっと電話で報告して来るけん、外に出てくる。すぐに戻ってくるけんね」
信之はそう言うと、小走りで診察室から出て行った。
 信之が電話を終え帰って来た頃には、ほとんど雅之の点滴は終わっていた。
「母さんは何て?」雅之はすぐに尋ねた。
「点滴したら、だいぶ落ち着いたようだって伝えたら安心しとった。気づかないでごめんね、って謝っとったよ」
父親がそう言い終わった時、院長が入ってきた。
「ああ、点滴終わったね。針を抜くから、もうちょっと我慢してて」
そういうと、雅之の左腕をとり、針を抜きその跡に絆創膏を貼った。
「あれ? ちょっと内出血してしまったね。ごめんね」
「大丈夫です。オレ血管が細いけん、よくこういうことがあっとです」
「気分はどう?」
「だいぶいいです」
「そう、よかったね」昭雄は雅之にそういうと、信之に向かって言った。
「熱が高いですから、食欲はないと思うし無理して食べても内臓が受け付けないでしょうから、雅之君が食べたがらない時は無理強いしないで、今は安静に寝かせておいてあげてください。脱水症状に気をつけて、時折スポーツ飲料を飲ませて。半分番茶で割ったものがいいですよ。念のため、10分ほどそのままそこで安静にしておいてください。その後、お薬を出しますから、待合室で待っていてください。」

 10分後、雅之は父親に支えられながら自分で歩いて待合室に向かい、椅子に座っていた。受付の窓口では、信之が清算をしている。
「吐き気止めと解熱剤、いずれも雅之君の様子を見て飲ませてください。続けて飲ませるときは間を必ず6時間空けてください。抗生剤はウイルスには効かないので様子をみましょう。症状が改善しない時はまた明日来てください。万一症状が急変した場合、すぐに病院に運んで」
「わかりました。どうもありがとうございます」
「では、お大事に」
信之は軽く会釈すると、雅之の方に向かって言った。
「ちょっとおまえの履きもんを持って来るけん、待っときなさい」
信之はすぐに戻ってきた。院長は病院の玄関先まで見送りに来て言った。
「雅之君、さっきの点滴のとこ見せて」
雅之は左手を昭雄の前に伸ばしたが、右手はしっかりとポケット中に入れていた。昭雄は雅之の無礼をとがめることもなく彼の腕に目をやった。雅之の注射跡の周りはすでに青く染まっていた。
「やっぱり、血管からちょっと血が漏れちゃったかな、ゴメンね」
院長が言うと信之は恐縮して言った。
「そんな・・・、こちらの方こそ、時間外に押しかけて申し訳なかったです。診て頂いて本当にありがとうございます」
信之は深々と頭を下げた。
「いやいや、礼なら親父に言ってください。僕はいなかったし、居てもきっと断ったでしょうから」
院長は頭を掻きながら言った。 
「じゃ、雅之君、お大事にね」
秋山親子は、再びお辞儀をすると病院を出て行った。遠ざかる車のテールランプを見ながら昭雄は考えていた。(親父には怒られたけど、僕は技術的にはそんなに劣ってないつもりだった。それが、あんなに内出血するなんて・・・。それに、針を刺す時なんか様子が変だった。まるで高齢者のもろい血管に刺しているような・・・)昭雄はそこまで考えて思い直した。多分、発熱と嘔吐で脱水症状が進んでいたせいだろう。そう思うと少しは気が楽になり、玄関を施錠しシャッターを下ろした。最後に待合室の電気を消したところで、昭雄はいきなりふうっと溜息をついてつぶやいた。
「親父に知れたらまた大目玉を食らうな・・・」

 家に帰ると、雅之のベッドには氷枕が用意されていた。雅之はパジャマに着替えるとすぐに横になった。その傍に母親が座って「ごめんね、ごめんね」と言いながら盛んに雅之の頭をなでていた。点滴で楽になったせいか、雅之はすぐに眠りに落ちた。次に目を覚ました時は夜12時近かった。下で両親が話しているのが聞こえる。時折母親がヒステリックに叫び、父親がなだめる声がした。それを夢うつつに聞きながら悲しい思いで再び眠りに落ちたが、熟睡しなかったのか、夜中に時折父母が交代で様子を見に来ているらしいことがぼんやりとわかった。しかし、時折雅之の部屋の隅に見える人影は父でも母でもないような気がした。様子を見に来る両親の肩越しにその男の顔が垣間見え、雅之はその夢うつつに現れる男の正体がわかった。あの公園の男だった。
(オレを連れにきたのか?)
雅之は思ったが、もうどうすることも出来なかった。身体も意識も、もはや麻痺状態に近かった。雅之は男の顔をぼんやりと見つめながら、再び浅い眠りに入った。

(「第三章 潜伏」 終わり)

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