« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »

3.潜伏 (2)関わり

 洗濯と掃除を終えた珠江は、居間でくつろいでいた。預かったシャツは、なんとかシミも落ち真っ白になって他の洗濯物と一緒に風に吹かれている。この分ではすぐに乾くだろう。あとは、アイロンをピシッとかければ、ほぼ新品のようになるに違いない。
「あの嫁じゃこうはいかんやろうけんね」
 とつぶやき、珠江は満足した。そろそろお昼も近づいている。珠江は食事の支度に席を立った。支度と言っても昨夜の残りを温めるだけだ。こういう時は気楽な一人暮らしであった。準備が出来上がってテレビをつけたところ、お昼のニュースのローカル版が始まっていた。K市の公園でホームレスの集団不審死が発見されたらしい。
「いややね。こんな事件ばっかり・・・」
 食事中に見たいものではないと、珠江はチャンネルを変えた。

 由利子は、猫たちのごはんクレクレ攻撃にあって目が覚めた。時計を見ると昼の12時近かった。由利子は慌てて飛び起きた。休みとはいえ、寝過ぎだ。
 あれから部屋にたどり着いたのは午前四時をまわっていた。カラオケ屋では、しまいには半分眠ったような状態だった。そろそろ帰らなければと爆睡していた美葉を起こすと、寝ぼけた美葉が彼氏と間違えて抱きついてきた。ちょうどその時、様子を見に来た店員が入って来たが、「す・すみません!!」と、驚いて出て行った。精算をする時のバツの悪さと言ったら・・・。由利子は思い出しただけで赤面してしまった。
(だいたい、私の家の近くにあるカラオケ屋だぞ。2度と行けなくなっちゃったじゃないか。それ以前に妙なウワサが立ったらどうすんだ!ったく・・・)
 それでも由利子は、美葉に自分の部屋に泊ることを提案したが、彼女は愛犬が待っているからと、タクシーに乗って帰っていった。

 寝すぎと深酒のせいで少し頭が重かった。由利子はもう一回ゴロンとベッドに転がり、仰向けになって背伸びをした。その端から猫たちが腹の上に乗ってきて、口々にニャーニャー文句を言った。由利子は30秒ほど転がっていたが、すぐにむっくりと上半身を起こした。乗っていた猫が転がって膝の辺りまで落ち、またまた文句を言う。
「あ~~~、わかったわかった、すぐにご飯にするから。その前にシャワー浴びさせて」
 由利子は猫たちに言い聞かせると、まず、窓のカーテンを開けた。部屋がパアッと明るくなった。ついで窓を開ける。すでに初夏を感じさせる陽光とまだ冷たさの残る風が部屋に入ってきた。眩しさに眼を細めながら深呼吸する。彼女は幸いにも花粉症は患っていない。
 すばらしい良い天気だ。しまった、こういう日は早起きして洗濯などをするべきなのに・・・。由利子は後悔した。明日もこんな天気かしら。
 よどんだ空気を入れ替えるために部屋の窓を開けたままシャワーを浴びることにする。なに、ここは4階だから、曲者の入ってくることはあるまい。ただ、猫たちが脱走しないように、網戸だけはしっかり閉めておいた。
 シャワーを終え、スッキリさっぱりしたところで、猫たちにご飯を作り始めた。テレビは普段からつけっぱなしの時が多い。やはりひとりだと寂しいからだ。テレビをつけてないときはお気に入りの曲をランダムにかけっぱなしている。どうも、何か音がないと暮らせなくなってしまった。長年の1人暮らしゆえの癖である。そういうわけで、今日も起きた時からテレビはつけっぱなしだった。12時のニュースが始まった。由利子はニュースは必ずチェックするようにしているので、今も、猫たちのご飯の用意をしながら時々テレビに眼を向けていた。猫たちが足にまとわりついたり離れたりして、早くくれと大騒ぎしている。
「いてててて・・・!」
 待ちきれなくなったはるさめ(猫の名前)に足をかじられたのだ。彼女は甘えモードが高じると飼い主を甘咬みする癖があるが、こういうときはちょっとだけ本気を入れて咬んでくる。
「痛てぇよ、はるちゃん、もうちょっと待て! それはあんたのごはんじゃないぞ」
 少し怒って言うと、はるさめは足元に座って「ニャアッ!」っと短く怒ったように鳴いた。にゃにゃ子のほうは「ニャニャ、ニャニャ」と鳴きながら、部屋をぐるぐる回っている。彼女はいつもこうだ。大騒動の末、猫たちにようやくご飯を与え、立ち上がり、テレビの方を確認した。すると、どこかで見たような場所が映っていた。なんとなくデジャビュを感じて急いでテレビの前に座る。

 見たことがあると思ったらK市にある祭木公園だった。由利子の通勤エリアではないが、お花見やお祭りの時、たまに行ったことがあった。そこで数人のホームレスらしい遺体が見つかったらしい。公園の周囲には黄色い立ち入り禁止のテープが張り巡らされていた。昨夜9時ごろ、その公園に男が倒れているとの通報を受け、急行した警官が、通報どおり倒れている男を見つけたが、男はすでに心肺停止状態だったらしい。その後、周囲を捜索した結果、公園傍のホームレスの「住居」で残り3人の遺体を発見したという。なお、最初に発見された、公園で倒れていた男には暴行の跡があるということで、何らかの事件に巻き込まれたものと見て捜査しているらしい。
 由利子の脳裏に否応なく昨日の少年の顔が浮かんだ。いや、まさか・・・。由利子は否定した。単なるホームレスの仲間割れの可能性だってある。だって、ニュースでは暴行の跡は公園内で死んでいた男にしかなかったと言っているじゃないか。しかし、2度目に少年に会った時間帯といい、彼らの様子といい、思い出すごとに疑惑が持ち上がっていく。しかし、いきまいていたとはいえ、あのそんなに体格がいいとは思えない少年に、いくらホームレスとはいえ、暴行死させることが出来るだろうか。それに、そうと仮定して、残りの3人は何故死んでしまったのか。仮に友だちのあのイケメン君が共犯だったとして、大の男を4人も殺すなんて考えられない。それも、現情報ではだが、残りの3人には外傷の跡がないらしいのだ。だけどもし、少年達がもっと大勢だったら・・・。

 由利子は考えるのをやめた。そんなあやふやなことで警察に連絡するのもはばかれたし、第一、妙な事件には関わりたくなかった。それに、いい加減自分の昼食も作らねばならない。由利子の切り替えは早かった。そうだ、昼食はトマトとひき肉とたまねぎを入れたオムレツにしよう! 添え物の野菜は冷蔵庫にある夏野菜を適当にゆでたものがいい。それにトーストにカフェ・オ・レ、デザートはこの間買った大粒マンゴーヨーグルトだ! そう思ったら急におなかが空いてきた。由利子はさっさと行動に移した。

 由利子がお笑いクイズ番組の再放送を見ながら昼食を摂っていると、美葉からメールが入った。電話をしていいかというお伺いのメールだった。それで、今食事中だから、30分くらい後なら大丈夫だよ、と返事をしておいた。
 ちょうど食べ終わって食器を流しに下げた頃、美葉から電話がはいった。ほぼ30分経っている。時間に正確だということは、よっぽど大事な用があるんだろう。ひょっとしたらさっきのニュースのことかもしれないと由利子は思った。
「もしもし、美葉? どうしたの? ニュース見た?」
「ニュース? 何かあったっけ?」
 由利子は、簡単に事件の内容を説明した。美葉はようやく思い出して言った。
「ああ、あのニュースね。昨日のサイレンの音はあれやったっちゃねって、私もちょっとビックリしたけど、考えすぎだよぉ、由利ちゃんってば。でも4人も死んどったなんておどろいたねえ」
「なんだ、てっきりその件で電話してきたのかと思ったけど」
 由利子は拍子抜けした。
「ごめん、ちがうっちゃん。あのね、彼のことどうしようかと今日起きてからずっと考えとって、それで、とりあえず話し合おうと思って電話したったいね、そしたら、全然電話に出んと・・・。メールしても返事がないし、今までこんなことなかったから、何かあったっちゃないかって」
「連絡取れんのなら、ちょうどいいやん。美葉も電話番号とか変えて、これですっぱり縁を切っちゃえ!」
「もう、由利ちゃんってば、ドライやねえ・・・。それが出来たら苦労はせんって」
「そりゃそうよねえ・・・」
「それに、番号変えたって彼は私の部屋を知っとうとよ。でも引越しする余裕なんかなかもん」
「そりゃそうやね。だったらどうしたいの、美葉は?」
「・・・・・。どうしたらいいかわからんけん、電話しよったいね」
 確かにそうである。
「そうやねえ・・・。シビアやろうけど、あっちから連絡があるまで放置しとくべきやね。っていうか、連絡がつかんならそれしかないし。だけど、連絡があっても会わないほうがいい。話はすべて電話で済ませること。いいね」
「・・・・・」
「会ったら、また情が湧くやろ?聞こえとお?」
「・・・・・うん、わかった・・・。シビアに対応する。あっちから連絡あったらまた電話するけん、また相談に乗ってね!」
「もちろん。遠慮なく電話してきてちょ」
「うん、ありがとう。じゃ、ね」
「じゃあね。がんばって!」
 思ったよりあっさりと電話が切れたので、由利子は再度拍子抜けした。しかし、その短い間にどっと疲れて、そのままリビングの床に寝転びながらつぶやいた。
「あいつ・・・、あまり大丈夫じゃなさそうだな」
 ふうっとため息をつく。男女間の関係なんてそう簡単に割り切れるものじゃない。由利子は心の中でなにかもやもやした不安を感じていた。しかし、これ以上自分にはなにもすることは出来ない。要は美葉にどれだけ精神力があるかどうかだが、それはあまり期待できそうになかった。
「日がもう少し落ちたら、散歩でもしようかなあ・・・」
 由利子は寝ころんだまま、窓の外をぼ~っと見ながらつぶやいた。嫌になるほど良い天気だった。

 夕方、日が落ちかけた頃、由利子は散歩兼買い物から帰って来た。両手にいっぱいの買い物をしている。散歩後の、思い切り空腹状態でスーパーに寄ってしまったせいであった。色々なものが美味そうに思えて、つい買いすぎてしまう、これが「空腹時に食料品売り場に寄ると買いすぎる法則」である。
 テレビをつけると夕方のニュースが始まっており、またしても昼のニュースで見た、例の事件が放映されているところだった。
「忘れていたのに・・・」
 由利子は荷物を放り出し、頭を抱えてベッドに座り込んだ。さらに、そのニュースは全国版に昇格して流れていたのである。

|

3.潜伏 (3)水面下

 由利子はそのままどさっと寝っ転がり、ベッドに大の字になった。その状態でしばらく天井を睨んで何か考えていたが、不意に起きあがった。そして、勢いよく椅子に座りなおすと机に向かい、パソコンを立ち上げた。気分転換にメールとブログのチェックをしようと思い立ったからだ。
 メールの方は、ほとんどメールマガジンとスパムだった。まったく何もメールが来ないのは寂しいのでメルマガも「枯れ木も山の賑わい」だが、スパムはうざったいだけだ。迷惑メールは振り分けるように設定しているのだが、それでも何通かはセキュリティーをかいくぐって入ってくる。
「バイアグラなんていらんっつーの! 日本語で送ってみろってんだ、腐れスパマー!」
 由利子は英文スパムに恒例の文句を言いながら受信拒否の設定をした。それでも英文なら意味がストレートに通じないから良い。腹が立つのはタイトルから不愉快な言葉を並べ立てる日本語のスパムだ。それにしても、スパム送信者はネット人口の半分は女性であるという認識がないに違いない。一連の迷惑メール撃退作業を終えたら次にブログのチェックだ。いくつかコメントがついていた。各コメントをチェックしていた由利子は、あるコメントを見て、少し眉間にしわを寄せて言った。
「こいつ、また来てるよ」
 それは、何時ぞやのインフル完治報告エントリーを書いた時、謎のメッセージを残していた『アレクさん大王』なる人物だった。彼(彼女)はあれ以来よくコメントを残すようになったが、大概は意味不明の妙な文章だった。最初は割と普通だったのだけど。なんとなく鬱陶しくなった由利子は、とうとう彼(彼女)に投稿規制をくらわせることにした。
「そ~れ、投稿規制フラッシュ! くっふっふ、ざま~みれ!」
 由利子は更新をクリックしながらパソコンの画面に向かって愉快そうに言ったが、猫たちがモニターの両サイドに狛犬よろしく座って、不思議そうに彼女を見ていることに気がついた。なんとなくばつの悪さを感じて苦笑いした。
「さ~て、晩ごはん作ろ! 今夜は豚肉のしょうが焼きとサトイモの煮っ転がしだぞぉ」
 由利子は2匹の猫の頭を両手でかいぐりかいぐり撫でながらそう言うと、立ち上がってキッチンに向かった。その後を猫たちが追う。彼女らも晩御飯が欲しいらしい。まあキッチンとはいえ、1Kのいわゆるマンションとは名ばかりのアパートだから大きさもたかが知れているのだけれども。
 キッチンに入ると、冷蔵庫の前にスーパーで買ってきたものが、袋に入ったまま放置されているのが目に入った。
「しまった! すっかり忘れていた!」
 由利子は慌てて中身をしまいはじめた。帰るなり放り出したのをすっかり忘れていたのだ。由利子には珍しいことだった。

  

 雅之は異様な倦怠感に襲われて早めに床についていた。何もする気がしない。そのくせなかなか寝付けなかった。そのため、ベッドの中で丸くなりながら、今日のことを徒然に思い出していた。

 学校から帰ると、案の定母親の美千代は居なかった。夕方には帰るという走り書きを残していた。しかし、雅之は内心ホッとしていた。最近どうも母親の顔を見るとイライラする。特に今日は。
 美千代の様子がおかしくなったのは半年くらい前だ。どうも浮ついた雰囲気で、時々ぼーっとしている。父親は単身赴任で3年前から大阪に住んでいる。仕事が忙しいのと旅費節約のため、家に帰って来るのは月1土日を利用して帰ってくるのがせいぜいだった。そのせいで、最近両親の仲がしっくりしておらず、3人家族の筈なのに、雅之は深い孤独を感じていた。
 美千代は書き置き通り夕方、しかし、すっかり日が落ちてから帰って来た。手にはデパートの袋を下げている。その中には、デパ地下の惣菜が詰まっていた。
「ゴメンねえ・・・、つい話し込んじゃって。遅くなったからお総菜で我慢してね」
 と言いながら、美千代は居間でテレビを見ている雅之の横にすわり、惣菜を広げ始めた。彼女が座った時に、かすかに煙草の臭いがした。雅之は尋ねた。
「喫煙席におったと? 母さん煙草吸わんけんいつも禁煙席におるやん」
 美千代は少し驚いたようだが、とりたてて何もなかったかのように言った。
「うん、喫煙席しか空いてなかったの。友だちがとにかく座りたいっていうもんだから、仕方なく空いている席に座ったのよ。ほんとにもう、最近煙草吸う人減ってるんだから、もっと禁煙席を作るべきよね」
 美千代は東京生まれで、プライドも高く、F市に住んで長いのに絶対に方言は使わなかった。多分一生どころか死んでも使わないだろう。
「中華のバイキングやってたの。まーちゃんの好きな福樂飯店のよ。だから、たくさん買ってきちゃった」
 美千代は嬉々として戦利品を広げていたが、雅之はその臭いを嗅いでウッとなってしまった。母親が心配するので何とか胃袋に押し込んだが、せっかくのご馳走なのにまったく美味しいと感じなかった。ひょっとすると昨日の事件のせいかもしれない。そう言えば・・・。

 今日は、昨日の事もあって祐一と一緒に帰ったのだが、祐一が腹が減ったというのでハンバーガー屋に寄ったのだ。しかし、雅之は自分に食欲がまったくないことに気がついた。それまでは特に気分が悪いとは感じなかったが、店に入った途端臭いで気持ち悪くなってしまった。それで、祐一に店内ではなく、テイクアウトして外で食べようと提案したのだった。

「あのさ・・・」
 駅ビルと近くの商業ビルをつなぐ人工地盤にある広場のベンチで、ハンバーガーを食べ終わると祐一が言った。
「今日、ヨシオが来とらんかったやろ? 電話したら、朝から熱を出したらしい。お前は大丈夫か?」
「うん・・・」
 下を向いたまま雅之は答えた。本当は自信がなかったのだが。それを聞いて、祐一は少し安心したらしい。
「そうやな。昨日のあれじゃ、気分が悪くなってもしゃあないな。ヨシオは気が弱いしなあ。オレも眠れなかったもんなあ・・・。実はほとんど寝とらんっちゃんね・・・。やけん、今日は休みたかったっちゃけどな。ったくもー、公立やったら休みなのになあ」
 といった後、祐一はしばらく考えていたが、意を決したように言った。
「昨日のアレな、・・・やっぱ、警察に行って事情を話すべきやと思う・・・」
 雅之は、半分ほど食べたハンバーガーを持て余し、冷たいコーラを少しずつ飲んでいたが、ぎょっとして祐一を見た。
「雅之、な、今から駅前の交番に行かないか? オレと一緒に事情を話しに行こうや。オレな、さっき職員室に行った時見たニュースで昨日の件やっとって、結局あそこで4人死んどったらしい。このままやったら4人ともオレらのせいにされてしまう。・・・それにオレな、あのオッサンが死んだのは雅之のせいやないと思う。アレはやっぱ何かの病気やったって・・・」
「待てよ、祐ちゃん!」
 雅之は祐一の言葉を遮って言った。
「嫌だよ、例えそうでもオレがオッサンに怪我させたのは事実やろ、結局オレは捕まるっちゃろ?」
 祐一は黙っていた。何か言いたいけれど言葉が見つからないようだった。
「祐ちゃん、祐ちゃんはオレの味方をしてくれるって思うとったのに!」
 雅之は立ち上がって叫んだ。
「味方だよ! だから・・・」
「もう、オレに構わんでくれ! さよなら!」
 そういうと雅之は祐一の元を立ち去った。祐一は驚いて立ち上がったが、後は追って来なかった。ただ、立ち尽くしたまま雅之の方を見ていた・・・。

「祐ちゃんがあんなこと言うなんて・・・」
 雅之はゴロンと寝返りをうって反対向きになりまた丸くなった。胎児のような寝方だった。あのあと、祐一からの連絡は何もない。
(オレ、これからどうなるのかな・・・)
 漠然とした不安が雅之を襲った。とにかく無理やりでも寝よう。しかし、彼には電気を消すのが恐かった。消すと「あれ」が出てきそうで怖かったのだ。それで、雅之は布団を被って目をぎゅっとつぶった。精神的にかなり参っていたのだろう、しばらくして雅之は深い眠りの谷に落ちて行った。

20XX年6月2日(日)

 翌朝、日曜なのに雅之はいつも通りの時間に目が覚めた。早く寝たせいか、昨夜感じた倦怠感はすっかりなくなっていた。ただ、何度も嫌な夢を見たが、眠りが深かったせいかよく思い出せなかった。
 昨日は何もせずに寝たので、今日は朝のうちに宿題をすませておこうと起き上がり、窓を開けた。今日は昨日に比べると薄雲っていたが、それでも雅之は目の奥に痛みを感じて目を押さえた。良く寝たのに変だなと思ったが、きっと起きてすぐだからだろうと自分を納得させた。

 由利子は、寝る前に予定した通り8時におきて鼻歌交じりに窓を開けたが、外を見てがっくりした。昨日はあんなに快晴だったのに、薄曇で空がかすんでいる。ニュースでは大陸から大量の黄砂が飛んできていると伝えていた。
「あああ、洗濯・・・」
 やっぱり昨日しとけばよかったと後悔したが、後の祭りだった。室内干になる可能性もあったが、仕方なく洗濯機に汚れ物を放り込んだ。

 さて、その日の昼下がり。

「オー!」
 F市内にある、とある大学の研究室で、パソコン画面の前で1人の大男が大袈裟に額に手を当てて言った。歳の頃は40代前半、白衣の下に黒いハーレー・ダヴィッドソンのTシャツを着て、年代物、すなわち、色あせたボロボロのブルージーンズを履いている。さらに足元を見ると裸足でサンダルを履いていた。肩より少し長い濃い目の金髪をひっつめて後ろに束ねている。黒い細縁のメガネの下に見える眼はグレーがかった緑色で、日に焼けてはいるが、その容貌はどう見てもアングロサクソン系である。だが、彼は流暢な日本語で言った。
「参りましたね、投稿禁止にされてます」
「教授ってば、またそのブログで遊んでいたんですの?」
 教授と呼ばれた男の横で書類整理をしていた女性が言った。細身で日本的な、なかなかの美人だ。年の頃は20代後半、艶のあるまっすぐな黒髪を軽く後ろで束ね、短めのペパーミントグリーンのTシャツに、黒のスキニージーンズと黒いローヒールのパンプスを履いている。
「教授は話すほうの日本語は90点以上ですが、書くほうはからっきしですから。最初はどうしてもコメントを書きたいからって、私が代筆しましたでしょ? 教授の妙な作文でコメントされ続けたら、そりゃあ投稿規制もしたくなるでしょうね」
 件の教授は座ったまま椅子をくるりと回転させ、彼女の方を向くと言った。
「相変わらずキビシイですねえ。それから何度も言いマスけど、教授なんて堅苦しい呼び方やめて、『アレク』ってもっとフレンドリーに呼んでくれませんか?」

|

« 2007年6月 | トップページ | 2007年8月 »