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2.胎動 (5)友情・・・

 美葉は、まだ泣き続けていた。ハンカチを握りしめ、声を出さずに肩をふるわせて泣いている。取り合えず気が済むまで泣かせて落ち着くのを待とう、そう思っていたのだが、なかなか泣き止みそうになかった。周りの客達がチラチラと様子を伺っているのがわかる。
(私が泣かしたように見えるかもしれないな~)
 そう由利子は思うとかなり憂鬱になった。しかし、よく考えたら自分が泣かせたような気もしてきた。損な役回りである。美葉のように儚げで保護欲をそそるような女性に生まれたかったな、と、いつも思っていた。なんでこんなに強そうな外見に生まれたんだろう。昔二股をかけられて結局フラれた時もそうだった。「お前は強いから一人で生きていける。アイツは俺がいないとダメなんだ」という、数多の三文小説やドラマやマンガで使い古されて発酵しつくした陳腐な言葉を残して彼は去って行った。怒りや悲しみよりも、その恥ずかしいセリフに呆然として彼を見送ったことをふと思い出し、さらに憂鬱になった。
 話の進展のなさに業を煮やした由利子はひとまず居酒屋を出ることにした。それで、半分ほどグラスに残った冷酒をグイッと飲み干してから言った。
「美葉、とりあえずここから出よ。ね、そうしよ!」
 美葉は小さく頷いて、さっきまで握りしめていたハンカチで涙を拭きながらぼそりと言った。
「トイレでお化粧直してくる・・・」
 そう言われて美葉の顔をよく見ると、確かに化粧が部分的に取れてすごいことになっていた。いつも薄化粧の由利子には有り得ない顔だったので、不思議やらおかしいやらで、多少引きつりながら由利子はなんとか答えた。
「行っておいで。お会計払っとくから・・・出口の方で待ってるよ」

 由利子は美葉と店を出て、駅に向かって歩いていた。出口でたっぷり15分待たされた由利子は、若干むすっとしており、美葉はその後を下を向いてとぼとぼと歩いていた。しばらくその状態で歩いていたが、だんだん美葉が可哀想になってきた由利子は、足を止めて振り返り美葉に手をさしのべた。
「美葉・・・」
 由利子は再び優しく話しかけた。
「人ってさー、相談する時には大体自分ではどうするか決めてることが多いよね? だから、美葉も心の中では結果を出しているんじゃないかって思うんだけど・・・」
 美葉は無言だった。由利子はさしのべた手で美葉の手を取り、並んで歩きながら続けて言った。
「美葉はさ、きっと誰かにこのことを聞いて欲しかったんだよね。ひょっとして、今までずっと誰にも言えなかったんじゃない?」
 すると、由利子が握った美葉の手が小刻みに震え始めた。横を見ると、また大粒の涙を流しながら泣いている。
(げげ・・・しまった!)
 と、由利子は思ったがすでに遅し、美葉は由利子にしがみついて号泣を始めた。
「そだよね。悲しいよね・・・よく我慢してたね、辛かったやろ・・・」
 由利子は美葉の背中を軽く叩きながら、慰めた。こうなったら仕方がない。気の済むまで泣かせてやろう。由利子は腹を決めた。
(でもねえ、名前は由利子だけど、レズっ毛はないんだよね、私・・・)
 行き交う人たちの視線を浴びつつ、由利子は困惑しながら美葉の肩を抱き、繁華街の片隅で立ったまま困っていた。

 

 由利子達の悲喜劇を余所に、こちらでは深刻な展開が続いていた。
 倒れた男とその周りに少年が3人、公園のオレンジ色の街灯に照らされていた。少し向こうのとおりから車の音が聞こえたが、公園内は異様に静かだった。しかしその静寂はすぐに破られた。
「人殺し! 人殺し! この人は助けを求めてただけやろ、何でこんな非道い事せんといかんと!?」
 最初に我に返った良夫が泣きながらヒステリックに叫び始めたのだ。雅之はその場に座り込んだまま、無言だった。まだショックから立ち直っていないのだ。相変わらず呆然と男の顔を見つめている。
「やめろ、ヨシオ!」
 祐一は良夫を制止した。
「だ、だって、こんなのひどい!!」
「雅之だって、まさかこんな事になるなんて思わなかったんだ。とにかくこれからどうするか考えんと・・・」
 祐一の切り替えは早かった。この状態では自分がしっかりしないと・・・。祐一は自分の冷静さに驚きながら考えを巡らした。
(どうする?警察に連絡するか?)
 祐一はポケットの中の携帯電話を握りしめた。しかし、直ぐに考えなおした。
(いや、ダメだ。それじゃ無関係の良夫にまで迷惑がかかる。あいつはオレが心配でついてきただけだ。巻き込む訳にはいかん。ここは逃げるしか・・・)
 そこまで考えた時、「ひ・・・ひいっ・・・!」っという雅之のかすれた悲鳴が聞こえた。
 見ると雅之は腰を抜かした状態のまま、這うようにそこから逃げようとしていた。ようやく我に返り、事の次第が理解できたらしい。
「待て、雅之! 落ち着け!」
 祐一は叫んだが、雅之は何度か転びかけながら立ち上がり、かすれた悲鳴を上げながら逃げ出した。
「おい、そんな血まみれで何処に行くとや!」
 祐一は雅之を追って走り出した。
「そんな・・・・! 西原君! あのおじさんはどうすると!?」
「あとで考えよう! 今は雅之を追うほうが先やろ!」
 祐一は雅之の後を追って走り出した。
「おじさん、ごめんね! 後で誰か呼んでくるけんね・・・」
 良夫はそう言いながら男の遺体に向かって手を合わせると、祐一の後に続いた。
 雅之はすぐに見つかった。公園を出たところの電柱に咳き込みながらもたれかかっていたのだ。祐一は雅之に近づくと言った。
「バカやな。そんな血まみれのシャツなんか着たままで人前に出たりしたら、一発であやしまれるやろ。」
 言いながら祐一は自分のシャツもあちこちに染みが付いているのに気がついた。手も血まみれになっている。雅之のせいで鼻血を出したことをすっかり忘れていた。冷静に見えても相当動揺しているようだ。無理もないことだが。祐一はこの分じゃ顔も相当汚れてるだろうと思いポケットに手を入れ、ハンカチを出そうとしたら、良夫が貸してくれたハンカチの血まみれになったのが出てきた。もう一度それをポケットにしまい、カバンから自分のハンカチをだして顔を拭いた。その後祐一は自分の制服のボタンを掛けながら雅之に言った。
「とりあえずおまえも上着のボタンを止めとけよ」
 雅之は機械的に祐一の言うことを聞いて上着の前を合わせ始めた。
「西原君、顔、よく見たらまだ汚れとぉよ」と、良夫が指摘した。
「うん、どこかで顔を洗わんと帰れそうにないね。雅之のほうもなんとかせんと・・・」
 祐一はため息をついた。

 

 由利子と美葉は、再び駅に向かって歩いていた。美葉は泣くだけ泣いてだいぶ気が晴れたようだ。美葉は、由利子に寄りかかるようにして歩いていた。
「思い出したよ」
 由利子が言った。
「10年前、あの馬鹿男にフラれた時、美葉が旅行やら映画やらに誘ってくれたんだよね。あれでだいぶ気が紛れたっけ」
「ほんとはね・・・」
 美葉は言った。
「あの時、由利ちゃんが帰って来たみたいで嬉しかった。だからいっぱい誘ったの。・・・今日は由利ちゃんに会えてよかった。私、自分がホントは何をするべきかは判っとぉとやけど、ふんぎりがつかんやった。でも、やっとアイツに三行半突きつけてやる勇気が出た・・・」
「そっか、がんばれ美葉! そうだ、これからウチの近所にあるカラオケ屋に行かない?今日は朝まで歌いまくろう!」
 由利子は提案した。
「うん、いいよ! 明日は休みだし」と、美葉。数年ぶりの友情復活であった。

 二人は程なくして駅にたどり着いた。美葉は、
「由利ちゃんごめん、またお化粧なおしてきていいかな?」
 と聞いてきた。実はさっきの惨状を見た由利子が、そうなる前に見栄え良く涙をぬぐってやったので、さっきよりずいぶんマシなのだが、それでもやはり気になるらしい。
「いいよ、行っておいで。私はここのベンチで待ってるから」由利子は快く答えた。
「じゃあ、ちょっと行ってくるね」
 美葉は駅のトイレに走って行った。
(ああいうところがいつまでも女の子なのよね)
 由利子は美葉の後ろ姿を見ていたが、すぐにベンチに座ると、さっき居酒屋で美葉を待っている間に読んでいた本の続きを読み始めた。
(さて、何分かかることやら。買っててよかったよ、これ)

 美葉がトイレのそばまで行くと、隣の男子トイレに向かう中学か高校くらいの少年3人に遭遇した。
(こんな時間にここらをうろうろしてるなんて。。。塾の帰りかしら? 中学生も大変よね)
 美葉はそう思いながら彼らの顔をそれとなくうかがった。そのうちの一人は見たことがあるような顔だった。しかし、美葉はあまりジロジロ見るのもマズイと思ってそそくさと女子トイレに入った。

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2.胎動 (6)平穏の終わり

 美葉が出会ったのはもちろん祐一・雅之・良夫の3人だった。彼らは美葉を見て一瞬躊躇したが、ぞろぞろとトイレに入っていった。
「雅之、やっぱそのシャツ脱いだ方がいいぞ」
 祐一は言った。雅之は言われるままにシャツを脱いだが、そのままトイレのゴミ箱に捨てようとした。祐一は焦った。
「バカ! こんなとこに捨てとったらヤバイやろ! 捨てるなら持って帰って捨てろ、な?」
 すると雅之はシャツをくるくると丸めてカバンに突っ込んだ。祐一は自分の手と顔を洗い、とりあえずさっぱりとした。
「ヨシオ、ハンカチありがとう。洗って返すから、貸しとって」 
と、祐一が良夫に言うと、良夫はなにか釈然としない顔つきで言った。
「あのおじさん、あのままでいいの?」
「仕方がないやろ。それに、多分あの人はオレたちが行かなくても死んでいたと思うし」
「だからって・・・!」
 良夫が言いかけたその時、トイレに酔っ払った50代の男性が入ってきた。
「よぉ、兄ちゃんたちこんなところでストリップな?」
 彼はご機嫌で鼻歌交じりで用を足しながら言った。
「子供がこんな時間に便所でたむろしとっちゃイカンばい。早う帰らんと母ちゃんが心配しとろうもん」
 男は用を足し終わったが話は続いた。
「塾ね? 部活ね? がんばっとるやないね」
 この男のせいで、雅之がまたイライラし始めて言った。
「さっきオレ、浮浪者のオッサンを〆て来たんですよ」
 祐一はぎょっとして、焦って否定した。
「バ・・・、バカ! すみません、こいつタチの悪い冗談ばっか言うんです」
「うわぁ、怖かねぇ、ほんなこつ。おじさんも絞められないうちに帰るけん、君らも早う帰らんね」
 男はそばにいた良夫の頭をぽんぽんと叩くと、ふらふらしながら手も洗わずに出て行った。良夫が露骨に嫌な顔をした。
「ボク、外で待っとぉけん。公衆トイレの中って気持ち悪いし・・・」
 良夫は不愉快そうに言うと出て行った。祐一は後を追ってトイレから出て、良夫の肩をつかんでこっそり言った。
「雅之は俺がなんとか説得して自首させるから・・・。おまえは心配せんでいいからな」
 良夫は首を横に振りながら、トイレの入り口の壁にもたれ座り込んだ。胃がぎゅっとして本当は吐きそうだった。しかし、中で雅之と居ると余計に気分が悪くなりそうで嫌だったのだ。

 祐一がトイレに戻ると、雅之が必死で手を洗っていた。
「どうした?」
「引っ掻かれたところが何か痛くなってきた・・・」
 雅之は言った。傷口に水を大量にかけている。
「うわ、腫れたなあ。あのままにしてたから・・・。すぐに洗えば良かったかなあ。・・・あ、右手やないか、それ。大丈夫か?」
「オレは左利きやけん、一時的なら多少右手が使えんでもいいけど・・・」
 と、雅之は言葉を濁した。祐一は雅之の言わんとしていることが判った。しかし、敢えて口に出さなかった。そんなことがあるはずがないじゃないか・・・。
 雅之は手を洗い終わると、傷口を覆うようにハンカチを巻きつけた。祐一はその端を結んでやった。そのあと雅之は上着を着て、ボタンをかけた。
「ギリギリ冬服でよかったなあ。アンダーシャツで帰るのは変だもんな」
 祐一はそういいながら自分も上着のボタンを確認した。お互い身だしなみを確認しあってから、二人はようやくトイレから脱出した。外に出ると、外にしゃがみこんでいた良夫が少しギクッとした感じで振り返り立ち上がった。顔色は青ざめたままで、まだショックから立ち直っていなかった。多分俺も同じような顔をしているんやろうな、と祐一は思った。祐一は大丈夫だと言い張る良夫を無理やりタクシーに押し込むと、「すみません、こいつ、気分が悪いみたいなんで、近いけどよろしくお願いします」と運転手に頼んで家に帰らせた。その後、残った二人は駅のホームに向かった。

 その頃由利子たちは、早くホームに上がりすぎて時間を持て余し、ベンチに座って自動販売機のコーヒーを飲みながら雑談していた。その由利子の目に、階段を上ってきた雅之の姿が映った。
「美葉美葉、見てあの子よ、階段上ってくるあの子。 『V-lynX(ファイヴ・リンクス)』のタツゾー似!」
「あら? あの子? 私トイレの前で出会っちゃった」
 と、美葉。
「ね、ね、タツゾー君によく似てるでしょ?」
「そう言えば似てる! だけどさっき見た時全然気がつかなかったよ。なんていうか、うつむいてて暗い印象で・・・」
「そう言えば、あの時よりも元気が全然ないなあ。何かあったのかしら・・・。あれ、もうひとり・・・お友だち? さっきの仲間の中にはいなかったけど」
「由利ちゃんがそう言うんだから間違いないと思うけど、私が会ったときにはもう居たよ。あともうひとり小柄なメガネ君と3人やったかな・・・」
「小柄なメガネ君もいなかったな、あの時は。それにしてもあのコ、背が高くてカッコイイわね。真面目そうだし、意外な組み合わせやね」
「一発で覚えた?」
「うん一発で」
 二人は声を上げて笑った。お酒が入っているので妙にハイ・テンションだ。
「あれ?あっちにいっちゃうよ?」
「残念! なんか見てるの気づかれたみたいね」
 二人はしかたなく両少年の後姿を見送った。
「あの子たち、ずいぶん長くトイレに籠ってたよ。私が出た時まだ中にいたみたい」
「そりゃあ長いわ!」
「ひど!・・・そうそう、何か中でひそひそ話してたわね。途中オッサンの声もしてたけど」
Image021_3「オッサンすか?・・・あ、電車、来た来た」
 電車がガーッと音をたててホームにすべり込んだ。
「あ~、1メートルオーバーラン!」
 彼女らが待っていた位置より扉が通り過ぎたのを見て美葉が言った。ここの電車がオーバーランするのは珍しい。ドアが開いて乗り込もうとした時に、由利子が気がついて言った。
「あ、救急車! なんかあったんかな?」
「由利ちゃんってば、乗らないと電車出ちゃうよ。救急車なんて珍しくないやろ?」
 美葉にせかされて由利子は急いで乗車した。

 由利子たちに観察されているのに気づいた祐一は、ホームの前の方に移動することにした。
「何であのオバサンたち、オレたちを見てたんやろ」
 と、雅之が怪訝そうに言った。
「そりゃ、オレたちがイケメンやからやろ」
 祐一が少しおどけて言ったが、雅之は笑わなかった。
「一人はさっきトイレの前で会った人に似とった」
 雅之がいうと、祐一の顔つきが少し厳しくなった。
 程なくして電車が到着し、乗り込んだ。座席に座ってほっと一息入れると、駅の下の道路を救急車やパトカーが通っていくけたたましい音が聞こえた。二人はこわばらせたままの顔を見合わせたが、すぐに扉が閉まって電車が動き出し、そのために外の音が遮断されてしまった。
「オッサンが見つかったんかな・・・」
 と、雅之がボソリと言った。
「そうかもな・・・」
 ヨシオが電話したのかも・・・。と、祐一は良夫が振り返ったときの顔を思い出し、ふと思った。
「オレ・・・」
 雅之が言った。
「最近すげぇイライラしてて、時々自分に歯止めが利かんようになって・・・。オレ、あんなことするつもりなかったっちゃん。祐ちゃん、警察に連絡せんでくれてありがとう。オレ、取り返しのつかんことをやったんやなあ・・・」
 妙にしおらしい雅之の言葉に、祐一は何と言っていいかわからなかった。しばらくして雅之が口を開いた。
「あのな、祐ちゃん、・・・オレのオヤジと母さんな・・・」
「ご両親がどうかしたと?」
 祐一は、出来るだけ優しくたずねてみた。しかし雅之は
「いや・・・、ごめん。なんでもない」
 と答えたきり、またなにもしゃべらなくなってしまった。電車を降りてから、祐一は心配だから家まで送ると言ったが、雅之はひとりで帰れる、大丈夫だ、と言ってきかなかった。それでも家の近所までついて行った。そして、雅之が家の中に入るのを確認し、自分も家路についた。夜も10時を過ぎて帰宅した祐一は、両親からこっぴどく怒られた。

 雅之が家に帰ると、母親が心配して飛んできた。
「まーちゃん、どうしたの? 何処に行ってたの? あんまり遅いから、心配してたのよ。警察に電話しようかと思ってたのよ」
 雅之は、靴を脱ぎながら母親をうるさそうに一瞥すると、無言で2階の自室に向かった。
「まーちゃんってば・・・。夕飯はどうしたの? 食べて来たの?」
「ごめん、気分が悪いけん・・・風呂入って寝る」
 振り向きざま母親にこう告げると、雅之は自室に入ってしまった。母親はしばらく下でオロオロしていたが、ため息をついて居間に戻っていった。

 3人は各々諸般の用を済ませ床に就いたが、公園でのことを思うとなかなか寝付けなかった。
 特に雅之は、男の断末魔の顔が目に焼きついていた。後悔と贖罪の念が渦巻いていた。何度か起き出してトイレに行き吐いた。夕方友だちとドーナッツ屋に入ってセットを食べただけなので、吐いてもろくなものが出てこない。ようやく眠れたと思ったら、悪夢にうなされて何度も飛び起きる。最悪な夜だった。

 3人が眠れない夜を過ごしている頃、由利子はカラオケ屋で美葉と一緒に、ジッタリンジンの「プレゼント」をシャウトしていた。

(「第2章 胎動」 終わり)(次へ

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3.潜伏 (1)歪んだ朝

20XX年6月1日(土)

 雅之は、祐一と一緒に夜道を歩いていた。何処に向かっているのかわからないが、彼は祐一の歩く後を黙ってついて歩いた。すると、物陰から男達が数人現れて、二人を取り囲んだ。
「秋山雅之だな」
 男の一人が言った。
「祭木公園ホームレス殺害容疑で逮捕する」
 男はニヤニヤ笑いながら雅之に手錠をかけた。雅之は驚いて祐一を探した。しかし、いつの間にか祐一は居なくなっていた。気がつくと雅之は取り調べ室の机の前に座っていた。その前にはさっきの男が座っており、ライトを雅之の顔に当てた。眩しさに彼は顔をそむけた。
「5月31日の夜、お前はこの男を暴行して殺害した、そうだな」
 男は笑いながら、自分の後ろを指差していった。そこにはあのホームレスの死体が、あの時の格好のまま転がっていた。雅之は、驚いて立ち上がったが、後ろの男達に押さえつけられて、また席に座った。
「祐ちゃんは・・・、西原君はどこ?」
 雅之は不安になって聞いた。取調べの男は答えた。
「西原祐一な・・・、あいつはあそこで首ば括っとる」
 男は窓の方を指差した。窓の外には吊された祐一がぶらぶらと揺れていた。
「祐ちゃん!」
 雅之はまた立ち上がったが、再度男達に押さえつけられた。
「お前もすぐに後を追え!!」
 男達は雅之を指差して、げらげらと笑っている。刑事だと思っていた男達は、いつの間にかホームレスに変わっており、場所はあの公園に移動していた。雅之を囲んでげらげら笑い続ける男達の後ろで、死んだ男が起き上がった。口から黒い吐物を垂らしながら、ふらふら立ち上がり、ゆっくり雅之を指差した。
「ツギハ、オマエ、ダ」
 男はそう言うといっしょになってげらげら笑い出した。 

「うわぁっ!!」
 雅之は飛び起きた。眠れないと悶々としながら、いつの間にか眠っていたらしい。全身汗でびっしょりになっていた。目を覚ます直前に、宗教めいた荘厳だが気味の悪い歌が聞こえた。とにかく気味の悪い夢だった。雅之の良心の呵責から見た夢だったのだろうか。
 雅之は、起きあがるとバスルームに向かった。何となくフラフラして階段から落ちそうになる。洗面台で自分の顔を見ると、寝不足のせいかひどい顔をしている。熱いシャワーを浴びると、心なしかすっきりしてきた。(やっぱり、よく眠れなかったからかな)雅之は気を取り直した。昨日男に引掻かれた右手の甲の腫れは治まっていたが、傷口からかすかに血がにじんでいる。それで、部屋に帰って大きめの絆創膏を貼った。
 雅之は落ち着いたらあの夢が急に気になり、祐一のことが心配になり始めた。それで、メールを送ってみたが、返事が来ない。不安になって電話をしてみようと思ったところで返信が来た。返事は自分のことよりも、雅之の方を気遣うような内容だったが、どうやら彼は大丈夫なようだ。雅之は安心した。安心すると少しお腹が空いてきた。そう言えば昨夜からろくなものを口にしていない。その上何度も嘔吐している。雅之は何か飲もうとキッチンに向かった。そこでは母親の美千代がいつものように朝食を作っていた。
「まーちゃん、おはよう。気分は大丈夫なの?顔色がすごく悪いわよ」
 美千代はは雅之の顔を見るなり言った。
「あまり寝られんかったけん・・・」
「あらまあ・・・、大丈夫? ごはん食べれる?」
「うん・・・、おなかは空いとるし」
「ちょっと待って、すぐに出来るから」
 美千代はいそいそと支度を始めた。

 正直、味はどうでも良かった。とにかく食べられるだけ食べたが、やはり食は進まない。それでも2/3ほど無理矢理腹に詰め込み雅之は席を立った。
「あら、いつもならおかわりするのに、本当に大丈夫なの?」
 美千代が心配そうに言った。
「うん・・・」と、力無く雅之が答える。
「今日も学校でしょ? 休んだほうがいいんじゃないの?」
「うん・・・。でも補習とかあるし・・・」
 それに・・・、オレが学校に行った方が都合がいいんやろ。そう言いそうになって雅之は思わず言葉を飲み込んだ。

 さっさと支度をすませ、雅之は家を出た。よい天気で空も青く、空気は爽やかで心地よい朝だ。太陽が眩しい。だが、雅之がその太陽を見た時、眼の奥がかすかにズキンと痛んだ。寝不足のせいだと思った。今日は早く帰って早く寝よう。雅之は思ったが、果たしてゆっくり眠れるかどうか一抹の不安を感じていた。しかし、あのホームレスを殺してしまったことが、永遠に彼から平穏な眠りを奪ってしまったことに彼はまだ気がついていなかった。

 美千代は、いつものように朝の掃除に余念がなかった。一階の掃除はすでに終わらせ、二階の雅之の部屋に来ていた。そこは、男の子の部屋にしては、かなりきちんと片付いている。雅之はかなり几帳面な性格だった。しかし、そのせいで、美千代の目にあるものが目に付いた。それは、無造作に丸めて屑篭に捨ててあるものだった。美千代はそれを拾い上げて広げてみた。それは、汚れた制服のシャツだった。
「もう、あの子ったら・・・。制服のシャツだって安くないのに・・・」
 美千代はため息をついた。しかし、妙な汚れだった。どす黒い汚れが点々とついている。中には少し大きめの染みもあった。
「いったい何で汚したのかしら・・・? 血・・・じゃあないわよねえ・・・」
 そういいながら、なんだか家で洗うのが気持ち悪くなってきた。それに今日は出かける予定がある。
「そうだ」美千代は独り言を続けた。「お義母さんに洗ってもらおう!」
 美千代は、歩いて15分位のところに住んでいる夫の母親を思い出した。二人は近くに住んでいるのに滅多に会うことをしなかった。特に、夫が単身赴任で大阪に行ってからは盆正月くらいにしか会わないんじゃないかというほどに疎遠になっていた。たまには役に立ってもらわないと・・・。美千代は、いい人を思い出したことに満足した。その時、「エブリシング」のメロディが鳴り響いた。美千代の携帯電話の着信音だった。はっとして彼女はエプロンのポケットから携帯電話を取り出してメールを確認した。彼女はにっこりと笑っていそいそと返事を書き始めた。その間、彼女の癖だろうか、ずっと左手の親指のツメを噛んでいた。

 30分後、すっかりおめかしをした美千代が家を出て行った。

 雅之の祖母、珠江は、紙袋に入ったシャツを手に、ぼんやりと窓の外を見ていた。そこには、たった今シャツの洗濯を頼むだけの用件でやってきた、嫁の後姿があった。夫が単身赴任中だというのに、あの派手な格好はなんだろう。美千代も珠江もお互いを嫌っていた。同居は断固として美千代が認めなかった。それは珠江の夫が亡くなって、一人残された時ですらそうだった。珠江も気兼ねしてまで一緒に住もうという気にはならなかった。
 珠江は、袋からシャツを出して広げてみた。なんか汚い染みがたくさんついている。それに、なんとなく生臭い臭いがした。いったい雅之は何をやってこんなに汚したんだろう。珠江は思った。何か悪いことに関わってなければいいのだけれども。
「全部、あの嫁のせいだ」
 珠江は吐き捨てるように言った。
 雅之は子どもの頃はとても素直で良い子だった。今だって、なんとなく斜に構えており悪ぶっているけれど、本当は優しい子なのだと珠江は思っていた。小学校の頃の雅之は、母親がここに来ることにいい顔をしないので頻繁ではないが、たまに顔を見せに来た。その時は、少し家に上がって何をするでもなく珠江の傍に座って少しテレビを見て、帰っていった。彼が中学になってからは、ますます足が遠のいたが、この前、珠江が友人から感染されたインフルエンザで寝込んだ時、やはり様子を見に来て、玄関に果物やらジュースやら置いて行った。あの時は、本当に苦しかったのに、息子も嫁も見舞いにすら来なかったが、雅之だけが心配して様子を見に来てくれたのだ。。
「ううっ・・・」
 珠代は思い出すと情けなくなって涙が出てきた。そのまま涙が止まらなくなってしまい、目頭を手で押さえた。仕方がないので落ち着くまでキッチンの椅子に座っておくことにした。数分後、ようやく気持ちが落ち着いた珠江は、立ち上がると、風呂場まで行ってバケツに水を入れ、さらに、しこたま漂白剤を入れると、最後に預かったシャツを入れた。他の洗濯物と一緒に洗うのは気持ちわるかったので、別洗いをすることにしたが、こうすれば、多少汚いものでも消毒されるだろう。
「さて・・・っと」
 珠江は気を取り直しベランダの戸をあけた。明るい日差しと爽やかな風が心地よい。
「洗濯ものが良く乾くやろうねえ」
 彼女はそうつぶやくと、ぐうっと背伸びをした。
「さっさと洗濯と掃除を終わらせて、あとはゆっくりすることにしよう」
 そう言うと、珠江は家事の続きに戻っていった。

 明るい空、日差しを受けて輝く新緑、申し分ない朝だった。誰もこれから起きる恐ろしい事態など想像もしていなかった。しかし、水面下では確実になにかが広がろうとしていた。そしてそれは、その災厄の大元を作った人間達でさえ予想だにしていなかったのである。

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