3.暗雲 (1)ジュリアスとアレクサンダー

 話は少し前に戻る。

 由利子が帰宅するまでの護衛を葛西に任せ、ギルフォードはジュリアスと共に如月と紗弥を送った後、帰路に就いていた。
「キサラギ君が気になった事って、いったいなんでしょうね?」
ギルフォードが言った。
「実際見せないと説明しにくいって言ってましたけど・・・」
「なんか、後ろめたそうな感じだったもんで、勝手にデータでもいじくったんじゃあーせんか?」
「そんな気もしますが、なんにしろ、明日ですね」
「おれは、明日わりと早ゃーて、研究室には顔は出せにゃーな。残念だなも」
「そういえば・・・」
ギルフォードが、クスリと笑いながら言った。
「また二人だけなのに日本語で会話してますね、僕たち」
「明日から、また英語ばっかの国に帰るんだで、出来るだけ日本語で会話してゃーんだがね」
「OK、お付き合いしましょう。部屋に帰り着くまで英語禁止です」
「禁止することはにゃーけどよー。だゃーいち、がいりゃー(外来)語まで日本語になおしとったら、どえりゃーことになるがね」
「ははは、そうですね。まあ、ふつうに日本語で話すということで」
「じゃあ、3回英語でしゃべったら負けにしよまい。ほいで、負けた方は勝った方の言うことを聞く、と」
「いいでしょう」
「でよー、おれ、酔い覚ましにちょこっと夜風に当たりてゃーんだが」
「じゃ、少しの間エアコン切って窓開けましょう」
「ついでにちょこっとだけドライブしにゃーか?」
「じゃ、戻ってT神の街をちょっと流してみましょうか」
ギルフォードはそう言うと、適当なところでUターンをした。

 山口医師が病棟を見回っていると、園山看護師の部屋に明かりがついていることに気がついた。当然消灯時間はとっくに過ぎている。
(あらら、消し忘れてるのかしら? それとも、眠れないのかしら?)
山口は、とりあえずインターフォンで声をかけてみた。
「園山君? ひょっとしてまだ起きてる?」
「ああ、すみません。なんか、寝付けなくて・・・」
「ちょっと窓を『開ける』わよ。いい?」
「はい、どうぞ」
園山の了解を受ると同時に窓の曇りが消え、窓が『開いた』。
「あら、本を読んでいたのね? 具合はいいの?」
「ええ。だけど、なんか眠れなくて・・・」
「あら、お薬出しましょうか?」
「大丈夫です」
「そうなの? ほどほどにして眠らないとだめよ」
「はい」
「で、何の本?」
「聖書です」
そう答えると、園山は何故か少し歪んだ笑顔を浮かべた。
「聖書?」
山口が少し驚いたように鸚鵡返して言った。
「あら、園山君ってば、クリスチャンだったの?」
「違います。・・・いえ、正確には、今は違います」
「今は? まえはそうだったの」
「はい。僕はN県の生まれで、家は代々カトリックでした。貧乏人の子沢山を地で行くような家庭で、僕は8人兄妹の7人目でした」
「8人! それはにぎやかだったわねえ。あ、そうか、カトリックは・・・」
「そうです。堕胎が禁止されてるので・・・。それでも今時それを遵守して子沢山ってのは流石に・・・なんと言うか、年頃になったらなんか恥ずかしくて・・・」
「まあ、考えたら、そうかもねえ・・・」
「でも、そういうのは瑣末なことで、キリスト教から離れたのは、書いてあることに逐一共感できなくなったからです」
「まあ、アダムの肋骨からイヴが生まれたとかいうこと自体に、医者として賛同できないけど、いちいち神話にケチつけても仕方ないじゃない?」
「まあ、そうですけど・・・」
園山は、またも歪んだ笑顔浮かべながら言った。
「僕が共感出来ないのはそういう物語的なことだけではありません。その神の名の下に行われてきたことについてもです。迫害される側だった時であれ、迫害する側だった時であれ・・・。それに、布教することにより、力ずくでもともと先住民が崇めていた神や文化ですら破壊消滅させてしまったり・・・」
「でも、それは仕方のないことだと思うわ。私だってそれが良いこととは思わないけれど・・・。結局は歴史なんて弱肉強食の歴史なんだから・・・。それに、それはどんな宗教にもいえることじゃない?」
「それはそうですけど・・・。・・・僕の先祖は隠れキリシタンだったんです。それで、改宗せずに惨殺された先祖が沢山いるんです。でも、僕は、そこまでして守る価値があるものだったのかと。しかも、隠れですから、教え自体が土着の神様と融合して、かなり変質していたんです」
「そうかあ。でも、それが正しいと信じて信仰を守って亡くなられたんだから、本人にとっては幸せだったんじゃないのかしら?」
「でもそれって、自爆テロをしたら天国に行けるっていうのと根っこは同じですよね」
「そうかなあ・・・」
「そうやって色々考えていたら、自分が信じてきた宗教だけでなく、宗教全体に懐疑的になったんです。それが、決定的になったのは、ある殺傷事件でした。犯人は知人を含む6人を殺傷した挙句に自分も自殺しました。人も自分も殺してしまったんです。キリスト教では特に自殺は重罪です。僕が気になったのは、彼の両親が敬虔なカトリック信者で、彼も洗礼をを受けていたということです。彼も幼い頃からキリスト教の教えを学ばされてきたはずです。にもかかわらず、彼も成人後キリスト教から疎遠になっていました。いったい彼は今まで何を信じ何に裏切られ何を思って事件を起こし、最終的に自らを殺したのかとずっと考えていました」
「そうだったの」
「悪魔に魅入られたと解釈すれば、それで済むのですが、僕にとってそれは納得できない答えでした。何故なら・・・」
そこで園山は、大きくため息をついてから続きを話した。
「それ以前から僕は、F県の看護大学を出てそのままF市内の病院に勤務してて、忙しさもあってほとんどキリスト教から遠ざかっていました。意図的でもあったのですが・・・。里からは、相変わらすちゃんと信心しているか、ミサにはちゃんと行っているのかと毎週のように電話が入りましたが、行っているから大丈夫と適当にごまかしてました。そんな自分がまた嫌で・・・。そういう自分を、その犯人と重ね合わせていたのかもしれません。そんな時、会社の同僚に誘われて講演会に行ったんです。その時の話を聞いて、目からうろこが落ちたというか、開放されたというか・・・」
「開放?」
「はい。僕は正しかった、僕の思い通りに生きていいんだ、信じたいものを信じればいいんだって」
「そうね。今聞いただけでも、あなた、子供の頃から信心してきたものに疑問を持っていながら断ち切れてないって感じがしたものね」
「そうだったんです。でも、僕はそれに気づかないで、悶々としていたんです。その方から僕が疑問を持ち始めた時から、それは、僕の信心するものではなくなったのだと言われました。頭から水を被ったような衝撃を受けました」
「へえ、明瞭な答えだわね。じゃ、そこに行ってよかったじゃない?」
「そう思っています・・・。でも・・・」
「・・・でも?」
山口は、今まで淡々とした表情で話していた園山の表情に、一瞬暗い影が差したような気がして用心深く聞き返した。
「あ、すみません。たいしたことではないんで、気にしないで下さい」
「そうなの?」
園山の口調に不自然さを感じて、山口は怪訝そうな表情で言った。
「言いたいことがあったら、言ったほうがいいわよ」
「いえ、大丈夫です。もう十分聞いていただきました。・・・あの、そろそろ眠くなってきたようなので、消灯して寝ます。他愛ない話にお付き合いしていただいて、ありがとうございます」
「そう? じゃあ、ゆっくり眠るのよ。なにか言いたいことがあったら遠慮なく言って。一人で抱え込んじゃだめよ」
「はい、ありがとうございます。おやすみなさい」
園山はそう言うと、枕元に聖書を置き照明を消して横になった。
「じゃ、園山君、行くわよ。なんかあったら遠慮しないですぐにコールしてちょうだい。いいわね」
山口は念を押すと、窓を閉めた。園山は、山口が去ったことを確認すると、ほうっとため息をつきベッドに体をうずめた。そして、暗い天井を凝視しながらつぶやいた。
「怖くない。これはお導きだ。僕は浄化されるんだ。僕は間違っていない。僕らの正しさはすぐに証明される・・・。」
園山は自分に言い聞かせるように何度もつぶやいていた。

 
「おーーーっ!」
ジュリアスが窓の外の異様な雰囲気に驚いて言った。
「何かねここは? この時間に若者ばっかがこんなよーけおって、未成年っぽいのも結構おるぞ。しかも、でーらきわどい格好をした若い女たちがたまにおるけど、パンパンかねー?」
「パンパンって、君はいつの人間ですか。それに、都市部ではあまり珍しい光景でもないと思いますケド」
ジュリアスの問いに、ギルフォードが苦笑しながら説明した。
「きわどいというか、ほとんど下着のあのお姉さま方は、なんかヨカラヌ所の勧誘でしょうね。ここは、通称『親不孝通り』と言って、若い人が良く利用する歓楽街です。おじさんたちはN洲のほうに行きますけど。もともと近くに大手の予備校があって、予備校生が通うとかいう理由でついた名前のようですが。最近はその予備校もなくなって、聞こえが悪いとか犯罪を誘発するからとかいう理由で、親不孝の不の字を富(とみ)と言う字に変えた『親富孝(おやふこう)通り』というのが正式名称のようです。まあ、あまり効果ないような気がしますけど」
「ここにおる連中を見る限り、元の漢字の方が正解のような気がするぞ」
「そうですねえ。でも、ここは有名ですから押さえておかないと」
「うぜーし車も進まにゃーし、もーえーて、他に行こまい」
「そうですか? ここには外国人が集まるパブとかもあるんですけどね」
「おみゃーさんは飲めにゃーだろー」
「言ってみただけです。じゃ、せっかくだから、このまま西通りまで抜けてから帰りましょうか」
「そうしよまい」
「君がドライブしたいっていうからここまで来たのに。なかなか観光では夜にこんなとこ通りませんよ」
ギルフォードが少し不満げに言ったので、ジュリアスすかさず彼の首に手を回しながら言った。
「ありがとう、アレックス。愛しとるでよ」
さらにそのまま唇に軽くキスをしたので、道行く女性たちの黄色い歓声が響いた。ギルフォードはあわてた。
”バカヤロー! いくら徐行運転でも危ないだろうがっ! しかも丸見えだ! 第一近くに交番があるんだぞ!”
「1回目」
と、言いながらジュリアスがにまっと笑った。 
「しまった! 今のは無し、無しです」
「だ~め」
「不意打ちはズルイです」
「まだまだ修行が足らにゃーて。それはともかく、このままじゃおれたちの方が見世物だもんで、ちゃっとここから出たほうがええて」
「誰のせいだと思ってるんですか。しかも、何人かから写メ撮られたじゃあないですか」
ギルフォードは、自分らを見ながらきゃあきゃあ言っているらしい女性たちを横目に、恨めしそうに言った。
 しばらく進んでいると、ジュリアスが更にやきもきして言った。
「なんか狭ゃー道ばっか通っといるんで、さっぱり酔い覚ましにはならにゃーんだがや」
「まあいいじゃないですか、たまにはこういうのも。今までゆっくりドライブすることがなかったんだし」
「そりゃあまあ、そうだがよお」
「ここは、さっき言った『天神西通り』ですよ。ここも観光地というより、地元の人が利用する繁華街ですが、全国的に有名なラーメン屋の本店もありますから、旅行者も訪れるようですね。あ、ほら、もうじきT字路ですから、左折して大通りに出ます。そのまま都市高に入ってさっと帰りましょうか」
「ほだな。そろそろ眠くなってきたし・・・」
そう言うと、ジュリアスは大きなあくびをした。それを見ながらギルフォードがからかい気味に言った。
「まだ寝ないで下さいよ。寝ちゃったらそのまま車に放置していきますからね」
「でゃーじょーぶだがね。・・・って、あれ、あそこにいるの、由利子と葛西じゃにゃーか?」
ギルフォードはジュリアスの指差すほうを見た。確かに件の二人がT字路手前の歩道でなにかもめている。
「もう、早くタクシーに乗って帰れって言ったのに、何やってるんでしょう、あの二人は」
「おれが葛西に入れ知恵したせいかも知れにゃー。酔い覚ましにコーヒーショップに誘えって言ったもんだで」
「へーそうですか。でも、それで、何をもめてるのでしょうね」
「あー、ついでに上手く口説いて、その後どこかにしけこめって言ったんだわー」
”何だって!? おい、ジュリー、てめぇ、ジュンに妙なことを吹き込みやがって!”
「ブブー! 英語使用2回目~」
驚いて素になったギルフォードを軽くいなしてジュリアスが言った。ギルフォードは小さく「あっ」と言って左手で口を押さえたが、言ってしまったことは仕方がない。ギルフォードは気を取り直すと、いつもの調子に戻って言った。
「まったくもー、フェイントばっかり。・・・で、どうしてそんなことを言ったんです?」
「だって、由利子のほうもホントはまんざらでもなさそうだもんで、この際引っ付けたほうがえーかなと思ったんだわー。愛のキューピッドだがね」
「何が愛のキューピッドですか。面白がっているだけでしょう。ま、あれじゃあ恋愛成就は無理みたいですけど。由利子からすごい顔と勢いで手を振り切られてしょげてますよ」
ギルフォードは二人のほうを見ながら言った。T字路の前で信号が赤に変わったのを契機に、しばらく二人を観察することにしたらしい。
「いーや、待った。葛西の奴、あきらめにゃーで由利子の腕を掴んでひっぱっとるがね。結構しつこいんだなも」
「酔っ払って大胆になっているだけですよ。あの先もう少し歩いたら、有名なホテル街がありますからね。だけど、あんな強引なことしちゃダメです、ユリコの様なタイプの女性の場合、怒らせるだけですよ。ジュンは功を焦りすぎです。ユリコは相当怒ってますよ」
「経験値が足らにゃーねー。オヤジじゃのーて高校生レベルだて」
「まさか、初めてじゃないでしょうね」
「なんぼなんでもあの歳でそりゃ~にゃーて。あ~あ、とうとう投げ飛ばされてしもうたがや」
「・・・ユリコ、強かったんですね」
思いがけないものを見て、ギルフォードは目を丸くして言った。
「おれもやられたからなー。美葉直伝らしいて。ただし、あれしか出来にゃーのだと」
「不意打ち専門ってやつですか。まあユリコは用心深いですから無茶はしないでしょう」
「往来で連れを投げ飛ばすのも十分無茶だと思うぞ。あ、さすが由利子だて、すぐにタクシーを止めたな。判断早ぇ~わ。おっと、後部座席に葛西を蹴り込んで、自分は助手席に乗ったぞ」
「怖いです。これから彼女を怒らせることはしないようにします」
「あーあ、行ってしもうたがね」
由利子たちを乗せたたタクシーは、彼らのいる道とは反対側車線を突っ切って姿を消した。ギルフォードとジュリアスは顔を見合わせると仲良く笑い出した。
「葛西、見事に玉砕!」
「まったくこっちに気づきませんでしたね。でも、おかげで二人の意外な面が見れて、なかなか面白かったです」
「ほだね。ところで、この先、ホテル街があると言っただろー?」
「はい。地元では有名ですが」
「おれ、いっぺんそーゆーとこに泊まってみてゃ~んだが」
「却下します」
「なんでー? そのためにこっちに来たんじゃにゃーのか?」
「ジュンと一緒にしないで下さい。だいたい、ちゃんと僕の部屋があるのに、何でわざわざそーゆーところに行くんです?」 
「ほだけど、バーがついてたり、プールがあったり、カラオケがついてたり、天井が鏡張りだったり、風呂がガラス張りだったり、ネズミーやらケティやらミルフィーだらけだったり、ペントハウスに風呂がついてて夜景が見えたりするんだろー? 行きた~い」
「カラオケや鏡張りとかはともかく、バーやペントハウスやプール付きなんてそうそうありませんよ。まったくもー、いったいどこからそういう情報を仕入れてるんです?」
「プールはのーてもええて、行きた~い、行きた~い、行こぉよ~」
「ダメです」
普通ならジュリアスがこういう風におねだりした場合、叶えてやるのだが、今回は何故かきっぱりと断った。
「ケチ~。なんでぇ~」
「水曜日に遺体で見つかったエビツさんは、仕事場のホテルで感染しました。ですから、僕は今、そういうところを利用するのは危険と考えます」
「ちぇ~っ。変なところに神経質なんだで、おみゃ~は」
「あのね、あーゆーホテルは使用目的のわりに、往々にして公衆衛生的にあまり感心しないような清掃のされ方だったりするんですよ(※)。僕は神経質にならざるを得ませんね」
「相変わらず理屈っぽい男だなも」
「すみませんね。まあ、このウイルス渦が収まるまで待ってください。それまでにいいところを探しておきますから」
「そーいや、おみゃーさん、事前に下調べしにゃーと気が済まにゃー奴だったわ」
「人をデート前の中学生みたいに言わないでください。じゃ、さっさと帰りますよ」
ギルフォードはそう言いながら珍しく眉間にしわを寄せていた。それに気づいたジュリアスは、困った顔でギルフォードの顔を覗き込みながら言った。
「アレックス、怒ったのきゃ~?」
「いいえ、そろそろ我慢が出来なくなりました。早く帰りたいです」
「やっぱり日本語しか話せにゃーのはえらい(疲れる)かねー?」
「そっちじゃありません」
ギルフォードが少し顔を赤らめて言った。
「大きな赤頭巾ちゃんがあんまりかわいいので、今にでもオオカミになりそうなんです」
「そりゃあアカンて。だいたいがおみゃあさんは羊の皮を被ったオオカミだで」
ジュリアスはそう言うと、えへへと笑ってギルフォードによりかかった。
「こら、だめですよ。走行中は危険です。オートマだからまだいいようなものの・・・」
ギルフォードが言い終わらないうちに、ジュリアスはクスクス笑いながら、彼の首筋にキスをした。
”うわっ、このバカっ! 暴発したらどーすんだ!!”
「はい、3回目。さ~て、何をしてもらおうかね~」
「・・・ったくもお・・・」
そう言いながらもギルフォードは、寄りかかるジュリアスの背に左手を回して軽く抱き寄せた。
「君はホントに悪い子です」
ジュリアスは、クスクス笑うと言った。
「そりゃあ、おみゃーさんのことめちゃんこ愛しとるで」
「I know.」
「何て? まいっぺん言ってみ?」
「・・・いえ、一度言ってみたかっただけですから、もう言いません」
ギルフォードが照れくさそうに言った。

 

 斉藤孝治は、部屋の中でうなっていた。
 あれから容態は悪くなる一方で、熱はついに40度を越していた。祖母にもらった解熱剤を飲んではみたが、一時的に楽にはなるが、2・3時間もすればすぐにまた頭痛が襲ってきた。それで、孝治は6時間空けねばならない服用間隔を3・4時間に縮めざるをえなくなっていた。食事もすでにおかゆすらのどを通らなくなって、スポーツドリンクでなんとか干上がるのを防いでいる状態であった。しかも、腹の調子までなんとなくおかしくなってきたように思われた。
(もうどうしようもないな、あした病院にいくしか・・・)
孝治は弱気になっていた。しかし、病院に行った時点で自分が破滅するであろうことは、孝治の劣化した思考状態でも理解していた。
(だめだ。病院にいったらおしまいだ。だけど、このままだと・・・)
その時、孝治は激しい腹痛にみまわれた。
「ううう・・・」
彼は腹を押さえながらよろよろと起き上がり、危うい足取りで手洗いに向かった。幸いにも手洗いは孝治の匿われている離れのそばにあった。彼は何度か転びそうになりながら個室に入った。だが、激しい腹痛はあるものの、一向に下す様子はない。そうこうするうちに吐き気まで襲ってきた。急いでトイレットペーパーを大量に引っ張り出してぐしゃぐしゃのまま丸め、そのまま口に当てた。のどを鳴らすいやな音がして、口の中に生ぬるいものが上がってきた。食べてないせいか、量はそんなに多くないようだった。そのままペーパーに吐き出すと、何か黒っぽいタール状のものが確認できた。気持ち悪くなって、彼はすぐにそれをトイレの中に捨て、水に流した。しかし、腹痛は一向に治まらない。頭痛もまた復活してきた。その上に、熱のせいか初夏だというのに寒気までしてきた。このままだと便座に座っていられる状態ではなくなるだろうと思った孝治は、ふと、祖母が手洗いに常備している失禁対策用のナプキンに気がついた。孝治は少しの間躊躇したが、それに手を伸ばした。
 孝治は再び危うい足取りで手洗いを出て部屋に向かった。だが、部屋に入った途端に気が緩んだのか、足を絡ませて転倒してしまった。右足首を少し挫いて右の頬と掌に畳にこすった擦り傷ができてしまった。
「いってぇ~!」
孝治は畳に転んだ体勢で寝転んだままわめいた。
「いってぇよぉ~、いてぇんだよお~、誰か来てくれよぉ~~~」
孝治は子供のように半べそをかいていた。しかし、祖母は熟睡しているのか来てくれる気配はない。孝治はしばらくじたばたしていたが、あきらめたように起き上がって布団に入った。そしてスポーツ飲料で解熱剤を飲むと、横になり毛布に包まった。
「寒いよぉ、痛いよお・・・」
孝治はしばらくの間、力なくつぶやいていたが、薬が効いたのか、いつの間にか眠っていた。

 高柳敏江は早朝から歌恋の病室にいた。
 昨夜は就寝時間をとおに過ぎ、夜半になっているというのに、なぜか自分を母親と勘違いしている笹川歌恋が、手を離してくれなかった。なだめすかして寝かしつけても、すぐに起きだしては母親を呼ぶのだ。無視をしても、何度もナースコールを押して看護師を呼びつけ、自分を呼んでくるように懇願する。仕方なく敏江が歌恋の元に行き、なだめ寝かしつける。そんなことの凝り返しなのだった。このままでは患者医者ともに体力を消耗させると言うことで、鎮静剤を打ち、ようやく眠らせることができた。しかし、早朝から目を覚ました歌恋は、起きるなりまた、母を呼んだ。
 甲斐看護師がため息をついて言った。
「困りましたね。あまり長時間この装備で居ることは避けないといけないのに。私たちは交代できるからいいですけど、先生はそうはいきませんもの」
「まあ、仕方ないわね」
敏江が歌恋の頭を撫でながら言った。
「この子は今までずっと親に甘えたいのを我慢してきたのだもの。出来るだけ一緒に居てあげたいわね。仕事柄そうも言ってられないのかもしれないけど・・・」
優しく頭を撫でられながら、歌恋は苦しい息の下で嬉しそうに笑った。

 

 

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3.暗雲 (2)逃亡者

 ジュリアスは、急に明るくなったので目を覚ました。ギルフォードが寝室の遮光カーテンを開けたからだ。
”今日は日が差しているな・・・.ジュリー,そろそろ起きて空港に行く仕度をしないと間に合わなくなるぞ”
”昨夜はろくに寝てないんだぞ.まだ6時にもなってないじゃないか~.7時まで寝ててもだいじょうぶだよ~”
 ジュリアスは、そう言うとまた毛布を被った。ギルフォードはその毛布をバッと剥ぎ取ると諭すように言った。
”飛行機に乗ったら十分眠れる.それに,余裕を持って早めに行かないと,ことによっては空港内で走り回ることになるぞ”
”なんだよ,アレックス.ぼくをそんなに早く追い出したいのかい"
 ジュリアスがそう言いながら少しふくれっ面をした。
”四の五の言わねぇで,さっさとシャワーを浴びてシャキッとしろ!”
 ギルフォードはジュリアスを抱え上げ、横抱きにしてバスルームに向かった。驚いたジュリアスが、ギルフォードの腕の中で暴れた。
”うわぁ,やめろ! お姫さま抱っことか恥ずかしいよ”
”こら,じっとしねぇか,ばか.重いのに大サービスで運んでやっているんだぞ.・・・そういえば何日か前も,転寝していたおまえをこうやって運んだな.覚えているか?”
”・・・ん.何となくね”
”あの時はちゃんと服を着ていたけどな.ほら、着いたぞ”
 ギルフォードはバスルームに入ると、ジュリアスをおろしながら言った。
”バスタブに湯を張っておいてやったよ.少しゆっくり入るといい.昨夜はそれどころじゃなかったからな”
”ばか.でも、湯船に浸かれるのはありがたいな.じゃ、遠慮なく”
 ジュリアスはそう言いながらザッパンと景気良く湯に入った。
”言うほど狭くないよね。このバスルーム.ジャグジーなんかもついてるし”
”ああ.足を伸ばして入れるバスタブがあるってのを部屋を選ぶ時の基準にしたからな”
”そっか.確かに脚を伸ばせていいよね.僕が育った名古屋のばあちゃんちも、ちょっと狭かったからなー”
 と言いながら、ジュリアスはぐうっと背伸びをした。
「あ~、ゴクラク、ゴクラク」
”’ゴクラク’って、おまえ”
 苦笑するギルフォードに、ジュリアスが笑いながら言った。
”こういう時,日本人は’ゴクラク’って言うんだよ.極楽は天国(ヘヴン)とはちょっと違うんだ.きっと楽しくてカラフルでステキなところさ”
”そうかい? じゃあ、俺もちょっとゴクラクにお邪魔しよう”
 ギルフォードは、長身に似合わず身軽にスルリとジュリアスの横に入った。
”って,二人入ると流石にせまいな.ああ,こうすればいいのか”
 そう言いながら、ジュリアスの背に腕を回して彼の肩を抱く。
”ま,たまにはこういうのも悪くないな”
”でも、オイルサーディンの気持ちがよくわかるよね”
 二人は肩を並べて笑った。しかし、すぐにギルフォードが心配そうな顔で言った。
”じゃ,死後の世界があるとして,日本人の多くは死んだら俺たちと違う場所に行くのか?”
”そうだね.臨死体験もヴァージョンが違うようだから,違うのかもね”
”じゃあ,行き来が大変だな”
”地獄からよりは,ずっと簡単に行き来出来るんじゃない?”
”そう願いたいね"
”だけど,選べるとしたら僕は天国より極楽がいいな”
”こら,今から出かけようって時に不吉なことを言うんじゃない”
”そうそう飛行機も落ちやしないって・・・。でも、そう言われたらちょっと不安になってきたよ”
”帰るのを中止して,ずっとここに居ることは出来ないのか?”
”そうは行かないだろ.短期滞在の許可しかもらってないんだから.僕は,正式な依頼でこの事件に参加したいんだ.それに,帰ってからけじめをつけなきゃならないこともあるし”
 それを聞いたギルフォードが体を起こしたので、支えを失ったジュリアスの体が湯に沈みかかった。ギルフォードはとっさに彼を抱き上げながらも言った。
”あっちの恋人ときっちり別れるとか?”
”そんなの居ないって,再会した夜にわかっただろ.ばかだな”
”ふん”
”何,いじけてるんだよ”
 ジュリアスは、クスクス笑いながらギルフォードから抱きかかえられた状態から体を起こし、バスタブの中で彼と向かい合って座った。
”あんなこと言って,本当は寂しいんだろ?”
”悪いか?”
”君、意外とわかりやすいよね”
”だいたいお前が・・・”
 と言いながら、ギルフォードはジュリアスの鼻先に人差し指を向けた。しかし、ジュリアスは悪戯っぽく笑うと、ぱくっとその指をくわえてしまった。
”何をするっ! うわぁ,舐めるんじゃない,馬鹿野郎っ! そんなことをしたら,また・・・”
”わあ,しまった,ちょっとタンマ! お風呂の中はやめて,のぼせるっ”
”うるさい、馬鹿! おまえのせいだからなっ!”
”わ~~~~っ!!”
 ジュリアスは焦ってバスタブから出ようとしたが、敢え無く背後からつかまってしまった。

 さて、朝っぱらからラブラブなバカップルはこの辺で放っておいて、こちらは昨夜ラブラブでなかった葛西。

 彼は、目覚ましの音で飛び起きた。途端に激しい頭痛が襲ってきて頭をかかえた。まさか感染したのかと、一瞬ひやっとしたが、よく考えたら宿酔い(ふつかよい)である。
「あいたたた、飲みすぎた・・・」
 しかし、その頭痛の中で、葛西の脳裏にいくつかの記憶の断片がよみがえった。今は素面(しらふ)に戻った彼は血の気が引くのがわかった。
「ああ、由利ちゃん、鬼の形相で怒ってた。わ~、どうしよう! いってぇ~~~!」
 しかも、どうやって寮に戻ったか、まったく記憶がないときている。なんとなくタクシーに蹴り込まれたような記憶はあるのだが。
「終わったな・・・」
 そう言うと、葛西はベッドの上にごろんと大の字に寝転がった。そして、「はああ~」と、大きくため息。その時携帯電話が鳴った。九木からであった。
「あ~、いてててて、九木さんはふつかよい大丈夫だったのかな」
 頭を抑えつつ、起き上がって電話に出た。
「おはようございます。葛西です」
「おはよう。君、宿酔いは大丈夫かね」
「はあ、頭痛はしますが、なんとか・・・」
「そうか。若いな」
「ってことは、九木さんも?」
「私はたいした量は飲んでなかったからな。少々頭は痛いが君くらいはがんばれるさ。さて、電話したのは今日のことだが・・・」
「はい」
「君、今日の9時頃空港に行く許可が欲しいって言ってたよな」
「やっぱりダメですよね・・・」
 葛西は、昨日の由利子のことを考えたら、だめで却ってよかったと少しほっとした。
「何を言ってるんだ。メガローチ捕獲に協力してくれた学者さんのお見送りだろう? 本来ならもっとお偉いさんが見送らねばならないところだ。だが、キング先生ご自身が見送りをお断りになってね。葛西君、むしろ、君に警察を代表してのお見送りをお願いしたいということになった」
「え? っで、でも・・・」
「なんだ、問題でもあるのか?」
「いえ、そんなことは・・・」
「じゃ、今からすぐに向かってくれ。俺も行く」
「えっ、今から? 起きたばかりだし、まだ7時前・・・」
 それにどうして九木さんまで・・・と口に出しかけて思わず口ごもった。
「実はな、森田健二と接触し、今も姿を隠している竜洞蘭子が、今日、空港から海外に高飛びするというタレコミがあった」
「海外逃亡って、もう空港にも手配書が回っているし、無理でしょう?」
「それがだ、偽造パスポートを使って、他人に成りすまして出国するらしいというんだ」
「名前に負けずすごい女ですね。どーゆー人なんです?」
「父親が暴力団の組長だからな。香港マフィアあたりと繋がっていてもおかしくないだろう」
「信憑性は?」
「松樹捜査本部長の話では、その可能性がないとは言い切れないということだった」
「そういえば、もともとマル暴の方でしたね」
「もし、これが事実だった場合、感染者を海外に放出することになる。そうなった場合、一気に世界規模の危機となりかねない。ガセである可能性も高いが、看過できない情報だ。それで、空港警察だけでは手に余るだろうということで、SVT(サイキウイルステロ)捜査本部からも4人ほど出ることになった。うち二人が君と私だ」
「了解。すぐに空港に向かいます!」
 電話を切った後、葛西は一転して気持ちが緊張するのを感じた。

 感染症対策センターでは、どんどん悪化していく歌恋の病状を考慮して、高柳敏江が家族を呼ぶべきだと判断した。しかし、連絡を入れても両親も兄も忙しくて来れないと言う。そのことを聞いて、敏江は深いため息をついた。
「実の娘さんが、こんな状態にいるというのに・・・」
 しかし、敏江はその先の言葉を濁した。歌恋に配慮したのだろう。もっとも、今の彼女がそれを理解したかどうかは疑問だが。
「敏江、やはりここだったか」
驚いて振り向くと、そこには高柳が立っていた。
「あな・・・センター長」
「『あなた』でも僕は構わないよ」
 高柳はそう言いながら敏江の横に立った。その時、歌恋がふっと目を覚まして高柳のほうを見た。彼女はにこっと笑うと、高柳のほうに手を伸ばして言った。
「おとうさん、きてくれた・・・」
 高柳は戸惑って妻のほうを見た。敏江は悲しそうに微笑んで言った。
「昨日から、ずっとこういう状態なの。可愛そうに・・・」
「話は聞いているよ。いろいろ大変なようだね」
「私のそばにいるから、あなたを父親だと思ったのね。ね、あなたに手を差し出してるわ。そっと握ってあげて」
「どうも、こういうのは苦手なんだがね」
 と言いながらも高柳は歌恋の手をとった。歌恋はすがるような目でたどたどしく言った。
「おとうさん、おかあさん、ずっと、そばにいてね・・・」
高柳は、そっと歌恋の頭を撫でて言った。
「わかったよ。だからちゃんとお休み。早くよくなろうね」
「うん」
 歌恋はうなづくと、安心したように再び目を閉じた。
「やりきれんなあ。こんな子をよく放っておけるものだ」
「でも、患者数が増えてきたら、これからもこういうことがないとは言えないわ」
「血のつながりが絶対ということはないからね。悲しいことだが・・・。敏江、今日は出来るだけこの子についていいなさい。今は落ち着いているが、おそらくこれからが峠だろう。越えられればいいが・・・」
 そう言うと、高柳は歌恋の頭をもう一度撫で、去っていった。敏江はベッドサイドに椅子を持ってきて、歌恋のそばに座った。そして、彼女の寝顔を見ながらつぶやいた。
「私には、もうこの子をこうやって見守ることしか出来ないのか・・・。医者なのに、何も出来ないのか・・・!!」
 敏江の両肩は、かすかに震えていた。
 

「もう、みんな、おっそい! 何してんのよ!」
 由利子は、待ち合わせ場所のF空港の国内線ターミナル内の喫茶店で、ひとりやきもきしながら座っていた。早めに出たせいで一番乗りしてしまったのだ。しかし、30分経って約束の時間になっても誰も来ないので、だんだんイライラしてきて、確認をしようと携帯電話を手に取ったとたんに葛西から着信があった。
「うわっ」
 由利子は驚いたが急いで電話に出た。昨日の今日なので、なんだか電話に出るのが気まずい。すると、電話から葛西のおずおずとした声が聞こえてきた。
「・・・えっと、あのっ、由利子さん、すみません。もう空港に来てますよね」
「ええ、30分も前から来てるわよ。誰も来ないんだもん、もー」
 由利子は出来るだけいつもの調子で言った。それで葛西の緊張が解けたらしく、ほっとした様子で言った。
「すみません。実は僕も8時前から来てるのですが、ちょっとここで問題が起きていて・・・」
「ここでって、この空港でってこと?」
「はい」
「まさか、ばくだ・・・」
「こんなとこで物騒なことを言わないで下さい」
 葛西が焦って止めた。
「あ、ごめんごめん。で、何が?」
「ええ、実は・・・」
葛西は、状況を簡単に説明した。理由を聞いた由利子があきれ声で言った。
「名前もすごいけど、とんでもない女やね。でも、情報どおりにここに来たら、大変よね。特に発症してた場合、またパニックになってしまう」
「あの、由利子さん、たしか松樹さんに彼女の写真も見せられてましたよね」
「ええ。他にも見たくもない連中の顔をたんと見せられたわよ。見ただけで腹の立つ斉藤幸治の顔もね。あの人、私を警察犬代わりでもにしたいのかしらね」
「そんなことはないと思いますが、いっそ、そういう仕事を請け負ったらどうです? どこかの自称FBI超能力捜査官より当てになりそうですよ」
「ジョーダンじゃないわよ。これ以上面倒なことに首を突っ込んでたまるものですか」
「ははは。でも、もしそれらしい人を見つけたら連絡してください」
「そりゃあ、もちろん。じゃあ彼女、こっちに来るってこと?」
「直接海外に行くのか、まず、国内線で他の空港まで行くのか、そもそもどこの国に行くのか、そういう細かい情報がまったくないんです」
「そっか。国際線の本数少ないからね。あってもアジアが主だし。ジュリーも関空経由で帰るって言ってるもんね」
「僕はそういう状況なんで、見送りに間に合うかどうかわかりません。その時はジュリーによろしくと言ってください」
「うん、わかった。じゃ、お疲れ様」
 由利子は電話を切ると、ふうっとため息をついてつぶやいた。
「なんか、また大変なことになってるよなあ」
 しかし、電話を終えたあと携帯電話に記された時刻を見て、また少し由利子の眉間にしわが寄った。
(約束より10分過ぎと~やん。自分たちから少しお茶しようとか言っとおきながら、なにやっとるんじゃ、あの二人はっ! まさか別れを惜しんどるんやなかろーね)
 由利子は、やや乱暴に電話をバッグに収め、冷めたコーヒーを飲み干すと、追加オーダーのためウエイトレスを呼ぼうと周囲を見回した。すると、入り口のほうから背の高い外国人の男二人が現れた。周囲の注目がさっと二人に集まった。二人は由利子の姿を確認すると、さっさとそっちのほうに向かった。イケメン外人二人の連れということで、周囲の羨ましそうな視線が由利子のほうに向かった。なんとなく悪い気はしない。
「ハイ、ユリコ。待たせてすみませんね」
「もう、おっそ~い。何してたのよ!」
 それでも苦情を言いながら、目の前に並んだ二人の顔を見た由利子は、あきれて言った。
「何、二人とも目の下に隈作ってんのよ、もう・・・」
「あははは・・・」
 二人は照れ笑いをしながら、由利子と向かい合って座った。
 

 斉藤孝治は、激しい腹痛で目を覚ました。祖母を呼んだが返事がない。早朝から出かけた日課の畑仕事からまだ帰ってきていないようだった。孝治は仕方なく起き上がろうとした。しかし、その時右足首の痛みに気づいた。見ると、昨夜挫いた右足首がパンパンに腫れ、しかも内出血で赤黒くなっていた。孝治は驚いた。そこまで酷く挫いた覚えがなかったからだ。急いで右掌を見ると、かすった傷からまだ血がにじんでいる。普通なら血等ほとんど出ないていどの傷のはずだった。孝治はおかしいなと思ったが、腹痛が激しくなっていくのを感じてよろよろと立ち上がった。右足は痛いが歩けないほどではない。しかし、熱が高いせいでふらふらして、どうしても何かに寄りかからないと数秒で倒れてしまうそうだった。幸い、祖母の家は体が悪くなったときを考えて、家を改築していたので、バリアフリーの床や壁の手すりのおかげで何とか御手洗まではたどり着けた。しかし、用を足した後紙についたものを見た時、恐ろしくて確認せずにすぐに流してしまった。幸い、昨夜機転を利かせてつけておいた失禁用ナプキンは汚れていなかった。孝治はなんとなく妙な気持ちで立ち上がり寝巻きを調えて手を洗った。その時、ふと目の前の鏡を見てまたぎょっとした。昨夜右手とともに顔にも擦り傷を負ったのだが、その傷は腫れ、血の混じった汁がじわじわと流れていた。それは、ただでさえ内出血の染みだらけの顔を、更に凄みのあるものにしていた。孝治は「うわぁっ」と小さい悲鳴を上げて手洗いから飛び出すと、ドアの前でへたり込んだ。
 孝治はへたり込んだまま恐怖と戦っていた。
(いったい俺の体はどうなっている? これから俺はどうなる・・・?)
 心臓の鼓動は激しく打ち、体が小刻みに震えている。そんな時、年配の女性の声が聞こえてきた。
「あ~、暑かねえ。やれやれ、ようやくうちまで帰り着いた」
 そして、手洗いの近くにある玄関に老女の姿が映り、鍵を開けるとガラガラと引き戸を開け祖母の須藤絹代が入ってきた。彼女は手洗いの前に座り込んでいる孝治にすぐに気がついた。
「コウちゃん、どうしたと? きついんね? コウちゃんのために新鮮なトマトを採ってきたばってん、それじゃあ、食べれらんかねえ・・・」
「ばあちゃん、おれ・・・」
 孝治は恐る恐る祖母のほうを見た。明るい場所で初めて孝治の顔を見た絹代は、腰を抜かさんばかりに驚いた。
「コウちゃん、どうしたんね!?」
 絹代は作業用の長靴を脱ぐのももどかしく、家に上がって孝治のそばに駆け寄った。
「あっちこっちあざだらけやんね。足も腫れとおし・・・。あんた、ホントは事故に遭ったっちゃなかね?」
「ちがうよ、これ、昨日の晩トイレから帰ったとき、部屋でこけたっちゃん」
「あんた、家ん中でちょっとこけたくらいでこげんになるわけなかろーが。病院行かんと。ばあちゃんが軽トラではこんじゃるけん」
「大丈夫やって。寝とったら治るってば」
「いかん。あんたね、ばあちゃんが何ぼ馬鹿やっても、こん状態がまともやないことくらいわかるが。きついんなら救急車呼ぼうか」
「いらんことせんでんよか!」
 孝治は病人らしからぬ大声で怒鳴った。その激しい声に絹代は驚いて目を丸くした。
「あ、ごめん・・・」
 孝治は我に帰って言った。
「ばあちゃん、心配してくれとぉとにな。でも、ほんとうに大丈夫やけん。部屋でおとなしく寝とくわ」
 孝治は優しく言うと立ち上がり、手摺りにすがるようにして部屋に戻って行った。
 絹代はしばらく呆然と座り込んでいたが、何かに気づいたように立ち上がって居間のほうに向かった。そして、テレビの横にあるマガジンラックから一番新しい市報を手に取ってページをめくり、目的のページを開いた。それは、新型感染症の特集ページだった。
 

「ねえねえジュリー、今のうちに聞きたいことがあるんだけど・・・」
 ギルフォードが高柳からかかった電話に出るために席を外したので、由利子は少し気になっていたことを聞くことにした。
「何かね」
「あのさ、アレクの親友だった女性って知ってる? アレクが私に似ているって言ったことがあるの」
「ああ、昔、2・3度だが会った事があるがや」
「どんな人だったの?」
「なんでおれに聞くのかねー?」
「なんとなく、本人には聞きづらくて・・・」
「まあええて。教えたるわ。彼女の名前はエマールダ。エメラルドが名前の語源だて、黒髪に名前を現すようなグリーンアイズで、南国的で情熱的な女だったよ。身長は160cmくらいで細身だけどけっこうグラマラスでね・・・」
「って、そのグラマー美人と私のどこが似てんのよ。どちらかというと美羽じゃん」
「見た目じゃのーて、なんていうか、男と親友になれるようなヤツだで、見かけによらずサバサバしとって、おれから見ても、ずいぶんと漢(おとこ)らしいヤツだったわー。そのせいか、ゲイの素養のある人間にもよー慕われとったんだと。彼氏もバイでね。ほだけど、そのせいで彼氏からエイズに感染してまったんだ。10数年前の話だから、今ほどエイズの薬もなくてね。今なら死ぬことはなかったと思うて」
「そうだったの」
「アレックスの嘆きはすごかったそうだがや。しかも、アル・新一に続いて身内以外でアレックスが慕った人間が死んだのは3人目だろ。ほいであいつのサバイバーズ・ギルトが悪化してね。ほだな、ちょこっとこれを見てくれーせんか」
 そう言うと、ジュリアスはいきなり右足のジーパンのすそをめくり上げた。その向う脛に大きな傷跡があった。
「ど、どうしたの、それ?」
由利子が驚いてたずねた。
「4年前のことだが車が歩道に突っ込んできてね、とっさに避けたけど避けきれにゃーで、ビルの壁と車の間に足が挟まって複雑骨折したんだわ。まだボルトが入ったままだがや。まあ、この時は命に別状なかったけど、駆けつけたアレックスの蒼白な顔は今でも忘れられにゃーて」
「この時はって、まさか」
「察しがええね。髪に隠れてわからにゃーけど、ここにも傷があるんだわ」
 ジュリアスは頭の右側を抑えて言った。
「3年くらい前になるかな。中東に支援に行った時、爆弾テロに巻き込まれてね、破片が直撃したんだわ。この時は1ヶ月意識がなかったらしいて。おれが意識を取り戻した時、アレックスは横で手を握って泣いとったけど、その後、あいつ、俺の前から姿を消したんだ」
「自分のせいだって思ったって訳?」
「そういうことだがね。しかも、たちが悪いことに、自分じゃそれを意識しておれせんのだわ。俺のほうから去ったって思っとったんだ。おれ、でらたまげたわ・・・」
「そりゃあ、驚くよね。私もちょっとびっくり・・・」
「ほだから、あいつはああ見えてけっこう不安定なとこがあるて、由利子、おれのいない間、頼んどくな」
「って、私はエマールダさんとは違うのよ。それに紗弥さんだっているじゃん」
「紗弥の仕事は秘書だが、もともとの役目はアレックスの護衛なんだわ。詳しいことは言えにゃーけどね。だもんで、おみゃあさんには紗弥と一緒にアレックスの支えになってもらいてゃーんだ」
「う~ん・・・」
 由利子は腕組をして考え込んだ。
「おれ、心配なんだわ。それでのーてもこの事件はアレックスのトラウマに触れすぎとる。ほだけど、あいつは敢えて真正面から向き合おうとするだろう。おれは、2・3週間で帰ってくる。その間でえーんだ。あいつのフォローを頼むわ」
「そう言われてもなあ、メンタル面で責任重大だし・・・」
 由利子は困ってつぶやいた。その時、ギルフォードが電話を終えて帰って来た。彼は席に着くと開口一番に言った。
「・・・おや、二人とも深刻な顔をして、どうしたんですか?」
「葛西君が見送り間に合うかなって話をしてたのよ」
「ああ、確かに心配ですね。それより、ユリコ、ササガワ・カレンさんの容態が良くないそうです」
「え? そんな・・・」
 昨日の状態を見て、そんな予感はしていたのだが、やはり現実にそれを聞くと愕然とする。
「まだ危篤とまではいかないようですが・・・。ユリコ、後でセンターに寄ってみましょうね」
「ええ、行きます」
「それから、紗弥さんももうすぐ着くそうです。事故渋滞に引っかかったので、バイクで出直したそうです」
「じゃあ、あとは葛西君だけね。まったくもう、たった一人の自己チュー女のせいで、とんだ迷惑だよ」
「発症してなければいいのですけど・・・」
「発症していたら・・・?」
「状態次第では、空港の一時閉鎖だな。おれ、帰れんがね」
「まあ、この前のF駅の感染者くらい病状が進んでなければ、それはないでしょう。いずれにしても、身柄確保は仰々しいものになるでしょうけど」
「・・・ったく」
 由利子がたんっとテーブルを叩いて言った。
「また、ニュースネタになるじゃん。ほんっとに困った女よねえ」
「まったくです」
「まったくだがや」
 ギルフォードとジュリアスがほぼ同時に同意した。
    

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3.暗雲 (3)フールズ・ラッシュ・アウト

 部屋に戻って横になり、うつらうつらしていた孝治は、ふと窓の前を何かがよぎったのがカーテン越しに見え、驚いて体を起こした。孝治は嫌な予感がして、だるい体に鞭打ち窓にそうっと近寄った。鍵を開け、カーテンをそっとめくって窓を1センチほど開けて外の様子を伺った。するとそこに数名の黄色い防護服をつけた救急隊らしき男たちの姿を認めた。孝治は震える手で窓をそっと閉めると鍵を掛けた。孝治はそのまま窓際に座り込むと、震える手で顔を覆いながら、うめくようにつぶやいた。
「ばばあ、ちくりやがったな」

 F空港の搭乗口前では、目立った男女4人がさりげなく人々の注目を引いていた。
「話は尽きにゃーが紗弥も間に合ったことだし、葛西が来れにゃーのは残念だがそろそろ行かにゃーて」
 そういいながらジュリアスがショルダーバッグを持って立ち上がろうとした時、彼を呼ぶ声がした。
「ジュリー! 待って!」
 見ると、Tシャツ姿のやたらラフな格好の若い男が走ってきている。よく見ると葛西だった。由利子がそれを見て少し顔をしかめた。
「あ、やっと来たよ。しかし、なんちゅ-格好だよ、もー」
「ジュン! よかった、心配しましたよ」
 ギルフォードは安心したように言った。
「はあ、間に合った」
 葛西は4人のそばまで来ると、座り込んで肩で息をした。
「久々に長距離を全力で走ったよ。まったくもー、何で国際線じゃないんだよ」
「国際線で蘭子を張っとったのか。まあ、おれだって色々都合があるがね」
「僕も、両方に可能性があるなら国内線がいいって思って、目立たないようにこういう格好をしてきたのに」
 前後ろに怪獣のシルエットと番組タイトルの某超人ロゴが赤くプリントされた白いTシャツに、小汚いストレートのジーンズを履いている。さらに、何故か足元はミリタリーブーツで頭には迷彩のバンダナを巻いていた。とどめには怪獣のイラスト付ペーパーバッグを持っている。
「上下と中間に違和感があるけど、ひょっとして、コンセプトは・・・」
 由利子がいぶかしげに聞いた。
「はい。アキバに向かうオタクです」
「そりゃあ、国際線じゃさぞかし目立っただろうねえ」
「ここでも十分目立ってますわ」
 由利子に続いて紗弥も少しあきれていった。
「そういえば、九木さんからかなり嫌な顔をされました。でも、入国し立ちのアメリカ人観光客団体さんから喜ばれて、写真を撮られましたよ」
「おみゃーさん、でらえー男なのに、ピントとセンスがちいとばっかずれとるわ。そこがまた可愛いのだが」
「はいはい、わかります」
 と、ギルフォードが仕打ちを打った。
「そーかぁ?」
 この二人のセンスにもついていけないと思う由利子であった。
「じゃあ、行くからな。諸君、しばしの別れだなも」
 ジュリアスがバッグを持ち替えながら言うと、今度は由利子が呼び止めた。
「ジュリー」
「何かね?」
「あの件、了解したから、心置きなく帰国して。でも、早く帰って来てよ」
「由利子、ありがとう!」
 ジュリアスはそう言うや否や、由利子の背に手を回すと唇に軽くキスをした。いきなりのゲリラキスに由利子は防ぐ余裕がなかった。
「何すんのよ!」
「おっと」
 ジュリアスは軽く由利子の手を交わすと、驚いて口をパクパクさせている葛西にすばやく近づいて、さっさと唇を奪ってしまった。
「ジュジュジュジュリーッ! なっ、なっ、ななな・・・」
葛西は口を押さえてわなわなと震えながら抗議したが言葉にならない。
「由利子との間接キスだがや。まあ、ミツバチが口に止まったと思ってちょーよ」
「何がミツバチよ、このキス魔っ!」
 由利子は怒って言ったが、この時ジュリアスは引き続き紗弥にキスしようとして、敢え無く羽交い絞めにされていた。それを見た由利子は怒るのも馬鹿らしくなって吹き出した。
「もう、馬鹿なんだから・・・」
「痛ぇ~~~~~~、紗弥、おれが悪かったがね、離してちょーよ。ギブギブ、死ぬ~」
 ジュリアスがジタバタしながら紗弥に懇願している横で由利子が笑い出して、その横で葛西がボーゼンとした様子で固まっている。その光景をギルフォードは複雑な表情で見ていた。ジュリアスは紗弥から開放されて乱れた髪と衣服を整えると、にっと笑って言った。
「葛西、おれが帰ってくるまでに由利子と直接キス出来る様になっとれよ」
「ジュリー! 馬鹿なこと言わないでよ」
 茫然自失の葛西に代わって由利子が抗議したが、ジュリアスは笑ってそれを交わした。その横でギルフォードが不満げに言った。
「ジュリー、僕へのキスは?」
「おみゃーさんへのキスは、こっちに帰ってくるまでお預けだがや。じゃあな、アレックス、今度こそ行くからな」
 ジュリアスは名残惜しそうにギルフォードを見て言うと、吹っ切るように翻って行こうとした。ギルフォードはその手を掴むと彼を引き寄せ腰に手を回し抱き寄せた。ジュリアスは驚いて眼を大きく見開いたが、抗うことなくギルフォードのキスを受け入れた。それを目撃した女性たちのきゃあ~という歓声が上がった。
「あ~あ、注目の的やん。空港のど真ん中で何やってんだか・・・」
 由利子があきれながらも流石に気恥ずかしくて、二人から目をそらし葛西の様子を見たが、幸いにもというべきか、彼は男性にキスされたショックで引き続き固まったままあさってのほうを向いていて二人の様子に気づいていないようだった。由利子は肩をすくめると、今度は紗弥のほうを見た。紗弥はというと、この状況にまったく動じず冷静に周囲を警戒している。と、携帯電話を二人に向けようとした不届き者の手から電話がはじきとんだ。男は何が起こったかわからずにきょろきょろと周囲を見回すと、焦って電話を取りに走った。
(え? ひょっとして指弾? この人、ほんとに何者? それにしても、葛西君の頼りなさときたら・・・)
 由利子は紗弥から再び葛西に目を向けると、ため息をついた。
 由利子が照れ隠しにあちこち様子を見ている間に二人はキスを終え、ジュリアスは笑顔で皆を見回して言った。
「すまにゃ~ね。これは想定外だったんだなも。じゃあ、今度こそ行くぞ。じゃ、またな!」
 ジュリアスは笑顔でそう言うと、出発口に向かって駆け出した。彼は入り口で立ち止まってもう一度振り返り、投げキスをすると笑顔で大きく手を振ってから出発口に消えて行った。
 イケメン外人二人の本格的キスがF空港職員の間で語り継がれ、伝説となったのは、後のお話。

 ジュリアスの姿が出発口に消えた後、ギルフォードは少しの間その方角を見つめていたが、由利子たちのほうへ振り返ると照れくさそうに言った。
「え~っと」
「それは、こっちのセリフでしょ!」
 すかさず由利子が突っ込んだので、紗弥がその場をとりなすように言った
「まあまあ、皆さん。4階の展望台で飛行機が飛び立つのが見られますわよ。みんなで行きませんこと?」
「あ、それいいわね」
「じゃあ、行きましょうか」
 由利子とギルフォードがすぐに同意した。葛西はというと、まだショックから抜け切っていない様子で固まったままだった。由利子は葛西の背をバン!と叩いて言った。
「何いつまでもショックから立ち直れないでいるのよ! 行くわよ」
「え?」
 葛西が驚いたような顔をしたので、紗弥が少し戸惑った表情で説明した。
「みんなで展望台に行くことになったのですけど・・・」
「え? ジュリーは?」
 目点で聞き返す葛西より、更に目点になった由利子が答えた
「あきれた。ほんとに意識が飛んじゃってたんだ。あのね、もう行ったわよ」
「ええっ? 行っちゃったの? なんか、さっき彼と会ってからの記憶があまりないのですが・・・」
「あ~、またこのお子ちゃまは~」
 由利子がまた怒りそうになったので、ギルフォードが慌ててフォローした。
「ユリコ、あまりジュンを怒らないで下さい。アレはやっぱりジュリーが悪いです。ユリコだって多少のショックはあったでしょ? ストレートの男性ならなおのことですよ」
「わかった。で、葛西君。そういうことだから、ジュリーの乗った飛行機を送るんで展望台に行くことになったの」
「そうですか。なんかまだ経移が把握出来てませんが、行きましょう。持ち場に帰るまでもう少し時間がありますから」
「OK、じゃあ、行きましょうか」
一行はエレベーターに向かって歩き出した。
 少し歩いたところで、由利子がはっとして葛西のシャツを引っ張った。あまりにもグイッと引っ張ったので襟元がのどに食い込んで、葛西はキュウと妙な声を出した。
「げほっ、何するんですか、由利子さん。ごほごほ」
 葛西が涙目で振り返った。由利子は自分の唇を人差し指で抑えながら言った。
「しぃっ。持ち場に帰る必要はなさそうよ」
 そう言いながら、由利子が一箇所に目線を向けた。

「敏江先生、笹川さんが・・・」
 川崎五十鈴の診察をしていた高柳敏江に、甲斐看護師の切迫した声で内線が入った。
「しきりにお母さんを呼んでおられます。熱もすごく高くて苦しそうなんです。先生、早く来てください」
 甲斐看護師の声の向こうで女の子の泣き声と看護師たちがなだめすかしている声が聞こえた。一瞬、敏江が動揺の色を見せた。それに気がついて、五十鈴が言った。
「先生、私はいいから早く行ってあげてください」
「川崎さん?」
「私とは少しの間だけ同室やったけど、身内の情の薄い可愛そうな子でした。私のことをお母さんだったらよかったのにって言うてくれました。なんか、他人の子じゃないごと思えてしもうて。先生、あの子に私の分もよくしてやってください」
「わかりました。でも、もう少しで診察は終わりますよ。終わったらすぐに行きますから、ご心配なさらずに」
 敏江は平静を取り戻すと落ち着いて言った。
 歌恋の病室では、看護師たちがぐずりながら邪魔な点滴の針を外して逃げ出そうとする歌恋を抑えていた。
「甲斐さん、このままでは針刺し事故がおきかねません。私たちが危険ですっ。もう、北山さんのように拘束するしか・・・」
「そうしましょう! これは、男の私でもきついっ。いったい、どこにこんな力が残っているんだ!」
「そ、そうね。先生を待つまでもたないかもしれないし・・・。でも、知能の退行したこの子にそれは・・・」
 甲斐は悩んだ。そんなことをしたらこの子に最悪の苦痛とストレスを与えることになる。見た目は成人女性でも、心は5歳くらいの幼児なのだ。あまりにも不憫ではないか・・・。それで甲斐に隙が出来たのか、歌恋は甲斐の手を振り払い右手の点滴の針を引き抜いた。それとともに刺し痕から血が飛び散り、針は歌恋の手の動きに沿って、空に弧を描いて移動し、甲斐の目前に迫った。甲斐は顔を庇おうと反射的に針を掴もうとした。

 由利子が目で示した方角には上りエスカレーターがあり、人々が間断なく上ってきていた。由利子は上ってくる人たちの中から地味な若い女性を示していた。
「蘭子よ」
「ええっ、あれが? だって写真とは別人じゃないですか」
「一見別人だけど、この由利子さんは騙せないわよ。いい? 写真の蘭子は派手な厚化粧でアイメイクもすごいでしょ。化粧を地味にして髪を黒く戻してストパーかけたらああなるの。目も普段は縁の黒いコンタクトレンズで黒目を大きく見せてたのね。それだけで印象が大分変わるわ」
「ってことは、あれが本来の蘭子ってことですか?」
「そうなるわね」
「へえぇ~、やっぱり女性は化け物だ」
 葛西は件の女をもう一度見て言った。その女は肩まで長さのまっすぐな黒髪で市松人形のように前髪を下ろし、化粧も地味なナチュラルメイクにして更に野暮ったい黒縁眼鏡をかけて、地味なグレーのパンツスーツをまとっている。写真の上げ上げ巻き毛茶髪で重たそうな長いまつげに目の周り真っ黒なアイメイクの派手な女性とはまったく別人だ。長期旅行のつもりか大きなスーツケースを持っている。
「一見、真面目なOLの出張って感じだけど、あの荷物はないなあ。機内に持ち込むつもりかしら? 入らないと思うけど・・・」 
「わかりました。由利子さんの目を信じます。すぐに皆を招集しますから、由利子さんはアレクたちと先に行ってて下さい」
「アレクには適当に言うわよ。ホントのことを言ったらこっちに残るって言うにきまってるんだから」
 由利子はそう言うとさりげないふりをして葛西から離れ、足早にギルフォードの方に向かった。

「気をつけなさい、甲斐さん! 針を掴もうとするなんて、もし手に刺さってしまったらどうするの! 何のための防護服とゴーグルなの!?」
 はっとして顔を上げると、敏江が点滴の管を持ち立っていた。五十鈴の部屋から駆けつけてきた敏江が、間一髪で歌恋の手を掴み、点滴の管を取り上げたのだ。
「おかあさん、おかあさん・・・」
 歌恋が嬉しそうに敏江の防護ガウンのすそを握って言った。敏江はかがんで歌恋の顔のそばに自分の顔を近づけると優しく言った。
「お出かけしてて、ごめんなさいね。これからは歌恋ちゃんのそばにいるからね」
「ずっといてくれるの?」
「大事な御用がない限りは、ずっと居るわよ。もし出かけしても、すぐに帰ってくるからね」
「わあい、かれん、うれしいな」
「だから、もう暴れちゃだめよ。これも邪魔だけど取っちゃだめ。頭の痛いのが治らないのよ」
「うん、わかった」
「じゃあ、もうちょっと寝ようか。お母さんが横に居るから安心でしょ」
「うん。かれん、なんかつかれた・・・」
 歌恋はそう言うと、ふっと目をつぶった。
「歌恋ちゃん?」
「笹川さんっ」
 周囲が一瞬ヒヤッとして声をかけた。しかしその後に聞こえた寝息で、スタッフ全員安堵の表情を浮かべた。

 葛西が連絡を終えると、横に由利子が立っていたので驚いて飛びのいた。
「ゆ、由利子さん、いつの間に・・・」
「ちょっと、お化けでも見たように驚かないでよ」
「アレクと一緒に行かなかったんですか?」
「ええ。葛西君がうんこしに行ったんで、私もついでにトイレに行くから先に行っててって言っといたから」
「ちょ、ちょっと、うんことか変なこと言わないで下さいよ」
「声が大きいっ」
 周囲の人たちが振り向いたので由利子はちょっと焦った。
「ただでさえ、さっきのことで目立ってんのに・・・」
「何かありましたっけ?」
「もう、いいわよ。で、蘭子は?」
「あ、荷物を預けに行ったようですね」
「さすがにあれは持って入れないか・・・。で、これからどうなるの?」
「防護服の救急隊を待ちます。九木さんたち国際線組ももうすぐこちらに来るようです。国内線組は既にここで張ってますから、もし蘭子が不審な行動をとった場合、取り押さえにかかると思います」
「って、そんな普通の格好で? もし蘭子が発症してたら危ないじゃない」
「さっきこれで確認したところ・・・」
「何それ?」
「携帯サーモグラフィーです。赤外線を探知するので発熱していたらすぐにわかります」
「へえ、すごいじゃん」
「空港のあちこちがサーモグラフィーで監視されていますよ。導入はこの事件以前からですが」
「ああ、サーズや新型インフルエンザとかの」
「はい。で、特に発熱はしていないようだったので、大丈夫とは思いますが・・・」
「じゃあ、感染してないってこと?」
「いえ、日にちは経ってますが、感染後10日経って発症した川崎さんという男性がいます。予断は許せません。隔離は妥当だと思います」
「そうなんだ」
「でもまあ、発症してないならまだ感染のリスクはかなり低いでしょうね。でも、もし危険があっても行かざるを得ないでしょう」
 危険があっても、と葛西が言ったので、由利子は一瞬動揺した。
「・・・葛西君・・・、も?」
「当たり前じゃないですか」
「そうよね。警官だもんね」
 由利子はそう言いながら、心に不安がよぎったのに気がついた。
(なんとなく多美山さんの奥さんや葛西君のお母さんの気持ちがわかったような気がする・・・)
「由利子さん、だから僕のそばは危険です。早くアレクのところに行っててください」
「そうはいかないわよ。だって、私が発見したのよ。見届ける義務があるわ」
「もう、頑固なんだから。じゃあ、危険を感じたらすぐに退避してくださいよ」
「わかってるって・・・あら、あそこにいるのはふっ○い君じゃない?」
 由利子が新聞を読みながら壁に寄りかかっている男を見て言った。
「いつからいるのかしら?」
「もともとエレベーター前で張ってましたが、こちらに移動したようですね。それから由利子さん、ふ○けい君て言うの、やめてください。あれ以来、富田林さんの顔を見るたびに笑いそうになるのをこらえるのが大変で・・・」
「それは悪かったわね。・・・ということは、相方の増岡さんもいる?」
「彼は搭乗口のほうを張っていましたから、そろそろ来るんじゃないでしょうか・・・。あ、蘭子が動き出しましたね。誰か待っているのかな、きょろきょろしてますね」
 蘭子は荷物を預けて身軽な足取りで戻ってきたが、周囲を見回すと少し不機嫌な表情で歩き出した。その後、彼女は出発口の前で腕組をしながら立ち止まった。作業員が来て、出発口に移動式柵を並べ始めたのだ。柵にはお断りとして「点検作業のため30分程通行止めをいたします」と書かれていた。蘭子は作業員の一人を呼び止め文句を言った。しかし、マスクをつけた職員は丁寧に謝りながら慇懃に頭を下げるだけだった。
「ぷっ、あれ、増岡さんじゃん」
「まったく、由利子さんのいるところでは、顔見知りは使えないな」
 葛西が困ったようにつぶやいた。
 蘭子は不安げな表情で周囲を見回すと、携帯電話を取り出して電話をかけはじめた。
「どこに電話しているのかしら?」
「親父か彼氏かそこら辺ですかねえ」
「なんか様子が変だって気付き始めたのかも」
 その時、葛西に無線が入った。
「え?」
 聞いていた葛西の表情が急に厳しくなった。
「なんて馬鹿なことを・・・」
「どうしたの?」
 由利子が心配そうに聞いた。
「斉藤孝治が、祖母を盾にして祖母宅に立て篭もったそうです」
「うそっ」
「残念ながら現実のようですね。祖母宅に潜伏していたようですが、発症に気付いた祖母が保健所に連絡し、救急隊員が駆けつけたところ、隔離を恐れていた斉藤孝治が強硬手段に出たようです」
「なんて考えなしの馬鹿男なんだろ」
「あ、ちょっと待って、電話だ。九木さんからだ」
 そう言うと、葛西は急いで電話に出た。
「はい、葛西です」
「葛西君、無線は聞いただろ?」
「はい」
「私は今から斉藤孝治の立て篭もり現場の方に行く。君はここに残って代わりに指揮をとってくれ」
「え? 私がですか?」
「そうだ」
「そんな、無理です! 僕・・・いえ、私は一介の巡査ですよ」
「松樹対策本部長の判断だ。君に断る権限はないぞ」
「・・・了解。では、これが終わり次第、私もそちらに駆けつけます」
「よし、よろしく頼むぞ」
 九木はそこまで言うと、さっさと電話を切った。
「まいったな・・・」
 葛西が困ったような顔をして言った。
「ベテランたちを差し置いて僕に指揮をとれって・・・。こんなの前代未聞の命令です」
「すごいじゃん。大丈夫、君なら出来るよ」
 由利子が戸惑う葛西を励ますように言った。

「ジュンもユリコも長いうんこですねえ」
 4階の展望台で、ギルフォードが時計を見ながら言った。
「いやですわ、教授。それではお二人がうんこみたいじゃないですか・・・。あらやだ、わたくしったらうんこだなんて・・・」
「って、2回も言ってるじゃん」
 と、すかさずギルフォードが突っ込んだ。
「何かあったのかもしれませんわ」
 気を取り直すように紗弥が言った。
「様子を見にもう一度2階まで行ってまいりましょうか?」
「考えられることは、ユリコがランコを見つけたということです。まあ、せっかく気を遣ってくれたのだから、ここにいましょう。警察の仕事だし、僕らが行ってどうなることでもありませんしね」
 と言いながらも、ギルフォードの口が若干尖り気味なのを紗弥が見逃さなかった。しかし、ギルフォードはすぐにくすっと笑って言った。
「そういえば、ランコとうんこって言葉、字面も発音も似てますね」
「教授、そんな身も蓋もない・・・」
 紗弥がため息をついて言った。

 葛西は、すばやく手袋をはめ、マスクをつけゴーグルを被った。由利子に離れて待つように指示すると、富田林と増岡を含む三人の警官とともに、蘭子に近づいた。
(あの紙袋には、あんなものが入ってたんだ)
 由利子が改めて驚いた。が、周囲を見回してもっと驚いた。いつの間にか由利子以外の一般客が人払いされていた。少し向こうからは、完全防護の救急隊員が駆けつけている。
 蘭子は突然現れた奇妙な格好の男たちに驚いて数歩後退った。
「竜洞蘭子さんですね」
 葛西が警察手帳を見せながら言った。
「あなたをサイキウイルス感染濃厚者として、保護します」
「人違いです! 私は葛城i雅美です」
「だめです。もう、あなたにはごまかすことは出来ません」
「ほら見てよ、身分証明もあるし、パスポートだって・・・」
 蘭子は急いでバッグから一式を取り出した。葛西は受け取ると中身を確認した。確かに名前は葛城雅美で写真も良く似ている。
「ほら、間違いないでしょ? 人違いにもほどがあるわ」
 蘭子が勝ち誇ったように言った。
「こんなことしてもし捕まえたりしたら、訴えてやるわよ」
 葛西たちは一瞬顔を見合わせた。その時由利子が叫んだ。
「その人は間違いなく竜洞蘭子よ! かく乱されないで!」
「何よ、あのオバサン!」
 蘭子はキッとした顔で由利子の方を見た。
「源田君、これらのものからこの葛城雅美という女性が存在するか調べて」
 葛西は若い警官に「葛城雅美」の身分証明等を渡した。
「了解」
 と、言うや否や、彼はそれを持って駆け出した。
「さて、『葛城』さん。あなたが『ホンモノ』かどうか、もうすぐ照合されますが、とりあえず保護させてもらいます」
 葛西が合図すると、防護服の救急隊が近づいてきた。蘭子はすばやく周囲を見回すと、富田林の方へ駆け出した。比較的小柄な彼を見て手薄と見たのだろう。しかし、富田林は機敏に動いて彼女の逃亡を阻止した。
「竜洞さん、観念しなさい。手荒なマネをすることになりますよ」
 富田林は厳しい表情で言った。それはマスクとゴーグルでいつもと雰囲気が違い、迫力があった。しかし、蘭子は今度は葛西の方に向かって突進した。葛西は彼女の腕を掴んで言った。
「仕方ありませんね」
 葛西は悲しそうな顔をして後ろに控えていた防護服の警官たちを呼んだ。
「救急隊の皆さんと協力して、この女性を救急車まで運んでください。出来るだけ手荒なことは避けて・・・って、無理か・・・」
 あくまで人違いだと抵抗する蘭子は、とうとう拘束されてストレッチャーに載せられた。蘭子は最後まで抵抗して叫んだ。
「パパに頼んで人権侵害で訴えてやる! そこのババアも覚えてろ! 暴力団の怖さを思い知らせてやる!」
「あ~あ、言っちゃった」
 と、増岡が肩をすぼめて言った。散々わめきながら、蘭子は救急隊員とともに裏口の方に消えていった。
「ババアって、失礼ね! あんたが私の歳にはメッチャ老け顔になってるわよ」
 由利子がやや憤慨気味に言った。しかし、その顔は少し青ざめている。
「由利子さん、心配しないで」
 葛西が声を掛けた。
「単なる脅しですよ。それに、僕らがそんなことにはさせません」
「あ、葛西君。任務完了お疲れ様」
「ご協力ありがとうございました。おかげで蘭子を保護できました」
「保護というより捕獲だったわね」
「あれじゃあ仕方ないでしょう。ほんとに名前負けしてない女性でしたね。これから僕はもうひとつの現場の方に行きます。アレクによろしくお伝えください」
 そういうと、葛西は富田林・増岡とともに駆け足で去っていこうとしたが、由利子が呼び止めた。
「葛西君!」
「なんですか?」
 葛西が立ち止まって振り向いた。
「葛西君・・・それに富田林さんも増岡さんも、気をつけて。無理しないで・・・」
 心配そうな由利子に葛西は笑顔で言った。
「わかってますって、由利子さん。大丈夫です」
「なんか、ついでのごたりますが、ありがたいです」
 富田林も振り返って言うとびしっと敬礼をした。二人はまた駆けて去っていった。増岡はとっくに走り去っていた。
 一人残された由利子は、ゆっくりとエレベータに向かった。エレベーターの前に立つと、ポーンという音がして上から下ってきた箱が2階で止まった。
(ああ、動き出したんだ。戒厳令は解除されたんだ)
 そう思っていると、ドアが開いた。中には他の客に混じって、遅いので心配してやってきた紗弥が乗っていた。紗弥は周囲を見回してつまらなさそうに言った。
「あら、捕り物はもう終わってますのね」
「なんだ。わかってたんだ」
 由利子が少しばつの悪そうな表情で言った。

 展望台に行くと、ギルフォードが空を見上げて立っていた。由利子たちが近づくと、振り返って言った。
「もう、飛び立ってますよ。あれです」
 ギルフォードが指す方向には、曇天の中旋回しつつ徐々に姿を小さくしていく機影があった。由利子と紗弥はギルフォードと一緒に空を見上げた。由利子は無意識に手を振っていた。
 機影が厚い雲の中に消えると、ギルフォードは空を見上げたまましんみりと言った。
「とうとう行ってしまいましたね」
「すぐ帰って来るんじゃん。2週間なんてあっという間だって」
 由利子はそう言って慰めたが、その2週間の間にもいろんなことが起こるのだろうなと思い、少し憂鬱になった。
  

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3.暗雲 (4)二人目のマリオネット

 九木が現場に駆けつけると、早くも報道陣が集まり始めていた。特に、メガローチ捕獲シーンを報道しためんたい放送のクルーは、今回も特ダネを得ようと警官たちと小競り合いを始めている。
「報道陣を近づけるな! 警察車輌と消防車輌で家の周りを囲めぇッ! ネズミ一匹入れるなッ!!」
 先に現場に駆けつけた早瀬が怒鳴っている。
「なあに? あの怖いオバさん!」
 めんたい放送の女性記者、美波が聞こえよがしに言った。早瀬はギロリとその方向を一瞥した。美人だけに迫力も半端ではなく美波は一歩後退った。
(おばさんってなひどいな。おっかねえ女ってのは賛同するが)
 九木は密かに思ったが、もちろんそれはおくびにも出さない。早瀬は九木の方を向くと言った。
「九木さん、早かったわね」
「早瀬警部こそ、お早いお着きですね」
「早瀬でいいわ。警部っておっさんむさくって嫌いなの」
 早瀬が少し不愉快そうに言った。
「それより、斉藤が2階の窓から姿を現して何かわめいているわ。あの馬鹿、こっちがせっかく報道から守ろうとしてやってるのに、台無しじゃないの!!」
「まったくですな。あれではご近所からも見えてしまう。急いで行きましょう。説得は・・・」
「私がやってみよう。男性がやるより安心するかもしれない。その間、あなたには現場の指示をお願いするわ」
「了解」
 二人は怒鳴り声の方向に向かって駆け出した。

 話はこれから少し遡る。

 斉藤孝治が窓際にうずくまって救急隊員の姿に怯えていると、枕元に置いてあった彼の携帯電話が着信を告げた。孝治は飛び上がらんばかりに驚くと、這うようにして電話に近寄った。電源を落としていたつもりが、昨夜メールチェックをした後消し忘れていたらしい。
「誰からだ? まさか、警察・・・」
 しかし発信元は公衆電話からだった。孝治は振動しながら青いランプを点滅させる電話を怯えた目で見つめていたが、意を決して電話に出た。
「もしもし、斉藤孝治さんですね。ああ、やっと通じました」
 電話の主は、孝治の応答を待たずに相手から話してきた。抑揚のない男の声だった。
「だ、誰です?」
「ああ、申し訳ありません。私はとある筋からあなたのことを伺ってお電話をしているのですが・・・」
「とある筋って、どこです?」
「今はお答えできません」
「あんた、誰? 何で俺の名前とケータイ番号を・・・」
「それもお答えできません」
「何だ、気味の悪い・・・。イタ電なら切るぞ!」
 孝治の恐怖は薄れたがその分、だんだんイラつきながら言った。
「切らないで下さい。私はあなたの病気に効くワクチンのある医療施設を知っているんです」
「ワクチン? これは新型ウイルスで、そんなものがないことくらい知っているぞ」
「いえ、民間の医療施設に、ロシアの研究所にいらした方が居るのですが、その方が開発された万能ワクチンがあるのです。なんでも、純水にあらゆる病原体の遺伝子を記憶させたものだとか・・・」
「本当に効くんだろうな?」
「はい。エボラやサーズに罹った患者さんもそれで治したという実績がありますので」
「で、なんでそれを俺に? ひょっとして、俺の知り合いとか?」
「いえ、実は、私は笹川歌恋の身内のものでして・・・」
「歌恋さんの? なんでそのあんたが俺に電話をしてきたんだ?」
「あなたに歌恋を連れ出して欲しいのです」
「冗談じゃない、今は俺自身のことで精一杯なんだ。だいいち、誰のせいで俺がこんなことに!」
「申し訳ありません。でも、あの子は身内の情に薄い子なんです。両親どころか兄にまで疎まれて、子供の頃から孤独な子でした。あの子はその分も幸せになるべきでした。それなのに、あんな窪田なんて不実な男にたぶらかされて、その上病気までうつされて・・・。その前にあなたと親しくなっていればと思うと、あの子が不憫でなりません。お願いです。あの子を助けてやってください。あなたなら出来ます。あなたなら出来るのですよ」
 抑揚のない男の声は静かで妙に説得力があった。それは、催眠術者の語りかけそのものだった。男の話を聞いているうちに、孝治はだんだん歌恋への憎しみが消えていくのを感じていた。何よりもともと彼が好意を寄せていた女性である。
「それで、俺はどうすればいいんだ?」
「どんな手段でも構いません。歌恋を連れてきてくれればいいのです」
「でも歌恋さんは専門の病院でちゃんとした治療を受けているんだろう? そのままのほうがいいんじゃないか?」
「では、あなたは何故逃げ回っているのです?」
「それは・・・」
 問われて孝治は返事に詰まった。
「あそこは単にウイルスが拡散しないように感染者を収容しているだけの施設です。あんなところに居ては治るものも治りません。あなたもそれがわかっているから・・・」
「そのとおりだよ。だけど、俺にだってどうしようもないだろ」
「私は体が悪いので、あまり自由に動き回れないのです。だから歌恋を助けたくても何も出来ない。ですが、お金だけはあります。あなたが歌恋を連れ出してくだされば、あなた共々匿って差し上げることも出来ます。海外のリゾート地でゆっくりと療養しながら歌恋と過ごすことが出来るのですよ。もちろんお金の心配は要りません。しかも、完治した後は、私の会社で雇って差し上げましょう。歌恋の恩人になるのですから」
 男は巧みに孝治にささやきかけた。
「あなたはそこから歌恋を連れてくるよう要求すればいいのです。あなたの体は今、どんな兵器より危険な状態です。あなたを匿っている人を盾にすれば、警察はあなたに手出しできないでしょう。何せ狙撃も出来ないでしょうからね」
「あ、あんた、俺にばあちゃんを盾にしろっていうのか?」
「あなた、死にたくないのでしょう?」
 男が畳みかけるように言った。少し笑いを含んだような声だった。
「おばあさまについてのご心配は無用です。なにしろ万能ワクチンがあるのです。歌恋があなたの手元に来たら、暗くなるのを見計らってそちらにヘリを向かわせますので、おばあさまもいっしょにお連れ下さい。私を信じて。私の言うとおりにすれば、あなたは必ず助かります」
普段の孝治でも、さすがにこの出来すぎた申し出の怪しさや矛盾に気がついたことだろう。しかし、すでに正常な判断が出来ない状態の孝治は、男の話を鵜呑みにしてしまった。もとより孝治はこの苦しさや死の恐怖から逃れられるなら、悪魔にでもすがりたい心境だった。このまま死を待つくらいなら、やるだけやってみよう、彼はそう思った。
「わかった。なんとかしよう」
「そう言ってくださると思っておりました。しかし、くれぐれもワクチンのことは口外なさらないように。ワクチンの奪い合いを防ぐためです。いいですね。では、またこちらから連絡いたします。よいお返事をお待ちしておりますよ」
 男は慇懃に言うと電話を切った。孝治も電話を切ると、ごろりと布団に寝転がって呼吸を整え、電話の待ち受け画面をじっと眺めた。そこには笑顔の歌恋がいた。少し休んだ後、孝治は上半身を起すと部屋の中を物色した。すると棚の上に裁縫箱を見つけ、立ち上がってそれを下ろし中を見た。そこには良く手入れされた小ぶりの裁断バサミがあった。孝治はそれをそっと手に取った。かすかに手が震えた。彼は意を決して鋏を開くとハンドルを左右おのおのの手で掴み、力いっぱい引っ張った。パキッという乾いた音がしてビスが飛び、鋏は二つのパーツに離れた。

 数分後、部屋の戸をノックする音がした。
「コウちゃん、大丈夫かい? ばあちゃん心配でとうとう救急車を呼んでしもうて。今玄関まで来とおけど、歩いて出てこれるね?」
 孝治は返事をしなかった。しかし、苦しい息を潜めながらそっとドアに近づいていった。
「コウちゃん、コウちゃん? ・・・どうかしたとね?」
 返事がないのに心配して、とうとう絹代は部屋に入っていった。様子を見るだけで、救急隊員からは絶対に部屋に入るなと再三注意されていたのだが・・・。
 部屋に入った絹代は、布団に孝治の姿がないのに驚いたが、背後の気配に気がついて振り向いた。
「コウちゃん?」
「ばあちゃんごめん。俺のためにしばらくの間、我慢してな」
 孝治は絹代を羽交い絞めにして部屋を出、玄関に向かった。
「コウちゃん、何ばすっとね!?」
「いいから騒がんで大人しくしとって。じゃないと怪我をするよ」
 孝治は玄関に姿を現すと、絹代を羽交い絞めにしながら鋏を突きつけ、彼の搬送に来ている防護服の救急隊員に怒鳴った。
「出て行け! さもないと、血を見ることになるぞ!」
「斉藤君、落ち着きなさい。君は早く病院に行かないと・・・」
「うるせえ! 病院に行ったって結局死んでしまうんじゃねえか! そんくらいならとことん逃げてやるよ!! さあ、出て行け!」
 孝治は言いながら鋏を自分の首に突き立て、ついで絹代ののど元に突きつけた。
「さあ、どっちの血が見たいかい? どっちにしても大変なことになるよねえ」
「くそっ、仕方がない、一旦退却する!」
 隊長らしい男が言い、救急隊員たちは去っていった。孝治は祖母を解放すると言った。
「玄関の鍵を・・・、いや、家中の鍵を閉めるんだ。妙な行動を取ったら、すぐに俺は自分の首を掻っ切るけん。わかっとおよね?」
 孝治は笑いながら言った。
「コウちゃん、いったいどうしてしまったのかい・・・?」
 絹代は何がなんだかわからずに、泣きながら孝治の指示に従った。

「斉藤君、要求は何? もう一度私に言って」
 早瀬が窓の下に立って聞いた。
「笹川歌恋を連れて来い! 期限は日が暮れるまでだ」
「それは出来ない。彼女は今、重篤な状態にいる。動かすことは出来ない」
「いいから連れて来い!」
「君は彼女を殺したいのか!!」
「病院にいたってどうせ死ぬんだ! そうだろ?」
「それは・・・」
 早瀬は言葉に詰まった。
「ほらみろ」
 孝治は高笑いしながら言った。
「どっちみち死ぬんだ。だったらここで一緒に残った時間を過ごしたい。さっさと連れて来い」
「もし発症していなくても、彼女は君のところへ行くのは拒んだだろう。理由は君が良く知っているね?」
「後悔しているんだ・・・。好きだったから振り向いて欲しくてあんなことをしてしまった・・・」
 孝治は搦め手に出た。
「俺を恨んどるとは判っとお。でも、どうしても歌恋に会いたいんだ。俺にだって時間がないんだ」
「君が感染症対策センターに行けば、会えるよう便宜を図ることも出来るだろう。君だって、今相当に苦しいはずだ。・・・さあ、おばあさんを開放して、そこから降りてきなさい」
「あんなところへ行けるか!! いいから俺の要求を聞け! 俺は病気を治す方法を知っているんだ! 歌恋を治してやりたいんだ!」
「治す方法? それは何だ?」
「水だよ。万能薬の水だ!」
「斉藤君、どこでそれを知ったかしらないが、そんな民間療法で治るような病気じゃないんだ。私を信じてくれ。せめて、おばあさんを・・・」
「うるせぇ!! ぐずぐずしとったら・・・」
 孝治は絹代を窓に突き出して言った。
「ばあさんがどうなっても知らないからな」
「彼女は実の祖母だろう? しかも、今まで匿ってくれたんだろう? どうしてそんなひどいことをするんだ!」
「御託はいいから早くしろ!!」
 ヒートアップする孝治に対して、絹代は蒼白な顔で震えている。早瀬は一旦引く判断をした。
「わかった。検討してみよう」
 早瀬はそう言うと、後方に下がった。同時に孝治は室内に姿を消し、窓が閉まった。すぐに部下が駆け寄ってきて言った。
「もう、冷や冷やしましたよ。危険ですから防護服をお付けください。ほら、九木さんも」
「あれ、暑そうだから着たくないのよね。臭そうだし」
「わがまま言わないで下さいよ、もう」
「わかったわよ。九木さん、行きましょ」
「私は着るのがちょっと楽しみですよ」
「変な人ね」
 早瀬が肩をすくめながら言った。

 由利子は歌恋の病室の前にいた。歌恋の病状悪化を聞いて、11時から講義のあるギルフォードたちと別れて、一足先に空港から直接向かったのである。
「こんなになっても、誰も身内の方が来ないなんて・・・」
 病室の歌恋を見ながら由利子がつぶやいた。歌恋は酸素吸入のマスクの下で荒い息をしていた。横で敏江が彼女の手をじっと握っていたが、時折用事で敏江が手を離すと、すぐに「オカアサン、オカアサン・・・」と泣き声で敏江を探した。敏江はその度に、優しく歌恋の頭を撫でている。
(あれじゃ、敏江先生も大変だわ。休む暇もないじゃない。旦那の高柳先生の方は、蘭子のことで取り込んでいるようだし・・・。それにしても歌恋さんは私のこと忘れてしまってるし、私、ここに居てもあまりお役に立てないなあ。でも、こんな時に誰もお見舞いの人がいないってのもかわいそうだし、どうしよう・・・)
 由利子がなんとなく居心地の悪さを感じていると、誰かがステーションに駆けつけてきた。
「笹川歌恋の兄の代理できました。妻の美紗緒です」
「歌恋さんのお義姉さん、来てくださったんですね」
 由利子はほっとして言った。美紗緒は由利子の方を見て言った。
「ああ、良かった。誰も居ないと思っていました。私も早く来たかったのですが、なかなか時間が取れなくて・・・」
 そう言いながら、窓に近寄ってきた美紗緒の表情が曇った。彼女は震える手で顔を覆った。
「ああ、歌恋さん・・・」
 それ以上言葉が続かなかった。美紗緒は歌恋の様子から、もう先がないことを悟った。

 早瀬と九木が防護服を着用してから現場に戻った頃、葛西と富田林が到着した。他の2名は報告のため本部に向かっていた。
 葛西が九木の姿を見つけて駆け寄った。
「九木さん、どういう状態ですか?」
「おお、葛西君、そっちは無事に済んだかい?」
「あ、はい。竜洞蘭子は無事に保護出来ました」
「保護というより捕獲じゃあなかったか?」
 九木がからかうように言った。
「はい。そんな感じでした。まだ発症してなかったせいもあるのでしょうけど、元気すぎるのも考え物ですね」
「その元気すぎるのがここにもいてね。こっちは大分病状が進んでいるようだが」
「秋山美千代もそうでしたが、彼らはきつくないんでしょうかね」
 葛西が不思議そうに言うと、九木が腕組をしながら言った。
「何かをしたいという欲求が勝っているんだろうな。斉藤孝治の行動には不審な点も多いが・・・」
「不審・・・ですか?」
 富田林が聞き返した。
「ああ。早瀬警部と斉藤のやり取りを聞いていていくつか気になったことがあってな。とにかく二人とも防護服を着て来なさい。斉藤の病状はかなり進んでいるからね。話はそれからだ」
「はっ、では行ってまいります」
 二人はそう言うと駆け出した。

「もう、顔を出してくれたのはいいけど、これじゃあどこの放送局も同じような絵面(えづら)だらけになっちゃうわよ」
 めんたい放送の美波は焦りを見せながら言った。カメラマンの赤間がなだめるように言った。
「仕方ないよ、ミナちゃん。そもそも精神状態の不安定な病人の犯行だろ、ガンクビ(顔)撮ったって放送できない可能性のほうが高いんだぜ」
「顔なんてどうでもいいの! 伝えたいのはこの現場の臨場感よ。今私たちが感じている! それにはもっと近くに寄らないと!」
「だけど、周囲は俺たちを入れまいとする警察でガッチリガードされているんだぞ。どうしようってのよ」
「これよ」
 美波は小型のホームヴィデオを見せて言った。
「この家は一面だけ隣家に密接しているでしょ。しかも境界は生垣だわ。上手くいくとどこか入れる場所が見つかるかもしれないわ。だいたいが私、小柄だから、虫とかが気持ち悪いのさえ我慢すればいけるはずよ。でも、報道用のカメラなんか無理でしょ。だから、これを使うのよ」
「ちょっと待ってくれ、ミナちゃん」
 音声の小倉が驚いて言った。
「危険すぎる。あいつは殺人ウイルスに感染しているんだぞ。万一のことがあったら・・・」
「大丈夫よ」
 美波は携帯用傘をポケットから出して言った。
「いざとなったらこれで飛沫を防ぐから」
「おまえ、それは冗談で言ってるのか?」
「いやまあ、それはともかく・・・」
 美波は少し戸惑って話題をそらした。その様子を見て、赤間と小倉がため息をついた。
(本気だったな・・・)
「私たちはメガローチの撮影で他社に一歩抜きん出ているのよ。なのに今回横並びの取材で終わるわけには行かないわ。それに見てよ」
 美波は上を指差した。
「げっ、クレーンかよ。金持ってんなあ」
「そうよ。あんなものを持ち出してきてるのよ。負けられないじゃないの」
「だけど、せめてデスクの指示を得ないと・・・」
「ダメって言うに決まってるじゃん。じゃ、行ってくるから、あなたたちはここで取材を続けてていーわ」
 彼女はそう言うと、駆け足で隣家に向かった。
「ミナちゃん!!」
「もう、ほっとけ。あいつは一回走り出したら何かにぶつかるまで止まらん」
 止めようとする小倉に赤間が言った。
「どうせダメで帰ってくるさ」
「ってイノシシかい。・・・だけどさ、アカマちゃん。記者が居ないのに誰が報道するのよ? カメアシにでもやらせるか?」
「あ・・・」
 赤間は頭の中が真っ白になって、固まってしまった。

 一足遅れてきた葛西たちを交えて、これからの作戦を話し合っていた早瀬は、目の前をよぎった影を追って上を見た。みるみる早瀬の表情が不機嫌になった。
「誰か、あのクレーンを引っ込ませろ!」
「はっ!」
 早瀬の声に若い警官が二人走って行った。早瀬が腕を組みながら仏頂面で言った。
「ったく、報道馬鹿共め、感染が怖くないのか?」
「仕方ないでしょうな。何せ、今までの事件とはかけ離れたことが起こっているんですからね。まるで映画だ。連中が尋常ない興味を持つのは無理からんことですよ」
 九木が早瀬と対照的に飄々として言った。
 美波は、既に黒山の人だかりとなった野次馬に紛れ、斉藤家の前から隣家の前まで移動したが、隣家周辺も警官たちがしっかりとガードしていた。住人は既に避難させられているようだった。美波は何食わぬ顔で野次馬から離れ、周辺を散歩しているかのように歩いてみた。が、数秒もしないうちに警官から声を掛けられた。
「すみません、この先危険なので、お戻りください」
「あ、ごめんなさ~い」
 美波はそう言うと斉藤家の又隣まで小走りした。そこでまた様子を見る。この生垣に囲まれた家の住人も避難しているようだが、この辺になると警備がかなり手薄になっていた。美波は知らぬ顔をして生垣の前に立ち、様子を見た。すると、一箇所何かがぶつかったのか、下のほうの枝が折れているところがあった。若干拡張すれば、美波程度の体格なら通れそうな感じだった。しかし、良く見ると蜘蛛の巣やらなんやらがけっこうついている。美波は一瞬躊躇した。しかし、チャンスは今しかない。
(猫よ、猫ならこんなの平気。私は猫)
 美波は自分にそう言い聞かせると、きょろきょろと周囲を見回し人目のないことを確認すると、「にゃあ」と鳴いて生垣にもぐりこんだ。

 その頃歌恋は必死に死神と戦っていた。
「オカアサン、オカアサン・・・」
「ここに居るわ。もうどこにも行かないから・・・」
 敏江が歌恋の手にそっと触れて言った。
「オカアサン、イタイよぉ、クルしいよぉ・・・。かれん、シンじゃうのかな・・・?」
「大丈夫よ、お母さんがついているわ」
「ウレシイなあ、オカアサン、かれんとイッショ・・・」
「そう、ずっと一緒よ」
「オトウサン、オトウサンは? クルの?」
「ええ、もうすぐ来るわよ。もうちょっと待ってね」
「ウン、かれん、オトウサン、クルの、まてる・・・」
 歌恋は一所懸命笑顔を作ろうとしながら言った。しかし、表情筋までウイルスに冒されたその顔に笑顔は浮かばなかった。敏江は歌恋の横に座って、祈るような仕草をしたままじっと動かなかった。もはや、祈るしか術はなかった。甲斐看護師がその傍で出来るだけ歌恋の苦痛を取り除こうと作業を続けていた。
「うううっ、うくっ・・・」
 病室を見守っていた由利子の傍で、嗚咽する声が聞こえた。美紗緒がとうとう我慢できずに泣いてしまったのだ。由利子は美紗緒の方に手を伸ばし、彼女の手をそっと握った。
「美紗緒さん、がんばって。歌恋さんもがんばってるんだから・・・」
 美紗緒は由利子のほうを見ると、涙をぬぐってうなづいた。

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3.暗雲 (5)道化師の恋

 斉藤孝治の前代未聞の篭城現場で、警官たちは頭を悩ませていた。致死性ウイルス感染者が人質を取って立て篭もるなどということは、日本警察史上でも、いや、おそらく世界的にも初めてのことである。
「完全防護の突入班を裏口に待機させたものの、さて、どうするかな。このままだと、おばあさんの感染率があがる一方だけど、かといって、下手に動いて彼を刺激したら、何をしでかすかわからないし」
「しかし、早瀬さん、あんな状態の斉藤の間近におるとですから、ばあさんも既に感染してますよ。強行突破すべきです」
 早瀬の慎重論に富田林がもどかしそうに言ったが、葛西がすぐに反論した。
「富田林さん、そりゃ乱暴ですよ。感染しているかどうかなんて、今の時点で判断することは出来ません。現に、発症した子供を抱きかかえて病院に連れて行った父親が、発症を免れています。濃厚な接触をしたとしても、感染発症するとは限らないんです」
「葛西君の言うとおりだ。富田林君、気持ちはわかるが・・・」
 九木(ここのぎ)が言った。
「我々は市民の安全を優先せねばならないんだ。感染していない可能性があるなら・・・」
 と、九木が言いかけたところで、窓が開いて孝治が顔を出した。相変わらす祖母の絹代を羽交い絞めにして盾にしている。
「あれから30分ほど経ったけど、どうなった? 歌恋は連れて来れそうか?」
「今まだ問い合わせ中だ」
 早瀬がすぐに答えた。
「しかし、笹川歌恋の容態はかなり厳しいらしい。良い返事は期待出来そうにないが」
「それを交渉するのがあんたの仕事だ。こっちには人質がいることを忘れないようにな」
「それより、君は大丈夫なのか? 顔の傷もひどいし、かなり熱もあってきつそうだが、医者を派遣させてくれないか? ご高齢なお婆様の健康状態も心配だ」
「来るのは医者のふりをした警官だろ」
 孝治はからかうように言った。
「俺らの心配はいい。あんたらは俺の言ったことを叶えてくれればいいんだ。それより、あんたさっきのオバちゃん刑事だろ? ずいぶんと重装備になったもんだな。そんなに怖いのか?」
「当然だ」
 早瀬は挑発に動じず毅然として言った。
「君の病気がそれだけ危険だということだ。これが現実なんだ。斉藤孝治君、目を覚ましなさい。半端な療法でなんとかなる病気じゃないんだ。一刻も早い治療を・・・」
「うるせぇ!! 御託はいいって言ってんだろ! 早く歌恋を連れて来い! 1時間待ってやる」
 そう言い捨てると、孝治はまた家の中に姿を隠した。

 美波は隣家の生垣から目を覗かせて、孝治の立て篭もった2階を注視していた。そこに、いきなり窓を開けて出てきた孝治の顔を見て声をたてそうになり、慌てて口を押さえた。
(何、あの顔! ひどいわ。血だらけじゃない・・・って、いけない、カメラ回さないと・・・)
 美波は慌てて手持ちのビデオカメラを回した。
「F市の立て篭もり現場です。ご覧下さい。今、窓から顔を出した犯人に、防護服の警察官が交渉しています。犯人はかなり病状が悪化していると思われます・・・」
 美波は気付かれないように小声で解説を入れた。しかし、解説が調子良くノリはじめた頃、容量オーバーのサインが出て映像が止まった。
(くそ、こんな時にSDカード切れ? もう、仕方ないわね。でも、こんなこともあろうかと・・・)
 美波は一人でにんまりしつつ、上着の胸ポケットから未使用のSDカードを取り出し、交換した。
(で、この撮り済みのカードは・・・)
 美波は一瞬悩んだが、躊躇無くそのままジーパンの後ポケットに入れた。カメラマンの赤間が見たら引きつりそうな行為だったが、美波はそういうことに無頓着だった。美波はすぐに撮影を再開した。

 孝治は警察とのやり取りを終え、窓を閉じると壁を背に座り込んだ。苦しそうに肩で息をしている。
「コウちゃん、大丈夫かい? 具合がだいぶ悪かとやろ?」
 ひどい目に遭いながら、絹代は震えながらも孫を気遣っていた。
「大丈夫だ、ばあちゃん。・・・俺が助かる方法はこれしかなかっちゃ・・・。だけん、ばあちゃんも逃げたらいかん。ばあちゃんだってここから出たらあの病院に隔離されるっちゃけん。あそこに入ったらもう死ぬしかないとやけん・・・」
「コウちゃん・・・。ばってん・・・」
「ばあちゃんは俺の言うことを聞いとったらよか。もし、ばあちゃんが逃げたら俺は終(しま)えたも同然やから、俺、この場で目かのどを突くか、窓から飛び降りるかして死ぬからね」
孝治はそう言いながら、鋏の片刃の先を自分の首に近づけた。
「コウちゃん、あんた正気ね?」
「至って正気だよ。でね、ばあちゃんにはたびたび申し訳ないけど、手を縛って目隠しと猿轡もさせてもらうから」
「コウちゃん・・・」
 孝治の目を見て、それが脅しではないということを察した絹代は、彼の言うとおりにするしかないことを悟った。

「あの状態じゃあ、ほっといても今日中にはぶっ倒れそうだし・・・」
 孝治が姿を隠してすぐに九木が言った。
「・・・あんな迷惑野郎は放っておきたいところだが、そうはいくまいなあ」
「そうね。自業自得な困ったやつだけど、おばあさんのこともあるし、私たちまで自己責任とか言い出す訳にもいかないものね。さてどうしたものか・・・」
 早瀬はそう言いながら両手を腰に当ててため息をついた。その横で葛西が九木に尋ねた。
「九木さん、さっき、気になることがあるっておっしゃいましたよね」
「ああ、さっき早瀬さんとの会話を聞いていてちょっとね・・・」
九木が語尾を少しぼかして答えたが、早瀬がすぐに興味を持ってたずねた。
「あら、なにが気になったのかしら?」
「僭越ながら・・・」
「いいわよ、そんな堅いこと言わなくても」
「恐れ入ります。早瀬さんが説得している時、奴は『万能薬の水がある』とか言ってましたね。いったい、そんな情報をどこから仕入れたんでしょう?」
「あら、『ルルドの泉』とかホメオパシーとか、水系の万能薬の話って沢山あるじゃない。単にそれ系の信者なんじゃないの?」
「その可能性もありますけどね。とにかくあいつは本気で特効薬があると思っているようですし、祖母の絹代さんに逃げる意思があまりなさそうなのも気になります」
「孝治に協力しているってこと?」
「ええ、多分、無意識にでしょうけれど。聞くところによると、一人暮らしで、いつも軽トラを運転してバリバリ畑仕事をこなしているそうですから、あんなフラフラな孝治の目を盗んで逃げることくらい造作ないことでしょう」
「なるほど、孫が自殺するかもしれないから心配で逃げられんということですな」
 富田林が、うんうんとうなづきながら言った。
「まあ、それは人情を思えばありうることですが、問題は万能薬の情報源です。報告書を読んだのですが、先週事件を起した秋山美千代は誰かに操られていた可能性があるそうですね」
「ええっ」
 と、美千代と関わった葛西が真っ先に驚いて言った。
「じゃあ、孝治にもその可能性があるということですか? 治療薬の情報を餌に事件を起す様仕向けられたと」
「まあ、本人に聞かない限りなんともいえませんがね。奴がテロリストと関係しているとは思えませんが、ひょっとしたら、何らかの方法でテロリストと接触している可能性があります。それを知るためにも、とにかく孝治が死ぬことだけは避けなければなりません」
「もちろん、そういうことが無くたって死なせられないわ。あの大馬鹿野郎を逮捕して、笹川歌恋に対して詫びのひとつくらい入れさせてやらなきゃ」
 冷静に構えているが、早瀬は本気で怒っているようだった。しかし、富田林は腑に落ちない表情で言った
「しかし、もしそうだったとして、感染者を操って事件を起させて、テロリストに何のメリットがあるんです?」
「あるわよ。今は潜在している恐怖を引き出すことが出来るじゃない」
 早瀬が肩を叩きながら言った。
「あ~、久々に交渉なんてやるもんだから、肩がこったわ。ま~、防護服越しじゃ応えないこと」
「潜在する恐怖? どういうことです?」
 富田林の問いに、九木が答えた。
「『サイキウイルスの感染者は危険だ』ということが世間に認知されてしまうだろう。彼らは自分の手を汚さずにパニックを演出できるんだ。他ならぬ被害者を利用してね。美千代の事件はまだ世間に知れてはいないが、この前のF駅での事件で感染者の危険性がクローズアップされてるんだ。もしあれが『自爆』だと知れたらなおさらだろう。多分、この事件はそのダメ押しになりかねん」
「なんか思うほど腹が立ってきます」
 葛西が言った。
「でも、それと同時に彼らの目的がさっぱりわからなくて気味が悪いです。未だ公の犯行声明も要求もないんですから・・・」
「ウイルスの恐怖が広まるまで待っているのかもしれんね。その上で首都圏にばら撒くと脅す、いや、世界中に撒くと脅す。その方が効果的だからね」
「くそっ、そんな連中に利用されとるかも知れんのですね、あのドあほうは・・・」
 富田林が腹立たちそうに孝治のいる部屋の窓を見上げた。その時、葛西が電話を受けて言った。
「笹川歌恋がこん睡状態になったそうです。もう時間の問題だと・・・」
「そうか・・・」
 早瀬の顔に一瞬影がよぎったが、すぐに警官の顔に戻った。
「よし、頃合を見計らって突入部隊を宅内に潜入させよう。屋根の方からも攻めた方がいいか。さあ、これから先、どう転ぶかわからないわよ」
早瀬は吹っ切るようにして言ったが、ふっと空を見て言った。
「雲が出てきたわね。夕方からまた雨っていってたけど・・・」
「ええ」
 九木が相槌を打つ。
「それに風も強くなってきましたな」
「なんか荒れそうですね・・・」
 葛西が不安そうに空と2階の窓を見上げて言った。

 歌恋は高柳が来るのを待たず、こん睡状態に陥った。由利子の横で、義姉の美紗緒ががっくりとうなだれて座っていた。ギルフォードは、講義はとっくに終わっているはずなのに未だ姿を見せていなかった。それで、由利子は不安になっていた。彼女は場違い感をぬぐえないでいた。自分が何故ここにいるのか、居ていい存在なのか。何かが由利子の心に影を落としつつあった。しかし、由利子はまだそれに気が付いていなかった。
 ギルフォードが紗弥とともに研究室に帰ると、如月が彼の帰りを待っていた。
「キサラギ君、お待たせしました」
「先生、ども。ちょっとこの画面を見てくれまへんか?」
 と、如月が挨拶もそこそこに、 ギルフォードをパソコンの前に呼んだ。ギルフォードは、如月のほうに向かいながら怪訝そうな表情で言った。
「なんです?」
「これです。昨日、なんとなくM町発のインフル感染発症者マップとサイキウイルス感染発症者マップを重ねてみたんですわ。そしたら・・・」
「勝手にデータをいじくっちゃダメでしょ。万一の時のために、君を信用してパスワードを教えているんですから」
「すんません。つい。ほんまは保存せずに消すつもりやったんです。せやけど、これ見たらそうはいかんと思うて・・・」
「まあ、やってしまったことは仕方ないですね。・・・おや、いくつかのI(インフル)マークとS(サイキ)マークがずいぶんと近いですね」
「そうでしょ。インフル発症者の情報が性別と大方の年齢のみ、そして住所も番地まではないので合致はせんのですが、かなり近いところにあるんですわ」
「君が言いたいのは、M町発生のインフルエンザとサイキウイルスの感染者が被っていると言いたいのですね」
「そうです」
「では、そういう考え方で検証してみましょうか。K市A団地 50代男性・・・。これは多分タミヤマさんです。確かに彼はユリコに、自分もインフルエンザに罹ったとか、そんなことを言ってたようですが・・・」
「それからH区M町・・・これは地理的にO市やKa市に近いですが、この50代女性、秋山珠江さんやないでっか? それからこのK市K町の30代と40代男性二人やけど、二人の古賀さんと住所も近いでっしゃろ。たしか、この二人いとこやったそうですね。近くに住んでいる親戚やったら、同じような感染症に罹る可能性も高いんやないでっか?」
「う~ん、確かに、サイキウイルスに感染して劇症化、あるいはその疑いで亡くなった方たちと被っているように思えますね。そういえば、この前ジュリーが気になることを言ってましたが、それと関係しているのかもしれません」
「気になること?」
「あ、すみません。今はまだ詳しいことがわかってないので教えられないのです」
「じゃあ、仕方ありまへんな」
「とにかく、このインフル感染後のサイキウイルス感染が劇症化と関連するかどうかは、インフルエンザ感染者の詳しいデータをもらわない限り確認のしようがありません。事情を説明して、出来るだけ早くデータをもらえるようにしなければなりませんね」
「あの、教授」
 横で聞くとはなしに話を聞いていた紗弥が口を挟んだ。
「もしそれが関係するとしたら、由利子さんがこの事件に関わるには危険ではありませんの?」
「確かにそうなりますね。って、僕、困るじゃないですか」
 ギルフォードは、そう言いながらも予想外の弊害を予想して頭を振った。それを見ながら、如月が少し言いにくそうに言った。
「それからもうひとつあるんですわ。これなんですが・・・」
 そう言いながら如月が一冊の雑誌を出した。
「あ、サンズ・マガジン!」
 ギルフォードと紗弥が見るなり同時に言った。ギルフォードが会議でつるし上げになりかかった要因を作ったタブロイド誌だ。
「そうでした。こっちでの発売日は今日でしたね」
「ご存じやったんですか。うちの研究室の常葉が持ってきたんですわ。これに教授に似た人の写真が載っとるて言うて・・・」
 ギルフォードは一瞬戸惑ったが、意を決して言った。
「上の方から否定しろ、と言われてますが、君には言っておきます。この写真は間違いなく僕です。しかし、記事の内容は、正確な部分もありますが、僕のことを含む大半は悪意が潜んだでっち上げです。この汚名は必ず晴らします。トキワさんや他のみんなにも心配するなと言ってください」
「ほんまにほんまのガセネタなんですね」
「ややこしい表現ですが、ホントにホントのガセネタです」
 如月の目に安堵の色が見えた。
「僕は教授を信じとります。そして、教授に教わることや教授のお手伝いが出来ることを誇りに思うとるんです。他のみんなもそうやと思います。せやから、教授も変な中傷や妨害にまけんといてください」
「オー、キサラギ君・・・」
 ギルフォードは感動して言った。
「ありがとう。君たちも僕の誇りです」
「へへ・・・」
 ギルフォードに言われて、如月は照れながら頭を掻いていた。

 高柳は、なんとか時間を作って歌恋の病室に急いで入ると、開口一番に言った。
「敏江、遅くなってすまなかった。笹川さんの容態はどうかね?」
「あなた・・・」
 敏江は力なく夫の方を向いて言った。
「あなたを待っていたけど、大分前からこん睡状態になったわ。呼吸もこんなに浅くなって・・・」
「そうか・・・」
 高柳はそう言ったきり黙って妻の横に立った。敏江は歌恋の頭をそっと撫でて言った。
「私ね、なんかこの子が本当の娘のように思えてきたの。変かしら?」
「いや、変じゃないよ。だけどおまえ・・・」
 高柳がそう言いかけたとき、歌恋がうっすらと目を開けた。
「おとうさん、きてくれた・・・の?」
「ああ、待たせちゃったね。ごめんよ」
「ううん・・・。わたしこそごめんなさい。ほんとはおとうさん、おかあさんじゃないって・・・わかってた・・・の」
「判っ・・・てた?」
 と、敏江が驚いて聞いた。
「うん。とちゅうからわかっちゃった。だってかれんのおとうさんもおかあさんも、かれんにはやさしくなかったもの。ムリさせてごめんなさい。やさしくされるのがうれしかったの、だから・・・」
「歌恋ちゃん」
 敏江は歌恋の手をそっと掴んで言った。
「いいの、いいのよ。あやまらなくてもいいの。私たちには子供がいなかったから、娘が出来たみたいで・・・私もうれしかったの。だから、もしよかったら、これからも私たちを両親だって思っていいのよ。ね、あなた」
「あ・・・? ああ、もちろんだ」
「うれしい。うれしいなぁ・・・」
 歌恋はそう言った後、窓の方を向いて言った。
「そこのおねえさんたちも、ごめんなさい。かれん、だれかよくおもいだせないの。でも、すごくやさしくしてくれたようなきがする・・・。だから、あ・・・りがと・・・」
「歌恋ちゃん・・・」
 美紗緒はそれ以上何も言えなくなり、顔を覆った。肩が震え口からは嗚咽が漏れた。
「おねえさん、なかないで・・・。それから、かんごふ・・さ・・・も、ありがと・・・」
「かれんちゃん、もういいわ、しゃべらないで・・・」
 敏江は話すごとに息の荒くなっていく歌恋を制止した。歌恋は痛々しい赤い目で高柳夫妻を見ながらつぶやいた。
「おか・・・さん・・・、おと・・・さ・・・、あ・・・」
 しかし、それが限界だった。歌恋は苦しそうにあえぎ始めた。
「いかん!」
 高柳はあわただしくマイクに向かい、看護師の応援を呼びかけた。しかし、歌恋はその間にあえぎ、のたうち、ひきつけ反り返った。敏江が悲鳴に近い声で歌恋の名を呼んだ。
 その光景は、由利子に多美山の死の記憶を鮮明に思い出させた。あの時は横に心強いギルフォードやジュリアスがいた。だが、今は一人だった。それは、由利子に言いようのない不安を感じさせていた。ひざが震え、心臓がドキドキし始めた。しかし、悲痛な悲鳴で由利子は我に返った。悲鳴の主は美紗緒だった。彼女は蒼白な顔をしてガタガタと震え、倒れそうになってよろけた。
「美紗緒さん!」
 由利子は急いで彼女を抱きとめた。美紗緒は由利子の腕の中で震え、怯えていた。
「だめ・・・。怖くてもう見ていられない・・・。酷すぎる・・・」
「美紗緒さん、ムリしないで・・・」
 由利子は美紗緒の背を撫でながら言ったが、自分は何故か病室から目が離せないでいた。病室に看護師たちが駆けつけ、苦しさで暴れる歌恋を押さえ込んだ。高柳が甲斐看護師とともに、処置をするためにせわしく動き、敏江が何度も歌恋の名を呼んでいた。しかし、歌恋の発作は治まらなかった。ついには鼻と口から血が溢れ出して、激しくひきつけた。由利子は声もなく瞬くのも忘れたようにそれを見つめていた。目をそらしたいのに体が動かない。由利子は無意識のうちに、美紗緒を抱きしめていた。歌恋は、反り返ったまま大量に放血したが、急に全身の力が抜けすとんと体がベッドに落ちた。歌恋を抑えていた看護師達は、彼女に覆いかぶさった状態のまま、顔を見合わせた。一瞬、何が起こったかわからなくなったのだ。
「歌恋ちゃん!」
 敏江が驚いて歌恋の手を握り声をかけた。しかし、歌恋は目を見開き口を少し開けたまま、ピクリとも動かなかった。敏江は看護師を押しのけるようにして、迷わずに心臓マッサージを始めた。
「歌恋ちゃん、戻って、お願い、歌恋ちゃん!」
「敏江・・・、もうやめなさい」
 高柳が見かねて制止した。敏江は我に返ると、そのまま床に座り込みそうになった。しかし、気丈にも立ち上がって歌恋に向き合った。そんな妻をいたわるようにして高柳が言った。
「僕がやろう」
「いいえ、私の患者よ。私がやるわ」
 敏江はそう言うと、歌恋の瞳孔と心音を確認し、開いたままの彼女の目を閉じながら言った。
「残念ですが、亡くなられました・・・。死亡時刻は午後2時13分です・・・」
「歌恋ちゃん・・・」
 美紗緒は由利子から離れ、フラフラと窓に向かって歩いた。そして、窓にすがりつくようにして歌恋を見ると、そのままよりかるようにして座り込んだ。
「うそ・・・、歌恋ちゃん、歌恋ちゃん・・・。いや・・・、いやぁあああ・・・」
 泣き崩れる美紗緒の後ろで、由利子はそのまま突っ立ったままでいた。由利子の心には悲しみと怒りと恐怖が同時に渦巻き、無意識に両手を握り締め下唇を噛みしめていた。全身が小刻みに震え、唇には血が滲んでいたが、気付く様子もなく、由利子はそのまましばらく立ち尽くしていた。

 その頃、早瀬たちは交渉の真っ只中に居た。孝治は祖母を自分の前に座らせて交渉に臨んでいる。美波は一人密かにビデオを撮りながら一部始終を見聞きしていた。
(なによ、あの男! 聞いてたら無理ばっかり言ってから、自己チューにもほどがあるわ! その上、実のおばあさんをあんな目にあわせて! そもそも感染は自分のせいなんじゃないの。しかも要求が、自分が乱暴した女の子を連れて来いたって? それも、その人は今危篤なんだっていうじゃない、馬鹿じゃないの!!)
 美波はだんだん腹が立ってくるのを覚えた。しかし、その一方で、男が言っている『万能薬』のことが気になっていた。
(そんなものあるのかしら? ワクチン・・・でもなさそうだし・・・。でも、あのオバサンはまっこうから否定してたわよね。でも、あるとしたら・・・、って、今はそんなことよりこっちだわ)
 美波はいよいよ緊迫しつつある現場の撮影と状況説明に徹することにした。
 早瀬がやや苛ついた様子で言った。
「だから、1時間やそこらじゃ結論は無理だ。いや、君の要求自体が無理なんだ。笹川歌恋は既にこん睡状態だそうだ。歌恋さんに会いたいなら、早く投降したほうがいい。そして、一刻も早く感対センターに行くんだ。今ならまだ間に合うから。さあ・・・」
「騙されないぞ! 1時間だって? うそをつくな、もう夕方じゃないか! 部屋にガスかなんか入れて俺を眠らせただろう? その間になにか細工をしたに違いないんだ」
「夕方? 寝ぼけていないか? まだ昼の2時だぞ。それにガスを入れたならとっくに君を確保・・・」
「2時だって? うそをつくな! こんな夕焼けがしてるのに2時なわけないだろうがッ!!」
「夕焼け?」
 早瀬は怪訝そうな表情で空を見た。しかし、鉛色の曇天が広がっているだけである。葛西ははっとして言った。
「早瀬さん、赤視です! 斉藤孝治は今周囲が赤く見えているんです」
「これが赤視状態になった感染者・・・」
「早瀬さん、これからが厳重注意です。あの多美山さんすら錯乱状態に陥ったんですから」
「わかった。九木さん、『頃合』よ。突入部隊に次を指示して」
「了解」
 九木は無線を手に取り言った。
「一部屋根側から2階の窓付近に、他は速やかに宅内に潜入し、気付かれることなく斉藤孝治の居る2階の部屋の前に、それぞれ待機せよ」
「何をこそこそやってるんだ!」
 孝治がイラついた様子で怒鳴った。
「作戦がバレたので焦っているのか? それともまだ何か小細工をしようとしているのか? だが、俺は騙されないぞ」
「そうじゃない。いいか、今はまだ午後2時だ。夕焼けには早い。それは君の病気の症状なんだ。夕焼けが見えているのは君だけなんだ。時間がない、はやく・・・」
「うるせぇっ! 早く歌恋を連れて来い!! いいか、今すぐにだ!」
「わからず屋め!」
「早くしないと、この場でのどを掻っ切ってしまうぞ。ばあちゃんはもちろん、この高さと風だ。俺の血はひょっとしたら周囲の野次馬にも届くかもしれないぜ」
 孝治はそう言いながらのどに鋏を突き立てる仕草をした。
「いかん! やめろ! 孝治君、落ち着くんだ!」
 早瀬が叫んだ。絹江も目隠しで周囲の状況が飲み込めないものの、会話で危機を察したのか、何度もうめいている。
「見物人たちや報道陣を200m先の公民館に避難させろ! 防護服未着用の署員も共に退避! 避難した市民の保護に当たれ!!」
 九木が怒鳴った。その横で早瀬が必死で説得に当たっていた。
「孝治君」
 早瀬は少し言い方を和らげて言った。
「落ち着きなさい。私の言うことをちゃんと聞いて。せめてお婆様だけでも解放してあげて。そのままだと、感染より先にショックを起すかもしれないわ。歌恋さんについては、もう一度交渉してみるから・・・」
 葛西が早瀬と孝治のやり取りを心配そうに見ていると、携帯電話に着信が入った。それは、歌恋の死を告げるものだった。
「早瀬さん! 笹川歌恋が先ほど息を引き取ったと・・・」
「そうか、よし、わかった。これからが正念場だわ」
 早瀬がいっそう険しい表情で言った。
「いよいよですね」
 富田林がわくわくした面持ちで言った。それを見て九木がたしなめた。
「人がひとり死んだんだ。あまり嬉しそうにするな」
「はっ、申し訳ありません」
 その二人を尻目に、早瀬は孝治に向かって沈痛な面持ちで言った。
「孝治君。落ち着いて聞いて。今、歌恋さんが亡くなったという連絡があったわ・・・」
「うそをつくな!!」
「誰がこんな嘘をつくもんですか!」
「うそだーーーーーッ!!」
 孝治が叫んだ。
「落ち着いて、孝治君。ね、もうやめましょう。これ以上は空しいことだわ。さあ、降りてきてちょうだい。はやく治療をしないと・・・」
「うそだ! ・・・うそだ、うそだっ!! うそ うそ うそ ・・・・」
 孝治は現実が認められずに混乱しているようだった。九木がつぶやいた。
「いかん、タイミングが悪すぎる・・・」
「九木さん、突入部隊の指示、任せるわ」
 早瀬が孝治から目を離さないままで言った。
「了解」
 九木が無線を取って待機した。
「うそうそうそうそうそうそ・・うそ・・うそだ、うそだ・・・、おれは、かれんを助けようと思って・・・かれんを・・・かれん、かれん、かれん!!」
 孝治は頭を抱えて呟いていた。その呟きは徐々に大きくなってついには叫び声になっていった。
「かれん!! かれーーーーん!!! うわぁぁぁあああああ!!」
 とうとう孝治は窓際を叩きながら泣き叫んだ。
「孝治君、しっかりしなさい」
 早瀬が叫んだ。横で九木が冷静に状況判断して言った。
「突入、用意」
 その時、生垣から誰かが飛び出してきた。美波だ。
「あんた、馬鹿じゃないの!!」
 美波は大声で言った。
「女性に乱暴して勝手に病気になって、勝手に大騒ぎして、おばあちゃんにひどいことして!!」
「あっ、こいつ、どこから!!」
 富田林が叫んだ。九木がため息混じりに言った。
「富田林君、葛西君。取り押さえて」
「やめてよ! いいから一言言わせて!!」
 美波は二人を振り切りながら言った。
「あんたのすることはひとつよ! いい? 今すぐ病院に行って亡くなったカレンさんって人に謝って! 謝りなさい!!」
(こいつ、いつ頃からあそこに居て、話を聞いてたんだよ・・・)
 葛西はゲンナリしながら思った。二人に取り押さえられながら、そんなことは構わずに美波は更に大声で怒鳴った。
「謝れーーーーーっっ!!」
「そうだな・・・」
 と、孝治は下を向いたまま言った。
「君の言うとおりだ・・・」
 孝治はよろよろと立ち上がった。それを見た九木が指示を急いだ。
「突入!!」
「ばあちゃん、ごめんな。 いままでありがとう」
 そう言うと孝治は絹代を立たせ、ドアの方へ軽く突き飛ばした。同時にドアを破って防護服の警官たちが突入してきた。彼らはすぐに絹代を保護し、その勢いで孝治も保護しようとした。しかし、孝治はそれを制した。
「寄るな!!」
 孝治は叫びながら窓際に寄りかかるように立ち、のどに鋏の片刃をつきたてた。
「彼女の言うとおりやね。謝っても許してもらえるとは思えんけど・・・」
 孝治は力なく笑った後半泣きで言った。
「歌恋、ごめん。でも、君への気持ちは本当やった。本当に好いとったとに、なんでやろな、おれ・・・。ごめんな、歌恋・・・」
 そして警官隊の方に向かって言った。
「ばあちゃんをお願いします」
孝治はそのまま後ろ向きに倒れた。戒めを解かれた絹代が悲鳴に近い声で孫の名を呼んだ。
「コウちゃん、やめてーーーっ!!」
 それとともに警官たちが駆け寄ったが、窓の向こうに孝治の姿が消えた。
「きゃあっ、馬鹿っ、何するの」
 と、窓から落下しようとする孝治を見た美波が悲鳴混じりに叫んだ。
「孝治君、やめなさい!」
 早瀬も必死で制止しようとしたが、空しく孝治の体は窓から落下していった。追って窓から数人の警察官が体を乗り出したが、彼らの手は孝治を掴み損ねていた。しかし、孝治の体が落下途中で止まった。窓の外にぶら下がり待機していた警官が、孝治の腕を掴んで落下を止めたのだった。しかし、掴んだのは左手で、刃物を持ったほうの手は両足と共にまだばたばたと空をかいていた。
「離せっ! 離してくれ!」
 孝治は暴れた。他の警官が加勢をしようとしたが、孝治が刃物を振り回して近づけないでいた。孝治は宙吊りで暴れながら、彼を支えている警官の手を狙って攻撃を始めた。
「大人しくしなさい」
 警官は制したが孝治は一向に暴れるのをやめなかった。ついに刃が警官の手をかすった。警官が一瞬ひるんで手の力が抜けかかった。その隙をついで、孝治は一際暴れ、ついに警官の手を振り払ってしまった。周囲の見守る中、孝治は落下し、エアクッションの上にボスンと落ちた。とっさに葛西が無防備の美波の前に立ちはだかり、富田林が彼女をかばって覆いかぶさったが、その脇の横で傘がぽんと開いた。富田林は傘の下で美波を押し倒した形となり、ぽかんとしたが、美波は照れくさそうにえへへと笑った。しかし、富田林が起き上がって傘を見たところ、何かが点々と付着しているのに気がつき、はっとして孝治の落ちたほうを見た。
 孝治は落下したものの、レスキューの敷いたエアクッションの上に落ちて事なきを得たと思われた。しかし、彼を保護しようとして近づいた救急隊が驚いて言った。
「あっ、これは・・・」
「死んでいるぞ!」
「何だって!!」
 と、早瀬と九木が急いで駆け寄った。
「刃物がのどに突き刺さっています。落下時の衝撃で刺さったのだと思います。ほぼ即死だったでしょう」
「なんてこと!」
「馬鹿な・・・」
 早瀬と九木は孝治の姿を見て愕然とした。仰向けに反された孝治の喉には裁断バサミの片刃が突き通らんばかりの深さで突き刺さっており、既に虚ろに開いた彼の目は、焦点の合わないまま空しく曇天を映していた。 

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3.暗雲 (6)すれ違う心、結びつく心

 気が付くと、由利子はベッドで寝ていた。
「あれ?」
 由利子は狐につままれたような表情で、横になったまま周囲を見渡した。ベッドの横には笹川歌恋の兄嫁である美紗緒が心配そうな表情で座っていた。泣きはらした目が痛々しい。由利子は事態を飲み込めずに美紗緒に尋ねた。
「美紗緒さん・・・? 私たち、確か歌恋さんの病室の前に居て・・・、あれぇ?」
「篠原さん・・・でしたね。あなた、病室の前で倒れたんですよ」
 美紗緒は心配そうな表情に少し安堵の色を浮かべて言った。
「あちゃ~。みっともないところをお見せしましたね」
 と、言いながら、顔を赤らめて由利子は体を起こした。美紗緒はあわてて言った。
「だめですよ。もう少し休んでいてください」
「いえ、もう大丈夫です」
「だめです。それに高柳先生が、あなたのお連れさんが来られるまで休んでいるようにと・・・」
「そうか。じゃあ、入れ違いにならないようにここに居ないといけないか。かと言って、寝ているわけにも・・・」
 由利子は布団から出るとベッドサイドに腰かけ、改めて言った。
「ずっとついていてくださったんですね。ありがとうございます」
「さっきまでお連れのきれいな女性が一緒におられたんですが、時間が来たとおっしゃって、出て行かれました」
「紗弥さんだわ。ってことは、アレクも来てるのよね。忙しいのかしら・・・」
「あの、篠原さん・・・」
 美紗緒は、改めて由利子に頭を下げて言った。
「身内でもないのに、一緒に歌恋を看取ってくださって、心から感謝しています。きっと歌恋も喜んでいると思います・・・」
「ああ、そうでした。でも、まだ信じられません。歌恋さんが亡くなられたなんて・・・」
「あんな光景を見せられたんですから、気分が悪くなって気を失っちゃったんですよね。私、申し訳なくて・・・。あなたがずっと居てくださったから、私も歌恋の近くにいてやれたのです。一人だったらとても耐えられなかった・・・。本当なら夫が居るべきはずなのに・・・」
「お兄さんは結局・・・?」
「ええ・・・」
 美紗緒は怒りとも悲しみともとれる表情で言った。
「夫は、歌恋が亡くなった連絡を受けて、しぶしぶやってきました。今、センター長先生とお話をしていると思います」
「ご両親は?」
「義父(ちち)も義母(はは)も、夫に任せると言って電話を切ってしまいました・・・」
「そうですか・・・」
 由利子は予想はしていたものの、再びやりきれない気持ちになってしまった。美紗緒はそんな由利子の表情を気にしながら言った。
「あの・・・、篠原さん」
「なんですか?」
「あの、気になりませんでしたか?」
「何が?」
 由利子は笑顔に少し戸惑いの色を浮かべて聞いた。美紗緒は若干躊躇しながら言った。
「歌恋、夫の・・・歌恋の兄のことをまったく口にしなかったでしょう?」
「あ、そういえば・・・」
「いくら精神的に退行しているからって、兄が記憶から無くなっているって、不自然と思いませんか?」
「確かにそうですねえ。あなたや私のことは何となく記憶に残っていたみたいですが」
「わたし、そこまで妹に嫌われている夫が怖くなって・・・」
 美紗緒は、そう言いながらぞっとしたように身をこごめるようにすると続けた。
「今は私にやさしいけれど、いつか義妹(いもうと)のように扱われるようになるのではないかって・・・」
「美紗緒さん、それは考えすぎなんじゃ・・・」
「いえ!」
 美紗緒は首を振って言った。
「今までも何回かですが、冷たい人だと感じたことがあるんです。しかも、母親の干渉がすごくて・・・。でも、今まで気にしないように努めてきました。だけど、今度のことで気持ちが動きました」
「動いた?」
「はい。笹川と別れようかと・・・」
「え? 確かにいけ好かないヤロー・・・あ、いやその・・・」
「いいですよ。ほんとのことですもの」
「いえいえ、失礼しました。えっと、ちょっと変な人とは思いましたが、もう少し考えられたほうが・・・」
 由利子は、ここでそんなことを言われても困るがなと思いながら言ったが、美紗緒は首を横に振った。
「私、決めたんです。一緒に歌恋を看取ってくださったあなたに、それを聞いてほしくてお目覚めを待ってたんです」
「だ、だけど、美紗緒さん・・・」
 その時、ドアをノックする音が聞こえた。
「ギルフォードです。ユリコ、入ってもいいですか?」
 由利子は美紗緒のほうを見た。美紗緒はうなづきながら言った。
「あ、どうぞ。私のお話はだいたい終わりましたし」
 美紗緒の許可を得て由利子がギルフォードに応えた。
「は~い、どうぞ」
 由利子の返事が終わるや否や、ギルフォードがあわただしく入って来た。珍しく、黒っぽいスーツで髪もきっちり束ね、教授然としていたので、由利子は少し戸惑った。
「オー、ユリコ、倒れたと聞いて驚きました。・・・ああ、大丈夫そうですね。よかった」
 ギルフォードの心配そうな表情が安堵に変わったが、それが高じたのかいきなり由利子を抱きしめた。ついで、パチーンという乾いた音が部屋に響いた。
「人前で何すんのよ、ばかっ!」
「ああ、いつも通り切れのいいビンタ・・・。元気そうでなによりです」
 ギルフォードは、頬を抑えながらもうれしそうに言うと、ようやく美紗緒の存在に気が付いた。すかさず、驚いて目が点になっている美紗緒に満面の笑顔で会釈した。
(こいつはもう・・・)
 と思いながら、由利子は気を取り直してそれぞれを紹介した。
「この方は笹川美紗緒さん。歌恋さんのお兄さんの奥さんよ。それから美紗緒さん、みっともないところをお見せてごめんなさい。彼はQ大のギルフォード教授です」
「オー、ミサオさん。お名前の通りおキレイな方ですね」
 由利子に紹介されたギルフォードは、すかさず最強の笑顔でいつもどおりのセリフを言った。
「いえ、そんな・・・」
 美紗緒は戸惑いながら微笑んで言った。
「それより夫がご迷惑をおかけしているようで・・・」
「あなたのせいじゃありません。お気になさらないでください」
 と、ギルフォードは神妙な顔をしながらお辞儀をした。
「この度は、とても残念なことでした」
「いえ、義妹(いもうと)が大変お世話になりまして、感謝しております。特に、こちらのセンター長ご夫妻には大変お世話になりまして・・・。歌恋も死の間際で救われたと思います」
美紗緒はそう言いながら一礼すると、荷物を手にして言った。
「では、お連れさんがこられたので、そろそろお暇(いとま)しますね。いい加減に夫のところに行かないと、機嫌が悪くなっちゃうんで」
「美紗緒さん、あまり無茶しないで」
「ええ慎重にしていくから大丈夫よ、ありがとう。篠原さん、彼、素敵な方ね。では、失礼します」
 美紗緒は一礼すると、部屋から出て行った。美紗緒の去った後、ドアのほうを見て由利子がぼそりと言った。
「急いで帰ったけど、なにか誤解されちゃったかも・・・」
「誤解?」
 と、ギルフォードが不思議そうな顔をして言った。
「そうよ」
 由利子は少し照れくさそうに言った。
「アレクってば、いきなり抱きついてくるんだもん。きっとアレクのこと彼氏とか思ったんだわ」
「ユリコのカレシって思われたのですか。それは光栄です」
「またあ。もう、口がうまいんだから」
「本心ですってば。・・・それより、よかった。倒れたと聞いて心配していました。極度に緊張したせいだろうということでした。すみません、僕のせいです。君をあんな場所に一人行かせてしまって・・・。緊張するのは当たり前ですよね」
 と、ギルフォードがすまなさそうに言った。
「いえ、アレクのせいじゃないわ。たぶん疲れてたのよ。短い間にいろいろありすぎたんだもの。きっとそうよ・・・。それより、斉藤孝治は?」
「亡くなったそうです」
「亡くなった?」
 由利子が鸚鵡返しに聞いた。
「はい。もうじき遺体が運ばれてくると思います」
「おばあさんは?」
「彼女は無事だそうです。しばらくはここで隔離でしょうけど」
「お気の毒だけど、仕方ないわよね。孝治の方は病気が悪化して死んだの?」
「間接的にはそうなるでしょうけど、自殺だそうですよ。2階から飛び降りたということです」
「だけど2階から落ちたくらいじゃ、簡単に死なないでしょ。よっぽど打ち所が悪かったのかしら?」
「しかも、レスキューがエアクッションを敷いていたんです」
「それじゃなんで・・・」
「持っていた刃物をのどにあてたまま落下したらしいです」
「え? クッション敷いてたのに刺さるの?」
「そりゃあ、落下時の衝撃は弱まりますが、刃にかかる質量は同じですから」
「あ、そっか」
「刃は、頸椎まで貫いていたそうです」
「げっ。こわっ。聞いただけでこっちまで痛くなるわ」
 と、言いながら、由利子は自分ののどを抑えた。
「裁断用鋏の片刃だったんで、頑丈だったんでしょうね。ほとんど即死だったと思われます。これでまた、彼の潜伏時の行動が謎のままになりました」
「それって・・・」
 由利子が眉を寄せながら言った。
「なんか美千代の時と似てない?」
「ええ、似ています。警察の方も、関連性を指摘しているとジュンが言ってました」
「詳しいと思ったら、葛西君情報か」
「そりゃあ、僕はこの事件の顧問ですからね」
 と、ギルフォードは少し誇らしげに言った。
「コウジは、最後の最後までカレンさんの名前を呼んでいたそうです。彼は彼なりにカレンさんのことを愛していたのかもしれませんね」
「屈折した愛かあ・・・。迷惑な話よね」
「男ってのは、単純バカな生き物ですからね。中には勘違いしちゃうヒトもいるんですよ。無理やりでも肉体的な関係を持ったら、きっと自分に夢中になるにちがいない・・・なんてね。まったくのファンタジーなんですけど」
「アレクもそんな目にあったことがあるの?」
「あの時は、間一髪でシンイチが駆けつけて・・・って、何言わせるんですか」
「アレクが勝手に話し始めたんだもーん」
「ほんとにもう・・・」
 ギルフォードはそう言いながら、さっきまで美紗緒が座っていた椅子に腰かけ、なぜかじっと由利子の顔を見た。いつもと違うスーツ姿のイケメンに見つめられて、由利子はどぎまぎした。
「何よ、照れるじゃない」
 と、由利子が困ったように言うと、ギルフォードはほっとしたように微笑んで答えた。
「たいしたことなくてよかったなあと思って・・・。ユリコが倒れたと聞いたときは、ぞっとしました。看護師が一人発症したでしょ? だから、まさかって思って・・・」
「大丈夫よ。この病院のシステムは万全なんでしょ?」
「はい。しかし、ヒトのすることに完全はありませんし、ウイルスの性質もまだよくわかってませんから」
「看護師の園山さんは、多美山さんの血を大量に浴びたために発症したんでしょ? ほかのスタッフ間の感染がないんだから、防御システムは十分機能してるってことよ」
「そうですよね。僕としたことが、弱気になってしまってました」
 ギルフォードはそう言うと、また微笑んだ。しかし、その笑みから浮かない表情が消えなかったために、由利子は他にも何か心配事があるのかもしれないと直感して尋ねた。
「何かあったの? 来るのも遅かったし」
「実は、研究室でキサラギ君から問題点を指摘されましたので、その検証をしていたのです。そのためにここ(感対センター)に来るのが遅くなってしまって・・・」
「で、問題点って?」
「ええ、まあ・・・その・・・、まだ何とも言えないので説明できませんが、その件で高柳先生と話をしていたんですが、途中であのバカ兄が来たので、中断しました」
「バカ兄って、歌恋さんのお兄さんよね。アレクったら相当嫌っちゃったんだねえ。・・・じゃあ、話は中断したまま?」
「というか、保留ですね。ちゃんとした資料をもらって、もう一度きちんと検証しなければ結論が出せませんから」
 ギルフォードが珍しくお茶を濁したので、浮かない表情の原因は気になったが、由利子はそれ以上聞かないことにして、質問を変えた。
「で、紗弥さんは? 一度ここには来ていたようだけど」
「君のことが心配だったので、様子を見に来てもらったのですが、その後一足先に車の方に行きました。今頃は玄関の方に回って待機していると思います」
「車? どこか行くの?」
「今日は多美山さんの初七日でしょ。遺体が帰らないのでまだお葬式ができないから、仮のお葬式を兼ねて法要をするということで、僕たちも行くことになりました」
「ああ、だから・・・」
 スーツの理由がわかったので納得して言った。
「君も行くでしょ?」
「行っていいの?」
「もちろんですよ」
 と、ギルフォードが笑顔で言った。
「それにしても・・・」
 由利子がしみじみとして言った。
「もう初七日になるのかあ。早いような気もするけど、なんだかずいぶん経ったような気もするわ。1年半くらい・・・
「何、ミもフタもないコト言ってるんですか」
「だって、いろんなことがありすぎるんだもん。仕方ないじゃん」
「それ、僕のまねじゃん」
「あ、わかった?」
 由利子はそう言うとあははと笑った。それを見て、ギルフォードはまた心配そうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻って言った。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
「ええ」
 由利子は答えると、座っていたベッドから立ち上がった。
 

 佐々木良夫は、学校の帰りに本屋に寄っていた。西原祐一が買いたい本があるから本屋に寄るというので、例の事件以来仲間となった4人で、駅隣にあるデパートの大型書店に行こうということになったのだ。

 祐一は、退院した翌日の火曜から登校することができた。休みの理由は表向けには風邪をこじらせたことになっていた。兄妹二人が同時に休むにはこれが最適な理由だったからだ。しかし、休み前からの孤立状態は相変わらずだった。その上、予想通りの悪いうわさがちらほら立ちはじめており、中には露骨に祐一を避ける者までいた。祐一は、それでも寂しそうな表情をするだけで、特に何も言わないでいた。だが、あの事件の前と違うのは、祐一のことを理解し支えようとする友人が二人増えたことだった。祐一にはそれがありがたかった。しかし、その一方では、彼らがそのせいでこれから先危険な目に合うのではないかという不安が拭えず、今一つなじめないでいた。

 良夫はコミックスの新刊が出ていないかと新刊コーナーの前で物色していたが、その中には彼が揃えているコミックスの名前がない。それで、祐一のいる方へ行こうとした時、誰かが後ろから襟首を引っ張った。驚いて振り返るとそこには錦織彩夏が立っていた。
「脅かすな! なんだよ。君は参考書のところに・・・」
「そんなことはどうでもいいわ。佐々木、とにかくちょっと来て!」
 彩夏は構わずに良夫の襟首をつかんだまま、足早に歩きだした。良夫は引きずられるように彩夏について行った。
「ちょ、こら待て。ちょっとボクより背が高いからって威張んなよ」
「アンタがチビなだけじゃん」
「ああ?」
「いいから、来る!」
 彩夏は良夫の襟首から手を放し、右手につかみかえると、週刊誌の棚まで引っ張っていった。そこでは田村勝太が一冊の週刊誌を手にして立っていたが、彼は二人を見るとすぐに言った。
「ヨシオ、大変だ。これを見てくれ!」
 勝太が差し出した週刊誌の記事を見て、良夫が驚いて言った。
「なんだよ、これ!? しかも、平積みの量ハンパないし」
「俺が君たちを待っている間だけでも、5人くらい買っていったよ」
 と、勝太が説明した。良夫は額に手を当てながら言った。
「あの女、やりやがったな」
「でしょ。西原君にも教えなきゃあ」
「うん。急ごう。これ、持って行ったほうがいいな」
 3人は雑誌を手にすると、祐一のいる方に急いだ。
 祐一は、ノンフィクションの区画で立読みをしていた。
「西原君、大変!」
 3人からほぼ同時に背後から呼ばれ、立読みに没頭していた祐一は飛び上がるようにして振り返った。
「脅かすなよ。どうしたんだ。3人そろってすごい顔をして」
「いいから、これを読んで!!」
 3人は異口同音に言うと、一斉に週刊誌を差し出した。それは言うまでもなく、あのサンズマガジンのサイキウイルス特集号だった。

 ギルフォードは、運転を紗弥に任せて後部席に由利子と座っていた。
「だって、狭いんだもん」
「ケチって軽なんか買うからですわよ」
「わざわざハイブリット車を買うよりエコなんですよ」
「ま。いつもは『やたらエコエコいうやつに、ろくなのが居ない』って言っていらっしゃいますわよね」
「僕は、たまにしか口に出しませんから」
 ギルフォードはそううそぶいたが、由利子がおとなしいのを見て不思議そうに言った。
「あれ、ユリコ? いつもなら絶対ここでツッコミを入れてくるのに」
「え? あ、ごめん。考え事してた」
 と、我に返ったように由利子が言った。
「何か難しい命題でも解いているんですか?」
「なによ、それ」
「ずいぶんと小難しい顔をしてましたよ」
 と言うと、ギルフォードはにこっと笑った。その時、ブーンと電話のバイブ音がした。
「うひゃあ、マナーモードのままでした。・・・すみません、電話ですので・・・」
 ギルフォードは急いで携帯電話を出して送信元を確認した。
「オー。ヨシオ君からです。何かあったのでしょうか」
 心配そうに言いながら、ギルフォードは電話にでた。
「もしもし? ヨシオ君、何か・・・」
 ギルフォードが出るや否や、電話向こうから何人かが一斉にわめいてきた。ギルフォードはいったん電話を耳から離し、顔をしかめて電話のディスプレイを見ると、気を取り直して再び電話を耳にあてた。
「ちょ、ちょっと、誰か代表して話してください」
 ギルフォードの注文に、電話の向こうが揉めているようだったが、良夫が若干息を切らしながら質問した。
「あのっ、サンズマガジンって雑誌にっ」
「ああ、あれですね」
 ギルフォードは少しうんざりしながら言った。
「僕も困っているんです」
「ご存じだったんですか」
「はい。東京のほうが早く発売されるので、それが一足先に手に入ったんです」
「じゃあ、今は大変なんじゃ・・・」
「まだ落ち着いていますが、警察内部ではやはり大問題になっています。本当に迷惑な話です」
「僕らはあんな記事、絶~っ対信用しませんからね!」
「ありがとう。力強いですね」
「裁判になったら証言台に立ってもいいです」
「ありがとう。でも、そんなことになったら大変ですね」
 ギルフォードが苦笑いをしながら言った。電話の向こうで女の子が「証言台って、アンタ、教授を犯罪者にするつもり? 馬鹿じゃないの?」と、やや煽るように言ったのが聞こえた。ついで、良夫の「うるせーよ」という声。ギルフォードはくすくす笑って言った。
「仲がいいですね」
「誤解です。誰があんな嫌な女!」
「あはは。まあ、いいでしょう。今日は心配して電話くれたんですね。ありがとう。ところで西原君は元気ですか? ずいぶんとおとなしいようですが、一緒にいるんでしょう?」
「あ、代わります」
 良夫は快く電話を祐一に渡した。
「教授、その節はお世話になりました」
「ああ、元気そうですね。いい友達も出来たようです。こういう逆境の時に支えてくれる友人は宝物です。大事にしてください」
「はい」
「何度も言いますが、絶対に無茶をしてはダメですよ」
「はい。今回のことで身に染みました」
 祐一は素直に答えた。実際、祐一は今回のことで懲り懲りしており、もう厄介ごとには関わりたくないと思っていた。
「今日はホントにありがとう。それでは、みなさんによろしくお伝えください」
「はい。教授もくれぐれもお気をつけて」
 そう答えた後に電話が切れたので、祐一も電話を切った。
「あー、西原君、電話切ったとお?」
 良夫が少し怒ったように言った。祐一は良夫に電話を返しながら言った。
「あ、ごめん」
「ボク、まだ話したいことあったのに」
「でも、教授が先に切ったんで・・・」
「佐々木、アンタたいがい話してたじゃん。教授は忙しいのよ。中坊と長電話する暇なんてないんだからね」
「嫌な女だな。ちょっとかわいいと思って」
 二人がまた口げんかを始めたので、祐一は少し驚いて勝太に言った。
「なんか、オレがおらん間に二人のキャラが変わった?」
「そうかもね」
 勝太が肩をすくめて言った。

 電話が終わったようなので、すかさず由利子が尋ねた。
「ね、今の電話は?」
「美千代の事件に関わったあの少年たちです。サンズマガジンの記事に心配して電話してくれたのです」
「そっか。いい子たちだね」
「はい。だから、この事件にはもう関わってほしくないと思います」
「そうだね。・・・だけど、サンズマガジンにも困ったもんだわね。妙な影響がなけりゃいいけど・・・」
「ホントに悩ましいことです」
 ギルフォードはそういうと腕組みをしてため息をついた。
「そろそろ、多美山家に着きますわよ。降りる準備をしてくださいな」
 と、紗弥がナビを確認して言った。車はすでに住宅街に入っていた。 
 

 山中久雄は、自分の持ち山の見回りをしていた。彼は、最近裏山に大型ごみの不法投棄が相次ぎ、頭を痛めていた。ごみの種類とその多さから、悪質業者の不法投棄と判断して警察に通報し、見回りをしてもらっているが、巧妙にパトロールの隙をついてごみの投棄がなされた。それで、彼は隠居している父と共に高校生と中学生の息子二人と愛犬のダルメシアン『佐武海707号』愛称サブを連れ立って投棄の状態の確認にきたのだった。もしも悪質業者と鉢合わせても、この人数ならなんとかなるだろう。そう思って久雄は意気込んで投棄現場までやってきた。
 案の定、3日前よりも大型ごみの量が増えていた。
「くそっ、撤去するにも金がかかるってのに、また増やしやがって、クソッタレ共が!!」
 久雄が吐き捨てるように言った。しかし、6月も後半になると暑さで悪臭が増し、その上たまった雨水にボウフラがわいてヤブ蚊の発生元にもなってしまう。すでに周囲には悪臭が漂い、人間4人は無意識に顔をしかめていた。高校生の修太郎が鼻と口を覆いながら言った。
「お父さん、このにおいひどすぎるよ。肉かなんかが腐れとっちゃないやろか?」
「そうか? 俺は鼻が悪かけんそこまで臭かっちゃ思わんが・・・」
「そのお前がわかるくらい臭かっちゅうことや」
 いまいち反応の鈍い父親に祖父の秀雄が言った。中学生の英二は耐えきれず涙目になっている。
「えっ、そげんニオイのすごかとか?」 久雄は首をかしげながら言ったが、サブがいきなり引っ張ったので、2・3歩ほどよろけながら進んだ。
「おい、サブ。どうしたとや?」
 久雄はサブに声をかけたが、犬はそれを無視して気になる方向に行こうとする。久雄は仕方なくその方向に行くことにした。
「サブが何かに気付いたごたるけん、行ってみるわ。修太郎、英二を連れて臭くないところまで避難しとれ。親父、行ってみようや」
 父の言葉に従って兄弟は十数メートルほど離れ、久雄と秀雄が愛犬とともに投棄現場に近づいて行った。サブの毛はだんだん逆立っていき、頭を低く下げ時折低いうなり声をあげて尋常な様子ではない。久雄は徐々に不安になっていき、横の父親に話かけた。
「親父ぃ、このニオイばってん、俺、なんかいやな予感がするっちゃけど・・・」
「おいもそげな気がすっとたい」
「さすがに俺にもニオイの凄かとのわかってきたばい。こりゃあたまらん」
「おいの鼻は、もう曲がろうごとあるじぇ」
 秀雄はすでに鼻をつまんでおり、言葉の一部が鼻濁音になっている。サブはうなりながら、粗大ごみの中の冷蔵庫の前まで行くと、ピタリと止まってそれから頑として動かなくなった。相変わらずうなり声をあげ続けているが、背から尾の先まで毛を逆立てている。
「これやな。親父、サブを頼むわ」
 久雄は愛犬を父に任せ、件の冷蔵庫に近づいてまじまじと見た。業務用の大型冷蔵庫だが、パッキンが緩くなっているのだろう。ドアから何か液体が漏れており、それから悪臭が漂っている。
「どこかの馬鹿が、食材を入れたまま遺棄したっちゃろ。何が入っとおとか」
 と言いながら、久雄は冷蔵庫に手を伸ばしたが、ふと視界に何かがよぎってその手を止めた。見ると冷蔵庫から垂れた液体にたかっていた虫が四散したのだ。
「うわ、ゴキブリか。なんちゅう数か、こりゃ。まあこげなとこやけんおってもおかしくはなかばってん」
 久雄は言いながら再び手を伸ばし取っ手を握った。しかし、秀雄はゴキブリと聞いて驚いて叫んだ。
「久雄、待て。開けたらいかん!」
「え? なんで・・・」
 久雄はそう言いかけたが、すでに手がドアを開けてしまっており、中身がずるりと庫外に落ちた。
「うぎゃぁあ~~~、出たーーーーーっ」
 久雄がとっさに飛び上がり後退った。
「そこをどけ、久雄!」
 秀雄はそう怒鳴ると、肩にかけていたショルダーバッグからスプレーを出して周囲にぶちまけた。
「こういうこともあろうかと思って持っていたんだ」
 秀雄はそういうと、息子にスプレーを投げて言った。
「急いで修太郎と英二にこれをかけてやれ!」
 そのスプレーは、件の激臭虫除けハーブスプレーだった。
「わかった」
 久雄はそういうと、息子たちの方に駈け出した。さっきまで自分の隣でうなっていたサブが、いつのまにか兄弟たちの横で、震えながらうずくまっていた。

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3.暗雲 (7)由利子

 近くの100円駐車場に車を止めて、3人は多美山の家に向かった。

 多美山家の玄関前にはテントが立っており、妙に姿勢のいい男女が二人、受付に立っていた。ギルフォードの姿を見ると、女性の方が親しげな笑顔で会釈した。
「おや、ミドリさん、こんにちは」
 ギルフォードは、女性の顔を見るなり言った。その女性は少年課の堤みどり巡査だった。
「まあ、ギルフォード先生、いらしてくださったんですね」
「はい。この度はホントにご愁傷さまでした・・・」
「多美山は私も尊敬していました。刑事の中の刑事でした。未だ亡くなったなんて信じられません」
「ミドリさんも事件の時あの公園にいらしたんですよね」
「はい。でも、まさかあの時が多美山との最後の別れになるなんて・・・」
 堤はそう言うと、少し涙ぐんだ。

 ギルフォードたちは、受付を済ませると玄関に向かった。
「一番乗りみたいですね」
 と、ギルフォードが玄関の靴の数を見て言った。ギルフォードたちが玄関に入ると、すぐにタタタと軽い足音がして孫の桜子が出迎えた。
 桜子は、初めて会う紗弥に少し驚いて立ち止まり、少しおずおずとしながら言った。
「いらっしゃいませ、こんにちはっ」
「こんにちは」
 その仕草がかわいかったので、3人は笑顔で返した。ギルフォードは桜子の戸惑いに気付いてすぐに紗弥を紹介した。
「サクラコちゃん、この人は僕の秘書でサヤっていいます。サヤさん、タミヤマさんのお孫さんで、サクラコちゃんです」
「桜子ちゃん、はじめまして」
 と、紗弥が笑顔で言ったが、若干笑顔がぎこちない。由利子はそれに気づいて(あら?)と思ったが、口に出さなかった。
「はじめまして!」
 桜子はぺこりとお辞儀をすると、改めて言った。
「アレクおじちゃま、そして、おねえちゃんたち。きょうは、おじいちゃんのためにどうもありがとうございます」
「Oh,サクラコちゃん」
 と言いながら、ギルフォードは桜子を抱き上げた。
「おじいちゃんのこと、ザンネンでした。悲しかったでしょう。僕も悲しかったです」
「はい。さ~ちゃ・・・わたし、いっぱいないちゃったです」
「僕もいっぱい泣きました。死んでほしくなかったです」
「おじちゃま、おとこでおとななのになくのですか?」
「はい。大人の男は見えないところで泣くんです。さ~ちゃんのおとうさんもきっと・・・」
「ちちは、みんなのまえでないてました」
「桜っ。もう、要らないことを言っちゃだめでしょ」
 母親の梢が出てきて、焦って言った。
「この子ったらもう、先生から下りなさい!」
 母に怒られて、桜子はぴょんとギルフォードから飛び降りた。
「あんたはあっちへ行ってなさい」
 梢は娘の頭を軽く叩いて言うと、ギルフォードたちの方を向き、膝をついて座りお辞儀をしながら言った。
「先生方、その節はお世話になりました。おかげで義父(ちち)が亡くなる前にあの子を会わせることができました。・・・さ、皆様、どうぞ、おあがりください。お坊さんが来られるまでもう少し時間がありますから、お茶でも・・・」
 梢はそう言いながらスリッパを並べると、立ち上がり居間の方に案内した。その後ろ姿を見ながらギルフォードが言った。
「キモノの喪服って、なんかいいですね」
「不謹慎ねっ!」
「不謹慎ですわよ」
 由利子と紗弥が、左右からほぼ同時にギルフォードの背中をはたいて言った。

 3人は居間のソファに並んで座ったが、いろいろ忙しい大人の中で、閑を持て余した桜子はちゃっかりギルフォードの膝の上に座った。しかし、何となく浮かない顔をしている桜子に、ギルフォードが事情を聞くと桜子が悲しそうに答えた。
「おじいちゃん、おコツになってかえってくるって・・・。いつかえってくるかもわからないんだって・・・」
「え? どういうこと?」
 と、由利子が驚いて言った。ちょうどお茶を運んで来た梢が、由利子の問に答えた。
「そうなんですよ。なんでも斎場(火葬場)近隣の住民の反対にあって・・・、って、こら、桜っ! あんた、どこに座ってるの? お客さまに失礼でしょ、降りなさいっ!」
「ああ、お母さん、僕はいいですよ」
「そうはいきません。先生もそんな狭いところにお座りにならないて、前の方にどうそ」
「いえ、ほかの方が来られたら・・・」
「その時に移動すればよろしいでしょう。さあ・・・。桜もさっさと先生のお膝から降りなさい」
 梢に促されて、ギルフォードは桜子を膝から降ろし、前のソファに座りなおした。その膝にまた座ろうとした桜子は「桜っ!!」と怒られて、仕方なく自分用の小さい椅子を持ってきて、ギルフォードのそばに座った。
(この子ったら、なんでこの変な外人をこんなに気に入ってるのかしら? ビジュアルはいいんだけど、なんか怪しいのよね、この人・・・。ひょっとして、将来、こんな人を『結婚します』なんて連れて来たらどうしよう・・・)
 梢がついそんなことを考えながらお茶を配っていると、由利子がさっきの件で質問してきた。
「あの、梢さん、近隣住民の反対って? 斎場って確か自治体の管轄下じゃあ・・・」
「はい。そうなのですが、住民の反対は無下には出来ないので・・・」
「それは、あの告知の放送以後からですの?」
 と、今度は紗弥が聞いた。
「そうらしいです。危険な遺体を持ち込むなと・・・。確かに、近くに住む方や普通に火葬される方のご遺族にとっては恐怖なのはわかりますけれども・・・」
「タカヤナギ先生から、そういう話を聞いていましたが、そうですか、すでにそういうことが起きているんですね」
 ギルフォードが腕組みをしながら言った。由利子が心配そうに尋ねた。
「じゃあ、どうなるの? ずっとセンターの遺体安置室に置いておかれるの?」
「そんなの、やだぁ! おじいちゃん、おじいちゃん・・・かわいそう・・・」
 みるみる桜子の両目に涙が浮かんだ。しかし、桜子はそのあと口を一文字にして黙り込んだ。必死に泣くのを我慢しているようだった。見兼ねてギルフォードが言った。
「大丈夫ですよ、さ~ちゃん。おじいちゃんのお骨はきっとおうちに戻ってきますよ」
「ほんと?」
「はい。ただ、もうちょっと時間がかかるかもしれませんが・・・」
「って、どうなるのよ?」
 と、由利子が切り返した。梢がその問いに答えた。
「センターの先生にお伺いしたところ、廃止された斎場を修復して、そこをサイキウイルス感染者専用にすると・・・。ただ、近隣住民の反対は免れないようですから、説得が大変そうですけれど」
「ああ、それで時間がかかると」
「ええ。だから、初七日の今日、仮の葬儀をすることにしたんですの。と言っても、お坊さんを呼んでお経をあげてもらうだけですけど・・・」
 そして、梢は改めてギルフォードたちの方を見て言った。
「あの時、義父に面会させなかったらあの後永久にこの子を祖父と会わせてやることができなくなるところでした。ありがとうございました」
 そういうと、梢は深々と礼をした。

 仮葬儀は予定通り夕方6時から始まった。仮とはいえ、近隣からの弔問が絶えず、祭壇のある部屋に入りきれずに、間のふすまを開いて二部屋利用するようにしたが、それでも中に入りきらない人たちが家の周囲に並んだ。ギルフォードたちは多美山の人望の深さを改めて認識させられた。葛西たちは6時過ぎて、読経の中駆けつけた。斉藤孝治の事件に時間をとられたからだった。
 遺体もお骨もない祭壇には、多美山の礼服姿の遺影が飾られており、祭壇の周りには送られてきたフラワースタンドや、アレンジメントが所狭しと並べられていた。

 由利子はギルフォードたちと一緒に中ほどに座った。僧侶が読経している間、由利子は多美山と出会ってからの短いが深い交流を思い出していた。
 最初、K署でちらりと姿を見ただけだった。そして再会した時、多美山は発症していたもののまだ元気そうで、由利子との会話もさして支障なく出来た。しかし、多美山の病状は目の前で悪化し、再会した翌日、由利子たちの目の前で壮絶な最後を遂げた・・・。

 由利子は、途中で自分の体調が良くないことに気が付いた。
 心臓の鼓動が徐々に早まり、軽い吐き気を催してきた。しかし、我慢できないほどのものではない。昼間倒れたから、その延長で一過性のものだろうと判断し、由利子は黙って座っていた。ところが、由利子の体調は一向に改善されず、時折軽い眩暈さえしてきた。しかも、多美山の死に顔が頭から離れない。ここまでくると、さすがに由利子はおかしいと思い始めた。考えたら、昼間、笹川歌恋の病室の前で倒れたのも妙だ。
(まさか、ほんとに感染・・・?)
 由利子はそう思うとぞっとして身を震わせた。額に嫌な汗がにじんできた。まずい。また、倒れるかもしれない・・・。由利子は思った。
 だが、由利子はなんとか読経が終わって焼香まで持ちこたえた。少しふらつきながら、焼香台の前まで来た由利子は、近くで多美山の遺影を見上げた。菊の花に囲まれた多美山の遺影は、若干若い時のもののようで、警官の礼服のせいか、由利子の多美山のイメージより精悍な感じがした。焼香を終え、由利子は改めて多美山の遺影を見上げた。その時、再び多美山の最後のシーンが由利子の頭の中でフラッシュバックした。それに触発されたかのように、可憐や駅で『自爆』死した男の死に関する数多の映像が一瞬の間に由利子の脳裏に流れ込んできた。由利子は一瞬気が遠くなって、ふらつき一歩後退った。バランスを崩しよろけそうになった由利子を、ギルフォードが支えた。
「どうしました? また具合が悪いですか?」
「たいしたことないわ。でも、ちょっと外に出た方がいいみたい・・・」
「そうですね。・・・サヤさん、ユリコの調子が悪そうなので、ちょっと外に行きましょうか」
「一人で大丈夫だって。 アレクたちは最後までいてあげて」
 由利子は、ギルフォードの申し出を断ると、一人で家の外に向かった。その由利子を呼び止める声がした。振り返ると梢が心配そうに立っていた。
「あの、ひょっとしてご気分がお悪いのでは・・・?」
「大丈夫です。人いきれに酔っただけでしょう。少し外の空気を吸えば治ると思います」
「そうですか。では、玄関を出て中庭の方に入られてください。縁側がありますので、そこでお休みになるといいですわ。庭もきれいですし、人もそこまで入って来ませんから、気兼ねなしで休めますわ」
「え? いいのですか?」
「ええ。本当は家の中で休んでいただくべきなんでしょうけれど、今日はいろいろ取り込んでて・・・」
「そんなご迷惑をおかけすることは出来ません。では、お言葉に甘えて・・・」
「先生には私からお伝えしておきますわ」
「ありがとうございます」
 由利子は一礼してから玄関に向かった。
(最初、やな感じだったけど、いい人じゃん)
 人ってわからないものだと由利子は改めて思った。

 外に出た由利子は、庭に入って中を見回した。少し歩いたところに、梢の教えてくれた縁側があった。風はあるが雨は止んでいて、ところどころ濡れてはいるものの縁側はだいぶ乾いていた。少し蒸し暑いので強めの風がかえって心地よい。由利子は良く乾いた場所を選んで腰かけた。
「多美山さん、私、どうしたんやろ・・・」
 由利子は空を見上げてつぶやいた。曇り空だが部分的に雲が途切れ、その雲間から太陽光が幾筋も漏れて金色に輝き、美しかった。
「いつも思うけど、ほんと宗教画みたいだな・・・。誰か、あれを天の道って言ってたっけ・・・」
 由利子はつぶやいた。その時、人の気配を感じとって、由利子が振り向いた。そこにはギルフォードが立っていた。
「アレク、来ちゃったの?」
「はい。ジュンも心配そうに見てましたから、我慢できずに来ると思いますよ。・・・あ、来た来た」
 ギルフォードの言うとおり、葛西が姿を現し駆けつけると開口一番に言った。
「由利ちゃん、どうしたの?」
「誰が由利ちゃんだっ」
「あ、すみません、由利子さん」
 二人の会話を聞いて、ギルフォードがくすっと笑って言った。
「いつも通りの会話です。ダイジョウブそうですね」
「二人とも、心配かけてごめん。でも、なんでかわからないの。さっきは否定したけど、まさかほんとに感染したんじゃあ・・・ないよね」
 由利子は不安そうに言った。感染という言葉を聞いて葛西が驚いて由利子を見た。ギルフォードは由利子の右側に座りながら言った。
「ユリコ。センターで倒れたでしょ。あの時・・・」
「え、由利ちゃ・・・由利子さん、倒れたんですか?」
 と、葛西が驚いて言った。由利子がうなづいたので、葛西は不安の色を濃くして言った。
「どうして・・・」
「タカヤナギ先生によれば、ユリコがササガワ・カレンを看取った時、極度に緊張したせいだろうということでしたが」
「由利子さんが歌恋さんを?」
「まあ、成り行き上そうなったというか・・・。でも、倒れたのはちょっとカッコ悪かったわね」
 と、由利子が少し照れくさそうに答えた。
「あの後、ユリコの様子が変だったので気になってたんです。無理して明るくふるまっているみたいで・・・」
「え? そんな風に見えた?」
「はい。思い切り変でした」
 ギルフォードに変と言われて、由利子は複雑な気持ちになってしまった。葛西は、二人の前に立ったまま、二人の顔を交互に見て言った。
「あの、由利子さんが感染って・・・」
 途中まで言いかけた葛西が、びくっとして背広のポケットを抑えた。低い振動音がしている。
「すみません、電話なんで」
 葛西はそういうと、電話をとって二人から数歩離れて電話に出た。それを見ながらギルフォードが言った。
「彼、相変わらず忙しいですね。あれじゃ、デートする暇もないです」
「要らないお世話だと思うけど・・・。それよりアレク、何を言いかけたの?」
「ユリコ、僕が思うに、君は・・・」
「すみません、アレク、由利子さん」
 電話を終えた葛西が二人の方に向かいながら言った。
「また、感染者の遺体が発見されたそうです。それで、例のひったくり犯の可能性が・・・」
「いやっ、もう、見たくない!!」
 葛西の言葉が終わらないうちに、由利子が言った。葛西が驚いて由利子をまじまじと見て言った。
「由利子さん?」
「あ・・・、ごめんなさい」
 言った由利子自身が驚いて、両手で口を覆って言った。
「私、どうかしたのかなあ・・・」
「あの、遺体の状態がかなりひどいので、今回は由利子さんの確認はなしってことになったのですが・・・」
「あ、そうだったの」
 と、由利子がほっとして言った。対して、ギルフォードが興味深そうに尋ねた。
「遺体の状態がひどいというのは?」
「はい。山中に廃棄された家電の山のなかの冷蔵庫に入れられていたそうです」
「オー、夏場に放置された冷蔵庫の中の遺体とか、考えたくないですね。しかも、死因が死因だけに」
「はっきり言って、僕も見たくないです・・・」
 と、葛西が憂鬱そうに言った。
「そういう訳で、僕は、また行かなきゃいけないのですが、さっきアレクが言いかけた件が気になって・・・」
「ユリコの感染はないと思います。だけど、別なことで問題があります」
「感染じゃあないのね」
 由利子は少し安堵して言った。しかし、ギルフォードが次に言ったことは、思いがけないことだった。
「僕が思うに、おそらくユリコはASDにかかっています」
「ASD・・・。ストレス障害ですか?」
 葛西が驚いて聞き返した。
「はい。ユリコ自身が死にかかったとかいうのではありませんが、人の死・・・それも、もっとも残酷な死に何度も遭遇したせいで、それがユリコにとってトラウマになってしまったんです。ましてや、ユリコは人の顔を忘れないのですから、それを考えると・・・」
「私がストレス障害・・・?」
「はい。今のところ一過性だと思いますが・・・。僕の考えが甘かったんです。そのせいで、ユリコの心にかなり重い負担をかけてしまいました」
「由利子さんが・・・」
 葛西はギルフォードの言葉の中から、一つの可能性を予測したが、口に出すのをやめた。
「話の途中ですが、すみません、僕、行きます。九木さんが待ってるんで・・・」
「そうですか。ずいぶんと忙しいようですが、体を壊さないように気を付けてください」
「僕は警官ですから大丈夫です。それに僕、さっき多美さんに誓ったんです。必ずこのウイルスをまいた犯人を挙げて、多美さんの仇を打つって」
 葛西はそう言うと、一礼した。
「じゃ、僕、行きます」
 葛西はそう言うや否や、駈け出した。しかし、勢い余って数歩駈け出したところで何かにつまずき前のめりになって、おっとっとと3歩ほど走ってなんとか態勢を立て直し、そのまま走りさった。ギルフォードと由利子はその後ろ姿を見て言った。
「ホント大丈夫なんでしょうか」
「心配だなあ・・」
 二人はぷっと吹きだして笑った。しかし、ギルフォードがすぐに真面目な表情に戻って言った。
「ユリコ。僕は君に言っておかなければならないことがあります」
 急に、かつてないような真面目な表情で言われたので、由利子は半笑いで訊ねた。
「なーに? 改まって」
「僕はこのことを、はっきりするまで黙っていようかとも思いましたが、君がそういう状態になったので、早いうちに言っておくべきだと思いました」
「ひょっとして、深刻な話?」
 と、由利子が半笑いのまま恐る恐る聞いた。
「そうです。状況次第では、君にこの仕事から外れてもらうかもしれません」
「え?」
 由利子は驚いてギルフォードの顔を見た。半笑いがひきつったような笑顔に変わった。
「そんな・・・。なんで?」
「理由は二つあります。一つは、君のASDの件です。このまま治らず悪化した場合、PTSDに移行してかなり厄介です。そして、この仕事を続けることは、悪化する可能性の方が高いと思います。もう一つは、センターで話した、キサラギ君が指摘したという問題です」
「それが私に関わってたってこと?」
 由利子は、ギルフォードがはっきり言わなかった理由を理解した。
「君が罹ったのと同じインフルエンザに、多美山さんや珠江さんが罹っていた可能性があります。さらに、二人の古賀さんもです」
「古賀課長は、私と同時に感染ったから間違いないし、多美山さんもこの前話した時にそんなことを言ってたけど・・・」
「彼らはみな劇症化を起こしています。救急救命士の古賀さんに至っては、出血症状の出る前に心臓発作で亡くなられています。もし、そのインフルエンザ感染が原因で劇症化を起こしているとしたら、君の感染リスクは他の人たちより高いことになります。万一感染した場合、発症・死亡の確率が格段に上がるでしょう。民間人の君を、そんな危険な仕事につかせるわけにはいきません。それに加えて君のASDです。
 僕は君にこれ以上の負担をかけたくありませんし、危険な目にも遭わせたくありません」
「そんな・・・。いやよ! それに、もうすでに関わってしまったのよ。私には私なりの怒りがあるわ。私だってウイルスを撒いた犯人の逮捕に協力したいのよ!」
 由利子は、さっきまで思いもしなかったことに動揺しながらも、きっぱりと言った。目の前で多美山が死んだ時の悲しみ、そして、今日歌恋が死んだ時の持って行き場のない怒り。それでも、この事件の捜査に協力しているということで、テロリストたちに一矢報いることが出来るという自負があった。そのスタッフから外されるなんて、考えもしないことだった。由利子はストレス障害になってしまった自分のふがいなさを呪った。
「ユリコ・・・。でも、仕方ないんです」
「私は怖くないわ。ASDなんか克服してみせる。私の目の前で死んでいった多美山さんや歌恋さん。お母さんになったばかりだった紅美さん。まだ子供だった雅之君やその家族、友だちの祐一君たち。それから、古賀課長。みんなあのウイルスのせいで死んだり人生を狂わされたりしたんだよ。そして、彼らに私は関わってしまった。これは、もはや私にとって偶然では済まされないことなんだ。それなのに、私に外れろっていうの?」
「ユリコ、声が大きいですよ。・・・君の気持はわかります。でも、仕方ないじゃないですか。君の安全を考えたら・・・」
「アレク、あんたがこわいのは・・・」
 由利子は声のトーンを落として言った。
「あんたに関わった人がまた死んでしまうことよ! それを、私の安全にすり替えているだけだよ」
「ジュリーが話したんですね・・・」
 ギルフォードが、低い声で言った。少し怖い顔をしている。由利子はしまったと思ったが、言ったことはもう取り消しができない。しかし、ギルフォードは表情を和らげて続けた。
「それなら、かえって話が早いです。僕がPTSDを克服するのに、どれだけ費やしたか・・・。それに、出血熱の苦しさは表現しようのない地獄の責め苦です。しかも運よく助かったとしてその後の気の遠くなるような療養とリハビリが待っています。後遺症が残ることもあるんです。僕は君にそんな思いをさせたくない」
「アレク。それでもあんたはそれを乗り越えてここにいるんでしょ?」
 今度は穏やかに由利子が言った。
「あんたは子供の頃のトラウマを克服して、次にラッサ熱の恐怖を克服したんでしょ。そして、何かから逃げてここに来たのかもしれないけど、結局あんたはウイルスと戦う道を選んだ、そうでしょ。なら、私だって・・・」
「確かに君の言うとおりです。でも、僕と君とは鍛え方が違う。君とウイルスとの戦いは、ほんの数週間です。いくら思いが強くても、体が動かなければ意味はありません。ハッキリ言いましょう。さっきみたいにフラフラされると、足手まといなんです」
「う・・・」
 反論できずに由利子は口ごもった。
「もちろん、君の処遇は僕の一存から決めることはできません。だけど、もし、チームから外れるとしても、最初の研究室でのアルバイトに戻るだけだし、写真の確認お願いすることもあるでしょう。なんせ、君しかわからないこともあるんです。それに関しては、君の身辺に警護を付けることも検討されています」
「そっか。逆を言うと、あれを見てしまったために、私はこの事件から完全に切れることは出来ないということね」
 それも複雑だな、と、由利子は思った。
「とにかく、上の判断を待ってください。出来るだけ君に不利にならないよう便宜をはかってもらいますから」
 その時、いきなり二人の背後から声がした。
「あのお・・・、ちょっといいですか?」
 驚いて振り返ると、縁側沿いの引き戸が開いて、そこに多美山の息子の幸雄が立っていた。
(聞かれた?)
 ギルフォードと由利子は顔を見合わせた。

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3.暗雲 (8)ハイ・アンド・ロー

 幸雄はバツの悪そうに言った。
「すみません。桜が助手の方が具合悪そうだと心配していたので、ご挨拶かたがた様子を伺いに参ったので決して立ち聞きをしようとは・・・」
 ギルフォードと由利子がもう一度顔を見合わせた。
「あの・・・」幸雄はさらに言いにくそうに言った。「父を殺したウイルスが誰かに撒かれたものだって、本当ですか? これはウイルステロだったのですか?」
 ギルフォードは、恨めしそうな顔で由利子を見ながら言った。
「だから、声が大きいって言ったじゃないですか」
「あんたがこんなところでそんな話をするからじゃないよ」
「早い方がいいと思ったんです。ユリコが大声をださなければ良かったんでしょ」
「ちょっ、人のせいにしないでよ。大声って普通にしゃべってただけじゃん。大体あんたが不用心だから・・・」
「それは、お互い様でしょ。だいたい、さっきから人のことをアンタアンタって、古女房じゃあるまいし」
「イギリス人のくせに古女房とかゆーな!」
「あのっ。質問に答えてください」
 二人が言い合いをやめそうにないので幸雄がしびれを切らして言った。
「このことは、父が危篤の時、一度あなたにお聞きしましたね。でも、あなたはあくまで可能性の一つと言葉を濁らせました。実はあの時から、私はそのことが頭から離れませんでした。私も刑事の息子です。人に喋ったりしません。妻にも情報を漏らしたりしません。ですから、事実をお教えください。お願いです」
「教授、もう観念して説明なさいませ」
 二人が驚いて声の方を見ると、紗弥が歩み寄って来ていた。
「サヤさん、聞いていたんですか?」
「いいえ。あまり遅いので今様子を見に来たところですが、状況から大体のことは推理出来ますわ。ごまかして不信感を買うより、ご説明して納得していただくべきです」
「確かにそうですね・・・」
 ギルフォードはなるほどという顔をすると、幸雄の方を向いて言った。
「ユキオさん。このことについては未だ情報が少ないために、僕たちにも詳細は把握できていないので、詳しいことは言えませんが、その可能性は高いです。ただ、その決定的証拠がないので、公表できないというのが現状なのです」
「証拠がない?」
「はい。経路もまだ不明ですし、犯人からの声明もないからです。それでもその可能性が高いとするのは、ホンの初期の頃に、それらしいメールが送られて来たことと、F駅で死んだ感染者が声明文のようなものを持っていたからです。しかし、両方とも暗号めいた書き方をされており、決定的証拠にはならないんです。特にメールの方はほとんどがイタズラと思われて破棄されたか、あるいはメールソフトからスパムとして処理されていたくらいです。しかも腹立たしいことに、そのメールの発信元は、すでにこのウイルスに殺されていた少年の携帯電話からだったんです」
「そうなんですか。しかし、声明ということは、やはりテロの可能性もあるということですか?」
「はい。可能性が高いと考えられています」
「父は、葛西さんが戦う相手が正体不明の恐ろしい敵だと言っていましたが、このことだったんですね。父はそんな恐ろしい敵と戦っていたんですね」
 幸雄は青ざめた顔をして言った。
「あんなむごいウイルスをばらまいて・・・。父の苦しむ様は今もはっきりと目に焼き付いています。犯人は感染したらあのようになることを承知でばらまいたのでしょうか」
「おそらくわかっていると思われます。しかし、彼らがどういった経路でそれを手に入れ、ばら撒くに至った経緯はわかっていません。これが既存の病原体であったなら、経路を想定しやすいのですけれども・・・」
 そこまで言った時、ギルフォードは幸雄の様子に気が付いた。唇や握りしめた両手が小刻みに震えている。話の途中だが、ギルフォードは心配になって声をかけた。
「ユキオさん、大丈夫ですか?」
「すみません。自分から聞きたがったのに・・・。もっと冷静に受け止められると思ったのに・・・」
 無理もない、とギルフォードは思った。自然発生したウイルス病で死んだのなら自然災害とあきらめもつこうが、人為的に撒かれたものなら殺人と言っていい。そのショックと怒りは想像を絶するものだろう。
「正直、まだ混乱しています。しかし、一つだけはっきりしたことがあります。父は、ウイルスを撒いた何者かに殺されたということですね」
 ギルフォードは、一瞬躊躇しながらも答えた。
「・・・はい」
「わかりました」
 と、幸雄は気丈に冷静さを保ちながら言った。
「無理を言って話していただいてありがとうございます。最初に誓ったように、このことは誰にも言いません。父の名にかけて・・・。だから、お願いします」
 幸雄はいきなり床に手をついて、ひれ伏すようにして言った。
「このウイルスを封じ込め、必ず犯人を捕まえて父の仇を・・・」
 出番がないので黙って成り行きを見ていた由利子と紗弥が、驚いて顔を見合わせた。当然ギルフォードも予期せぬ展開に驚いて言った。
「ユキオさん・・・。いいから頭を上げてください」
「どんなに悔しくても、私には何も出来ない。だから・・・」
 幸雄が土下座をやめないので、ギルフォードは彼に近づいて起こしながら言った。
「お約束します。だから、あなたも無茶をしないと約束してください。そして、この先何があってもご家族を守ってあげてください。タミヤマさんもそれを一番気にしていらっしゃいましたから」
「はい。わかっています。娘も妻も守ります。これ以上つらい思いをさせないためにも・・・」
 その頃、桜子が遅い父を心配してやってきたが、父の姿に驚いて駆け寄った。
「パパ、どういたの?」
「さ、ユキオさん。立ち上がって。サクラコちゃんが心配しちゃいますよ」
 ギルフォードは幸雄を軽く抱くようにして立たせると、桜子に向かって言った。
「さ~ちゃん、お父さんはおじいちゃんのことを思い出して悲しくなってしまったのです。さ~ちゃんが慰めてあげてください」
「うんっ。パパは泣き虫だなあ、もう」
「桜、男だってたまには泣き虫になるんだよ」
 幸雄はつらそうに言った。その時、紗弥の携帯電話から着信の音がした。電話に出た紗弥は、「わかりました。お伝えします」と言って電話を切ると、ギルフォードに向かって言った。
「教授、高柳先生から、すぐ来てくださいという連絡が入りました」
「タカヤナギ先生が?」
「はい。今日見つかった遺体のことも含めて、意見を聞きたいということです」
「おや、どうしてサヤさんにかけたのでしょう」
「教授に電話が通じないので、秘書の私にかけてきたということでしたわ」
「おや、そういえば電源を落としたままにしていました。いけませんね、つい忘れてしまいます。では、ユキオさん、さ~ちゃん。僕らは行かねばなりません」
「え~っ、かえっちゃうの?」
 桜子がつまらなさそうに言った。
「わがまま言っちゃだめだよ。先生はお仕事なんだ。先生、今日は、ありがとうございました。いろいろご無理を言って申し訳ありませんでした」
 幸雄が、もう一度深く頭を下げて言った。

 去っていくギルフォードたちに、桜子が盛んに手を振り「さようなら。きょうはありがとうございましたー」と大人ぶって声をかけていた。ギルフォードたちも何度か振り向いて手を振っている。それを見ながら幸雄は涙が止まらなかった。
(父さんはこの子と暮らせると聞いて喜んでいた。でもあの時、父さんは自分が助からないってわかってたんだ・・・。刑事である限り、父が殉職する可能性もあると覚悟はしていた。だけど、父さんだって孫と暮らしたがるような平凡なオヤジだった。その父をあんな残酷なウイルスで殺した連中・・・。僕はそいつらがどうしようもないくらい憎くて憎くてしかたがない・・・)
  

「幸雄さん、大丈夫かなあ・・・。かなり動揺してたけど・・・」
 と、由利子が車に乗り込みながら言った。女性二人が乗ったのを見届けた後に、おもむろに乗り込んだギルフォードは、腕組みをして言った。
「タミヤマさんの遺言が『家族を守れ』でしたから、無茶はしないと思いますけど・・・。しかし、あそこで聞かれたのは失敗でした」
 ああ見えても若干落ち込んだらしく、声のトーンが低い。
「私だって同罪だわ。だけどね、あの幸雄さんを見て私思った。やっぱり逃げちゃだめだって。たとえリスクが大きくったって、テロリストに決定打を打てるのは、関係者らしい男たちの顔を見た私だけでしょ」
「しかし、危険です」
「今の私の立場ならどこに居ても危険だし、感染する運命ならどこに居ても感染するわ。それより、カウンターテロ(対テロ)の関係機関の中に居た方がよほど安全じゃない?」
「だけどユリコ・・・」
「犠牲者のご家族のお気持ちを思うと、私のASDなんて屁みたいなもんだわ」
「ヘ・・・って、fart・・・オナラ・・・ですか?」
 ギルフォードが妙なところで驚いて聞き返したので、由利子は面食らって言った。
「あのなぁ」
 そこに、運転席に座って黙って聞いていた紗弥が口を挟んだ。
「教授、由利子さんの言うことは正しいですわ」
「屁がですか?」
「ばか」
「バカ?」
 紗弥は、ギルフォードのボケを無視して言った。
「それに、教授だって本当は由利子さんを手放したくないのでしょう?」
「確かに、僕らやジュンがいつでもそばに居れる環境の方が安全でしょう。しかし・・・」
「絶対に足手まといにはならないから! チームの末席にいさせて」
 と、まだ踏ん切りのつかない様子のギルフォードに向かって、由利子が言った。
「でも、さっき言ったように、僕だけの判断では決められない話なんです。たぶんタカヤナギ先生の話もそれに関することでしょうし・・・」
「アレク・・・」
 由利子が珍しく懇願するような目でギルフォードを見た。
「わかりました」
 ギルフォードはため息をつきながら、しかしなんとなく嬉しそうに言った。
「出来るだけのことはしましょう。僕だって困りますからね、ユリコがいないと。せっかくゲットした顔探知機ですからね」
「困るのそこですか」
 由利子がすかさず突っ込んだ。しかし、その眼にはほんの少しだけ涙が浮かんでいた。
「じゃ、話がまとまったところで、出発しますわ」
 紗弥はそういうと、勢いよく車を発進させた。
 

 葛西はその頃、遺体と対面する準備が出来たというので富田林とともに感対センターの霊安室へ向かう廊下を歩いていた。
「なんか今回、通路にすごく嫌なにおいが残ってますね」
 と、葛西が憂鬱そうに言った。富田林がうん、と頷いて答えた。
「こりゃあ、かなりいっちゃってるようだな。覚悟しとけよ、葛西」
「そんな遺体、僕が見る意味あるのでしょうか・・・」
「何言っとる。篠原由利子を狙ったひったくり犯、すなわち、テロリストあるいはその手先の可能性があるのだろう? もしそうなら、単なる遺体遺棄事件ではなくなるだろう。そこにテロリストの何らかの意図があったと考えられる。篠原由利子に確認が無理なのなら、彼らの顔を見たもうひとりの人間が確認するしかあるまいよ。すなわちお前だ、葛西」
「まあ、そうなんだけど・・・」
「お前が惚れとる女の代わりに見るんだ。まあ、頑張れ」
「やだな。からかわないでください」
 口ではそう言いながら、葛西は何となく嬉しそうだった。
「で、富田林さんはなんで一緒に来てるんですか。そういえば、多美さんのお葬式にはなんで?」
「俺は昔K署におったったい。多美さんにはその時けっこう世話になってなあ。で、これからの遺体の確認は付き合いさ。お前一人じゃ辛かろうと思ってな」
「増岡さんは?」
「あいつは遺体なんか好き好んで見たくないってんで、一足先に本部の方に行ったよ」
 富田林はそう言うとからからと笑った。
 しかし、霊安室へ入りちょうど検死中だったその遺体を見た瞬間二人の様子が一変した。
 葛西にはそれが最初何かわからなかった。頭が理解を拒否したのだ。しかしその後、葛西は遺体の顔を見るために仕方なくそれを正視した。

 それは、ガラス越しの対面だったが、それだけで十分だった。その死体は葛西の想像を絶していた。葛西は心の中で叫んだ。
(こんなの見て、誰かわかるもんか!!)
 6月の高温高湿度の中、壊れた冷蔵庫の中に放置されていたのだ。しかもパッキンが壊れて密封が不完全なため、外気が入り込み庫内温度が上がって腐敗が著しく進行した。さらに腐敗時の熱で庫内温度が急上昇した、急速にガスで体が膨れ上がりすでに巨人様観を呈していた。しかも、その内圧で白濁した眼球が飛び出しているし、耳からも何か溶けかかったようなものが出ている。紫色に膨れ上がった腹の内臓はおそらくドロドロでに溶けているのだろう。尻のあたりから汚物が流れ出ている。ウイルス感染のために皮膚は部分的にぶよぶよと白っぽく浮き剥がれかかっており、あちこちに出血した跡があった。髪はほとんど抜けていて、鼻や口の周りには血がこびりつき、極めつけに、口から内臓の絡んだ膨れ上がった舌が飛び出していた。相当苦しかっただろう、と葛西は思った。こんな死に方は絶対にしたくない! おぞましさと恐怖に葛西の体が小刻みに震えた。
「もっ、申し訳ありません! こんなんじゃあ、わかりま・・・」
 その時胃から否応なく何かがこみ上げ、葛西は口を押えて部屋を飛び出した。ほぼ同時に富田林も涙目で駆け出し、二人は並んで走り去った。その様子を見て、検死中の高柳がぼそりと言った。
「やっぱり鑑識に複顔してもらわんといかんか・・・」
「ま、こいつがこの有様じゃ仕方ないでしょうな」
 と、その横で検死に立ち会っていた九木が、肩をすくめて言った。 
   

 さて、ここはめんたい放送の報道部。デスクをはじめスタッフの多くが、夜8時を過ぎても帰らない美波をやきもきしながら待っていた。

 デスクが痺れを切らして言った。
「美波は何をやってるんだ。夕方のニュースには、君たちの機転でなんとか間に合ったが、下手すりゃ他局に乗り遅れるところだったんだぞ」
「夕方、近くに寄りすぎた、犯人の血が付いたかもしれない、病院に連れて行かれる、という、要領を得ない連絡が入ったきり、なしの礫で・・・」
 赤間はそう答えながら思った。
(さっきから3度目だよ、この会話。そろそろ切れて怒鳴りだすぞ)
「アカマちゃん、まずいよ。デスクの時限爆弾、そろそろ爆発寸前だ・・・」
 小倉も同じことを考えていたらしく、そっと耳打ちをしてきた。その時、二人の足元を這うようにして通ろうとする者がいた。その正体に気付いた小倉が、その曲者の襟首を掴んで小声で怒鳴った。
「美波! このバカ! 連絡くらい入れんかっ!」
「ごめんなさ~~~い」
 美波は両手を合わせて祈るようなしぐさで言った。小倉は美波の襟首を掴んだまま、部屋の隅に引っ張っていった。赤間がその後を追った。
「デスクがキレる寸前なんだよ。おまえ、今会ったら確実に頭から爆弾落とされるぞ」
「ええっ?」
 と、一瞬美波は不安そうな表情を見せた。小倉が、畳み掛けるように言った。
「なんで、連絡らしい連絡を入れなかった?」
「だって、着てるもの全部廃棄されて、携帯電話もカメラも汚染の可能性があるって没収されたのよ。電話番号なんて覚えてないし、連絡する時間も方法もなかったんだから」
「着替えは?」
「母に持ってきてもらったのよ。いくらなんでも自宅の電話番号くらい覚えているわよ」
「じゃあ、お母さんに連絡してもらえばよかっただろ。病院に頼むって手もあったろ」
「あ、そうか。ごめん。テンパってたから・・・」
 美波はてへっという顔で言った。
「まあいい。で、服を廃棄って、血とか掛かったのか?」
「念のためだって。見た目は全然汚れてなかったもん。でも、とっさに開いた傘に血がついてたから・・・」
「傘、差したのかよ」
「あの傘、役に立ったんだ」
 二人は感心したような呆れたような顔をして言ったが、すぐに美波が尋常でない事態に陥ったことを察して問うた。
「何があったか説明しろ」
「わかった」
 美波は少し得意げにしながら、現場であったことをかいつまんで説明した。

「じゃあ、おまえ、犯人の顔を見たんだ」
 小倉が、少し興奮気味に言った。
「とうことは、サイキウイルス感染者を見たってことだよな」
「そうか! どんな感じだった? やっぱり血だらけなのか?」
 赤間も興味津々で尋ねた。
「ごめん。思い出したくないんだ。トラウマになりそうだもん。とにかくひどい顔だったわよ」
「そんなに・・」
 二人は同時に言うと、顔を見合わせた。その時、何者かが二人の肩を後ろからがっちりつかみ、間から顔を出し顔が三つ並んだ状態になった。それは言うまでもなくデスクだった。
「美波ぃ~・・・」
 彼は、引きつけたような笑顔で言った。
「よく帰って来たなあ。仕事を放り出して行ったんだ。収穫はあったんだよな。トラウマとか甘いこと言ってないで・・・」
「きゃあ、デスク、ごめんなさい」
 美波が、ハエのように手をすり合わせた。小倉がかばうように言った。
「デスク、許したってください。ミナちゃんだって危険な目にあってるんです」
「バカ野郎! 記者にとっては貴重なネタだ! スクープの可能性もある! 『絵』があるなら渡せ、無いなら無いで何とか記事にしろ!」
「映像・・・、カメラは没収されたけど、ちょっとだけなら・・・」
 美波はそう言いながら、ジーパンのポケットからSDカードを出した。
「お前な、その癖やめろよ」
 小倉がうんざりしながら言った。対照的に、デスクが急に機嫌良くなった。
「よし、よくやったぞ、美波! オグ、さっそく中身確認だ」
 デスクはカードを受け取ると、鼻歌交じりでさっさと自分の机に向かった。
「あんたんとこのパソコンで見るのかよ」
 と、デスクの後を追いながら小倉が少し不機嫌に言った。赤間がとりなすように言った。
「デスクはわがままだから。ああいう子供じみたところを除けば、頼れる人なんだけどな。しかし、よく没収されなかったな」
「苦労したんだから。着るものは廃棄しないといけないし、シャワーも浴びないといけなかったし。見つかったら絶対に没収されるってわかってたから必死よ」
「まあ、女性は隠すとこけっこうあるからなあ」
 小倉がぼそりと言った。赤間が「えっ?」と反射的に、SDカードを持ったデスクの方を見た。
「そんな妙なとこには隠してないわよっ」
 美波が顔を赤くして言った。
「こっそり手に持ってたり、シャワー室のタオルの間に潜ませたり・・・。小さいから便利よね」
 それを聞いて、赤間が足を止め振り向いた。
「おまえ、あれ、汚染はされてないんだろうな」
「大丈夫だって。素敵なおまわりさんが庇ってくれたん・・・」
「お~い、美波。なんかお前の映像が出てきたぞ。ラ☆ちゃんのコスプレか? 大胆だなあ」
 美波が言い終わらないうちに、デスクの素っ頓狂な声が聞こえた。それに伴って、「え?」という声とともに、デスクの周りに人が集まってきた。
「いやぁ~ん、自分のビデオカメラ使ってたの忘れてた~! みんな、見ちゃダメッ!」
 美波は焦って駈け出した。
 

 感対センターの地下にある男子トイレの個室に葛西と富田林の二人がそれぞれ入り、洋便器を抱えるようにしてへばっていた。
 彼らは例の不法投棄場の冷蔵庫の中で発見された腐乱死体を見、二人仲良く口を押えてトイレに駆け込み、胃の中身をぶちまけたのだった。その後、お互いの嘔吐と見たばかりの凄まじい遺体の様子の連鎖で、胃が空になるまで吐き続けた。出すものすべて出し終えても胃のムカムカが消えず、しばらく嘔吐が治まらなかった二人は、時折えづきながら洋便器にすがるようにしてぐったりしていた。
 しばらくして、富田林が弱弱しく葛西に声をかけた。
「葛西ぃ・・・、大丈夫か」
「はい、なんとか・・・」
 パーテーション越しに、葛西が情けない声で答えた。
「おまえ、死体見るとは初めてか?」
「普通のなら何回かあります。惨いのは、最近C川にあった虫食い遺体を見ました」
「俺はな、意外と沢山見とるし、ひでぇ状態の遺体だってけっこう見たんやが・・・、さっきのアレはいかん。あげんえずか仏さんは初めてばい。まいった・・・」
「通路で既にとんでもない悪臭がしてた時に、いやな予感がしてましたよね・・・」
「おう。まず、あれにやられたんだな」
「君たち、大丈夫かね?」
 入口の方で、声がした。高柳だった。二人を心配してやってきたのだ。その横のほうででもう一つ声がした。
「心配いらんですよ、高柳先生。彼らは精進落しの寿司にがっついてましたからな、まあ、食いすぎですな。大丈夫ですよ」
 この皮肉めいた言い方は九木だ。葛西は少しむっとして思った。
(僕たちは、メーワク野郎たちのせいであちこち走り回ってたから、昼からほとんど食ってなかったんだぞ。目の前の寿司で多少理性がぶっ飛んだって仕方ないじゃないか。第一あんなモノ見るとは思ってもなかったし、むしろ、アレ見て平然としている方がどうかしてるよ)
 その一方で、生真面目な富田林が恐縮しながら言った。
「ふがいないところをお見せして申し訳ありません。すぐに復帰します!」
「いや、無理しなくていいからね」
 高柳が慰めるように言った。
「今回のは特にむごかったからね。うちのスタッフでさえあれを見た内の数人が轟沈したくらいだし、今、司法解剖に来られた法医学の先生も、さすがにこの横では飯は食えんと言っておられるんだ。恥じる必要はないよ」
「確かに、あのくらいの中途半端な遺体が一番悲惨ではありますな。だがね、君たち。それを冷静に見てちゃんと的確に説明出来るようにならんといかんぞ」
 と言うと、九木は淡々と遺体の描写を始めた。
「こらこら、九木さん、いい加減にしてあげてください。かわいそうじゃないですか」
 見かねた高柳が、延々遺体の描写をする九木を止めた。しかし、時すでに遅しで、再び個室で「おええ」という声の二重唱が聞こえた。
  

 再び『めんたい放送』の報道部。
 集まってきた野次馬連中を追い払った後、デスクの藤森と美波・赤間・小倉4人が美波の撮ってきた映像を確認していた。美波以外は、初めて見る感染者の顔に興奮気味だった。そんな中、藤森が言った。
「美波、やっぱこれ、そのままじゃ使えんわ」
「え?」
 美波はきょとんとしながら言った。
「レベルが『視聴者からの投稿』なのは仕方ないとして、犯人が病人でしかも心身喪失が疑われる限り、顔を出す訳にはいかんからな。スクープはスクープなんだが、俺たちはタブロイド誌みたいなことをするわけにはいかんからな」
「タブロイド紙?」
「ああ、お前、今日いろいろあったんでまだ知らなかったんだな。今日こんなのが出たんだ。もっとも中央では2日前には出ていて、こっちでも一部で話題になっていたんだが」
 美波はそれを受け取って、パラパラと中身を見ながら言った。
「なんですか、これ?」
「見ての通り、今回のウイルス騒ぎのスッパ抜き記事さ。これ見た行政と警察が、あわてて報道規制をかけてきやがった。まあ、これだけ書きたい放題書かれりゃあ、そうしたくなるのもわからんではないがな」
 そういうと、藤森は両手を後頭部に組み、椅子の背もたれに寄りかかって背伸びをした。
「ま、11時のニュースあたりでモザイク付きで流す分には構わんだろう。なんだかんだ言っても貴重な独自映像だ。美波、ご苦労だったな。今日は早く帰ってゆっくり休め。これ、返しとくわ」
 藤森はあっさりそういうと、美波にSDカードを返した。美波は納得できない顔でそれを受け取り、一礼して去っていこうとした。その背に向けて藤森が飄々として言った。
「例の映像な、俺のHDに保存したあとで消去したから」
「えっ、うそっ」
「ああ、そうそう。お前のプライベート映像には手を付けていないから安心しろな。ちょっと見たけど
「そんなもんどうだっていいです。私が命がけで撮ってきた映像なのに、私のカードから消しちゃうなんてひどいわ、どうして?」
「投稿サイトなんかにアップされちゃ敵わんからな。情報源がウチだってモロバレだ」
「そんなあ・・・。そんなことするわけ無いじゃないですか」
「悪く思うな。念のためだ。それとな、今日お前の勝手な行動で、特オチしかかったからな。ちゃんと始末書書いておけよ」
(踏んだり蹴ったりだ・・・)
 美波は泣きそうになり、その場で棒立ちになった。その背に向けて藤森が言った。
「美波。多少の羽目は外さんとスクープは取れんだろう。だが、突っ走っても裏目に出たり空回りすることも珍しくない。これくらいでめげてちゃ記者は続かんぞ。さ、今日は帰って美味いもん食って風呂入って寝ろ」
「ふぁい・・・。でば、おさぎにしつでいしばす」
 美波は鼻声で力なく返事をすると、とぼとぼと去って行った。その様子を見ながら、赤間が小声で言った。
「なんだかんだって、女の子には優しいんだよな」
「なあ」
 と、小倉も同意し、続けて言った。
「ま、ミナちゃんも、C川の追跡取材がNS10で放映されたんで、少し天狗になっとったからな。いい経験になったやろ」
 しかし、赤間は不安そうに美波の後ろ姿を一瞥して言った。
「そうかな。リベンジとか言って、また俺たち振り回されるかもしれんぞ」
「不吉なこと言うなよ」
 小倉が肩をすくめながら言った。
  

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3.暗雲 (9)ビジーディ

 話は少し前に戻る。

「ジュンは、この遺体を見て帰っちゃったんですか?」
 ギルフォードはガラス越しに解剖を終えた遺体を見ながら言った。横に立っていた九木が苦笑いをして答えた。
「ああ、さすがにダメージが大きかったらしくてね。連れの富田林君の方は復活が早かったが、おもりを兼ねて一緒に帰らせたよ」
「そうですか。ジュンらしいと言えばジュンらしいですが、僕は会いたかったのに残念です。で、結局ジュンにも誰かわからなかったんですね」
「まあ、君はともかくとして、写真で顔を見た私だってこれが渡部と言う男かどうか判断つきかねたからね。私も人の顔の判別は得意な方なんだが」
 九木はそこで肩をすくめると続けて言った。
「しかし、おそらく篠原由利子が見てもわからなかっただろうね」
「おや、どうしてですか」
「これは想像だが彼女は、顔の造作もだが、多分相手の目玉も判断基準にしているんだ。どんなに整形しても、年齢を重ねても、それだけは変わらない。警官が訓練して習得する技術を、彼女は本能的にやっているんだと思う。たいしたもんだよ」
「なるほど」
 とギルフォード。
「これだけ形相が変わって、目も腐ってれば、由利子にもお手上げってことですね」
「まあ、多分と言うことだがね。それ以前に女性には見せたくない代物ではあるな」
「ええ。ですから、秘書も待合室に置いてきました」
「正解だな」
「あらゆる部分が派手に膨れ上がっていますからねえ・・・」
 と、こんどはギルフォードが肩をすくめ、口をへの字に曲げた。
「それにしても、なんで不法投棄の家電の中に入ってたんでしょうか」
「さあてね。もし例のひったくりの片割れとしたら、何らかの悪意を持った理由があったんだろうが、何の関わりのない感染者の可能性もある。森田健二は県道まで約800mの道のりを歩いたそうだから、何かから逃れようとした挙句の行動だったのかもしれない。いずれにしろ迷惑な話ではあるし、地主にとってはとんでもない災厄には違いないよ」
 そこまで話した時、解剖を終えた法医学者と高柳が世間話をしながら歩いてきた。法医学者がギルフォードの顔を見るなり笑顔で呼びかけた。
「ギルフォード君、久しぶりだね」
「おや、カツヤマ先生。久しぶりって、最近はけっこうお会いしているし、F駅の『自爆』遺体の司法解剖の時もお会いしたじゃないですか。まあ、あの時はとてもお話しできる状況じゃありませんでしたが」
「ははは」
 勝山は笑った。しかし、笑いに力がない。
「今日も、事件性があるというので司法解剖に呼ばれたんだがね」
「まあ、前みたいに大学の法医学教室でするわけにはいきませんからねえ」
「夕方、立てこもり犯の解剖が終わって、さて帰ろうかと思った矢先にこの仏さんだ。しかもご覧のような大物でね。アウェーの作業でもあるし、いささか疲れたよ。今、昨日亡くなったお嬢さんのご遺体も見せてもらったんだが、痛々しくて見るのが辛かったよ。かわいそうに。これからもこういう遺体が出るのかと思ったら、やりきれんよ」
(”なるほど")
 ギルフォードは思った。
(”だから元気がねぇのか。しかし、この先生が音を上げるなんて、相当なことだな”)
「それで、この仏さんに関する先生の見解は? ひったくり犯の渡部との整合点はありましたか」
 と、すかさず九木が聴いた。
「詳しいことは(遺体)検案書を読んでもらうとして、かいつまんで説明しよう」
 勝山は、そう前置きすると、続けた。
「年齢は20歳から40歳くらいだな。ご面相については、ああいう状態なので見た目では判断しがたい。指紋掌紋は、手足の皮膚がごっそり脱落しているため、採取不能だった」
「皮膚が? まさか身元を隠すために・・・」
「いや、体幹の方にもそれが見られたから、おそらく病気のためだろう」
 そこに、ギルフォードが口を挟んだ。
「僕もそう思います。ウイルスの増殖で皮膚が壊死して剥がれるんです」
 それを聞いて、九木が驚いて聞き返した。
「それは君の経験なのか?」
「ええ、まあ・・・」
「凄まじいな。じゃあ、残る身元確認は歯型・・・か。まさか歯まで全部抜けていたなんてことは・・・」
「それが、抜けていたんだ」
 と、勝山。
「ええっ?」
「まあ、一部だけどね。20代半ばで既に前歯が上下ともインプラントだった。上顎が4本、下顎が2本だ。ひと財産だな。喧嘩か事故で歯を折ったんだろう」
「若い男の強い歯が根っこからですか?」
「事故のショックで歯が抜けてすっ飛んで行くこともある。上下一緒ってのはあまり聞かないが」
 と、今まで黙って話を聞いていた高柳が補足した。
「・・・あと、麻薬やシンナーの常習でも歯が弱るからね。そういう複合的な要因からじゃないかな」
「なるほど。やはりこの仏さん、堅気ではない可能性が濃いですな」
 九木が納得して言った。勝山はそれに頷き、話を続けた。
「渡部の歯科の資料が来たら、すぐに照合できるだろう。だが別人だったら厄介だね」
「その可能性を含めて、今、行方不明者との整合も合わせてやっていますよ。一刻も早く特定しないと、しかし、まったく新しい感染者なら、また新たな感染ルートがあることになりますから、確かに厄介ですな」
「それと、もう一つ。遺体の状況から死亡日時の割り出しは難しいが、まだ息のあるうちに冷蔵庫に入れられたのは間違いないね」
「確かに、庫内には男の体組織が何か所か付着してましたが、それは死後、膨張したせいだと・・・」
「体に庫内で暴れたような形跡が見られた。手や膝や額の皮膚や肉が若干磨滅していたよ。必死で出ようとしたんだろう」
「惨いことを・・・」
「例え、命の火が消えかかっていたとしても、生きようとするのが生物の性なんだと思い知らされたよ。さて、いささか疲れたんで、そろそろ解放してもらっていいかね。いい加減こっちにも監察医制度の導入をして欲しいよ、まったく」
 勝山は最後にそうぼやくと、また高柳と連れ立って歩き始めた。
「ありがとうございました。お疲れさまです」
「オツカレサマ」
 二人が勝山の背に向かって言うと、勝山が振り返って一礼し、またすたすたと歩きだした。去って行く二人を見ながら、九木が半ばつぶやくように言った。
「勝山教授か・・・。彼が最初に感染者・・・指針症例とみられるホームレスを司法解剖して異変に気付いたのだったな」
「ええ、そうですけど・・・」
「何故彼は、そんなことをしたんだろう」
「何か問題が?」
「ホームレスなんて、多少死に方に問題があったって司法解剖に回されることなんてめったにない。この国ではな」
「え? そうなんですか」
「欧米に比べて立ち遅れているんだ。犯罪者にとっては天国だな。警察の怠慢を言われればそれまでだが、現場で事件をかけ持つとな、なかなか大変でね・・・」
 九木はそういうと、自虐的な笑みを浮かべた。
「カツヤマ先生は、依頼されたと言ってました。貧乏くじを引かされたと嘆いてましたが、そういうわけだったのですね」
「貧乏くじか・・・」
 九木はそうつぶやくと、今度はふふっと含み笑いをした。

 その頃、九木と同じ疑問をもった人物がいた。めんたい放送の美波美咲である。
 美波は帰りの電車の中で、件のサンズ・マガジンを読んでいた。誰よりも前向きで負けず嫌いな彼女は、すでに痛手から立ち直り、気持ちを次のステップに切り替えていた。
 金曜の夜とはいえ、10時すぎるとFI駅を下った後の普通電車はめっきりと人が減り、一車両に人がまばらに座っているだけだった。その車両はボックス席の新型車両で、美波は4人掛けの席に悠々と一人で陣取っていた。なんとなく旅行気分で窓の桟(さん)に缶ビールを置き、時折飲みながらの読書だ。
(何これ、ひどい記事やね。さすがタブロイド紙。私ならこんな切り込みはせんけど。それに、もっとちゃんと裏を取ってからじゃないと、記事には出来んやろう。しかも、容疑者の証拠もない人物を怪しいと勝手に決めつけて写真まで載っけてから。人権侵害ものやん)
 美波は半分読んだあたりで、呆れていた。しかし、話としては面白く、すぐにその記事を読み終えた。
(確かに、このウイルス災害は謎の部分が多い。やっぱり私、この事件を追ってみよう。私が一番引っかかっているのは、この事件の発端。最初に感染したホームレスから病気が発覚したので、比較的早めにウイルスの発生がわかったのよね。それがなきゃ、未だにサイキウイルスの存在は知られてないかもしれない。でも、あまりにも出来すぎていない?)
 美波は、以前取材で司法解剖の壁にぶち当たって悔しい思いをした経験があった。それで、ウイルスの告知があった時から疑問に思っていたのだ。
「そもそも変よ。偶然司法解剖に回されたホームレスの遺体から、感染症を疑うなんて。出来すぎだわ!」
「いよお、ねえちゃん。さっきから何をぶつぶつ言いよぉと?」
 そう言いながら大柄な若い男が近寄ってきて、美波の真横に座った。鼻ピアスにアーミーベストをつけ、脱腸かと見まごうほどのローライズのアーミーパンツをはいたその男は、いかにもチンピラと言った風情で、しかもかなり酔っぱらっていた。
(いやだ、いつの間にか声に出しとったっちゃね。しかし、変なのを呼び寄せちゃったなあ・・・)
 美波は身の危険を感じて、体を座席に縮ませた。
「おねえちゃん、ちょっと遊ぼーや」
「ごめんなさい。あんたとはちょっとムリ」
「ムリ? お高くとまってんねえ」
「人を呼ぶわよ」
「人? あれえ、この車両、誰もおらんごとなっとるけどなー」
「じゃあ、110番するだけよ」
 美咲は出来るだけ平静を装い、携帯電話を出してかけようとした。だが、男は美波の手を掴み携帯電話を取り上げ、床に投げ捨てた。
「何すんのよ、やめて!」
「すぐに終わるからさー、ちょっとだけ仲良くしよーよ」
 そう言いながら男は窓のブラインドを下ろすと、美波に襲い掛かった。
「やめて、誰か、助けて、いえ、車掌さん呼んできてっ!」
「うるさいな」
 男は面倒くさそうに美波の口を塞ぎ、アーミーベストのポケットから大型のカッターナイフを出して、美波の頬にあてた。先端が少し当たって、頬に一筋血が流れたのがわかった。美波は恐怖で身動きできなくなってしまった。男はそれを確信すると、おもむろに美波のジーパンを下ろそうとボタンをはずしジッパーを下げた。
(もうだめか・・・)
 美波は絶望した。明日のニュース、私自身がネタにされるんだ。それにしてもひどい一日だったな。しかもトドメにこれかよ。
 その時、男の動きが止まった。誰かが彼の首根っこを掴み、美波から引き離したのだ。その救いの主は、さわやかな笑顔で言った。
「君、大丈夫?」
「はい! ありがとうございます」
「おじさんたちみんな逃げちゃって、ひどいよね。早く行きなさい。そして、車掌さん呼んできて」
「はいっ!」
 襲撃者から逃れることが出来た美波は、素早く衣服を整えると後部車両に向かって駈け出した。途中美波は、バツの悪そうに美波から視線をそらそうとしたり、酔っぱらってだらしなく爆睡しているらしい男たちの姿を横目で見ながら、情けなくなった。あの人が来てくれなかったら、私はどうなっていただろう・・・。怒りと情けなさで少し涙が出てきた。それを手の甲で拭いながら、美波は揺れる電車の中を走った。

 男は降屋裕己だった。彼も隣の車両で件の雑誌を読んでいたが、女性の悲鳴が聞こえたので急いでその方向に駆けつけ、美波が襲われているのを見てとっさに男を引き離したのだった。欲望の対象を逃がされた男の怒りは、当然降屋に向かった。男はカッターナイフの刃を最大限に出すと、降屋に向けた。
「てめえ、ぶっ殺してやる!! いいか、これだって人の首を切断するくらいの威力はあるんだ!」
 男は怒鳴るや否や、降屋に突進した。しかし、降屋は素早く身を低くして切っ先をかわすと、反動を利用して間髪を入れず男を掌底で打った。一瞬、男の顔が妙な形に歪んだ。男は自分より小柄でやや細身の降屋にあっさりと殴られ、一瞬何が起こったかわからないようだったが、わからないまま前のめりに崩れた。恐怖で必死に這いずって逃げようとする男の首筋を、降屋は軽く手刀で打った。男は再び敢え無く床にうつぶせて倒れ、ピクリともしなくなった。しかし、背中が上下しているので死んではいない。
「伊達に長兄さまの護衛はしていないんでね。しばらく起き上がれんだろうから逃げる心配はないな。さて、美波美咲か。いいことを思いついたぞ・・・」
 降屋はしゃがんで男の体を調べると、侮蔑の表情を浮かべ吐き捨てるように言った。
「シャブ中か。己を制することの出来ない、しかも、女性を欲望のまま襲うケダモノに生きる資格はない。地獄に落ちるがいい」
 降屋はつぶやくと、ジャケットのポケットから黒いケースを出して、中からインシュリン注射のようなものを取だし、男の太ももに突き刺した。そして素早くそれをケースにしまってポケットに戻した後立ち上がり、もう一度男の腹を蹴り上げた。
「苦しんで死ね! 外道め! ついでにお前の仲間も道連れにしてくれると尚いいぞ」
 降屋はそう言いながら、愉快そうに笑った。

 美波が車掌を連れて戻った時、既に降屋の姿はなかった。無人駅に停車してちょうど電車が走りはじめた頃だった。
 車掌は、床に転がった男を見て驚いて駆け寄ったが、息のあることを確認し、ほっとして立ち上がると美波に訊いた。
「こいつですか? あなたに乱暴しようとしたとは」
「はい。こいつがここに落ちているカッターナイフで脅して・・・。そこにあの人が来てくれて・・・って、あれ? あの人は?」
 美波は狐につままれたような顔できょろきょろしていたが、車窓から道を歩く恩人の姿を見つけて指さして言った。
「あ、居た! あの人です!!」
 しかし、電車は彼をすぐに追い越し彼の姿はあっけなく車窓から消えた。
「電車下りちゃったんだ。どうしよう。名前も聞いていないのに・・・」
「次のO駅に警察を呼んでますので、この男は逮捕されるでしょう。あなたの頬の傷が動かぬ証拠です。しかし、証人が居なくなったのはちょっと困るかもしれんですね」
 と、車掌が残念そうに言った。美波は半ば呆然として言った。
「なんで居なくなっちゃったの? ちゃんとお礼もしたかったのに・・・」
「でもまあ、あなたに大事なくてよかったですよ」
 車掌は美波を慰めるように言った。

 葛西は何とか寮にたどり着き、とりあえず頭からシャワーを浴びた。例の臭いが染みついたような気がしたからだ。その後、部屋に帰るとばったりとベッドに倒れこんだ。
「ひどい1日だった・・・」
 葛西はつぶやいた。
 早朝からたたき起こされて空港まで呼びつけられた。それが前兆だった。その後、捕り物が2件と、多美山の仮葬儀。由利子のASD。今日の遺体3つ。そう、極めつけはあの3つ目の遺体の確認だ。
「詰め込みすぎだろう」
 葛西はつぶやいた。しかし、あの遺体・・・夢に見そうだ、と、葛西は思った。しかも合間にジュリアスを見送った時の記憶が一部欠落している。
「疲れているんだ、きっと・・・。とにかく寝よう。寝るぞ!」
 そう納得させると、葛西はギュッと目を閉じた。疲れていたせいで、葛西は難なく深い眠りに落ちて行った。

「なんか、ばたばたした1日だったなあ」
 由利子が、風呂上りに髪を乾かしながらつぶやいた。
「はあ、これからこんな日がまたあるんやろうか・・・」
 由利子は今日を振り返り、歌恋の死のところでまた胸がつぶれるような想いがよみがえった。
「あんな人を増やしちゃいけない。何としてもウイルスの拡散を防がないと・・・」

 しかし、どうやって? 敵の正体すらわかっていないのに・・・? 

 由利子の胸に、もどかしさと怒り、そしてよみがえった悲しみが渦巻き、彼女は顔を覆い机に突っ伏した。由利子はしばらくそのままでいたが、不意に立ち上がって引出からノートを取り出すと、机に広げた。
「やみくもにジタバタしても無駄なだけだ。とにかく、今までの経過を整理してみよう」
 由利子はそうつぶやくと、考えながらノートにペンを走らせた。
 

 ジュリアスは、飛行機の中からだんだん遠ざかっていく日本の灯を見ていた。
 彼はいったん大阪で降りて、大阪で暮らす旧友と会い思い出話に興じた。その後、夕方にシアトル行に乗る予定だった。いったんシアトルを経由して、ボストンへ飛び、とりあえず自宅のあるケンブリッジに帰る予定だった。しかし、発達した雷雲のせいで出発が大幅に遅れ、飛び立ったのは夜10時を過ぎてのことだった。
 ジュリアスは、日本の灯を見ながら、この一週間のことを思い出していた。長く感じたが、振り返ると一瞬のことのようにも思えた。
 懐かしい、第2の祖国、日本。そして今回、新たな思い出を胸にジュリアスは帰路に就いた。
(”由利子、葛西。君たちは最高だ。会えてよかった。紗弥、いろいろと世話してくれてありがとう。そしてアレックス。愛しているよ・・・”)
 思いがあふれて、ジュリアスは小さい声でつぶやいた。
「おれが帰ってくるまで待っとれよ、みんな.」
 ジュリアスは、そのまま窓の外をずっと眺めていた。

 ギルフォードは、12時を過ぎてようやく自宅に帰りついた。
 ジュリアスの去った後の自宅は、6月でありながら何となく寒々と感じた。覚悟はしていたし、状況は1週間前に戻っただけだ。今まで一人でちゃんとやってこれたじゃないか・・・。
 しかし、再び恋人の温もりを得た身には、辛い夜になりそうだった。ギルフォードは、力なくソファに座ると、ぐったりと背にもたれた。そして、深いため息をついた後、思わずギルフォードは携帯電話を手に取った。しかしその画面は真っ黒だった。ギルフォードはまた携帯電話の電源を落としたままなのに気が付き、苦笑いをしながら電源をいれた。着信と留守録がそれぞれ2つ。一つはジュリアスから無事に飛行機に乗ったという知らせで、「愛してるよ」と言う言葉と、キスの音で終わっていた。ギルフォードは電話して声が聴きたいという欲求に駆られたが、眠っているだろうと考え控えることにし、次のメッセージを聴くことにした。もう一つの着信と留守録は、春風動物病院の小石川獣医師からで、美月が退院出来る程度に回復したので、今後どうするか相談したいとのことだった。
”ミツキ、良くなったのか・・・。これで一つ心配事が減ったな”
 ギルフォードはつぶやいた。その朗報に、ギルフォードの表情が和らいだ。美月に関しては、ギルフォードに一つ策があり、それを思うと少し気分が明るくなった。
“とりあえず、シャワーを浴びて寝よう。今日は本当にいろいろありすぎた・・・”
 ギルフォードは、そう言いながら立ち上がろうとしたが、起き上がることが出来ずに再びソファにもたれかかり、そのまま深い眠りに落ちて行った。 

 (「第3部 第3章 暗雲」 終わり)

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