オバマ大統領広島訪問に思う
被曝71年にして初めてアメリカ大統領が広島に来た。2016年5月28日は歴史に残すべき日になった。これで、ようやく一つの節目に来たように思われる。
今回謝罪はなかった。しかし、その代わりに17分ものスピーチをし、潔いことに米国側の免罪符ともいえる真珠湾攻撃には一切言及しなかった。国に関係なく広島で被爆したすべての霊を悼むために、そして長崎の原爆死没者を、さらにすべての戦争の被害者の霊をを悼むために祈りをささげた。さらに、秒刻みのスケジュールの中、予定外とされていた平和記念資料館見学を慣行した。それはわずか10分間だったが、オバマ大統領にとって必ず行かねばならない場所だったに違いない。(「核のボタン」を平和公園に持ち込まねばならなかったのは非常に残念だが、こればっかりは致し方ないことだった。それはオバマ大統領の傍にあることが一番安全であり、それがアメリカ大統領の義務にならなくなった時が、核廃絶された証しになる。しかしながら、その存在はかの地で眠る御霊を騒然とさせたにちがいない)
オバマ大統領は言った。すべての戦争は悪だと。しかし、核兵器はまったく別格である。広島の上空で初めて核爆弾が炸裂してから世界は変わってしまったのだと。それは核兵器が絶対悪であり、それを落としたことはアメリカの過ちである、ということに他ならない。オバマ大統領は言葉を選んで選んで、彼の立場で出来得るギリギリのところで謝罪したのかもしれない、と思った。
そして、大統領を受け入れる側の被爆者も、謝罪は要求しなかった。彼らの願いは加害者の謝罪ではない。なにより、原爆投下に直接責任のある者たちはほとんどが鬼籍に入っている(行き先が天国だったかどうかはわからないが)。手を汚してない者たちに謝罪させても虚しいだけだ。平和公園に記されている通り、過ちを繰り返さない、すなわち、核兵器の使用は今後絶対にさせてはいけない、自分たちのような苦しみを二度と誰にもさせてはいけない、それこそが被曝しその地獄を体験した彼らの願いであり、核廃絶を願うオバマ大統領は、志を同じくする者、すなわち同志であるのだ。
(もちろん、広島の被爆者のなかでも、大統領は謝罪すべきという意見もあっただろう。当然、今回のオバマ大統領広島訪問のセレモニーには、謝罪はしなくても来てくれただけで意味があるという考えの人たちが招待されたのだろうと思う。しかし、謝罪と賠償を執拗に求めることをしないということは日本人としてのプライドでもある)
戦争やテロは憎しみの連鎖でもある。しかし、広島の被爆者の人たちはその連鎖を断ち切ったのだ。彼らだった被曝後長きにわたって原爆を落としたアメリカを恨み呪ったことだろう。同じ目に遭わせてやりたいと思ったことだろう。しかし、自分等が恨みを抱えそれの捉われていては核廃絶は叶えられない。彼らはそれに気づいたのだ。
何よりもこのシーンは歴史に残るだろう。憎しみの連鎖を断ち、志を同じくした者同士が抱擁する世界平和を願う象徴として。
これは、人類が新たに歩き始めた路への第一歩であると思いたい。
ただし、次のアメリカ大統領が核問題について如何なる方向性を示すかによって、また状況は変わっていくだろう。被爆者そして核廃絶を願う人たちの心を踏みにじり、悲しみと憎悪を蘇らせることだけはしないでほしい。しかし、アメリカ次期大統領選の状況を見る限り、不安以外感じられないのだ。
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