海軍浜の由来
先週、お彼岸にお墓参りに帰った時のことです。
お墓にお参りした後、実家の仏壇を拝むために帰ったのだが、連絡をしているにも関わらず誰も出てこない。時間的に犬を散歩させているのだろう(同居人は例のごとくシカトしてんだろ)と思い、妹とそこらへんを散歩することにした。それで、少し足を伸ばして海軍浜と呼ばれている海岸に行くことにした。この『懐かしい郷の海岸』にも書かれている場所だ。
実は、これを書いてから一度行ってみたことがある。その時は犬や猫に沢山遭遇して楽しかったが、今回、当事いた犬が2匹ほどいなくなっていた。死んでしまったのかもしれない。確かに小型犬のほうは大分くたびれていた。まあ、うちでも祖母や叔父が亡くなってしまったのだが。
話に聞いたとおり石油タンクもなくなっていて(前回確認済み)、海岸沿いは塀の向こうがずっと荒地になっている。その分見晴らしはよくなっている。しかし、相対的にこの前とあまり変わっていないようだった。しかし、本当に寂れてしまった。住宅地の方は、きれいな家が結構あるが、いずれにしても若い世代が少ないので、数十年もすれば空き家になってしまうかも知れない。実家の方も例に漏れず・・・。しかし、私たちが住んだとしてもせいぜいそれが保って20年・・・。しかし、家とともに朽ち果てたくはないですな。既に我が家では最後に死んだ者が負けということになっている(葬式の仕手がいない)。
まあ暗い話は置いておいて、閑話休題。
で、てくてくのんびりと海軍浜の方に向かった。海岸に向かう道は山沿いで、いきなり右手にうっそうと木が生えている。長い道ではないが夜は怖いだろう。
海岸が見えてきて、シンボルとも言うべき防潮堤が姿を現した。と、海岸の方から作業着姿の少し若い男が歩いてきた。カメラ持参でそれは今日日珍しいことではないが、格好からして何かの調査みたいだった。彼はいきなり私たちに聞いた。
「何をしに来られたんですか?」
って、職質かい。
「昔ここらに住んでいたので、懐かしいからちょっと来てみたのですが」
私たちは答えた。すると、男が本題に入った。
「ここら辺は戦争中に軍事基地のようなものがあったらしいのですが・・・」
初耳だった。まあ、この海岸の名前からピンと来てもよさそうなものだが、平和ボケの私たちには海軍浜は単なる名称でしかなかった。
「さあ、その辺はどうも・・・。防空壕ならそこにありますが」
私たちは既に閉鎖されている穴を指差して言った。
「この堤防が何かに使われていたとか?」
そういわれても良くわからない。海はあまり深くないし接岸するには船も大きいのは無理だしなあ・・・。父に聞いたらわかるかもしれない、と思ったが、電話して出なかったら嫌だし、さっき電話したら同居人が出たし、またそうなったら「勝手つ○ぼ」の人に説明がなあ。
「よくわかりません、すみません」
仕方がないのでそうお茶を濁して彼と別れた。
「せっかくやったのに、悪かったねえ・・・」
私たちはそう言いながら堤防の近くまで歩いた。その防潮堤は既に途中が朽ちて崩れ落ちていた。数年前の台風でやられてしまったらしい。当然立地からして空積み(石の間をセメントなどで固定せず石を組んで積み上げただけのもの。固定されたものは練積みという)ではないはずだが、すでに間隙材が朽ち果て空積み同然となっていた。危険なので崩れたところの手前に柵が作ってあった。修復する予定はないのだろうか。崩れたあたりはちょっとした魚巣になっているかもしれない。
堤防は崩れ、浜には人っ子一人居なかった。彼岸なので釣り人も居ないのだろう。私たちは物悲しい思いでそこを後にした。
実家に帰ってから仏様を拝んで、犬のほたると戯れつつ、父にそのことを聞いた。
「おお、昔はそうやったぞ」
父は説明してくれた。
「あそこにトンネルがあろうが」
「トンネル? 防空壕やなかったと?」
「あれはトンネルやったんじゃ。今は潰してしもうとるが、昔は彦島の反対側まで通じとったんや」
「へえ、今まで防空壕とばかり思っとったよ。犬とか死んどって気持ち悪かったし」
「あのトンネルから砲弾やら運んでな、その傍に突堤(防潮堤ではなく「突堤」というらしい)があろうが、そこに船を接岸させて積んどったんや」
「へえ、そうやったとお。やっぱお父さんに電話したらよかったねえ。悪いことをしたねえ」
私たちは残念がったが仕方がない。しかし、身近にそういう歴史的な施設があったとは。それでかつては石油タンクとかあったんだな。寂れてしまったのも平和の証というものかもしれない。
しかし、私は生まれて半世紀、初めて海軍浜の秘密を知ったような気がした。いや、きがしたのではなく実際そうなのだが。しかも、それは日露戦争までさかのぼるらしい(ほんまでっか?)。平和ボケ、バンザイ。
ここに詳しい記述がありました。
http://blogs.yahoo.co.jp/pine98/59919822.html
http://blogs.yahoo.co.jp/pine98/59933033.html
そうか、上にあるという公園には砲台があったのか。しかも、あの突堤は「水雷発射基地」なるものだった。なるほど、あの人はそれを調べていたのだ。まさにそれは目の前にあったのだった。
そういうわけで、あの時海軍浜におられた方、こういうことですので、もし偶然ここをご覧になられることになったら嬉しいと思います。
しかしねえ、せっかくそんな由緒あるものがあるんだから、観光名所にでもすればもうちったぁ町が活性化するだろうに、あのボロボロな突堤はない(第一危険だろうが)。戦争の跡を残すのは歴史の証を残すことでもある。戦争というもの自体は負の歴史(実際に最後は負けてしまったが)ではあるが、それは通るべくして通ってしまった道でもある。それは一時の繁栄をもたらす。またその逆も然り。戦争と平和。それらの積み重ねの上で、今の日本があるのだ。
歴史的といえば、巌流島。正式名称は舟島(ふなじま)。舟に形が似ているからだとか。もうひとつの海岸、鉄道浜から巌流島が良く見える(銘菓、巌流焼は旨いぞ)。泳ぎが達者なら優に行けそうな場所で、実際親父も若い頃は泳いでわたったという。しかし、流れは速いから危険だぞ。
因みに弟子待という地名は、佐々木小次郎の弟子が小次郎を待っていたからだという。しかし、地図を見ると、ずいぶん実家の近くに関門トンネルが通ってたんだなあと改めて驚いた。そりゃあ、電車が通るたびに揺れたはずだわ。
※矢印はトンネルの場所。
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コメント
まるで『つぶやき岩の秘密』ですね。石川セリの♪いつか思い出すだろう~という歌いだしのところと、最終回に海底に落ちていく金塊のシーンを思い出しました。しかし、そうやって地元の歴史を調べて残そうとしている人がいるのは心強いですね。
投稿: drac-ob | 2010年10月 2日 (土) 20:37
地元の歴史、それは大事にしたいですね。
実は私の実家の下も、掘ってみれば弥生時代の
集落跡があるかもしれません。
すぐそばから、出ていますから・・・
投稿: MM21 | 2010年10月 3日 (日) 23:53
drac-obさん、こんにちは。
遅くなってすみません。
『つぶやき岩の秘密』は残念ながら見てません。意外と少年ドラマは見ていないかも。
確かにジュブナイル小説(最近ラノベというらしいけど、やっぱなんか違いますね)のエピソードになりそうな内容ですね。誰か、『海軍浜の秘密』とか書いてくれないでしょうか。
トンネルはもう閉鎖されているようですね。
確かに犯罪に使われそうですし、今までも公になってないながら何かあったかもしれません。
そういえば、20世紀少年にも昔の防空壕かなんかにボールを投げたら、ポ~ンと戻ってきて悪ガキ共みんな逃げ出したというエピソードがありましたね。
ググってヒットしたのは意外でしたが嬉しかったです。
地元ではけっこう有名なのかもしれませんね。
投稿: 黒木 燐 | 2010年10月10日 (日) 11:37
MM21さん
ユーミンだったか、記憶はあいまいですが、家を建てるために買った土地から遺跡が出て、未だに調査が終わらず家が建てられないとかいうのを妹から聞きました。
まあ、建ててしまったらこっちのものですが。
福岡の地下鉄はしょぼいですが、あれは遺跡が出まくるせいなのだと思います。他の都市のように地下に地下鉄網を張り巡らせないのです。現在の地下鉄が貫通するまでずいぶんと時間がかかりました。掘る先から遺跡が出て調査するんで、粘菌並の進み方でした。
投稿: 黒木 燐 | 2010年10月10日 (日) 11:45