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2009年4月 5日 (日)

お葬式2(叔父編)

 3月30日月曜日。まだ年度末のドタバタが終了しておらず、何かと忙しい中、ようやくお昼休みで昼飯にサンドウィッチを食べながらまったりとメールチェックをしていた。

 すると、妹からメールが入っている。携帯電話のメールは私が見逃すことが多いので、急ぐ時はウェブメールの方に送ってくることが多いのだ。何だろうと思って見てみると、思いもよらないことが書いてあった。これっぽっちも頭によぎることのない内容だった。

おじちゃんが病院で朝食詰まらせて亡くなったって。お母さんがすごく動揺しているから電話してやって。

「うそっ!!」
私はそういうと両手で口を塞いだ。それからしばらくそのまま動くことが出来なかった。

 叔父は認知症を患っていて、去年の暮れ頃、家族が泣く泣く介護施設に入れていた。頑張って自宅で普通に生活させていたのだが、悪化するに従って手がつけられない状態になることが増え、実の兄である父は当てにならず、息子達が県外に就職して女手しか残っていない状態では、もう手に負えないと判断、疲れ果てた末の苦渋の決断だった。ウチと違って叔父の一家はもともと家族愛が強いから、さぞかし辛い決断だったと思う。しかし、叔母の話によると、病状がだいぶ好転しており、連れて帰ってみようかと言っていたくらいで、死ぬなんて誰も思ってもいなかったのだ。

 サンドウィッチを食べる気力がもう全く無くなり、普通は絶対にこんなことはしないけど、残りは捨て、電話を引っつかんで会社の外に走り出た。途中で押さえていた涙がぶわっと出て、庭の納屋のそばにある50cmくらいのブロック塀に腰掛けて号泣。言葉は「うそっ」としか出てこない。私の尋常でない状態に気がついた新米総務のKさんが、走ってきて慰めてくれた。この会社では珍しいことである。
 なんとか落ち着いたので、電話をかけることにした。Kさんはそれを了解して戻っていった。
 母に電話するも、出ない。多分他所に電話しているのだろう。履歴を見ると11時半くらいに母から電話が入っていた。忙しかったので、全く気がつかなかった。母が出ないので、とりあえず妹にメールを見た旨を知らせに電話をした。その後もう一度母に電話をする。今度は繋がった。母は、下関に居る頃からの知り合いに電話をしていた。それで、私の電話に出た時はだいぶ落ち着いていたが、私の従姉弟(母にとっては、もと姪)のT子から連絡を受けてすぐは、震えが止まらなかったらしい。叔父の急死は家族のみならず、多くの人に衝撃を与えたのだ。最も母にとって、そのショックは私たちの数倍と思われる。叔父は結婚する前まであの家に居たので、何年かは同居していて、祖母の言いなりで頼りない父の代わりに、だいぶ母を庇ってくれたらしい。少しワンマンなところもあったが、本来は優しい人だった。
「おばあちゃんが、連れて行ってしもうちゃったんかね」
母がボソリと言った。
 叔母は一旦叔父を家に連れて帰ってから、その後斎場に連れて行くといって、祭壇を作るために居間を片付けているらしい。何かしていないと心が壊れそうなのだろう。
 母としばらく話していたら、父は知っているのだろうかという話になった。いくら父からいろいろ不義理をされているとはいえ、実の兄に連絡をしないようなことはないと思ったが、あの家の誰かさんは祖母が亡くなったころから電話に出ない、訪問者に居留守を使うという奇行が問題になっているので、ひょっとしたら午前中畑仕事等で留守にしがちな父は、知らないかもしれない。それで、念のためついでに電話をしてみることにした。電話に出た父の声は至って平常心っぽかった。
「おじちゃんが・・・」
「何?」
「おじちゃんが・・・」
「なんや?」
こりゃやっぱり知らないな。そう思って叔父の死を告げた。一瞬の絶句の後、父が言った。
「・・・そういうことを一言も言わんのやけん」
いや、電話はしたと思うよ。今はそれどころじゃないだろうから確認の電話はしていないけど・・・。そう思ったけど、その説明をする気力も失せていた。とにかく行ってみるから、と、父は言った。叔父の家までは、ゆっくり歩いて5分もほどの距離である。結局、行ったものの、すでに叔母の姉妹たちが来て葬儀の準備に勤しんでおり、相手にされずに帰ってきたらしい。まあ、とくにこういう時は、あまり男手は要らないしね。(後で聞いたが、この時あることで周囲から顰蹙を買ってしまったらしい。あまりにもアレなんでここには書かないが、ここまで現実が見えてないのも困ったもんだ)

 結局、4月1日が友引なので、翌31日は仮通夜、1日に本通夜で2日に葬儀という段取りになった。私と妹は、年度末で忙しいし、町内会の20年度組長をやっていた母は年度末の会合があるので、仮通夜は申し訳ないけど失礼させてもらって、通夜と葬儀だけに行くことになった。危篤だったら何を差し置いても駆けつけたのだが。

 本通夜の4月1日、私は会社を休んで母と妹の会社まで行き、それから妹の車で斎場まで行くことにした。しかし、出る間際になって、母が太ってから喪服のスカートとブラウスが入らないと言い出した。なんとか代替の衣類を探し出してようやく出発となった。
 妹の会社に着いてからも、妹が着がえの途中手荒れのせいでストッキングを破ったり、会社のネットワークに繋がらなくて(よくあるらしい。回線が細いのかも)焦ったりしたが、何とか出発。
 しかし、途中で天候が変わり、大降りの上なんとみぞれまでが降り出した。大荒れである。こういう時には妨害が多いというが、これほどセオリーに嵌ろうとは・・・。叔父貴、偉大なり。
 それでも、なんとか30分前までに斎場にたどり着くことが出来た。すでに父と弟が来ていたが、例のオバハンはいないようだ。さすがにそこら辺の気遣いはあるらしい。ほっとして受付を済ませ、会場で色々懐かしい顔に会う母は、挨拶に忙しい。妹と私は誰が誰やら殆どわからず、暇でその横に立っていた。そこに小柄な年配の女性が来て「燐ちゃん・・・」と言って泣き出した。叔母だった。一回り程小さく感じたのは、私が久しぶりにハイ・ヒールを履いているせいだけではないだろう。叔母は、少し前から背が少し曲がってしまった。苦労したのだ。私がおばの背にそっと手を乗せると、母が気がついてすぐに寄って来て慰めていた。叔母は頻繁に施設に行って叔父に会っていたから、まったく恙無く元気であったのを確信していたので、覚悟なんてしている状態ではなかった。病死ではなく事故死であり、死因は窒息である。手を尽くしたにもかかわらず亡くなったということは、天命だったのかも知れないが、さぞかし無念だろう。今は気が張っているが、葬儀が終わって気が抜けた時がちょっと怖い。ただ、娘と孫が同居しているので、気持ち的にはだいぶ紛れるんじゃないかと思う。それだけが救いである。
 その後、私たちは子どもの頃遊んでくれた「おにいちゃん」たちに会うことが出来た。二人とも、面影は変わらないのに、見事におじさんと言うよりおじいさんになっていた。年月はかくも無情である。って、自分らも人のことは言えないのだが。

 通夜が始まった。遺影は、おそらく合成だろう桜の花をバックに正面から見て右向きで笑ってた。良い笑顔だった。認知症を発症する前の、見慣れた叔父の顔だった。
 お経を上げる僧侶はまだ若そうだが、声は綺麗だ。ただ、長音の語尾にやたら小さい「ん」をつけるのが気になった。遺族代表の挨拶は、叔父の長男であるHが立派にこなした。アンチョコを見ながらだが、こういうときは下手に覚えて間違うより合理的だ。ウチの弟(通称『小さいおっさん』)はあれだけ立派に出来るだろうか? 私はでしゃばらないからな! 
 それから焼香が始まった。まず喪主である叔母から始まり、次に子であるT子とH、その後に孫3人と続く。孫とはいえ、皆成人しているが。しかし、一番下のK子は焼香しながら顔をくしゃくしゃにして泣いていた。それから父と、甥姪である私たち姉弟が続き、その後親族・一般参列者と続く。妹は焼香の後、遺族として祭壇横に立っている従姉弟の姉の方であるT子の方にまっすぐに向かって、泣きながら何か言っていた。T子は妹より1級上だが同じ年生まれなので気心が知れているのだろう。
 その妹だが、思いがけず通夜式の間中泣いていた。どちらかと言うと叔父を敬遠していたようなところがあったので驚いたが、叔父が認知症になってから仲良くなり、会うのが楽しみだったらしい。母も、父と離婚してから、わりと仲良かった叔父ともギクシャクしてしまい、ずっと疎遠になって、叔父宅には長い間行くことはなかった。しかし、叔父が認知症になってから心配して様子を見に行って、それ以来叔父一家とのお付き合いが復活した。認知症に罹ってからの叔父は、機嫌のいいときは本当に可愛かった。家族にとっては大変だったが、こういう交流の仕方もあり、悪いことばかりじゃなかったのかも知れないと思った。まあ、こうでも思わなければやりきれない。で、妹に子どもの時の思い出は無いのかと聞くと、特に無いという。しかし、しばらくしてボソッと言った。
 子どもの時叔父宅に泊まった時があって、当時はすぐにホームシックになっていた妹は、例に漏れず夜中に帰ると泣き出したらしい。それで叔父が自転車に妹を乗せて、家に帰る途中にある坂をサァ~っと下りて連れて帰ってくれたのだそうだ。父とそういうスキンシップの少なかった妹は、それが印象的だった、それを思い出したよ、と言った。私は、そう、思い出せて良かったね、と言った。

 私は比較的、叔父一家と出かけたりしていたので、わりと子どもの時の思い出は多い(懐かしい郷の海岸参照)。まあ、良い思いでもそうでない思い出もあるけれど。

 叔父は子煩悩で、特に下の子である長男のHを可愛がっていた。小学校の時は、毎朝従姉弟のT子を迎えに行って一緒に登校していたのだが、その時叔父は、まだ保育園児であったHと玄関まで出てきてよく話をした。その時、当時あっていたヒーロー物でHの名に近いものがあれば、
「ウルトラセブン、ヒーローセブンのHやもんな」
等と言って、Hを喜ばせていた。しかし、一度
「怪物ヒロシやもんな」
と間違えてしまった。当時からオタクのケがあった私はすかさず
「怪物くんは『怪物太郎』、ヒロシは人間の方よ」
といらんこと訂正してしまった。叔父はちょっとバツの悪そうな顔をしていた。
 また、いつだったか忘れたが、叔父から急に電話が入って、ビール雑炊を作ったから食べに来い、と言われた。多分、私たちはもう福岡に越していたと思う。私は中学生か高校生だったんじゃないだろうか。お盆かなんかで帰郷していたのではなかったかと思う。
「ビール雑炊?」
これまた面妖な、と思いながら興味もあって食べに行った。妹と母も来たような気がするがよく覚えていない。しかし、その味は覚えている。ビールが入っている分、苦味があったが、味はしょうゆ味の雑炊で意外と美味しかったと記憶している。しかし、実際は不評だったらしい。しかし、どういう経緯でビール雑炊なんか作ったのか全くわからない。ただ、周りの雰囲気から美味しかったと言えなかったような気がする。今思えば、ちゃんと言ってあげればよかった。
 叔父は私と同じく祖母のアルコール不耐性を受け継いでいたようで、お盆や正月に実家に挨拶に来た時ビールなどを飲まされると、決まって赤い顔をしてふうふう言って横になっていた。下戸の叔父とビール雑炊。ミスマッチな組み合わせである。

 先に書いたように、叔父は結婚して独立するまで実家に居て、母親(祖母)と兄夫婦(父と母)と暮らしていた。で、私が生まれてからも1・2年は一緒だった。よく私をおぶって子守をしていたらしい。祖母がいつも、「A(叔父の名)がウチにいる時におまえが生まれたので、おまえが一番可愛いんよ」と私に言っていた。もちろん自分の子どもが可愛いに決まっているが、私たち姉弟もよく可愛がってくれたのは確かである。
 で、それについてのいくつかエピソードがある。
 私が生まれた時、生まれたばかりの私を見て喜ぶかと思いきや、叔父は、なにかにショックを受けてどこかに行ってしまったらしい。今はどうか知らないが、長子の場合、産道がまだ充分ひらいていないので、大変苦労して生まれてくる。それで、生れ落ちた直後は頭が妙に長く変形している。それを知らなかった叔父は、身障者が生まれたと思って驚いたらしいのだ。それで、泣きながら町内を一周して、意を決して家に戻って改めて生まれた赤ん坊を見たら、頭が普通に戻っていた。で、ほっとして「良かった、普通の頭だ」と言って、皆から笑われたらしい。それでも、その体験のおかげで、T子が生まれた時ショックを受けないで済んだと感謝していたらしい。
 それから、これはどこかで書いたような気がするが、私の本名はR子で本来は末尾に『子』と言う字がついている。しかし、最初はRだけだった。しかし、叔父が「女の子だから『子』がついとらんといけん」と言ったので、R子で届け出ることになったらしい。そのポリシーは娘の名にも受け継がれているが、さすがに初孫であるMには無理だったようだ。しかし、末子のK子にはしっかりと『子』がついている。ふと思ったが、女の子の名に『子』をつけるのは、無事に子宝に恵まれるようにと言うおまじないかも知れない。特に昔は子どもの出来ない女性の立場はかなり辛いものになったのだから。
 その孫たちだが、T子の夫がかなり頼りない人だったらしく、結局離婚はしていないがもう何十年も別居していて、叔父夫婦が育て上げたような結果となった。母であるT子を『ママ』祖父母である叔父夫婦を『お父さん、お母さん』と呼んでいた。多分今もそうなのではないかと思う。もちろん、彼らももう大人なので、正しい続柄は何であるかはわかっている。で、育て方が良かったのだろう。今時の子ではあるが、ものすごく素直ないい子たちだ。叔父が認知症になっても、嫌がらずにちゃんと面倒を見ていた。
 父が以前、あの子らのことを感じが悪いと言っていたが、あの子らの生い立ちを考えれば、父に対してよい感情を持ち得ないのは自明のことであろう。ましてや水商売上がりの愛人を家に上げ、実の母を病院に追いやって事実上厄介払いしたようなものなのだ。特に女の子なら、嫌って当然のことである。

 私は叔父が認知症を発症したのがいつ頃か知らない。おそらく家族だってそれがいつ始まったかわからないだろう。祖母も認知症だったので、遺伝的なものも否めないだろう。ただ、定年退職で仕事をやめ、その後、長い間やっておた町内会の役員も降りて、急に暇になってしまったことが影響していることは間違いないと思う。その分父はちゃらんぽらんというか、80年代の会社業績悪化によるリストラで会社を辞め、その後大目に出た退職金で食堂をやったが失敗、その後、母の紹介でマンションの管理人をしたが、これが手を抜こうと思えば何ぼでも出来るということで、けっこう気ままだったらしい。で、定年後もあまり代わり映えしない生活であることと、犬を飼い始めたことが幸いしているのだろう。
 そんな訳で、頑張った叔父が認知症に罹り、いい加減だった父は、今も現実を見ることなくいい加減に生きている。世の中やはり理不尽であると思う。

 さて、通夜の後は通夜振る舞いである。まあ、食事会のようなものだ。これが何故か大波乱で、二人が間を置いて部屋の出口で大胆に大コケした。その付近の床の素材のせいで、靴下だと妙に滑るらしい。二人ともスリッパを履き損なってバランスを崩した状態で靴下で床に立ち、滑ってこけていた。まあ、これくらいなら笑い話なのだが、叔母の妹が急に具合が悪くなって蒼白な顔をしていた。生あくびも繰り返しているようなので、危険だと判断、T子の第2子で長男のH2号(従姉弟のHとイニシャルが同じなので)が救急車を呼んだ。間もなく救急車が到着。私はちょうど小説で救急隊員の働くシーンを書いたばかりだったので、なんとなく興味もあってついでに観察させてもらった。高低上下するメインストレッチャーはスグレモノである。叔母の妹はそのまま病院に運ばれていった。大事なければいいのだが。

 そんなこんなとアクシデントはあったが、約1名を除き特に人間関係にトラブルも無く通夜の夜は更けていった。まあ、彼の場合、自業自得ではあるが。
 私たちは、久しぶりで積もる話の尽きない母を追い立てるようにして(実際は、みんなと一緒に斎場に泊まってもいいよと言ったのだが、父が泊まるので嫌だと言い張って帰ると言う。それなのになかなか席を立たない母に、運転係の妹が切れ掛かったのだ)、何とか帰路についた。家には犬猫がいるので、帰らないわけには行かないのだ。

 無事に家にたどり着き、風呂に入ってしばしまったり。その後、斎場でもらった折り紙を出して裏の白いほうを向けて机の上に置いた。裏に故人への思いや伝えたいことを書き、それで折鶴などを折ってお棺に入れて送るらしい。故人があちらについてから、ゆっくりとみんなのメッセージを読んでもらおうという企画らしい。もちろん、内容は故人と送り主しか知らないというわけだ。最近の斎場は洒落たことを考えなさる。
 私は、叔父の逝くのが早すぎたことと、認知症のせいだったのに知らずに腹を立てて、しばらく疎遠にしていたことのお詫びなどを書いた。
 それについてやや詳しく書いてみる。何年か前のお盆に祖母のお見舞いに行った時のことだった。見舞い客が名前を書くノートのとある名前を見て、母が、
「あ、○○さんが来とる!」
と言った。名前もどういう関係かも忘れたが、親しい人がわざわざ来てくれたらしい。
「Aさん、○○さんが来たのを知っとるんやろうか」
母が心配そうに言った。多分叔父にとっても親しい人なのだろう。その後、私たちは実家に帰って、夜、盆踊りを見に行った。その時叔父は定年退職はしていたが、町内会の役員はやっていた。で、母から叔父に○○さんがお見舞いに来ていることを伝えて、と頼まれていたので、人ごみの中わざわざ叔父を探してからそれを伝えた。だが、叔父は不機嫌そうに「知っとる!」と言い捨てて、どこかに行ってしまった。叔父からそういう態度をされて少なからずショックだった私は、しばらくしてからだんだんムカついてきた。せっかく伝えに行ったのに、あの態度は何よ。その後叔母に会ったが、叔母の態度までよそよそしく感じてしまった。
 しかし、今思えばあれは認知症をすでに発症していたのだ。多分、○○さんが誰かわからなかったのだろう。一緒に暮らす家族も、うすうす変だなと思っていたころではないか。だから、叔母の態度がよそよそしいと思ったのも、気のせいではなかったかもしれない。叔父を探していたのかも・・・。
 その後、しばらくして父から叔父の様子が変だということを聞いた。結局、何とか連れて行った病院で認知症発症と診断され、本格的な治療が始まった。しかし、まだこれには特効薬は無い。結局叔父の病状は、徐々に悪化して行った。

 話を葬儀に戻そう。
 2日朝、またも若干おなかの具合が悪かったが、何とか起きて用意を始めた。
 予定より出発は遅れたが、道のりは順調で余裕をもって到着することが出来た。天気も昨日とはうって変わった好天に恵まれた。
 斎場に着くと、なんと父の愛人が来ていた。信じられない。籍を入れていないから、叔父とは縁もゆかりも付き合いもない筈である。そいつは臆面もなく遺族席である父の隣に座った。葬儀に来るのは構わないが、来るなら一般参列だろうが。そこに座るなら、亡くなった日に加勢に行くくらいしろと。歩いて5分だぞ。身体が悪いなら、せめてお悔やみくらい言いに行くのが常識だろうに。私だって遠くなければ飛んで行ったぞ。叔父が亡くなってから、初めて顔を出すのが葬式の日かよ。しかも、あんたが電話を取らなかったせいで、父が弟の死をすぐに知ることが出来なかったんだぞ。叔母たちに聞いたら、慌しい中、何度も電話したそうじゃないか。さすがソウカ、ひょっとして香典を狙っているのか?
 叔母に言うと、怒ると言うより呆れていた。叔母より先に斎場に現れたらしい。せっかくのお葬式が憂鬱になってしまった。帰れ!と怒鳴りつけることは出来るが(しかも怒りに達した私の声はかなりでかい。そう、ビルの5階に拡声器無しで届くくらい)、そうすれば激高しやすい父とも大喧嘩になるのは必至で、せっかくの葬儀が台無しになってしまう。故人は静かに送り出してやらないと・・・。
 そんなこんなで、心穏やかにならないまま葬儀が始まった。

 まず、昨日の僧侶が現れた。その後にもう一人。今回は二人でお経を上げるようだ。二人目の僧侶は低音担当だった。だが、時折音が微妙に合わないのが気になって仕方がない。本当に外れているのか、それが正しいのかはわからないけれど。で、雑念だらけのまま、焼香まで式が進行した。しまった、それがテキの狙いであったか。そのテキは、例によって父と一緒に焼香に立った。どこまで恥知らずなんだろう。私は叔父の菩提の前で、不穏分子を列席させてしまった己が不徳を詫びた。本当は心から冥福を祈らねばならないのに。ただ、自分の気持ちは折鶴の裏にしたためていたので、きっと叔父の下に届くだろう。
 僧侶退場のあと、電報が読まれた。電報はかなりの量が来ていた。定年から何年も経つのに、会社や会社関係から何通も来ていた。途中内容は割愛されたが、最後に読まれた電文はかなり来た。内容はたしかこうだった。

 突然の訃報が信じられず、しばらく呆然としておりました。D町のバス停で待っていたら、また会うことが出来ますか・・・?

 長くはないが、じんわりとくる文章だった。『やつがれとチビ』的な反則だ。母もようやく止まっていた涙がそれで復活したらしい。その一方で一瞬女性からかと焦ったが、名前は男性だった。後で聞いたら、近所に住んでいた人で、子どもの頃叔父に可愛がられていたらしい。通勤通学時によくバス停で会っていたのだろう。子ども好きらしい叔父の一面だった。

 そして、ついに最後のお別れとなった。お棺の周囲に集まった遺族は、もう阿鼻叫喚である。あっという間にお棺は折り紙と花で埋まった。叔父の死に顔は穏やかだったが、口が開いて歯が見えていた。喉仏あたりが内出血したように赤黒くなっているのは窒息死のせいだろうか・・・。何となく悲しい死に顔だった。
「おいちゃん、早いよ、気が早すぎるよ!」
私は泣きながら言った。誰も覚悟が出来ていなかった。私たちは、結局入院後一度もお見舞いに行けなかった。仕事が一段落した4月には行くつもりにしていた。誰もこんなに早くその時が来るとは思ってもいなかった。叔父の額に触れるとひんやりとして皮膚までもが堅かった。死んでるんだから当然だと理性は思うが、感情の方はそうは行かない。一般参列所も多く、会場内に入りきらず、ロビーのほうにも席が出来ていた。母が言うには会社の関係者や町内の人が殆ど来たのではないかと言うことだった。
 私がようやくお棺から離れ席に着いた後も、叔父の周囲では泣き声が絶えず響いていた。中には青年が号泣する声もした。おそらく孫のH2号だろう。
 とうとう、本当に最後のお別れとなった。喪主の叔母と娘のT子そして息子のHが最後にお棺に花を入れた。叔母はもちろんだが、T子がお棺に伏せて「お父さん・・・」と泣いたのが印象的だった。そしてとうとうお棺の蓋は閉められ、上に飾りの布が掛けられた。最後に孫3人からの献花。花を置いた後、3人はお棺に取りすがって号泣した。その姿を見ながら、叔父はやはり相当幸せだったのだと思った。こんなに多くの人に愛され見送られる叔父が羨ましくさえ思えた。一体私が死んだ時、これだけ泣いてくれる人が何人いるだろうか・・・。このご時勢、ひょっとしたら畳やベッドで死ねるかどうかさえ危ぶまれる。

 叔父は、多くの人に見送られながら霊柩車に乗って火葬場に向かった。叔母と従姉弟たちの乗ったリムジンと、残りの遺族親族親しい人を乗せたバスが2台とその後を追う。火葬場は祖母を焼いた時と同じだった。まあ、そう言うものが何箇所もあるほど人口の多い都会ではないが。
 焼けるのを待つ間、裏庭で私たち姉弟とH1号2号と雑談することが出来た。話は主にHの頭部についてに集中した。見事に白髪になった上に、毛髪もたいがい後退している。H曰く、30代半ばからやばかったと言う。さらにH2号も髪質が似ているから危ないぞと脅かしていた。妹もずいぶんと二人をからかっていた。
 そして火葬が終わり、最後のお骨上げだ。さすがに男性なので、骨の大きさが祖母と全然違う。最初に近い遺族から骨を拾い、次に親族、そして親しい人たちの順番で時計回りで進んだ。一巡した後、最後に近い遺族が上半身から上の骨を拾いに集まった。その時、父はその輪に入らなかった。それだけ何か悪感情を感じていたのだろう。後で聞いたら、そりゃあ顰蹙を買うのは当然だと納得のことをしていた。まさか惚け始めているんじゃなかろうな。

 無事にお骨あげも終わり、また斎場に戻った。その後初七日の法要である。今度の僧侶は背が低かった(後で爆笑田中似だと言われていた)が、通夜や葬儀の時の僧侶より聞きやすい声でお経を上げてくれた。そして4度目の焼香(火葬場で3度目の焼香があった)。初七日なので室内も明るく、棺桶が遺骨箱に代わり献花もなくなっていて、かなりすっきりとしていた。
 そして、とうとう最後の精進上げとなった。まあ、葬儀の後のお食事会のようなものだ。料理も美味しくて接待係のお姉さんの感じもよくてなかなか良かった。例の人は葬儀から今まで殆ど皆から無視されていた。そういうことになるのは想像出来ただろうに、何で来るかねえ。やはり香典が気になるのか? しかし、精進落としの途中で父から家に帰されてしまった。なんだか良くわからん。
 で、母はまた久しぶりに会った(母にとっては)もと親戚や叔父の親友という人と積もる話に興じていた。精進落としには、悲しさの中になんとなく吹っ切れたような何かがあった。

 日が暮れる前に、名残惜しいがお暇することになった。忙しい叔母達とは部屋の前で挨拶して別れた。従姉妹のHが駐車場まで送りに来てくれた。
「こういうときにしか会えんかったけど、今度は良い時に会おうね」
と、私はHに言った。ほんと、頼むよ、福の神様。

 叔父は、無事に天国に行けるだろう。日はもう傾いていたが、ずっと晴天だった葬儀の日を思いながらそう思って、空を見た。

 そうして私たちは、斎場を後にした。
 

 

 

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コメント

たいそう、つらい経験だったと思いますが、文章に書くことでいくらか気持ちが紛れたのではないかと思います。

亡くなり方が僕の伯母に似ていたので(伯母は健康で元気一杯だったのにピザを喉に詰まらせて亡くなりました)、最初は現実を受け止めるのが難しかったでしょう。

お葬式というのは、いろいろな人間模様を見せてくれますよね。ある意味、まさしく人生の縮図かもしれません。

合掌。

投稿: drac-ob | 2009年4月 5日 (日) 15:26

あまりに突然の死で、皆さん、さぞ気が動転された事と
思います。
叔父様はきっと入院中も家に帰りたがっていらっしゃったんでしょうね。叔母様の気持ちが痛いほどわかります。
燐さんも、あまり気落ちされませんように。

合掌

投稿: MM21 | 2009年4月 5日 (日) 21:29

居酒屋よりのコメントです。
今、谷村慎司の“日は又昇る”が掛かっていました。
1人飲みで丁度ネットを泳いでここを見た時。
何かこう言うタイミングで曲がかかると、何かを信じたくなったり何かを感じたり。
故人に乾杯。
ホッピーを片付けながら“長沼間と同い年”何処より

投稿: 何処 | 2009年4月 5日 (日) 22:59

drac-obさん、お悔やみありがとうございます。

そうですね、だいぶ昇華されたような気がします。

dorac-obさんの伯母様の場合はお元気だったので、もっと辛かっただろうなあと、思います。叔父の場合は、何となく長生きは無理かなあ・・・と思ってましたから。まあ、早すぎましたけどね。

>お葬式というのは、いろいろな人間模様を見せてくれますよね。ある意味、まさしく人生の縮図かもしれません。

はい、赤裸々な人間模様ですね。ドラマですわ。
やはり、送られる人の人となりと言うものが投影されるように思います。

投稿: 黒木 燐 | 2009年4月 7日 (火) 06:48

MM21さん、お悔やみどうもありがとうございます。

そうですね、帰りたがっていたようです。
それから、エントリーには書きませんでしたが、私たちがお見舞いに行くのを楽しみにしていたようなことを従妹から聞いて、すごく後悔しました。
過ぎたことを悔やんでも、仕方のないことですけれども。

投稿: 黒木 燐 | 2009年4月 7日 (火) 12:38

何処さん、お悔やみありがとうございます。

シンクロニシティってありますよね。
出来すぎやん、みたいな。
一人酒とはまた、渋いですなあ。

私は酒を飲みませんが、ホッピーはこちらではあまり見かけないです。
山上たつひこの『ええじゃない課』で、はじめてその存在を知りましたよ。
長沼間さんと同い年なら、教授とも同年代ですなあ。

投稿: 黒木 燐 | 2009年4月 7日 (火) 12:44

まず故人のご冥福をお祈りいたします。
燐さんを初めたくさんの人に泣いて惜しまれたおじさんは幸せな人生を送られたのだと思います。

親しい人が急に亡くなるのは気持ちの持って行き場がないですよね。皆様、うつ等にならないように気をつけてお過ごしください。

投稿: GPZ | 2009年4月 7日 (火) 13:45

GPZさん、お悔やみどうもありがとうございます。

葬儀を見ていて、総体的に良い人生だったんだろうなと思いました。まあ、もちろん色々あったでしょうけれど。
晩年はちょっと辛かったですね。

こういうときは、ふっと気が抜けてからが危ないというので、叔母には気をつけて欲しいと思います。
私は大丈夫です。

投稿: 黒木 燐 | 2009年4月 9日 (木) 06:55

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