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2007年7月 3日 (火)

被爆体験記転載

 久間防衛大臣の発言より、今一度核兵器の悲惨さを省みるために、被爆体験記を転載する。

 これは、福岡市原爆被災者の会が発行している「いのち~次世代に送る」という本から長崎で被爆されたNさん(当時14歳)の体験記の転載である。なお、この本についてのお問い合わせは「福岡市原爆被災者の会」092-711-0425へお願いいたします。なお、体験記には本名で書かれており、ここでも本名を掲載してましたが、インターネットということを考えて、念のため仮名に変えさせていただきました。

核廃絶の訴えが犠牲者への供養

 1945年8月9日午前11時2分、忘れもしない運命の日。爆心地から2.4キロ離れた長崎駅前で、14歳の時に被爆しました。その日はちょうど登校日だったので、朝から警戒警報は出ていましたが登校しました。まもなくして空襲警報が発令されたため、当時、学校の寮になっていた興福寺(国宝・通称赤寺)に帰りました。空襲警報解除後、再度登校しようと長崎駅前に差し掛かった時、飛行機のエンジン音が聞こえるや否や、「ピカーッ」と稲妻の何百倍もの光が走り、「ドカーン」と至近弾が落ちたような大きな音が轟きました。それから先は何も記憶していません。それからどのくらい時間がたっていたでしょうか。我に返った時は空き家の押入れの中でした。

真っ暗い家の中を手探りするように外に出ましたが、外も一寸先も見えない真っ暗い状態でした。今考えてみると、原子雲で太陽が遮られたのでしょう。方向がわからないのでじっと座り込んで、少し明るくなるのを待っていました。どのくらい待ったかわかりませんが、道を通る人々を見て驚きました。血まみれになって苦しみながら歩いている人。髪の毛がチリヂリに焼かれ背中の皮膚がぼろきれのように垂れ下がり、それを後ろにユラユラと下げて歩いている人。夢遊病者のように目をうつろに開いて、フラフラと歩いている人。助けを求めて泣き叫ぶ人。何が起きたかとっさにわからず、わが目を疑うばかりの修羅の生き地獄がそこにありました。浦上方面から街中が赤々と燃え上がって長崎駅の方に近づいてきたので、必死で学校の寮に帰りました。

 翌日、「学校が全滅したので登校するように」と舎監から言われ、学校に向かいました。長崎駅を過ぎたころから道という道はなく、まだあちこちで煙がくすぶっていました。屋根の下敷きになって身動きが出来ず、ほとんど全裸の状態で救いを求める人や、全身大火傷でただ息をして「助けてくれ!」「水をくれ!」と叫ぶ人々を尻目に、先を急ぎました。そして、爆心地に近づくにつれ、被害状況は深刻になっていました。黒焦げの死体があちこちに転がり、水脹れした胴体を横たえた馬の死がいの悪臭が鼻をつきました。電線に黒焦げになってぶら下がっている死体。血まみれになってうめき声を上げ、ごろごろと横たわっている人、人、人。顔が判別できないほど腫れ上がり、まだわずかに息をしていると思われる人が、あちこちで「水!!」「水!!」と叫んでいます。その人たちに水の一滴も与えることが出来ない哀れさ。後ろ髪を引かれながら、気ばかりが焦って学校へと急ぎました。

 学校は小高い丘の上にあり、日ごろは校庭から市内を望んでも住宅や事務所で遮られ、視界は開かれていません。ところが驚いたことに、広々としたがれきの山、荒廃した原野が一望の下に見え、一瞬息をのみました。木も建物も一切が焼け野原でした。まさに街が無くなっているのです。日本はこれからどうなってしまうのだろうか、とすごいショックを受けました。母校は原爆投下地点からわずか数百メートルしか離れていないため直撃であり、全滅状態でした。
 当日学校に登校していたのは1年生が主で、2年生の一部を含む生徒約二百人と、校長以下職員20数人が亡くなりました。その中には私と寮がいっしょだったK君も入っていました。私達が学校で焼け後の整理をしている時、K君のご両親が遺体を捜しに学校へ来られました。私も一緒になって一体一体を懸命に確かめていきましたが見つかりません。どの遺体も真っ黒焦げになっているため、両親ですら判別がつかなかったのです。その時、お母さんが、黒焦げになった遺体の口の中をがれきの破片で開け、調べ始めました。「お母さん、何をしているんですか?」と尋ねると、「Kちゃんは子どもの頃入れ歯をしていたんですよ」と話してくれました。そこで、入れ歯を目当てに探した結果ようやく見つかり、「あっKちゃん」・・・。真っ黒焦げになった遺体を抱きしめて泣くお母さんの姿を見て、私もいっしょにもらい泣きしました。
 あれから60年。私は一生、あの時の光景を忘れることはないでしょう。

 原爆投下後、10日から14日まで毎日登校して、朝から晩まで遺体を収集し、二百数十人の職員・生徒の処理をしました。その間何度も目にした黒焦げの遺体、腕にウジ虫のわいたまま無表情で歩いている人たちの姿や、爆風で一本足になった鳥居などは、今でも鮮明に印象に残っています。原爆投下は非戦闘員を対象にした無差別人体実験であり、憎むべき犯罪行為で決して許すことは出来ません。被爆後60年、生かされているという実感と幸せな人生に感謝し、非人道的兵器である核兵器の廃絶を訴えています。初めて体験したあの地獄を再度見ることのないよう、多くの人たちに被爆の実相を語り継ぎ、「核戦争反対」を叫び続けることが、あの日「助けてくれ!!」「水をくれ!!」と悲鳴を上げながら息絶えた人々に対するせめてもの供養になるのではと思います。
 最後になりましたが、当日犠牲になった多数の方々のごめい福を心からお祈り申し上げます。

 ******転載終わり******

 これが、たった一発の爆弾が惹き起こした惨状である。兵器に人道的なものなど存在しないが、その中でも最も際立って残酷で非人道的な兵器が核兵器なのだ。

 だが、米国は核開発をやめるどころか、次世代核の開発に取り組もうとしている。世界が本気で核軍縮に向けて努力する日はいつ来るのだろうか。日本は唯一の被爆国として、よりいっそう声高に核廃絶を訴えねばならない。これは日本に課せられた使命である。

 ■アーカイブス■

原爆投下(一)
 http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1.htm

原爆投下(二)
 http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-2.htm

  新型核の開発着手検討(共同通信)

 【ワシントン2日共同】ブッシュ米政権が研究を進める次世代の新型核開発について、09年1月までの政権任期内に計画を軌道に乗せるため、1年以内の開発着手を検討していることが2日までに分かった。計画を担当する米エネルギー省傘下の核安全保障局のハービー政策企画部長が共同通信に語った。政権は任期内に新型核の実現に道筋をつけたい考え。計画推進に慎重な議会側の抵抗が予想される。
[共同通信社:2007年07月02日 17時45分]

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