祖母の付き添いをした話
■祖母のこと■
数年前に腰を骨折して大手術をした祖母は、そのためか、もともと認知症気味だったのが悪化し、とうとうそのテの病院に入院させられてしまった。定年でマンション管理人を辞め、内妻と実家に帰った父だが、祖母(つまり父の実母)との同居は一年も続かなかった。
母は、自分の母親の面倒はちゃんと看るべきだと怒っていた。確かにその通りなのだが、父のやり方が悪いからといって、こっちもとても引き取る余裕などないのであまり大きなことは言えない。祖母には不愉快な思いも良くさせられたしトラウマも植え付けられたが、反面ものすごく世話にもなっている。根は悪い人ではないのだ。良心の呵責を感じながらも、出来るだけ毎月祖母の見舞いに行くようにするだけが精一杯の孝行だった。
しかし、いったんそういうところに入院すると、如何に介護が行き届いていようとも、坂を転がるように惚けが進行していく。最初は施設の手伝いが出来るくらいだったのに、最近は孫の顔どころか息子の顔すらわからなくなってしまった。それで、福岡から山口まではるばる見舞いに行っても十数分、ねむっている時は顔を見てすぐに帰るということが多くなっていった。時々夜中に自力で歩こうとして、転倒することも良くあり、頭にこぶや顔に青あざが出来ているという、痛々しい状態の時もままあった。
そんな状態だが、先月見舞いに行ったときは機嫌も良く、仏様のような穏やかな顔をしていた。孫や元嫁ということは今一理解してないようだが、ある程度会話も出来、持って行ったお菓子もおいしそうに食べた。写真も撮らせてくれた。いつもこうだといいねと話しながら病院を後にした。
■祖母、肺炎に罹る■
ところが、先週のこと、残業で少し遅くなり、駅から家に電話すると母が「おばあちゃんのことで話があるから、早く帰っておいで。」と不吉なことを言う。てっきり亡くなったのかとあせったがそうでもないらしい。帰って話を聞いてみると、どうやら急病で別の病院に入院したらしい。食事時にご飯を喉に詰まらせ、気がついた看護士さんがすぐさま吐かせたが、ぐったりしてしまいすぐに救急車で大きい病院に搬送されたという。
しかし、祖母は半分意識のない状態で大暴れをして検査させようとしない。ようやく検査をして結果がわかった。MRSAによる肺炎を発症していた。MRSA・・・、免疫機能の低下している人間が罹る日和見感染症だが、名前の通りメチシリンという抗生剤に耐性を持つ厄介な病原体で、よく院内感染で問題になるシロモノだった。今のところ大丈夫だが、歳も90を越しているので万一の時は覚悟していてくれということだった。
そして祖母は完全看護となった。しかし、若い頃子どもを育てるために重労働をして来た身体は頑丈だった。最初の頃は点滴をするにも大暴れして大変だったらしい。病院の人たちにとっていちばん厄介なタイプの患者だろう。それで、朝晩と誰か身内が付いていることとなった。父と叔母(叔父の奥さん。叔父も少し身体が悪いので、彼女が代理になった)が交代で付き添いをした。私も年度末でなければ平日でも行けたのだが、命に別状がない状態では休みづらい。しかし、年寄りにはキツイだろう。気にはなっていたが・・・。
そう思っていたら母から、父が土曜の晩に私か妹に付き添いをして欲しいと電話をしてきたこと聞いた。実のところ夜の病院はちょっと怖かったので、実際に頼まれると少し躊躇したが行くことにした。妹は喘息の薬で胃を壊しているし、母はいらんことMRSAをもらってきたらイカンので、一人で行くことにした。
今まで、ウチの家族は割と丈夫で、私がものごごろ付いてからは、こういう事態は始めてだったので何をしていいかわからない。父に言わせるとただ付いているだけで良く、何かあったら隣がナースステーションだから、すぐに呼びにいけばいいからと、簡単そうに言う。そりゃ、そう言わないと来手がないと思ったのかもしれないが。
当日、たまたま用があって山口からこっちに来ていた弟が、帰りがてら病院まで送ってくれた。病室を訪ねると、父が待っていた。
■病院■
「さっきまで下で待っとったんや。」 父が言った。こっちは夕方6時までに来て欲しいといわれて、何とか6時に間に合ったのだが。年よりは気が短い。
「で、何したらええん?」私は訊いた。
「とにかく付いとったらいいんじゃ。なんかあったら隣がナースステーションやから、呼んだらすぐに看護婦さんが来てくれるから。」
「とりあえず、私のご飯はどこで調達したらいいと?お昼が遅かったけんまた欲しくないけど。」
聞くと近くには特に食事処はないらしい。病院の食堂も6時には閉まってしまい、あとは売店しかないらしい。それで売店に連れて行ってもらい、カロリーメイトチョコレート味とカゴメの野菜ジュースを買った。あと、暇つぶしに猫特集のマンガ雑誌を一冊購入。
売店から帰ると、看護婦さんが祖母の食事を持ってきてくれていた。すでに中枢神経で視床下部しか働いていない状態の祖母は、さっさとバナナに手を出していた。「あ~、まだですよ、アルミホイルのけんと(はがさないと)食べれんけぇね。」看護婦さんがあせってバナナのホイルを剥がして与えると、祖母はがつがつと食べ始めた。
(あちゃ~~~、大変だわ、こりゃ。)私は心の中で思った。まったく見ず知らずの痴呆老人ならば「あ~あ」で済むが、かつての祖母を知る身内にとってこの姿は情けなくて悲しくなる。
「では、あとはよろしくお願いしますね。何かあったら呼んでください。」と、看護婦さんは部屋を出て行った。
「どうも~。」私が看護婦さんに会釈をしていたら父の「これはダメじゃ、梅の種やろ。」というあせった声がして振り向いた。祖母がわざわざ看護婦さんが外してくれた梅の種を食べようとしていた。「また喉に詰まらせたら大変やろ。」父は言いながら今度は私に「こういうことに気をつけてくれよ。」と言った。私はなんとなくムッとしたが、口には出さなかった。
「明日は9時過ぎくらいに点滴をすると思うから、それが終わったら帰っていいから。じゃ、あとは頼むよ。」と、父はそのまま帰っていった。
■付き添い開始■
祖母と二人で残された私は少し途方にくれたが、とりあえず食事の様子を見ることにした。メニューは食べやすく切ったハンバーグと汁物、小鉢に減塩漬物とおかゆだった。デザートはバナナだったが先に食べてしまった。思ったよりこぼさずに食べている。あまりにペースが速いので、また喉に詰まらせるのではないかと心配した。倒れてからしばらく絶食で今日から食事が採れるようになったらしいので、実際おなかは減っていたんだろう。しかし、食器にわずか残っているご飯やおかずをキレイに指でとって食べ、空いた食器を何度も確認しているその姿はすももちゃん状態で、ダーウインの進化論は正しいと妙に納得した。
良く見ると茶碗におかゆが残っていた。「おばあちゃん、ここ残っと~よ。」私が教えるとやっと気がついたらしい。すると、茶碗にお茶を入れてすすり始めた。これは元気な時からの習慣だった。私もだいたい最後にはこれで締める。こうするとご飯粒を残さずキレイに食べれるからだ。しかし習慣とは恐ろしいものである。
そうして夕食はすべて食べつくしたが、何度も食器の中身を確認するので、早々に片付ける。看護婦さんが気がついて様子を見にきた。「おばあちゃん、全部食べたんね。おいしかった~?」といいながら蒸しタオルで顔や手を拭いてくれて、食事用の前掛けもキレイにしてくれた。因みに実際は看護婦さんは祖母の名前をちゃんとさん付けで呼んでいたのだが、ここでは便宜上「おばあちゃん」と呼んでもらうことにする。
「食べた直後だから、ベッドの背は立てたままにしておきます。何かあったら呼んでください。」
看護婦さんは事務的にそういうと去っていった。ところが、その直後から祖母はもぞもぞ始めた。
「ばあちゃん、ここおってもええの?」と聞く。「うん、おっていいと。」私は答えた。ふと見ると、祖母は起き上がろうとしていた。
「ばあちゃん、動いたらいかん。またこけたら危ないやろ。」慌てて駆け寄ると、祖母がなにやらビニール袋を両手で握り締めている。いつから隠し持っていたのかわからないが、口に入れるとマズイので、取ろうとした。しかし頑として離さない。仕方がないので看護婦さんを呼びに行った。すぐに来てくれて、ベッドの背を倒してくれた。そして、上手くごまかしてビニール袋を取り上げてくれた。
とりあえず落着いたようなので、私も付き添い用のソファに腰掛けて買ったマンガを読み始めた。すると、
「ばあちゃんハラ減った。」という素っ頓狂な声がした。(あちゃ~~~、始まったか。)私はげんなりした。
さっき食べたばっかりやろ。まああの量では食べた気はしないだろうが、仮にも昨日まで絶食だった身である。急に沢山は食べられない。
「さっき食べたやんね。」私は言ったが祖母は食べてないの一点張り。そしてまた起き上がろうともぞもぞはじめた。とはいえ、もう自力で起き上がる体力はないのだが。それでも万一ということもある。寝かせようとしたら、また機嫌が悪くなり、「バカ!」といいながら叩きはじめた。仕方がないからまた看護婦さんを呼びに行った。
「おばあちゃん、どうしたん?」看護婦さんはすぐに来た。「ちゃんと寝とかんといけんやろ。あ~、ついでにオムツ替えとこうね。」
どうもオムツが汚れて気持ちが悪かったらしい。オムツを替えてもらうと大人しくなった。それで、私はまたソファにすわり続きを読み始めた。ところがしばらくするとまた素っ頓狂な声が聞こえた。
「ばあちゃんハラ減った。ぺこぺこじゃ。」
■必殺!ハラ減った攻撃■
「ばあちゃん、さっき食べたやろ。ほら、ちゃんと寝よ。」
病室が暑いのか、布団から身体を半分出している。それで、おなかの辺りに掛け布団がくるように布団を掛けなおしたら、「ありがとう、ばあちゃん。」と手を合わせてお礼を言った。
(ばあちゃん?)
何かカンチガイしているのだろうか。いくらトウが立っているとはいえ、何ぼなんでも孫にばあちゃんはないだろう。少し悩んだが、そういえば来てから祖母は「~していいの、ばあちゃん。」「~あるの、ばあちゃん。」という言い方をずっとしていた。どうやら語尾に「ばあちゃん」をつける癖が付いているらしい。そういえば祖母は結婚が早かったので40歳台始めのころから「おばあちゃん」になり60歳台で「ひいばあちゃん」になった。今年で92歳になったから、半世紀もの間「おばあちゃん」をやっていることになる。私の年にはもう「おばあちゃん」をやってたわけだ。認知症が進んで、「ばあちゃん」が口癖になったとしても不思議はない。
とりあえず、そのまま眠ったようなのでまた座って本を読んでいると、また「ばあちゃんハラ減った。ぺこぺこじゃあ。」という。立ち上がって傍に行き、「さっき食べたやろ、朝ごはんまで待と?」というとわかったのかグゥと眠る。しばらく様子を見て、また本を読み始めると「ばあちゃんハラ減った」と言い出す。また傍に行って明日まで待とうとなだめた。布団からはみ出した足はやせ細り、膝の関節だけが痛々しく腫れて変形していた。若い頃、戦争で夫を亡くし、女手ひとつで油まみれになりながら子どもを育て、私たちが福岡に越してからは、何回も自作の無農薬野菜を抱えて、重いのに家まで持ってきてくれた。そんなふうに無理をしすぎて変形した足だ。「痛いね。」私が足をさすると「ありがとう、ばあちゃん。」と言った。それでも時々寝言のように「ハラ減った。」と言う。それを見ていて、急に涙がぽろぽろこぼれた。学もないし、お世辞にも上品とはいえない祖母だったが、頭のよい人で、暗算が得意だった。まるで別人のようになり幼児のように空腹を訴える祖母を見ながらいろんなことを思い出したせいだ。
「ごめんね。なんもしてやれんかったね。」
時として祖母の愛情は間違った方向に向かったが、心から私たちを大事に思ってくれていた。それなのに、なんと薄情な孫や子であったことか。こんなことになるんだったら、失業中に見栄を張らずにもっと祖母の傍にいてあげるんだった。みんなで温泉に行こうと約束してたのに、それも急な入院により永遠に果たせなくなってしまった。そういえば、このようにずっと祖母の傍にいるのは何年ぶりだろう。痴呆がここまで進んでなかったら、いろいろ話も出来ただろうに。
そうこうするうちに祖母は大人しく眠ったようなので、私はまたソファに座って本を読み始めた。しかし、しばらくするとまた「ハラ減った」と騒ぎ始める。傍に行きなだめ、布団を整える。これを何度繰り返しただろう。手に負えなくて看護婦さんも何度か呼んだ。まだまだ9時にもなっていない。とうとう困りきった私は、看護婦さんの了解を得て病室の電気を消した。すると祖母は何故電気を消すのかと文句を言った。私は「消灯時間だから。」とごまかした。
■長━━━━━い夜■
私は祖母の視界に入らないようにソファの隅に座り、小さい電気を点けて読書を再開した。マンガはとっくに読み終えており、読んでいるのは念のため持ってきた「トンデモ本の世界T」。出版されてすぐに買って読んだのだが、読み直したくなったので持って来たのだ。同時に出たSよりも、こっちの方が読みやすい。
すると間もなく本当に消灯時間の9時になって、回りの明かりが急に消えた。小さい電気だけでは光量がが足らずナースステーションからの明かりが頼りだったのに、俄然本が読みにくくなった。しかし、他にすることもないので、本を読むしかない。こっそり飲んでいた野菜ジュースはなくなってしまった。カロリーメイトは様子を見て1本だけ大急ぎで食べていた。食事はそれだけだったが、食欲はまったく出ず空腹感はなかった。
そんな中、また祖母の「ハラ減った」攻撃が始まった。今度はなかなか治まらず、声がだんだん大きくなっていく。消灯時間が過ぎているのがわかっているのかも知れない。なだめようとすると、バシバシたたいてそばに寄せてくれない。仕方なくまた看護婦を呼びに行った。すぐに看護婦さんが来てくれた。祖母はまだわめいている。看護婦さんは大きめのはっきりした声で言い聞かせた。
「おばあちゃん、食事は、夕ご飯を、ちゃんと食べました。明日の朝まで、食事は、出ません。夜中ですから、大声は出さないで、静かに、おやすみして、ください。」
それでも祖母は大声をやめない。「こまったわぁね。」看護婦さんも手に余るようだ。
「カロリーメイトならありますが、ダメでしょうか。」私が尋ねるとそれでもいいという。すぐにひと欠けのカロリーメイトを渡すと、ソッコーで手にとって口へ運んだ。その後お茶を飲ませると少し落着いたらしい。看護婦さんは祖母がちゃんと飲み込んだか確認して、持ち場に戻っていった。
こうなったら、小さい電気も消して、私も寝るしかない。そう思った私はコンタクトを眼鏡に換えて寝ることにした。枕と毛布は置いてあったが、寝るのはソファである。小さいので、身体を曲げて寝るしかない。腰が痛くてよく眠れず、何度も目が覚めた。祖母はカロリーメイトで安心したのか良く寝ている。大人しいとそれはそれで気になり、時々様子を見に行った。何度か看護婦さんが見回りに来て、夜中に一度祖母のオムツを替えてくれた。
■朝の戦い■
徹夜を覚悟していたが、何とか眠れたらいい。どこでも眠れる図太い己が性格が、こういうときはありがたい。
早朝、看護婦さんが検温に来た。祖母は起こされて機嫌が悪く、看護婦さんの頭をはたいた。私は(わ~~~~)と思い、あせって祖母の手を押さえに行く。
「叩いたらイカンやろ~~~。」
すると、手を押さえられて腹がたったのか、「ばか!」と怒鳴られた。
看護婦さんたちには本当に頭が下がる。大変な職業だが看護士は必要不可欠な仕事だ。しばらくしてお茶が配られ、朝食が運ばれてきた。祖母の待ち望んだ食事である。しかし、祖母はまた眠っていた。起こしていいものかわからず看護婦さんを待った。困ってナースステーションを見ていたら、看護婦さんと目が合った。彼女は急いで来てくれた。
「おばあちゃん、朝ごはんですよ、食べましょう。」
寝ぼけ眼の祖母だったがすぐに食事に反応した。看護婦さんが梅干の種を取ろうとしたら怒り出した。
「あ、私がします!」と、反対側から種を取った。あせったので種に実がだいぶ付いてしまったが。
メニューは鮭のフレークと汁物と漬物と牛乳、それと定番のおかゆだった。食事風景は例の如くだったが、まだ一人できちんと食事出来るだけよいほうなのかも知れない。
朝食はあっという間に食べてしまった。それでも常人の倍近くかかったが。またカラの食器を何度も確認し始めたので、しかたなく食器を下げた。本当はちゃんと食べたか看護婦さんに見てもらわなければならなかったようだ。後で看護婦さんから「あ~、下げちゃったんですか。」と言われてしまった。
ティッシュで手と口を拭いて、前掛けも外して拭いて畳んでおいた。横になりたがったので、食後あまり時間がたってないが、ベッドの背を寝かせた。しばらくしたらまた「ハラ減った。」が始まり、私はげんなりした。
世の中には認知症の親を、妻を、夫を、入院させずにちゃんと面倒を見ている人たちが少なからずいる。彼らを尊敬し、そういう身内を持った者は幸せだと痛感した。私には夫も子どももいないから、老後の看てはいない。どうなるか今考えてもぞっとするが、祖母のこの状態からして遺伝的に確実に惚けるだろう。膝もそろそろイカれはじめている。お金もないからシルバーマンションも夢のまた夢。まあ、カネがないとリフォーム詐欺に遭うことはないだろうが。とりあえず今考えても無駄だ。なるようになるだろう。
しばらくして看護婦さんがオムツを替えに来た。今回は大変だった。今までは比較的おとなしかったのが、最初から看護婦さんを叩いて手がつけられない。今までは邪魔にならないようにしていたが、今回はそうは行かなかった。急いで手を押さえに行く。叩く、つねる、引っかく、手を押さえられてそれが出来なくなると、今度は噛み付こうとする。まるでケダモノである。ウチの猫の方がはるかにお行儀がいい。情けなくなってじっと祖母の顔を見ていたら、
「バカにしとる。眼鏡をかけとる!」と言った。私はつい「余計なお世話じゃあ!」とツッコミをいれてしまった。リアル惚けにツッコンでも仕方がないのだが、それには理由がある。私は強度の近視で小3から眼鏡をかけている。だから、実は眼鏡をかけている間は、少しでも思い出してくれるかと淡い期待を持っていたのだ。がっかりだよ!(スケバン恐子風)
大変なオムツ替えが終わり、また少し落着いた祖母を置いて、眼鏡からコンタクトに換えた。そして後は点滴を待つばかりだ。私はまた本の続きを読みはじめた。また「ハラ減った」と言い出したが、出来るだけ無視したら、また眠り始めた。今朝から新しいバージョンが加わった。「じいちゃん、戦争で死んだ。」だ。
そういえば、朝から私を見ながら「よう似とるねえ。」をくり返していた。一回「名前、何ていうん?」と聞くので「燐よ。」と答えたら、「ほんと?」と、穏やかな顔をして言っていた。似てるって、孫の燐に似ていると言ったのか(本人だから当たり前だが)、まさかひょっとしてじいちゃんか・・・?名だたる失策である「インパール作戦」の犠牲となって帰らぬ人となった、写真でしか見たこともない祖父だが、かなりの近視だったらしい。遺影は裸眼だったが。(参考:インパール作戦に参加して生還された方の記録)
■祖母の戦争■
10時頃にようやく看護婦さんが点滴をしに来た。
「あ、眠ってますね。・・・今寝たらまた夜・・・。」看護婦さんはそこで口をつぐんだ。心中お察しいたします。
「おばあちゃん、点滴しますよ。」
点滴の時かなり暴れたと聞いていたので心配だったが、思いのほか暴れずに針をさせた。もっともその間なだめすかしながら、片手を押さえていたのだが。
「30分くらいで終わるようにしておきますから。」
と言って看護婦さん退場。
私は点滴の間中様子を見るため傍に立っていた。点滴の針よりも、チューブの方が気になるらしい。急に暴れて針が抜けることを恐れたが、程なく無事点滴を終えた。その間十回と言わず「ハラ減った、ばあちゃん」「じいちゃん、戦争で死んだ。」を繰り返していたが。
「ビルマ(ミャンマー)、行けんかったねえ。」私は言った。元気な頃、一度は祖父の死んだ国に行きたがっていた。私も付き添ってあげるから行こうね、と言っていた。これは本心だった。もし声がかかったら万障繰り上げてでも行くつもりだったが、その機会は訪れなかった。きっと今も心残りなんだろう。祖母の中ではまだ戦争は終わってなかったのだ。いや、終戦後こそが祖母にとっての戦争だったのかも知れない。この国で2度と祖母のような人は作ってはいけない。やっぱ九条は守らんとイカンと思う。
■後ろ髪を引かれる思い■
点滴も無事に終わり、これで役目も終わった。しかし、なかなか帰り辛いものがあった。しかし、昨夜あまり寝ていないので、早く帰って早めに休まないと、明日の仕事に支障が生じてしまう。これから年度末までは、残業続きなのだ。ほとんどサービス残業だが。今回土曜は休めたが来週は出社になるかもしれない(はい、出社でした)。どうしようかと思っていると、女医さんが診察に来た。長身で細めの美人さんだ。しかし、眠っているのがわかると「また、後にします。」と言った。そして、「明日月曜の検査の結果をみて、良い様なら、もとの病院に帰します。だいぶお元気になられたようですね。」と説明した。私はMRSAについていろいろ聞きたかったが、辞めた。先生の仕事の邪魔になったらいけないからだ。それで、
「点滴も終わったしそろそろ帰ろうと思うのですが、いいでしょうか。」と聞いた。
「そうですね。最初に比べて暴れることも少なくなったし、夕方またお父さまが来られるのでしょ。大丈夫だと思います。ただ、ナースステーションに(帰ることを)お伝えくださいね。」
そういうと先生は隣の部屋に向かった。私はなんか拘束を解かれたような気がした。急におなかがすいてきた。昨日と今朝でカロリーメイトを2本と野菜ジュース一本しか口にしていなかったことを思い出した。それでも11時過ぎまで居た。そして、眠っているのを確認すると、病室を後にした。長い夜だった。
病室を出てナースステーションに行くと医師が二人しかいなかった。それで彼らに帰ることを伝えた。
その後、すぐにNS近くの公衆電話から父に電話して、今から買えることを伝えた。
「そうか、えらかったな。」父が言った。「気をつけて帰れよ。」
この年で父親に「えらかった」と言われるのもなんだかな、と思ったが、しばらくして「えらい」という言葉には「きつい」とか「たいへん」とかいう意味があったことに気がついた。ようするに「大変だっただろう。」と労われたわけだ。
■帰路■
おなかはすいていたが、もうすぐ12時である。食堂がどこもいっぱいになってしまう。ゆっくりしたかったので、とりあえず福岡まで帰って、駅の「やりうどん」に寄ってきつねうどんを食べて帰ることにした。なぜきつねうどんかというと、やりうどん天神店のきつねうどんにはわかめが入っていて、ネギ嫌いのわたしがネギを入れなくても、うどんの色合いがが寂しげにならないからだ。それにうどんだとささっと食べて帰ることが出来るし、消化もいい。12時の高速バスに乗ったら、うどん屋に寄っても2時半には帰りつくだろう。
念のためカロリーメイトとお茶を買い、やれやれとバスに乗った。関門橋を過ぎたあたりから、いつの間にか眠っていた。
■その後■
祖母の経過は良く、翌日の月曜中にもとの病院に帰されたということだ。肺炎が完治し、早々に帰されたことは想像に難くないが、病院側に文句は言えない。しかし、戻った側の病院はまた「問題児」が帰ってきたとげんなりしたかも知れない。看護師とて仏様ではない。人の子である。どうか祖母に出来るだけ大人しくしていて欲しいと願うばかりである。4月になったらまたお見舞いに行くから、その時は機嫌よく迎えて欲しいと思う。
*******
こういう、重いテーマの大して面白くもない内容に、最後まで付き合ってくださった方、本当にどうもありがとうございました。しかし、この話がいちばんこのブログタイトルにふさわしいのではないかと思ったりします。
ここに惚ける前の祖母が登場している話があります。良かったらこれも読んでください。
■虫を食った話
■タイノエの話
(って、偶然2つとも変なものを食べた話だった(汗)。)
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コメント
お祖母様の事は私のブログにも書いてもらいましたね。
肉体的にも精神的にも強かった人が、弱くなった姿を見てるのは辛いものです。
自分の母ですが、昨夜は偶々病院に行っていたのは私ひとり、普段とは違う表情をいろいろ見せてくれました。
携帯で黒木さんのこのブログを読んだ後でしたので、黒木さんとお祖母様の過ごした一夜の事が頭に浮かびました。
凄く大変な夜だったでしょうけど、黒木さんの優しさはお祖母様には確実に伝わっただろうし、お祖母様は幸せを感じる夜だったでしょう。
何も出来ない無力感を感じる日々ですが、してあげられる事は出来るだけ・・・
黒木さんの飾りのない優しさ溢れる文読んで思いました。
投稿: TK | 2006年3月11日 (土) 04:00
お疲れ様でした。私は直にお会いしたことがあったでしょうか?でも、よ~くお話を聞いていたのでとてもよく知っている方のように思えます。
とても気丈な方でしたよね・・・気丈であればあっただけ、そうでなくなったときのギャップが激しいのかもしれませんね。
私の祖母は随分前に亡くなりましたが、未だに後悔が残っていることがあります。
わかってもらえなくても、できるだけのことをしてあげたいですよね。
燐さんの優しさが今更に伝わってきます。
燐さんのブログを読んでいると時々学生時代に戻ったような気がします。
あの観世音寺の戒壇院のそばの道を歩いているような・・・
ははは、年取りましたね(^_^;)
投稿: しなさん | 2006年3月11日 (土) 13:07
どうも、風邪の調子が悪くてレスが遅れました。昨夜は珍しく11時過ぎには床に就いたのですが、朝もきつくて結局2時間近く遅刻しました。年度末の風邪は困りモノです。休むに休めない。結局8時過ぎまで残業です。まあ、後10日のがんばりです。
>TKさん、
お母様の具合はいかがでしょうか。
世の中には自分の力ではどうしようもないことは多いですが、病気や老いはその最たるものですね。
でも、たまたま一人いうのは、神様の粋な計らいだったのかもしれません。お母様も母子水入らずできっと嬉しかったでしょうね。出来るだけそばに居てあげられることが、いちばんの孝行かもしれません。
私も大変だったけど、祖母の付き添いに行ってよかったと思います。きっと一生忘れない出来事でしょう。
>しなさん、
しなさんのお祖母ちゃんが亡くなられた時、私は何の用だったか忘れましたが、怪研の先輩たちと、車でしなさん家に向かってました。しかし途中で電話して、亡くなられたことを聞いて、すごすごと帰ったと記憶しています。季節はずれの台風が近づいており、どんよりとした日でした。
しかし、怪研とか懐かしいですね。忘れてました。
祖母に関しては後悔だらけですが、祖母も我の強い人ですから、どうしても相容れないところが出てきてしまう。業というものは悲しいものですね。
ところで観世音寺や戒壇院の回りもずいぶんと変わりましたよ。部分的ですけどね。戒壇院は91年の19号台風で相当やられたようです。
私も最近は昔のことばかり思い出します。まだまだ回顧するような歳ではないのですけどねえ。今度多美さんが来たら、また一緒に博物館とか行きましょう。和美のいないのが残念でなりませんが。
投稿: 黒木 燐 | 2006年3月14日 (火) 01:04
いいですね。
昔都府楼喫茶があった辺り(いまでもあるのかな?)も随分変わったようだとしか判りませんが、是非行きましょう。
投稿: しなさん | 2006年3月14日 (火) 17:13